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第2コリント13:1~13 吟味する

 あなたは、どんな人になりたいですか。どんなクリスチャンになりたいですか。その理想像に近づくために、何をしたら良いでしょう。そのヒントが今日の箇所、第2コリントの最後の章、13章にあります。

1、自分の信仰を見直す

 「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――」(第2コリント13:5)

 Examine yourselves to see whether you are in the faith; test yourselves. (NIV) まず、自分自身の信仰を吟味する必要があります。それが、理想のクリスチャンに近づく第一歩です。あなたの普通の生活態度、それが、あなたが信仰を如実に表しています。

 今まで、コリント教会の一部の人がパウロをテストしてきたのですが、今度は、パウロが逆にコリント人の信仰のありかたを問いました。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分をためし、また吟味しなさい。」(5節)パウロは第1コリント16:13で「堅く信仰に立ちなさい」と命じていましたが、コリントの人々は口で信じると言いながら、行動で信仰を否定していました。

 「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。」主イエス・キリストが私たちの中におられる。このことに気づいて生きているなら、信仰に立っていると言えるのです。私たちは、私たちの中におられる主イエスを忘れたり、無視したりして生きる悪い癖を持っています。

 この箇所と関連して、賛美歌の歌詞を思い出しました。アナ・P・ウォーナー(1822-1915)作詞のとても有名な子供賛美歌です。

 Jesus loves me! This I know, For the Bible tells me so. Little ones to Him belong; They are weak, but He is strong. Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so. 

 この歌を明治維新の頃、バプテスト宣教師のゴーブルがこう翻訳しました。「エスワレヲ愛シマス。サウ聖書申シマス。彼レニ子供中。信スレハ属ス。ハイエス愛ス。ハイエス愛ス。ハイエス愛ス。サウ聖書申ス。」
 主イエスを信じる者は、主イエスの中におり、主イエスに属しているのです。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)というパウロの説明と同じ思想です。

 会社や学校で、何かの問題に出会ったとき、主イエスと相談しましょう。家庭の事柄や、自分の将来の事で、何かの決断が必要な時、主イエスに尋ねましょう。嬉しいとき、主イエスに話しましょう。悲しいとき、主イエスに伝えましょう。



2、目標は高く

 パウロはこの手紙で何度も自分の役割が、信仰のコーチだと語ってきました。(第2コリント10:8、12:19)10節でも「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。」と語っています。

 「私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。」(9~10節)

 11節でパウロは、クリスチャンの目指す一つの理想の姿を掲げました。理想の姿を持つこと。それは、信仰の成長を促す一つの方法です。

 「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」(11節)

 クリスチャンが目指す目標とは、喜び、完全、慰め。一致と平和です。

 「喜びなさい」とあります。神に愛されている、罪が赦されている、主イエスが共にいて下さることによる安心が喜びの土台です。そのままで良いという大きな安心が私たちを包みます。
 カトリックのシスターで大学理事長をされた渡辺和子さんは、一日を振り返り3つの感謝をノートに書いたそうです。こういう姿勢は、喜びを習慣化させる良い方法ですね。
昨日プロポーズされ結婚を承諾した女性の喜びが簡単に消えないように、神の愛は私たちに大きな喜びを与えてくれます。

 「完全な者になりなさい」とあります。目標は高いほうがいい。パウロが掲げる目標はとてつもなく高い。高いがゆえに、私たちは自分の不十分さに気づき、成長したいと思うのです。
 「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)とマリヤが言ったように、神が共にいて、神が助けて下さるなら、高すぎる目標ではないのです。
 あなたは、どの部分を変えたいですか。何を身に着けたいですか。何を学びたいですか。理想のクリスチャンになるには、今日何をしたらいいですか。今週何をしますか。この1ヶ月で何をしますか。この1年、この10年で何をしたいですか。

 「慰めを受けなさい」とあります。新共同訳では「励まし合いなさい」となっています。パウロがこの手紙の中で特に強調してきたことは、弱さと慰めでした。生きているなら誰でも必ず落ち込みます。それが人間です。だから、神と人からの慰めと励ましが必要なのです。
 垂直方向での神との交わりと共に、水平方向の人間との交わり。この両面があって初めて、クリスチャンは成長します。
 ある高校の先生が卒業式の後で、一人の生徒にこう言われたそうです。「先生だけは、私を見捨てないでいてくれました」家庭的にも、成績面でも問題があった生徒でしたが、その先生は授業中にこの学生と目が合うと、微笑んであげていた事を思い出しました。

 「一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」とあります。一人で聖書を瞑想し、長時間の祈りを行い、霊的に高められ、心が完全にきよめられたという人がいたとします。ところが、家庭ではわがまま、職場では他人を無視、教会では仲間を見下ろすなら、その人は裸の王様と同じことになります。
 周囲の人、とくに家族や親友などの間で、愛を通わせ、交わりを修復できる能力はとても必要です。あなたは、誰かを具体的に援助していますか。誰からか相談を受ける人ですか。交わりの中でも平和や一致を求める人になりましょう。

 あなたはどんなクリスチャンになりたいですか。理想と今のあなたは、どれくらい違いますか。どうしたら、そのギャップを埋められますか。

 最後の祈りは、キリスト教会に広く知られている祝祷です。父なる神、子、聖霊が同列に扱われ、三位一体の根拠となる大事な聖句でもあります。
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13節)

 あなたがどんなに罪深くても主イエスの恵みは必ず届きます。自分が無価値に感じても、神の愛は無限にあなたを包んでくれます。孤独をかみしめているなら、聖霊があなたの真の友であり、あなたとの交わりを決して放棄しないことを忘れないで下さい。

 この10年間、ほとんど毎日、私たち夫婦は夕食後にウォーキングをしてきました。共に歩き、共に語る中で、妻と心を通わせることがどんなに大切なことかを知りました。
 妻との心のつながりが深くなる中で、主イエスと共に歩むという意味がだんたんど理解できるようになりました。それに比例するように、信仰とは何か、少し分かるようになってきました。聖書知識を頭に詰め込むことや、自分の意志の強さで物事を行うことや、特殊な奇跡を待って手を上げ続けることが信仰の本質ではない。生きておられる主イエスと共に、歩くことが信仰の中核なのだと気づいてきました。

 子供賛美歌でもう一つ、私の好きな歌があります。「主イェスと共に歩きましょう、どこまでも。主イェスと共に歩きましょう、いつも。嬉しい時も悲しい時も、歩きましょう、どこまでも。嬉しい時も悲しい時も、歩きましょう、いつも。」あなたも、主イエスと共に歩きましょう。

 →あなたの番です
 □あなたの信仰を吟味しましょう
 □喜び、完全、慰め、平和を求めましょう。
 □理想のクリスチャンになるために何をしますか
  今日、何をしたいですか。1ヶ月内に何をしたいですか。
  1年以内に何をしたいですか。10年の間に何をしたいですか。

第2コリント12:1~21 弱さを誇る

 履歴書に自分の欠点や弱さを書く人がいるでしょうか。たとえば、国際線の飛行機に乗り遅れたことが2回、なくした携帯電話は5個、失恋が3回。
 パウロは、あえて弱さを明らかにしました。それは、なぜでしょう。
 
1、頂上の経験  <第三の天に引き上げられる>

 自分の強さを語る。それが、自分の立場を守る普通の方法です。

 「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。」(2節)

 14年前とあるので、この経験はダマスコにおけるパウロの回心の出来事ではありません。1節では「主のまぼろしと啓示」とあるので、主に主導権があったと理解できます。「引き上げられました」との表現からも、神によってもたらされた特別な経験だと分かります。
 「第三の天」は、4節で「パラダイス」と置き換えられています。パダダイスは、新約聖書で3回だけ登場する言葉で、主イエスが十字架上で悔い改めた強盗に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(23:43)と言われたことから、主イエスを信じた者が死後にいく場所、主イエスがおられる場所だと分かります。黙示録によると「いのちの木の実」(黙示録2:7)のある場所がパラダイスだと言われていますが、それは天国と良く似ています。(黙示録22:2)

 「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(4節)

