使徒の働き


使徒の働きのアウトラインを確認しましょう。
 1~12章がエルサレム教会の誕生と迫害。(ペテロの宣教)
 13~20章が、アンテオケ教会主導の伝道旅行。(パウロの宣教)
 21~28章は、パウロの逮捕と裁判。


1、使徒の働きとは

使徒の働きは、どのように教会が誕生し成長し世界に広がったかという約30年間の歴史で、「ルカの福音書」を書いたルカが著者です。

時間の流れが分かるように簡略化してみましょう。主イエスの十字架が、仮に、AD33年4月頃としましょう。すると、同年5月末のペンテコステに教会が誕生したことになります。1~2年の間に、エルサレムで信者が爆発的に増え、ステパノの殉教をきっかけに厳しい迫害が起こり、信者は周囲に散らされてサマリヤで伝道し、さらに北部のアンテオケまでに達して外国人の教会が生まれました。
十字架から2年後の35年頃には、迫害の急先鋒だったパウロがダマスコ途上で復活の主に出会い劇的に回心します。アンテオケ教会は47年頃から、パウロたちを伝道旅行に遣わし、それが3次にわたって行われ、トルコとギリシアに福音が伝わり教会が生まれました。その後、パウロは無実の罪で捕らえられ、60年頃にローマに移送されました。これが、歴史の流れを俯瞰するための大きな流れです。

使徒たちは教会を作るつもりはありませんでした。また、周囲の国々や海外に宣教するつもりもありませんでした。聖霊が、イニシアティブを取って、すべてが行われたのです。ですから、1:8の聖句が使徒の働きの中心聖句なのです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(1:8)



2、聖霊は力を与える

主イエスは、地上におられた時、聖霊を送ると弟子たちに約束されました。(使徒1:4~5)聖霊は目に見えない神の霊です。主イエスを信じる者の心に住んで下さり、主イエスの言葉を思い起こさせ、人々の心を慰め、力を与えてくださいます。

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒2:1~4)

主イエスの十字架から50日目の祭りの日に、聖霊が激しく十二弟子に下り、他国の言葉で主イエスの福音を語り出しました。迫害を恐れていた弟子たちですが、大胆に主イエスの十字架と復活を人々に伝え、その日だけで3000人が洗礼を受けました。(2:41)
聖霊は、福音を語る力と勇気をあなたにも与えて下さいます。

ペテロや使徒たちは、主イエスと同じような奇跡を行いました。多数の病人が主イエスの御名によっていやされました。美しの門の足なえのいやしは、大ニュースになり(3:1~10)、当局者はペテロとヨハネを捕らえ尋問しましたが、「ペテロは聖霊に満たされて」(4:8)語り、律法学者や議員たちは反論できなくなりました。
聖霊は、知恵、判断、語る言葉の分野でも、あなたに力を与えてくれます。

 当局者に脅されても、エルサレムのクリスチャンたちは恐れず、聖霊に満たされ、今まで以上に大胆に主イエスの福音を語りました。(4:29~31)

 今、あなたに、恐れがありますか。心配事がありますか。あなたの内に住まれる聖霊は、あなたが本来持っていない力をあなたに付与します。誰かを助ける力をくれます。勇気を与えてくれます。知恵と言葉をくださいます。推進力を下さいます。あなたが臆病か大胆かは関係ありません、聖霊に従う人に力が与えられるのです。



3、聖霊が導く

 聖霊は、道を教えてくださる方です。
使徒の働きには、聖霊の具体的な導きがたくさん書いてあります。

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。(8:29)

聖霊に従って走り出した人はピリポだけです。馬車の中でエチオピア人の高官がイザヤ書を読んでいて、救い主を求めていたことが分かり、ピリポは福音を伝えました。

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。(13:2~3)

外国人クリスチャンで構成されたアンテオケ教会は成長しました。教会が巨大化するだけでいいのだろうかと考えるようになり、教会は神の導きを求めて断食して祈りました。聖霊は、パウロとバルナバを宣教師として送り出すようにと示されました。それで、第1回伝道旅行が始まったのです。迫害によって偶発的に散らされた伝道ではなく、ビジョンを持った初の世界宣教となりました。

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(16:6~10)

 パウロはトルコの伝道旅行中に困ってしまいました。南にも、北にも進めず、西は海でした。聖霊が両方向の道を閉ざしたと分かり、トロアスの町に滞在しました。そんな時パウロは夢を見ました。向こう岸のギリシアのマケドニヤ人が助けを求める幻でした。それで海を渡ったのです。良い計画が閉ざされる時は、さらに良い計画があるのです。

