マルコ14:53~65 主イエスの裁判

裁判とは、真実は何かを明らかにする場であるはずです。でも、主イエスの裁判はそうではありませんでした。

1、深夜の裁判 (53~59節)

大祭司の家で主イエスの裁判が行なわれました。大祭司カヤパのしゅうとアンナスによる予備的な取調べはすでにこのとき終了していました。(ヨハネ18:12~24)
ユダヤの最高決議機関、兼、裁判所をサンヘドリンがこの夜、臨時に召集されました。議員定数は70人、祭司や律法学者、長老たちが主な構成員で、議長は大祭司でした。ミシュナーのサンヘドリンに関する規定には、夜の裁判と大祭司の家で裁判は禁止されていました。大祭司たちは主イエスの支援者や群集による騒ぎを恐れ、死刑を急いだからでしょう。

ペテロは、一度は主イエスを見捨てて逃げましたが、ヨハネの道案内で(ヨハネ18:15)大祭司の庭に入って主イエスの様子を伺っていました。

この裁判は不当でした。なぜなら、判決が先に決まっていたからでした。「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。」(55節)

裁判とは名ばかりで、死刑という結論ありきで、理由付けの場に過ぎませんでした。多くの人が偽証し、主イエスは死刑に値すると語りましたが、辻褄が合いません。議員たちは知識階級なので、矛盾した理屈で判決を下すのには自尊心が許しませんでした。

ひどい裁判だと誰もが思います。でも、私たちも似たようなことをします。あの人が何となく嫌いだと結論を出してから、悪い理由をあげつらいます。
もう少し、公正な立場を取って、人と接してみませんか。



2、沈黙する勇気 (60節)

ひどい偽証が出てきても、どんなに自分が不利な立場に立たされても主イエスは一切口を開かず、弁明しようとしません。大祭司が何か話せと強く挑発しても主イエスは黙っておられました。
イザヤの預言の言葉を思い起こします。
「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)

ペテロが後に手紙を書いたとき、主イエスの沈黙に特に注目しています。
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第1ペテロ2:23)

沈黙には力があります。正しくさばかれる方にお任せしたときの沈黙はとても強いものです。悪の饒舌さは、正義の沈黙に勝てません。
あなたも、正しいからこそ、沈黙を守るときがあるかもしれません。



3、語る勇気 (61~65節)

そこで、大祭司は最後の切り札を使いました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」(63節)

主イエスはこう答えました。
「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(62節)

「わたしは、それです」と訳されていますが、ギリシア語で ego eimi となっています。英語に直訳すれば、I amになります。この言い方は、出エジプトで神がご自身の名をモーセに教えたI am that I am(出エジプト3:13~14)と同じことになるので、大祭司は猛烈に怒ったのです。ありてある者、ご自分の存在が他に依存しないお方、それは神以外ほかにはおられないのです。主イエスはまことの神、まことの救い主です。ハレルヤ。
ステパノが殉教するとき、神の右の主イエスを見ていました。(使徒7:56)

主イエスは、どんなに自分に不利な状況でも、私だ、と言われました。それを言えば死刑だと分かっていても、はっきりと、私だと言われた方です。

1942年6月26日、横浜ホーリネス教会の菅野鋭牧師は治安維持法違反の容疑で逮捕され、厳しい取調べを受けました。聖書によればすべての人は罪人というが、相違ないか、との質問を受け、菅野先生は、相違ありませんと答えました。天皇陛下も罪人かとの問いに、一国民が陛下に関して云々することは畏れ多いことですが、陛下が人間であるならその通りです、と答えました。天皇陛下も主イエスの十字架による罪のあがないが必要かとの問いにも、その通りですこと答えました。
菅野牧師は1943年12月に獄死しました。肺結核でした。菅野先生は、主イエスの後に従う誠実な信仰者だったといえます。

主イエスは、裁判で真実を言う勇気をお持ちでした。その答えが何を意味するか十分覚悟の上での発言でした。十字架の道をまっすぐに進む覚悟でした。


大祭司は、主イエスの答えを聞いてそれ見たことかと大げさに自分の着物を引き裂き、冒涜罪での死刑を議場に求めました。自分を神の子と言ったぞ。メシヤと表明したぞ。父なる神と自分を同格に置き、神の右に座すと言った。雲に乗って来るとまで言った。これは、明らかに冒涜だ。死刑に値する。
議員たちは、無批判に大祭司に同調し、死刑を決めました。その場にいた人々は主イエスに暴力を振るい、主イエスをはずかしめました。

そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当てて見ろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。(マルコ14:65)

弱い者を標的にしていじめるのは子供ばかりではありません。私たち大人も、寄らば大樹の陰とばかりに、多数派に寄りかかり弱者を苦しめることがあります。
主イエスを辱めた人々は、実は私たちの姿です。卑怯ないじめをしてきた私たちの罪をゆるすために、主イエスはその罰を受け、いじめられる者の一人となられたと考えることもできます。


→さあ、あなたの番です。
□時を見極め、勇気ある沈黙を選ぶ
□胸を張ってキリストをあかしする
 □いじめに加担せず、先入観から離れて人と接する