価値ある目標は人を幸せにします。目標は、繰り返しの毎日に意義を与え、生きがいをもらたします。キリストに似た者になることを、あなたの人生の目当てにしましょう。
1、パウロを変えたキリストとの出会い(ピリピ3:5~11)
ハワイからカリフォルニアに来て看護士になる勉強をしていた女性、コリン・ワン・コリンズワースさんがいました。クリスマス5日前、レストランで働いていましたが、1時間も何も注文をしない男性が座っていました。担当のウエイトレスが休憩に入ったのでコリンさんは交代してオーダーを取りに行きました。
男性はナチョスと水とオーダーしました。2ドル95セント、一番安い食べ物です。チップは期待できません。支払う時に男は100ドル紙幣を出し、「つりはいらないよ、今晩お母さんに電話でもするといい、メリー・クリスマス」と言って帰ってしまいました。家に帰るとテレビで片道99ドルのディスカウントチケットの宣伝をしていて、これでハワイに帰れます。
看護士になったコリンさんは、クリスマスには誰か同じような境遇の人に自分が受けたと同じようなプレゼントをするようになりました。誰かの親切や愛、生き方に触れて、その後の人生が変わるという経験は珍しくありません。
パウロは、主イエス・キリストに出会って、価値観ががらりと転換しました。イエス・キリストを知っている事だけで、あとはいらない、あとはちりあくたに過ぎないと言い切りました。
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」(ピリピ3:8)
ピリピ2章の前半を見ると、イエス・キリストに出会う前のパウロは、現代人と同じ価値観に生きていたことが分かります。自分の生まれが純粋なユダヤ人であることを誇り、現代風に言えば学歴や能力を誇示していました。また、パウロが生まれつきのローマ市民であることが他の聖書箇所で分かりますが、これはパウロの両親が裕福で社会的地位が高かったことを推測させます。
キリストに出会ったパウロは、キリストをもっと知りたい、キリストに似た者になりたい、キリストの弟子として生きていきたい、という価値ある目標で心は満たされたのです。
2、人間の努力と神の助け
パウロの使っている言葉に目を留めましょう。その熱意、努力、集中度はまるでオリンピック選手のようです。
「ただ捕らえようとして」
「追求しているのです」
「ただ、この一事に励んでいます」
「ひたむきに前のものに向かって進み」
「目標を目ざして」
「一心に走っているのです」
キリストのようになりたいが、自分の現状を知っている者としては、それはおこがましいし、無理だと感じる人が多いだろう。
心配いらない。聖霊なる神の助け、主イエスによる援助がある。
第2コリント3:18では、「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに御霊なる主の働きです。」と書いてある。ピリピ3章12節では、「ただ捕らえようとして、追求しているのです。それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださる。」と主イエスの励ましが明記されている。
3、パウロの目指したもの
パウロは何を目指していたのだろう。以下のようなものを目標にしていたようだ。
1)キリストに似た者 品性の向上、御霊の実
2)キリストの弟子 伝道、弟子の養成、愛の実践
3)キリストをもっと知る 聖書と祈り
4)キリストの栄光を表す 礼拝、仕事、人生の目標設定
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そしえ、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)
メアリー・デントン(1857~1947)はネバダ州生まれ。若い時にはお互いに愛し合い、一時は結婚を約束したファウラーという名の青年がいましたが、日本人への宣教と女子教育の重荷を神から与えられ、1888年31歳の時に日本に渡り、戦争中も日本に帰らず生涯を日本のためにささげました。
現在京都にある同志社大学の前身となる学校で、ミス・デントンとで呼ばれ、自分の生活を切り詰め、靴下につぎを当てながら、日本人学生たちの学費や生活費を援助しました。
アメリカを後にして50年たったとき、一人のアメリカ人紳士がミス・デントンのところを訪れ、「これを神さまのために使ってください」と2万ドルを私に来たといいます。その紳士がファウラーさんでした。一生かかって仕事をして貯めたお金を渡しに来たのです。そのお金でできたのが同志社の女子学生の校舎となったといいます。
