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詩篇72:1~20 正義と愛の王


 詩篇72篇は、理想の王がどんな人物かを教えてくれます。

1、ソロモン王

詩篇第二巻の基本テーマは、神が選ばれた都エルサレム、神が選ばれた王のダビデでした。それで第二巻が終了した印として、「ダビデの祈りは終わった」(20節)と書かれています。第三巻は、レビ人で聖歌隊の指導者であるアサフの歌になります。

 紀元前970年頃、ソロモンは父ダビデの後を継いで王となりました。神はギブオンにおいて若きソロモンに現れ、「あなたに何を与えよう」と言われ、ソロモンは「善悪を判断して、あなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」(第1列王記3:9)と答えました。


2、真の王

 歴史を振り返れば分かるように、人々が強い国になることを望むなら、独裁者がリーダーに選ばれます。経済成長を大衆が望むなら、ビジネスの成功者が指導者になります。その場合、力やお金が優先されるので指導者の誠実さや正義は問題になりません。

 神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。
彼があなたの民を義をもって、あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。
(詩篇72:1~2)

詩篇72篇は、正義と公正さが、真の王の資質だと語ります。(1、2節)それと同時に、まことの王は、貧しい者や悩める者に寄り添い、救い出すと述べています。(4、12、13、14節)

彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、
しいたげる者どもを、打ち砕きますように。
彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、あなたを恐れますように。(4~5節)

 真の王は国内だけでなく、世界の各地の貧しい者悩む者にも手を伸べるので、王の支配は遠く地中海の西のスペインのタルシシュ、東はチグリス、ユーフラテス川(8節)にまで届き、南はアラビヤ半島のシェバやセバにまで及びます。

 タルシシュと島々の王たちは贈り物をささげ、
シェバとセバの王たちは、みつぎを納めましょう。
こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。
これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。(10~12節)

 ソロモン王はその優れた洞察力や知恵によって諸外国に知られるようになり(第1列王記4:29~34)、各地の王たちが貢物を携え謁見を求めました。シェバの女王の訪問は特に有名です。(第1列王10:1~10)ソロモンは領土を最大化し、経済面でも繁栄をもたらしました。けれども、世界の王、永遠の王にはなれませんでした。絢爛豪華な宮殿と神殿を建設し強大な武力を誇りましたが、国民は重税と重労働に苦しんでいたのです。

 正義と優しさ。その二つを兼ね備える王はいないのです。

 そうした経緯から、詩篇72篇は、まことの王、メシアの預言と理解されました。主イエスこそ、完全な正義で世界を治める方だからです。
 72篇は詩篇第二巻の最後の詩篇であり、18~19節は神をたたえる頌栄になっています。

 ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。
とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。
その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。(18~19節)

 正義と優しさを兼ね備える真の王は、主イエスだけです。
 主イエスは、姦淫の場で捕えられた女性に対して、律法の正義に従い彼女に石を投げて処刑することを認めましたが、罪のない者から投げよと命じられたので誰も石を投げることができず、主イエスは彼女の罪を赦しました。正義を立てながら、愛が成立しました。

 マルチン・ルーサーキング牧師は1956年1月、深夜に一人起きていました。バス・ボイコット運動の責任者となり、ストレスフルな毎日を送っていた26歳の時、脅迫電話で起こされ、眠れなくなってキッチンでコーヒーを沸かしました。できれば、この運動の責任者から卑怯者と言われずに身を引く道を考えました。そして、コーヒーカップを抱えこむようにして真摯に祈ったのです。神よ、私は正義を行おうとしてますが、私は弱いし、くじけてしまいそうです、と。
 その祈りの中で、若いキング牧師は生涯を一変させるような神の栄光に触れました。神からの語りかけがその時ありました。正義のために立て、と神からの励ましの声を聞きました。もう一人ではないと分かったのです。

 私たちの番です。日本のリーダー、アメリカのリーダー、国々の指導者たちが、神の正義と神の愛をもって政治を行えるように私たちが祈りましょう。

 また、私自身も、今週、正義と愛を実行できる人になりましょう。
 未熟な正義は人を批判するだけで終わります。勇気に裏打ちされ、主イエスと共なる歩みをするなら、成熟した正義を行えます。

 →あなたの番です
  □国々の指導者が、正義と優しさを実行できるように祈ろう
  □今週、正義と優しさを実行できる者になろう

詩篇71:1~24 生まれてからずっと


 詩篇71篇は、あなたの赤ちゃんの時の写真を見ながら、読んでほしい詩篇です。

1、若い頃からずっと

主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。
あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。
あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。(1~2節)

