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マルコ14:66~72 鶏が二度鳴く前に

   痛恨の失敗。それは、体も心も世間体も人生もバラバラにするほど辛いですが、最も大切な事柄を学べる宝のような体験にもなり得ます。
 今日は、ペテロが主イエスを3度否んだ場面を見ていきましょう。

1、一度目

ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。(66~68節)

女中はペテロをまじまじと見つめました。ペテロには、女中の鋭い視線が痛かったでしょう。女中は、「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」(67節)と言いました。それを聞いてペテロは、とぼけました。「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」(68節)

 「あのナザレ人」という言い方には、嘲笑、侮蔑の気持ちが込められています。現代風に言えば、まさか、あんたはクリスチャンじゃないよね。奇跡や復活なんて現代社会で信じているやつは、よっぽどの間抜けだな。そう誰かに言われて、自分がクリスチャンだと言えないなら、ペテロを笑えません。
 
 笑いものになるのが怖いので、自分の信仰をうやむやにする。それが、主イエスを否定するきっかけになります。

 クリスチャンで宮内庁の高官という方がおられました。皇室との関わり、神道の伝統、その中でクリスチャンとして歩むことはさぞ困難でしょうと問われると、彼はこう答えました。「そうです。中途半端なキリスト教では守っていくのは難しいです。でも、本当に熱心なキリスト教信仰ならば、貫くことは難しくはありません。」

キリスト者であるという旗印を鮮明に掲げましょう。


2、二度目

すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。(69~70節)

女中は近くの人に言わずにおられません。「この人はあの仲間です。」(69節)ペテロは再び打ち消しました。

 女中一人ならなんとかやり過ごせました。でも、複数の男たちが女の話を聞き始めたのでペテロは恐ろしくなりました。火に当たっていた人々は、主イエスをさげすむ人々だったので、ペテロは窮地に追いやられました。

私たちが主イエスを否定するようになる第二のきっかけは、自分が少数派になった時です。

 →「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)



3、三回目

しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。(70~71節)

女の話を聞いた複数の男たちが、ペテロの存在に気づきました。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」(71節)あなたはあの男といっしょにいた。間違いない。ガリラヤなまりの言葉が動かぬ証拠だ。

ヨハネの記述によると、ペテロに耳をそぎ落とされた人の親戚がそこにいたようです。(ヨハネ18:26)この場を収拾するには非常に強く否定するしかありません。リビングバイブルは71節をこう訳しています。「そんな男のことなんか、知るもんか。これがうそなら、どんなばちが当たってもかまわないぞ」のろいをかけるとは、そういうことです。

主イエスを否定する第三のきっかけは、自己保身です。



4、鶏の声

するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(72節)

ペテロは数時間前に何と言っていたか思い出しましょう。

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)
ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)

ペテロはみごとに失敗しました。

大好きで、尊敬してやまない、どこまでもついて行きたい主イエスを、3度も否定したのです。あれだけ見栄を切ったのに、自分のふがいなさに激しく泣いたことでしょう。

ところで、4つの福音書の成り立ちは、マルコの福音書が最初に書かれ、それを参考にマタイやルカが独自の視点でまとめ、かなり時間がたった後それまでの福音書に取り上げられてない部分をヨハネが補ったと考えられます。4つの福音書全部が記録している部分は案外少なく、バプテスマのヨハネ、5000人の給食、ゲッセマネの祈りやピラトの裁判、主イエスの十字架などが共通する部分です。
それ以外では、ペテロのつまづきの予告とペテロが3度イエスを否むという箇所が福音書4つに共通している箇所なのです。主イエスの福音を記録するとき、ペテロの失敗はどうしても詳細に書かなければならない重大事項なのです。それは、ペテロの失敗が、ペテロ一人の失敗ではなく、弟子の誰にとっても身に覚えるのあることで、また、聖書を読む人すべてに当てはまる弱さだからです。
主イエスは、そんな弱さのあるペテロを見捨てず、赦し、愛し、励まし、再び立ち上がらせました。これこそ、福音が人を生かす実例なのです。主イエスが私たちに伝えたい大切なメッセージなのです。
あなたは弱い。そんなこと最初から分かっている。あなたを強くするのはわたしだ。名前の通りの「ペテロ=巌」にするのはわたしだ、と主イエスは言っておられるのです。

ある中学1年の男子は、夏に主イエスを自分の救い主として信じました。お母さんが筋金入りの気合の入った信仰者だったので、年末になると。「あんた、クリスチャンになったんやったら元旦礼拝やろ。お父さんと勝負してきいや」と言いました。それまでは、父親が長男を連れて初詣にお寺や神社に行くのが、その家のならわしでした。
「僕は、夏の教会のキャンプで、クリスチャンになる決心をしました。だから、悪いけど、明日はお寺でなくて、教会の礼拝に行きたいです。」「お前は俺が育てているんだ。成人したら何を選んでもええ。けど、今は俺の言うことを聞け」少年の目からぽろぽろ涙が出ました。主よ、何と言ったらいいのですかと祈りながら精一杯言いました。「僕は生まれて初めて自分で決めました。間違った信仰なら引きづり戻しても構わないけど、今僕が信じたこと、自分が決めたことを信頼してくれへんか」
お父さんは、しばらく黙りました。そして、「行ってええぞ」と言ってくれました。後で聞いたことによると、「あいつが本気で俺に勝負してきた。それが嬉しかった」とお父さんがお母さんに言ったそうです。

あなたも、本気で勝負しませんか。

→あなたの番です。
□笑われても、主のしもべとして生きていこう
□少数派になっても、主を愛していこう
□自分にマイナスになろうとも、誠実に生きよう
□主イエスは、弱い私を必ず立ち上がらせてくださる

「わたしは、あなたの信仰がなくらならいように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

マルコ14:53~65 主イエスの裁判

裁判とは、真実は何かを明らかにする場であるはずです。でも、主イエスの裁判はそうではありませんでした。

1、深夜の裁判 (53~59節)

大祭司の家で主イエスの裁判が行なわれました。大祭司カヤパのしゅうとアンナスによる予備的な取調べはすでにこのとき終了していました。(ヨハネ18:12~24)
ユダヤの最高決議機関、兼、裁判所をサンヘドリンがこの夜、臨時に召集されました。議員定数は70人、祭司や律法学者、長老たちが主な構成員で、議長は大祭司でした。ミシュナーのサンヘドリンに関する規定には、夜の裁判と大祭司の家で裁判は禁止されていました。大祭司たちは主イエスの支援者や群集による騒ぎを恐れ、死刑を急いだからでしょう。

ペテロは、一度は主イエスを見捨てて逃げましたが、ヨハネの道案内で(ヨハネ18:15)大祭司の庭に入って主イエスの様子を伺っていました。

この裁判は不当でした。なぜなら、判決が先に決まっていたからでした。「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。」(55節)

裁判とは名ばかりで、死刑という結論ありきで、理由付けの場に過ぎませんでした。多くの人が偽証し、主イエスは死刑に値すると語りましたが、辻褄が合いません。議員たちは知識階級なので、矛盾した理屈で判決を下すのには自尊心が許しませんでした。

ひどい裁判だと誰もが思います。でも、私たちも似たようなことをします。あの人が何となく嫌いだと結論を出してから、悪い理由をあげつらいます。
もう少し、公正な立場を取って、人と接してみませんか。



2、沈黙する勇気 (60節)

ひどい偽証が出てきても、どんなに自分が不利な立場に立たされても主イエスは一切口を開かず、弁明しようとしません。大祭司が何か話せと強く挑発しても主イエスは黙っておられました。
イザヤの預言の言葉を思い起こします。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)

ペテロが後に手紙を書いたとき、主イエスの沈黙に特に注目しています。
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第1ペテロ2:23)

沈黙には力があります。正しくさばかれる方にお任せしたときの沈黙はとても強いものです。悪の饒舌さは、正義の沈黙に勝てません。
あなたも、正しいからこそ、沈黙を守るときがあるかもしれません。



3、語る勇気 (61~65節)

そこで、大祭司は最後の切り札を使いました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」(63節)

主イエスはこう答えました。
「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(62節)

「わたしは、それです」と訳されていますが、ギリシア語で ego eimi となっています。英語に直訳すれば、I amになります。この言い方は、出エジプトで神がご自身の名をモーセに教えたI am that I am(出エジプト3:13~14)と同じことになるので、大祭司は猛烈に怒ったのです。ありてある者、ご自分の存在が他に依存しないお方、それは神以外ほかにはおられないのです。主イエスはまことの神、まことの救い主です。ハレルヤ。
ステパノが殉教するとき、神の右の主イエスを見ていました。(使徒7:56)

主イエスは、どんなに自分に不利な状況でも、私だ、と言われました。それを言えば死刑だと分かっていても、はっきりと、私だと言われた方です。

1942年6月26日、横浜ホーリネス教会の菅野鋭牧師は治安維持法違反の容疑で逮捕され、厳しい取調べを受けました。聖書によればすべての人は罪人というが、相違ないか、との質問を受け、菅野先生は、相違ありませんと答えました。天皇陛下も罪人かとの問いに、一国民が陛下に関して云々することは畏れ多いことですが、陛下が人間であるならその通りです、と答えました。天皇陛下も主イエスの十字架による罪のあがないが必要かとの問いにも、その通りですこと答えました。
菅野牧師は1943年12月に獄死しました。肺結核でした。菅野先生は、主イエスの後に従う誠実な信仰者だったといえます。

主イエスは、裁判で真実を言う勇気をお持ちでした。その答えが何を意味するか十分覚悟の上での発言でした。十字架の道をまっすぐに進む覚悟でした。


大祭司は、主イエスの答えを聞いてそれ見たことかと大げさに自分の着物を引き裂き、冒涜罪での死刑を議場に求めました。自分を神の子と言ったぞ。メシヤと表明したぞ。父なる神と自分を同格に置き、神の右に座すと言った。雲に乗って来るとまで言った。これは、明らかに冒涜だ。死刑に値する。
議員たちは、無批判に大祭司に同調し、死刑を決めました。その場にいた人々は主イエスに暴力を振るい、主イエスをはずかしめました。

そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当てて見ろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。(マルコ14:65)

弱い者を標的にしていじめるのは子供ばかりではありません。私たち大人も、寄らば大樹の陰とばかりに、多数派に寄りかかり弱者を苦しめることがあります。
主イエスを辱めた人々は、実は私たちの姿です。卑怯ないじめをしてきた私たちの罪をゆるすために、主イエスはその罰を受け、いじめられる者の一人となられたと考えることもできます。


→さあ、あなたの番です。
□時を見極め、勇気ある沈黙を選ぶ
□胸を張ってキリストをあかしする
 □いじめに加担せず、先入観から離れて人と接する



マルコ14:51~52  ある青年の記録

1、ある青年がしたこと

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(マルコ14:51~52)

 主イエスがゲッセマネの園で逮捕された時、十二弟子は蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。主イエスが大祭司のところに連れて行かれる途中、一人の青年がその後をつけました。周囲の人は、この青年も主イエスの仲間だと気づき捕らえようとしました。身の危険を感じた青年は駆け出しましたが、身に付けていた亜麻布が邪魔になり、それを脱ぎ捨てて裸になって逃げたのです。

 それだけの出来事です。実に唐突に書かれています。他の福音書には見当たらないマルコ独自の記録です。


2、記録に残った謎

 さて、この青年は誰なのでしょう。そして、この短い記述は福音書に記録するだけの値打ちがあるのでしょうか。

 「イエスについて行ったところ」(51節)と書いてあるので、主イエスを信じ尊敬していた事に間違いはありません。けれども初心貫徹はなりませんでした。
この青年を笑いの種にする目的で書いたのでしょうか。あり得ません。主イエスのもとから逃げ出した十二弟子は例外なく全員がみっともなかったはずです。


この出来事の性質上、自分から打ち明けなければ誰にも知られない話です。青年が自分からこの話をしたとしか思えません。
また、この人物を匿名にしたいなら「ある人物」と書けばよいのですが、「青年」と書きました。かえってその人物が誰なのか絞り込めるようにしています。匿名にしながら、むしろ素性を明らかにしているという両面性があります。
 
 そこで、この青年が誰か、一番の可能性は、著者のマルコ自身になります。マルコの住まいがエルサレムにあったこと。(使徒12:12、1:13~15、「二階の広間」マルコ14:15)青年だったこと。マルコの福音書が最初に書かれたのに、他の福音書がこの記事をあえて省いたこと。この出来事が唐突なこと。それらが、青年がマルコであったという高い蓋然性を示しています。


3、マルコの心

 この記事が書かれた理由は推測するしかありまえん。ただ、はっきり言えることは、マルコがこの記事を書かねばならないと思っていたことです。

 青年の行動は、誰に迷惑をかけたわけではない。誰かが傷ついたわけでもない。でも、青年は知っています。私は、主イエスを見捨ててしまった。最後まで主イエスについて行くことができなかった。後悔とみじめさ、自責の念。それらが、この数行に凝縮されています。

 マルコは自分の汚点をしっかりと記録に残したかったのでしょう。誰から言われたわけでもなく、自発的に書きました。自分の失敗を認める自発性。それは尊い、勇気ある行為です。
 マルコは、言い訳を一つも書いていない。事実だけを書いた。それが悔い改めの原点です。逃げ出した事実を書いただけですが、このみじめな事実を書けること自体が、この失敗を乗り越えているという印です。

