「若葉のメッセージ」シリーズ6回目、最終回の今回は聖霊によって歩むことを考えましょう。信仰の確信を持って歩み続けるには御霊による歩みが不可欠です。自分の努力や真面目さでクリスチャン生活は維持できません。
1、聖霊なしにクリスチャン生活は不可能
最初に聖霊についての基本情報を確認します。聖霊は三位一体の第3位格。聖霊は神です。(マタイ28:19、第2コリント13:13、使徒5:3~4)聖霊は人格を持つお方です。(ヨハネ16:8、16:13)
旧約のヘブル語で聖霊はルーアハ、ギリシア語ではプニュウマ、パラクレートスで、日本語では、聖霊、御霊、助け主、慰めぬし、英語では、ホーリースピリット、カウンセラー、弁護者などと訳されます。
聖霊なしにクリスチャン生活を送ることは不可能です。小説家の太宰治は、おのれのごとく隣人を愛せよという主イエスの言葉が自分の苦悩の原因だと言いました。マタイ伝を読むのに3年かかったとも書いています。彼が、一般人に混じり礼拝の中で聖書を聞いたなら、謙虚に主イエスを信じたなら、ヨハネ伝を詳細に読み聖霊を知ったなら、悲劇的な幕切れは避けられたかもしれません。
2、聖霊の働き
聖霊は、私たちが信仰を持つはじめから終わりまで密接に関わる神です。私たちが信仰告白するときにも、罪を認めるときにも、聖化のプロセスを歩むときも、救いの確信を得るときにも、聖霊はそのすべての行程で私たちと共におられます。以下の聖書箇所を開いて確認してください。
①信仰を持つことを助ける
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(第1コリント12:3後半)
②信じた者が神を父と呼べるようにする
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)
③私たちの内に住む
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(第1コリント3:16)
④天国が与えられることの保証
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」(エペソ1:14)
⑤聖化の歩みを助ける
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3:18)
⑥御霊の実を結ぶ原動力 (ガラテヤ5:22~23)
⑦主イエスをあかしする力 (使徒1:8)
3、聖霊によって歩む
パウロは聖霊を良く知っていました。ローマ7章で罪との壮絶な戦いを語った後、8章で聖霊について述べるというパウロの思想の流れは十分に理解できます。聖霊だけが、罪と失敗に満ちた人間の希望であり、慰めであり、支えであり、友であり、実際的な力だからです。
①御霊は弱い私たちを助け、とりなしてくれる
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26~27)
「助けてくださいます」と書いてありますが、この言葉は共に担うとか、代わりに負うという意味です。「ほむべきかな、日々、私たちのために、重荷をになわれる主」(詩68:19)という詩篇のように、聖霊が日々私たちの重荷を共に、あるいは代わりに負ってくださるのです。それで、クリスチャンとして歩み続けることができるのです。
アメリカに住む男性は、案外友達がいません。日本から地理的に遠く離れたこともあるし、今さら友情作りも面倒という人が多いのです。聖霊が親友のようにして私たちの心に住んでくださるということは本当にありがたいことです。
哲学者アリストテレスは、「友情とは、ふたつの身体の中にあるひとつの魂のことである」と言いました。至言ですね。イギリスの小説家オスカー・ワイルドは「真の友人は正面から刺す」と言いました。他人は私たちのことを真剣に考えないのでいい加減に聞き流しますが、親友は直言できる存在です。聖霊は、私たちの弱さを知り、ズバリと罪を指摘し、私たちの繰りごとにあきることなく耳を傾け、悩みをともに背負い、悲しむとき共に悲しみ(エペソ4:30)、私たちが祈れないときに代わりに祈ってくれる存在なのです。
②自分の力や悟りでなく、御霊によって歩む
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
自分の努力と熱意でクリスチャン生活をせよと聖書は言いません。御霊によって歩めと勧めます。御霊によって歩むということを、噛み砕いて以下に書きました。これなら、日常生活で生かすことができますね。
さあ、あなたの番です。今週、御霊によって歩みましょう。
・カウンセラーである聖霊と相談する
・弁護士である聖霊の助言に従う
・コーチである聖霊の声を聞き、自分を鍛え、道を選ぶ
・助け手である聖霊から力をもらいチャレンジする
・きよめ主である聖霊から罪の指摘と恵みのシャワーを受ける
・親友である聖霊を喜び、いつも心にとどめる
・慰め主の聖霊との会話にほっとし、慰めを受ける
・神である聖霊をあがめ、感謝する
新しい自分になることを恐れてはいけません。私たちの心に住む聖霊を生涯の友として大切にし、友情をはぐくみましょう。
このシリーズで学んできたことを土台にして、揺るがない信仰生活を送りましょう。
ファミリーの温かさ ヨハネ20:24~29
「若葉のメッセージ」シリーズの第5回目。教会の交わりにとどまること、それが救いの確信を持ち続ける秘訣です。
自分の信仰が、不十分、弱い、だめだ、ぐらつく、と感じるときこそ、クリスチャンの仲間から離れてはいけません。
1、決して信じません
イエスが十字架にかかったのが金曜日。翌日が土曜、次の日が日曜。その日曜の夜のことです。弟子たちは自分たちも捕らえられることを恐れて、エルサレムのある家で息を潜めて集まっていました。主イエスが突然部屋に現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(ヨハネ20:19)主イエスは、その手とわきばらの傷あとを見せ、弟子たちは喜びにあふれました。
ところが、そこにトマスだけがいなかったのです。(ヨハネ20:24)こういう人があなたのそばにもいますね。乗り遅れてしまう人。
トマスがひよっこり顔を出すと、他の弟子たちは、「私たちは主を見た。」(25節)と言うのです。笑顔満面で、「すごいぞ、イエスさまはよみがえったんだ。見たんだ。会ったんだ。触ったんだ。話したんだ。イエスさまは生きてる。ハレルヤ!」という感じです。
人間とは不思議な生き物で、人が喜ぶと、自分は落ち込むものです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とトマスは叫んだのです。
「決して信じません」これはトマスの本心ですか。
そもそもトマスは、他の弟子が集まった日曜の夜、いったいどこにいたのでしょう。聖書には書いてありません。想像するしかないのです。ヨハネ11:16の言葉にヒントがあるかもしれません。
主イエスと親しくしていたラザロが死んだという知らせを受け弟子達一行が出かけようとした時、トマスは仲間の弟子に言いました。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16)
トマスは、事態を深刻に考え、思いつめるタイプ。純粋でまっすぐだが、もろい人。死ぬ場所を探していたかもしれません。主の死を一番悲しんでいたのはトマスだったのかもしれません。
そうだとすれば、「決して信じません」という言葉の裏には、別な気持ちが隠れていることが分ります。私は、誰よりも主イエスの復活を信じたい。でも、今の気持ちは、証拠をはっきり見ないと信じられない。いい加減な気持ちで、復活を受け入れたくない。なぜ、私には現れてくれなかったのですか。
あなたはトマスに似てますか。
救いの確信がゆらぐとき、トマスのように口から言ってしまう人がいます。そう簡単には信じられません。
クリスチャンでない人で、主イエスを心に迎えたい、信じたいと思っている人の中にも、トマスタイプがいます。信じるならきちんと信じたい。