 これは、エベレストの頂上に立つような霊的な経験です。これ以上高い山はない、クリスチャンとしてこれ以上素晴らしい体験はない一生に一度の歓喜の時となりました。

 あなたも、このような頂上の経験がありますか。

 信仰的に最も恵まれた経験。奇跡を体験した。祈りの中で主がすぐそばにおられるような時を過ごした。神の言葉を耳で聞いた。
 そうした霊的な経験以外でも、頂上の経験に似たものはあります。あなたの優れた能力。財産や家柄という誇り。身体的美しさ。賞賛を受けた業績。

 これらの頂上の経験は、危険要素をはらんでいます。自分を大きくみせようとする傲慢さが忍び込んできます。周囲の人を見下したり、裁いたりしやすくなります。



2、谷底の経験  <肉体のとげ>

 パウロは、次に、自分の弱さを語り始めました。

 「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」(7~8節)

 「肉体のとげ」ということは、実際の痛みがありことを意味します。「私を打つ」という表現から、その痛みが激しいものであると分かります。神からの愛の警告とは言わず、「サタンの使い」という言葉を選んだところから、情け容赦のない痛みだと想像できます。命を投げ出すように必死に何度も祈ったけれども聞かれなかったという事を、「三度も主に願いました」という言葉で表現しました。これほど真剣に純粋に祈ったことがなかったのに、かなえられなかったのです。

 パウロの肉体のとげは、何だったのでしょう。パウロは詳細に書きません。目の病気、むち打ちによる後遺症、ひどい持病、てんかんなどの可能性が聖書学者により指摘されていますが、とにかく、パウロは具体的に書きたくなった事なのです。肉体のとげとは、言いたくない事なのです。

 第三の天に引き上げられたのが山頂の経験と言えるなら、これは、谷底の経験です。
 祈ってもかなえられない、無力さ。サタンの使いに苦しめられるという霊的暗黒。何度も襲ってくる痛みの中での、みじめさや孤独。パラダイスの経験は一度きりでしたが、肉体のとげは頻繁に襲ってくる現在形の痛みであり、いつ終わるともしれない不安を伴いました。

 あなたの弱さは何ですか。とげは何ですか。谷底の経験は何ですか。

 失恋の痛手。最愛の人を失った悲しみ。他人には当たり前のことが自分にはできない辛さ。生まれた家や家族の恥や痛み。自分が抱える肉体的なハンディー。

 みじめさ。疑い。痛み。孤独。無力。私たちは、みな、この種の弱さを抱えています。



3、頂上と谷底がつながる時

 普通の人なら、頂上の経験はフォトフレームに入れて飾ります。パウロも、それだけ離せば、にぜ使徒たちを蹴散らすことができたのです。
 肉体のとげという悩みは心の引き出しの一番奥に放り込み、誰にも見せないものです。パウロはそうしませんでした。

 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

 パウロは、肉体のとげについて主に除去を願い出ました。その祈りの期間が、数ヶ月か、数年かは分かりません。でも、主イエスの言葉が、心に届いたとき、はじめて、頂上と谷底がつながったのです。

 第三の天の経験で高ぶることがないように、痛みはどうしても必要なものだったのです。

 「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないよに」(7節)

 肉体のとげや弱さというのは、欠けたり不足した状態ではないとパウロは悟りました。「わたしの恵みは、あなたに十分である」とあるように、痛みと恥と無力感の中に、主イエスの恵みが不足することなく十分に注がれていたのです。主イエスの愛は、弱さの中にあふれるほど注がれているのです。主イエスの力は、私の弱さの中にこそ現れるのです。それも、完全に。弱さこそ、主イエスを身近に感じられる入り口です。

 伝道者の正木茂先生は、その著書に何度も内山さんという方の話を書いておられます。内山さんは九州の大学病院に入院されていた方で、とても難しい病気になられました。当事は治療法がなく、薬の入った風呂に全身を浸しておく以外生きていくすべがないという状態でした。
 主イエスを信じていた内山さんは、薬の液が滴る手で手紙を書き、主イエスを伝え、困難の中にいる人を励ましました。亡くなる前の最後の言葉は、「神は愛だ。それは本当だ。かみの恵みは私に足れりだ」と言われて天に召されたそうです。

 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)

 弱さが、神への信頼を強めてくれます。
 弱さが、愛の人を作ります。
 弱さが、傲慢にならないための防波堤になります。
 弱さが、主イエスが身近におられると教えてくれます。
 弱さが、主イエスの力の注ぎ口です。
 弱さは、宝です。

 「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

  あなたの番です→
   □あなたの「第三の天」の経験は何ですか
   □あなたの弱さ、「肉体のとげ」は何ですか
   □今週、あなたの弱さを生かして、主の栄光を現しましょう
 

第2コリント11:16~33 心配と苦しみ

1、異なる福音

 あなたが真面目な人かどうか、ちょっとテストをしてみましょう。
1)深夜、交差点にあなたが立っています。どこにも自動車がいません。歩行者用の信号が赤ですが、渡りますか、待っていますか。
 2)お店でおつりをもらいましたが、10ドルよけいでした。返しますか、主の恵みと勝手に納得して、もらいますか。
 3)車の運転席から、ガムやタバコを捨てる人を見たら怒りますか。
 信号を待ち、おつりを返し、怒るなら、あなたは正真正銘の真面目な人です。

 クリスチャンが真面目になりすぎるとやっかいな問題が生まれます。それは、律法主義です。一方的な恵みで救われたことを忘れ、真面目でいることが救いの土台であり、真面目に行動することがクリスチャンの目標だと思い違いをする人がいます。

 パウロは、コリント教会に混乱を招いた人々を、「にせ使徒」(13節)と呼んで糾弾し、にせ使徒が、「異なる福音」(4節)を持ち込んだと指摘しました。

 「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。」(13節)

 「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(4節)

 異なる福音とは、律法主義です。主イエスを信じるだけでは不十分で、ユダヤ人のように行動することが必要だと主張しました。ガラテヤの教会でも同種の問題が起き、パウロは以下のように救いの本質を説明しました。

 「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:16)

 人間は、自分の行いや真面目さが救いにつながると考えやすいものです。ですからパウロは、救いの本質が恵みであると語り、人間の力や熱心、真面目さを誇ってはならないと語りました。

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

 真面目なクリスチャンは、自分の思考パターンに気をつけてください。自分の良い行いを誇らないようにしましょう。自分だけがクリスチャンのエリートだと錯覚して、他人をさばくことのないようにしましょう。



2、差し出した愛

 人が何かを誇るときは、自分の業績や能力を誇るものです。ですからパウロは、自分が教会を多数開拓し育てたことを誇ることができたはずです。病人をいやした事や、学歴が高く聖書の知識に精通していること、復活された主イエスにダマスコで会った事などを話せば、にせ使徒との差別化ができます。けれども、パウロはそうしませんでした。その代わり、主イエスのために苦しんだ事だけを語りました。

 「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(第2コリント11:24~27)

 三十九のむちを受けたことが5度あるとパウロは述べました。申命記25:3によると、ユダヤでのむち打ち刑は40回が上限とされていました、つまり、これ以上の刑は死刑しかない重い刑であることが分かります。
 ユダヤ人以外から受けたむち打ちが3度と書いてあります。これは異邦人によるむち打ち刑を指します。使徒16:33で、ピリピでパウロがむち打たれた後に、傷を洗ってもらったことが書いてあることから、ローマ兵によるむち打ち刑がどんなに過酷な処罰か分かります。
 石で打たれたと書いてありますが、これは死刑なので、生き延びたこと自体が例外的出来事でした。

 パウロがむち打たれていた時、何を考えていたでしょう。主イエスが十字架で苦しまれたことを思い起こしていたのではと思います。

 最後にパウロは、あちこちの教会のクリスチャンに対する心配で押しつぶされそうになったとも書いています。(28~29節)苦しみ以外に誇れるものは、自分が弱いことしかないと語ります。
 「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(30節)


 パウロは、11章前半で、コリント教会の人々のことが心配だと書き、後半では、主イエスのために苦しんだことを書きました。
 誰かのことが心配になる。誰かのために苦しみを担う。それを一言で言い表すなら、愛です。パウロが、コリントの教会と、主イエスに差し出したものは、愛だったのです。


