ラベル 新年のメッセージ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 新年のメッセージ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

ローマ15:4~5 昔書かれたもの


 新年あけましておめでとうございます。
 一年の最初に日に主を礼拝できることを感謝します。

 新しい年、あなたにお勧めすることが3つあります。神を愛すこと、隣人を愛すこと、そして、福音を伝えることです。
 繰り返しだけで終わる1年にしないために、聖書の中心命令を実行してみましょう。
 心を尽くして神を愛すこと、そして、隣人を自分のように愛すこと(マルコ12:28~33)は最も大切な命令だと主イエスは言われました。
 また、私たちクリスチャンは主の証人として罪の赦しを世界に述べ伝えるように(ルカ24:46~48、マタイ28:19~20)主イエスから召されました。

 年の初めに、時間を取って良く考え、祈ってみましょう。今年、私は、神のために何ができるだろうか。
 配偶者や家族や親友に愛を届けましょう。何をしたら愛が伝わりますか。
 今年、誰に、福音を伝えたいですか。祈りのノートに書きこんで、祈り、行動してみましょう。心配いりません。人を救うのは神です。あなたではありません。私たちは、救い主を紹介するだけで良いのです。


 「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」(ローマ15:4~5)


 パウロは聖書のことを、あえて「昔書かれたもの」と呼びました。昔のものは時代遅れで通常は役に立ちません。むしろ聖書は、その古さのゆえに価値があるのです。神が約束したことを歴史の中でことごとく実現されたからです。
 また、聖書は忍耐と励ましを与える書です。人生の困難な時に忍耐を与えてくれる書物や、崩れ折れそうな時に励ましを与えてくれる書物などありません。聖書はただの本ではなく、神のことばなので、それが可能なのです。聖書を読む者は、希望をつかめるのです。

 それで、今年、私たちの教会のテーマは、「Read & Go!」です。

 今年の礼拝で、1年かけて、聖書全巻を解説する予定です。それに合わせて、あなたも一年で聖書全部を読んでみませんか。これはあなたへのチャレンジです。聖書通読はマラソンです。完走したものだけが、その醍醐味が分かります。聖書にはいったい何がかいてあるのか。追及してみましょう。
 聖書を理解するだけでなく、実行しましょう。知識だけでは、何も変わりません。「Go」が大事です。やってみませんか。

 →あなたの番です   
  □一年かけて、聖書を通読してみよう   
  □読んだら、実行してみよう
 

第1ペテロ4:7~11  賜物を用いる年にする


 新年、あけましておめでとうございます。第1ペテロから新年のメッセージをお届けします。

1、新年に祈る

 万物の終わりが近づきました。
 ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(第1ペテロ4:7)

 この世界は神が始めた、と創世記に書いてあります。この世界には終わりがある、と黙示録が書いています。人間にも初めと終わりがあります。私たちの人生は旅客機と良く似ていて、おぎゃと生まれることが離陸で、着陸は死です。着陸しない飛行機は存在しません。
 
 新しい年の初めに、終わりを意識しましょう。万物の終わりを年頭に置き、限りある人生をどのように生きたらよいのかを神に祈り導きを求めよとペテロは言いました。

今年の大晦日に一年を振り返って、心に大きな満足を得られることは何ですか。今年、主は何をあなたに期待しているのでしょう。何を実行するつもりですか。将来のためにどんな備えをしますか。今年、何を変えたいですか。何にチャレンジしますか。
年の初めに、静かな心で神に祈り、導きを求め、2016年を素晴らしい年にしましょう。


2、愛し合う

 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。(8~9節)

 ペテロの手紙は、迫害に苦しむクリスチャンを励ます目的で書かれました。苦難の中にあるとき、愛し合うこと自体に大きな意味があるとペテロは語りました。誰かの罪は、誰かがその被害をこうむりますが、愛はそれを覆う力があるのです。本当に価値あることは、愛です。

 成功することより、人より秀でることより、金をもうけるより、美しく飾ることより、もっともっと価値あることは身近な大切な人を愛すことです。

 さあ、今年、愛の言葉を言いましょう。「ごめんなさい」、「ありがとう」、「大好きだよ」を心を込めて言いましょう。言葉一つで、私たちは幸せになれるのです。
 今年、愛の行動をしましょう。その人の所に行く、一緒に時間を過ごす、心を込めて話を聞く、ヘルプする、支える、祈る、自分の持っているものを与える。それが、愛の行動です。