ほめる客は買わないといいます。さすがシャネルだね、いいね、という人は見て帰るだけの客です。これ、少し傷があるんだけと、安くしてくれない、と言う人は価値が分かっていて買いたい人です。信じられないと言う人に、信じたいという気持ちが隠れています。私はそういう人に勧めます。今のあなたで、信じたらいいよ、と。信じない段階では前に進めないのです。信仰は、信じることによってしか成長しません。
2、仲間たち
それから8日後です。当時のユダヤ風に数えると、その日を含めて数えるので、1週間後の日曜日になる。トマスは仲間と一緒にいました。
信じられないと言い捨てただけなら、トマスは自分の家に帰ったことでしょう。まだトマスは12弟子と一緒にいました。これが、大切なのです。クリスチャンの仲間の中にいる、これが重要なのです。
信仰の確信がぐらぐらした人は、教会に留まりましょう。信仰のスランプにいるときは、クリスチャンの仲間の中にいましょう。これが、あなたを支えます。トマスに見習ってください。離れちゃいけません。
他の弟子たちも偉いです。12弟子の一人のくせに、復活は信じないと公言したトマスを仲間として受け入れています。排除しません。
受け入れる仲間、留まるトマス。これが、愛のコミュニティー、ファミリーの温かさです。仲間はトマスのため祈り、励まします。トマスは、主イエスとの出会いを求め、信仰の成長を願います。これが主の教会の姿です。
私たちは、同じ世代のクリスチャン仲間の言葉や姿勢から、大きな励ましを受けるものです。何気ない会話、聖書を読んだ感想、普段していること、信じきった心、苦しみの中で主に従っている姿勢、そういうありふれた姿から力を受けるのです。
私は夢見ます。青年があふれる教会。シニアが喜んで集まる礼拝。幼児を抱えた若いお母さんと子供の礼拝。夫婦が手をつないでやって来る礼拝。会堂が男であふれる男くさい礼拝。同年代がたくさんいる教会となって、多くの人に伝え、多くの人の集う教会になりたいです。
信仰がぐらつくとき、自分が弱ったときこそ離れちゃいけない。賛美の中にいよう。祈り合う中にいよう。聖書を学ぶ場にいよう。奉仕する場にいよう。クリスチャンの交わりに留まろう。
出口がない、袋小路と見えるとき、主イエスはあなたに現れてくださる。ヨハネ20:26「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、『平安があなたがたにあるように。』と言われた。」
主イエスはトマスだけに向き直り、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」(27節)
主イエスを十字架に釘付けたのは私やあなたですが、主イエスは傷の残る手で私たちを招いています。
トマスは、感極まって、「私の主、私の神」と主イエスに伝えた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(29節)と主イエスは言われた。
信じるというのは、自分を信じるのではない。あなたのため、あなたを愛して十字架にかかった主イエスを信じるのだ。信じるという事は、ないものをあるように信じ込むことではない。生きておられる主をそのまま受け入れることだ。信じる人生は、前向きな人生を生み出す。
さあ、あなたの番です。
信仰がゆらいでいる人、教会に留まりましょう。同世代の交わりに自分から出て行きましょう。聖書研究のクラスや、スモールグループの交わりに参加しましょう。なければ、あなたと仲間で週に一度とか、月に一度とか、交わって祈り会う機会を作りましょう。主イエスを求めましょう。信仰の成長を求めましょう。
トマスを受け入れる側のあなたに勧めます。あなたの交わりにいるトマスのために祈りましょう。信仰の前進になる事を共にしましょう。質問に誠実に答えましょう。聖書を一緒に学びましょう。その人を愛しましょう。
受け入れる仲間、留まるトマス、そういう交わりを育てましょう。
自分の信仰が、不十分、弱い、だめだ、ぐらつく、と感じるときこそ、クリスチャンの仲間から離れてはいけません。
1、決して信じません
イエスが十字架にかかったのが金曜日。翌日が土曜、次の日が日曜。その日曜の夜のことです。弟子たちは自分たちも捕らえられることを恐れて、エルサレムのある家で息を潜めて集まっていました。主イエスが突然部屋に現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(ヨハネ20:19)主イエスは、その手とわきばらの傷あとを見せ、弟子たちは喜びにあふれました。
ところが、そこにトマスだけがいなかったのです。(ヨハネ20:24)こういう人があなたのそばにもいますね。乗り遅れてしまう人。
トマスがひよっこり顔を出すと、他の弟子たちは、「私たちは主を見た。」(25節)と言うのです。笑顔満面で、「すごいぞ、イエスさまはよみがえったんだ。見たんだ。会ったんだ。触ったんだ。話したんだ。イエスさまは生きてる。ハレルヤ!」という感じです。
人間とは不思議な生き物で、人が喜ぶと、自分は落ち込むものです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とトマスは叫んだのです。
「決して信じません」これはトマスの本心ですか。
そもそもトマスは、他の弟子が集まった日曜の夜、いったいどこにいたのでしょう。聖書には書いてありません。想像するしかないのです。ヨハネ11:16の言葉にヒントがあるかもしれません。
主イエスと親しくしていたラザロが死んだという知らせを受け弟子達一行が出かけようとした時、トマスは仲間の弟子に言いました。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16)
トマスは、事態を深刻に考え、思いつめるタイプ。純粋でまっすぐだが、もろい人。死ぬ場所を探していたかもしれません。主の死を一番悲しんでいたのはトマスだったのかもしれません。
そうだとすれば、「決して信じません」という言葉の裏には、別な気持ちが隠れていることが分ります。私は、誰よりも主イエスの復活を信じたい。でも、今の気持ちは、証拠をはっきり見ないと信じられない。いい加減な気持ちで、復活を受け入れたくない。なぜ、私には現れてくれなかったのですか。
あなたはトマスに似てますか。
救いの確信がゆらぐとき、トマスのように口から言ってしまう人がいます。そう簡単には信じられません。
クリスチャンでない人で、主イエスを心に迎えたい、信じたいと思っている人の中にも、トマスタイプがいます。信じるならきちんと信じたい。
ほめる客は買わないといいます。さすがシャネルだね、いいね、という人は見て帰るだけの客です。これ、少し傷があるんだけと、安くしてくれない、と言う人は価値が分かっていて買いたい人です。信じられないと言う人に、信じたいという気持ちが隠れています。私はそういう人に勧めます。今のあなたで、信じたらいいよ、と。信じない段階では前に進めないのです。信仰は、信じることによってしか成長しません。
2、仲間たち
それから8日後です。当時のユダヤ風に数えると、その日を含めて数えるので、1週間後の日曜日になる。トマスは仲間と一緒にいました。
信じられないと言い捨てただけなら、トマスは自分の家に帰ったことでしょう。まだトマスは12弟子と一緒にいました。これが、大切なのです。クリスチャンの仲間の中にいる、これが重要なのです。
信仰の確信がぐらぐらした人は、教会に留まりましょう。信仰のスランプにいるときは、クリスチャンの仲間の中にいましょう。これが、あなたを支えます。トマスに見習ってください。離れちゃいけません。
他の弟子たちも偉いです。12弟子の一人のくせに、復活は信じないと公言したトマスを仲間として受け入れています。排除しません。
受け入れる仲間、留まるトマス。これが、愛のコミュニティー、ファミリーの温かさです。仲間はトマスのため祈り、励まします。トマスは、主イエスとの出会いを求め、信仰の成長を願います。これが主の教会の姿です。