 オランダ人の画家、レンブラントも同じようなことをしました。十字架に掛かる主イエスの絵の下のほうに、時代考証に反したベレー帽の男を描いています。主イエスを十字架にかけたのは私だと言いたいのでしょう。映画「パッション」を監督したネル・ギブソンも、手のひらに釘を打つ場面で自分の手を大写しにして使いました。それも同じ意味です。
 パウロも、「私はその罪人のかしらです」(第1テモテ1:15)と言い切りました。

 あなたにもあるはずです。裸で逃げた夜が。みっともない失敗のこと。主イエスを裏切るような行動があったはずです。

マルコは、「ある青年」の出来事をまるで暗号のようにして聖書に記録しました。同じ経験をした人にだけ分かる暗号です。
主イエスは、「裸で逃げた経験」を用いて、あなたをきよめ、あなたを愛のある人にし、謙遜にさせてくれるとマルコは言いたいのでしょう。

あなたや私のみっともない事柄を全部公にしなさいなどとは言っていません。そういう経験を暗闇に葬るのでなく、大切に取り扱いましょう。「裸で逃げた経験」は主イエスの愛とあわれみを体験するための注ぎ口になります。裸で逃げた経験が大きければ大きいほど、主の愛を受ける注ぎ口は広くなります。だから、大切にしましょう。うなだれても、胸をたたいて、主イエスのもとに行きましょう。主イエスも、あなたが裸で逃げた経験を知っていても、あなたを見捨てることはありません。

「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)


 あなたの番です。
 □あなたにとって「裸で逃げた経験」とは何ですか。
 □「裸で逃げた経験」を見つめ、主イエスの愛を味わいましょう。

マルコ14:43~50 人生道路でのアクシデント

   信号で停車しているとき、後ろから追突されたらどうしますか。怒鳴り散らしますか。パニックになって泣きますか。友達に電話をかけまくりますか。茫然自失、座り込んで何も言えなくなりますか。

今日は、主イエスが逮捕される場面です。ユダは、主イエスは、弟子たちは、それぞれどんな対応をしたのでしょうか。

1、口づけで裏切るユダ

そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。(マルコ14:43~47)

ユダは、今だと思ったのです。主イエスがゲッセマネの園で長時間祈ると察知しました。それで、大祭司のもとに行き、ゲッセマネで捕まえろと指示しました。
夜も深まり木立の暗がりでは顔の判別は不可能です。誰が主イエスかを教える手段をユダが考えつきました。

「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」(44節)

この時のユダは、グループの首謀者のように動いています。しくじるなよ、しっかりと捕らるんだ。俺の合図を見逃すなと言っているようです。

裏切るときは事務的に実行するものです。自分の心を覗いてしまうと、躊躇するからです。

あなたがユダになる、そんな場面は来ないと思います。でも、もし、罪の誘惑が来たときは、あなたの良心に目隠しをしてはいけません。冷酷で、事務的になってはいけません。心が痛いという感覚を大事にしましょう、魂のアラームに耳を傾けましょう。



2、毅然と立ち向かう主イエス

イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」(48~49節)

主イエスの周囲には、違う風が吹いていました。
主イエスは、実に冷静でした。私は強盗ではないから、剣や棒をもって捕まえに来る必要はないと言われました。また、毎日神殿で教えていたのだから、そこで捕まえたほうが簡単だったはずだとも指摘されました。

「わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。」捕まえに来た群衆は明かりを持って来ていたので、主イエスは自分を縛る人たちの顔を見ることができました。主イエスは、「あなたがた」と言っておられます。突然のアクシデント、最悪の事態になった時にも、相手の一人一人に目と留める余裕をお持ちでした。
あなたは、敵の目が見えますか。相手の顔が見えているなら、あなたは大丈夫です。

「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」(49節)

父に祈った主イエスは、準備が完了していました。父なる神のみこころが分かっていたので、こんなにも冷静に毅然としておられたのでしょう。私たちも、祈りの中で主の助けをもらいましょう。
箴言の次の言葉は、ちょっと不思議な言葉です。事態がどうなっているか冷静に分析しただけのように見えますが、私たちは納得します。「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(箴言24:10)主イエスのように毅然とできないなら、私たちは弱いのです。
主イエスのように、祈って備えることができていないなら、アクシデントの真ん中で主の助けを求めましょう。
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)



3、逃げ出す弟子たち

すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。(50節)

弟子たちは、主イエスが逃げられるように、自分たちに敵を引き付け、さあ、逃げてくださいと叫ぶこともできました。この逮捕は不当だと強く抗議することも可能でした。最後の方法は、私も捕まえろ、私も主イエスについていくという手段も取れました。

でも、何もせずに、逃げました。ペテロだけは剣を取り出し、あわてて防戦しました。(ヨハネ18:10)ペテロの狙いはそれて致命傷にはならず、耳を切り落としただけでした。被害者は大祭司のしもべでした。

実は、剣はもう一つあったのです。ルカ22:38によると、剣は二本でした。ヤコブかヨハネが持っていたのかもしれません。でも、剣は鞘から抜かれることはありませんでした。剣を抱えていた弟子は後で強く悔やんだはずです。結局、10人全員が逃げてしまいます。自己保身。やはり自分が一番大事だったのです。

私たちは弟子たちを裁けません。同じ失敗をする可能性があるのです。

主イエスは、弟子たちを責めていません。怒ったり、叫んだりしません。主イエスは知っておられたのです。弟子の弱いことを。同時に、主イエスは信じておられたのです。この失敗は、失敗で終らない。必ず、立ち上がる日が来ると。

オランダにハンス・モンダーマン(Hans Monderman, 1945-2008)という交通分野の技術者がいて、Shared Spaceという概念を提唱し、実行に移した方がいました。オランダのある地域で信号機、交通標識を取り払い、歩道との段差をなくし、センターラインも停止線も消しました。その結果どうなったでしょう。車の運転手は、歩行者や自転車に乗る人の顔を見るようになり、交通事故が激減したそうです。実績が評価され、ヨーロッパの他の地域でも導入されるようになりました。

人生という道路では、交通事故が起きます。ユダのように誰かを裏切って、傷つけることがあります。自分は悪くないのに、人にぶつけられることもあります。道義的にはそこに残るべきなのに、自己現場から逃げ出すようなこともします。
身近な人の顔をよく見ましょう。ごめんなさいを言い、ありがとうを伝え、自分の力不足を感じたときは主の御顔を見上げましょう。人生という道路で事故が起きたとき、落ち着いて事後処理ができるように、普段から祈り、備えていましょう。

→あなたの番です
□アクシデントが起きたとき、あなたの真価が問われます
□主イエスに最後までついていきましょう
□あなたを信じて何も言わない主イエスの御顔を心に刻みましょう

マルコ14:32~42 ゲッセマネで

  悲しみの人、主イエスの最も苦悩に満ちた祈り、ゲッセマネの祈りに心を向けましょう。
 
世界的に有名な指揮者の小澤征爾は、音楽作品の9割が悲しいとか暗いという要素を持っていて、その悲しさが人間の共感を呼ぶという趣旨のことを語っています。
また、黒人奴隷として生まれ育ったフレデリック・ダグラスによると、奴隷が歌うのは悲しい時だけだったとその体験から述べています。
悲しみや暗黒が慰めを与えてくれる。そういうことがあるのでしょうか。

1、悲しみを表わせる正直さ

ゲッセマネとは、「油しぼり」という意味です。オリーブの木が多数植えられていた付近に主イエスと弟子達が入って行きました。もう夜です。ユダは祭司長のもとに向かったので、弟子は11人。そのうち8人の弟子が「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい」(32節)と命じられました。この命令は、外敵に注意を払うという役割なのかもしれません。

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。(33節)
そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(34節)

 主イエスというお方は、正直な方なのだと私は思います。悲しい時は、悲しいと言える。死にそうに辛いと素直に言える。主イエスは、建前で生きている人ではなく、最初からずっと、率直で、正直な方だったのです。
 私は、主イエスの苦悩を読んで、ある意味で慰められます。主イエスの肉体は私たちと同じなのだ。主イエスの心は、私たちと同じ弱さをお持ちなんだと。

主が悩むのはなぜでしょう。鞭打ち、屈辱、十字架刑の肉体的苦痛を予想しておられからでしょう。それだけでは、主イエスの恐れを理解したとは言えません。全人類が受ける罰を一身に受ける。その悲惨さは、主イエスだけが理解しておられます。また、父なる神と完全に分離される経験が、どれほどの暗黒かを知っておられのです。

最愛のご主人を失った一人の女性が、墓地に何度も訪ねるうちに、霊園内にあるキリスト像に目が留まりました。そこにあったのは、地にひれ伏して祈る白いキリスト像でした。主イエスの苦悩の姿を見ているうちに、この主イエスを知りたいという願いが起きたそうです。自分から教会を訪れ、やがてクリスチャンになりました。
ひれ伏して祈る主イエスの苦悩の姿は、不思議なことですが、私たちの心をなぐさめてくれます。



2、父さんと呼ぶ祈り

 主の祈りの最初の部分が素直な気持ちで口に出せない人がたまにいます。問題の箇所は、「天にまします我らの父よ」です。父親が飲んだくれや乱暴者で、母親を苦しめ、挙句の果てに蒸発したという父親を持つなら、そういう気持ちは理解できます。
 宗教改革者ルターも厳格な父から罰を受け、父親に対して良いイメージを持てなかったとも言われています。
あなたのお父さんはどんな人ですか。主イエスは、神を父と呼び、最もつらい時に、父なる神を呼び求めました。

それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(35~36節)

 アバとは、当事のユダヤ人が口から発する音で、「お父さん」を意味しますが、小さな子供が呼びかける時に使う、「お父ちゃん」というニュアンスがあります。神を父と呼ぶ。それは、当時のユダヤ人から見れば冒涜行為でした。主イエス独自のユニークな呼びかけでした。
 ローマ8:15では、私たちクリスチャンも御霊によって神を「アバ、父」と呼べると書いてあります。ガラテヤ4:6でも、神の子にされたので「アバ、父」と呼べると説明してあります。

 主の祈りの呼びかけ部分は、ルカ11:2によると、何の修飾語も付かない手「父よ」となっています。放蕩息子も帰って来たときに、「お父さん」(ルカ15:21)と呼びかけて罪の告白をします。

 あなたもちょとやってみませんか。親しみを込めてお父さんと呼ぶとき、あなたは何と呼びますか。その同じ言葉を今、口に出して、神に語りかけて下さい。はい、どうぞ、言って下さい。

 神は、あなたの父親です。あなたに、そう呼ばれることを待っておいでです。



3、みこころを選び取る祈る

 あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(36節)

 主イエスの祈りは、率直でした。振り子のように右に左に揺れる心をそのまま表現されました。あなたも、心にあるものをそのまま出して、祈りませんか。

十字架は、自分で飲み干さなければならない毒の入った杯と同じです。杯は飲みたくない。しかし、父なる神のみこころが何であるか、知っています。主イエスの使命が何であるかを見つめると、「杯」の最後の一滴まで飲み干す覚悟ができるのです。

あなたの番です。遠回りの道。かっこ悪いチョイス。長い間、棚上げにしてきた事。今まで勇気が出なかった事柄。そういうものがありませんか。

あなたの「お父さん」、神は、あなたに何を一番期待しておられるのでしょう。あなたの「お父さん」は、何を楽しみにしておられるのでしょう。
 
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。(36節)



4、目を覚ませ

それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(37~38節)

 私たちは、全員、もれなく弱い。心も弱いし、肉体も弱い。だから、祈りが必要です。

イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(41~42節)

父なる神に何でも祈られた主イエスは、準備が完了し、今、毅然と立っておられます。ゲッセマネに来られた当初と雰囲気が違います。祈りの勝利です。十字架の杯をすでに飲み干されたと言っても過言ではありません。

弱いと自覚しているなら、祈りましょう。
弱いと分かっているなら、誰かに祈りの要請をしましょう。
 祈って下さいと言える人は、祈りの力を知っている人です。
 祈って下さいと依頼できる人は、自分が果たすべき使命を自覚している人です。

あなたの番です。
 □神を、「父さん」と呼んで、祈ってみましょう。
 □あなたにとっての「杯」とは何ですか。それを飲み干しましょう。
 □誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りましょう
 

マルコ14:26~31 私は大丈夫


   「私は大丈夫です」と強がりを言う人が、本当は不安で一杯ということがありますね。

1、強がり

そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。(26節)

エルサレム市内の家で最後の晩餐を終えた主イエスと弟子たちは、賛美しました。裏切りと十字架刑を前にして歌うのです。これが主イエスの賛美です。過ぎ越しの祭りの時に歌う慣わしの詩篇113~118篇を歌ったのかもしれません。

主イエスと弟子たちは外に出ました。過ぎ越しの祭りは毎年満月のすぐ後なので、天気が良ければ月夜です。一行は、城壁を出てケデロンの谷を降り、オリーブ山を上り、ゲッセマネの園を目指しました。

イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。(27節)

旧約聖書ゼカリヤ13:7を引用された主イエスは、12弟子たち全員がつまずき、主イエスを見捨てて散り散りばらばらになると予告されました。

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(29節)

ペテロは、自分の決意の強さを表現しようとしましたが、結果的には、他の弟子はつまづくだろうと口を滑らせます。他の人よりはましという理屈を持ち出して自分を正当化しました。

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」(30節)

まことにあなたがたに告げますという表現は、主イエスが大切なことを語るときの決まり文句で、マルコの福音書に12回使われ、そのうち「あなた」といって個人に向けられたのはこの箇所だけです。主イエスは、ペテロの返答を聞いて、きちんと言っておかなくてはとお考えになったのでしょう。

ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。(31節)

声を荒げる。無謀な約束をする。それが、弱い人の印です。

クリスチャンで、ケンブリッジ大学の文学者、C・S・ルイスは、「最も信頼できないものは、自分に対する信頼だ」と述べています。

あなたは本当の姿は、弱い人ですか。あなたは内側は空虚ですか。

自分の不完全さやもろさに気づく事は、他人に優しくなるためのスタートラインです。自分のありのままの姿を主イエスの視点で見られる人は、外側を飾る必要がなく、謙虚になれます。


2、待っている

「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」(30節)

主イエスは、かなり詳細にペテロの失敗を予告しました。夜明けまでの数時間のうちに失敗する。主イエスを知らないと3回言う。その直後に鶏が2回鳴く。それは、何のためでしょう。ペテロが立ち直るための布石なのです。最初から知っていたよ、それでも、あなたを見捨てないという愛がにじみ出ている言葉なのです。

白浜バプテストキリスト教会の藤藪庸一牧師は、三段壁で自殺者を救出する働きを13年間続けておられ、自殺から救い出した人数は500人を越えました。先代の江見牧師から引き継いだ働きで、社会的にも大きく認められた働きです。
助けた人の話を聞き、食事を与え、宿を提供しても裏切られるという体験もあるはずですが、相談に来た人を100%信じるという基本姿勢を持っておられることは本当に立派だと思います。倒れた人が立ち上がれるように全面支援をされる姿と、主イエスのペテロに対する姿勢に何か不思議な関連があるように私には思えます。

主イエスが言われた言葉に再び目を留めましょう。

しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。(28節)

28節は、主イエスがペテロたちを見捨てないという証しの言葉です。裏切るペテロたちと再会する予定だと言われます。
どんなに口で立派なことを言っても、自分かわいさで弟子たちが失敗してしまうのは分かり切っています。でも、そんなあなたたちを見捨てはしない。復活後に、ガリラヤで会おう、というのが主イエスのメッセージです。

「あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」実際に主イエスが口から発した言葉はもう少し、色や臭いのある言葉でしょう。ガリラヤで待っている、先にいくぜ。そんな雰囲気が漂う場面です。後ろを振り向かずに先に歩き出すような主イエスの姿を、心の目に焼きつけましょう。

主イエスは、弟子たちを育て、弟子達に将来を託しました。過保護とは程遠い、豪快な人材養成法です。

アラバマ州に7歳の女の子がいました。親はその子のわがままに手を焼き、20歳の女性家庭教師を招きました。女の子は、手に触れるものは何でも壊すような子で、食事中び人の皿に手を突っ込み、スプーンを床に投げつけるほどでした。ある日、その家庭教師は、女の子に指導する際にもみ合いになり、取っ組み合いの喧嘩にまでなりました。その晩、自分の部屋に戻った家庭教師は、ベッドに身を投げ出し、思い切り泣きました。でも、心でこう誓ったのです。私が教えることのできる二つの本質的なこと、つまり、服従と愛を彼女が学ぶまで、あの子とまた何度も取っ組み合いをする必要があるでしょう。
この家庭教師がアン・サリバン、女の子がヘレン・ケラー(1880年生まれ)です。2歳ごろの高熱で視力を聴力を失い言葉を学べなかったヘレンは、親が甘やかしたため自己中心で手に負えない子になりました。サリバン先生が、愛を持って教えたおかげで、やがては大学を出て、立派な教育者、社会福祉事業家になりました。

私たちは、大声を出す必要もない、実現不可能な約束をする必要もない、誰かの欠点を指摘して自分を相対的に高める必要もない。今のあなたのまま、主イエスについて行きましょう。

主イエスがあなたを待っている場所はどこですか。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)

あなたの番です。
□強がらず、弱くて空虚な自分の姿を認めましょう
□主イエスは先に行って待っておられます
□主イエスが待っておられる場所に出かけましょう

マルコ14:10~25 裏切る者

あなたは裏切られたことがありますか。
 あなた自身が、誰かを裏切ったことがありますか。
  今日は、重いテーマ、裏切りについて考えてみましょう。

1、ユダの裏切り

 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。(マルコ14:10)  

 十二弟子の一人、ユダは、祭司長のところに出向き、銀30枚と引き換えに主イエスを売り渡すことに心を決めました。悲しいことに、この金額はデナリに換算すると120デンリとなり、ナルドの香油の半分以下の価値しかありません。
 ユダの念頭にあるのは何らかの感傷ではなく、主イエスが確実にそこいいるはずの場所を祭司長たちに伝えることだけでした。

 12~16節には、過ぎ越しの食事場所がどのように手配されたかが記されています。これは、祭司長たちにも、ユダにも、食事場所を知らせないための方策だったのでしょう。

 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」(18節)

 食事の席で主イエスは、十二弟子の誰かがご自分を裏切るとはっきり言われました。弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。(19節)このようなふがいない弟子の姿が記録されたのは、意味があります。ユダと他の弟子たちは、それほど違いがない。聖書を読んでいる私たちとユダとの距離はそれほど離れていない、ということを私たちに警告しているのでしょう。

 ジョージア州シャーウッドバプティスト教会が作成した劇場公開映画「Courageous」はとても良い映画です。そのワンシーンに、メキシコ系のクリスチャン男性が信仰の葛藤で悩むシーンがあります。工場のマネージャーに登用したいが、虚偽の報告をするようにと会社から迫られ、クリスチャンとして嘘は言えないが断れば職を失うという危機に立たされます。
 私たちも、ユダになる可能性を持っています。

 あなたは、死ぬまで、主イエスについて行きますか。どんなことがあっても主イエスを裏切りませんか。


2、裏切る者の心

 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(20~21節)

 おそらく、これは、主イエスが語られた言葉で最も厳しい言葉でしょう。なぜ、主イエスはこう言われたのでしょうか。

 その理由を考える上で裏切りについての考察が役立つかもしれません。

 今まで大好きだった、最も尊敬していた、けれども、何かが原因して手のひらを返す決意をする時があります。深い失望や誤解がきっかけになるかもしれません。相手に対する強烈で否定的感情が沸き起こると、過去の良い関係を捨てても裏切ることができます。
 また、自分にとって大きな利益が得られる時にも人は裏切ります。利益とは、自分が望むものを得るため、そして、自分の命を危険から救うことです。

 裏切る人の特徴は、自分の裏切り行為が正当でしかも必然性があったと自分に言い聞かせることです。なぜなら、裏切りほど社会的な批判を受ける行為は他にないからです。正しいのは私のほうだと正当性を主張し、相手が悪いのだと責任転嫁をせずには人は生きていけないのです。

 夫の携帯電話を見て不倫に気づいた妻が、逆に夫に責められることがあります。「恥ずかしいと思わないのか。こそこそ携帯を調べるなんて。それが、夫婦の絆を壊す原因だ。全部はお前のせいだ。離婚だ。それがお前の報いだ。」自己正当化と責任転嫁は、このようにして行われます。あなたは、自分の中に同じメカニズムにあることに気づきますか。

 太宰治の短編小説『駆け込み訴え』は、ユダをテーマにしたもので、裏切る人の心がみごとに描かれています。見事と言ったのは、裏切る人間が、正当性をどう説明するか、責任転嫁をどのようにするかを、見事に描ききったという意味です。小説では、ユダが主イエスを逆恨みし、反感を持ち、失望し、誰よりも主を愛していると自分に言い聞かせますが、太宰の筆は執拗で、行き場を失った人間の悲哀と滑稽さが語られています。

 実際のところ、2000年前のユダの心は誰も分かりません。ヨハネ12:6によると、ユダは弟子たちの会計係りで、その金をごまかしてきたことが分かります。自分の罪を悔い改める勇気がなく、銀30枚を得ることで金銭問題を帳消しにし、同時に、主イエスを死に追いやればユダの罪意識も解消できると短絡的に考えたのかもしれません。裏切りの論理は、いつでも自己中心で愚かな論理に過ぎません。

  「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(21節)

 この言葉で、一つだけ分かることがあります。主イエスが、ユダに対して心底怒っておられたということです。本気でユダにアプローチしておられます。
 正当化と責任転嫁という鋼鉄の鎧で全身を覆ったユダの心に届くためには、特に鋭い言葉が必要だったのでしょう。目を覚ませ。呪われるような人間になるな。生まれなかったほうがよかった、という人間になるな。あなたは、そんな人間じゃない。それが主イエスの真意だったと私は理解しています。

 あなたの番です。あなたが悪いのに、自己正当化をしていませんか。責任転嫁をして人のせいにしていませんか。神は、無責任な人間にするためにあなたを造られたのではありません。
 あなたが「ごめんなさい」というのを主イエスは待っておられます。裏切りを考えている人がいますか。愚かなことはやめましょう。



3、パンとぶどう酒

 この後、主イエスはパンとぶどう酒の意味を語られました。人類の歴史で最初の聖餐式です。

 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(22~24節)

 主イエスの血が流れるときは、主イエスが死ぬ時です。血の一滴一滴は、主イエスの命です。私たちが本来流すべきだった血のしずくです。
 自分の命欲しさに主イエスを見捨てる弟子たちのために、主イエスは十字架にかかられました。イエスの血潮はユダのためにも流されたものです。

 「取りなさい。これはわたしのからだです。」(22節)

 私たちがすべきことは何でしょう。受けることです。主イエスの命を受けることです。主イエスの愛を受けることです。それが、主イエスが願っていることです。

 2000年9月15日、カリフォルニア州のあるキリスト教の大学でいつものようにチャペルの時間が来ました。大勢の学生たちが心から罪を悔い改めた出来事がその大学の歴史に何度もあったと説教者は語りました。それに応答して、学生が一人、また、一人と、自分の罪を正直に告白し始めました。やがては、自分の番を待つ人が長蛇の列となり1000人が自分の罪の話をして、大学の雰囲気が一新したといいます。
 主イエスに背いていた自分に気づき、自己正当化や責任転嫁をせずに、自分のぼろぼろの姿を真摯に見つめました。

 ユダに裏切られた主イエスは、今も、私やあなたによって裏切られ続けています。私たちは意図も簡単に主イエスへの約束を破ります。それでも、主イエスは私たちを見捨てない方です。

 わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5)
 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)

 →あなたの番です。
  □主イエスや大切な誰かを裏切ろうとしていませんか。止めましょう。
  □誰のせいにもせず、自分の罪を神の前で認めましょう。
  □主イエスの差し出されたパンとぶどう酒を受け取りましょう。

ルカ24:13~35 心が燃えるイースター

復活された主イエスに会いたいと思ったことがありませんか。実際に主イエスにお会いできたら、私たちの信仰は飛躍的に高められるはずだと誰しも思います。
 でも、主イエスを目の前にしても、それが主イエスだと気づかない人たちがいたのです。


1、 失望と疑い

 主イエスが十字架にかかられたのが金曜日、翌日が土曜、そして、日曜。その日曜日に、二人の男がエルサレムからエマオへと歩いていました。二人はイエス・キリストに従う弟子です。一人の名前はクレオパで、二人とも失望と疑いの中にいました。

 失望とは何でしょう。19~21節を見て下さい。

 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。(ルカ24:19~21)

 ローマ帝国からユダヤを解放してくれる人物が救い主だ。当時のユダヤ人の誰もがそう思っていました。ですから、主イエスが殺されたことは、二人にとって大打撃でした。
  「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」信じて来たが、期待が裏切られた。がっかりした。悲しくて力が出ない。それが二人の本音でしょう。

 二人の弟子が抱えていた疑いとは何でしょう。21~24節を見て下さい。

 事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」(ルカ24:21~24)

 23節は「と言うのです」、24節でも「というのです」と記されています。女たちの言うことは聞いたが、復活は信じられないという意味です。彼ら二人は混乱していました。信じたいが、信じられない。確信が持てない。
 二人が「暗い顔つき」(17節)になって急に立ち止まったのはもっともです。
 
 今日あなたは、失望と疑いの中にいますか。それなら、この二人と同じです。


2、横を歩く主イエス

 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。(ルカ24:15)
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(ルカ24:16)

 後から加わった男性は、エルサレムでの話題沸騰の一大事件をまったく知らなかったのです。二人は、あまりの驚きからその人物の顔をまじまじと見たことでしょう。でも、その方が主イエスか分からなかったのです。「目がさえぎられていた」からです。

 主イエスが急に二人の正面に現れて、わたしだ、ほらこの手のひらを見てごらん、と語られたら、二人の悩みは霧散して、その場で喜び踊ったことでしょう。
 でも、主イエスはそうしませんでした。主イエスは、どんなお考えがあったのでしょうか。

 主イエスはそっと二人の横に行かれました。共に歩かれました。何を話しているのかと、その話に耳を傾けました。これが、主イエスのなさったことです。
 主イエスは、ふたりの嘆きを聞き、愚痴を聞き、否定的な言葉をきちんと最後まで聞かれたのでしょう。夕暮れ時まで、ずっと一緒にいて下さったのです。
 主イエスは、今日もそうして下さる方だと私は思いますが、あなたはどう思いますか。

 二人は胸に抱えている問題のすべてを言い尽くした後、主イエスは、はじめて口を開かれました。大変だったね、など同情しません。あなたたちは愚かだと言い切りました。

 「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」(ルカ24:25~26)

 英語の聖書では「How foolish you are, how slow of heart to believe」(NIV25節)と訳しています。預言者たちの言葉を一つも聞いていないじゃないかと、叱責されたのです。

