詩篇47:1~10 ほめ歌をうたえ


 全米一の教師として表彰されたロン・クラーク先生は、生徒たちに色々なルールを教え育てました。その一つに、誰かがほめられたら拍手して励ますというルールがありました。ですから、クラスには、手をたたく真似だけする生徒は一人もいません。生徒たちは、短くても3秒間熱心に拍手して、ほめられた生徒に賛辞を送ります。
 詩篇47篇は、全地の王である主に盛大な拍手をして主をたたえる詩篇です。

1、王を喜び迎える

第2列王記を読むと、ヨアシュが7歳で王になったことが分かります。実は、ヨアシュが赤ちゃんのとき、政敵により家族全員が殺され、一人だけ助け出されて6年間かくまわれてきたのです。それで、列席した人々は万感の思いを込めて拍手し、幼い王を力の限りたたえました。

こうしてエホヤダは、王の子を連れ出し、彼に王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。彼らは彼を王と宣言した。そして、彼に油をそそぎ、手をたたいて、「王さま。ばんざい」と叫んだ。(第2列王記11:12)

詩篇47篇を読むと、そうした戴冠式の様子が目に浮かぶようです。主イエス・キリストが世界の王として王冠を受ける時が来るならば、世界のあらゆる民族が、力いっぱい拍手し、喜びの歓声を上げることでしょう。ヘンデルのメサイヤのハレルヤコーラスで歌われるように、主イエスこそ全地を治める王の王、主の主と歌うでしょう。

すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。
まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。
国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。(詩篇47:1~3)

 ほめ歌を歌え」というフレーズが5回も繰り返され、世界の人々に対して、王である神に賛美の歌をささげるようにと呼びかけます。

神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。
神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。
まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。
神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。
国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。
まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。(5~10節)

 主イエスは全世界の王であり、栄光を受けるにふさわしい唯一の方です。私たち人間がすべきことは、主イエスにほめ歌を歌うことです。

 ところで、神をたたえようと思っても、言葉がうまく出てこない人がいます。それは、普段の思考回路がネガティブになっているせいです。家族や友人と食事するとき、誰かを責める、否定することが多い人は、神をたたえる言葉を見つけにくいのです。もっと、もっと、身近な人をほめて下さい。そして、日々、神をたたえる言葉を見つけて下さい。

 人のおもな生きる目的は何かという、ウエストミンスター小教理問答の第一門の答えは、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶというものです。体を動かせない日が来ても、神を喜ぶことは一生涯続けられます。拍手して、喜び叫び、歌で主をたたえ、神のすばらしさをたたえ続けましょう。

 最近、古い車を買いました。車の所有証明書がDMVから送られて来て、 ほっとしましたが、一番上の右に赤枠に「サルベージ」と書かれてありました。事故車と知って買いました。その赤枠を見ていたら、まるで自分のことのように感じました。私も神の目から見れば事故車です。主イエスによって救われ、修理され、今また走れるようになりました。見捨てない主、共におられる主を思うと、主をたたえたくなりました。主はすばらしいお方です。ハレルヤ!


2、神が選ぶ

主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。
主の愛するヤコブの誉れを。(4節)

 神はユダヤ人の祖先アブラハムを召されました。アブラハムの子孫が世界に仕える神の民になるようにと神は願われました。それで神はパレスチナの地を選んで、ユダヤ人をそこに住まわせました。神がユダヤ人の住む場所を選ばれたのです。

 私たちにこれを適用するとどうなりますか。神が、私やあなたのために特別に選んだ土地があるということです。それは何を意味するでしょう。家族、顔や体形、性格、生まれ育った環境などは、私たちが自分で選べません。神が選んで私たちに下さったものです。ユダヤ人は、神の選ばれた土地に住むことで神の栄光を表すことができました。神は、何をあなたに選んでくれたのでしょう。