私たちは、同じ世代のクリスチャン仲間の言葉や姿勢から、大きな励ましを受けるものです。何気ない会話、聖書を読んだ感想、普段していること、信じきった心、苦しみの中で主に従っている姿勢、そういうありふれた姿から力を受けるのです。
私は夢見ます。青年があふれる教会。シニアが喜んで集まる礼拝。幼児を抱えた若いお母さんと子供の礼拝。夫婦が手をつないでやって来る礼拝。会堂が男であふれる男くさい礼拝。同年代がたくさんいる教会となって、多くの人に伝え、多くの人の集う教会になりたいです。
信仰がぐらつくとき、自分が弱ったときこそ離れちゃいけない。賛美の中にいよう。祈り合う中にいよう。聖書を学ぶ場にいよう。奉仕する場にいよう。クリスチャンの交わりに留まろう。
出口がない、袋小路と見えるとき、主イエスはあなたに現れてくださる。ヨハネ20:26「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、『平安があなたがたにあるように。』と言われた。」
主イエスはトマスだけに向き直り、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」(27節)
主イエスを十字架に釘付けたのは私やあなたですが、主イエスは傷の残る手で私たちを招いています。
トマスは、感極まって、「私の主、私の神」と主イエスに伝えた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(29節)と主イエスは言われた。
信じるというのは、自分を信じるのではない。あなたのため、あなたを愛して十字架にかかった主イエスを信じるのだ。信じるという事は、ないものをあるように信じ込むことではない。生きておられる主をそのまま受け入れることだ。信じる人生は、前向きな人生を生み出す。
さあ、あなたの番です。
信仰がゆらいでいる人、教会に留まりましょう。同世代の交わりに自分から出て行きましょう。聖書研究のクラスや、スモールグループの交わりに参加しましょう。なければ、あなたと仲間で週に一度とか、月に一度とか、交わって祈り会う機会を作りましょう。主イエスを求めましょう。信仰の成長を求めましょう。
トマスを受け入れる側のあなたに勧めます。あなたの交わりにいるトマスのために祈りましょう。信仰の前進になる事を共にしましょう。質問に誠実に答えましょう。聖書を一緒に学びましょう。その人を愛しましょう。
受け入れる仲間、留まるトマス、そういう交わりを育てましょう。
失敗したとき ルカ18:9~14
「若葉のメッセージ」シリーズの4回目です。救いの確信を失うきっかけに、罪の問題があります。
主イエスを信じた。バプテスマも受けた。けれども罪を犯してしまった。こんな自分は教会に行く資格がない、と極端に考えることがある。今日のメッセージは、そんなふうに考えている人へのメッセージです。
主イエスは、パリサイ人と取税人の祈りをたとえ話として教えられました。自分は正しいと思い込み、他人を見下している人がいましたが、そうした人々が自分の間違いに気づくようにとたとえ話をしました。
1、パリサイ人の祈り
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:10~12)
パリサイ人の祈りには二つの特徴があった。
1)他人と比較する
パリサイ人は、神に語りながらも、意識は他人にだけ向いていた。他人との比較は、結局、優越感か劣等感しか生み出さない。パリサイ人は、自分は立派な人間だと自認し、取税人のような詐欺も悪事はしていないと優越感に浸っていた。空腹でつらくても断食し、生活が苦しくても献金の割合は崩さななかった自分を自画自賛し、取税人を見下した。
2)問題的を意識できない
注意してほしい。パリサイ人は他人に聞こえるように大声で祈りを聞かせたのではない。心の中で祈った。そこにパリサイ人の問題の深さが表れている。彼は、本気だった。自分は立派だと疑わずに信じていた。
あなたは、このパリサイ人を非難するかもしれない。けれども、あなたは、パリサイ人に似ていないか。あなたの安心や誇りは、人との比較の産物ではないのか。
2、取税人の祈り
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(13節)
取税人の祈りは、2つの特徴がある。
1)真実な悲しみ
遠く離れて立つ、目を天に上げない、胸をたたく、という姿に、取税人の悲しみが表れている。自分の罪の重さに驚愕し落胆しきっている。
2)罪人である認識
「罪をゆるしてください」と彼は祈ったのか。そうではない。罪人の私をあわれんでくださいと祈った。ここに、深い自己洞察と信仰がにじみ出ている。
個々の罪を深く悔いることはもちろんだ。それらを主の前に差し出した後で、取税人はどうにもならない<自分>に直面した。罪を犯してしまう、弱い自分に気づいた。それで、罪をゆるしてくださいという言葉で終止符とせず、罪人である自分自身を主に差し出した。取り繕わず、人との比較で自己弁護をせず、裸で神の前に出る。これが、悔い改めだ。神は、心砕かれた罪人をさげすむことはない。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)
神のあわれみが、罪を赦し、罪をきよめ、罪人に生きる希望を与えてくれる。取税人は罪人である自分に必要なのは、神のあわれみ以外ないと気づいた。人はみな、神のあわれみをシャワーのようにあびて生きていくのだ。
キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)と呼ばれるラテン語賛美歌はキリスト教の歴史で歌い継がれた最も有名な賛美歌形態であることもうなずける。
ビル・マカートニーはコロラド大学フットボールチームを全国優勝に導いた監督で知られる。若いころクリスチャンになったが、成功するとともに形式的な信仰に陥り、娘が未婚の母になる問題を通して自分の問題点に気づいた。妻や娘との関係も修復し、人生をやり直した。その経験を男性クリスチャンと分かち合い、後にプロミス・キーパーズと呼ばれる運動を創設した。運動はその後拡大、1997年ワシントンDCで記念碑的集会を開催、聖書のメッセージに耳を傾け、全国から集まった何十万という男性たちが大地に跪いて真実に生きることを決意した。
結論です。クリスチャンになっても、罪を犯すことがある。その時、自分は教会に行く資格がないとは考えてはいけない。あなたには、主イエスが必要だ。主イエスのあわれみが不可欠だ。だから、取税人のように、罪人のまま礼拝に出よう。そこで主のあわれみを受けよう。
主はそんなあなたを見捨てず、悔い改めを促しておられる。取税人のように、主の前に立とう。主があきらめないのだから、私たちもあきらめてはいけない。
「わたしは、愛するものをしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(ヨハネ黙示録3:19)
主イエスを信じた。バプテスマも受けた。けれども罪を犯してしまった。こんな自分は教会に行く資格がない、と極端に考えることがある。今日のメッセージは、そんなふうに考えている人へのメッセージです。
主イエスは、パリサイ人と取税人の祈りをたとえ話として教えられました。自分は正しいと思い込み、他人を見下している人がいましたが、そうした人々が自分の間違いに気づくようにとたとえ話をしました。
1、パリサイ人の祈り
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:10~12)
パリサイ人の祈りには二つの特徴があった。
1)他人と比較する
パリサイ人は、神に語りながらも、意識は他人にだけ向いていた。他人との比較は、結局、優越感か劣等感しか生み出さない。パリサイ人は、自分は立派な人間だと自認し、取税人のような詐欺も悪事はしていないと優越感に浸っていた。空腹でつらくても断食し、生活が苦しくても献金の割合は崩さななかった自分を自画自賛し、取税人を見下した。
