ヨブ記42:1~17 「ちりと灰の中で」

 我が家では今、第3次ジグソーパズル・ブームの真っ最中です。「あんなもの、何が面白いのか」と昔は思っていたのですが、やってみると案外面白いのです。小さなピースが一つ入るだけで達成感が得られ嬉しいのです。
 人生とジグソーパズルには共通点があるように思うのです。一つのピースだけでは何が何だか分りません。それでも、忍耐深く完成図を見つめると、それがどこにはいるべきか分ってきます。残念ながら人生の完成図は僕ら人間には見えません。けれども、神はそれを確かに持っておられるのです。湖のほとりに立つ白亜のノイシュバインシュタイン城の美しい景色がよくパズルの絵柄に使われますが、神が私たち一人一人のために作られた人生の絵柄はその何倍も美しいものに違いありません。

 ヨブは一日にして子供全員と財産のすべてを失い、つらさに耐えかねて生まれた日をのろいました。慰めに来たはずの友人3人はヨブを誤解し、悔い改めよと強い調子で迫り、議論は平行性を続けました。「ヨブは自分が正しいと思っていたからである。」(32:1)とありますが、これを理由に友人3人はヨブを見限りました。その後、エリフが若者らしい純粋な視点から持論を展開、その間に友人3人は席を外したり、家路についたのかもしれません。

 38章で、神は嵐の中からヨブに現われ、ヨブの直面したすべての事柄の中に、神の摂理があることを説明しました。
ヨブは神の知恵と神の創造のみわざに圧倒され、自分の愚かさにはじめて気づきました。
「ああ、私はつまらない者です。
あなたに何と口答えできましょう。
私はただ手を口に当てるばかりです。」(40:4)

 神はヨブの問題点を容赦なく指摘しました。
「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。
自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(40:8)

 神は、ご自身が造られた自然の脅威をヨブに示し、やぎ、ろば、牛、だちょう、馬、ワシ、カバ、レビヤタンなどの動物を列挙、神の知恵と力の偉大さをヨブに示されました。

 ヨブはついに、悔い改めます。友人から何度も悔い改めを迫られても心を硬化していたヨブが幼子のように素直になりました。
「あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、
私は知りました。
知識もなく、摂理をおおい隠した者は、
だれでしょう。
まことに、私は、
自分で悟りえないことを告げました。
自分で知りえない不思議を。」(42:2~3)
「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、
ちりと灰の中で悔い改めます。」(42:5~6)

 ヨブの悔い改めを聞いた神は、ヨブの友人3人に対する怒りを表明されました。
「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7)
 神は、友人らの意見が神についての真理ではないと糾弾されました。その代わり、ヨブを<神のしもべ>と認知し、高く評価されました。ヨブにとって溜飲の下がる場面だったでしょう。

 友人3人は戻って来て、罪の悔い改めと神との和解を意味する<全焼のいけにえ>をささげました。ヨブは友人たちのために祈りました。祈りの内容は、友人らの非道、誤解、中傷を赦すという意味でしょう。この祈りがささげられると、ヨブの体は元通りに回復しました。また、財産も当初の二倍となり、10人の子宝に恵まれ、親戚知人がヨブのもとに戻ってきたことが伝えられました。3人の娘の美しさの描写は、ヨブの後半の人生の豊かさや彩を象徴的に表すものです。

 神の前で、徹底的に打ち砕かれた人の姿は美しいものです。ヨブが、友人3人のために祈る姿もまた美しい姿です。ヨブのように、非難する者のために祈ることが真の回復につながるのです。

 フランスの医師であり、クリスチャンである、ポール・トゥルニエは著書『人生を変えるもの』の中で、「生きる目的は苦しみをなくすことではなく、苦しみを実りあるものとするところにあります。」と述べています。