あなたは、道を求めていますか。それなら、聖霊に耳を傾け、聖書を読み、祈りましょう。自分の考えに固執しないことです。手を開きましょう。柔らかい心を持って、主の導きに従いましょう。

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。(1:8)

 →あなたの番です
  □聖霊は、力を与えてくれる
  □手を開き、聖霊の導きに従おう

ヨハネの福音書


 「ヨハネの福音書」は他の福音書の後に書かれ、ずいぶん違う内容です。その違いこそ、ヨハネが言いたい点なのです。

1、イエスは、神

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネの福音書1:1~3)

 イエスは世界を創造された神だ、とヨハネは大胆に述べました。「ことば」の部分に「イエス」を入れ替えて読めば、ヨハネの真意が分かります。

2~11章で、ヨハネは7つの奇跡を取り上げました。(そのうち5つはヨハネだけに書いてあります)神でなければ実現不可能な奇跡ばかりです。これらの奇跡を実際に目撃者したヨハネは、イエスは神であると結論づけたのです。

①(2章)水をぶどう酒に変える
②(4章)遠隔地の子どもをいやす
③(5章)38年間病気だった人をいやす
④(6章)わずかなパンと魚で5000人に食べさせる
⑤(7章)ガリラヤ湖の水の上を歩く
⑥(9章)生まれつきの盲人の目を開ける
⑦(11章)死んで葬られたラザロを生き返らす。
 
  主イエスは、ご自分が神であることを何度も証言しておられます。

 アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(8:58)
 わたしと父とは一つです。(10:30)
 わたしを見た者は、父を見たのです。(14:9)
 世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(17:5)

主イエスは、まことの神です。だから、信じるに値します。
 

2、イエスは、いのち

 20章31節を読むと、<主イエスを信じて、いのちを得てもらう>ために福音書を書いたと分かります。「いのち」こそ、ヨハネの福音書のキーワードです。

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(20:31)

 主イエスと無関係に歩いていた時、私たちは死んでいます。嘘をつき、悪いことを行い、人の人格を踏みつぶし、人を裏切っても、罪意識を感じないなら、死んでいます。大人なのに、自分のことしか考えられないなら、死んでいます。いのちがありません。

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:1~3)

 主イエスは律法学者ニコデモと対話し、あなたには「いのち」がない、神によって新しく生まれる必要があると教えました。ニコデモは、そのいのちを得ました。

 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(4:14)

 サマリヤの女は5回結婚に失敗し、いのちが枯渇していました。わたしを信じるなら、心の内側からいのちがあふれ出ると4章で主イエスは約束され、その通りになりました。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)
 
 他の3つの福音書は、主イエスが私たちの罪を赦す方であり、過去の問題は解消したと教えてくれます。ヨハネの着眼点は、現在と未来にあります。主イエスは神なので、今、あなたにいのちを与えてくれます。将来に向かっては、あなたに永遠のいのちを約束して下さいました。

 主イエスを信じたあなたに、新しいいのちが始まりました。


3、イエスに、とどまれ

 イエスを信じていのちをもらった人は、どう生きたらよいのでしょう。12~17章にその解答があります。この箇所は、他の福音書にありません。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(13:34)

 自分と同じように隣人を愛せ、と他の福音書に書いてありますが、ヨハネの福音書では、「わたしがあなたを愛したように」、「互いに愛し合いなさい」と言われています。

 たとえば、最後の晩餐の席で主イエスは跪き手ぬぐいで十二弟子の足を洗いました。(13:1~15)トマスは復活を信じられずに暴言をはきましたが、主イエスはトマスに現れ優しく接してくれました。ペテロは3度主イエスを裏切りましたが、主イエスは3度「わたしを愛しますか」(21:15)と語りかけ、ペテロに再出発のきっかけを与えました。主イエスは各人にスペシャルな方法で愛を伝えました。あなたも思い出して下さい。主イエスに愛されたように、身近な人を愛しましょう。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(15:4~5)

 人を愛すことは簡単な事ではありません。主イエスにとどまり続けるなら、それは可能です。イエスさまはぶどうの木で、いのちの源です。主イエスという幹につながっていれば実を結ぶことができます。