3、賜物を用いる

 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。(10~11節)

 10節の「賜物」は、原文だとχάρισμαカリスマ)、英語だとGift、日本語になると賜物と訳されます。神は一人一人に違う能力をギフトしてプレゼントしてくれました。ハーレーの大型バイクをもらった男性は、磨いてばかりいますか。乗ってみるでしょう!ルクルーゼの高価なおなべをプレゼントしてもらったら、漬物石にしますか。料理をしてみるでしょう。賜物は使わなくちゃ意味がありません。

 10~11節から分かることは、第1に、賜物は神が私たちにくださったもの。僕らの能力は自分で実につけたものではないのです。第2に、人は違う賜物を持っている。みんなが同じようになる必要はないのです。第3に、賜物は、用いるために与えられた。誇った、隠したりするものではないのです。第4に、賜物を用いるときに、神の栄光が表れる。

そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

 僕らは違っていていいんだ。その考えは、槇原敬之が作詞する前から、SMAPが歌うはるか前から聖書に書いてありました。

 賜物を人と比べるのは愚かです。あなたの賜物は何ですか。私たち一人一人は神のユニークな作品なのです。だから、あなたの賜物を用いましょう。
今年、賜物を用いて、主に仕え、教会に仕え、身近な人に仕え、そして、あなたの賜物を生かした方法で福音を伝えていきましょう。

 「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(第1ペテロ4:10)

 →あなたの番です
  □新年のために祈る
□今年、人を愛すと心に決める
□賜物を用いて主の栄光をあらわす年にする

イザヤ43:18~21 新しい事


 新車。新婚。新大陸。新学期。新人。新生児。新年。
 不思議ですね、新しいという言葉が付くだけで新鮮になります。
 どうしたら新しくなれるのかを、考えてみましょう。

1、新しい事をする神

 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。」(イザヤ43:16~17)

 かつてイスラエルの民はエジプトで奴隷生活を余儀なくされました。逃げようとしても、紅海が道をはばみました。ところが、神は今まで考えつかないような新しい方法でイスラエルの民を助け出して下さいました。海に道を作られたのです。海の中の道です。

 今日の箇所で、神は再び新しい事をすると語られました。「海の中の道」ではなく、「荒野に道」いう方法によってです。

 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(19節)

 イザヤが活躍した時代はユダ王国の末期でした。つまり、イスラエルの人々がバビロンに捕囚として連れて行かれる前のことです。やがてユダ王国は滅亡し、奴隷としてバビロンに連れて行かれます。神がイザヤを通じて預言されたのは、イスラエル人をバビロンから連れ戻すということでした。今度は、海の道ではなく荒野に道を作ると言われたのです。

 新しくなるにはどうしたらいいか。それは、新しいことを行う神を信頼することから始まります。神は、私たちが見たことのない新しいことを企画し実行される方です。
年のはじめに、新しいことをする神をたたえ、信頼し、導きを求めましょう。



2、私たちも新しい事を始めよう

 神が新しい事をされる方なら、神のかたちに造られた私たちも同じDNAがきっとあるはずです。新しい年、新しい事にチャレンジしませんか。

 私はこんな事を考えました。神は私たちに二つのスーツケースを与えて下さったのではないかと思うのです。

 一つのスーツケースにはたくさん物が入っています。そこには、決まったスケジュールがびっしり組み込まれていて隙間がありません。毎日の決まりきった仕事に疲れ果て、家族との関係も自分自身も見直すこともできません。このスーツケースは、何かを変えたいのに何もできないという日常を象徴したものです。

 もう一つのスーツケースには何も入っていません。多くの人は、このスーツケースの存在を知りません。でも、必ず空のスーツケースを持っています。
そのスーツケースに名前を付けるなら、夢のスーツケース、ミニストリーのスーツケース、愛情のスーツケース、生きがいのスーツケース、と呼んでも良いでしょう。
 今までのスケジュールや毎日の繰り返しを見直して、本当にやりたい事に取り組んでみませんか。一番大事なことに時間を使いませんか。大切な人と心通わす時間を作りませんか。あなたの夢を実現しませんか。

見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(19節)

 神は新しい事をされる神です。私たちを新しくするプロフェッショナルです。
新しい事に挑戦しませんか。主のためにあなたの人生を燃やし尽くすような生き方をしてみませんか。主にあって、あなたの夢を実現しませんか。