 あなたも、主イエスのために、迫害されたり、ばかにされたりしたなら、あなたは主イエスを愛しているとあかししているのです。今週、主イエスのために苦しみを背負ったなら、しっかりとそれを背負いましょう。

 身近な人のことで、心を痛めたり、苦しんだりしていますか。難しい10代の子供に振り回されていますか。それは、あなたが、その人を愛しているという証拠です。愛しているなら、苦しみを共に担いましょう。

 主イエスは、十字架であなたのために苦しみを背負ってくれたのですから。


 あなたの番です→
 □良い行いを誇らない
 □苦しみの中で主イエスの十字架を思う
 □愛しているなら、苦しみも心配も背負って歩こう

第2コリント10:1~18 「強さ」とは

 パウロは、コリント教会の一部の人から批判を受けていましたが、10章からその問題を本格的に取り扱います。
 
 あなたは批判する人ですか。批判を受ける立場ですか。

 今日は、批判に関する問題を取り上げながら、本当の強さとは何かを考えてみたいと思います。


1、的外れな批判を受けたパウロ

 パウロは、コリント教会の開拓伝道者であり、初代牧師でした。コリント教会を離れて数年たった今、教会の一部の人、おそらく外部から入り込んで来た人々によってパウロは鋭く批判されていました。

1)信仰的でない
 パウロを批判する人々は、パウロが「肉に従って歩んでいる」(2節)と非難しました。パウロが神を忘れ、自分の力だけで仕事をしていると指摘したのです。これは、一方的な思い込みです。パウロをねたむ心が背景にあったのでしょう。
 パウロは、「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。」(3節)と切り返しました。パウロは、神に由来する力を体験していました。(4節)

2)弱々しい
 「彼らは言います。『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。』」(10節)
 パウロが謙虚に話したり聞いたりした姿勢を、弱腰だと非難しました。使徒26章によればパウロはアグリッパ王の心を揺るがす説教をし、使徒22章によれば暴徒たちの前で救いのあかしを堂々としたので、むしろパウロは雄弁であることが分かります。
 パウロは、「そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。」(11節)と答えました。

 リーダーとは、批判という海を泳ぎ続ける人のことです。

 私は、高校時代は運動部のキャプテン、大学時代は聖書研究会のリーダー、そして、長い年月牧師をしましたが、リーダーであることは批判の中に生きることだと認識しています。
 あなたも、会社で長く働けばリーダーになります。「長」の付く役職になります。家庭でも、結婚して子供が与えられれば、父であり母であり、家庭のリーダーになります。教会でも様々な奉仕の中でリーダーになります。男はつらいよ、ではありませんが、リーダーという立場はつらいのです。

 批判にさらされるリーダーであることを止めなかった人。それが、パウロです。それが、本当の強さです。



2、問題のある批判者

 非難している人自身に問題があるとパウロは指摘します。

1)高ぶり

 小林一茶は、「他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貪欲、恐るべきはおごり」、と言いました。
パウロは、批判者の心に高ぶりがあると見破りました。

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(5節)

 非難という行為は、高ぶりから出て来る場合が多いものです。自分を良く見せたい、自分がリーダーになりたい、尊敬されたい、という願いが私たち自身を高慢にします。神を敬う心を忘れ、自分の弱さから目をそらしています。

 「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(6節)
 本当の強さを持つ人は謙虚です。主イエスに従順な心は、自分の限度や割り当てを自覚できます。
 「私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。」(13節)

2)間違った優越感

 批判者は、間違ったエリート意識を持ちます。自分たちだけがキリストに属していると勘違いしていました。

 それで、パウロは、こう諭します。「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。」(7節)

 本当にキリストに属している人は、キリストに属している他のクリスチャンを見抜けるはずです。それが見抜けないのは、批判者がキリストに属していないという証拠になります。


3)自己推薦している(12節)

 「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。」(12節)

 コリント教会に紛れ込んだ、<にせ使徒>、あるいは、<にせ教師>は、パウロの悪口を言い、コリントの教会の一部の人々は完全に巻き込まれてしまいました。
 こういう種類の人を、私は「教会無宿ならず者」と呼びます。信仰年数が長い人が、どこかの教会に流れ着きます。神学校で聴講した経験があったり、教会役員経験者、学識者、社会的地位の高い人の場合もありますが、こうした人が、家庭集会などで周囲の人の不満を上手に聞き出し、牧師批判を始めます。教会が分裂状態になり、牧師が辞任せざるを得ない状態になります。私は、こうした例をあちこちで見聞きしてきました。
 あなたを含めて、すべてのクリスチャンはそういう人になる危険があります。霊的傲慢ほど恐ろしいものないのです。

 パウロはこう言いました。「誇る者は、主にあって誇りなさい。」(17節)
 「主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」(18節)




3、私はどうだろう


 あなたは、批判者ですか。あなたは、批判される人ですか。

 批判的態度だけで一生を終わらせると、「いじわるばあさん」、あるいは、「頑固じじい」になります。神を知り、信仰の成長を遂げた人は、「励ましじいさん」と「感謝ばあさん」になれます。


 良いものを生み出すために、正当で客観的な評価は必要です。問題は、独断的で悪意ある心や否定的な感情に支配された人の批判です。

 誰かを非難したいという衝動にかられたなら、神の前で静かに祈ってみましょう。平安があなたを覆うなら、適切な言葉を選んで、本人に直接話して下さい。平安がないなら、止めましょう。
 批判の言葉でなく、具体的で、積極的な提案をしましょう。さらに、私に協力させてくださいと一歩前に出ましょう。

 第二次世界大戦中のイギリスの首相チャーチルはこう言いました。「築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。」

 今日の一番大事な言葉はこれです。

 「あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。」(8節)

 「立てるために主が私たちに授けられた権威」私たちは、評論家になるために生まれたのではありません。文句を言うだけの人、悪意ある批判をする人、自分以外を否定する人、否定的な言葉で他者を叩き潰す人になるために神に造られたのではありません。私たちはみな、誰かを立てあげるために生まれてきたのです。

 私の知り合いのイラストレーターは、アメリカの会社に中途採用され、絵がうまいので先輩にねたまれました。先輩は部下を使い嫌がらせをさせ、「I don’t like you」と職場で言わせました。クリスチャンの彼は、「I like you」と返事しました。再び「I don’t like you」
と言われても、「I like you」といい続け、結局喧嘩にも、混乱にもなりませんでした。


 何かを作り上げたいという目的を持ったリーダー達は、困難を乗り越え、問題的を改善し、調和を作り、最終目的に邁進する人です。目的達成のためなら、泥をかぶること、叩かれること、傷を負うこと、批判されること、遠回りの道も厭いません。

 あなたは、どちらですか。壊し屋ですか。建築家ですか。家庭や教会、会社や地域で、どちらの立場にいますか。無責任な批判者で一生を終えますか。勝利を信じて汗を流し手を取り合って進む主イエスの弟子になりませんか。

 主イエスは、公生涯のほとんどを律法学者からの批判を浴びて歩まれました。けれども、主イエスは、批判ばかりする私たちの罪を赦し、ネガティブな私たちを積極的に励ます十字架の道を選ばれました。主イエスこそ、真の建築家です。

 「十字架は重いが、ふしぎなことに、
 おまえがそれを担うやいなや、それがおまえを担ってくれる。
 初めは闇夜だが、行く手は真昼の明るさ。
 この道を進むものは「勇者」と呼ばれる。」
      ―ヒルティ「眠られぬ夜のために」3月13日―


 あなたの番です→
 □批判的になりやすい自分の動機を見つめよう。
 □建て上げる人になろう。提案者になろう。サポーターになろう。
 □主イエスに習い、批判につぶされない、強さを持つリーダーになろう

第2コリント9:1~15 豊かに刈り取る

 今日も前回に続き、献金について考えます。今回の箇所を思い巡らす中で、マルコ12章の主イエスの様子を思い出しました。

 「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」(マルコ12:41~42)

 主は、献金する人々を見ておられました。
 信仰は信仰、お金や商売は信仰とは別の問題と考えるべきではありませんね。主イエスは、献金がその人の信仰状態を表わすものだと気づいておられました。


