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見えるようになる ルカ18:35~43


 一人の盲人が主イエスに出会い、目が見えるようになりました。

1、この盲人は誰かに似ている(35~36節)

イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。(ルカ18:35~36)

 ヨルダン川流域からエルサレムに上るときは、エリコの町を通ることになります。盲人が町の門の入口付近の地べたに座って物乞いをしていました。

 この盲人と私たちには共通点があります。それは何でしょう。
①繰り返しの毎日だった。
②生活のためには嫌な事もする。地べたにも座る。
③私たちが主イエスに近づいたのではなく、主イエスが近くに来て下さった。
④盲人は主イエスの姿が見えなかったが、私たちも見た事がない。

 盲人は晴眼者に比べて敏感な耳を持っています。威圧的な王様の行列、殺気立ったローマ兵の行進、商人のキャラバン隊など、区別できまました。ところが、今、目の前を誰が通ろうとしているのが誰か皆目見当がつかないので尋ねました。


2、「ナザレのイエス」と「ダビデの子のイエス」(37~39節)

ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。(37~38節)

 「ナザレのイエス」が通過するのだと教えられました。これは、主イエスの出身地を述べた中立的な言い方ではありません。見下した言葉でした。
 総督ピラトが主イエスを十字架に付けた看板には、ナザレのイエスと書いてありました。(ヨハネ19:19)この場合の「ナザレのイエス」は、田舎者、取るに足らない者、愚か者という意味です。
 初代教会の時代、ステパノを訴えた悪意ある証人たちは、「あのナザレ人イエス」(使徒6:14)と、汚いものに触れるような言い方をしました。
 パウロがクリスチャンを迫害するためダマスコに向う途中、復活の主イエスに会いました。主イエスは、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ」(使徒22:8)とあえて言われました。

 「ナザレのイエス」だと聞いた途端、この盲人は「ナザレのイエスよ」と言わず、「ダビデの子のイエスさま」と大声で叫びました。盲人は、2~3年の間、主イエスによる病気のいやしと主イエスの教えを伝え聞いていたのでしょう。イエスさまこそダビデの子、旧約聖書が預言したダビデ王の子孫として生まれてくるメシア、救い主だだと確信していたのです。盲人の精一杯の信仰告白としての叫びなのです。

 あわれんでください、という言葉は日常的には使いません。自分で自分を救えない状態であると認めなければ言えません。あわれんで下さいという言葉を因数分解してみましょう。目をとめてください。愛してください。勇気をください。救ってください。罪をゆるしてください。そばにいてください。色々な意味が含まれるでしょう。

 あなたは、「ナザレのイエス」と呼びますか、「ダビデの子」救い主と呼びますか。


3、何をしてほしいのか(40~43節)

彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。(39~40)

 盲人の声がうるさかったので周囲の人に制止されましたが、彼は止めません。最後に彼の声は主イエスに届きました。あなたの声も、主イエスに届きます。祈り方が分からなくても、あなたの真実さは主イエスに届きます。あなたも祈って下さい。

彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と主イエスは尋ねられました。盲人は躊躇なく、「主よ。目が見えるようになることです。」と返事しました。(41節)

「わたしに何をしてほしいのか」という質問は、核心を突くものでした。

 イエスさまに同じように今日聞かれたら、あなたはどうしますか。
 大金持ちにしてほしい、ハンサム、美人にして下さい、とイエスさまに言いますか。人間関係の改善。夫婦が仲良くなるように。能力を下さい。大学、就職、結婚、子供を下さい。病気を治してください。罪をゆるして下さい。そう願いますか。
 盲人は、きっと声をからしていたでしょう。「主よ。目がが見えるようになることです。」と答えました。

 彼の願いは、金や欲望に関した求めでなく、復讐の実現でもありません。普通の人にして下さい、という願いでした。見えるだけで良いという謙虚な願いです。

イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。(42~43節)

いやす力が主イエスの力であることは大前提です。あえて「あなたの信仰があなたを直したのです。」と主イエスは言われ、盲人の信仰を自覚させました。この盲人の信仰とはどんな信仰でしょうか。
①「ダビデの子」と確信をもって呼べる信仰告白。
②主イエスとの人格的交流を求めた態度。
③主イエスが目を開ける力を持つ方だと信じたこと。