2)問題的を意識できない
注意してほしい。パリサイ人は他人に聞こえるように大声で祈りを聞かせたのではない。心の中で祈った。そこにパリサイ人の問題の深さが表れている。彼は、本気だった。自分は立派だと疑わずに信じていた。
あなたは、このパリサイ人を非難するかもしれない。けれども、あなたは、パリサイ人に似ていないか。あなたの安心や誇りは、人との比較の産物ではないのか。
2、取税人の祈り
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(13節)
取税人の祈りは、2つの特徴がある。
1)真実な悲しみ
遠く離れて立つ、目を天に上げない、胸をたたく、という姿に、取税人の悲しみが表れている。自分の罪の重さに驚愕し落胆しきっている。
2)罪人である認識
「罪をゆるしてください」と彼は祈ったのか。そうではない。罪人の私をあわれんでくださいと祈った。ここに、深い自己洞察と信仰がにじみ出ている。
個々の罪を深く悔いることはもちろんだ。それらを主の前に差し出した後で、取税人はどうにもならない<自分>に直面した。罪を犯してしまう、弱い自分に気づいた。それで、罪をゆるしてくださいという言葉で終止符とせず、罪人である自分自身を主に差し出した。取り繕わず、人との比較で自己弁護をせず、裸で神の前に出る。これが、悔い改めだ。神は、心砕かれた罪人をさげすむことはない。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)
神のあわれみが、罪を赦し、罪をきよめ、罪人に生きる希望を与えてくれる。取税人は罪人である自分に必要なのは、神のあわれみ以外ないと気づいた。人はみな、神のあわれみをシャワーのようにあびて生きていくのだ。
キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)と呼ばれるラテン語賛美歌はキリスト教の歴史で歌い継がれた最も有名な賛美歌形態であることもうなずける。
ビル・マカートニーはコロラド大学フットボールチームを全国優勝に導いた監督で知られる。若いころクリスチャンになったが、成功するとともに形式的な信仰に陥り、娘が未婚の母になる問題を通して自分の問題点に気づいた。妻や娘との関係も修復し、人生をやり直した。その経験を男性クリスチャンと分かち合い、後にプロミス・キーパーズと呼ばれる運動を創設した。運動はその後拡大、1997年ワシントンDCで記念碑的集会を開催、聖書のメッセージに耳を傾け、全国から集まった何十万という男性たちが大地に跪いて真実に生きることを決意した。
結論です。クリスチャンになっても、罪を犯すことがある。その時、自分は教会に行く資格がないとは考えてはいけない。あなたには、主イエスが必要だ。主イエスのあわれみが不可欠だ。だから、取税人のように、罪人のまま礼拝に出よう。そこで主のあわれみを受けよう。
主はそんなあなたを見捨てず、悔い改めを促しておられる。取税人のように、主の前に立とう。主があきらめないのだから、私たちもあきらめてはいけない。
「わたしは、愛するものをしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(ヨハネ黙示録3:19)
スランプ 第1列王19:1~8
「若葉のメッセージ」シリーズ第3回目は、信仰のスランプについてついてです。スポーツ選手がスランプに陥った話は良く聞きますが、クリスチャンもスランプになります。それが信仰の確信を揺さぶることがあります。
スランプに陥り、死を願った4人の例を見ながら、スランプの原因とその脱出方法を見つけましょう。脱出に導くキーワードは、<出会う>、<気づく>、<分ける>、<休む>、の4つです。
1、大きな災いに遭ったヨブ
7人の息子と3人の娘を一日で失い、財産すべてをなくしたヨブは、神をのろい、生まれなければよかった、つまり死にたいと口にしました。
ヨブ記3:11「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。」
ヨブの場合は、大きな災難がスランプの原因です。悲しみと苦悩の中で、信仰がゆらぐのは理解できます。ヨブは、正しい者が苦しみに遭う不条理を嘆き、神に「なぜですか」と問い続けました。ところが答えは得られませんでした。苦悩の理由を求めても、答えを得ることはできないと私は思います。ヨブは問い続けた質問とは異なる次元で脱出の道を得ました。ヨブのキーワードは、<出会う>です。ヨブはまことの神に出会ったのです。目からうろこが落ちるように、神と出会ったのです。自分が知っていた神は、神のほんの一部だったことに気づきました。
2、願いがきかれないヨナ
自分の願い通りにならないと、へそを曲げ、信仰が揺れてしまう人がいます。あなたが今欲しいものは何ですか、とのアンケートに答え、「変人」と書いた人がいました。「恋人」のつもりが字を間違えたのです。クリスチャンの独身男性が陥りやすい失敗に、<自爆テロ的プロポーズ>があります。「祈って、聖書を読んで分りました。あなたは神のみこころの人です。結婚してください。」こう一方的に言われた女性はたまりませんね。「それは神の御旨ではなく、あなたのおこころでしょう」と言ってやりましょう。
ヨナは紀元前700年代の預言者でしたが、自分勝手な男でした。アッシリヤの首都ニネベを救うためにメッセージを語れと神に命じられ、俺はいやだとばかりに反対方向を目指して船で逃げ出した預言者です。嵐の海で魚に飲み込まれ、その中で悔い改め、ニネベに出向き、3日で滅ぼされるから悔い改めよと町中で語りました。その結果、王様を含めて皆が悔い改め、町は救われたのです。
願いがきかれなかったのを見てヨナは、腹を立て、勢いにまかせて俺を殺せと息巻いたのでした。
ヨナ書4:3「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
脱出のためのキーワードは、「気づく」です。自分のわがままに気づくことは大切な人生のレッスンです。願いがきかれないことを通して、自分の本当の姿に気づくことは重要です。その時、神の忍耐やあわれみにも気づくのです。
3、責任の重さにつぶされたモーセ
モーセは、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数12:3)と言われる指導者です。偶像礼拝をした民を神の怒りから救おうと自分の命さえ投げ出した人物です。(出エジプト32:32)エジプトから民を導き出し、シナイ山で十戒を頂き、幕屋を作り終えた頃、人々がエジプトを思い出し、肉が食べたい、にんにくやスイカが食べたいと不平をもらしました。それを聞いたとき、モーセは死を願いました。張り詰めた糸が切れたのです。このわがままな人々を連れて歩くのには耐えられない。死んだほうがいい。モーセのスランプの原因は責任の重さでした。
民数記11:15「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」
脱出の鍵は、<分ける>です。民数記11:17で主は、モーセの霊を民の指導者に分けるよう勧めておられます。
あなたの重荷を誰かと分かち合いましょう。分けることは恥でもないし、弱さでもありません。一人で抱え込むと、あなたもつぶれ、あなたの周囲の人も被害を受けます。分けることは、人生の智恵です。奥さんに話しましょう。夫に話しましょう。仲間に話して祈ってもらいましょう。支えてもらいましょう。重荷を少し持ってもらいましょう。
4、疲れたエリヤ
炎の預言者エリヤは、バアルの神と預言者との戦いに疲れ切り、豪雨の中を走り下り、陰の権力者イゼベルに命を狙われて、力尽きました。
第1列王19:4「主。もう十分です。私のいのちを取ってください。」
スランプの原因に覚えがないという人は、蓄積疲労が原因として考えられます。寝てない。休んでない。疲れすぎて、頭も回転しない。体は不調だし、悪いことばかり考える。早く寝なければと思っても、眠れない。