能力や地位に関係なく、歳をとっても、病気になっても持ち続けることができるものが、価値ある目標です。キリストに似る者となる、という目標はあなたにとって価値ある目標となるでしょう。
あなたの人生を貫く目標は何ですか。
キリストのような品性を目指そう。
キリストのように行動しよう。
キリストが願われた事を行おう。
「キリスト・イエスにおいて上い召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)
愛すことが、幸せになる秘訣 ルカ10:25~37
「愛されていないから私は不幸」と感じる人が圧倒的に多い。本当に幸福になりたいなら、愛されることを待つのではなく、あなたが誰かを愛せばいい。
1、聖書の教え
以下の聖書の教えを見るとすぐに気がつくことがある。誰かを愛し始めれば、その状態が幸せなのだ。
詩篇41:1 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。
箴言14:21 貧しい者をあわれむ人は幸いだ。
使徒20:35 受けるより与えるほうが幸いである。
2、良きサマリヤ人のたとえ
ルカ10章で主イエスは律法学者と対話していたが、「私の隣人とはだれのことですか」(ルカ10章29節)と律法学者は質問をしてきた。この言葉を聞いた主イエスは、律法学者の思考パターンの欠陥を見抜き、たとえ話を通じて大事な事柄を教えようとされた。
たとえ話を簡単に説明しよう。人里離れた峠道で強盗に襲われた男がいた。3人の人が順番にそこを通りかかった。神に仕える祭司が最初に来たが、反対側を通って男を無視した。次に、神殿で仕事をするレビ人が来たが、同様に通り過ぎた。3番目に来たのがサマリヤ人だ。宗教的・社会的な観点から律法学者はサマリヤ人を忌み嫌っていた。そのサマリヤ人が被害者の男を助け出した。「あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」(23~24節)
「私の隣人とはだれのことですか」と居直る律法学者に、「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(36節)と主イエスは迫った。律法学者はしぶしぶ自分の問題点を認めた。主イエスは、「あたなも行って同じようにしなさい。」(37節)と諭された。
3、愛すための3ステップ
このたとえ話から、人を愛する3つのステップを取り出してみよう。
1)見る
髪型を変えたのに夫はまったく気づかないという不満を私は何十回も聞いている。夫たちは奥さんをまったく見ていないようだ。
幼児が両親に必ず言う言葉は「見て」だ。砂場で山を作ったよ、滑り台を降りられたよ、100点が取れたよ、とにかく見てもらうだけで子供は愛を感じるのだ。
サマリヤ人は最初の二人と違って被害者を見た。直視した。それが次のステップにつながった。見ることは、それ自体が愛なのだ。あなたも、身近な人に目を向けてみよう。体を向けよう。ありのままを聞いてみよう。瞳を見つめてみよう。
2)感じる
サマリヤ人はその男を見て、かわいそうに思った。相手の心を感じ取ること、これも愛だ。
日本では『~~力』という本がたくさん出版されている。それに習えば、共感力というものをもっと開発してもよいと思う。相手の立場に立って物事を考えてみれば、自然に優しい心が生まれてくる。非難せずに、ありのままを受け止めよう。悲しみ、痛み、苦しみ、不安、孤独、それらを自分の事のように感じる心が愛だ。
3)動く
サマリヤ人は、その人に役立つことを具体的に実行した。その場で傷の応急処置を行い、家畜に乗せて宿屋に連れて行き、看病した。その上、宿泊費まで出すつもりだった。義務で動いていない。自然に体が動いてる。
誰かのために体を動かし、お金を使ったとき、見返りを求めてはいけない。これは大事な知恵だ。お返しを求めないことにより、愛が喜びになる。それが幸せになる。もしも、「ありがとう」の言葉をもらったら、それはラッキーな事だ。水を注ぎだすように、誰かを愛そう。
働く女性が昼休みにクッキーとカフェラテを買い求め、木陰のベンチに腰掛け、お気に入りの雑誌に目を向け、手を伸ばして袋の中のクッキーをつまみました。テーブルの向かいに座った男性もその袋からクッキーを食べているの気づきました。目が会うと男性はニコリとしました。怒りを抑えて雑誌に目をやりましたが、何度も手を出して食べているのが分かりました。最後の一個に同時に手を伸ばしたとき、男性はそれを半分にし。ニコリと笑って女性に手渡しました。憤然としてオフィスに戻り、雑誌を自分のバッグに入れよう開けてみると、顔から血の気が引きました。自分が買ったクッキーの袋がそのまま入っていたのです。<私が、あの人のクッキーを食べていたんだ> それにもかかわらず、あの男性はニコリとしていました。