 盲人の目はたちどころに開きました。男は神をあがめ、主イエスについて行きました。民は、驚き、神を賛美しました。

 あなたの人生にも、同じことが起きます。主イエスを信頼することにより、今まで見えなかったものが見えるようになります。

 ある男性は、奥さんを礼拝に車で送っているうちに礼拝に出るようになり、自分の罪を認めてクリスチャンになりました。しばらくして、はっと気づいた事がありました。「妻がいた!」今までは自分の仕事と将来の事しか眼中に無かったのですが、愛してくれている妻がいたと分かったのです。これからは自分が妻を愛していこうと思ったそうです。見えるようになったのです。

「私をあわれんでください。」 「わたしに何をしてほしいのか。」

 →あなたの番です
  □ナザレのイエスでなく、「ダビデの子」と信仰告白しましょう
  □あわれんでくださいと祈りましょう。
  □目が見えるようにして下さい、と主イエスに願いましょう

創世記1:1 初めに神が

 今日は野外礼拝です。公園で青空を見上げながら木陰で主を賛美し礼拝しましょう。創世記冒頭の1節には真理がシンプルに書かれています。

1、神とはどんな方か

初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)

 ①はじめという起点があった。
 ②神は意志を持った存在。
 ③神が宇宙と地球のすべてを造られた。

 ①神こそが、あらゆるものの起点です。空間だけでなく時間さえも神によって造られました。神だけが、あらゆるものの起点を設定できるお方です。

 ②世界は偶然にできたのではありません。神が世界を造ると意思されたので、世界ができました。神は単なるエネルギーや法則ではないのです。神は人格を持つお方なのです。

 ③天と地は地球と空を指します。マクロの目で宇宙を見ると、その広大さと力強さに圧倒されます。ミクロの視点に立てば、原子や素粒子やDNAの世界に驚くべき秩序があることに気づきます。モナリザの絵を見て作者のダビンチを無視して、「偶然とは素晴らしいですね」と言う人は誰もいません。複雑精緻な世界を見て、偶然とは素晴らしいですねとは言えないはずです。

 レース中のマラソン選手に「どこを、いつ出発しましたか」と尋ねたとしましょう。「出発地点は知りません、スタートしたつもりもありません」と答えたとしたら私たちは耳を疑います。

 私たち人間はそのマラソン選手と同じです。いつ生まれたかを知らず、生まれるつもりもなく、走るつもりもなく、走っています。その上、目的地も知らないままです。

 ですから、私たち人間に必要なものは、人生の起点です。神を人生の起点にしましょう。そうすれば、ボタンの掛け違いを防げます。私たちは神に造られました。それを人生のスタート地点にしましょう。「はじめに神が」というフレーズを私たちの人生の大前提としましょう。その時、今、走っている意味が見えてきます。目指すものが絞れてきます。


2、神にどう応答したらよいのか

 多くの人は、自分の人生は自分のものだと考えています。まるで、自分が自分を造り、自分のおかげで生きていると勘違いしています。聖書は言います。神が世界を造り、あなを造ったのだと。あなたはどんな応答をしますか。

 アメリカ人のマカルティ宣教師は福音を伝えるために中国に渡り、”Easy introduction to Christian doctrine” という小冊子を書き、 漢文に翻訳して印刷し、伝道のために配布しました。マカルティ宣教師は1861~2年に日本を訪れブラウン、フルベッキなどの宣教師と会いましたが、その小冊子は『真理易知』という題で日本でも配布されました。(布施田哲也氏の研究による)

 1863年、20歳の日本人武士はその本を友人から借り、夜、人目を忍んでその本を読みました。はじめに神が天と地を創造したという文章を読んで心底驚きました。

 「私は聖書を置いて、あたりに目をやってみた。そして、このように自問した。私を造ったのは誰か。両親か。そうではない。それは私の神だ。神が私の両親を造り、そして両親を通して私を造られたのだ。そうであるなら、私は感謝し、神に対して正しい人とならねばならぬ。」

 神が私たちを造られたのです。ならば、私たちも、神に感謝し、神から与えられた使命を果たしましょう。あなたは、何のために神によって造られたのでしょう。

 翌年1864年、その青年武士は函館からアメリカ船に乗り込み、国禁を犯して日本を脱出、ボストンに着くと、「神よ、もし目があるなら、どうか私を見出してください」と祈りました。