神はエリヤを責めません。エリヤに食べさせ、ゆっくりと寝かせる神でした。神がエリヤに言われ言葉は、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」(第1列王19:7)でした。
信仰のスランプからの脱出法、最後のキーワードは、<休む>です。思い切って休みを取りましょう。いつもより1時間、早く寝ましょう。運動を少しずつ始めましょう。温泉にもつかってみましょう。
あなたは今日、信仰のスランプにいますか。信仰のスランプから脱出するためのキーワードで、あなたに必要なものは以下のどれですか。神と出会う。自分の我がままに気づく。責任を分ける。思い切って休む。
あなたの番です、信仰のスランプの原因を見定め、適切な脱出方法を試みましょう。それも、誰かと祈り合いながら、励まし合いながら。
スランプに陥り、死を願った4人の例を見ながら、スランプの原因とその脱出方法を見つけましょう。脱出に導くキーワードは、<出会う>、<気づく>、<分ける>、<休む>、の4つです。
1、大きな災いに遭ったヨブ
7人の息子と3人の娘を一日で失い、財産すべてをなくしたヨブは、神をのろい、生まれなければよかった、つまり死にたいと口にしました。
ヨブ記3:11「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。」
ヨブの場合は、大きな災難がスランプの原因です。悲しみと苦悩の中で、信仰がゆらぐのは理解できます。ヨブは、正しい者が苦しみに遭う不条理を嘆き、神に「なぜですか」と問い続けました。ところが答えは得られませんでした。苦悩の理由を求めても、答えを得ることはできないと私は思います。ヨブは問い続けた質問とは異なる次元で脱出の道を得ました。ヨブのキーワードは、<出会う>です。ヨブはまことの神に出会ったのです。目からうろこが落ちるように、神と出会ったのです。自分が知っていた神は、神のほんの一部だったことに気づきました。
2、願いがきかれないヨナ
自分の願い通りにならないと、へそを曲げ、信仰が揺れてしまう人がいます。あなたが今欲しいものは何ですか、とのアンケートに答え、「変人」と書いた人がいました。「恋人」のつもりが字を間違えたのです。クリスチャンの独身男性が陥りやすい失敗に、<自爆テロ的プロポーズ>があります。「祈って、聖書を読んで分りました。あなたは神のみこころの人です。結婚してください。」こう一方的に言われた女性はたまりませんね。「それは神の御旨ではなく、あなたのおこころでしょう」と言ってやりましょう。
ヨナは紀元前700年代の預言者でしたが、自分勝手な男でした。アッシリヤの首都ニネベを救うためにメッセージを語れと神に命じられ、俺はいやだとばかりに反対方向を目指して船で逃げ出した預言者です。嵐の海で魚に飲み込まれ、その中で悔い改め、ニネベに出向き、3日で滅ぼされるから悔い改めよと町中で語りました。その結果、王様を含めて皆が悔い改め、町は救われたのです。
願いがきかれなかったのを見てヨナは、腹を立て、勢いにまかせて俺を殺せと息巻いたのでした。
ヨナ書4:3「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
脱出のためのキーワードは、「気づく」です。自分のわがままに気づくことは大切な人生のレッスンです。願いがきかれないことを通して、自分の本当の姿に気づくことは重要です。その時、神の忍耐やあわれみにも気づくのです。
3、責任の重さにつぶされたモーセ
モーセは、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数12:3)と言われる指導者です。偶像礼拝をした民を神の怒りから救おうと自分の命さえ投げ出した人物です。(出エジプト32:32)エジプトから民を導き出し、シナイ山で十戒を頂き、幕屋を作り終えた頃、人々がエジプトを思い出し、肉が食べたい、にんにくやスイカが食べたいと不平をもらしました。それを聞いたとき、モーセは死を願いました。張り詰めた糸が切れたのです。このわがままな人々を連れて歩くのには耐えられない。死んだほうがいい。モーセのスランプの原因は責任の重さでした。
民数記11:15「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」
脱出の鍵は、<分ける>です。民数記11:17で主は、モーセの霊を民の指導者に分けるよう勧めておられます。
あなたの重荷を誰かと分かち合いましょう。分けることは恥でもないし、弱さでもありません。一人で抱え込むと、あなたもつぶれ、あなたの周囲の人も被害を受けます。分けることは、人生の智恵です。奥さんに話しましょう。夫に話しましょう。仲間に話して祈ってもらいましょう。支えてもらいましょう。重荷を少し持ってもらいましょう。
4、疲れたエリヤ
炎の預言者エリヤは、バアルの神と預言者との戦いに疲れ切り、豪雨の中を走り下り、陰の権力者イゼベルに命を狙われて、力尽きました。
第1列王19:4「主。もう十分です。私のいのちを取ってください。」
スランプの原因に覚えがないという人は、蓄積疲労が原因として考えられます。寝てない。休んでない。疲れすぎて、頭も回転しない。体は不調だし、悪いことばかり考える。早く寝なければと思っても、眠れない。
神はエリヤを責めません。エリヤに食べさせ、ゆっくりと寝かせる神でした。神がエリヤに言われ言葉は、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」(第1列王19:7)でした。
信仰のスランプからの脱出法、最後のキーワードは、<休む>です。思い切って休みを取りましょう。いつもより1時間、早く寝ましょう。運動を少しずつ始めましょう。温泉にもつかってみましょう。
あなたは今日、信仰のスランプにいますか。信仰のスランプから脱出するためのキーワードで、あなたに必要なものは以下のどれですか。神と出会う。自分の我がままに気づく。責任を分ける。思い切って休む。
あなたの番です、信仰のスランプの原因を見定め、適切な脱出方法を試みましょう。それも、誰かと祈り合いながら、励まし合いながら。
救いの豊かさ 第1ヨハネ3:2~3
救いの確信を持てない典型的な例として、<感情に土台を置く信仰>の誤りを先週説明しました。本日は、「若葉のメッセージ」シリーズ第2回目として、救いの豊かさをお話しします。
生まれたばかりの赤ちゃんがこう言ったとします。「オギャー、僕は、絶望しています」「どういうことだい。説明しておくれ」「だって、私は、皆様のような一般常識も教養も挨拶の仕方すら知りません。この世の中で立派な大人として生きていく自身が持てないのです」こんなことはあり得ませんが、クリスチャンは同じようなことを自分に当てはめています。時には、まだクリスチャンになっていない人まで、同じようなことを考えています。言い直してみましょうか。「私は信仰の確信が持てません。なぜなら、マザー・テレサやキング牧師、賀川豊彦のような立派なクリスチャンになっていないからです。もうこのへんで、クリスチャンを引退したいと思います。」
こういう人への診断結果をお伝えします。あなたは、義認と聖化と栄化を混同しているのです。
今日は、組織神学の用語3つを取り出して、救いの豊かさを説明します。その3つとは、義認と聖化と栄化です。聖書が教える救いを、時間の経過を横軸にして説明したものと考えれば分かりやすいですね。救いは、瞬時で完結します。それと共に、長い時間をかけて成熟していく要素があるのです。
1、義認
主イエスを信じたときに瞬間的に起きます。罪人の私たちが、罪のない正しい人として認められることです。普通、救いという呼ぶは、このことを指します。義認の土台は、先週お話したように、イエス・キリストの十字架の事実です。私たちの身分が変化したのです。
ローマ5:8~9「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが彼によって神の怒りから救われるのは、なおされのことです。」