1、生活習慣の改善

 1節から始まる献金の勧めは一見唐突に見えますが、パウロには考えがあったようです。罪のために元気を失い、ばらばらになっていたコリント教会は悔い改めにより新しいスタートを切りました。次にコリント教会に必要なのは、結束した行動であり、具体的なやり直しです。
 コリント教会は、エルサレムの貧しい人たちへの献金を開始しましたが、途中で中断していました。(第1コリント16:2~3)このプロジェクトを完成させれば、コリント教会の人々の喜びとなり、自信になります。
 
 クリスチャンになると、雰囲気や言葉使い、仕事の態度が変わります。次の段階としては、お金の使い方においても、神に喜ばれる道が何かを考えるようになります。
 家庭やビジネスでのお金の使い方について、神の光を当て、神に喜ばれるお金の使い方をしませんか。そのために、献金はとても意味ある行為です。



2、種まきの原則

 「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」(6節)

 献金は、失うことではありません。種まきです。少し蒔けば刈り取りは少ない。多く蒔けば豊かな収穫になります。献金とはそういうものです。

 献金をどれだけしたらいいか、と尋ねられることがあります。クリスチャンでない人には、自由です、強制されません、と私は説明します。神が分からなければ、献金の意味は理解できないからです。クリスチャンの人には、10分の1の原則を紹介しています。

 「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

 「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」(レビ記27:30)

 大学4年の時、私はお菓子の詰め合わせ工場でフルタイムで週に3日ほど働きました。初めてもらう給料に喜びを覚えたのは、私としては高額の献金ができるからでした。礼拝では、格別の感激をもって献金したことを覚えています。それ以来、収入の10分の1をささげるという生活を30年以上続いています。主は約束通り、祝福を与えて下さいました。

 収入が少ない時から、主に献金する生活を始めましょう。そうすれば、収入額が大きくなったときにも同じようにできます。リック・ウォレン牧師が今では十分の九を献金としてささげているとメッセージで聞いた時、英語の聴き取りを間違えたのではないかと思ったほどでした。

 静かな心で考えてみると、私たちはすべてを神から頂いています。命も、空気も、平和も、家族も、仕事も、お金も、罪からの救いも。献金は、10分の10を神から頂いていることを絶えず思い起こし、10分の1を感謝と礼拝の印としてささげる行為なのです。
 神を第一とする人に、神は必ず応えて下さいます。


3、ささげるために、与えられる

 「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(8節)

 献金をささげたいという心を持つなら人なら、心配はいりません。神がまず必要なものをすべて与えて下さっているのですから。8節には、「常に」「すべて」「あふれる」「あらゆる」という言葉が繰り返し使われているのが印象的です。

 「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10節)

 最終的には、こうした献金が神の栄光を表し、エルサレムの人々に喜びをもたらします。(11~15節)

 15節で、「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」とパウロは書いていますが、神からいただいた賜物とは主イエス・キリストを指しているように読めます。神のひとり子、真の救い主が私たちに与えられていることを思うと、自分自身を主にささげ、与えられているものを主と人々のためにささげていきたいと自然に願います。

 あなたの番です→
  □神が、10分の10をあふれるほどに与えて下さっている事を感謝しましょう
  □生活を点検し、献金の喜びを体験しましょう
  □身近な人に、分けること、与えることを実行しましょう

第2コリント8:1~15 献金の祝福

 7章で主からの慰めを語ったパウロは8章に入り、具体的な問題を取り上げました。

 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。(第2コリント8:1)

 マケドニヤとはコリントの北方の地域を意味し、ピリピ、テサロニケ、ベレヤなどの教会を指します。これらの教会が、神の恵みを受けたことを伝えたかったのです。
 神から具体的に何か良いものをもらったから恵みなのでしょうか。いいえ。マケドニヤの教会が献金したことにより受けた神からの祝福を、恵みと呼んでいるのです。

 今日は、献金の祝福を3つの角度からお話します。献金は、1)喜びをもたらし、2)礼拝の真髄に導き、3)キリストの御姿に近づけてくれるものです。

1、与えることが喜びをもたらす

 私たちは物を集めることや金を貯めることに喜びを感じます。ですが、意味あることのために失うならば、喜ぶことができます。
 実家に帰ると、子供を手ぶらで返したくないので、親はがらくたのように見える物でも(失礼!)、「これ、持っていきなさい」と与えます。心臓病になった子供を助けるために、親は貯金を使い果たして借金しますが、そこに親の喜びがあるのです。

 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(2節)
 
 マケドニヤの教会の人々は、苦しい試練の中にあり献金どころではなかったはずです。極度に貧しかったので、与えることは本来は不可能でした。けれども、持っているお金をささげたのです。その結果、あふれる喜びが生まれたのです。「満ちあふれる喜びは」「あふれ出て」とあるとおりです。

 失うことで得る。貧しくなることで、富む。
 これが、神が与えて下さる恵みです。
 私たちは本来、分け合って生きていくように神に造られたのです。


2、自分自身をささげる礼拝者

 私たちは、献金することによって、礼拝の真髄を学ぶことができます。

 礼拝の本質とは何でしょう。それは、神への賛美と感謝であり、神のみこころを知って自分自身を主にささげることです。
 ローマ12章1~2節に書かれている霊的な礼拝の原則も、神のみこころを悟り、自分をささげることだと言っています。主に自分をささげることの一部として、献金があるのです。

 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。(第2コリント8:3~5)

 マケドニヤのクリスチャンは、「神のみこころ」(5節)を求めました。これが神を第一とする姿勢です。神のみこころに応答して、「まず自分自身を主にささげ」ました。「自ら進んで」(3節)、「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」(4節)まだ見たこともないエルサレムの貧しい人々への資金援助を彼らは決断したのです。

 私たちも礼拝でこう祈りましょう。主よ、私に命を下さり感謝します。生かして下って感謝します。家族や仕事を感謝します。罪から救って下さり感謝します。あなたは素晴らしい神です。あなたをたたえます。私のもっているものはすべてあなたから出たものです。どうぞ私を用いて下さい。私自身をささげます。私の経験と賜物を用いて下さい。そして、私の財産を用いて下さい。これらすべてを通してあなたの栄光が表されますように。

 献金することで、まことの礼拝が何かを知ることができます。


3、キリストに似る

 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(第2コリント8:9)

 富んでおられた主イエスが、貧しくなられました。キリストの貧しさが、私たちを豊かにして下さったのです。

 今夏、パサディナにあるノートン・サイモン美術館でヤコブ・ファン・ライスダール(1628-1682)の大きな風景画を見て、しばらく釘付けになりました。
 ライスダールはレンブラントと同じ時代にオランダで活躍し、風景画の巨匠ターナーやロマン派のドラクロワなどにも影響を与えた画家です。私が見たのは、川のある山の風景に立つ3本の偉大な木という作品でした。森の中にそびえる3本の木が中心に描かれています。ちょうど光が差し込んでいる一本の大木の幹が無残に折れています。私は、その木に吸い寄せられ、見つめ続けるうちに大きな感動を受けました。なぜだろう。折れた木が、付近の自然を力づけ、川となり地域を潤しているように見えました。
 そうか。この木は十字架だ、と自分なりに解釈しました。

 死んでくださったお方により、私たちは命をもらいました。無実の方が、罪深い私のために身代わりになってくださいました。富んでおられた方が貧しくなって下さった。主イエスの生涯とはそのようなものです。

 献金することは、このような主イエスをほんの少し真似ることになります。貧しくなることを学ぶときです。

 今日のまとめをしましょう。献金する中で私たちは神の恵みを確かに頂きます。その具体的な意味は、以下のようなものでした。
 1)与えることで大きな喜びを受ける
 2)自分自身をささげる礼拝者になれる
 3)キリストに似た者にされる

 あなたも、心から献金することにより、神の恵みを味わいませんか。

 あなたの番です→
  □献金できることを喜びましょう
  □神への礼拝として献金しましょう
  □今週、誰かに分けたり、与えたりしてみましょう

第2コリント7:1~16 悲しみと慰め

 悲しむ時、落胆した時、私たちが求めるものは何でしょう。それは、慰めです。今日は、慰めについて考えましょう。

1、安らぎを失い、気落ちした時

 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。(第2コリント7:5)