 彼の祈りは聞かれ船主が彼をフルサポートしてくれることになり、洗礼を受け、アーモスト大学、アンドバー神学校を卒業して帰国、32歳で同志社大学を創立しました。そうです、彼とは新島襄です。

 あなたは、現代の新島襄かもしれません。神に造られたことを知り、神に感謝し、神から与えられた使命に生きてみませんか。新島襄の起点は創世記1章1節にありました。あなたの人生の起点を神に置き、人生を再スタートしましょう。

 →あなたの番です
  □神は、世界と私を造った方です
  □私を造った神に感謝し、神から与えられた使命を生きる

箴言3:5~6 道に迷った時

 今日は、道について考えましょう。道に関して悩みは、2種類あるかもしれません。
 第1は、決断の悩みです。道が4つも5つもある場合、決定するのはしんどいものです。たとえば5人の素敵な男性から同じ日にプロポーズされたなら、あなたは困りますね。一人でいいから分けてほしいという方もいます。
 第2は、先行き不安の悩みです。未来が暗く、まったく道が見えないという場合です。アメリカの最近の不況は深刻で、就職できない人がたくさんいます。否定的要素しか見えない悩みです。

 あなたはどんな道を求めているのですか。

 箴言3:5~6節は、その解決を教えてくれます。冒頭部分を私が読みますので、続きの部分を言ってみて下さい。
  心を尽くして…………
  自分の悟りに…………
  あなたの行く所…………
  そうすれば…………

 この聖書の言葉を読んで、どんなことに気づきますか。少し考えて下さい。


1、主により頼む

 「心を尽くして主に拠り頼め。」(5節)

 先行き不安の人に、この言葉を贈ります。先を知っている方(=神)がおられるので、その方に任せれば、安心できます。

 私は、香港、シンガポール、インドネシア、台湾などを尋ねたことがありますが、どの場合も現地で働く日本人宣教師や、現地の牧師さんの出迎えを受けて、安心して出かけました。現地を良く知っている人に任せるのが一番です。拠り頼むことが、一番確実です。

 ただ一度だけ、心細くなったことがありました。だいぶ前の事情なので、今は問題ないと思います。一人で、シンガポールからフィリピンに飛び、国内線に乗り換えてセブ島に行くときのことです。事情通のアメリカ人宣教師からマニラ空港のタクシーには気をつけろと真剣に忠告されました。雲助タクシーや強盗の被害に遭う外国人が多いと知らされ、一生懸命に祈りました。国内線の待合室にやっとたどり着き、何時間もフライトを待つ間にフィリピン人のおばさんと親しくなり、行き先が同じで私が牧師だと知ると、彼女はハレルヤと感謝して大喜しました。私に頼られても、困るのですが、不安な者が二人いると不思議に元気になるものですね。「大丈夫ですよ」などと私が励ます立場になってしまいました。主の恵みで、無事に目的地に着きました。

 道を知り、私たちの最善を知っておられる神に信頼しましょう。一眼レフのカメラの焦点を合わせるように、神にピタリとフォーカスしましょう。
結局のところ、主により頼むかどうかが問われているのです。


2、自分の悟りにたよらない

 「自分の悟りにたよるな。」(5節)

 なぜこう書いているのでしょう。それは、私たちの理解や悟りが、一面的で、自分勝手で、視野が狭く、誤りやすいものだからです。
タクシーに乗ったら座席に茶封筒が置いてあったとします。中に100ドル札の束が入っていたら、これは祈りの答えだと感謝の祈りをしますか。それは人間の悟りです。
 フロントグラスにはねた泥水をワイパーでふき取るように、自分の悟りをさっと一旦取り去りましょう。そして、自分の横に置いて、主の前で吟味しましょう。

 朝の祈り、朝の聖書。それが、私たちの悟りが正しいものか、自分勝手なものかを教えてくれます。だから、毎日のディボーションはとても大切なのです。

3、どこにおいても

 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(6節)

 ある部分は神の導きを求めるが、ある分野ではまったく導きを求めない。私たちは、そういう傾向を持っています。
 どの分野で、主を認めているか、いないか、それはすぐに分かります。あなたが祈らない分野が、それです。

 自分の専門とする分野、経験豊富な分野など、私たちは主に頼りません。祈らない分野の代表例を挙げます。経済、法律、機械のトラブル、売り上げ、プロジェクト、会社の同僚や上司や部下、お客様のためにも祈りません。男性にはこの傾向が強いです。