私たちはちょうどこの女性と同じようなものです。神の愛を受けながら、主イエスを無視し、自分勝手に生きてきて、愛されていないと文句を言うようなものです。あなたは神に愛されています。あふれるほどの愛を受けています。その証拠は主イエスの十字架です。この女性は、誰かにクッキーを分けたいと願ったことでしょう。それが愛です。私たちの愛です。
さあ、あなたの番です。今週、誰を愛しますか。どういうふうに愛しますか。あなたが、周囲の人に愛を届ける震源地になってください。
1、聖書の教え
以下の聖書の教えを見るとすぐに気がつくことがある。誰かを愛し始めれば、その状態が幸せなのだ。
詩篇41:1 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。
箴言14:21 貧しい者をあわれむ人は幸いだ。
使徒20:35 受けるより与えるほうが幸いである。
2、良きサマリヤ人のたとえ
ルカ10章で主イエスは律法学者と対話していたが、「私の隣人とはだれのことですか」(ルカ10章29節)と律法学者は質問をしてきた。この言葉を聞いた主イエスは、律法学者の思考パターンの欠陥を見抜き、たとえ話を通じて大事な事柄を教えようとされた。
たとえ話を簡単に説明しよう。人里離れた峠道で強盗に襲われた男がいた。3人の人が順番にそこを通りかかった。神に仕える祭司が最初に来たが、反対側を通って男を無視した。次に、神殿で仕事をするレビ人が来たが、同様に通り過ぎた。3番目に来たのがサマリヤ人だ。宗教的・社会的な観点から律法学者はサマリヤ人を忌み嫌っていた。そのサマリヤ人が被害者の男を助け出した。「あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」(23~24節)
「私の隣人とはだれのことですか」と居直る律法学者に、「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(36節)と主イエスは迫った。律法学者はしぶしぶ自分の問題点を認めた。主イエスは、「あたなも行って同じようにしなさい。」(37節)と諭された。
3、愛すための3ステップ
このたとえ話から、人を愛する3つのステップを取り出してみよう。
1)見る
髪型を変えたのに夫はまったく気づかないという不満を私は何十回も聞いている。夫たちは奥さんをまったく見ていないようだ。
幼児が両親に必ず言う言葉は「見て」だ。砂場で山を作ったよ、滑り台を降りられたよ、100点が取れたよ、とにかく見てもらうだけで子供は愛を感じるのだ。
サマリヤ人は最初の二人と違って被害者を見た。直視した。それが次のステップにつながった。見ることは、それ自体が愛なのだ。あなたも、身近な人に目を向けてみよう。体を向けよう。ありのままを聞いてみよう。瞳を見つめてみよう。
2)感じる
サマリヤ人はその男を見て、かわいそうに思った。相手の心を感じ取ること、これも愛だ。
日本では『~~力』という本がたくさん出版されている。それに習えば、共感力というものをもっと開発してもよいと思う。相手の立場に立って物事を考えてみれば、自然に優しい心が生まれてくる。非難せずに、ありのままを受け止めよう。悲しみ、痛み、苦しみ、不安、孤独、それらを自分の事のように感じる心が愛だ。
3)動く
サマリヤ人は、その人に役立つことを具体的に実行した。その場で傷の応急処置を行い、家畜に乗せて宿屋に連れて行き、看病した。その上、宿泊費まで出すつもりだった。義務で動いていない。自然に体が動いてる。
誰かのために体を動かし、お金を使ったとき、見返りを求めてはいけない。これは大事な知恵だ。お返しを求めないことにより、愛が喜びになる。それが幸せになる。もしも、「ありがとう」の言葉をもらったら、それはラッキーな事だ。水を注ぎだすように、誰かを愛そう。
働く女性が昼休みにクッキーとカフェラテを買い求め、木陰のベンチに腰掛け、お気に入りの雑誌に目を向け、手を伸ばして袋の中のクッキーをつまみました。テーブルの向かいに座った男性もその袋からクッキーを食べているの気づきました。目が会うと男性はニコリとしました。怒りを抑えて雑誌に目をやりましたが、何度も手を出して食べているのが分かりました。最後の一個に同時に手を伸ばしたとき、男性はそれを半分にし。ニコリと笑って女性に手渡しました。憤然としてオフィスに戻り、雑誌を自分のバッグに入れよう開けてみると、顔から血の気が引きました。自分が買ったクッキーの袋がそのまま入っていたのです。<私が、あの人のクッキーを食べていたんだ> それにもかかわらず、あの男性はニコリとしていました。
