新しく生まれる ヨハネ3:1~8

ある中年の男性のところに妖精が現れ、何でも願いを聞いてあげようと言ったそうです。(これはもちろんジョークです)20歳若い妻がほしいと願いました。妖精は、分かった、目を閉じて10数えなさいと命じました。数え終わって目を開けて、家の中で妻を捜しましたが、何も変わっていないのでがっかりです。妻は夫の顔を見て言いました。「どうしたの、急に老け込んで」男が鏡を見ると、20歳年老いた自分がいました。願いはかなっていたのです。

 今日のテーマは、新しく生まれるという事です。

1、歳をとってもやり直せるのか

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」(ヨハネ3:1~2)

 ニコデモは当時の有力者でした。「パリサイ人」であり「ユダヤ人の指導者」(1節)であり、「イスラエルの教師」(10節)と言われています。現代のアメリカに置き換えれば、ベテランの上院議員で、有名大学教授といえるでしょう。
 ニコデモが、夜、そっと、お忍びでやって来たのは、宗教指導者パリサイ派の同僚に自分の行動を知られたくなかったからです。パリサイ派の人々は主イエスを嫌悪していましたが、ニコデモは、主イエスが神から遣わされた人だと信じていました。
 名誉も、財産も、地位も、権力もあるのに、ニコデモは満ち足りていませんでした。

 ニコデモは目的を持って主イエスに会いにきましたが、挨拶に終始して本題に入れません。主イエスは、ニコデモの求めを見抜き、ズバッと言い当てました。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

ニコデモが求めていたのは、新しく生まれる、ということです。ニコデモは涙ぐましいほど本気だったので、次のように生真面目に質問しました。

ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)

 この質問から、ニコデモが3つの事を考えていたことが分かります。
     かなりの高齢になった自分でも、人生をやり直したい。
     母の胎に戻ってでも、やり直したいという熱意を持っている。
     新しく生まれることはとても難しい事で、今では絶望的な気持ちで過ごしている。
 あなたはニコデモに似ていますか。あなたは新しく生まれたいと思いますか。


2、風が吹くと、木の葉が揺れる

 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:5~8)

 新しく生まれる力は、自分の内側にはなく、自分の外からやってくると主イエスは言われました。これが大事なポイントです。3節の「新しく生まれる」の直訳は、上から生まれるとなっています。上から、つまり神によって変わるのです。

 もし、自分の努力や頑張りで自分が変わるのなら、とうの昔に変われたでしょう。でも、無理なのです。そのことを、主イエスは、肉によって生まれた者は肉でしかないという表現で説明されました。新しく生まれたいなら、肉を捨てることです。つまり、努力、強い意思、真面目さ、忍耐、という自分の力による頑張りを捨てて、神に任せるという受け身の姿勢が必要です。

人を新しく生まれ変わらす力は、まるで風が吹くようなものだと主イエスは言われました。あなたは一枚の葉っぱなのです。木の葉は自分で自分を揺らすことはできません。あなたという木の葉をさやさやと動かしてくれるのは、外から吹く風なのです。

 このことを主イエスは、別な表現でも説明されました。人は水と御霊によって生まれるのです。水とは、洗礼の水、バプテスマの水です。バプテスマとは、何を意味するでしょう。イエスさまを私の救い主と信じますという公の信仰告白です。ですから、人が新しく生まれるために必要なものは、信じることなのです。信じる人の心に神の風が吹き始めるのです。
 
 自分のありのままの姿を神の前で見つめましょう。みっともない姿かもしれません。汚れていて、ねたみやすく、欲望の塊かもしれません。何でも人のせいにして、すなおでなくて、外側ばかり飾る空っぽ人間かもしれません。自分の姿を神と共に見つめてください。

 あなたを会社に例えるなら、100兆円の負債を負って倒産した会社なのです。車で言えば、バッテリーが死んだ車です。キーをまわしたり、ボンネットを開けてあちこちいじっても無駄なのです。友達が呼んだAAAが後ろに来ているので任せればいい、頼めばいいのです。
 あなたの人生のAAAは、イエス・キリストです。

生物学的な父親以外に、義理の父が5人いた男子高校生がいました。つまり、お母さんが5回離婚したのです。大人は信じられない。人生は単なるゲームだ。真面目に生きるのは意味がないと考え、麻薬漬けの毎日を送っていました。そんな時、高校の学食で誰かが熱心にイエス・キリストの話をしている姿に出会いました。話をしている人も麻薬におぼれた過去があると分かりました。一番後ろで話を聞いていましたが、最後に前に進み出て、イエスさまを信じる祈りをしました。
その翌日、マリファナをやろうと取り出しましたが、止めようという気持ちが自分の内側から起きるたことに驚きました。聖書を学び、自分が変えられていくことが分かりました。この高校生とは、リバーサイドの大きな教会で牧師をしているグレッグ・ローリー先生のことです。


 あなたの番です。
□自分は倒産した会社だと気づきましょう
□主イエスに任せて、新しく生まれ変わらせて頂きましょう
□すでに信じている人は、もっと御霊の風に身を任せましょう
 
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

ルカ15:11~24 神は捨てない

今日から、聖書のエッセンス、「福音とは何か」というシリーズを始めます。取り上げる箇所は、ルカの福音書から「放蕩息子のたとえ」です。ポイントは3つあります。1、人間の本質は何か。2、どうしたら神に立ち返れるか。3、神とはどんな方か。

