この一節。ヨハネ9章3節。
この言葉で、どれほど多くの人が慰めらて来たことだろう。
傷ついた人、絶望した人、そして、その親たちは、この言葉で生きる勇気をもらってきた。
1、神のわざ
主イエスの弟子たちは、生まれつきの盲人を見て、素朴な質問をした。誰が悪いのか。誰が原因か。弟子たちは当時の人々の常識を述べたに過ぎなかった。盲人に生まれついたのは、本人の罪か、親の罪か。日本人なら、先祖のたたりか、と聞くだろう。
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:3)
なんとパワフルな言葉だろう。なんと積極的な言葉だろう。
神のわざがその人に現れるとは、次の3つの意味があると私は考える。
1)神の力がその人の内部で働くこと。
2)神の力がその人に及んだことが、周囲の人に分かること。
3)本人や親たちが、生生きがいを持つこと。
英語訳聖書では、神のworks がdisplayed in himとなっていて、神のわざがどんなにはっきりと示されるかが分かる。
1)神の力がその人の内部で働くこと。
2)神の力がその人に及んだことが、周囲の人に分かること。
3)本人や親たちが、生生きがいを持つこと。
英語訳聖書では、神のworks がdisplayed in himとなっていて、神のわざがどんなにはっきりと示されるかが分かる。
“Neither this man nor his parents sinned,”
said Jesus, “but this happened so that the works of God might be displayed in
him.(ヨハネの福音書9:3NIV)
滋賀県に近江学園という知的障がい者の施設がありますが、設立者は日本の知的障がい者教育のパイオニアの一人、糸賀一雄(いとが・かずお、1914~68年)です。彼は高校時代にクリスチャンになっていました。彼は、常日頃からこう言っていました。この子供たちに光を、ではなく、この子供たちを光に。障がいを持った子どもたちが自ら輝く素材だから、もっと磨きをかけて輝かそうという発想です。
生まれつき、あるいは人生の途中でマイナスを背負っても、主イエスを信じて輝いる人たちがたくさんいます。たとえば、星野富弘さん、水野源三さん、レーナ・マリヤさん、ニック・ボイチェチさんの人生を見ると、神のわざを見ることができます。
生まれつきの盲人の男性は、主イエスによって目に泥を塗られました。(6節)シロアムの池までは、盲人の足では遠かったはずですが、その池の水で洗いなさいと言われ、アクションを起こしました。あなただったらどうしますか。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(7節)
生まれつき目が見えないということは、あなたにとっては何を意味しますか。
主イエスを信頼し、主イエスの言葉を受け入れましょう。それが、いやされる鍵です。主イエスを信じて、歩き出しましょう。その時、あなたは光の中にいることに気づきます。
2、私は信じます
ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。(14~16節)
9章の後半、パリサイ人らは主イエスを非難し続け、いやされた盲人を尋問し、盲人の両親まで引っ張り出しました。(18~23節)その男性は、何度もパリサイ人に呼び出され、同じ質問をされてうんざりして、詳しいことは分からないが「今は見える」(25節)と述べました。
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(35~38節)
盲人だった男は、会堂の組織から追放されましたが、主イエスを信じ、礼拝しました。
パリサイ人たちはウルトラ頑固でした。生まれつきの盲人がいやされても否定する努力を繰り返し、盲人をいやした主イエスを否定しました。目が開いているのに、目が閉じた状態になっています。(39~40節)
そういえば、日本の三大頑固の産地(?)として知られるのが、津軽、肥後、土佐です。それぞれ、「じょっぱり」、「もっこす」、「いごっそう」、という呼び名があり、頑固な男たちが有名です。生まれた場所に関わらず、人は皆、頑固です。でも、頑固な人ほど、主イエスを信じた後が素晴らしいです。
岡山医大を1948年に卒業した男子学生、青木優(まさる)さんは、将来に夢を抱く医者の卵でした。病院でインターンとして勤務していたある日、目に稲妻のような光が走りました。それは網膜出血で、最終的に失明してしまいます。布団の中に頭を入れ、「なぜだ」と叫び続けました。そんな中でヨハネ9章3節の言葉に出会いました。「この一行の言葉のうちに、私は、イエスが『お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ』と語りかけておられるのを感じた。それは電光のように私の頭上にひらめき、雷鳴のように私の魂を打った」(『行く先を知らないで』より)なぜ、と理由を探すことをやめ。むしろ、この出来事の中にこそ、神の目的があると気づき、神学校に入学、牧師になり、多くの人を励ましました。
あなたにとってマイナスと思える要素は、神のわざが現れるチャンスとなります。あなたのマイナスをプラスに変えるもの、それが、プラスの形をした主イエスの十字架です。
主イエスと主イエスの言葉を信じて、あなたのシロアムの池に出かけましょう。
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:3)
→あなたの番です
□あなたのマイナス要素は、神のわざが現れるチャンスと考える
□主イエスを信頼し、シロアムの池であなたの目を洗いましょう