 主イエスは、旧約聖書を引用し、救い主である印は、第一に「苦しみを受け」ること、第二に「栄光にはいる」こと、つまりよみがえる事であると説明されました。以下は、主イエスが語られたかもしれないと私が推測した聖書箇所です。

 裏切られる→詩篇41:9、不正な裁判を受ける→イザヤ53:8、裁判で弁明しない→イザヤ57:3、捨てられる→詩篇118:22、銀貨30枚で売られる→ゼカリヤ11:12、十字架でとりなしの祈りをされる→イザヤ53:12、乾きを経験する→詩篇22:15、父なる神との分離の苦悩→詩篇22:1、骨が砕かれない→詩篇34:20、槍で突かれる→ゼカリヤ12:10、死んだままで終わらない→詩篇16:10

 主イエスの解説をその場で聞いてみたかったとあなたも思われるでしょう。

 主イエスが現れて、わたしだよと言われてこの二人の目を開く代わりに、旧約聖書の意味をこんこんと二人に説明されました。聖書を正しく知ることのほうが、よみがえられた主イエスに出会うことよりも大切だと主イエスはお考えになったようです。

 さあ、あなたも、主イエスのこのパターンを見習うことができます。失望している人の横に行くこと、話を聞くこと、そして、聖書を教えること。気落ちしている現代のクレオパがあなたの周囲にいませんか。



3、心が燃える時

 日も暮れてきたので、二人は同行者と夕食を共にしました。その人物の食前の祈りで、主イエスだと気がつきました。すると、主イエスの姿はもうそこにありませんでした。

 「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(32節)

 良く読みましょう。二人の心が燃えたのはいつですか。食事の席で、目の前におられる方が、復活された主イエスだと気づいた時、心が燃えたのですか。いいえ違います。

 同行者が誰だか分からない時に、すでに心は燃えていたのです。英語訳聖書では、32節を「he … opened the Scripture to us」と直訳しています。心で聖書が読めるようにしてくださるのが主イエスなのです。
 奇跡を見たり、特殊な経験をしたら心が燃えるのでしょうか。いえ、むしろ、聖書が開かれ、聖書の意味が分かったときにこそ、心の奥が力強く燃え上がるのです。
 
 第二次世界大戦で日本の敗北が近いと感じられる夏。お父さんと海岸を散歩していた男の子がいました。突然現れた米軍艦載機が機銃掃射をしてきたので男の子は地面に伏せ、お父さんは上から覆ってくれました。激しい機銃の音が去ると、男の子は動けませんでした。お父さんの体の下からもがくように這い出ると、お父さんの背中と頭部から激しい出血があり即死でした。
 助けられた男性は、毎年夏になるとその日のことを思い出すのだそうです。お父さんの背中に助けてもらったことを。

 主イエスは、私たちの身代わりになって十字架にかかって下さいました。身代わりとは、主イエスが死ななかったなら、私が死んだという意味です。主イエスがよみがえったのは、主イエスが間違いなく、聖書が預言していた救い主であるという意味です。
 私たちも、イースターのたびに、主イエスの愛を感謝し、よみがえられて私たちの横を歩いてくださる主イエスを思い起こしましょう。イエスさまありがとう。ハレルヤ!主はよみがえられた。

 →あなたの番です。
  □失望と疑いの中にいるなら、主イエスは横におられます
  □あなたのそばにいる現代のクレオパを励ましましょう
  □あなたの心を燃え立たせてくれる聖書を毎朝読みましょう

  「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

マルコ14:1~9 主イエスのために

ヨハネの福音書12:3によると、ナルドの香油を注いだ女性はベタニヤのマリヤであることが分かります。けれども、マタイもマルコもあえて名前を書き入れませんでした。
それは、女性の行為に焦点を当てたいからだ、と私は理解しています。

1、むだ

 「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」(4節)

 私の知り合い夫婦は、新婚旅行の費用を海外宣教のために全部ささげて旅行には行きませんでした。若い二人は献金できたことを喜び、他人は「もったいない」と言うことでしょう。

 さて、ナルドの香油は、ヒマラヤ原産の植物の根から作られ、インド経由で輸入される貴重品でした。当事のユダヤでは、もてなしのためにお客様の頭に一、二滴の香油をかけるという習慣があったようで、旅の疲れを癒す良い香りだったといいます。

 弟子たちは憤然としていました。もったいない、と思ったからです。女性が一度に注いだ香油は300デナリの価値があり、男性の年間所得とほぼ同じ額になります。無駄だ、と言いたい気持ちは分かりますが、香油はその女性の持ち物です。とやかく言われる筋合はありません。

 私は「むだ」いう言葉に心を刺されました。私もそんな陰口を言われてみたい。なぜ主イエスのために、そんな無駄なことをするのか、と。

 主イエスのためのむだ、とは、あなたにとって何ですか。


2、主イエスのため

 ある時私は、既婚の男性と話していました。妻が喜ぶ事が何か、私は日常的に考え、捜すようにしていると話したのです。彼は、全身が「愕然」という文字になって固まっていました。妻が喜ぶことを捜す、そんなことは考えたことがないという顔でした。偉そうなことを言っていますが、私も、妻の喜びを捜すという発想は最近身に付けたものです。

 「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」(6節)

 この女性は、なぜこんなにも思い切った事ができたのでしょう。死んでしまった肉親のラザロの命を返してくれたことへの感謝もあったでしょう。主イエスにすべてを受け入れてもらえた喜び理由かもしれません。主イエスの言葉を誰よりも聞き取った女性でしたから、主イエスの心を理解できたのかもしれません。いずれにせよ、この女性の自発的行為はキラリと輝いています。

 私はマルコの福音書を読み直しました。十二弟子が主イエスのために自発的にした愛の行為はひとつもありませんでした。弟子たちは、主イエスに助けてもらってばかりの幼子のようで、自分たちから主イエスのために何かをしたという記録は、一つもないのです。ひとつもです。

 この女性だけです。主イエスのために、何かをしたいと自発的に考え、実行したのは。主イエスは、女性の行為が「わたしのため」であると、はっきり分かって下さいました。
 
 あなたは、主イエスの喜ばれる事は何かと、考えたことがありますか。それを、実行したことがありますか。


3、自分にできること

 「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」(8節)

 マタイ26:1によると「二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」と主イエスは弟子たちに語られました。この女性もその場にいて聞いていたのかもしれません。

 女性は、自分の持ち物を見渡したのでしょう。自分の能力や権限の範囲で実行できることは何かと考えたのでしょう。今のタイミングでできることは何かを思いめぐらしたはずです。
 まもなく主イエスは死なれる。十字架刑ならば香油をぬって埋葬することは許されないだろう。今、私にできることは、手持ちのナルドの香油を注いで、埋葬の用意をして差し上げることだと考え至ったのです。

 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:9)

 主イエスは、女性の行為は福音と共に伝えられるべき事柄だと、異例の形で女性を高く評価されました。


 ナルドの香油を注いだ行為は、ひとことで言えば愛です。
 主イエスに対する自発的な愛です。

 むだをむだと思わないようになるのが愛です。
 自分のことでなく、主イエスの喜ばれることを捜すのが愛です。
 先延ばしせず、今自分にできる事を、今することが愛です。

 あなたの「ナルドの香油」とは何でしょう。


あなたの番です。
 □主イエスのために、大胆に、むだなことをしましょう。
 □主イエスの喜ばれることを捜して、自分から実行しましょう。
 □今この時の私にできることは何か、熟慮し、勇気をもって行いましょう。

マルコ13:14~37 天地が滅びても

「この天地は滅びます。」(マルコ13:31)と、主イエスははっきりと言われました。弟子たちはピンと来なかったでしょう。私たちも同じです。
 この世界が滅びること、私たち自身が死ぬこと、この二つは確かなことです。それでは、どう生きたらよいのでしょう。

1、山に逃げること

 『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。(マルコ13:14~16)

 まず、主イエスは、緊急事態の時に何をしたら良いのか具体的に指示されました。エルサレムが包囲された時、ダニエルが預言した通りにエルサレム神殿が『荒らす憎むべきもの』に汚されるような事態になったら、何も持たずに山へ逃げるようにと命じました。
 エルサレムが紀元70年に包囲され神殿が破壊されるとき、クリスチャン達は主イエスの言葉に従い、山に逃げて洞穴あなどに隠れて命が助かったと言われています。

 三陸海岸部では、江戸時代から「津波てんでんこ」という言葉があり、津波が来たら、その場からばらばらに高台に避難しなさいという言い伝えがあるそうですが、主イエスの助言に似ています。緊急事態には、「取り出そうとして中にはいってはいけません」(15節)。大事なものでも捨て去って、逃げなきゃいけない時があるのです。

 失恋しても、受験がうまくいかなくても、自分の会社が倒産しても、死んではいけません。違う会社に就職する道もあります。別な人と結婚できます。破産宣告しても、生きていく道があります。あなたが問題を抱えているなら、まず、捨てましょう。逃げましょう。

 ジャンボなどの旅客機が離陸直後に緊急事態になると燃料を投棄してからでないと着陸できません。燃料満載重量では機体が着陸の負荷に耐えられないのです。命のためなら、高価な燃料を躊躇なく捨てます。主イエスは言われます。「山に逃げなさい」(14節)

 あなたも躊躇してはいけない。捨てて、逃げなさい。


2、目を覚ますこと

 目を覚ます。これは、主イエスの言われた世の終わりのキーワードです。

 そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコ13:21~27)

 世の終わりにすべきことは、目を覚まして、偽者にだまされないことです。韓国の専門家によると、今、韓国には自分が再臨のキリストだと自称する人物が40人いるそうです。みんな偽者です。地上の誰かが再臨のキリストになることは、ありません。「人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」(26節)と書いてあるからです。

 次に目を覚まして、見つめるべきことは、季節の変化に気づくことです。28~29節で、新緑になると夏が近いと主イエスは指摘されました。同様に、これらの前兆が起きたなら、終わりが近いと知るべきです。「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(29節)

 「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。」(マルコ13:35)

 33~37節には、目を覚ませと何度も繰り返されます。ルカ21章で、主イエスは以下のような忠告も加えておられます。

 「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(ルカ21:34)

 目を覚まして時代を見ましょう。眠らないで、流されないでいましょう。たとけ、ある人物や思想に世界が熱狂する時でも、一つの方向に大多数が流れる時でも、聖書を読むクリスチャンは、それが何かを判別する目が与えられます。目をさましていましょう。


3、滅びないものがある

 「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マルコ13:31)

 江戸時代後期の僧侶、良寛(1758―1831年)は、辞世の句で「散る桜 残る桜も 散る桜」とうたいました。この地上に残る人間は一人もいません。皆が散る桜です。私もあなたも、死ぬ確立は100パーセントです。
 主イエスの言葉によるなら、天も地も滅び去るというのです。滅びる世界なら、生きる意味がない、あるいは、自分の好き勝手なことしようと考えるのが人間です。
たとえ、滅びる世界であっても、消える命であっても、破滅的な生き方ではなく、人間らしく生きる道が残されています。

  <明日、世界の終わりが来ても、私は今日りんごの木を植える。>

 これは、宗教改革者マルチン・ルターの言葉だといわれています。このルターの言葉を励みにして末期癌の日々を生き抜いた人がいました。43歳の牧師夫人、原崎百子(1934―78)さんです。4人の子供がいる中で、肺ガンの末期となり、ご主人からその告知を受け、40日後に昇天しました。
 百子さんは、告知するのが辛かったでしょうと夫をねぎらいました。「それでも私は、リンゴの木を植える。『明日やろう』と決めたこと・・・二郎に助動詞を復習してやること、忠雄の勉強の相手をすること…をしよう」とノートに書き記しました。

 今から500年前のルターの言葉は、原崎百子さんを励まし、その闘病記の『我が涙よ、我が歌となれ』の本がキリスト教会で知られ、やがてノンフィクション作家の柳田邦男の著書に引用され、今では、多くの日本のガン患者に力を与えています。

 日本のガン患者を励まし言葉は、どこから来たのでしょう。2000年前の主イエスの言葉に端を発しています。
 主イエス→ルター→原崎百子さん→日本の多くの癌患者。
 主イエスの言葉は2000年間色あせず、滅びなかったのです。私たちも、今、滅びることのない主イエスの言葉にブックマークを付けましょう。

 「しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(31節)


 捨てるべきものは思い切って捨てましょう。目を覚まして、しっかりと時代を見つめましょう。そして、揺るがない主イエスと滅びない主イエスの言葉を頼りに、今日も、あなたのリンゴの木を植えましょう。


  →あなたの番です。
   □不必要なものを思い切って捨てましょう。
   □目を覚まして時代を見つめましょう。
   □主イエスの言葉を信じて、リンゴの木を植えましょう。

マルコ13:1~13 世の終わりの前兆

主イエスは今日の聖書箇所で、3つの大切な要素を語っておられます。
 第1に、世の終わりが来ること。第2に、世の終わりの前兆があること。第3に、世の終わりに備えることができる、ということ。

1、予告の二重性

 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(2節)

 ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、弟子たちが見ていたヘロデ神殿は長さ10mを超える巨石が使われ、神殿の回廊には高さ12mの大理石の柱が建てられていたと述べています。
主イエスは、この壮麗な神殿もやがて壊されると予告され、約40年後の紀元70年、エルサレムはローマ軍によって完全に破壊され、ユダヤ人は国を失い流浪の民となりました。