1、人は自己中心で欲望追及の毎日を送っている

弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。(ルカ15:12~13)

弟息子は、財産の生前贈与を父に求め、聞き入れられました、手にしたことのない大金を持ち、意気揚々と都会に出かけました。そこで、放蕩三昧の暮らしをしました。酒を浴びるほど飲み、宴会騒ぎをし、不道徳な行為をすることを指します。30節で兄が言及していますが、性的にみだらな行為にのめり込んだようです。
主イエスが取り上げた最初のポイントは、人間が自己中心で、欲望追及を目指す存在だということです。

人は自己中心です。それは写真の見方ですぐに明らかになります。5~6人で写真を撮ってもらいます。どの写真がいい写真かみんなで話すと、「これが良い写真」だとすぐに分かります。それは、自分が良く撮れている写真のことです。集合写真を見るとき、必ず最初に自分の顔を捜します。人間は、自己中心な生きものなのです。

また、人間は、欲望を追い求める存在です。外国に一人で出張し、仕事が終わって現地で4日間の休暇がもらえたとします。カジノで20ドルだけ使いましたが、驚くことに100万ドルもうけました。あなたは一人、休暇もあるし、金もある。あなたなら、どうしますか。何を考えますか。放蕩息子のたとえが、がぜん現実味を帯びてきます。

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。(ルカ15:14~16)

 現代風に言えば、世界恐慌の到来です。就職口がない。食料が極端に少なくなり、高騰して流通しない。弟息子は知人を訪ねますが、劣悪な労働環境で、食べ物はもらえず、寝る場所だけを手にいれましたが、空腹で死にそうでした。



2、どのようにして神に立ち返ればいいのか

 私達人間は、欲望追及の人生を夢見ていますが、ある日、我に返ります。我に返る条件は、第一に、みじめな失敗をすること。第二に、金がなくなること。第三に、孤独になり、心の理解者が誰もいなくなることです。

 我に返って、神のもとに戻りたいと人は願います。でも、どうしたらいいのか分かりません。放蕩息子の祈りは、神に帰る方法を教えてくれます。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』(ルカ15:17~19)

弟息子は、二つの悔い改めをしています。天に対しての悔い改め、もう一つは、父親に対する悔い改めです。真実味があって、謙虚な言い方をしています。私たちも、同じ祈りをすれば神に立ち返ることができるのです。

弟息子は、自分の放蕩生活で、父親の顔に泥を塗ったことに気づきました。父親が汗水たらして蓄えた財産をあっという間に失った親不孝者だと悟りました。こんな人間は、息子の資格を失ったと本気で考えたのです。



3、まことの神は、走り寄る神

 弟息子は、実家に戻りました。ぼろぼろの心とぼろぼろの着物で帰りました。息子として迎えてもらうためではなく、きちんと謝罪することと、雇い人にしてもらう事だけを念頭において帰りました。

父親は毎日のように遠くに目を凝らし、息子の姿を捜していたようです。失敗するが、帰って来ると信じていたようです。父親が走り寄り、息子の首を抱き、何度も口づけしました。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。(ルカ15:20~24)

走り寄り、抱きしめる父親。この父親の姿は、どの時代でも、どこの国でも、あり得ない姿です。こんな父親は地上にはいません。主イエスは何を言いたいのでしょう。これが、神なのだと語っておられるのです。

 日本からアメリカの大学に留学するにはかなりお金がかかります。私立大学で生活費も高ければ、年間300万円はかかるかもしれません。ESLのクラスに入り英語の勉強をするので、日本人留学生は卒業するまで5年くらいかかりますから、総額1500万円になります。
たとえば、卒業前に麻薬に手を出し、逮捕され、国外追放になって日本 に戻ったとします。父親は何と言うでしょう。卒業できずに退学になり、1500万円は無駄になったと話せば、父親は、どんな反応を示すでしょう。あなたを 殴るか、放心状態で天井を見上げるか、肩を落としてため息をつくかでしょう。
こういうたとえで話せば、放蕩息子の父親がいかに普通でないかが分かるでしょう。

息子がごめんなさいと言ったから、父親は抱きしめたのですか。いいえ。息子が何かを言う前にすでに抱きしめていました。神は、無条件で、両手を広げ、あなたの帰りを待っています。

息子は準備していた言葉(18節)を最後まで言えましたか。いいえ。言えません。

父親は、息子が言おうとしている言葉が分かったようで、あえて言葉を遮りました。最高の洋服と指輪と靴の用意と、パーティーのしたくを使用人に命じています。お前は、靴をはけない奴隷ではない。息子の印である指輪をもう一度与えよう。お前は、私の子供だ。誰が何と言おうと、私の子だ。

主イエスを信じた人を「神の子」と聖書は呼びますが、その言葉の意味を深く考えさせてくれる放蕩息子のたとえです。

私も、放蕩息子のたとえのような歓迎と食事を受けたことがあります。今も、その時のことを思い出すと涙が出ます。さあ食べなさい、着なさい、使いなさい、とたくさんの人が私を応援してくれた日々を私は決して忘れません。

あなたがどんな人生を送ったとしても、帰るところがあります。私は、強い確信をもってそう言えます。神はあなたを待っておられます。さあ、帰りましょう。放蕩息子のように祈りましょう。

→あなたの番です。
□自己中心、欲望追求の人生を止めましょう。
□二つの悔い改めをして、神に戻りましょう。
□無条件に赦し受け入れる神を知ったなら、あなたも誰かを両手を広げて受け入れましょう。