 ニック・ブイチチさん(Nicholas James "Nick" Vujicic1982年生まれ)については何度か礼拝で触れてきました。ニックは、先天性四肢欠損症としてオーストラリアで生まれました。ニックにとって神に選ばれた土地とは、両手が肩からなく、左足の2本の指が胴体から出ているという体でした。苦しみもがいて成長しながら、クリスチャンの両親に励まされ、ニックもクリスチャンになり、今は結婚しカリフォルニアに住み二児の父となり、伝道者として世界各地で活動しています。
 彼がまだ若い頃、アナハイムのノット・アベニュー・キリスト教会の礼拝で話したことがありました。その時、自分と同じ姿をした1歳7ヶ月のダニエル君と会いました。ひとときの間、ニックは子供時代の自分に戻った錯覚に襲われ苦しい気持ちに襲われました。しばらくして心が落ち着きました。自分と同じ境遇の人は昔は一人もいなかったけど、私が彼を応援できるし、私の両親もあの両親を助けることができる。手足の無い人生は大変だけど、与えられた環境を感謝して生きるなら、世界に貢献できる。人と比較する人生でなく、神から与えられた人生を感謝し、使命に生きるなら生きがいが見いだせる。だから、ダニエル君との出会いはニックに存在意義を強く意識させるものとなりました。

 あなたのための土地を選んで下さった神にほめ歌をうたいましょう。

主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。
主の愛するヤコブの誉れを。(4節)

 →あなたの番です
  □手をたたき、神をほめ歌おう
  □神が選んで下さった土地を感謝する


詩篇46:1~11  神はわれらの避け所


 1986年、バイオリニスト五嶋みどりさんはタングルウッド音楽祭でオーケストラと共演中にバイオリンのE弦を切ったことがありました。14歳だったみどりさんは、コンサートマスターのバイオリンを借りて続きましたが、再び切れてしまいました。再度バイオリンを借りて最後まで弾ききりました。助けられて演奏を全うしました。
 今日の詩篇で一番私が心に残る言葉は、「そこにある助け」です。


1、そこにある助け

詩篇46篇全体を見て下さい。助けを求める言葉がありますか?いいえ。
この詩篇は、苦しみの中で助けを願った詩篇ではありません。どんな苦難がやって来たとしても恐れないという信仰の歌です。将来に向けて、主の守りを確信している詩です。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。
(1~3節)

1~3節は、私たちが苦しむ時、神の助けは必ずそこにあるから、どんな事態にも恐れないと述べています。
そこにある助けの「そこ」とは、大きな試練や困難を意味します。新共同訳聖書では「必ずそこにいて助けてくださる。」と訳しています。苦しみのある場所に、神の助けが必ずあるのです。

川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。
(4~7節)

 4~7節は、神が恵みは川のように流れ出ており、主は寝ている間に救って下さると述べています。
 川は、豊かさ、命、うるおいを表しています。実は、エルサレムに川などありません。エルサレムは山の上の町で、町の中にも、町の周囲にも川は流れていません。夏は一滴の雨も降りません。ギボンの泉という水源が離れた場所にあり、岩盤をくり貫いた地下水道で市内に水が引き込まれているだけでした。

 詩篇の作者は、信仰の目でエルサレムを見ています。神の恵みが大きな川のように都エルサレムに流れ込む姿を見ているのです。目で見える景色が真実の景色とは限りません。神がエルサレムの真中におられ、恵みの川で町中を潤しているのです。
 あなたも、信仰の目を開いてみましょう。神の恵みの大河が流れています。

 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。
わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。
(8~11節)

 8~11節は、神が戦争を終わらせ、勝利を与えて下さったと書いてあります。神の前では、弓も槍も戦車も兵隊も、何の意味もないことが分かります。
 神が、「やめよ」と言って下さるなら戦争も止むのです。争いや試練で心騒ぐとき、心を静め、主こそ神であることを知る必要があります。

 46篇で同じフレーズが繰り返されていますが、これは46篇の核です。大軍を率いた神が私たちと共におられる。ヤコブを愛し守られた憐れみの主こそが、私たちの砦となって下さるのです。

 万軍の主はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらのとりでである。(7、11節)

 あなたも、あなたの人生を振り返って下さい。また、最近受けた主の助けを思い出して下さい。あぶない所で主が介入して下さった経験があるはずです。そこをしっかり押さえて、あなたの感謝ノートに赤線を引き、記憶のしおりを挟んでおきましょう。そうすれば、詩篇の作者と同じ確信に立てます。神はわれらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある助けと言えます。


2、包囲されても

 主が外敵から救って下さった記録が聖書にあります。
 紀元前701年、神の都エルサレムはアッシリヤの大軍に包囲され絶対絶命の危機に立ちました。(イザヤ37章)ユダの王ヒゼキヤは神殿に行き主の助けを求めました。主は、驚くような方法でその祈りに答えて下さいました。聖書学者たちは、この出来事が詩篇46篇の背景にあると考えています。

 主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。(イザヤ37:36)