 1877年岩手県生まれのキリスチャン男性がいました。軍国主義化の日本で、さらに田舎でクリスチャンになることは、親戚から絶縁されたり村八分になることを意味していました。教師であった彼は、仕事を辞めざるを得ませんでした。親への迫害は、その子供に対するいじめの連鎖を生み、1908年彼の9歳の娘は子供仲間から腹部に暴力を受け、それが元で翌年亡くなります。隣家で火災が起きれば、ドサクサに紛れ家を破壊されました。彼はそんな中で新聞配達の仕事を黙々と続け、子供に出会えば飴玉をやり、病人がいれば見舞い、悩みのある人の友になりました。そんな生活を20年続け、1926年9月、内村鑑三に呼ばれて町を離れ東京に旅立つことになりました。見送る人は誰もいないと予想した彼でしたが、駅には、町長、学校教師、僧侶、神主など町の名士はじめ、多くの町の人が彼を見送るために集まっていました。誰もが、彼との別れを惜しみました。それほどに尊敬される人になっていたのです。その群集の中に若き日の宮沢賢治も見送りに来ていました。見送られる40歳過ぎの男性の名は斉藤宗次郎。内村鑑三の最後を看取り、後に同氏の全集を編集した人物です。宗次郎の日記や手紙などから宮沢賢治との交流が知られる事となりました。有名な賢治の詩「雨ニモマケズ」のモデルになった人物といわれています。「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」の言葉が印象的です。
 斉藤宗次郎の生涯は人に知られず、苦難だけで終わった人生に見えましたが、実は多くの人を励ます人生と変えられていたのです。神のジグソーパズルは、荘厳で美しい絵として完成したのです。
 
 あなたの人生には、深く温かい神の摂理があります。我々は何も知らない者なのです。静かな心で、神を見上げましょう。穏やかな目で他者を受け入れましょう。今日なすべき事を神と共にしていきましょう。
 あなたの出会った不条理ともいえる苦難が、ため息と絶望に終わるのでなく、誰かの慰めになり、深いうなずきとなり、最終的には主への賛美と変わるように私は祈ります。
 「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(42:12)

ヨブ記38章1~41節 嵐の中で語られる主

ヨブ記の結論部分に入ります。

 ヨブと友人3人の対話は、平行線をたどり、感情的にもつれ、堂々巡りに陥り、ついに31章で暗礁に乗り上げました。「この三人はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。」(32章1節)
 議論を聞いていた若者エリフは怒りに燃え、32章から37章で持論を展開しました。荒削りで率直な若者らしい意見です。その中身は、38章以降で神がヨブに直接語りかける内容に、かなり似ています。ヨブが神を見上げるための道筋をエリフが整理したともいえます。

 それまで沈黙を保ってこられた神が38章でヨブに語りかけます。
「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
知識もなく言い分を述べて、
摂理を暗くするこの者はだれか。」(38:1、2)

 第1に、「答えて仰せられた」に注目してください。
神の沈黙と感じられた長い時間は、神が傾聴しておられた時間だったのです。苦難の中でヨブが発したすべての言葉は神に聞かれていたのです。それで、神は答えたと書かれているのです。深い思いやりと忍耐があって初めて、打ち明け話や恨みつらみを長時間聞けるのです。神はあなたに沈黙しているのではない。神は、あなたのうめきと悲しみ、祈りにできないあなたの心を聞き取っておられるのです。
 エリフは36章15節で「神は悩んでいるものをその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」と言っています。

 第2に、「あらし」に目を留めてください。
嵐とは何でしょう。神の怒り。神の力。神の臨在。それらすべての表れとみることができます。いつもの風が止み、黒雲が湧き出て周辺を暗くしたかと思うと、強烈な風がゴーゴー吹き荒れたのでしょう。稲光が怪しく光り、大音響の落雷も起きたかもしれません。おそらくヨブは、風をまともに顔で受け止めながら、神の声に耳を傾けたことでしょう。
 順風満帆のとき、人はのほほんとなって神を忘れるものです。けれども、人生の嵐に直面すると、真剣に神を求めます。そういう意味から、嵐の経験こそが意義深い経験と思える日がきます。