 雪が降り積もった早朝の景色が新年です。
積雪が多い朝は道の場所さえ分かりません。
道はあなたが作るのです。
神は、あなたに新しい道を進んでほしいのです。

 今年、誰かに福音を伝えましょう。
新しいミニストリーを始めましょう。
身近な人に、きちんと愛を伝える時間を作りましょう。

 祈って、勇気を出して、スケジュールを組んでみませんか。


「見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。」



第2列王記7:2~15 良い知らせの日


 北王国イスラエルの首都サマリヤは、アラムの軍隊により包囲されて食料は底をつき、鳩のふんまでも売られる有様でした。年代で言えば、紀元前840年ごろの事でしょう。
 悪い知らせばかりで気がふさぐ時、実は、良い知らせがあったのです。


1、どうせ死ぬんだ

 ツァラアトに冒された人たち4人が主人公です。重い皮膚病のため隔離生活をしていた彼らは、往来の多い町の門で物乞いをしていましたが、何の成果もありませんでした。

たとい、私たちが町にはいろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死ななければならない。ここにすわっていても死んでしまう。さあ今、アラムの陣営にはいり込もう。もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。(第2列王記7:4)

 どうせ死ぬのだ。居直りは強いものです。サマリヤの町の門で死ぬ事も、敵軍のアラムの陣地で死ぬのも同じだ。一か八か、アラムの陣営で食料を恵んでもらおう。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」(マタイ10:28)と主イエスは言われましたが、居直りの上を行く究極の確信です。

こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。見ると、なんと、そこにはだれもいなかった。(5節)

 天幕に入ると豪華な食事が残されていたので、彼らは腹いっぱい食べて飲みました。あたりを見渡すと宝物の山でした。それで宝を抱えて自宅に隠し、それを何度か繰り返しました。

 笑いがこみ上げてしょうがなかったでしょう。


2、これでいいのか

漫画の天才バカボンでは、「これでいいのだ」という決めぜりふがありました。でも、重い皮膚病の4人は、これではいけないと思ったのです。
笑いが込み上げた後、後ろめたさが襲ってきました。これでいいんだろうか。俺たちだけ、こんなに幸せでいいんだろうか。サマリヤの町には飢えて死にそうな人がたくさんいる。

彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(9節)

 自分だけの幸せ。自分だけの安心。自分だけの宝。それでは、いかん、と気づくことが大事です。良い知らせは、自分だけで隠し持つべきものではないのです。


3、門衛に呼びかける

彼らは町に行って、門衛を呼び、彼らに告げて言った。「私たちがアラムの陣営にはいってみると、もう、そこにはだれもおらず、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」(10節)

彼らの報告を聞き、王はアラム軍のしかけた罠だとにらんで偵察隊を送りましたが、確かにヨルダン川を越えて自国に逃げたことを確認しました。アラム軍は、エジプトの軍隊が大挙してイスラエル王国を救助に来たと勘違いしたのです。(6節)

今日、まるで敵軍に包囲されて出口がないような人がいるかもしれません。神は、一瞬で包囲を解かれる方です。主を信頼して、神のときを待ちましょう。

 ところで、ツァラアトの人たちが門番に伝えたのは、真夜中でした。朝まで、待ってもよい時間帯です。なぜ、深夜に伝えに行ったのでしょう。
今、まさに、飢え死にする人がいる。そう気づいたのかもしれません。一刻も早く、良い知らせを伝えるべきだと思ったのでしょう。ツァラアトの人達は、行動を起こしました。アクションしました。サマリヤの町の門に戻り、門衛に叫び、状況を伝えました。

もうアラムの大軍はいない。みんな逃げ帰った。食べ物が大量に残っている。誰も飢え死にする必要はない。みんな、助かるんだ。救われるんだ。


9節の言葉を、今年、心に留めたいと思います。

私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。(9節)
「この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って、朝日が昇るまで待っているなら罰を受けるだろう」(新共同訳)This is a day of good news and we are keeping it to ourselves.(NIV)

あなたは、どんな方法で福音を伝えられますか。

良い知らせを伝えるためのアイデア
     福音を伝えたい人のリストを作り、祈る
     福音を伝えるための名詞を作る
     礼拝に誘い、車で迎えに行く
     知らない日本人に声をかけて友達になる
     一緒に食事をする
     家に呼ぶ
     あなたの作った音楽、絵、文章でみことばを伝える
     人の話をとことん聞く
     苦しみの中にいる人を具体的に支える
     英語で困っている人を助ける
     良い本、ビデオ、CD、サイトをメールで教える