 おそらく71篇を書いた人は、年配の人です。敵に苦しめられ、試練に巻き込まれ、「主よ。私はあなたに身を避けています」と神に頼る様子が全篇にわたって書かれています。
 作者は、試練の中で、自分の生まれた日に思いを馳せ、若い日々を思い出し、年老いた今も、神の義に信頼し、賛美を続けています。

神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。
私は生まれたときから、あなたにいだかれています。
あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。
私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。
私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。(5~8節)

あなたのアルバムを開いて下さい。最初のページには、あなたが生まれた時の写真があるはずです。じっとその写真を見つめて下さい。あなたの両親はまだ若く20代や30歳代です。親たちの喜びが写真から伝わってくるはずです。神も、あなたの誕生を喜び、両親と一緒にあなたを抱き上げたのです。そして、その日以来、ずっとあなたを抱き、支え、守り、導いてこられたのです。「私は生まれたときから、あなたにいだかれています」とある通りです。
私も自分のアルバムを開いてみました。古い白黒の小さな写真に、赤ちゃんの私がいます。眉毛の濃い、ぷっくらした顔です。父母の若い頃の姿も残っていました。愛してくれてありがとう、産んでくれてありがとう、育ててくれてありだとう、という気持ちになります。71篇を読み、改めて、あの時から神の手にいだかれていたと気づきました。

 若い頃、私たちは、あきれるような失敗をします。結局は、親や先輩に助けられて窮地を脱したはずです。そのような苦しい時、私たちは神を信頼することを学びます。それで、神が希望となり、神が信頼の的になったのです。

 あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、
地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。(20節)

 人生の「多くの苦しみと悩み」は、神のお許しの中で私たちに与えられたものです。それによって私たちは鍛えられ、自分の罪を悟り、人の痛みが分かる人に変えられます。
 それと同時に、神は、私たちが試練の中から再び立ち上がれるようにして下さいます。倒れて、再び立ち上がることなしに、赤ちゃんは歩くことを学べません。神は、再生の神ですから、私たちのやり直しをヘルプして下さいます。

 礼拝の出席者に尋ねてみると、死にかけた経験のある人が何人もいました。生まれてすぐに血液全部を入れ替えた人、交通事故で死にかけた人、プールで心臓が止まり電気ショックで意識が戻った人、手術が遅れたら死んでいた脳出血の人、などがいました。あなたも、「多くの人にとっては奇蹟」と思えるような人生だったかもしれません。

あなたの人生を振り返って主を賛美しましょう。赤ちゃんの時、子供の時、若い頃を振り返って主の守りを改めて感謝しましょう。私たちは、神に愛されています。神にいだかれています。神に守られています。


2、年老いた時も変わらず
人は誰もみな歳を重ねますが、社会は年配者をじゃまものにしたり、見捨てたりする傾向にあります。でも神は違います。神はけっして老人を見捨てません。

年老いた時も、私を見放さないでください。
私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが
共にたくらんでいるからです。
彼らはこう言っています。
「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕えよ。救い出す者はいないから。」
神よ。私から遠く離れないでください。
わが神よ。急いで私を助けてください。(9~12節)

 「神は彼を見捨てたのだ」(11節)と敵は悪口を言いました。若い頃から神を信頼していた詩人は、「年老いた時も、私を見放さないでください」(9節)と願いました。

 1888年兵庫で芸者の子供として生まれた男の子がいました。出生のゆえに何度もいじめられました。父も母も亡くなり、お金も尽きた時、彼は川で死のうと考えました。近くを通りかかった教会の青年、森茂さんが声をかけてくれ、身の上話を聞いてくれました。「生まれて来なかったほうが良かった」と少年が言うと森さんは「神さまは、決してお見捨てにならないよ」と優しく励ましてくれました。方向性を得た彼は洗礼を受け、スラムで貧しい人を助け、共同組合を作り、関東大震災で救済活動を行い、戦後の混乱期に活躍し、日本人初のノーベル平和賞候補になりました。賀川豊彦です。神は、お見捨てにならないという言葉が賀川を支えたのです。

 私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。(9節)


3、今までも、これからも、どんな時も賛美する

年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、
後に来るすべての者に告げ知らせます。
神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。
神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。(18~19節)

 「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。」(18節)試練で苦しみ敵に悪口を言われても、71篇の作者は神に信頼し、年配者の役割を認識しました。神の力と神の素晴らしさを「次の世代」に伝える役割があると悟ったのです。
 子供たちや孫たちの世代に、あなたの経験した神の素晴らしさを伝えましょう。子供や孫の世代に、主の素晴らしさを話して聞かせましょう、文章に書いて残しましょう、資金面で応援し、祈りで支えてあげましょう。
 