私たちはちょうどこの女性と同じようなものです。神の愛を受けながら、主イエスを無視し、自分勝手に生きてきて、愛されていないと文句を言うようなものです。あなたは神に愛されています。あふれるほどの愛を受けています。その証拠は主イエスの十字架です。この女性は、誰かにクッキーを分けたいと願ったことでしょう。それが愛です。私たちの愛です。
さあ、あなたの番です。今週、誰を愛しますか。どういうふうに愛しますか。あなたが、周囲の人に愛を届ける震源地になってください。
神を礼拝することが、幸福になる秘訣 マタイ22:34~38
ひとことで今日のメッセージを要約します。神を礼拝することが、あなたを幸せにします。
私は確信をもってそう言えます。まず体験的な理由から説明しましょう。
1、神を礼拝すると本当の意味で幸せになる
数学の表グラフには座標軸があり、0、0の原点があります。それと同様に、礼拝に出ると原点である神を見つめることができ、本来の自分の姿が客観的に確認できます。
また、神の素晴らしさを見つめることにより、私たちは様々な励ましや慰めを受けることができます。それは、つまり、幸せな状態だといえるのです。
神に注意深く目を留めると何か起きるかを以下にリストアップしました。
偉大な神 → 謙虚な人になる。
聖い神 → 正直になれる。「ごめんなさい」と言える。
愛の神 → 心が温かくなる。人を愛しゆるす気持ちになれる。
生きている神 → 勇気と希望が生まれる。
2、礼拝とは神を愛すこと
礼拝とは何でしょう。簡単に言えば、神を愛すということです。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)
「これがたいせつな第一の戒めです。」(マタイ22:38)
主イエスは、旧約聖書に数ある律法の中で一番大事なのが神を愛すことだと言い切りました。「キミは愛されるために生まれた」というステキなプレイズの歌詞があり、私も大好きですが、同様な言い方をしてみるなら、「キミは神を礼拝するために生まれた」と言っていいでしょう。
私たち夫婦には3人の子供がいます。どの子もかわいいし、大好きです。子供が小さいとき私は毎日<大好きごっこ>をしました。「父さんはキミのこと、このくらい好きだよ」と子供をぎゅっと抱きしめます。すると、子供は「僕も大好き」といって思いっきり強く私を抱きしめます。「父さんはもっと大好きだよ」「僕のほうが大好きだよ」
神は、私たちが胎児の時から私たちを知っていて生まれるのを待っていてくださいました。そして、親が赤ちゃんの世話をする以上に私たちをいつくしみ、守りの手を差し出し続けてくださいました。子供が反抗期に入ると親を無視するように、人間は神を無視します。神がいるなら見せてみろ。神を試験管に入れて実験するかのようにしか神の存在を考えられません。そして、あるとき聖書を知り、礼拝に出るようになり、初めて神に戻ります。
その時、私たちは、「神さま、あなたが大好きです」と言えるようになります。それが歌になれば賛美歌で、形に表せば献金になります。相手の言葉を何時間でも電話で聞きたい恋人のように、私たちは聖書の言葉を聞き、牧師のメッセージに耳を傾けます。大好きな人が急病になったり臨終になれば飛行機に乗ってでも体を運び「ここにいるよ」と私たちは言いますが、礼拝も同じで、あなたに会いたい、あなたがとても大事な存在だと思うので日曜日に礼拝に行くのです。これからは新しい心をもって礼拝に行くことができますね。
3、短い祈りの勧め
礼拝に出てさわやかに帰るだけでなく、毎日の生活や職場でも神を礼拝できます。この分野ではブラザー・ローレンスの言葉が実際的で示唆に富んでいます。(詳しくは『敬虔な生涯』を参照)
1614年生まれのブラザー・ローレンスは修道院で料理係りを長年続けましたが、どんな仕事をしているときでも教会堂で礼拝しているような心を内に持つことができました。学問もなく、作業をしても不器用なローレンスは、神を愛することにおいて熱心で一徹でした。40年もの間、主をいつも覚えていたいと修練を重ねるうちに、料理しているときも、材料を買出しに行くときも、主とともに過ごす秘訣を身につけることができました。
そのローレンスが、短い祈りが有益であると教えています。ですから、短い聖句、信仰的真理、祈りの言葉などを普段の生活で口に出したり、心で祈ったりすることは大きな助けになります。他人がみれば独り言のように聞こえますが、心を込めて言ってみましょう。恋人たちは同じ言葉を繰り返しますが、それは退屈ではなく、自然なのです。
あなたが大好きです
ありがとう
あなたの恵みを受け取ります
一緒にいてください
あなたは生きておられます
あなたの安らぎを下さい
あなたの平安を感謝します