 主イエスは、二重の意味を込めて予告されました。それはちょうど、平地から見た山脈の景色に似ています。近くに見える低い山(間近にせまったエルサレムの滅亡)が、その向こうの高い山(世の終わり)の頂上を隠しているイメージです。
 エルサレムが予告通り崩壊したことは、世の終わりも間違いなく来るという印です。「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決して」ないのです。
 
 ところで、33年間、毎朝鏡の前で自分にこう問いかけた男がいました。「今日が人生最後の日だとしたら、今日予定された仕事をしたいだろうか」その答えがNOである日が続くなら、何かを変えなくてはいけないと考えました。これはアップルを創設したスティーブ・ジョブズの言葉で、スタンフォード大学卒業式で語った勇名なスピーチの一部です。

 この世には終わりがあると主イエスの言葉で分かります。私たちの人生もまた、必ず終わりがあります。それなら、あなたは、今日をどう生きますか。


2、世の終わりの前兆

 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(4~8節)

 主イエスがここで言われた世の終わりの前兆とは何でしょう。1)偽キリストの出現、2)戦争、3)地震やききん、です。この前兆を聞いて、あなたはどう思いますか。

 偽キリストは自称他称を問わず世界のあちこちに登場しトラブルを起こしています。第一次世界大戦は国と国とを巻き込む大戦争になりました。(その様子を見たある人は主イエスの再臨と勘違いして人々を惑わしました。)第二次世界大戦後は、民族と民族が戦う戦争に変わったことにも注目して下さい。地震については何も言う必要はないでしょう。

 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。(9~13節)

 9~13節に言及された前兆は、クリスチャンに対する組織的、国家的な迫害です。現代も、ある国では、クリスチャンになることが死を意味する国があります。
 世の終わりの前兆は、クリスチャンが信仰を持っているというだけで迫害され、父と子、兄弟の間でさえ憎まれることが予告されています。信仰の姿勢が問われる時が来ます。江戸時代の踏み絵が別な形で再現されるでしょう。アクセサリーのような信仰や、自分の満足のための信仰なら、ききんや地震や戦争と迫害で吹き飛んでしまうでしょう。

 あなたの信仰は、家族に反対されたら止めてしまうという程度の信仰ですか。


3、世の終わりへの備え

 世の終わりへの備えは3つあります。第一は、惑わされないことです。5節で主イエスは「人に惑わされないように気をつけなさい。」(5節)と主イエスは言われました。
 注意して下さい。6節にあるように、多くの人は必ず惑わされます。魅力ある人物が登場し、この人が再臨のキリストだろうかと騒ぎが起きるなら、全部にせ者です。主イエスは、世界の人が分かる形で雲に乗って再臨されるからです。(使徒1:11、第1テサロニケ4:16)

 第二の備えは、忍耐です。耐え忍ぶことです。これらの前兆は、本当の苦しみの前奏曲に過ぎません。「これらのことは、産みの苦しみの初めです。」(8節)とあるとおりです。世の終わりが近づくことは、地震、ききん、戦争という苦しみが日常生活になるという意味です。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」(13節)自然災害や戦争でも、へこたれないタフな心が必要です。

 1586年ドイツで生まれたマルティン・リンカルト(Martin Rinkart 1586-1649)についてお話しします。リンカルトがアイレンブルクの牧師になった31歳の頃、ドイツは30年戦争に巻き込まれました。城壁に囲まれたその町には多くの難民が流れ込みました。巨大地震で苦しんでいる東北の人々の苦悩が30年間続いたと考えることもできます。
リンカルト牧師の生涯で戦争のない日は一日もなく、戦死者、伝染病で亡くなった人を埋葬し、日によっては30人を超える葬儀を行いました。埋葬した人の合計は生涯で4480人にのぼりました。リンカルト牧師は、そんな中で賛美歌2番の歌詞を作りました。翌年、奥さんが亡くなっています。彼こそ、耐え忍んだ人です。

 いざや共に声うちあげて、くしきみわざ ほめうたわまし
造りましし あめ土みな 神によりて喜びあり(賛美歌2番から)


 第三の備えは、常に主イエスをあかしすることです。クリスチャンへの迫害が強くなり、信仰が試されます。逮捕され取調べを受け、裁判官や政府の高官の前に立つことになります。それが、主イエスをあかしするチャンスになります。恐れずに、大胆に主イエスの福音を語りましょう。その時、語るのは誰でしょう。11節を見て下さい。
 「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」(11節)

 自分は伝道できるコンディションにない、という人は多いですが、世の終わりに生きる人は、苦難とききんと迫害の中で福音を伝える人に変えられます。「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」(10節)福音は、闇が深いときに広がるのです。

 本田弘慈先生をご存知ですか。日本を代表する巡回伝道者として生涯を送られた方です。次の7つのポイントは、本田先生が神学校に入る動機で、世の終わりに生きる心構えに通じるものがあります。

 1)キリストが私のために死んで下さり、キリストによって救われたから。
 2)ルカ9:60節のみことばで伝道者として召されたから。
 3)救われていない人が滅びに向かっていることを思うと、じっとしていられないから。
 4)主の再臨が近いから。
 5)洗礼後、自分のすべてをささげますと神に約束したから。
 6)弘慈という名は、神のいつくしみを広めるとの意味で、生まれた時から神に召されていた。
 7)キリストのために苦しむことは、この世のどんな快楽にもまさっているから。

 さあ、あなたの番です。
□世の終わりの前兆が見られるこの現代において、あなたはどう生きますか。
□朝祈ってみましょう。神の前で悔いない今日を過ごせるように。
□惑わされず、忍耐しつつ、主イエスの福音を伝えましょう。

マルコ12:35~44節 主イエスの視点

今日は、主イエスの目の付け所に注目したいと思います。41節に「イエスは~見ておられた」とあります。主イエスは、何を見ておられたのでしょうか。私たちと違う視点をお持ちなのでしょうか。

1、 ダビデの子と主イエス(35~37節)

 「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。(36~37節)

 旧約聖書は、やがてメシアが来られる、つまり、救い主がおいでになると預言していました。その救い主がダビデの子孫から生まれるので、救い主のことを「ダビデの子」と呼び慣わしていたのです。ダビデ王とその末裔。どちらが偉大という印象を与えますか。

 主イエスは、ダビデの詩篇110篇を引用し、ダビデがキリストを「私の主」と呼んでいると指摘。ダビデは、まだ見ぬ救い主を我が主とあがめていたと説明しました。
聞いている人々は、こうした主イエスの解き明かしを「喜んで聞いていた」(37節)のです。律法学者とはまったく違う、神の言葉の生きた解き明かしに目が開かれる思いでした。

 主イエスの視点とはどんな視点でしょう。神の言葉の中心を切り出せる視点です。

 私たちも、毎朝読む聖書の言葉の、まんまん中の、大事なポイントを受け止められる視点を持ちたいですね。主イエスの視点は、まず、神のことばに注がれていました。
 

2、律法学者に気をつけよ(38~40節)

 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(38~40節)

 私たちの住む南カリフォルニアでは、山に近い場所でコヨーテが出ることがあります。コヨーテに気をつけなさい、と言われたら、危険な場所には行きません。
 主イエスは、「律法学者たちには気をつけなさい。」(38節)と言われました。つまり、律法学者に近づくな、尊敬するな、影響を受けるな、と言っておられるのです。

 律法学者は、独特の長い洋服を着ていて権威が感じられ、教養がありそうで、信仰が深いように見えました。主イエスは、外見にだまされるな、内面は空っぽだと指摘されました。そういう人と付き合うことは、危険で、悪影響になると警告されたのです。

 律法学者の関心事は、人前でほめられること、挨拶されること、高い地位に置いてもらうことでした。祈りですら、神にではなく人に聞かせるための、長々した言葉の羅列でした。
私たちクリスチャンも同じような誘惑に会います。人にではなく、神に。それが、信仰生活でとても大事なことです。

 教会の礼拝で、賛美リードの奉仕ほど難しい奉仕はありません。なぜなら、人前に立つからです。律法学者と同じ誘惑に立たされます。自分一人の時に神をたたえることがないなら、賛美リードはできません。

 同じく牧師も大きな誘惑にさらされます。主イエスの視点は、牧師である私のどこを見ておられるでしょうか。感動的なメッセージを礼拝で語れるかどうかなど主イエスの眼中にはありません。私が家庭でどう生きているか。妻や家族に尊敬されているか。妻や子供たちに、「ごめんなさい」や「ありがとう」が言えるか、口先ではなく私の家庭での言動、一人でいるときの生き方に目を留めておられます。

 英語部のBさんは毎週水曜3時間かけて教会堂の掃除を一人でされます。教会に来る人が気持ちよく礼拝できるようにと、心をこめてそうじをして下さっています。誰にも見られないところで、主に仕える姿は、とても美しいです。淡々と主に仕えています。

 主イエスの視点はどこにありますか。有害な人を見抜き、注意を喚起する目です。

 外側だけを飾る空虚な信仰者の真似はしないようにしましょう。「気をつけなさい」です。


3、レプタ2枚の献金(41~44節)

 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(41~44節)

 神殿に来ていた人は、金持ちがささげた多額の献金に圧倒されていました。たいしたもんだ。凄い。大金だ。一方やもめは、最小単位のコイン2枚をささげました。換算すれば1ドルや2ドル程度の額です。誰も、その献金に目をくれなかったはずです。

 主イエスは、「人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられ」、わざわざ弟子を呼び集め、多く献金したのは金持ちではなく、貧しいあの女性だと教えられました。「どの人よりたくさん投げ入れました」(43節)と評価されました。有り余る中から献金した金持ちより、生活費のすべての金額をささげた女性に感動されたのです。

 立派な外見の律法学者を尊敬し、みすぼらしい服装の女性を軽蔑する。それが私たちの弱さです。主イエスは、違うところを見なさいと弟子たちに諭しました。主は、今日、あなたにも同じことを指摘されます。見るべきところを、見なさいと言っておられます。

 私たちは、何を見ているのでしょう。

 ジョエル・オースティン牧師は自分が子供のころ、礼拝中にある男性のことを馬鹿にしていたと述懐したことがありました。賛美の時間になると踊り出す男性がいて、友達と一緒にその人物を見つけては毎回笑いものにしていたそうです。その男性が礼拝の時、あかしをしたそうです。どんな悲惨な人生から自分が救われたか、主イエスを信じて仕事も妻も与えられたことがうれしくて、賛美の時には自然に踊りだしてしまうと真摯に語ったそうです。それを聞いて、ジョエル少年はその男性を心から尊敬するようになったといいます。

 主イエスは、何を見ておられるでしょうか。私たちは何に目を留めれば良いのでしょう。

 ある幼稚園で生まれつき足が少し不自由な子がいました。運動会に向けてクラス全員リレーの練習をしますが、その子のクラスが必ず最下位です。子供たちは、その子を容赦なく非難しました。運動会の予行演習の日に、クリスチャン家庭に育った男の子がクラスのみんなを呼んで円陣を組み、何かの作戦を提案しました。
 よーいドン。足の遅い子が最初に走る作戦でした。クラスの皆は、今まで違い、その子を応援したのです。次の走者は遅れを取り戻す意気込みで一生懸命走ります。次の子も距離を縮めます。やがては追いつき、追い抜き、最後は一位でゴールしました。いつも文句を言われていたその子を中心に歓喜の渦ができました。クラス担任の幼稚園の先生は涙なしにその光景を見ることができませんでした。
 作戦を立てた子は、幼いながら、聖書、つまり神の心を、自分なりに理解して生活に適応したのです。足の遅い子をダメな子と見ないで、普通の視点と違う見方をして、その子を励ましてみんなで戦うことを提案できたのです。

 さあ、あなたの番です。主イエスが見るであろう視点で、人と物事を見て、勇気をもって動き出しましょう。
 
 □神の言葉の中心を取り出せる目を養いましょう。
 □空虚な外側だけの人と真実な信仰者の違いを見極める目を持ちましょう。
 □まごころと信仰のこもった心で、献金しましょう。

 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第1サムエル16:7)

マルコ12:28~34 二つとも大事

人生で一番大事なことは何か。たまには、こういう大きな質問をしてみよう。

1、人は何のために生まれてきたのか

 今日の箇所は受難週の出来事でした。神殿で行われていた律法学者と主イエスの論争を聞いていて、主イエスに関心を寄せた律法学者の一人が、かなり本気になって主イエスに質問しました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(28節)

 「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(30~31節)

 主イエスは、最も大事な事が、霊的に成長する事だ、聖書知識を増やすことだ、深い悟りを得ることだ、力強い賛美をすることだ、長く祈ることだ、伝道することだ、正義を行うことだ、と言われませんでした。

 主イエスの答えに注目して下さい。一言に凝縮するとしたら、どうなるでしょう。最も大切な命令は、愛すこと、なのです。

 私たちは誰かを愛すために生まれてきた、と言い切っても良いのです。


2、「愛す」とは、何をすること?