ローマ4:5~8「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」
私たちは、イエス・キリストと同じきよさや正しさを持つ者として認定されました。これは、神の大きな恵みです。
2、聖化
クリスチャンが、主イエスに似た者に変えられること。信じた瞬間に起こることではなく、その後の人生で徐々に変化する。義認は立場の変化を意味しますが、聖化は内面の変化です。
橋の下で寝泊りする孤児が王様の息子と判明したという場合を想定しましょう。その少年は、王宮で生活するようになっても、王子のような立ち振る舞いはできません。けれども、2年、5年とたつうちに、王子の風格も出てきます。同じことが私たちにも起きています。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を言える人になる、正しく生きようと思う、人を愛そうと願う、きよさを求める、これらは聖化のプロセスが始まっていることを意味します。
第2コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なら主の働きによるのです。」
義認が主イエスの十字架に土台を置くなら、聖化は聖霊の働きに土台を置きます。聖霊に導かれて、聖霊の助けにより、私たちは日々に変えられるのです。
聖化というプロセスは、罪の自覚に始まり、深い悔い改めに導かれ、主イエスの十字架を信仰を持って見上げるというパターンを取ることが多いものです。「私はクリスチャンとしては落第だ」、「私は偽善者だ」、「私はきよくない」、「また同じ罪を犯してしまった」、このように自分に絶望し、内面的に破綻した者であると自覚すること、これらは、私たちがキリストに似るためになくてはならない、近道ができない大切なプロセスなのです。ローマ5:20の言葉は、聖化の恵みを教える聖句です。
内村鑑三は日本を代表するクリスチャンですが、アメリカ留学中の若き日に自分の罪深さに悩んでいました。アマースト大学のシーリー学長は内村に次にように言いました。
あなたは愚かな農夫のようだ。種をまいて、芽が出たかどうかと毎日掘り返すようなことはしないだろう。あなたにはキリストの命が与えられている。内なる罪を見ることをやめ、十字架上であなたの罪を贖いたもうた主イエスを仰ぎ見よ。
ローマ5:20「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
以下の聖句は、聖化を願う心を与えて下さるのは神であり、それを成し遂げて下さるのも神であると教えています。
ピリピ2:12~13「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」
あなたの番です。あなたも聖化のプロセスをまっすぐに進んで行きましょう。
・あなたは、イエスさまのようになりたいですか。
・どんな分野で変えられたいと願いますか。
・あなたが避けるべき事はどんな事ですか。
・あなたが選ぶべきアクションは何ですか。
・もっと主イエスを知るために何をしたらよいですか。
・愛の人になりたいですか。
・正しく生きる人になりたいですか。
・誘惑に負けない人になりたいですか。
聖化の大きな助けになるのは、<スクラム成長法>です。
ラグビーで、スクラムを組んで試合が再開される場面があります。一人では、立ち向かえなくてもスクラムを組んで力を集中すると大きな力がでます。それと同じです。クリスチャンの仲間と、2人とか3人とかの最少単位から始めて、定期的に集まり、祈りあい、語り合い、聖書を開き、励まし合うという交わりが、あなたの聖化を助けます。何でも話せる仲間がいる時、あなたは本気で悔い改めることができます。
いいですか、教会という交わりの中は、鼻水と涙とが一緒になって、ごめんなさいと言う人を尊敬する場所なのです。その人を赦して、僕らも同じだよ、と言って抱きしめる場所なのです。
3、栄化
栄化は、私たちが死んで、主イエスに出会う時に起きます。瞬間的です。主イエスと同じ栄光の姿に完全に変えられます。
第1ヨハネ3:2~3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者になることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
神と直接語ることをゆるされたモーセは、その顔が栄光に輝き、イスラエルの人々は光り輝くモーセの顔に驚いたと記されている。(出エジプト記34:35)それと同じように、私たちも主イエスと会うその日、栄光の姿に変えられ、完全にきよめられた聖なる者となっとなるのです。(エペソ5:25~27)それゆえに、私たちは自分の弱さに立ちすくむことはせず、栄化の約束を信じて、この地上の歩みを続けるのです。
年老いた宣教師夫妻が船に乗り、宣教地から故郷のアメリカに帰ることになりました。外遊中の大統領一向が途中で乗船しました。アメリカの港に着くと、大勢の人が大統領を迎えに出ていました。その賑やかな様子を見て宣教師は妻に言いました。「私たちは、故郷に帰って来たのに誰の迎えもないね」奥さんは言いました。「あなた、私たちは、まだ故郷に帰っていないのよ」
そうです、私たちも本当の故郷天の国に帰る旅を続けているのです。主イエスの姿に変えられる旅を聖霊の助けをいただきながら進みましょう。
生まれたばかりの赤ちゃんがこう言ったとします。「オギャー、僕は、絶望しています」「どういうことだい。説明しておくれ」「だって、私は、皆様のような一般常識も教養も挨拶の仕方すら知りません。この世の中で立派な大人として生きていく自身が持てないのです」こんなことはあり得ませんが、クリスチャンは同じようなことを自分に当てはめています。時には、まだクリスチャンになっていない人まで、同じようなことを考えています。言い直してみましょうか。「私は信仰の確信が持てません。なぜなら、マザー・テレサやキング牧師、賀川豊彦のような立派なクリスチャンになっていないからです。もうこのへんで、クリスチャンを引退したいと思います。」
こういう人への診断結果をお伝えします。あなたは、義認と聖化と栄化を混同しているのです。
今日は、組織神学の用語3つを取り出して、救いの豊かさを説明します。その3つとは、義認と聖化と栄化です。聖書が教える救いを、時間の経過を横軸にして説明したものと考えれば分かりやすいですね。救いは、瞬時で完結します。それと共に、長い時間をかけて成熟していく要素があるのです。
1、義認
主イエスを信じたときに瞬間的に起きます。罪人の私たちが、罪のない正しい人として認められることです。普通、救いという呼ぶは、このことを指します。義認の土台は、先週お話したように、イエス・キリストの十字架の事実です。私たちの身分が変化したのです。
ローマ5:8~9「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが彼によって神の怒りから救われるのは、なおされのことです。」
ローマ4:5~8「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」
私たちは、イエス・キリストと同じきよさや正しさを持つ者として認定されました。これは、神の大きな恵みです。
2、聖化
クリスチャンが、主イエスに似た者に変えられること。信じた瞬間に起こることではなく、その後の人生で徐々に変化する。義認は立場の変化を意味しますが、聖化は内面の変化です。
橋の下で寝泊りする孤児が王様の息子と判明したという場合を想定しましょう。その少年は、王宮で生活するようになっても、王子のような立ち振る舞いはできません。けれども、2年、5年とたつうちに、王子の風格も出てきます。同じことが私たちにも起きています。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を言える人になる、正しく生きようと思う、人を愛そうと願う、きよさを求める、これらは聖化のプロセスが始まっていることを意味します。
