怒っていますか。この詩篇は、怒っているあなたのための詩篇です。
アメリカに住み始めた人は、たいていカルチャーショックを経験します。日本で当たり前にできたことが、ここではうまくいかない。英語が下手なので、無視される。小さなフラストレーションが積み重なって、怒りが爆発してしまう。これは、誰もが通る道です。
ダビデの怒りは、それとは違いました。表題にあるように、ベニヤミン人クシュに対して強い怒りを持っています。巨人ゴリアテに勝利するほどの勇士が、大勢の敵を向こうに回してもひるむことない戦士が、たった一人の男の挙動に悩まされています。この敵がサウル王だと言う人もいますが、推測の域を出ません。あなたにも、「ベニヤミン人クシュ」がいますか。
1、正しさを主張するダビデ
「私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら」(3、4節)
ダビデは自分の正しさを主張しました。裏切ったこともなければ、陥れたこともない、自分のメンツにかけて、そんなことはしていない、と敵の悪口、批判に強く反発しました。
「主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。」(8節)
ダビデは自分が正しいことを強調し、誠実に歩んで来たと述べました。それも神の前で言い切りました。ダビデは窮地に陥っていたのでしょう。敵の非難が身にしみたのでしょう。
一般的に言って、自分の正しさを頑固なまでに振りかざすときは、自分自身を落ち着いて省みることが必要かもしれません。
2、怒る神?
ダビデは自分の怒りを神の姿に投影している、と私には思えるのです。
「主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。」(6節)
「神は正しい審判者、日々、怒る神。」(11節)
ダビデによると、神は「日々、怒る神」です。けれども、ダビデは別な詩篇でこう言っています。「私は悩み、貧しいのです」「主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵とまことに富んでおられる方。」(詩篇86篇1、15節)
どちらのダビデと一緒にいたいですか。自分が誠実だと神に訴えているダビデと、自分が貧しいことを認め、神が怒るのに遅い方だと告白するダビデ。私は後者のダビデと一緒にいたいです。
家内は私に、「落ち込んでいる時のあなたが、ステキ」と言ってくれて、とても慰められています。
あなたは、無実の罪で疑われたことがありますか。そんな時、この詩篇7篇に流れる強い言葉に共鳴することでしょう。
3、いと高き方
怒りを神にぶつける祈り。自分の正しさを主張する祈り。敵に鉄槌を下してほしいと懇願する祈り。いずれも、悪いことではありません。霧が晴れて、遠景が見えてくるように、神の前での祈りは、2つのものをはっきりと見せてくれます。神がどんな方か。自分はどんな人間か。
「その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。」(17節)
最後の節、この詩篇の結論で、神を「いと高き方」と呼びました。詩篇の中で、神を「いと高き方」と呼んだのは7篇がはじめてです。地上の様々な権力の上に神はいます。遠いのではなく、はるかに超越している事実を「高い」と表現しています。
正義、メンツ、こだわり、勝ち負け、などからまったく離れた視点を持ちませんか。正しい審判者を、落ち着いた目で見上げることができたなら、敵が小さく見えます。敵が掘った落とし穴に、敵が落ち込むと確信できます。「彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。」(15節)勝った負けたと騒ぐじゃないよ、です。私たちの神は、高みからすべての地上の営みを曇りなく見ることができるのです。あなたが貫いている正義の辛さや無念さを神は理解してくださるのです。
「義は天から見おろしています」(詩篇85:11)
あなたは今日、不当な扱いを受けていますか。無実なのに訴えられましたか。卑劣な中傷を受けていますか。
→あなたの番です
1)あなたの怒りを、そのまま祈りにして、神に聞いていただこう
2)いと高き方を見上げよう
3)悪者はおのれの掘った穴に落ち込むと達観しよう
今週、がっかりするようなことが起きたら、「いと高き方」を見上げよう。