 宗教改革者ルターは、この詩篇から強い感化を受け、1527~9年に賛美歌を作詞し作曲しました。それが賛美歌267番です。宗教改革の先頭に立ち、命を狙われていたルターにとって詩篇46篇は心励まされる特別の詩篇だったようです。

 イギリス人のウイリアム・ケアリーは、インド宣教に出かけたプロテスタントの世界宣教の先駆者でした。インドの言葉、ベンガル語に聖書を翻訳する働きをしていましたが、ある時、火災が起きて、大切な原稿を失い意気消沈しました。ですが、主がもっと完成度の高い翻訳を望んでおられると理解し、初めからやり直し、1801年に完成させました。

どんな苦難の時にも、主は私たちと共におられ、助けて下さいます。苦しみがあるなら、必ず、主の助けがそこにあります。主は私たちと共におられます。

 「神はわれらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある助け。」(1節)


 →あなたの番です
  □神はわれらの避け所
  □苦しむとき、そこに神の助けがある
  □万軍の主は、「やめよ」と言って苦難を終わらす方


王の結婚式  詩篇45:1~17


 詩篇45篇は、王の結婚式を歌っためずらしい詩篇です。
イギリス王室の結婚式は実に豪華です。花婿は赤い礼服、花嫁は純白のドレスで美しさを際立たせます。この詩篇はそんな場面を彷彿とさせます。

1、王の婚礼

 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。
神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。
雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。
あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。
あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。
あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。
神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。(詩篇45:2~6)
 
前半部分である1節から9節は、花婿である王に対する賛辞です。
 王の権力と正義、そして優しさ、真理、柔和さがたたえられています。また、その王座は世々限りなく続くと歌われています。力と優しさを持つ王は理想の男性像といえます。

 王たちの娘があなたの愛する女たちの中にいる。
王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ。
娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。
ツロの娘は贈り物を携えて来、民のうちの富んだ者はあなたの好意を求めよう。
王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。
彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、
彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。(詩篇45:9~14節)

 後半に当たる10節から17節は、外国から嫁いできた花嫁について述べられています。きらびやかなドレスや金の装飾品や従者たちの姿に目が留まります。また、結婚生活の喜びと子供に恵まれる姿などが語られています。



2、理想の王との結婚

 詩篇45篇は王の婚礼で歌われましたが、それにふさわしい実際の王がいたのでしょうか。純粋な信仰を持った王、ダビデも罪を犯し完全な正義を持てませんでした。賢者ソロモン王も、高い税金を課して国民を苦しめたので優しさや柔和さとは無縁でした。

新約時代に入ると、この詩篇の内容に合致するのがまことの王、主イエスであると理解され、詩篇45篇の6~7節がヘブル人への手紙で引用されました。

御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」(ヘブル人への手紙1:8~9)

主イエスこそ、力ある神、真理と柔和を兼ね備えた真の王です。私たちが100%の信頼を寄せても、裏切られることがないのです。
王は豪華な花婿姿だけでなく、「没薬、アロエ、肉桂のかおり」(8節)などの高級香水で身を包み、その香りをかぐだけでも花嫁は幸福感で満たされました。私たちは、今、主イエスの愛に包まれています。

外国の王家からイスラエルの王に嫁ぐ花嫁には、王への忠誠が求められました。「父の家を忘れ」(10節)、結婚相手の王に「ひれ伏せ」(11節)とあります。
日本の伝統的な花嫁衣裳は白無垢です。あなたの色に染めて下さいという意味があるのでしょうか。父の家とは、つまり外国の文化や伝統、外国の王の王女としての身分などをすべて忘れ、イスラエルの王の妻としての道に専心するようにという勧めです。
クリスチャンにとって「父の家を忘れ」とは、この世の価値観から離れ、キリストが生きるように生きる生き方と説明できます。この世界の罪に傾斜する価値基準から離れ、主イエスへのさわやかな献身が求められています。
主イエスと結婚して生活をすると考えて下さい。それこそが、本当の幸せを得る道です。

あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(2節)

娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(10~11節)

ある男性が女性と付き合っていましたが、別れました。その際、彼は彼女の欠点を何項目に渡って詳細に手紙に書いて送り付けました。彼女は、それを読んで返事を送ってきました。彼の素晴らしい点を列挙した温かい手紙でした。その彼女はクリスチャンでした。彼が受けた衝撃や自己嫌悪は想像できますね。時が流れ、彼は教会につながり洗礼を受けました。「父の家を捨て」る価値観を持っていた彼女の生き方は見事です。