 第3に、「摂理を暗くする」を見てください。
 神がヨブに語られた中心メッセージは、ヨブの知識があまりにもお粗末だという指摘です。不十分な知識で語り続けるなら、節理を暗くすると指摘されました。有限で罪深い人間は、実は何も知らないのです。
 摂理を暗くするとは、どんなことでしょう。ヘブル語で「エーツァー」という言葉を、新改訳聖書は「摂理」と訳し、他の聖書は「はかりごと」、「経綸」などと訳しています。摂理とは、私たちが知りえない崇高で深遠な神の支配を表します。
 その神の支配や深いみこころ、思いやりを疑ったり、曲解してはいけません。運命は冷たいものですが、摂理は温かいものです。私たちの試練や苦しみを大きく包み込む神の摂理に信頼しましょう。


 

上滑りする言葉 ヨブ記22章1~30節

 今日のメッセージの副題を、「信仰ゆえの楽観・積極人生の勧め」とします。

 あなたは悲観的な人ですか。楽観的な人ですか。今、ため息をついた人は悲観的な人です。自分が楽観的な人だと思う人は手を上げてください。手を上げられた人は本当に楽観的な人だと思います。「あの人がそうは思えない」と心で思った人は、間違いなく悲観的な人です。

 ヨブ記22章は、議論がちょうど三巡目に入った場面です。ヨブの友人三人の中で最長老格に当たるエリファズが意見を述べたのが今日の箇所です。エリファズはヨブとの対話を重ねるうちに苛立ちが先行するようになり、なりふり構わずヨブを説き伏せようという姿勢になりました。
22章でエリファズは、否定的で、上滑りした意見3種類を述べます。

1) ヨブがどんなに正しくても神には関係ない。

「人は神の役に立つことができようか。
賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。
あなたが正しくても、
それが全能者に何の喜びであろうか。
あなたの道が潔白であっても、
それが何の益になろう。」(2、3節)

 なんと悲観的な意見でしょう。罪深く、有限で、弱い私たち人間をご存知の上で、神は様々な使命を人間に与えてくださいました。神は人間に失望してない、神は人間に期待している、というのが聖書を貫く中心思想です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:3)とはっきり書かれています。時として我々もエリファズのような悲観論に飲み込まれるときがあります。

 悲観的な人の声は巷にあふれています。人間の声を録音しようした人がいました。そんなもの不可能だと意見が出ました。いまだかつて誰もできなかった、というのが反対理由でした。それを無視してエジソンは1877年蓄音機を作りました。
 ミルトン・ライト牧師は、人間が空を飛ぶなどありえない事だとメッセージで語りました。その息子のウィルバーとオービルは、1903年12月17日キティーホークの海岸で12馬力の飛行機で世界ではじめて人間の乗った飛行機を飛ばすことに成功しました。
 1978年、日本のある電気会社で録音ができないテープレコーダーを発売することにしました。<録音できなければ誰が買うか>、<そんな変な和製英語では恥ずかしい>とか、否定的な意見が出ましたが、やってみました。これがSONYのウォークマン誕生の経緯です。


2) ヨブはひどい悪を行っている。

「あなたは理由もないのに、
あなたの兄弟から質を取り、
裸の者から着物を剥ぎ取り、
疲れている者には水も飲ませず、
飢えている者に食物を拒んだからだ。」(6~7節)

 これは、事実ではなく、エリファズの邪推です。第一、裸の人からは着物は剥ぎ取れません。
思い出してください。エリファズが最初に口を開いたとき何と言ったか。4章3~5節で、ヨブの善行を高く評価して、しっかりしろ、お前は他人が苦しんだときは助けてきたじゃないか、それが自分に及んだ時にはしゃんとしろ、と言っていたのです。