 どんな分野でも、主を認め、主に信頼しましょう。
・新しい分野:新しい学校、新しい職場、新しいコミュニティー、新しい世界。あなたの未来。
・古い分野:過去の傷、昔の失敗、変えられないと思っている習慣、生まれついてのマイナス。
・現実分野:お金、法律、経済、健康、資格試験、恋愛、結婚、子育て、遺産、家を買う。

 神なしの分野、例外を作らない。それが、どこに行っても、主を認めることです。

 ポールという少年は、ABCも覚えられず、本を読んでも頭に入らない、学習障害の子供でした。高校はビリで卒業、コミュニティーカレッジから大学に編入、本を読んでまとめる宿題は友達に助けてもらい、その代わりにコピーなどの使い走りを熱心にしました。そうするうちに、銀行から5千ドルを借り、コピー屋を開業しました。市価より安くしたので大繁盛して店舗を増やしました。会社名はキンコス、アメリカにいる人なら誰でも知っている、世界的大企業の一つです。創業者のポール・オーファラは、「何かを始めるとき、絶対に誰かの助けを借りないといけない」と心に思っていました。その姿勢が成功の秘訣なのかもしれません。

 自分の限界を謙虚に知り、生活のあらゆる分野に例外を作らずに神を認め、主に拠り頼む心で生きていく。それが箴言3:5~6が教えてくれる生き方です。


4、主は私の道をまっすぐにされる

 「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(6節)

 そうすれば。つまり、いままでの3つの条件を守るなら、何かが起きるのです。主が私の道を整え、まっすぐにして下さるのです。
 私たちが主を心から大切だと思うなら、主は私専用の道を備えて下さいます。
 まっすぐな道とは、神の喜ばれる道であり、私たちが笑顔になれる道です。

 不治の病を持つ6歳の息子のため最後にしてやれることはないかと一人の母親が思案していました。そうだ、息子は大きくなったら消防士になりたいと言っていたから、思い切って頼んでみよう。そう思い立ってアリゾナ州の消防署に出かけました。「消防車に息子を乗せて、近くを走ってもらえないでしょうか」「それなら、一日署長になってもらいましょう」と言われ、思いもかけない素敵な一日をプレゼントしてもらい、火事場まで消防車で同行することもできました。 
 数ヶ月後、最後の時を間近にして、ホスピスの看護士長は関係者に連絡、消防署署長にも電話すると、「病室の窓を開けておいてください、5分後にうかがいます」と答えました。約束通りサイレンが鳴って、消防車の長いはしごが3階の病室にかけられ署長を含めた15人の消防士が窓から入り、男の子をやさしくハグして「I love you」と声をかけました。

 心を尽くして主に拠り頼め。
  自分の悟りにたよるな。
  あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
  そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
  (箴言3:5~6)

 あなたの番です。あなたは、あきらめていませんか。主は、あなたの道をまっすぐにする用意ができています。
私たちが、しっかりと主に拠り頼み、不可能と思える分野にも主が働いてくださると信じましょう。そして、主が備えられた私専用のまっすぐな道を笑顔で歩きましょう。

  →あなたの番です
 □主が道を拓いて下さると信頼して、アクションしましょう。
 □毎日のディボーションを充実させ、主の導きを明確にいただきましょう。
 □「どこにおいても」主を認めましょう。自分の悟りは横に置きましょう。

  「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

  「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。
  そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)

詩篇23篇 主は私の羊飼い

 多くの人に愛唱される23篇。何が、その魅力なのでしょうか。
(今日は年に一度の公園での礼拝です。緑の芝生が目にまぶしいですね。)

1、安らぎと信頼の詩篇

  主は私の羊飼い。
  私は、乏しいことがありません。(1節)

 出だしの一節が詩篇23篇の明度と彩度を決めました。
神は私の羊飼い、私は弱さを持つ羊。素晴らしい羊飼いについて行く人生に乏しさはない、と告白しています。安らぎと信頼が、この一節にあふれています。

 神を羊飼いと呼んだのは、ダビデが最初ではない。ヤコブが人生を振り返った時に「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(創世記48:15)と述懐しています。ヤコブは羊飼いとして20年間働き、昼は暑さ夜は寒さに悩まされる過酷な仕事であると述べたほどです。(創世記31:38~40)ダビデも若いころ羊飼いの経験がありました。神というお方を一言で表現するなら、素晴らしい羊飼い、私の羊飼い、それ以外に適切な言葉がなかったのです。

