1、主イエスこそ救い主
主イエスは救い主。
そのことの根拠が12章に6項目あげられている。
1)死んだラザロを生き返らせた。(1節)
2)預言者ゼカリヤの預言した形態で、ロバに乗ってエルサレムに入った。(14~15節)
3)ユダヤ人だけの救い主ではなく、ギリシア人にとっての救い主。(20~23節)
4)父なる神が主イエスの求めに即座に答えてくださる。(28~29節)
5)預言者イザヤの預言通り、奇跡を見ても信じない人々が生まれた。(40~41節)
6)主イエスを見た者は父なる神を見たことになる、との父なる神との同一視。(44~45節)
このように、ヨハネの福音書12章には、主イエスが救い主であるという証拠と証言が並べられています。さて、あなたはどう応答しますか。
主イエスを救い主として信じて、心にお迎えしてください。
主イエスを信じられない人の特徴は、現状維持です。自分の価値観の変更は歓迎しない。今のままでいい、という気持ちです。主イエスが救い主であるという証拠がいくら掲げられても心で反発してしまうのです。
ところで、『人生がときめくかたづけの魔法』(近藤麻理恵著)という本は実際的で理論的にすっきりした良い本です。かたづけのテクニックではなく、かたづける人になることを目指しているところが白眉です。私は収納上手ですが、痛いポイントを付かれて納得しました。収納上手は、不要品を増やすだけだという指摘に納得しました。心ときめく物だけを持ち、それ以外は捨てたりリサイクルに回すことで、生き方が変わるというのはうなずけます。
小さな女の子の宝箱には、ガラスやプラスチックのアクセサリー、折り紙などが入っています。大人の持ち物も、そんなに変わりません。本当は不必要な物を大事に握っています。
主イエスを本当に知ることにより、価値観が変わり、生きる方向性が与えられます。あなたも、勇気を持って、主イエスを救い主として信じ、人生の主として主イエスを心に迎えましょう。
2、主イエスの死に方に学ぶ
ヨハネ12章で最も心の残る言葉は24節です。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)
麦を地面に蒔くことは農夫にとって実に自然な作業です。ですが、主イエスは、死ぬという表現を注意深く選ばれました。麦が自発的に死を選ぶという印象が残ります。
また、麦が死なないならば、「それは一つのままです」という表現にも目を留めてください。死なないなら、何も変わらないのです。
もちろん、主イエスの場合は、十字架で私たちの罪の身代わりとして死ぬという文字通りの死を意味します。
「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」(26節)とあるように、私たちにも「死ぬという生き方」を主イエスは勧めておられます。死ぬことが、生きることなのです。
「自分のいのちを愛する者はそれを失い」(25節)と言われた通り、自分と自分の持ち物や価値観にしがみついていると、大事なことを失います。
マリヤは、主イエスのために、いのちを捨てた人と言えます。マリヤは、年間収入に匹敵する額の300デナリのナルドの香油を主イエスにあますところなく注ぎ切りました。(3~5節)主イエスは、マリヤの行為を埋葬の準備であると理解され、その行為を高く評価されました。
私たちも、今週「死ぬ」ことを選びましょう。自分の安全地帯から一歩出て、身近な家族が笑顔になることを選びましょう。会社の同僚や友人のため、「死ぬ」という決断をしましょう。それが、たとえ皿洗いでも、挨拶を先にすることでも、ありがとうを心を込めて言うことでも、それは小さな「死ぬ」という行為になります。死ななければ、そのままです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(24~26節)
ヨハネ12章を読みながら、バッハの教会カンタータ147番を思い出しました。「主よ、人の望みよ喜びよ」という6番目の曲は有名で、その歌詞がいいです。直訳風に翻訳するとこうなります。私は幸せです、イエスを持っているから。私はイエスを固くだきしめる。イエスが私の心をいやしてくださる、病の時も、悲しみのときも。私にはイエスがいる。イエスは私を愛し、私のためにご自身を差し出して下さる。だから、イエスを放さない、たとえ心が張り裂けようとも。
主イエスは、一粒の麦となり、いのちを投げ出してくださいました。それで、私たちは救われ、罪ゆるされました。だから、私たちも「死ぬという生き方」を生活に取り入れましょう。
「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(36節)
→あなたの番です
□主イエスが預言されていた救い主であると、信じましょう。
□私たちなりに、「死ぬ」ことを選びましょう。