 パウロは、安らぎを失っていました。信仰の勇者パウロでも狼狽することがあるのです。厳しすぎたかとコリントに宛てた手紙の内容を一時は後悔しました。(8節)
 パウロは、コリント教会に書いた手紙の反応を心配し、トルコ半島の北西部の町トロアスでいてもたってもいられず、海を渡ってギリシアに渡りマケドニア地方に移動したほどでした。(第2コリント2:12~13)

 あなたは今日、安らぎがないかもしれません。仕事や家庭の問題で、まさに「外には戦い」(5節)という状態ですか。あるいは、心の中の心配事が多すぎて「うちには恐れ」という状態かもしれません。このようにストレスの多い毎日の生活に、決定的と思えるような大きな問題が一つ加わると安らぎを失い、気落ちします。正面から問題に立ち向かう気力を失います。

 かなり昔のことです。サーカスのチケットを買うために夫婦とその子供8人が立っていました。良くしつけされた子供達は二列に並び、サーカスの楽しさを想像して期待に胸をふくらませて語り合っていました。
 父親が担当者からチケットの総額を聞いて「えっ、いくらですって」と困惑の表情を浮かべました。思った以上に高額だったのです。そのとき、誰かが肩をたたきました。見知らぬ男性が「失礼ですが、この紙幣があなたのポケットから落ちましたよ」と言うと、入場料に見合うお金を差し出しました。その父親は目に涙を浮かべ、感謝してそれを受け取りました。

 私たちの神は、「気落ちした者を慰めてくださる神」(6節)です。生きて働く神が、あなたを慰めてくださいます。あなたは、それを信じますか。

 「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」(詩篇138:8)


2、悲しみの力

 コリント教会で何かトラブルが発生したようです。12節によれば、悪を行った加害者とそのために被害を受けた人がいるようです。教会の対応が適切でなかったため、問題解決ができず、悪い影響が残ったようです。
 パウロは、根本的な解決のために、問題の原因がどこにあるのかを厳しい言葉で指摘し、何をすべきかを指導したようです。テトスが戻って来て、良い知らせを伝えてくれました。

 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。(6~7節)

 コリント教会の人々は、パウロの手紙を読み、テトスの説明を聞き、二つの点で大きく変化しました。罪を悲しみ、態度を変えてパウロを心から慕うようになったのです。
 問題解決の鍵は何だったのでしょう。それは、神のみこころに添った悲しみです。

 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(第2コリント7:9~10)

 悲しみには、力があります。

 神のみこころに添って悲しみ、悔い改めるなら、前に進む力が与えられます。

それは、憎しみを引きずった悲嘆のことではありません。悔し涙でもありません。神の前での自分の罪を嘆くことです。

 神のみこころに添った悲しみからは、赦しの喜びが生まれます。優しい気持ちになれます。自然な形で、周囲の人に「ごめんなさい」と言えます。自分らしくなれます。神に愛されていることを、しみじみと感じさせてくれます。現実的に問題解決をしようという勇気が与えられます。

 悲しみは、慰めの注ぎ口になるのです。

 主イエスの言葉を思い出します。「悲しむ人者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

 若い女性が、買ったばかりの新車を運転中、停止していた車に追突しました。夫に買ってもらった車なので、ショックが大きく、思わず泣いてしまいました。
 事故処理のため車の登録証を出そうとダッシュボードから封筒を出すと、中に紙が入っていていました。夫の字で事故を起こした時の対処法が書いてありました。その中に、「僕が愛しているのは車じゃなくて君だということを忘れないでほしい」と書かれてありました。

 父親の皆さん。妻と子供たちに、「すまなかった」と心から言いましょう。あなたの悲しみが、誰かを慰めることになります。奥さんたち、夫と子供達に言いましょう。「悪かったわね」と。子供達、兄弟や父母に言いましょう。「ごめんなさい」と。

 あなたの神の前での悲しみは、周囲の人をいやします。

 あなたの番です→
 □「気落ちした者を慰めてくださる神」は、あなたの肩に手を置いて下さいます。
 □神のみこころに添った悲しみをあなたのものにしましょう。

第2コリント6:1~18 今は恵みの時

 神の恵み。
 それは、神から人に注がれた愛の別名です。
 今日は、神の恵みを無駄にしない生き方を考えてみましょう。

1、釣り合わないくびき
 
 最初に、6章の最後のパラグラフである14節から7章1節の部分を取り上げることにします。ここでパウロは、率直に、大胆に、これから結婚しようとする人に対して忠告しました。

 「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(14節)

 くびきとは、二頭の牛の首に木材を乗せて首をつなぎとめる農耕器具です。信仰を持っていない人がすでに頭を入れているくびきに、クリスチャンが頭を入れないように、とパウロは警告しています。この場合のくびきは、不自由さ、重労働、不平等さ、などがイメージされています。

 パウロは、正義と不法、光と闇、神とベリアル(サタン)などの接点のないペアを列挙し、釣り合わない結婚もそれと同じだと指摘しました。15~7章1節において、パウロは旧約聖書を複数箇所引用し、<分離すること>の大切さを語りました。

 フラー神学校の心理学者で結婚カウンセラーのニール・カレン・ウォレン博士は30年以上の臨床経験から、精神世界を重要視する人とそうでない人の結婚は必ず問題にぶつかる、とその危険性を警告していますが、パウロが2000年前に述べたことを現代的視点で検証していると言えるでしょう。

 結婚に限らず、クリスチャンがこの世の中の罪の伝統、社会や会社の悪いしきたりに染まるということも、同じ問題をはらんでいます。「彼らと分離せよ」(17節)とパウロは言います。こうした生き方は、神の恵みを無駄にしない生き方の一つです。

2、今は恵みの時

 パウロは5章で神の救いの素晴らしさを語り、パウロ本人も私たちも福音を伝える使節として任命されていると語りました。6章の冒頭1~2節では、その余韻が残る中で、今こそ、神の救いを受けよと熱く呼びかけます。罪を知らない方を十字架にかけてまで(5:21)、あなたを救おうとした神の恵みをむだにしてはいけない、今日は救いの日だと述べます。

 「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(1節)
 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2節)

 神の恵みは、感謝して受け止める人がいないなら、無駄になります。まるで、受け取り手のいない流しそうめんのようです。
主イエスを救い主と信じる。これが、神の恵みを無駄にしない、最も大事なことです。今、救いに招かれていたら、今、主イエスを信じましょう。

 あなたがすでに、主イエスを信じているクリスチャンなら、愛において成長し、キリストの姿へ変えていただきましょう。
 友達が「パンクして困っている」と電話してきたとします。あなたならどうします。それも、相手がアリゾナにいたとしたら。

 成長のポイントは、決断をして愛の行動をすることです。大切な人のため、まるで車をユーターンさせるように、親切さと思いやりのある行動を選ぶことです。

 恵を無駄にしない生き方とは、神の愛に応答して、実際のアクションに落とし込むことです。



2、福音にふさわしく

 パウロは、自分が語る内容と、自分の生活態度が矛盾しないように生きていると3節から10節まで語ります。これも、恵を無駄にしない姿勢です。

 「あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と」(4~6節)

 福音にふさわしく歩もうとするなら、困難は避けられません。それは、パウロの人生を見れば一目瞭然です。パウロはその苦しみの中でも、寛大な心や思いやりを忘れませんでした。原文のギリシャ語を読むと、苦しみも親切も同じ文章形態で書かれてあり、パウロにとっては、苦しさに耐えることと、人を思いやることに、何の区別もないことに驚きます。

 また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(6~10節)

 私たちは、人から評価されたり非難されたりして一喜一憂しますが、人生とはそういうものだとパウロは達観しています。
外見は、否定的で、弱くて、貧しく、魅力のないものに見えるのがクリスチャン生活の一面です。ところがどっこい、実態は正反対だとパウロは体験的に言います。
 貧しくても人を富ます生き方ができると言います。無一物無尽蔵。それは、主がおられるので可能となるのです。主の恵みゆえに実現する信仰生活の真髄なのです。
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」