 私は高校3年の時に友達の関根君に誘われて教会に行き、クリスチャンになりました。彼なくして、今の自分はありません。私は何度も彼の誘いを断りましたが、何度も私に声をかけてくれた愛と祈りを心から感謝しています。
 クリスチャンになった後、彼は私にクリスチャンの生き方を見せてくれました。行動で手本を示してくれました。だから、高校に聖書を小脇に抱えて通うようになり、学校で伝道するようになりました。

 イエスさまを伝えるのが苦手な人への助言があります。一人でやらないことです。誰か、信仰の先輩に当たる人と行動を共にして、真似をしてみることです。二人ならできるものです。私も小心者でしたが、関根君の励ましと模範でどれだけ助けられたか分かりません。

 パウロはコリントで伝道していた時、主イエスの励ましを受けました。黙るなと。

 「黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない、この町にはわたしの民がたくさんいる。」(使徒18:9~10)

 私たちの生きている目的の一つは、福音を伝えることです。今年、福音を伝える年にしませんか。あなたの賜物を生かす、伝え方がありませんか。あなたらしい伝え方がありませんか。あるはずです。アクションしましょう。

→あなたの番です。
□今日は、良い知らせの日です
□ためらわず、福音を伝えましょう
□誰かと一緒に伝道しよう

用いてください マルコ11:1~10

 新年明けましておめでとうございます。新年は私たち日本人にとって、心をリセットするのに良い機会です。
 当教会の今年のテーマは「用いてください」です。私たちが、<主よ私を用いてください>という姿勢でいると、私たちの人生はまったく違うものになります。
 
1、驚き

 今日の聖書箇所には、意外性の気分が漂っています。「えっ!」ロバですか。

 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(マルコ11:1~3)

 主イエスは都エルサレムに入る際、あえてロバの子に乗って行かれました。救い主の登場、旧約に預言されたダビデの子なら馬に乗ってさっそうと登場してもいいはずですが、選ばれたのはロバでした。

 主イエスがロバを必要とされたのは、旧約聖書の預言の成就のためでした。神が遣わされる救い主は同時にまことの王であり、ロバに乗って来られるとゼカリヤ書に預言されています。

 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9:9)

 主イエスは、馬ではなくロバが必要だったのです。

 オリーブ山は、山というより岡で、約4キロにわたる峰です。ベタニヤからエルサレムまでは3キロという近さでした。主イエスは、オリーブ山からロバに乗り、谷を下り、谷を上り、エルサレムの城壁の東側にあった門を目指して進まれたことでしょう。

 主イエスがロバに乗ってエルサレムに向かうと、沿道の人々は「ホサナ」と叫んで喜び迎えました。
 ホサナは、アラム語の「ホーシーアー・ナー」で、元来は「今、救ってください」という意味です。この言葉は、本来の意味が失われて、賛美に伴う感嘆詞として使われ、「栄光あれ」とか「万歳」という意味になっていました。人々が主イエスを救い主として喜んで迎えた場面が生き生きと伝わってきます。

 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」(マルコ11:7~10)


2、忘れがたい言葉

 1~6節は、主イエスがロバを必要とされ、弟子たちがそのために使いに出されたという内容です。全体の話の流れから、それほど必要と思われない挿話です。
 ですが、マタイもルカもこの出来事を記録しています。それも、主イエスが弟子に依頼した同じ言葉を実際に弟子が繰り返している場面まで書かれています。

 こうしてみると、主イエスの言葉は弟子たちにとって忘れがたい言葉になったようです。主イエスの言葉は、私たちの心の中に良い意味で引っかかりを残すものが多いのです。

 「もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(マルコ11:3)

 弟子たちは、ロバの持ち主に正しく伝達するため、心で反復したことでしょう。主がお入用なのです、主がお入用なのですと。
 NIVでは、The Lord needs it. となっています。主はロバを必要としている。ロバは。馬のように速く走れない。馬のようにかっこよくない。ロバとは自分のことではないか、と弟子は考えたかもしれません。



3、あなたの応答

 主イエスは、今日、あなたを必要としています。あなたでなければできない事があるのです。全能の神である主イエスが、あなたを必要としています。どうしてもあなたが必要なのです。