 さあ、ここからは、あなたの番です。主イエスは、愛を考えなさいとは言われません。実際に、愛しなさいと言われたのです。

 そこで、数学の素因数分解をするように、誰かを愛すということを具体的な要素に置き換えてみましょう。愛すということを、別な言葉に言い換えてください。
先を見ないで、まず、あなたが考えて書き出してみてください。

 次の項目は、私が考えたもので、「愛する」という事を具体的な行為に書き直したものです。

 □ありがとうと言う
 □ごめんなさいと言う
 □ゆるす
 □尊敬する
 □話を聞く
 □その人のことを、しばしば考える
 □その人のために、何かする
 □共にいる
 □愛していると言葉で伝える

 私たちが不幸だと感じる瞬間は、こちらが努力したのに「ありがとう」と言ってもらえない時、苦しめられても「ごめんなさい」と言ってもらえない時、ごめんねと言ってもゆるしてもらえない時などです。だから、ひっくり返して考えればすぐに分かります。誰かにしてもらうと嬉しいこと、それが、具体的な愛です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(31節)と主イエスが言われた意味が分かりますね。

 私は、10年間、夕食後、妻と手をつないで語り合ってきました。子供の頃の話や学生時代の昔話をして大笑いしたり、子供たちのことを話題にしたり、バーゲンセールで安い買い物をしたり、日本に旅行する計画を話したり、テレビドラマを話題にしたり、何でも話しています。
 かつては、こうした時間が無駄な時間だと思った時期もありました。でも、今は、かけがいのない無い時間になりました。この世を去るまでずっと続けたいと思っています。妻が望んでいた語り合いのひとときが、私の喜びになりました。
 
 あなたは、今日、今週、誰を愛したいですか。何をして、愛を伝えたいですか。
 


3、二つとも大事

 主イエスの答えは、少し奇妙です。律法学者は最も大切な一つを尋ねたのですが、主イエスは2つあると答えました。「この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(31節)
 32~33節を見ると、律法学者が主イエスのその答えを聞いて、興奮ぎみに同意している雰囲気が伝わってきます。二つが大事だという考え方に驚嘆しているのです。
 「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(32~33節)

 人だけを愛し、神を愛すことをしなければ、どうなりますか。困った人のために泥棒することが合理化されます。純粋な愛だと思い込めば、不倫も正当化されます。
 その反対のケースを考えましょう。神を愛すと叫び、賛美する事を喜び、聖書の真理に興奮し、神との交わりで恍惚状態を経験できても、妻や夫との関係が離婚寸前という場合も起こります。神との交わりに、配偶者がじゃまだと考える人さえいるかもしれません。

 愛が健全になるためには、「神を愛すこと」と「人を愛すこと」が切り離されてはいけないのです。二つで一つなのです。

 あなたは、神への愛と人への愛で、どちらが強いですか。(どちらも弱いですか?困りましたね)弱い愛のほうを、もっと豊かにしましょう。

 神を愛すことが弱い人は、上に上げたリストを神に向けてください。そうすれば、自然に神を愛せます。つまり、感謝、悔い改め、賛美、聖書を読む、みこころを求める、献金、祈り、礼拝をすることになりますね。
 
 神を愛していますか?神のために、という動機で、あなたはどんなことをしたことがありますか。朝聖書を読むディボーションは、突き詰めて考えると、誰のためなのでしょう。

 素朴に伺います。神さまが微笑んでくれることは何かと考えたことがありますか。それが何か分かって、実際に行動したことがありますか。神に、「主よ。あなたが大好きです。」と言ったことがありますか。

 デレク・レドモンド(Derek Redmond)というイギリスの黒人陸上選手がいました。世界選手権400mリレーの金メダリストの一人です。彼が27歳の時、バルセロナ・オリンピック(1992年)に出場し、予選を軽々とクリアし、準決勝のレースの最中に肉離れを起こして顔をしかめてその場に跪いてしまいました。救護の人が様子を見ている中、デレクは立ち上がりました。係員の静止を振り切って、左足だけでピョンピョンという感じでコースを走り始めました。すると、中年男性がコースに飛び出し、やはり係員を振り切ってデレクの肩を抱きました。何か言葉を交わすと、デレクは泣き出しましたが、肩を組んだまま二人はゴールインしました。
 男性は、デレクの父親でした。もう走らなくていい、と言葉をかけましたが、最後まで走るとデレクは答え、分かった二人で走ろうと話したといいます。二人でゴールしたときは6万5千人が総立ちで拍手しました。今日では、400m競技の金メダリストの名前は忘れられていますが、デレクは多くの人に知られています。

 人生にも同じことが起きます。私たちはコースで立ち止まり、落胆します。主イエスは、私たちをこよなく愛し、私たちの人生に入ってこれらました。そして、私たちを励まして下さいます。この人生で必要なことは、愛すことだ。出世しないかもしれない、金持ちになれないかもしれない、罪を犯すかもしれない、人を傷つけるかもしれない、でも、人生というレースから降りてはいけない。その足で立ち上がるんだ。人を具体的に愛しなさい。そして、神を愛すことを体で覚えなさい。主イエスは、あなたと肩を組んでくださいます。たとえ、人生のゴールが、涙に暮れ、人から失敗と思われる人生であっても、主イエスと共にゴールインできるなら、人生の勝利者となるのです。

 さあ、あなたの番です。人を具体的に愛しましょう。神の心を思い巡らし、神のために体を動かしましょう。ふたつとも大事です。

 「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(30~31節)

マルコ12:18~27 聖書と神の力

「あなた、また電話をかけ直しているの? リダイヤルのボタンが付いてるでしょう」「えっ。確かにある。知らなかった。早く教えてほしかった。いや、自分の問題だよね。トホホ。」
 今日は、知らなかった、という事がテーマです。

1、サドカイ人の質問

 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。(マルコ12:18)

 当事、ユダヤ人律法学者は大きく二派に分かれており、一つはパリサイ人、もう一つがサドカイ人でした。二者は互いに譲らず、深い対立(使徒23:1~10)がありました。
 サドカイ人は、祭司の家系に生まれた経済的に裕福な貴族階級です。その思想は、旧約聖書の中でもモーセ五書、つまり「律法」だけを神からの啓示と理解しました。復活はないと主張した論拠は、復活についての言及がある詩篇や諸書、預言書などを退けていた事によります。

 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」(20~23節)

 これはモーセ五書のひとつ、申命記25:5~6に見られる規定で、レビラート婚と呼ばれ、アフリカなどではまだ生きている制度です。7人兄弟全員が亡くなり、妻も死んだら、女は誰の妻なのか、という質問で、悪意ある奇問と言ってもよいでしょう。
 全員が復活すれば、女が誰の妻か言い切れません。それで、復活という思想そのものが間違っている、とサドカイ人は言いたいのです。この思考パターンは、前回説明したAll or Nothingの理屈と同じで、非論理的で、相手を追い詰める時に使う詭弁の一種です。



2、神の力を知らない

 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(24~25節)

 主イエスの答えは明快です。サドカイ人の考え方は「思い違い」で、「聖書も神の力も知らない」(24節)ことの証拠だと断定されました。

 主イエスは最初に、サドカイ人が神の力を知らないという点を取り上げます。サドカイ人は復活を信じていないので、同じ姿で息を吹き返す程度にしか復活を理解していませんでした。復活とは、神の力によって根底から徹底的に変えられることなのです。第1コリント15:51にあるように「みな変えられる」のです。単なる蘇生ではなく、神による新しい創造であり、栄光の姿への変化です。

 地上では、独身の孤独、子供がいない辛さ、未亡人は悲しさがあるかもしれません、天国にはそれはありません。私たちが、結婚関係のない天の御使いのように変えられるからです。性的な関わり、結婚や出産も天国にはないし、結婚カウンセラーも必要ありません。

 サドカイ人は、復活思想は愚かだと論破したつもりでしたが、結局、自分たちが神の力をまったく知らなかったことを暴露しただけでした。

 さて、私たちは、神の力がどれほど大きなものか、本当に知っているのでしょうか。

 私も、神の力の偉大さを知りません。
天国には、牧師という職業もないはずです。そこに神がおられるので牧師が説明する必要などないのです。きっと、私は主イエスの前で赤面し、あなたの事を何も知らないのに、知ったような顔で話してきて申し訳けありませんと、頭を下げるはずです。
 神の力をもっと知りたいと思いませんか。



3、聖書を知らない

 次に主イエスは、「あなたがたは読んだことがないのですか」(26節)とサドカイ人が聖書に無知であることを皮肉を込めて言われました。サドカイ人が重視するモーセ五書の一つ、出エジプト記3章6節の言葉を取り上げ、主イエスはその意味するところを解説されました。

 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(26~27節)

 主イエスがおっしゃりたい事を簡単にまとめるならこうなります。アブラハムもイサクもヤコブも生きている。そういう事なのです。
 モーセが神と出会った当時、アブラハムやイサクやヤコブは何百年も前に死んでいました。ですから、過去形で「わたしは、ヤコブの神であった」と語るほうが自然です。でも神は、「わたしは、ヤコブの神である」と現在形で言われたのです。
 これは、アブラハムもイサクもヤコブも神の前で生きているという意味です。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(27節)とある通りです。神は永遠に生きておられ、アブラハムたちも生きているのです。

 サドカイ人は、これには何の反論もできません。聖書をきちんと読んでいなかった事が暴露されたので、歯ぎしりして帰ったのかもしれません。

 さて、私たちはどうでしょう。聖書をどれくらい知っているのでしょうか。
ちゃんと、神の言われたい事を聞いているのでしょうか。

 私たちが心配する事柄は、神の力が及ばないと考えている分野です。お金のこと、ビジネスのこと、家族のこと、人間関係のこと、自分の健康のこと。そこにも神の力が表れると信じますか。信じましょう。

 ビル・ブライトは1951年、30歳の時、フラー神学校の学生でした。UCLAで学生に主イエスの福音を伝え始めたのです。福音のエッセンスをわずか77の単語を使って文章にし、重要聖句をそれに添えました。後に『4つの法則』と呼ばれた伝道パンフレットです。この方法は大いに用いられ、25億冊以上が印刷され世界中で用いられ、多くの人を救いに導きました。1979年には、ルカの福音書をそのまま映画にした『ジーザス』を作成し、900を超える原語に翻訳され、多くの人がクリスチャンになりました。彼のミニストリーはキャンパス・クルセードと呼ばれます。
 フラー神学校の学生の時、ビル・ブライトは、一枚の紙に「私は神の奴隷になります」と書いて、署名しました。これが、大きな違いを生んだ秘訣だと後に述懐しています。

 神は、一人の人生を用いて神の力をこのように表して下さいます。あなたにも神の力が働くと信じましょう。

 →あなたの番です
 □神の力をあなたの計画に織り込みましょう
 □神をもっと知りたいと願い、聖書に聞き入りましょう

マルコ12:13~17 カイザルのものはカイザルに

罠について考えましょう。
 今回の罠には、All or Nothingの考え方が巧妙に使われています。


1、罠のからくり

 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。(マルコ12:13)

 「彼ら」とは祭司長たちのことで、律法学者のパリサイ人とヘロデ党の者たちを主イエスのもとに送り込みました。主イエスに罠をかける作戦でした。

 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」(14節)

 14節の前半は主イエスの率直さを際立たせ、主イエスがきっぱりと回答するようにと誘導しています。これは罠の第一段階です。

 「ところで」から始まる部分が罠の核心です。ローマ皇帝カイザルに税金を納めるべきかと質問しました。この質問が罠だという意味は、イエスと答えても、ノーと答えても、主イエスに不利になるからです。
 主イエスがカイザルに税金を納めよと言うなら、異邦人を嫌うパリサイ人が反発します。神を冒涜する行為だと糾弾されるでしょう。群集が感情的になり、主イエスに石を投げつけ死に追いやる可能性もあります。
 もし、カイザルに税金を納めてはいけない、と主イエスが言われるならどうでしょう。ローマ帝国の後ろ盾で成り立つヘロデ政権の支持者、ヘロデ党の者は強く反発し、ローマに謀反を起こす者としてただちに訴えられ、逮捕され、処刑されるでしょう。


2、主イエスの回答

 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(15節)

 主イエスは、この質問が罠だと見破りました。それで、ローマ世界で通用していた銀貨を持って来させ、誰の顔が彫ってあるかと逆に質問しました。その場にいた者は「カイザルの銘」だと答えます。銀貨には、「ティベリウス、カイザル、聖なるアウグストの息子、大祭司」と書かれてありました。約100年間ローマに支配されていたパレスチナでは、14~65歳のユダヤ人男子が年に一度一デナリを税金として納める必要がありました。

 するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。(17節)

 カイザルが流通させた貨幣で貨幣経済が成立しカイザルの庇護を受けているので、カイザルに税金を納めるのは理にかなっていると主イエスは言われました。
 それだけでなく、私たち皆は神の守りの中で生きているから、神に献金するのは当然のことだと主イエスは答えました。

 イエスでも、ノーでもない、第三の答えを聞いたとき、パリサイ人とヘロデ党の者は、驚嘆しました。



3、罠の仕組み

 私たちも、人生で必ず罠に出会います。出世すればするほど、罠の危険が増えます。誠実な信仰者として生きようとすればするほど、罠に出会います。
 時にはあなた自身が、無意識に、誰かに罠を仕掛けることさえあり得ます。

 あなたは、今、罠にかけられていますか。人が仕掛ける罠は、その人の怒り、憎しみ、ねたみ、誤解、復讐心などが原因になります。また、悪魔が仕掛ける罠は、私たちを神から引き離すことを目的にし、神を信じられないような現象を起こしたり、仲の良い人との間を引き裂くように画策します。

 罠とは、どうあがいても出られず、必ず捕まってしまうという非情な方法です。
 
 今回使われた罠は、二者択一の罠です。それは、オール・オア・ナッシングの思考法を利用しています。
 あなたは完全な神の民ユダヤ人か、それなら異邦人に税金を納めないはずだ、もし税金を納めるなら本当の救い主とはいえず冒涜に値する、という図式です。
 このタイプの理論でコーナーに追い込まれたら、大抵の人は、逆ギレして大声で怒りだすか、無視してその場を去ります。主イエスは大声を出すことも、無視することもなく、誠実に答え、オールでもなくゼロでもない第三の答えを出されました。主イエスの冷静な対応にはびっくりします。