 トム・ハーケンは1992年、レストラン事業で大成功した創業社長としてアメリカで栄誉ある賞を受けました。彼は、長い間字が読めず、書けなかったことをその時のスピーチで自分の子供たちと出席者の前で明かしました。妻の助けで、やっと克服したといいます。
 小児麻痺と結核のため教育を受ける機会を失ったトムは、字が読めないままで掃除機の訪問販売を行い、名前、住所、電話番号、購入機種などを暗記、書類書き込みを夜になって妻に頼みました。そうした熱意が全国一のセールスマンにしました。
 トムがアメリカの有名大学で、名誉博士号を授与され、卒業式の記念スピーチをしたことがありました。その前夜、大学当局者から、我が大学は中立をモットーとする格式のある大学なので神についての話をしないでほしいとやんわりと忠告されていましたが、「大学に必要なのは神です。神を知らない人生は問題にぶつかる。神を求めましょう」と大胆に語り、聴衆のスタンディングオベーションを受けました。トムはどんな場所に行っても、神に助けられ、妻に支えられ、今の自分がある、とあかし続けています。

 神の恵みを無駄にしないため、あなたはどんな選択をしますか。

 神を第一に、福音のためにすべてのことをする決断を絶えずしていくなら、主はあなたの人生を豊かに祝福してくださいます。
 たとえ、苦難があっても、別れがあっても、貧しくても、弱くても、主と福音のために生きる人には神の助けが豊かにあります。


 →あなたの番です
 □あなたのプライオリティーを明確にしよう
 □主の恵みを無駄にせず、今、大事なものを選び取ろう
 □主よ、貧しくても、弱くても、多くの人を富ます人生にしてください

 「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(第1コリント9:23)

 

第2コリント5:1~21 信仰によって歩む

 5章のパウロの記述は、普通とは順序が逆になっています。
 天国→信仰生活→救い。

 パウロは、「見えないものにこそ目を留めます」(第2コリント4章18節)と述べた後、目に見えない天国について自然に語り出しました。天国への希望が揺るぎないものなので、信仰による歩みが自然な営みになります。元をただせば、十字架の愛を受けたことが信仰による歩みの出発地点でした。この素晴らしい救い、神との和解を他の人に分かち合うことがパウロの使命であり、また、私たちの使命なのだと結びます。これが、5章の全体の流れです。

 今日は、私たちの信仰の歩みを高い視点から俯瞰してみましょう。

1、天国のリアリティー

 あなたは天国を信じますか。天国についてのリアリティーがありますか。

 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(1節)

 私たちが死んで天国に行くことは、新しい服を着ることだとパウロは説明しました。(2、4節)私たちの体は、「幕屋」、つまり、テントのようなものです。地上の体においては、私たちは、重荷を負い、うめいています。また、肉体という幕屋はこわれるものなのです。テント生活と普通の家での生活。どちらが心安らぐかは、言うまでもありません。天の体は、「神の下さる」もので、「永遠の家」です。だから、死後について心配する必要はないのです。

 アメリカに住む者にとって、日本に行くというのは楽しいイベントです。それは、家族や友人と会えるからです。家族や友人が一人もいない日本になってしまえば、ただの観光地です。
私たちは天国にあこがれるのは、そこに主イエスがおられるからです。主イエスも、そこで待っていると言って下さいます。

 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:3)

 先週私は古い映画を家で見ました。主人公が死にそうになりましたが、ハラハラしませんでした。なぜかというと、その続編で主人公が活躍しているのを知っているからでした。
 人生の結末、最終結果を、私たちは知っているのです。主イエスを信じているものの最後は天国というハッピーエンドと決まっているのです。
 だから、天国のリアリティーをはっきり持つことが大事なのです。


2、信仰による歩み

 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。(7節)

 天のリアリティーを持っているなら、その人の歩みは自然と信仰生活になります。信仰によって歩むとは何か、パウロは実に自然に自分の生き方を以下のように説明しました。

1)天国にふさわしい者としてくださったのは神であり、神に感謝して生きる。
 「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です」(5節)
2)御霊なる神が天国の保証となってくださったので、心強く生きられる。
 「神は、その保証として御霊を下さいました」(5節)
 「そういうわけで、私たちはいつも心強いのです」(6節)
3)主に直接お会いし、主と共にいられる状態をあこがれて生きる。
 「主のみもとにいるほうが良いと思っています」(8節)
4)私を愛して下さった主に喜ばれる生活がしたい。
 「私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」(9節)
5)主の前で公正な裁きを受けることが分かっているので、誠実に生きる。
 「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて」(10節)
6)キリストの愛に突き動かされて行動する。
  「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(14節)
7)キリストのために生きたいと願う。
  「自分のために死んでよみがえられた方のために生きる」(15節)

 
3、救われて新しくなる

 主イエスは、十字架で、私の罪を身代わり罰を受け(21節)死んで下さいました。この主イエスの愛と十字架が、私たちを罪から救い、私たちの内面を180度変えて(17節)下さいました。

 私たちの内面の変化は、徹底的です。

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(17節)
 
 私たち罪人は、本来自己中心で、動機はいつも自分の利益のためです。ところが、主イエスの愛が取り囲み、私たちを駆り立てると、主イエスのために生きる人生、身近な人々のために生きる人生(13節)へと大きく舵を回すことになります。主イエスの愛を知った人は、その恩をお返ししたいと思うようになるのです。

 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(14~15節)

 イエスさまを信じることが、信仰生活の第一歩になります。

4、私たちの使命

 天国→信仰生活→救い。この順序で説明してきたパウロは、そのまとめとして、自分たちの使命について語りました。

 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(19~20節)

 大きな視点で人生を俯瞰するなら、今、何のために存在しているのかは自明の理となるとパウロは言います。神と和解することが人の最大の幸せだ。神との和解を人々に伝えるのが私たちの使命だ。私たちは、そのために主イエスから使わされた使節なのだ。そう、パウロはまとめました。

 バングラデシュのムハマド・ユヌスさんはアメリカに留学し経済学博士になった方です。帰国して大学の部長になった時、5万人が死亡する1974年の飢餓を経験、経済学が何の役にも立たないことに愕然としました。ユヌスさんは、貧しい生活をしていた人の聞き取り調査を行い。竹細工の材料費1ドルすら払えない現実を知りました。調査対象の42人が必要としていた額を合計すると27ドルでした。ポケットマネーから無担保、無期限でお金を貸したことが、彼の第一歩になりました。貧しい人にわずかなお金を貸し、生活の安定を助けるグラミン銀行はこうして成果を出し、ノーベル平和賞を2006年に受賞しました。ユヌスさんはクリスチャンではないと思いますが、その発想にとても刺激を受けます。

 「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(15節)

 私たちは、主イエスから溢れる愛を受けました。受けた愛を主イエスと身近な人にお返ししたい、そう思いませんか。

  あなたの番です→
 □天国のリアリティーをもって人生を見直そう。
 □主イエスから受けた愛を感謝し、恩を返そう
 □私だけのユニークな使命とは何だろう。

第2コリント4:1~18 途方に暮れても

 第2コリントには、パウロの体温が感じられる。あらかじめアウトラインを練ったタイプの手紙ではないだろう。心情の吐露が随所で見られ、喜びの奔流があふれ出ている。特に4章は、パウロの自覚、信仰、価値観、視点、確信などが自然な形で語られており驚嘆に値する。
 あなたが今、悩みを抱えているなら、パウロのような視点が必ず助けになる。

1、あわれみを受けている

 人からどう思われるか。あなたの悩みはこのタイプの問題ですか。

 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
(第2コリント4:1~2)

 パウロは、神からあわれみを受けたと書いている。その感激で心が溢れている。(1節)
あわれみを受けるとはどんな状態だろう。条件に届かない、資格がない、落第している状態なのに、神の愛と力と配慮を受けていることです。
 パウロは、クリスチャンを迫害し、暴力を振るった過去があり、自分は<あわれみの見本>にされたと強く自覚しています。(第1テモテ1:12~16)

 だからパウロは、自分を見て落ち込まず、他人の評価で勇気を失うことなく、昔使った卑劣な悪巧みは捨て去り、神の言葉を曲げず、真理に生きる態度を取れたのです。(1~2節)

 私は、ハワイで新聞記者をしていた時に日本の政府高官の記者会見に出席したことがあります。その人物の言葉と態度に辟易しました。傲慢そのものだったのです。その帰りのエレベーターで地元テレビの有名なニュースキャスターと乗り合わせました。彼のフレンドリーで温かい態度に驚きました。どちらに私が好印象を持ったか、言うまでもありません。