 一人の男の子が1918年、ノースカロライナのシャーロットという田舎町の農家の息子として生まれました。16歳の時、主イエスを信じましたが、背が少し高いくらいでどこにでもいる普通の男子高校生でした。
友達を伝道集会に誘うのに熱心だったので、先生にそのことを皮肉られ、クラスの仲間に笑われたりしました。先輩のクリスチャンに誘われて刑務所伝道にでかけて初めて救いの証しをした時は膝ががくがく揺れて決して伝道者にはなるまいと心に決めたといいます。でも、主イエスを伝えたい熱意が強く、フロリダの聖書学校に入学しました。礼拝の説教を依頼され、一生懸命準備して、何度も声に出して練習し、当日を迎えましたが、メッセージは8分で終わってしまいました。練習では30分かかった内容だったのに。
 そんな彼でしたが、次第にクリスチャンでない大勢の人の前で主イエスが救い主であると力強く語れるようになり、多くの人が信じるようになりました。
 テンプル・テラス・ゴルフコースの18番ホールである晩彼は祈りました。If you want me to serve you, I will. これがビリー・グラハムの20歳の時の経験です。
 ビリー・グラハムはラジオやテレビを含めると20億人に福音を伝えたことになり、250万人の人がクルセードで前に出て主イエスを信じました。
 ビリー・グラハムは、この地上を終えて主イエスにお会いできたときには、「なぜ、私を選んだのですか」と聞きたいと自伝に書いています。取るに足らない農家出身の自分を用いられた主イエスへの驚きがそこにあります。


 さあ、あなたの番です。

 自分が弱くて、罪深いと思っていますか。でも、主イエスはあなたじゃなければだめだ、と言っているのです。主イエスが求めているのは、あなたの能力なんかじゃないのです。「あなたが必要だ」と言われる主イエスの言葉への従順さです。

□あなた自身を、「用いてください」とささげましょう。
□あなたのどんな分野を通じて主に用いていただきたいですか。
□あなたの親友を教会に連れてくるとしたら、どんな教会であってほしいですか。そのためにあなたは何ができますか。
□<幸せの発信地>になるため、あなたに何ができますか。
□用い続けていただくために、毎朝聖書を読みましょう。

助けて ルカ11:1~4

 主の祈りは、すごい祈りなのです。

 人の抱える悩みとは、つまるところ現在、過去、未来の悩みです。主の祈りにはそのすべてを網羅した祈りです。あなたは、今生きること自体がとても問題ですか。過去が辛くて前に進めませんか。将来が不安で、冷静さを保てませんか。

1、現在形の祈り

 「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」

 今日食べるものがない。これは、生活の悩みです。切羽詰った大問題です。
笑って話せる貧乏体験がありますか。私は若い頃、パン屋でパンのみみをもらいに行ったことがあります。杉並区の立派なパン屋ですから、残ったパンや切り落とした食パンでもおいしかったことを覚えています。さすがに店頭では惨めな気持ちで一杯でした。
 あなたは、今日、食べ物がありませんか。そういう人は、生ける神にこう祈りましょう。「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」主の祈りは、現実を切り開く力をあなたに与える祈りです。
 今日食べる物にはまったく心配がいらないという人もいるでしょう。そういう人は、生かされているのが神の恵みだと気づく不思議な力を持った祈りになります。
 主の祈りは、現実を切り開く力を与え、謙虚さを人に与える祈りです。


2、過去形の祈り
 
 「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」

 過去の悩みの多くは人間の罪と関連しています。自分が犯した罪を嘆く。取り返しがつかない。人が自分にもたらした悪によって傷がいえない。特定の人を憎んでいる。別な角度でいえば、過去の悩みは人間関係の悩みに置き換えることができるのです。
 主イエスの教えにはバランス感覚があります。赦してくださいと願った自分も、次には人を赦すことがどうしても必要になるのです。「ごめんなさい」と「ゆるします」はセットになっています。人間は必ず失敗する生き物だからです。
 もし、「ごめんなさい」や「ゆるすよ」と最近言っていない人がいたら、心が硬直しているおそれがあります。握り締めている手は、人を殴ることしか考えません。その手を開いてください。誰かと手を繋ぐことができますよ。
 主イエスが教えてくれた祈りは、実に素朴です。罪を赦してください、という祈りです。この祈りをするとき、私たちは正直になり、柔らかい心を持つようになるのです。


