人生で一番大事なことは何か。たまには、こういう大きな質問をしてみよう。
1、人は何のために生まれてきたのか
今日の箇所は受難週の出来事でした。神殿で行われていた律法学者と主イエスの論争を聞いていて、主イエスに関心を寄せた律法学者の一人が、かなり本気になって主イエスに質問しました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(28節)
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(30~31節)
主イエスは、最も大事な事が、霊的に成長する事だ、聖書知識を増やすことだ、深い悟りを得ることだ、力強い賛美をすることだ、長く祈ることだ、伝道することだ、正義を行うことだ、と言われませんでした。
主イエスの答えに注目して下さい。一言に凝縮するとしたら、どうなるでしょう。最も大切な命令は、愛すこと、なのです。
私たちは誰かを愛すために生まれてきた、と言い切っても良いのです。
2、「愛す」とは、何をすること?
さあ、ここからは、あなたの番です。主イエスは、愛を考えなさいとは言われません。実際に、愛しなさいと言われたのです。
そこで、数学の素因数分解をするように、誰かを愛すということを具体的な要素に置き換えてみましょう。愛すということを、別な言葉に言い換えてください。
先を見ないで、まず、あなたが考えて書き出してみてください。
次の項目は、私が考えたもので、「愛する」という事を具体的な行為に書き直したものです。
□ありがとうと言う
□ごめんなさいと言う
□ゆるす
□尊敬する
□話を聞く
□その人のことを、しばしば考える
□その人のために、何かする
□共にいる
□愛していると言葉で伝える
私たちが不幸だと感じる瞬間は、こちらが努力したのに「ありがとう」と言ってもらえない時、苦しめられても「ごめんなさい」と言ってもらえない時、ごめんねと言ってもゆるしてもらえない時などです。だから、ひっくり返して考えればすぐに分かります。誰かにしてもらうと嬉しいこと、それが、具体的な愛です。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(31節)と主イエスが言われた意味が分かりますね。
私は、10年間、夕食後、妻と手をつないで語り合ってきました。子供の頃の話や学生時代の昔話をして大笑いしたり、子供たちのことを話題にしたり、バーゲンセールで安い買い物をしたり、日本に旅行する計画を話したり、テレビドラマを話題にしたり、何でも話しています。
かつては、こうした時間が無駄な時間だと思った時期もありました。でも、今は、かけがいのない無い時間になりました。この世を去るまでずっと続けたいと思っています。妻が望んでいた語り合いのひとときが、私の喜びになりました。
あなたは、今日、今週、誰を愛したいですか。何をして、愛を伝えたいですか。
3、二つとも大事
主イエスの答えは、少し奇妙です。律法学者は最も大切な一つを尋ねたのですが、主イエスは2つあると答えました。「この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(31節)
32~33節を見ると、律法学者が主イエスのその答えを聞いて、興奮ぎみに同意している雰囲気が伝わってきます。二つが大事だという考え方に驚嘆しているのです。
「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」(32~33節)
人だけを愛し、神を愛すことをしなければ、どうなりますか。困った人のために泥棒することが合理化されます。純粋な愛だと思い込めば、不倫も正当化されます。
その反対のケースを考えましょう。神を愛すと叫び、賛美する事を喜び、聖書の真理に興奮し、神との交わりで恍惚状態を経験できても、妻や夫との関係が離婚寸前という場合も起こります。神との交わりに、配偶者がじゃまだと考える人さえいるかもしれません。
愛が健全になるためには、「神を愛すこと」と「人を愛すこと」が切り離されてはいけないのです。二つで一つなのです。
あなたは、神への愛と人への愛で、どちらが強いですか。(どちらも弱いですか?困りましたね)弱い愛のほうを、もっと豊かにしましょう。
神を愛すことが弱い人は、上に上げたリストを神に向けてください。そうすれば、自然に神を愛せます。つまり、感謝、悔い改め、賛美、聖書を読む、みこころを求める、献金、祈り、礼拝をすることになりますね。
神を愛していますか?神のために、という動機で、あなたはどんなことをしたことがありますか。朝聖書を読むディボーションは、突き詰めて考えると、誰のためなのでしょう。
素朴に伺います。神さまが微笑んでくれることは何かと考えたことがありますか。それが何か分かって、実際に行動したことがありますか。神に、「主よ。あなたが大好きです。」と言ったことがありますか。
デレク・レドモンド(Derek Redmond)というイギリスの黒人陸上選手がいました。世界選手権400mリレーの金メダリストの一人です。彼が27歳の時、バルセロナ・オリンピック(1992年)に出場し、予選を軽々とクリアし、準決勝のレースの最中に肉離れを起こして顔をしかめてその場に跪いてしまいました。救護の人が様子を見ている中、デレクは立ち上がりました。係員の静止を振り切って、左足だけでピョンピョンという感じでコースを走り始めました。すると、中年男性がコースに飛び出し、やはり係員を振り切ってデレクの肩を抱きました。何か言葉を交わすと、デレクは泣き出しましたが、肩を組んだまま二人はゴールインしました。
男性は、デレクの父親でした。もう走らなくていい、と言葉をかけましたが、最後まで走るとデレクは答え、分かった二人で走ろうと話したといいます。二人でゴールしたときは6万5千人が総立ちで拍手しました。今日では、400m競技の金メダリストの名前は忘れられていますが、デレクは多くの人に知られています。
人生にも同じことが起きます。私たちはコースで立ち止まり、落胆します。主イエスは、私たちをこよなく愛し、私たちの人生に入ってこれらました。そして、私たちを励まして下さいます。この人生で必要なことは、愛すことだ。出世しないかもしれない、金持ちになれないかもしれない、罪を犯すかもしれない、人を傷つけるかもしれない、でも、人生というレースから降りてはいけない。その足で立ち上がるんだ。人を具体的に愛しなさい。そして、神を愛すことを体で覚えなさい。主イエスは、あなたと肩を組んでくださいます。たとえ、人生のゴールが、涙に暮れ、人から失敗と思われる人生であっても、主イエスと共にゴールインできるなら、人生の勝利者となるのです。
さあ、あなたの番です。人を具体的に愛しましょう。神の心を思い巡らし、神のために体を動かしましょう。ふたつとも大事です。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(30~31節)