 パウロは、人間からの評価など気にしていません。神からあわれみを受けたという喜びで、謙虚な人柄になっていたのです。あなたも、あわれみを受けています。


2、宝を持っている

 あなたは、自分に価値がないと落ち込んでいますか。いいえ、あなたは素晴らしい価値を持っています。

 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
(第2コリント4:7)

 土の器とは何でしょう。金や銀の器に比べれば価値がない。壊れやすく弱い。取るに足りないものです。私たちも土の器です。
でも、ただの弱い器ではないのです。その内側に宝を持っているのです。宝とは、イエス・キリストです。その宝が、私たちを価値あるものに変えます。

 パウロはルステラで、ユダヤ人にから石打ちの刑を受けたことがありました。むごいリンチの処刑方法です。大小さまざまな石を大勢からぶつけられ、完全に死んだとみなされて、町の外に捨てられました。幸い命に別状はありませんでした。生命力が強かったのではないのです。はかり知れない力がパウロを守ったのです。パウロはこの宝の凄さを体験したのです。

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。(第2コリント4:8~9)

 以上のように、人間的にはもうだめだという絶対絶命のピンチを4回、畳み掛けるようにパウロは語りました。それで終わりではないとパウロは力説します。主イエスを内に持つ者は、不屈の意志が備えられるのです。

 戦後直後、群馬県で伝道を始めたコーウィン宣教師は、ある日タイプライターやアコーデオンなどを盗まれました。数日後、そっと、おわびの手紙と物品が返却されました。新聞記者に同宣教師は以下のように心境を語り、記事になりました。私も同じ罪人です。あなたをゆるします。神に赦されることが大事です。どうぞ、我が家に来てください。ご一緒に食事をしましょう。
 新聞記事を読んだ犯人は自責の念から服毒自殺未遂をし、その親から連絡を受けた宣教師が見舞いに訪れ主イエスの福音を語りました。犯人は悔い改めました。

 あなたは土の器ですが、主イエスという宝が内にある限り、困難に取り囲まれて終わりということはないのです。
 あきらめてはいけません。主イエスキリストがあきらめていないのですから。


3、見方は変えられる

 目先のことで右往左往している人がいます。あなたの視点が問題なのです。
 にっちもさっちも行かないときでも希望があります。私たちの見方が変化する可能性があるからです。そうすれば、取り組み方が根本的に変わるのです。別な出口が見えるのです。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(第2コリント4:16~18)

1)外なる人は衰えるが、内なる人が日々新たにされる
 若い頃は努力と根性でなんとかなりました。歳を取って無理をすると怪我をします。幸いなことに、主イエスが私たちの内面の動機、感情、思考方法を日々変革してくださるのです。

2)患難は一時的であり、軽い。最終的には、栄光をもたらす
 目の前の苦しみや問題が永遠に続くと錯覚して、戦う前につぶされてしまう人が多いです。永遠の視点で見ると、どんな患難もひと時の苦しみ。軽いのです。新共同訳では、いっときの軽い艱難と翻訳しています。

3)見えるものにではなく、見えないものに目を留める
 私たちが深い満足を得るのは、見えないものを大事にしたときです。正義のために苦しんでも、愛のために犠牲を払っても、真実のために倒れても、私たちの心には満足が訪れます。見えないものに目を留めて、歩きましょう。

 主のあわれみに励まされ、主イエスの臨在を内に感じて、あきらめずに進みましょう。途方に暮れても、道はあるのです。

 →あなたの番です
□私たちはあわれみの器です。だから、勇気を出そう。
□私たちは土の器です。倒れても終わりではない。
□私たちは見えないものに目を留める器です。必ず変えられる、乗り越えられる。

第2コリント3:1~18 御霊のあるところ 

 健康なクリスチャン生活の秘訣は、聖霊にあります。もっと、御霊を意識し、あがめ、導いていただきましょう。今日は、御霊に目を向けましょう。


1、私たちは、手紙

 コリント教会の一部の人たち、「ある人々」(第2コリント3:1)はパウロの使徒職を疑問視していたようです。それなら、ダマスコのアナニヤ(使徒9:10~20)にパウロの回心の様子をまとめてもらい、バルナバとペテロに正式な推薦状を書いてもらうことも可能でした。
 ところが、パウロは、そうしませんでした。その代わり、こう書いたのです。

 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。(2節)

 コリント教会が存在していること。コリントの人々が持っている信仰そのもの。それが、パウロ人となり、働きを裏付けると説明しました。

 私たちにも同じことが適用できます。私たちはキリストの手紙であり、御霊によって書かれた手紙(3節)なのです。知られています。読まれています。周囲の人が、私たちの言動を見て、私たちに書き込まれたキリストを知るのです。私たちの存在そのものが、公開書簡なのです。

 私は一人の女性看護士を知っています。人の嫌がる仕事を笑顔でする人でした。入院患者の一人は、そのことに気づき、やがて彼女を通して教会に導かれイエスさまを信じました。彼女は周囲の人に読まれていたのです。キリストの香り(第2コリント2:15)を放っていたのです。

 あなたも、現代のキリストの手紙なのです。


2、古い契約と新しい契約

 次にパウロは、古い契約と新しい契約を対比して説明しました。(新約聖書の新約という言葉は、古い約束、古い契約と対比した新しい約束を意味しています)コリント教会に入り込んだ人々は古い契約の信奉者で、律法的な信仰を賞賛したのかもしれません。
 律法を行うことで義を神の義を得るという生き方がどれほど困難な生き方か、パウロは体験的に知っていました。(ピリピ3:4~7)
 そこで、以下のような対比を行い、新しい契約の優位性を説明しました。新しい契約とは、主イエスを信じるだけで義とされる救い、そして、御霊により日々変えられる生き方です。

 ・古い契約(14節)……………………新しい契約(6節)
 ・殺す(6節)……………………………生かす(6節)
 ・罪に定める(9節)……………………義とする(9節)
 ・やがて消え去る栄光(7節)…………永続するものの栄光(11節)

 モーセは、十戒を神から頂き、山から降りて来ましたが、その際、神の栄光を反映して顔が光っており、人々はモーセの顔を見据えることができませんでした。(出エジプト34:29~30、34)
 古い契約における栄光ですら、そのような輝きを持つのなら、新しい契約における栄光ははるかに優れてものであるはずです。


2、変えられる

 私たちクリスチャンは、何かの拍子に、昔の考え方に立ち戻る傾向があります。クリスチャン生活を、道徳や努力に置き換えてしまいがちです。
 救われたのは、主イエスの十字架の恵みです。救われた後も、主の恵みと聖霊の助けによって歩むのです。

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(18節)

 ・どうすれば変えられるのですか。(16節)主に向くならです。
 ・誰によって変えられるのですか。(18節)御霊なる主です。
 ・誰が変えられるのですか。(18節) 特別な人でなく、みなです。
 ・どのようにして変えられるのですか。(18節)主の栄光を反映してです。
 ・どのような姿に変えられるのですか。(18節)主イエスと同じかたちにです。

 私たちは、弱く、罪を犯しやすい者です。その上、繰り返し失敗をします。嘘をついた、会社の金を盗んだ、インターネットでポルノを見た、人の悪口を流布した、自分を良く見せようとして事実と違う印象を与えた、人の業績を自分の成果にした。

 まじめに生きよう。自分をコントロールしよう。そうした努力はとても大切です。ただし、聖霊の助けを排除して、自分だけで頑張ろうとするなら、律法的な生き方に陥ってしまいます。それは、成功すれば傲慢になり他人を裁く態度となり、失敗すれば信仰自体が破綻寸前となる実に不安的な信仰になります。

 鍵は、聖霊にあります。聖霊が私たちの希望です。

 私たち自身を聖霊に委ねましょう。聖霊に取り扱っていただきましょう。

 私は、岩渕まことさんの著書『気分は各駅停車』を何度か読み返しました。飾らない信仰体験がしっとりと心に染み込みます。小学1年の娘さんが脳腫瘍になり、祈り、苦悩され、その中で「父の涙」という歌ができたこと。その作詞作曲したとき、ご自身も泣いておられたこと。医師から「強いですね」と言われたけれども、そう見えたのならイエスさまのおかげと話しておられること。とても素晴らしい本です。

 クリスチャン人生は、山もあり谷もあります。輝きもあり闇もあります。負のスパイラルに陥ることもあり、主と共に水の上を歩くときもあります。
 大切なことは、御霊と共に歩むことです。御霊の促しに従うことです。聖霊に作り変えていただくことです。

 第2コリント3:18を心にとめましょう。

 私たちは、………栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(18節)

 御霊なる主よ。私を変えてください。

→あなたの番です
 □私たちはキリストの手紙です。周囲の人に読んでもらいましょう。
 □人間的な力みから離れて、御霊にゆだねた生き方を選びましょう。
 □私たちは、みな、主と同じかたちに変えられる。この聖句を信じましょう。

第2コリント2:1~11 涙の手紙

 人と人とが生きていると、誤解が生じたり、思いが届かないことがあります。
 パウロとて同じです。コリントの教会は問題の多い教会で、それを正そうとするパウロとコリントの人々との間で軋轢が生じていました。

1、コリントへの手紙は何通?