3、未来形の祈り
 
 「私たちを試みに会わせないでください。」

 これは将来の悩みですが、角度を変えて言えば、<心>の問題ともいうことができます。心配いらないよ、思い込みすぎだよ、と人から言われても、心配でたまらないというのは悩みの根拠に実体がないということです。でも人間は、明日を思うとくよくよするものです。
 これとは違い、明白な理由で不安になる事があります。来週には手術がある、大事な商談が明日だ、入学試験が迫っている、リストラされる可能性が高い、という場合は深刻です。
 主イエスは、人に安易な幸せを公約しませんでした。むしろ人生には苦しみがあると明言されています。誰も苦しみから除外される人はいません。その厳しい人生で、主イエスが教えてくださった祈りは、「試みに会わせないでください。」というものです。この祈りには、不思議な力があります。不安で立ち止まり、しゃがみこんでしまう人が、この祈りをすると、なぜか勇気がわいてくるのです。神を信頼して、前に進む心に変わるのです。十字架の道を私たちに先立って歩いて下さった主イエスの言葉だから、力があるのです。

 このように、主の祈りは、過去、現在、未来の悩みに立ち向かえる心を与える祈りです。

 主の祈りの全体を見直すと面白いことに気づきます。主語に注目しましょう。<私>の祈りではなく、<私たち>の祈りなのです。主の祈りは、エゴイストを作る祈りではなく、<私たち>という枠をどんどん広げてくれる力を持っています。私一人が満腹すれば良いのではなく、身近な人、日本人、アメリカ人、世界の人が食べられることを望む祈りに発展します。
 主の祈りの特徴をもうひとつ。主イエスは私たちの悩み全体を良く知っておられるという事です。私たちの悩みの深さを本当に良く知っておられるという点に私は感動するのです。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている。」(ヨハネ黙示録2:9)

 心を静めて、神を父と呼んで祈りましょう。父の懐で愛を受け、父を礼拝し、父を世界に伝えたいという思いに導かれ、父の御心に従うという心が私たちを包んだ後に、今日学んだ後半の部分を祈るのです。あなたの過去の問題、今の生活の課題、明日の心配、すべてを祈りによって神に伝えましょう。
 現実を切り開く力と謙虚さ、罪をあやまる正直さと人を赦す柔らかな心、そして、神への信頼と勇気を持って未来に立ち向かう人になりたいなら、主の祈りを心を込めてささげましょう。

父に祈ろう ルカ11:1~4

 今年の教会の標語は「父に祈ろう」です。経済不況が本格化する年に、神を父として親しく呼んで祈っていきたいと思います。 

 今日、取り上げるのは、有名な主の祈りです。主の祈りといえば、マタイ6:9からが有名ですが、ルカ11章も間違いなく主の祈りです。一字一句マタイの主の祈りと同じでないところに味があります。二種類の主の祈りがあるというのではなく、主の祈りに込められた中心思想が一つだと理解すべきでしょう。

 主の祈りといえば、「天にまします我らの父よ」という導入の句が有名です。これは今から120年前の文語訳聖書の言葉です。幼稚園の頃覚えて、大人になって教会に来て、同じ言葉の主の祈りに出会って嬉しかったという人も多いでしょう。英語の主の祈りでよく知られたフレーズはキングジェイムズ訳で、これは今から400年前の文章です。

 「父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。」(2節)

 主イエスの祈りの最も大きな特徴は、神を父と呼ぶことです。

 ところで、あなたのお父さんはどんな人ですか。我がまま勝手なおやじですか。小さいことまで管理したいせこセコイ公務員タイプの父親ですか。あなたに暴力を振るったり、言葉で罵倒するいやな奴ですか。酒飲みで博打好きでろくでもない風来坊ですか。少しも話を聞かない父ですか。
あなたの実際の父親のイメージが悪いと、神を父と呼ぶ場合に抵抗感が生じてしまいます。宗教改革者ルターも怖い父親イメージがあったので、最初は苦労したようです。

 主イエスは祈るとき<父>と呼びかけ、また、私たちにもそれを勧めました。十字架につく前夜、ゲッセマネで祈られた主は、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。」(マルコ14:36)と祈りました。アバというのは幼児語で、とうちゃんという雰囲気がにじみ出た言葉です。主イエスはそれほどに父と親しい関係をお持ちでした。
 「あなたがたは、……子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ。父。』と呼びかけます。」(ローマ8:15)こうした聖句を見ていくと、私たちが、父さんと呼んでいいのだと分かります。