 悲観的な人は、人の悪い面ばかり見ます。人の欠点だけが目に入ります。さらに、かってな妄想、思い込みで、人をどんどん悪く仕立て上げていきます。人の良い点を見ましょう。

 日本プロ野球伝説の打撃コーチと呼ばれる高畠という人がいました。首位打者や盗塁王などのタイトル獲得選手を30人育てあげ、引退後は福岡で高校教師になり、NHKドラマにもなりました。その原作『甲子園への遺言』という本を読んでなるほどと思いました。
高畠コーチは選手の悪い癖や欠点は直らないものだと言い切りました。それではどうするか。徹底的にほめるのだといいます。30年間、ほめ続けました。あるときは、スイッチヒッターへ転向させた選手に秋から春まで付きっ切りで指導しました。はじめて左打席に立ったとき、「いけるぞ、これならいける。いいセンスしてるな」最初からほめ続けたといいます。この選手は後にパリーグ首位打者になりました。良いところを伸ばす。これが高畠コーチの秘訣でした。ほめた時はじめて人は伸びるのです。

 世界には、見方と敵がいるのではありません。自分の心が敵を作るのです。世界にいるのは隣人だけですね。その隣人を愛しましょう。その隣人に励ましの言葉を贈りましょう。

3) 神に立ち返れば、幸せになれる。

「さあ、あなたは神と和らぎ平和を得よ。
そうすれば幸いが来よう。」(21節)
 
エリファズは、邪推に基づきヨブを悪人に仕立て、どんなに潔白であったとしても神の役には立たたないとやる気を失わせた後で、こういう正論で説教しました。
ヨブは聞く耳を持ってなかったでしょう。文脈を無視して読めば、まぎれもなく聖書の真理です。良い言葉です。正しい言葉です。でもこれがヨブに向けられた言葉なら、むしろ逆効果でしょう。

 22章は、さしずめ、人の振り見て我が振り直せという箇所ですね。反面教師、他山の石ですね。こうならないようにしなさい、というのも実は後ろ向きですね。積極的な表現でメッセージを締めくくりましょう。
誤解しないでください。皆がイケイケのあっかるい人になれと言っているつもりはありません。神を信じているなら、全能者である神に頼って楽観的に行きましょうと勧めているのです。

最後にあなたへの具体的な3つの提案をします。

① <やってみよう>の精神を持ちましょう。
② 人をほめて励ましましょう。
③ 心からの言葉を伝えましょう。

 エリファズは、やってもダメだと言いました。そんなことないですよ。神がおられるんだから、あきらめることはないのです。やってみよう。神は私たちを絶えず応援しておられる。
エリファズは人の悪い面ばかりを強調した。むしろ、人を応援する者になろう。あなたも雇われてプロのコーチになったつもりで、身近な人をほめて、ほめて、励まし続けよう。
エリファズは上滑りする言葉でお説教しました。それより、何千倍も価値があるのは、前向きで、さわやかな積極的言葉だ。
  ありがとう。
  嬉しいです。
  やってみましょう。
  感謝します。
  おはようございます。
  おいしいです。
  私がやります。

さあ、あなたの番です。神の力によって、やってみましょう。
 
 

贖う方 ヨブ記19章1~29節

 海外に生活する我々は日本の流行語に言葉に面食らいますが、「KY」という言葉を知っていますか。政治家までが使っていますよ。K(空気が)Y(読めない)という意味らしいです。「あいつはKYだからね」と使うようです。使い方が間違っていたらお許しを、私もKYの部類かもしれません。
 私たちの日常生活は困難が多いですね。空気を読めば、「もうだめだ」と結論付けたくなる状況ばかりです。あなたは現実だけに目を留めていませんか。神の真実に目を向けてください。あれもこれも頭の痛い問題ばかりですが、朝、一人で聖書を読むと、神の真実に目が行きます。