 パウロはコリントで伝道し(使徒18章)教会の基礎を築きました。パウロは活動の拠点をエペソに移した後もコリントの様子を心に留め、祈り、人を送り、手紙を書いて支え続けました。
 パウロがコリントの教会に宛てた手紙は、聖書の記述によると少なくとも4通あったようです。

 1)叱責の手紙(第1コリント5:9)
 2)コリント人への手紙第1
 3)涙の手紙(第2コリント2:4)
 4)コリント人への手紙第2

 手紙以外にも、テモテを遣わしたり(第1コリント16:10)、自分自身もコリントに赴いて(第2コリント2:1)、コリント人を励まし続けたことが分かります。


2、涙の手紙

 パウロが誤りを正そうとする。それを聞いて、コリントの人々がリアクションを起こす。少し改善される。まだ不十分なので、問題点を指摘する。うまくいかない。パウロの人間性や使徒としての信頼性に揺らぎが生じる。
 パウロは万策尽き、結果を主に委ねて、コリント人に対する思いのたけを手紙に書き記しました。それも、涙をもって。

 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(第2コリント2:4)

 涙とは何でしょう。思いやりの結晶です。

 3週間前、右足の小指を椅子にいやというほどぶつけました。骨折したかもしれないと内心感じましたが医者には行きませんでした。1週間して、娘が昼休みを利用して職場から私のオフィスにやってきました。「きちんとお医者さんに診てもらって。2時30分に予約を入れておいたから。行ってね。レントゲンを撮ってもらってね」と言うのです。私が「心は伝わったよ」とにべもない返事をすると、娘は涙を流し、同じことを繰りかえして言いました。医者に行くとは言わずに、結局娘を返しました。私は、娘が出て行った後に心を揺さぶられました。こんなに愛されている。携帯で「今から、行くよ。ありがとう」と連絡して、医者に行きました。それで折れていたことが分かりました。

 パウロの涙はコリント教会の人には見えません。でも、手紙の文面から、パウロの涙の流れる音が聞こえたはずです。
コリントの人々にパウロの心が通じたのです。パウロの涙の祈りが届いたのです。

 主イエスがどんな方か、思い出しましょう。主イエスは私たちの涙を読み取ってくださり、涙を流してくださる方です。

 主はその母親を見てかわいそうに思い「泣かなくてもよい」と言われた。(ルカ7:13)
イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

 あなたの愛を涙に変えて祈りましょう。伝えましょう。


3、赦しと慰め

 パウロは、罪を犯した人の処罰の断行を知り、今コリント教会で必要なことは、赦すことと慰めることだと諭しました。

 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。(第2コリント2:6~7)

 パウロが望んだのは、コリントの人々を倒すことではなく、コリント教会の人々の笑顔を見ることでした。直言や叱責の最終目的は、回復であり、喜びの回復です。それを忘れないように。

 あなたの番です→
 □あなたが大切にしている人は誰ですか
 □涙にくるんで、あなたの愛と真心を伝えましょう
 □最終的に、あなたが見たいと望んでいることを忘れないように

 

第2コリント1:1~11 慰めがここに 

 これから、コリント人への手紙第2を毎週1章づつ学んでいきます。

 先日、右足の小指を椅子にぶつけて、あまりの痛さに倒れこみました。それを話すと人は二種類に分かれます。一方のタイプの人はこう言います。若くないのですから、気をつけなくちゃいけません。あわてるからつまづきます。別のタイプの人は、自分のことのように感じて、痛いでしょう、おつらいですね、どうぞお大事にしてくださいと言います。どちらのタイプの人が、私の痛みを倍加させてくれたか、分かりますね。

 第2コリントのキーワードは「慰め」です。シリーズ第1回目は、慰めをテーマに取り上げます。



1、神は、慰めの神

 まことの神は、慰めの神です。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。(第2コリント1:3)

 神は、正しく、きよく、強くある方です。それだけではなく、私やあなたを慰めてくださる方であり、人の心に寄り添ってくださる方です。
 弱った人、病気の人、傷を負った人、倒れた人に対して、神は慰めの神として接してくださいます。

 主イエスも言われました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(第2コリント1:4)

 そうです。神はどんな苦しみの中にある人をも慰めることができます。神なら、おできになるのです。神だけが、できるのです。だから、本当の神といえるのです。

 大きな苦しみの中にいる人に、神は細い声で、その人の心に届く方法で、慰めを与えてくださるのです。あなたも、その慰めを受け取ってください。




2、苦しんだ人が、誰かを慰める

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(第2コリント1:4)

 パウロの言葉によると、神の慰めを受けた人は、他の人を慰める人になれるといいます。あなたは、それを信じますか。
それだけではありません。どのような苦しみの人をも、私たちが慰めることができるといいます。私たちが、誰かの慰め手になれるのです。

 私は牧師の仕事を辞したことがあります。その翌日、教会の英語部の方が私の家の前に車を止めました。仕事がなくなると生活が大変になるから食料を持って来ました、使ってくださいというのです。トランクは、お米、野菜、肉、食料で一杯でした。私は 呆然としました。
 翌日、別の方がやはり車を止めました。トランクを開けると、やはり食料が満載してありました。涙が出ました。
ある年配のご婦人は、パンを買って届けてくれました。それも、毎週来てくれました。留守の時にはパンだけを置いていかれました。おいしいと評判のベーカリーのパンでした。置かれているパンを見るたびに、大きな慰めを受けました。
 あるリタイアしたカップルは、私たち夫婦を日本食レストランに招き、ランチをご馳走してくれました。その時お二人は、一人分のランチを二人で分けて食べました。お二人の倹しい生活を思うと、食事が喉を通らないほど感激し、その心が伝わりました。
 家主の突然の申し渡しで急に引っ越しの必要が出て、かなり落ち込んでいた時。二組のご夫婦は、私たちの転居を手伝い、ジョークを飛ばして明るい雰囲気にして、引越し荷物を運んでくれました。
その他にも、心温かな人たちから、たくさんの愛と慰めを受けました。それで、生きることができたといっても過言ではありません。

 私は、10年たっても、これらの事を忘れません。何度も思い出し。何度も感謝し、何度も涙を流します。

 神の慰めを受けた人が、私を慰めてくれたのです。

 あなたも、誰かの心を慰めることができます。

 あなたの痛み、暗闇が、誰かの慰めに繋がっているのです。



3、慰めの経験は希望を生み出す

 パウロは、神が慰めの神であると説明しました。また、パウロは神の慰めや助けを確かに受けたと、経験的に語りました。8~9節によれば、それが、死を覚悟するほどの厳しい経験だったことが分かります。その経験がパウロに希望を与えました。

 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(第2コリント1:10)

 そうです。苦しみと慰めを経験した人が、ゆるがない希望を持つ者になるのです。

 苦難と慰めが、希望の人を生み出すのです。



 あなたの番です→
 □苦しみと弱さの真っ只中で、神の慰めを体験しましょう。
 □あなたは誰かを慰めるために生まれた。
 □自分を頼まず、神により頼む。そこに希望が生まれる。