  主は私を緑の牧場に伏させ、
  いこいの水のほとりに伴われます。(2節)

 パレスチナの気候と地理は、南カリフォルニアとそっくり同じです。緑の牧草地がどこまでも広がる場所など存在しないし、夏には雨が一度も降りません。過酷な環境でも、羊飼いが牧草地と水のある場所に導いてくれるので、羊は食べて飲んで安らぐことができるのです。

  主は私のたましいを生き返らせ、
  御名のために、私を義の道に導かれます。(3節)

 疲れ切った人、取り返しのつかない失敗をした人が多くいます。神は、そういう人の魂を生き返らせ、心をリフレッシュさせ、やり直しを促してくれる方です。

 人間は自分の欲望のために、悪の道を選ぶ弱さを持っています。それで、神は「義の道」を示し、導いてくれます。「羊」にとってベストの道が「義の道」なのです。正しい道は、困難で、遠回りで、恥ずかしい道である場合が多い。それでも、正義を選ぶのは、その道を進むことによって神の栄光が表れるからです。それが、「御名のため」です。

  たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
  私はわざわいを恐れません。
  あなたが私とともにおられますから。
  あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(4節)

 緑の牧場に行くには、いくつもの谷を通る必要があります。猛獣が茂みや洞穴に隠れている危険な場所です。人生も同じです。試練や苦難のない人生などありません。神は、苦しみの中に共にいてくださる方です。それで、勇気が生まれます。

 余命わずかと悟った人にとり、23篇は大きな慰めになってきました。死ぬ瞬間も、神は共にいてくださるのです。ハレルヤ!

  私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
  私の頭に油をそそいでくださいます。
  私の杯は、あふれています。(5節)

 長い人生には、敵と戦わねばなら時があります。虚偽の証言で犯人にされたなら、あなたは戦うはずです。子供が学校でいじめられたなら、あなたは戦うはずです。神は、その戦いの前にあなたを支援すると表明し、実際にサポートしてくださる方です。
5節は、そういう神の支援姿勢を、賓客を向かえた祝宴として描いています。

  まことに、私のいのちの日の限り、
  いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
  私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6節)

 神が羊飼いとして導いてくださるので、この世にいる間、神の愛と恵みは尽きません。あなたがどんな失敗をしても、人に嫌われる罪を犯したとしても、神はあなたを愛す、ゆるす、と誓ってくださいました。いつくしみと恵みがあなたを追いかけてくるというのは、そういう意味です。
こんなに素晴らしい祝福を受けた者は、いつもでも主と共にいたいと願うのは当然です。

 ここまで読んできて、なぜ23篇が多くの人に愛されるのか、あなたにも理解できたはずです。詩篇23篇には、安らぎ、信頼、満足、刷新、英断、勇気、希望、忍耐、成長、友情、励まし、愛、赦し、そして、死を乗り越える力と永遠に残る喜び、これらがすべて含まれています。だから、23篇が好きなのです。


 どのようにしたら、その祝福を受けられるのですか。
自分を羊として認識し、羊飼いである神に信頼してついて行くことです。


 最後に一つ、注目してください。詩篇23篇には過去形がありません。すべてが現在形と未来形です。あの時は良かったという回顧主義に陥らず、過去の大きな祝福のレフトーバーで食いつなぐのでもなく、すべてが現在形に収束する信仰、それが23篇を貫く姿勢です。

 今日、羊飼いである神と共に生きているので乏しくない。明日も、神と共に生きるので心配ない。恵みを過去形にせず、いつも現在形にしたい。あなたも、そう願いますか。ならば、今日も、良き羊飼いの声を聞き分けて、ついていきましょう。

  主は私の羊飼い。
  私は、乏しいことがありません。

ドント・ウォーリー ピリピ4:6~7

 本日は晴れ渡った良い天気で、公園で野外礼拝です。天井もありません。壁もありません。後でおいしいバーベキューを食べますが、みなさんの胃袋も底がありません。

 今日のテーマは「ドント・ウォーリー」、心配するな、です。あなたには心配事がありますか。すぐに人に言えるようなものは本当の心配事ではありませんね。きっとあなたは何かを一人で抱えていることでしょう。