第2コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なら主の働きによるのです。」
義認が主イエスの十字架に土台を置くなら、聖化は聖霊の働きに土台を置きます。聖霊に導かれて、聖霊の助けにより、私たちは日々に変えられるのです。
聖化というプロセスは、罪の自覚に始まり、深い悔い改めに導かれ、主イエスの十字架を信仰を持って見上げるというパターンを取ることが多いものです。「私はクリスチャンとしては落第だ」、「私は偽善者だ」、「私はきよくない」、「また同じ罪を犯してしまった」、このように自分に絶望し、内面的に破綻した者であると自覚すること、これらは、私たちがキリストに似るためになくてはならない、近道ができない大切なプロセスなのです。ローマ5:20の言葉は、聖化の恵みを教える聖句です。
内村鑑三は日本を代表するクリスチャンですが、アメリカ留学中の若き日に自分の罪深さに悩んでいました。アマースト大学のシーリー学長は内村に次にように言いました。
あなたは愚かな農夫のようだ。種をまいて、芽が出たかどうかと毎日掘り返すようなことはしないだろう。あなたにはキリストの命が与えられている。内なる罪を見ることをやめ、十字架上であなたの罪を贖いたもうた主イエスを仰ぎ見よ。
ローマ5:20「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
以下の聖句は、聖化を願う心を与えて下さるのは神であり、それを成し遂げて下さるのも神であると教えています。
ピリピ2:12~13「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」
あなたの番です。あなたも聖化のプロセスをまっすぐに進んで行きましょう。
・あなたは、イエスさまのようになりたいですか。
・どんな分野で変えられたいと願いますか。
・あなたが避けるべき事はどんな事ですか。
・あなたが選ぶべきアクションは何ですか。
・もっと主イエスを知るために何をしたらよいですか。
・愛の人になりたいですか。
・正しく生きる人になりたいですか。
・誘惑に負けない人になりたいですか。
聖化の大きな助けになるのは、<スクラム成長法>です。
ラグビーで、スクラムを組んで試合が再開される場面があります。一人では、立ち向かえなくてもスクラムを組んで力を集中すると大きな力がでます。それと同じです。クリスチャンの仲間と、2人とか3人とかの最少単位から始めて、定期的に集まり、祈りあい、語り合い、聖書を開き、励まし合うという交わりが、あなたの聖化を助けます。何でも話せる仲間がいる時、あなたは本気で悔い改めることができます。
いいですか、教会という交わりの中は、鼻水と涙とが一緒になって、ごめんなさいと言う人を尊敬する場所なのです。その人を赦して、僕らも同じだよ、と言って抱きしめる場所なのです。
3、栄化
栄化は、私たちが死んで、主イエスに出会う時に起きます。瞬間的です。主イエスと同じ栄光の姿に完全に変えられます。
第1ヨハネ3:2~3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者になることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
神と直接語ることをゆるされたモーセは、その顔が栄光に輝き、イスラエルの人々は光り輝くモーセの顔に驚いたと記されている。(出エジプト記34:35)それと同じように、私たちも主イエスと会うその日、栄光の姿に変えられ、完全にきよめられた聖なる者となっとなるのです。(エペソ5:25~27)それゆえに、私たちは自分の弱さに立ちすくむことはせず、栄化の約束を信じて、この地上の歩みを続けるのです。
年老いた宣教師夫妻が船に乗り、宣教地から故郷のアメリカに帰ることになりました。外遊中の大統領一向が途中で乗船しました。アメリカの港に着くと、大勢の人が大統領を迎えに出ていました。その賑やかな様子を見て宣教師は妻に言いました。「私たちは、故郷に帰って来たのに誰の迎えもないね」奥さんは言いました。「あなた、私たちは、まだ故郷に帰っていないのよ」
そうです、私たちも本当の故郷天の国に帰る旅を続けているのです。主イエスの姿に変えられる旅を聖霊の助けをいただきながら進みましょう。
救われているのかな 第1ヨハネ5:13
これから6回シリーズで「若葉のメッセージ」をお届けします。基本テーマは救いの確信です。クリスチャンでありながら自分の信仰に確信が持てないという人に、私は出会ってきました。それも何人もです。驚きというか、残念というか、せっかく神から頂いた救いです、もったいないですよ。しっかりと自分の信仰に確信を見出してほしいと思います。
「若葉のメッセージ」というシリーズ・タイトルは、イエスさまを信じて、若葉が出たばかりの人が大きく豊かに成長してほしいとの願いを込めて名付けました。効果的な学びのためには、1対1での学びをお勧めします。
1、あなたの信仰自己チェック
以下の質問に答えて下さい。
1)あなたは、主イエスを救い主として信じましたか?
はい・いいえ
2)はいの人だけに質問します。あなたは、今日死んでも天国に行ける確信がありますか。 はい・いいえ
3)その理由は何ですか?はいの場合もいいえの場合もお答え下さい。
いいえと答えた人は、だいたい3つの理由が考えられます。
(1)罪を犯してしまうから
(2)理想的なクリスチャンに程遠いから
(3)今日の気分として無理だと思う
聖書の教える救いについて部分的にしか知らずに、自分は基準に達しないと勝手に結論を出しているので、確信が持てなくなります。
2、救いの確信を与える聖句
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(第1ヨハネ5:13)
ヨハネが生きていた時代にも、確信を持てないクリスチャンがいたことがこの聖句からうかがい知ることができます。ちょっと、ほっとしますね。
あなたがイエスを神の子と信じているなら、聖句の後半部分は間違いなくあなたに適応されます。ためしに、<あなたがた>という部分にあなたの名前を入れて声に出して読んでみましょう。山田太郎という名前で読むことにしましょう。「神の御子の名を信じている山田太郎に対してこれらのことを書いたのは、山田太郎が永遠のいのちを持っていることを、山田太郎たによくわからせるためです。」良く分かりましたか。
このようにして、あなたの救いの確信を聖書の言葉に置くことが大事なのです。聖書に書いてあるから、私は救われているといえるのです。
3、救いの確信に満ちている聖書
聖書は多くの箇所で、人が救いを確実に受け取れると保証しています。たいていは、救いの条件とその結果が明瞭に記されています。条件とは、主イエスをただ信じること、その結果とは以下に記された救いの様々な要素です。これらが私たちのものになるのです。以下に、主イエスが直接語られた救いの様々な概念を書き出しました。
1)あなたの罪は赦された マルコ2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、
「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
2)新しく生まれた ヨハネ3:3
「まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
3)天国に行ける ルカ23:43
「まことに、あなたに告げます。
あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
4)永遠の命がある ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
5)神の子となった ヨハネ1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
4、救いの確信の土台はどこに?