 私たちにも当てはめてみましょう。「あなたは完全な父親と言えるか」と問われるなら、誰も下を向くでしょう。すると、「それなら、あなたは父親としては失格だ」と言われてしまいます。そう言われるとなぜか納得して落ち込みます。完璧であるか、それ以外なら、ゼロだという大雑把な事実認識の間違いに気づかないのです。

 あなたも、この二者択一の罠に気をつけましょう。また、この理屈で身近な誰かを追い詰めることも止めましょう。
あなたは完全なクリスチャンか、そうでないなら生きていく資格はない、という悪魔の常套手段の罠に負けてもいけません。

 私たちは、いつも100点でいることは不可能です。65点でも、70点でもいいのです。だからといって決して0点ではありません。All or Nothing 以外の第三の答えが必ずあります。主がその答えを必ず下さいます。上を見上げる時、必ず脱出の道があります。

 →あなたの番です
  □罠を見抜く知恵を神からいただきましょう
  □あなた自身も、人に罠をかけないこと
  □神の守りを感謝しつつ、第三の道を求めましょう

マルコ12:1~12 やり直せる

主イエスは、物事を簡略化して、分かりやすいたとえ話を使って、本質をズバリと指摘されます。今日のたとえ話からは、人間の心に潜む邪悪さが見えてきます。
 たとえ話の後に、主イエスは含蓄のある言葉を加え、私たちの励ましとされました。人生にはやり直しがあると勇気づけられます。


1、邪悪な農夫

 このたとえ話は、当時の人ならすぐ納得できる日常的な題材を使っています。ぶどう園の主人が、農場で働く人を集めて仕事を委ねます。実がみのると、収穫を集めに人を送りました。でも農夫たちに乱暴され、次々に送ったしもべたちも暴力を受けたり殺されたりしました。主人は自分の息子まで殺されてしまいます。とうとう最後には、ぶどう園の主人は農夫たちを殺して処罰しました。以下がその詳細です。

 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。(マルコ12:1~9)

 このたとえ話に登場するぶどう園の主人は、善意の塊です。農夫たちの就職口を世話して、農夫たちを信頼しきって旅に出たのです。収穫を集めるためにしもべを遣わし、虐待されても、何度も忍耐深く別の使者を遣わし、自分の息子まで送り込みます。
 ここに表されているのは、何でしょう。神の愛です。神の愛は、まさに善意の塊です。信じられないほどピュアです。期待と希望に満ちています。

 一方、ぶどう園を任された農夫たちは、悪意の塊です。農園の主人に対して、恩を感じることなく、完全に無視しました。主人が送ってきたしもべに暴力を振るい追い返し、農園を自分たちのものにする算段です。農園の主人の一人息子ですら殺害しました。

 このたとえ話は、祭司長や律法学者の愚かさを気づかせるために主イエスが話したものでした。神が農園の主人、しもべは預言者たちです。農夫はイスラエル人であり、その指導者の祭司長や律法学者を表わしています。最後には、神の子イエス・キリストが遣わされますが、祭司長らにより殺害されます。
 祭司長たちも主イエスの意図に気づきました。(12節)でも、かえって心を閉ざし、主イエスを殺す動機になってしまいました。

 あなたの番です。あなたはこの農夫のような邪悪な心を持っていますか。神に対して恩知らずではありませんか。自己保身、自分の欲望がすべてではありませんか。
 普段の自分の姿を見つめてみましょう。あなたは、この邪悪な農夫に似ていませんか。

 神は、そんなあなたを、そんな私を、信じられないほどの愛で愛していてくれます。



2、捨てられた石が礎石になる

 10~12節は、詩篇118:22~23の引用です。

 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』(10~11節)

 家を建てる専門家が、この石は役に立たないと捨てた石が土台の要となる礎石になったというのが詩篇の言葉です。

 この石とは何でしょう。主イエスを指した預言の言葉でした。主イエスは、十字架で死なれますが、それが人々の罪の赦しの代価になりました。捨てられた主イエスが、まことの救い主になったのです。

 主イエスほど深い絶望を味わった方はいません。また、主イエスほど大きな希望を持った方は他にいません。

 ここに大きな励ましがあります。捨てられた人がやり直せるという励ましです。たとえ、人に捨てられた人生でも、主イエスを信じて生きればやり直せます。

 地震の後に、釜石を応援するポスターが出来ました。その一枚一枚を見ていて勇気が出てきます。そのポスターには現地の人が作業着姿で写真に写っていて、下に短い言葉が書いてあります。数種類あるポスターの言葉は、「前よりいい町にしてやる」、「心まで壊されてたまるか」、「かわりに気づいた宝物」、「あきらめるな、と帆立が言う」などとなっています。

 そういえば、ベートーベンは偉大な作曲家ですがバイオリンはあまり上手ではなかったようです。ウォルト・ディズニーは、アイデアが足らないと言われて新聞社を首になったようです。アインシュタインは、4歳まで言葉をしゃべらず、7歳まで字が読めなかったといいます。エジソンは、学校の教師に、頭が悪くて何一つ学べない生徒だと言われました。彫刻家のロダンは、こんな息子を持って情けないと言われた子供だったといいます。何だか励まされますね。

 あなたがやり直せた時にこの言葉を味わって下さい。「これは主のなさったことだ」(11節)主があなたを立たせてくださるのです。


 →あなたの番です。

  □あなたの心に潜む邪悪な心に気づきましょう。
  □どんなに邪悪な私たちをも、神は愛しておられます。
  □倒れても、やり直せます。主イエスと共に歩めば復活できます。

マルコ11:27~33 何の権威か

「俺を誰だと思っているんだ」と怒る男がたくさんいます。みっともないですね。
 男は不良品だな、とつくづく私は思うのです。学校で暴力事件は起こすのは男、刑務所には男が多いし、麻薬の売人は男だし、汚職をするのも男、粉飾決算をするのも男、戦争をするのも男、離婚を迫られるのは男が80%で、自殺するのも男が女性の2~3倍です。
 男が気にするのは、権威です。いったい権威とは何でしょう。権威の良い使い方があるのでしょうか。今日は、権威について考えてみます。

1、罠

 「彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。」(マルコ11:27)

 権力とは、その立場のゆえに付与された力です。祭司長、律法学者、長老たちは、宗教と政治の最高権力者でした。彼らは70人議会の一員なので、日本で言えば国会議員といってもいいでしょう。ただし彼らには警察権力も裁判権も持っていました。
祭司長たちは、前日の宮きよめ騒動でかなり怒っていたようです。「俺を誰だと思っているんだ」という剣幕です。

 祭司長たちは、主イエスの返答しだいで逮捕するつもりでした。そもそも祭司長たちは、主イエスを殺害するつもり(18節)でした。人を殺すこともできる力、それが権力です。

 「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」(28節)

権威なき者が神殿で教え、権威なき者が両替人や商人を宮から追い出した。それは不法だと言いたいのです。


2、逆質問

 主イエスは逆に質問をしました。

 「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」(29~30節)

 祭司長らの思惑は、ここでみごとに粉砕されました。権威についての話題は祭司長たちが持ち出した事柄で、主イエスの質問はその関連質問に当たります。群衆も周囲で成り行きを見ています。それで祭司長らは主イエスの質問を無視するわけにいきませんでした。


3、当惑

 「すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。』――彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、『わかりません。』と言った。そこでイエスは彼らに、『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。』と言われた。」(31~33節)

 バプテスマのヨハネが人々を教え、悔い改めのバプテスマに導いたことは、神のみこころだと誰にでも理解できました。もし、それに異議を唱えるなら、そこにいた群集から強烈な反発を受けることは必至でした。

 祭司長たちは熟慮しましたが、結論が出せません。その場から逃れるには「わかりません」と答えるしか道はありませんでした。祭司長たちは、尻尾をまるめて逃げて行きました。自分が掘った穴に落ちてしまったのです。


4、本当の権威とは

 普通この世界で通用している権力とは、うむを言わせぬ圧力や暴力、わがままのことです。地位や能力、生まれや経験を土台にし社会的に認められた強制力です。

 スティーブ・ビタルフというオーストラリアの家族問題のカウンセラーは、こういいます。「男はおびえると、しばしば身体的、気分的に逆の方向に揺れ、暴力によって反撃しようとする」
 男が権力を振りかざすのは、恐怖から逃げるためです。自分の失敗を人に知られたくないからです。メンツをつぶされて当惑したとき、強く出るのです。恐怖の原因となった誰かをつぶすために権力を使うのです。

 それでは、本当の権威とは何でしょう。周囲の人から尊敬され、愛されたため、その人が持つようになった影響力。それが権威だと私は思います。だから、本当の権威を持つ人は、周囲の人を助けたり豊かにするために権威を使います。

 スウェーデンのオロフ・パルメ首相(1927-86)が暗殺されたとき、国民は通りに出て公然と泣いたといいます。ベトナム戦争に反対、アパルトヘイトに反対、核軍縮に取り組み、非暴力を掲げた政治家で人々に愛され、尊敬されていました。私たちはパルメ首相を必要としていた、世界も彼を必要としていたと多くの国民が語ったといいます。

 本当の権威を持つ人は、自分の地位や立場に固執しません。人々が幸せになれるなら、自分の地位すら捨てます。本当の権威を持つ人は利己的でなく、利他的です。

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6~7)

 私たちは気をつけないと祭司長のようになりがちで、権威を振りかざし、人をつぶす破壊的な生き方を選んでしまいます。神の子イエス・キリストの謙虚な歩みを模範にしましょう。権威を振りかざす人になるのでなく、尊敬され、愛される人になりましょう。

 あなたが警官なら、親切なポリスになってみましょう。あなたが空港の入国審査係なら、笑顔で対応しましょう。あなたが電話受付の仕事なら、やさしい言葉で対応してみましょう。権威を素敵に使う道もあります。

 7歳の女の子が転校した初日、遅刻してしまいました。泣きながら走って登校すると、学校の門の前で立派な紳士に呼び止められました。「どうしたんだい」女の子が理由を話すと、「気難しいモリス校長に私がとりなしてあげよう。彼は私の友達だ」、と言ってくれて校長室まで来てくれました。モリス校長はとがめることなく、クラスにその子を連れ、担任の先生にこう言ってくれました。「転校生は1回だけ遅刻をゆるされることになっております」とね。

 「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。(第2コリント13:10)

→あなたの番です
  □権威を振りかざすのを止めましょう
  □主イエスを見上げ、もっと謙虚になろう
  □神から頂いた権威を周囲の人を生かすために用いよう

マルコ11:12~25 わたしの家

 今日は、主イエスが十字架にかかる数日前の出来事に目をとめて、信仰と祈りについて考えてみましょう。

1、枯れたいちじくの木

 福音書によると、その週の金曜日に主イエスは十字架にかかられます。月曜から木曜までの間、主イエスはベタニヤからエルサレムに朝方から出かけ、夕方に戻られるという生活をされていました。

 「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」(マルコ11:12~14)

 いちじくが実を付けるのは夏なので、春にいちじくの実を期待することは通常ありません。ところが、エルサレムへの道の途中にまるで実がついているような外観の木が一本あり、主イエスは思わず近づいて実を探しました。実がないのが分かると、主イエスは弟子に聞こえる声で「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」と言われました。翌日の火曜日にはそのいちじくの木は枯れていました。(19~21)

 旧約聖書では、いちじくをイスラエルを象徴するものとして記述する場合があります。葉ばかりが茂って実のないいちじくの木は、繁栄を誇っていたエルサレムの町を暗示し、40年後の滅亡を念頭に、イエスさまが警告として言われたのかもしれません。


2、神殿内をきよめた主イエス

 主イエスが最初にされたことは、神殿を本来の神殿の姿に戻すことでした。
 「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。」(15~16節)

 当事、神殿と呼ばれる施設は国内に一つしかありません。エルサレムは周囲4km程の城壁に囲まれた町で、首都にふさわしい賑わいがありました。町の東側には絢爛豪華な大神殿があり、敷地は南北に500m、東西に300m。外国人が入れる異邦人の庭があり、中央に柵で仕切られユダヤ人しか入れない場所があり、さらにその奥にはユダヤ人男性しか入れない場所があり、祭司だけが入れる聖所、至聖所という構造になっていました。

 神殿とはいえ、異邦人の庭は喧騒で満ちていました。両替人やいけにえの動物を売る業者の声が響き、神殿を通り抜ける方が近道だと道を急ぐ人々も巡礼者に混じっていました。
 主イエスは、神殿を本来の静かな祈りの場所に戻すために、業者を追い出し、腰掛を倒し、近道をする者を排除しました。

 人々は怒ったでしょうか。「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。」(18節)むしろ、人々は驚嘆したのです。納得したのです。主イエスの言われたことが正論だったからです。神殿には静けさが必要です。

  「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(17節)

 葉が茂って実があるように見えたいちじく。喧騒と金儲けの場所になった神殿。どちらも共通点があります。一番大事なものを失った姿です。この姿はあなたに似ていますか。

 心の内側に静かな神殿を持ちましょう。心の「宮きよめ」をして、不要なものを捨てましょう。



3、信じて祈る

 翌日の火曜日、枯れたいちじくに驚く弟子たちに主イエスはこう言われました。

 「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(22~25節)

 山に向かって、海に飛び込め、と言えば、そうなる。一部の信仰エリートだけでなく、「だれでも」可能だと主イエスは言われます。「自分の言ったとおりになると信じるなら」そのとおりになるのです。主の説明は信じがたいほどダイナミックです。あなたは、これを信じますか。