 1955年夏の北海道で、三十一歳の三浦光世さんは、結核で寝たきりの綾子さんを初めて見舞いました。何回目かの訪問の時、どうぞ綾子さんを治してください、そのためなら私の命を差し上げますと彼女の前で声に出して祈ったそうです。4年後、二人は結婚し、奥さんの体調も良くなり、綾子さんは小説『氷点』を書き、小説家になりました。
 ご主人の光世は、綾子さんを愛する愛の源泉を常に主イエスに求めていたそうです。


「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(15:4)
 
 →あなたの番です
  □イエスは、神です
  □イエスは、いのちです 
  □イエスに、とどまりましょう
 

ルカの福音書


 主イエスの優しさが溢れている。それが、ルカの福音書の特徴です。

1、ルカの福音書の特徴

私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。(ルカ1:1~3)

 異邦人の医者ルカ(コロサイ4:14)は、テオピロのために主イエスの生涯をまとめました。テオピロはローマ人で、学識があり、高い地位と豊富な財産のある人物のようです。そのために、正確な年代確認(2:1~2、3:1)、目撃者への取材(1~2章の母マリヤの思い出など)が行われ、ギリシャ語文体も洗練されていました。

ルカは、パウロの伝道旅行に同行し(使徒16:11)、獄中のパウロを最後までサポートしました(第2テモテ4:11)。後の教会指導者イレナエウスによると、ルカはパウロの宣べ伝えた福音を一巻の書に記したと述べています。
           
 ルカが新たに福音書を書いた目的は、イエスの生涯の記録をテオピロに献呈するためであり、主イエスの優しさを知ってもらうためでした。
 良きサマリヤ人のたとえ(10章)、放蕩息子のたとえ(15章)、律法学者と取税人の祈りのたとえ(18章)は、いずれもルカ独自のたとえ話で、差別された人々や罪人への温かい視線が感じられます。

 主イエスは、裏切る前のペテロに、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われました。これはルカ独自の記事です。裏切った直後に「主が振り向いてペテロを見つめられた」(22:61)と書いてあるのもルカの福音書だけです。


2、ナインの女

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。(ルカ7:11~15)

このナインの未亡人についての記述もルカの福音書だけにあります。
夫に先立たれた女性のそばにいたのは、成長した一人息子だけでした。でも、その子が死にました。主イエスは、「かわいそうに」思い、「泣かなくてもよい」(7:13)と言われました。この「かわいそう」という言葉は、良きサマリヤ人が倒れた旅人を見つけた時の感情と同じで、放蕩息子を迎えた父親の気持ちでもありました。(10:33、15:20)主イエスは、棺おけに手をかけて行列を止め、息子を生き返らせました。

主イエスは、社会的な弱者であるこの女性の悲しみに寄り添ってくれました。

今日、あなたは悲しんでいますか。主イエスは、あなたの横におられます。


3、ザアカイ

それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:1~10)

 取税人制度はローマ帝国全土にありましたので、ローマ人のテオピロにとっては興味深い話でした。他人の苦しみなど意に返さない悪人、金の亡者の取税人の心は誰も変えられません。ところが、ザアカイは、主イエスを家に迎え入れた後、破産覚悟で罪の償いとチャリティーを行いました。

 ザアカイを変えたのは、主イエスの愛です。主イエスはまるで旧友のようにザアカイに接し、「今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから」(19:5)と言って泊まりに行きました。ザアカイは、大喜びです。病気が治ったわけではないのに、大喜びしたのは福音書でザアカイだけかもしれません。真の友、主イエスを得た喜びが、罪の悔い改めの原動力になりました。

 主イエスはあなたの友達です。主イエスと一緒なら、人生のやり直しが可能です。


4、十字架上の犯罪人

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:39~43)

主イエスが3本の十字架の真ん中につけられたと4つの福音書は語ります。その一人の犯罪人が回心したのは、ルカだけの記述です。
極悪人しか十字架刑にはなりません。二人の犯罪人たちは、手に打ち込まれた釘の苦しさから、「イエスといっしょに十字架につけらた強盗どもも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27:44)と書いてあります。朝の9時から正午までの間に、男の心に何かの変化があったのです。

主イエスは、ご自分を十字架につける人達のために祈りました。それを聞いて、男の心が変化したのかもしれません。男は、自分の罪の醜さをはっきりと認識しましたが、今日死んだら天国に入れて下さいとは主イエスにお願いしませんでした。「私を思い出してください」(3:42)とだけ言いました。主イエスは、その男の心を知り、大丈夫、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(23:43)と言ってくれました。