 71篇全体を貫いているもの、神の愛への応答としての賛美です。試練で出口が見えなくても、若い時も、歳老いても、賛美するのです。

私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを。イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。
私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。
また、あなたが贖い出された私のたましいも。
私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表わしましょう。
それは彼らが恥を見、私を痛めつけようとする者どもがはずかしめを受けるからです。
(22~24節)

 人生を振り返りましょう。そして、主を賛美しましょう。
  主は、あなたが生まれた時に抱きかかえてくれました。今も同じです。
  主は、失敗の多かった若い頃も、共にいてくださいました。
  主は、私たちが年老いて白髪になって、弱った時も、見捨てません。
  主は、試練で私たちを鍛え、優しい人に変え、立ち上がらせて下さいます。

年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、
後に来るすべての者に告げ知らせます。(18節)

 →あなたの番です
  □主は、赤ちゃんの時からずっと私を抱きしめてくださった
  □今も、年老いても、ずっと主に信頼し、賛美を続けます

詩篇70:1~5  主よ、急いでください


 えっ!コピーペースト?
 詩篇70篇は、詩篇40篇13~17節とほぼ同じです。何か意味があるのでしょうか。

1、急いで助けて

1 神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。
2 私のいのちを求める者どもが、恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き卑しめられますように。
3 「あはは。」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のためにうしろに退きますように。
4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。
5 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。

 まず、詩篇70篇の内容を見ていきましょう。
 (2節)敵に苦しめられて命の危険を感じています。
 (3節)敵に笑われ、恥を受けています。
 (4節)主を愛する人には喜びや楽しみが来るように祈っています。
 (5節)自分の悩みと貧しさを痛切に感じています。
 (1、5節)急いでください、遅れないで下さいと神に懇願しています。

まるで、ボクシングの試合で、なぐられてもひるまず、観衆に笑われても真剣に戦う選手のようです。いっそ倒れてしまったほうが楽なくらいです。
「苦しいです」、「辛いです」、「笑われています」、「主よ遅れないで下さい」と言える事が、試合を放棄してない印になります。それが、主を信頼し続けている証拠なのです。

あなたは、今、詩篇70篇のような状態ですか。

ちょっとかっこ悪いかもしれないけど、「苦しいです」、「笑われています」、「急いでください」と主に言い続けましょう。それは、主に信頼している人しかできない事なのです。


2、大きな視点で見ると

コピーペーストの意味を、詩篇全体の構成から考察してみましょう。
40篇は詩篇第1巻の終わりから2つ目の詩篇です。70篇は第2巻の終わりから3つめの詩篇に当たります。詩篇の編集者が意図的に各巻終わり直前に同じテーマを挿入した、と考えることができます。そして、各巻最後の詩篇は力強い賛美で完結し、アーメン、アーメンと結んでいます。そうなると、第3巻の終わりから2番目の詩篇88篇も気になりますが、やはり苦難の中で神を求める詩篇の次にまとめの詩篇が配置されています。
8回シリーズのテレビドラマで、7回目に主人公カップルが破綻して、仕事も私生活も壊滅状態に陥るのに似ています。

詩篇40篇と詩篇70篇が同じなのは、ベートーヴェンの交響曲第五番のジャジャジャジャーンと同じです。詩篇40篇と70篇で苦悩のテーマが繰り返されているのです。私たちの人生は苦悩と恥が形を変えながら繰り返されます。神私たちの抱えている苦悩に寄り添い続けてくれることを示すために、詩篇40篇と70篇が配置されていると私には思えるのです。

 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。
 あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。(5節)

いかに問題が大きくとも、自分が貧しくとも、状況がすぐに良くならなくても、あせらない、投げない、祈るのを止めない。それが大事なのです。神は頑張っているあなたを知っています。あなたを支えています。あなたと共に歩いて、出口に導いてくれます。

神に遅刻はありません。

人から見ると遅れに見えても、神の目にはright on timeです。

「もしおそくなっても、それを待て。
 それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク書2:3)

会堂管理人のヤイロは、瀕死の娘のいやしを主イエスに依頼し、一緒に家に急いで帰りました。その途中に現れた女性によって時間を大幅に取ってしまいました。早く、早く、とヤイロは心で願いましたが、家からやって来た使用人が無情にも娘の死を告げました。遅かった。主イエスは「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:36)とヤイロを励まし、ついに、死んだ娘をいきかえらせました。

ラザロが死にかけた時も思い出して下さい。主イエスは急ぎませんでした。その結果ラザロは死に、姉妹のマルタは遅れて来た主イエスを厳しく責めました。その前に主イエスは「この病気は死で終わるものだけではなく、神の栄光のためのものです。」(ヨハネ11:4)と言われた通りに、ラザロを墓から呼び出されました。

私たちの主に遅れはないのです。


→あなたの番です
 □どんな事が起きても、主に助けを求め続けよう 
 □神に遅刻はない