 主イエスが実際の山を動かしたという記述は聖書にありません。12弟子やパウロが、山を動かしたという記録も聖書にありません。
 アフリカの女性が、自分の敷地から山を取り除けてほしいと祈った話が知られています。政府の職員がやって来て、山を買いたいと申し出たそうです。アスファルトの原料が山に含まれていたので山はみごとに崩されたそうです。でも、山が実際に海に動いたわけではありません。

 けれども、主イエスがお生まれになってからの2000年間、歴史はこの主イエスの言葉をそのまま信じた人によって作られて来たといっも過言ではありません。神がおられるなら山は動くと信じた人が、暗闇を光に変えてきたのです。

 主イエスを信じたばかりの青年が、北海道で途方に暮れたことがありました。無一文になり、職がなく、神に助けを求めていました。誰かが彼の肩に手を乗せました。振り向くと、男性がいました。仕事がある、寝る場所がある、食べ物がある、働かないかと誘われ、洗濯業に足を踏み入れました。10年後、彼は白洋社というクリーニング会社を興し、神の栄光のために働く人となりました。男性の名は、五十嵐健二といいます。

 信仰と祈りはパワフルです。祈りがかなえられたと先取りして生きてみましょう。

 また、心に祈りの家を持つ人は、大胆な祈りと共に、人間関係の分野、繊細な分野で目が開かれ謙虚にさせられます。あなたは、誰を赦しますか。主に罪赦されたあなたの仕事は、鎧を捨てて、誰かを赦すことです。

 まとめをします。
 私たちは、心の中の「祈りの家」を失っていることがあります。そうなると、一番大切な祈りができません。静かな祈りを取り戻しましょう。
 私たちは、大きな山に圧倒されて、意気消沈しやすいものです。第一に神を信じ、第二に祈りをはっきりと口に出し、第三に求めたものはすでに受けたと先取りしましょう。
 主は言われます。「そのとおりになります」と。

 野球好きの男の子がスポーツ店で素晴らしいグローブを見つけました。グローブに手を入れ、ポンとこぶしでたたき、いいなと眺めて棚にもどします。1週間に2回から3回、店に来ては、同じ動作を繰り返しました。2週間、3週間、4週間と同じようにグローブを見に来ました。店長もその子を覚えてしまうほどです。同じことが数ヶ月続いたある日、少年は輝く笑顔でシューボックスを抱えてレジに来ました。ふたを開けると、25セント、10セント、などコインばかりがたくさん入っていました。
 店長はお金を数え、19ドル98セントありますと男の子に言った後、少し考えて、お買い上げありがとうございます、と言ってグローブを包んで少年に渡しました。本当は、値札に79セント98セントと書いてありましたが多少にじんでいたのです。男の子は、喜んで帰りました。

 あなたの番です。あなたが、山を動かす経験をする番です。
 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 あなたの番です。
 →□心に「祈りの家」を取り戻しましょう。
  □あなたにとっての山は何ですか。それを、はっきり口に出して主に願いましょう。
  □かなえられたと信じて、今日から行動してみましょう。

マルコ11:1~11 主がお入り用です

 今日は、ロバについて少し詳しく考えてみましょう。

 ロバに触れる前に、今日の箇所の背景をお話します。
主イエスが十字架にかかられたのが金曜日です。その週が始まる日曜日に、主イエスは、オリーブ山のふのとの町、ベタニヤ付近でロバの子を手に入れ、それに乗って祭りでにぎわう都エルサレムに入られました。ヨハネ11:18によると、ベタニヤはエルサレムから東に3キロメートルほどの距離にあると分かります。人々は「ホサナ」と叫んで、王としてエルサレムに来られた主イエスを熱狂的に歓迎しました。

 「そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。』」(7~10節)

 マタイもマルコもルカも、ロバがどのように選ばれたのかを必要以上に詳しく書いています。いきなり赤の他人がロバを連れ帰り、ちょっとした騒動になるというユーモラスな出来事でもあります。これを記録したマタイたちにとっても、ロバと弟子たちの姿が何となく重なり、他人事に思えなかったのかもしれません。


1、主は、子ロバを知っておられた

 「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」(2節)

 「ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう」とあります。ロバは、イエスさまとは関係なく、ロバの人生を送っていました。人生ではなく、ロバ生かもしれませんが。主イエスに見られていた事など、まったく念頭にないはずです。
主イエスは、ロバを見ていました。時が来たら、あのロバに乗ろうと心に決めておられたのでしょう。

 主イエスは、あなたを見ておられます。あなたを知っています。あなたが知らないだけです。主イエスは、あなたを心に置いておられます。


2、未知数のロバ

 「まだだれも乗ったことのない」「ろばの子」(2節)と書いてあります。

 このロバは、経験も実績もありません。子供なので、まだ役に立たないのです。

 経験不足、未熟、未知数。それがあなたの姿なら、あなたはロバに似ていませんか。


3、つながれていた

 「表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。」(4節)

 ロバは、家の戸口につながれていました。

 私たちは、主イエスを信じる時まで、様々なものに繋がれ、束縛されていました。罪の奴隷でした。この世の価値観の奴隷でした。否定的なセルフイメージで縛られていました。
主イエスは、あなたを縛っているものから解放して下さる方です。

 主イエスを信じてからも、まだ何かの紐で繋がれている人もいます。毎日の忙しさに繋がれています。ぬるま湯から出られません。まるでサーカスの像のように、杭に繋がれると、自分は逃げ出せないと思い込み、自分はダメだとあきらめています。違います。あなたはできるのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

 主イエスは、あなたをあらゆる束縛から解き放つ方です。
 今、あなたは何につながれていますか。


4、主がお入用です

 このロバが二重まぶたで美しいとか、力があるとか、血統が良い、気立てが良いとか、書いてありますか。カラオケの歌がうまいとか、コンピュータースキルがある、リーダーシップがあるなどとは書いてありません。選ばれた理由は、ロバの中にはないのです。

 「もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(3節)

 ロバが選ばれた理由は一つだけです。主イエスが、必要とされたという事です。平和の君、主イエスが乗る動物としてロバが一番適切だったのです。ゼカリヤ書9:9の預言の成就のためにもロバが必要なのです。

 ロバがイエスさまを乗せてエルサレムに向かった時、道を埋めた人々はロバに目を向けたのでしょうか。いいえ。主イエスを見て、賛美したのです。私たちの人生も同じです。主をお乗せして歩くとき、主たほめたたえられるのです。あなたの賜物と、あなたの経験を生かした分野で主イエスをお乗せして歩きましょう。主の栄光のため用いられる。それが、ロバの本当の喜びです。

 使徒行伝の時代、ユダヤから地理的に離れたアンテオケで外国人がたくさんクリスチャンになりました。バルナバがアンテオケ教会に遣わされましたが、バイリンガルの働き人が不足しており、バルナバはパウロを捜しにタルソに出かけ連れてきました。(使徒11:25~26)この場面でも、バルナバはパウロに今日と同じようなことを話したはずです。主があなたをアンテオケで必要としていると。

 イグナチオ・デ・ロヨラは、パリの大学で学んでいたとき15歳年下の青年と寮の同室になりました。1529年のことです。主イエスの福音のためにすべてをささげよと熱く説得し、それに応えたのがフランシスコ・ザビエルでした。

 まとめます。主イエスは、経験も実績もない子ロバに目を留め、つながれていた紐をほどいて新しい出発に導かれました。主イエスは、子ロバのお前が必要だと言って下さいました。この招きに応えた時、主イエスをお乗せしてエルサレムに行くことができました。

 私は大学3年の3月、今日の箇所を読んで、主が私を牧師の働きに招いて下さっていると確信し、水曜の祈祷会であかしをしました。当時は、神学校の学費とか、自分の能力なと、二次的な事に思え、主の招きに応える喜びで心は躍っていました。私が所属していた教会は、私を含め3人が神学校に同時に行くという事態を主からの導きと受け止め、3人の授業料と寮費を全額支援してくれました。今考えても、素晴らしい教会、ささげる教会だと感動します。

 あなたは、人に誇れるものが何もないと嘆いていますか。それなら、あなたはロバです。未熟で、誰も相手にしてくれませんか。それなら、あなたはロバの子です。サラブレッドでない自分を嘆いてはいけません。たとえ人が何と言おうとも、主イエスはあなたが必要だと言って下さいます。あなたのスペアは世界中に一つもないのです。

 あなたが今生きているは、主があなたを必要とされている印です。主の期待に応えましょう。今週、あなたが必要なのだという具体的な依頼が来るかもしれません。「主の用なり」と積極的に自分をささげましょう。


 →あなたの番です
  □王である主は、あなたが必要だと言われます
  □主の招きに応答し、主に用いていただきましょう。
  □どんな分野で、主をお乗せして進みたいですか

バルテマイ  マルコ10:46~52

 出会いは人生を変える。まさに今日はそれにふさわしい箇所です。盲人で乞食のバルテマイがどのように変えられたかを見ていきましょう。

1、つながるための叫び

 エリコは、オアシスの町、また、パレスチナで最も古い町の一つ。標高マイナス250mという低い場所にあり、もう少し下ると死海に着きます。
 ユダヤ人の大事な祭り、過ぎ越しの祭りが目前に迫っていたので、多くの人がエリコを通過してエルサレムを目指して上っていきました。

 盲人で、乞食のバルテマイが人通りの多いところに座っていたのでしょう。主イエスの一行が付近を通ると知ると急に叫びだしました。

 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。(マルコ10:47)

 バルテマイは主イエスの噂を聞き、この方こそ救い主、ダビデの子孫として生まれると旧約聖書に預言されたメシアだと確信して、「ダビデの子」と呼びました。マルコの福音書で唯一主イエスを「ダビデの子」と呼んだ人物がバルテマイです。

 まことの神を知らない人は、バルテマイと同じように霊的な意味で闇の中にいます。見たことのない方を完全に知ることは不可能です。知りえる情報から判断して、この方こそ救い主と知る以外道はありません。
「あなたが本当の救い主ですか。教えてください」そうあなたが叫ぶなら、あなたは必ず、主イエスの応答をもらえます。

 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。(エレミヤ29:13~14)

 主イエスは、バルテマイに応答されました。

 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。(49節)

 主イエスとつながりたいというバルテマイの祈りは、このようにして主イエスに届きました。弟子たちがバルテマイに主イエスの言葉を伝えると、喜びのあまり上着を脱ぎ捨て立ち上がりました。

 あなたの番です。
あなたも、主イエスに届く祈りをしましょう。あなたを知りたいのです。あなたご自身を私に教えてください。私はあなたを信じます。そのように祈りましょう。


2、未来を切り拓く願い

 主イエスは、バルテマイに尋ねました。

 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(51節)

 シャルル・ペローの「3つの願い」という話は興味深い寓話です。
きこりの夫婦が森で一本の木を切ろうとすると、木の妖精が現れ、この木を切らなければ3つの願いをかなえようと言うのです。言葉に従い、何を願おうかと考えいましたが、奥さんが「大きなソーセージが食べたいな」とつい口に出してしまいました。目の前に見たこともない巨大なソーセージが出てきました。大事な願いをつまらんことに使いおって、そんなソーセージはお前の鼻にくっついてしまえ、と夫が言い捨てました。すると、その通りになり、奥さんは困り果て、結局3つ目の願いは、それを外すことに使いました。

 私たちは、何を望んでいるのでしょう。たくさんのことを、ぼやっと願っているだけです。主イエスは、バルテマイの信仰を引き出したのです。

 「コーチング」という言葉があります。会社の社長や専門職が、新たな飛躍を求めて個人コーチを付ける例が増えてきました。カウンセリングは、どちらかといえば過去の問題の解決を志向しますが、コーチングは未来に向かって自分の行動を変えることを目指すと言われています。コーチングのプロは、課題を明らかにしたり、承認したり、励ましたり、目が覚ましたり、気づくことを促進させようと、的確な質問を投げかけます。そうなのです。良い質問は、漠然としていては出てきません。良い質問が人を育て、引き上げます。

 主イエスの質問を読んで、当たり前のことを聞くなあ、と思わないでください。実に的確で的を得た質問なのです。

 「そのとき盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳をあけられる。」(イザヤ35:5)

 51節で、「盲人は言った。『先生、目が見えるようになることです。』」とあります。盲人がそういう事は大変困難なことです。
 バルテマイは、自分をいじめた人に仕返しがしたいと答えることもできました。世界一の金持ちになりたいとも言えます。けれども、主イエスと対面していたバルテマイは、その出会いによって、心が整えられ、大胆に求めることができたのです。

 あなたの番です。
「わたしに何をしてほしいのか。」と主イエスに今日聞かれたら、あなたは何と答えますか。

 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(52節)

 主イエスは、バルテマイを励まし、その信仰を肯定されました。あなたの信仰がこんな素晴らしい結果を導き出したのだと。ダビデの子であるとバルテマイが認めたこと、大声で求め続けたこと、主イエスの質問を受けて見えるようになりたいと言ったことなど、主イエスはバルテマイの信仰が素晴らしと励ましました。

 バルテマイは、その後どうしたでしょう。見えるようになった目で主イエスを見つめ、主イエスの後に従う者になりました。金持ちの青年ができなかったことをバルテマイはいとも自然に行うことができました。

 今日、三度目のあなたの番です。
あなたも、主イエスにいやされたなら、罪ゆるされたなら、主について行く人生を選びましょう。