 2節をものすごく分かりやすく表現してみましょう。父さん、私は父さんが大好きです。みんなが父さんのことを知ってくれたらいいのに。

 あなたが一番言いやすく、親しみを込めて呼べる方法で、神を呼んでください。「父ちゃん」でもいいし、「おとん」でもいいです。神のふところに飛び込むように、父さんと語りかけて下さい。そういう真実な祈りができると、祈りは変化します。

 36歳の主婦が新聞に投稿している文書を読んで、私は心がほんわかしました。結婚10周年の記念の日に、夫がプレゼントをくれました。「好きなように使っていいよ」と封筒を渡したのです。開けてみると、1万円札が100枚。100万円が入っていました。毎月1万円ぐらいを貯金して来たのです。もし、この夫婦に子供がいて、その意味が分かったらきっとこう言ったでしょう。僕のお父さんは凄いよ。100万円をお母さんに上げたんだ。ねえ、すごいよと友達に言って回ったことでしょう。

 あなたの、神を父さんと親しみを込めて呼びましょう。そして、どんなことでも祈りましょう。

「キリストのために生きる」 ピリピ1:20、21

 新年あけましておめでとうございます。

 悔いのない人生を送りたいと、思いませんか。年の初めは普段考えない大きな事を考えましょう。ドーンと大きな視点で自分を見つめましょう。

 ハワイではどんな家にもアリが入ってきます。高層コンドミニアムにもアリは来ます。ある日私は、透明なコップの縁にアリが一匹いるのに気づきました。アリは左周りに歩き出し、出発地点に戻っても左に左に歩き続けました。いつまでたっても回り続けました。毎日の生活にだけ追われている人はこのアリと同じです。そこから抜け出しましょう。

「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、
いつものように今も大胆に語って、
生きるにしても、死ぬにしても、
私の身によって、
キリストのすばらしさが現されることを求める
私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」。
(ピリピ1章20、21節)

 パウロは、自分の体を通してキリストの素晴らしさを現すために生きていました。ですが、パウロのこのときの状態を考慮すると、よくも言えたと感心します。この時、パウロは牢獄にいたのです。
過去を振り返ればクリスチャンを迫害し死に追いやった暗い過去があります。現在は牢獄の中にいて、パウロの素行を疑問視する向きもありました。将来はというと、何の保障もなく死刑の可能性もありました。
 そのパウロはそんな「自分の身」をもってキリストをあかししたいと願っているのです。突き抜けています。牢獄の天井を突き破るくらい、目が天に開いています。貫く心棒がはっきりしています。このパウロの言葉を読んだ多くの人が2000年間励まされているのです。

 1964年の東京オリンピックからもう40年以上時が過ぎていますが、私が記憶に残っている陸上選手の名前があります。カルナナンダ選手です。
 1万メートル決勝に出場したセイロン(現在のスリランカ)の選手です。400メートルのトラックを25周し、有名選手は30分を切ってゴールします。すべての選手がゴールしましたが、カルナナンダはまだ走っています。苦しそうに走ります。1周したときには、7万5千人の観衆からあざけりの反応が出ました。2周しました。まだゴールになりません。3周して、あきらかにラストスパートをかけ、全力で走ってゴールしました。観衆の空気はがらりと変わり、感動と声援がスタジアムを包みました。
 カルナナンダ選手は、インタビューに答えてこう言いました。昨晩高熱が出ましたが、力を振り絞って走りました。娘が大きくなったら、父さんは東京で頑張ったと言ってやりたい。28歳、ゼッケン67。

あなたもキリストのために走ろう。この世界の基準なんてたいしたことはない。カルナナンダ選手も、勝利のために走らなかった。記録のために走らなかった。故郷にいる家族と娘のために走ったのです。
僕らもキリストのために生きよう。キリストに再会するとき胸をはって語れる人生を送ろう。「いつか、そうなりたいね」と言っているなら、左周りのアリと同じになる。悔いのない人生を送りたいなら、今、この瞬間からそれを始めればいい。
キリストのために、という生き方を始めたら、誤解されるかもしれない。笑われるかもしれない。損するかもしれない。それでもいい。キリストのため、具体的なアクションを始めよう。