 ヨブは実に惨めな状況にいましたが、神の真実に突然のように気づいた人です。今日の箇所にはヨブ記の重要聖句が25節に登場します。
「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 ヨブは、神に責められたと感じていました。
「神が私の道をふさがれたので、
私は過ぎ行くことができない。
私の通り道にやみを置いておられる。」(8節)
 栄光も望みも神に奪われた(9~12節)とヨブは一人で思い込み、神の軍勢に攻め込まれていると感じていました。もちろんこれはヨブの主観的な判断です。

 ヨブは友人や家族からも見捨てられたと感じていました。
「私の親族は来なくなり、
私の親しいともは私を忘れた。」(14節)
「私が自分のしもべを呼んでも、
彼は返事もしない。」(16節)
「私の息は私の妻にきらわれる。」(17節)
「私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、
私の愛した人々も私にそむいた。」(21節)

 自分の置かれた空気をヨブが読むなら、出口なしです。でも、出口なしという空気を読まずに、前に進んだ人の姿は多くの人に勇気を与えます。

 小学校の先生が中学に進学した女の子を次のように励ましました。水泳が大好きでオリンピックに出たいと言ってたじゃないの、学校にプールがないくらいで夢を捨てちゃだめ。それに勇気を得て、水泳を続けた女子有名選手がいます。

 次に、自分の声が人と違うので恥ずかしいと思っていた少女がいました。親からもらった声を大事にして、むしろ鍛えなさいと励ましたのがお母さんでした。演劇部に入って前向きな人生を選んだこの女性は、後に有名な声優になりました。人とは違う変わった声こそがむしろチャームポイントになったのです。

 KYなんて打ち破って生きたこれらの人々は多くの人を力づけます。ヨブも、神に苦しめられたと思い込み、人には見捨てられ、出口なしの状況でしたが、前後脈絡関係なく、唐突に、魂を貫くような信仰告白を25節でしました。「私は知っている」という言葉に注目しましょう、ヨブの強い確信がにじみ出ています。

「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 「贖う」という言葉の意味を考えましょう。経済的に困窮し先祖代々の土地をやむなく売り払った時、落ちぶれて奴隷になってしまった時、身内の者が高価な代価を払って買い戻すことを普通「贖い」といいます。
 聖書では「贖い」を広義に使用しています。「敵」(ヨブ6:23)、「労役」(出エジプト6:6)、「苦しみ」(詩篇25:22)、「いのち」の危険(詩篇103:4)、「しいたげ」(詩篇119:134)、「罪」(イザヤ6:9)などからの救いのときに、「贖い」を使います。

 父なる神を贖い主と呼ぶ箇所は聖書に多いのですが、主イエスが生まれる前にヨブは救い主を信仰の目で見て、贖うお方であると言い切っています。イザヤ53章を除くと、こんなに鮮やかに救い主の姿を予告した箇所は旧約聖書にはないと私は思います。

 贖う方がちりの上に立つ、とヨブは言っています。ちりとは何でしょう。ヨブが今座っている場所こそが、ちりです。ヨブにとって「ちり」は、悲しみと絶望と惨めさと死を象徴するものでした。1日に10人の子供と全財産を失った悲しみから、ちりを頭からまき、ちりの上で悲しんだのです。ヨブが慕う贖い主も、ちりの上に立つというのです。イエス・キリストは、ユダヤ人指導者に誤解され、ねたまれ、弟子に裏切られ、死の苦しみを通った方でした。まさに、ちりの上に立つ救い主です。

 神を信じ仰ぐ行為は、合理的でも論理的でもないと見える時があります。まわりの状況からいうと、とんでもなく飛躍しているとみられます。でも、神というお方が本当に生きておられるなら、それは無茶でも、無謀でもないのです。一番安全で確かな生き方なのです。「私を贖う方は生きておられ」とありますね。
 現実だけに振り回されず、神の真実に立って進みましょう。私たちをあらゆる困難から救い出してくださる方がおられるのです。そのお方が生きているのです。勇気を出して進みましょう。