1、心配事についての考察

 最初に心配事を分析しておきましょう。分析できても、心配事が減るわけではありませんが、理解の助けになると思って考察します。あなたの悩みはどのタイプですか。
 時間軸で分けると3つのタイプがあるでしょう。

(1)過去が原因となって、未来が不安になる場合
(2)突然の災難や通知が今やって来て、未来が揺らいでしまう場合
(3)未来のある時点で必ず起きるだろうと心配していること

 原因を切り口に考えると、3つのタイプが考えられます。
(1)自分の失敗や罪が心配事の発端
(2)自分に非がないのに起きた突発的出来事
(3)誰もが通過する人生の節目が自分にもやって来た

 デール・カーネギーの古典的名著「道は開ける」で、心配事の打開策として、最悪を想定する、という項目があります。これは、良い意味での開き直りの勧めです。人生での最悪とは、何でしょう。私は、それは死だと思います。主イエスは興味深いことを言われました。まことに至言です。

 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

 イギリスの名首相として知られたウィンストン・チャーチルは、悩み事を紙に書き出すとよいと言っています。6つの悩みを書き出したとします。チャーチルによれば、書き出した悩みを検討すると、2つはすぐに消え、2つはお手上げだから心配してもはじまらない、残りの2つは何とかなるだろう、と説明しました。
 書き出すことは、問題整理として良い方法です。漠然としているので不安なのです。書き出すことによって、恐れていた実体が明確化されます。


2、聖書的思い煩い解決法

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)

 「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 この聖書の言葉を段階を追ってポイントを書き並べると以下のようになります。

(1)思い煩いをやめる
(2)どんなときでも感謝する
(3)願い事を神に伝える
(4)神の平安が来る

 最初にすべきことは、止めることです。心配は雪だるまのようで、一度斜面を転がるとどんどん悩みは大きくなります。止めるだけでも効果ばつぐんです。私の知っている大阪人の牧師夫人は、ガンになり、大腿骨を骨折しながら、もちまえの大阪式思考法を駆使しました。「悩んで徳になるなら、悩むけわ。けど、そやないやろ」。心配しても、胃が痛くなるし、眠れなくなるし、家族に八つ当たりするし、いいことありません。止めましょう。

 二番目にすることは、感謝の祈りです。「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって」とあります。小さなことを感謝し始めると幸せになります。小さな喜び、あたりまえと思えることこそ、幸せの源泉です。悩みが大きいときこそ、声に出して感謝の祈りをささげましょう。パウロはピリピの獄中で、賛美の歌をうたえる人でした。

 三番目は、願い事を神にはっきり伝えることです。「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。
 詩篇の42篇5節に、「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。」と書かれています。
 同じように、問いかけてみましょう。わが魂よ、なぜ、おまえは心配しているのか。心配ことをクッキリ、ハッキリと、一つの文章にしてみましょう。「私は、明日の朝、体重計に乗るのが怖いのです」などとね。体重計に乗るとき、位置を微妙に変える人がいますが、本質的な解決ではありませんね。
 あなたが、心配していることは何ですか。それを、はっきり神に伝えましょう。モヤモヤしたままだから不安なのです。正体をはっきりさせましょう。それを、神に話しましょう。

 最後にどうなるでしょう。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
 猿知恵というのがありますが、人間の策略や計画はしょせんヒト知恵です。自分が嘘をつい事が将来ばれた時どうしようと心配すると、多くの人は嘘の上塗りをして傷を深くしてしまいます。自分が原因で作ってしまった不安なら、解決策を持っているのはあなたです。「ごめんなさい。私が嘘をつきました」と正直に言えばよいのです。それが済んでしまえば、あなたの心は穏やかになります。
 聖書のプロセスを踏めば、経験したことのない平安がやってきます。これは聖書の約束ですから、試してみてください。

 ラインホルト・ニーバーの祈りを紹介して、結びとします。色々な訳がありますが、今回は文語風で行きましょう。

「神よ、願わくは我に与えたまえ
変えられるものを変える勇気を
変えられないことを受け入れる忍耐を
そして、その二つを見分ける知恵を」

 あなたの悩みは何ですか。それを、神にゆだねましょう。その上で、あなたにできる最善を平安に包まれて行いましょう。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5:7)