キャンパスクルセードの『4つの法則』に汽車の絵が掲載されています。左側には機関車、その次に石炭車、最後に客車の順で並んでいます。この順番が大事です。機関車部分が事実を表し。石炭車は、その事実を信じることが信仰であることを表し。客車部分は、その結果として心の中に生じるものが感情であると教えています。この逆は不可です。感情という客車で機関車を引っ張ることはできないのです。
日本人は、グリーンカードかビザかアメリカ市民権を取るかのいずれかをしなければアメリカに居住し労働することはできません。あなたが合法滞在であるという事を証明するものは何でしょう。あなたの気分ですか。違います。移民局なり法務局などにある書類があなたの身分を保証します。
同様に、私たちが天国に行ける保証は、私たちが真面目だとか、礼拝に毎週行くだとか、立派なクリスチャンになったとか、そういうレベルのことではないのです。人間がどれだけ正しい行いをしたとしても、神の基準からすれば標準以下です。かなり訓練して泳げる人でも、ドーバー海峡を渡るくらいが限度で、カリフォルニアから東京まで泳いで渡れる人がいないのと同じです。
あなたが天国に行けることを保証するものは、あなたの外にあります。
イギリスを暴力革命から救ったと歴史家がその活動を評価するジョン・ウェスレーは、アルダスゲイト街で1738年、信仰による義という真理に目覚めました。その直後、ドイツを訪問しモラビア派のクリスチャンに会い、その理解を深めたました。クリスチャン・ダヴィッドは以下のようにウエスレーに言いました。
「(義認)の正しい土台は、あなたの悔いた心でもなく、あなたの義でもなく、すなわち、あなたに属する何物でもなく…………。それは、あなたの外にあるもの、すなわち、キリストの義と血のことです。」
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
救いの土台は私たちの感情になく、十字架の事実にあるのです。
クリスチャンなら、みことばに土台を置いて救いの確信をしっかりと自分のものしましょう。あなたは救われています。主イエスが十字架でその保証をしているのです。
クリスチャンでない人なら、イエスさまを信じましょう。信じるだけで救われるというこの素晴らしい救いをあなたのものにしてください。
確信を持っているクリスチャンは、確信を持っていないクリスチャンと定期的に会って、救いの確信を持てるように聖書を学び、励ましてください。
「若葉のメッセージ」というシリーズ・タイトルは、イエスさまを信じて、若葉が出たばかりの人が大きく豊かに成長してほしいとの願いを込めて名付けました。効果的な学びのためには、1対1での学びをお勧めします。
1、あなたの信仰自己チェック
以下の質問に答えて下さい。
1)あなたは、主イエスを救い主として信じましたか?
はい・いいえ
2)はいの人だけに質問します。あなたは、今日死んでも天国に行ける確信がありますか。 はい・いいえ
3)その理由は何ですか?はいの場合もいいえの場合もお答え下さい。
いいえと答えた人は、だいたい3つの理由が考えられます。
(1)罪を犯してしまうから
(2)理想的なクリスチャンに程遠いから
(3)今日の気分として無理だと思う
聖書の教える救いについて部分的にしか知らずに、自分は基準に達しないと勝手に結論を出しているので、確信が持てなくなります。
2、救いの確信を与える聖句
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(第1ヨハネ5:13)
ヨハネが生きていた時代にも、確信を持てないクリスチャンがいたことがこの聖句からうかがい知ることができます。ちょっと、ほっとしますね。
あなたがイエスを神の子と信じているなら、聖句の後半部分は間違いなくあなたに適応されます。ためしに、<あなたがた>という部分にあなたの名前を入れて声に出して読んでみましょう。山田太郎という名前で読むことにしましょう。「神の御子の名を信じている山田太郎に対してこれらのことを書いたのは、山田太郎が永遠のいのちを持っていることを、山田太郎たによくわからせるためです。」良く分かりましたか。
このようにして、あなたの救いの確信を聖書の言葉に置くことが大事なのです。聖書に書いてあるから、私は救われているといえるのです。
3、救いの確信に満ちている聖書
聖書は多くの箇所で、人が救いを確実に受け取れると保証しています。たいていは、救いの条件とその結果が明瞭に記されています。条件とは、主イエスをただ信じること、その結果とは以下に記された救いの様々な要素です。これらが私たちのものになるのです。以下に、主イエスが直接語られた救いの様々な概念を書き出しました。
1)あなたの罪は赦された マルコ2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、
「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
2)新しく生まれた ヨハネ3:3
「まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
3)天国に行ける ルカ23:43
「まことに、あなたに告げます。
あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
4)永遠の命がある ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
5)神の子となった ヨハネ1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
4、救いの確信の土台はどこに?
キャンパスクルセードの『4つの法則』に汽車の絵が掲載されています。左側には機関車、その次に石炭車、最後に客車の順で並んでいます。この順番が大事です。機関車部分が事実を表し。石炭車は、その事実を信じることが信仰であることを表し。客車部分は、その結果として心の中に生じるものが感情であると教えています。この逆は不可です。感情という客車で機関車を引っ張ることはできないのです。
日本人は、グリーンカードかビザかアメリカ市民権を取るかのいずれかをしなければアメリカに居住し労働することはできません。あなたが合法滞在であるという事を証明するものは何でしょう。あなたの気分ですか。違います。移民局なり法務局などにある書類があなたの身分を保証します。
同様に、私たちが天国に行ける保証は、私たちが真面目だとか、礼拝に毎週行くだとか、立派なクリスチャンになったとか、そういうレベルのことではないのです。人間がどれだけ正しい行いをしたとしても、神の基準からすれば標準以下です。かなり訓練して泳げる人でも、ドーバー海峡を渡るくらいが限度で、カリフォルニアから東京まで泳いで渡れる人がいないのと同じです。
あなたが天国に行けることを保証するものは、あなたの外にあります。
イギリスを暴力革命から救ったと歴史家がその活動を評価するジョン・ウェスレーは、アルダスゲイト街で1738年、信仰による義という真理に目覚めました。その直後、ドイツを訪問しモラビア派のクリスチャンに会い、その理解を深めたました。クリスチャン・ダヴィッドは以下のようにウエスレーに言いました。
「(義認)の正しい土台は、あなたの悔いた心でもなく、あなたの義でもなく、すなわち、あなたに属する何物でもなく…………。それは、あなたの外にあるもの、すなわち、キリストの義と血のことです。」
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
救いの土台は私たちの感情になく、十字架の事実にあるのです。
クリスチャンなら、みことばに土台を置いて救いの確信をしっかりと自分のものしましょう。あなたは救われています。主イエスが十字架でその保証をしているのです。
クリスチャンでない人なら、イエスさまを信じましょう。信じるだけで救われるというこの素晴らしい救いをあなたのものにしてください。
確信を持っているクリスチャンは、確信を持っていないクリスチャンと定期的に会って、救いの確信を持てるように聖書を学び、励ましてください。
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