人生の最後の瞬間に罪を悔い改め主イエスを信じた男であっても、主イエスは彼の罪をゆるし、受け入れてくれました。主イエスの愛が届かない場所は地上にありません。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)

→あなたの番です
 □あなたは、悲しむ者、嫌われ者、犯罪者かもしれません □主イエスは、その誰をも愛し、ゆるし、希望を与えてくれます
 □あなたも、主イエスに似た者になれます



マルコの福音書


 マルコの福音書は、簡潔です。
主イエスの福音にピタリと焦点を合わせているからです。
福音は、伝えられ、いのちを与え、人を作り変えます。

 マルコの福音書は、早ければ紀元50年代後半に完成したと学者たちは言います。マタイとルカは「マルコの福音書」を参考にして福音書を書きました。それはつまり、福音書の基本アウトラインはマルコによって方向付けられたと言えるのです。


1、主イエスは、福音を伝えるために来られた

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)

 1章1節は、マルコの福音書の表題です。主イエスがこの世に来られた目的は、福音を知らせるためでした。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」(1:38)

福音とは、本来、良いニュースという意味です。主イエスが宣教の初期に語られた福音は、律法による救いや行いによる救いではなく、罪を悔い改めて主イエスを信じるだけで救われるという福音でした。信じるだけで救われるのですから、これはまさに福音でした。(主イエスの宣教活動の初期、主イエスは十字架の死を予告しておられませんでした)

主イエスが福音を語り始めた時期、人々はびっくりしました。主イエスの教えの素晴らしさに驚嘆し、主イエスの奇跡に驚きました。
マルコは、何百という奇跡の中から特に意義深い事例を取り上げて、おもに1~8章に記しました。主イエスは、人々の信仰を引き出す言葉をかけられました。

 寝たきりの中風の男に、「起きなさい」(2:11)
 片手のなえた人には、「手を伸ばしなさい」(3:5)
 長血の女に、「あなたの信仰があなたを直したのです」(5:34)
 ヤイロには、「恐れないで、ただ信じていなさい」(5:36)
 バルテマイに、「何をしてほしいのか」(10:51)

人々は、未熟で素朴に主イエスを信頼しました。すると、奇跡、救い、罪の赦しを体験しました。驚くべき奇跡は、主イエスが救い主であることの証明です。

 主イエスは福音を伝えるために来られました。あなたも伝えましょう。
 福音は信じるためにあります。まだ信じていないなら、主イエスを信頼しましょう。



2、主イエスは、命を与えるために来られた

 十字架は偶然の悲劇ではありません。「あなたは、キリストです」(8:29)とペテロが信仰告白をした後、主イエスが十字架の死と復活を3度予告されたことからもそれが分かります。(8:31、9:31、10:33~34)

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(10:45)

 これは大切な言葉です。主イエスが何のためにこの世に来られたのかがはっきり分かります。主イエスは十字架で私たちの罪を身代わりに背負い、贖いの代価としてご自分の命を私たちに与えるために来られました。

 主イエスは最も大切ないのちを私たちに与えてくれました。
 今週、誰かが困っている時、その人にいのちを与えるようなヘルプをしましょう。



3、主イエスは、人を作り変えるために来られた

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(14:51~52)

この箇所はマルコの福音書にしかありません。前後を読んでも、彼が誰かは分かりません。他の福音書記者は、このみっともない男性について書くのを遠慮しました。おそらく、マルコ自身なのでしょう。深夜、主イエスが捕らわれたという情報を知らされマルコは、寝ぼけ眼で暗い町に飛び出しました。身の危険を感じると、逃げ出しましたが、布がじゃまだったので裸で逃げたのです。
今は、ペテロの通訳をしたり、福音書を書いたりして人々からは「先生」と呼ばれるような立場にたっていても、私は罪人であり、主を見捨てた弱虫だとマルコは告白しているのです。主イエスは、そんなマルコを愛してくださった。罪人、失敗者、臆病者のマルコを主イエスは作り変えて下さったと言いたかったのです。主イエスの十字架と復活が私を変えたとマルコは世界に伝えました。

本来のマルコの福音書は16章8節で突然終わっています。あなたがマルコのように主イエスによって変えられ、証し人となって福音を語ることにより、マルコの福音書は完結します。

「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」(13:10)
「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら」(14:9)


 →あなたの番です
  □福音は伝えられるもの → 信じよう
  □福音はいのちを与えもの → 誰かを助けよう
  □福音は人を作り変える → あきらめない