もっと主を愛して生きていきたいと思いませんか。ヨハネが黙示録に記録した礼拝に関する印象的なシーンを見て終わりましょう。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(ヨハネの黙示録4:11)
私は確信をもってそう言えます。まず体験的な理由から説明しましょう。
1、神を礼拝すると本当の意味で幸せになる
数学の表グラフには座標軸があり、0、0の原点があります。それと同様に、礼拝に出ると原点である神を見つめることができ、本来の自分の姿が客観的に確認できます。
また、神の素晴らしさを見つめることにより、私たちは様々な励ましや慰めを受けることができます。それは、つまり、幸せな状態だといえるのです。
神に注意深く目を留めると何か起きるかを以下にリストアップしました。
偉大な神 → 謙虚な人になる。
聖い神 → 正直になれる。「ごめんなさい」と言える。
愛の神 → 心が温かくなる。人を愛しゆるす気持ちになれる。
生きている神 → 勇気と希望が生まれる。
2、礼拝とは神を愛すこと
礼拝とは何でしょう。簡単に言えば、神を愛すということです。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)
「これがたいせつな第一の戒めです。」(マタイ22:38)
主イエスは、旧約聖書に数ある律法の中で一番大事なのが神を愛すことだと言い切りました。「キミは愛されるために生まれた」というステキなプレイズの歌詞があり、私も大好きですが、同様な言い方をしてみるなら、「キミは神を礼拝するために生まれた」と言っていいでしょう。
私たち夫婦には3人の子供がいます。どの子もかわいいし、大好きです。子供が小さいとき私は毎日<大好きごっこ>をしました。「父さんはキミのこと、このくらい好きだよ」と子供をぎゅっと抱きしめます。すると、子供は「僕も大好き」といって思いっきり強く私を抱きしめます。「父さんはもっと大好きだよ」「僕のほうが大好きだよ」
神は、私たちが胎児の時から私たちを知っていて生まれるのを待っていてくださいました。そして、親が赤ちゃんの世話をする以上に私たちをいつくしみ、守りの手を差し出し続けてくださいました。子供が反抗期に入ると親を無視するように、人間は神を無視します。神がいるなら見せてみろ。神を試験管に入れて実験するかのようにしか神の存在を考えられません。そして、あるとき聖書を知り、礼拝に出るようになり、初めて神に戻ります。
その時、私たちは、「神さま、あなたが大好きです」と言えるようになります。それが歌になれば賛美歌で、形に表せば献金になります。相手の言葉を何時間でも電話で聞きたい恋人のように、私たちは聖書の言葉を聞き、牧師のメッセージに耳を傾けます。大好きな人が急病になったり臨終になれば飛行機に乗ってでも体を運び「ここにいるよ」と私たちは言いますが、礼拝も同じで、あなたに会いたい、あなたがとても大事な存在だと思うので日曜日に礼拝に行くのです。これからは新しい心をもって礼拝に行くことができますね。
3、短い祈りの勧め
礼拝に出てさわやかに帰るだけでなく、毎日の生活や職場でも神を礼拝できます。この分野ではブラザー・ローレンスの言葉が実際的で示唆に富んでいます。(詳しくは『敬虔な生涯』を参照)
1614年生まれのブラザー・ローレンスは修道院で料理係りを長年続けましたが、どんな仕事をしているときでも教会堂で礼拝しているような心を内に持つことができました。学問もなく、作業をしても不器用なローレンスは、神を愛することにおいて熱心で一徹でした。40年もの間、主をいつも覚えていたいと修練を重ねるうちに、料理しているときも、材料を買出しに行くときも、主とともに過ごす秘訣を身につけることができました。
そのローレンスが、短い祈りが有益であると教えています。ですから、短い聖句、信仰的真理、祈りの言葉などを普段の生活で口に出したり、心で祈ったりすることは大きな助けになります。他人がみれば独り言のように聞こえますが、心を込めて言ってみましょう。恋人たちは同じ言葉を繰り返しますが、それは退屈ではなく、自然なのです。
あなたが大好きです
ありがとう
あなたの恵みを受け取ります
一緒にいてください
あなたは生きておられます
あなたの安らぎを下さい
あなたの平安を感謝します
もっと主を愛して生きていきたいと思いませんか。ヨハネが黙示録に記録した礼拝に関する印象的なシーンを見て終わりましょう。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(ヨハネの黙示録4:11)
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