花婿である主イエスをたたえましょう。力と優しさと柔和と正義を持つ主イエスの姿に近づきたいですね。「父の家を捨て」、罪を離れ、主イエスの価値観で生きていきましょう。私たちは、主イエスと結婚生活を送っているのです。

 →あなたの番です
  □まことの王、主イエスを賛美する
  □父の家を捨て、主イエスと生活する

詩篇44篇1~26 「しかし」という名のハーケン


 感謝する事と「しかし」と言うこと。それが、苦難を乗り越える鍵です。

1、感謝する者が、笑い者へ(1~16節)

神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。
あなたは御手をもって、国々を追い払い、そこに彼らを植え、国民にわざわいを与え、そこに彼らを送り込まれました。
彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。(詩篇44:1~3)

 イスラエルの民が歴史を振り返ると、神への感謝が沸き上がりました。エジプトでの奴隷状態から救い出されたのは、自分の弓や剣のおかげではないと理解していました。神に愛され、神の腕によって救われ、神に植えて頂いて約束の地に住めるようになったのです。

それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。
あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。
あなたは私たちを敵から退かせ、私たちを憎む者らは思うままにかすめ奪いました。
あなたは私たちを食用の羊のようにし、国々の中に私たちを散らされました。
(9~11節)
 やがて、イスラエルは外敵により滅ぼされ、国外に離散しました。外国人は、イスラエルの民を見て、神の民のくせにと「物笑いの種」(14節)にしました。ユダヤ人は「恥」(15節)を受けました。

 この詩篇は、苦難の中で主の救いを求める詩篇ですが、冒頭部分が感謝で始まっています。この感謝の通奏低音が苦しみを乗り越える最も大きな基本姿勢になります。
 神は救って下さった。その歴史認識は、現在も、未来も、神は救って下さるという信仰を呼び起こすのです。


2、「しかし」で踏みとどまる(17~19節)

これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無にしませんでした。
私たちの心はたじろがず、私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。
(17~18節)

スイスのツェルマットの町を訪れたとしても、霧が出ていれば眼前のマッターホルンは見えません。試練に遭うことと、神はいないという事柄は同義語ではないのです。苦しみの中でも神の愛や約束は生きています。だから、苦難という谷底に落ちてしまったら、17節にあるように、「しかし」ときっぱりと言うことが大事です。

ハーケンは岩場の割れ目に打ち込む登山用具ですが、どんな絶壁でもハーケンを足場にするなら登ることができます。「しかし」という名のハーケンを試練の岩場に打ち込めば失望の壁も越えられます。
詩篇の作者は「しかし」と言い放った後は、「あなたを忘れません」「あなたの契約を無にしません」「心はたじろがず」「あなたの道からそれません」という信仰のくさびを試練の壁に打ち付け続けました。

 ニューヨーク、ブルックリンのエバンズ牧師が癌と戦ったとき4つのルールを心に決めました。1)不平を言わない、2)家の雰囲気を明るく保つ、3)祝福を数えて感謝する、4)病気を有意義なものに転換する。このようにして、信仰のハーケンを2年間打ち付けて後、エバンズ牧師は天に召されていきました。

 状況がどうであれ、「しかし」という名のハーケンを打ち込み続けましょう。



3、起きてください(20~26節)

だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。
起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。(22~23節)

イスラエルの人々は、自分達があまりにも苦しいので、ほふられる羊の姿と自分とを重ねました。彼らが直面していたのは、何度も何度も殺され続けるほどの苦しみだったのです。それで、「起きてください」、と主に嘆願しています。「立ち上がって私たちをお助けください。」(26節)と神に叫んでいます。

マルコの福音書4章にもこれと似たシーンがあります。ガリラヤ湖が嵐になり、乗っていた小舟が沈みそうになり、十二弟子が主イエスを起こしました。その時、主イエスはぐっすりと眠っておられました。その意味することは何でしょう。この嵐によって死ぬことはない、という意味です。神の沈黙とは、そういう意味を持っていることがあるのです。

パウロは、ほふられる子羊の苦しみを述べた詩篇44篇22節をローマ人への手紙で引用しています。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:35~39)

たとえ、ほふられる羊のような苦難を体験したとしても、キリストの愛から私たちを引き裂くことはできないし、苦難の中で圧倒的な勝利者になれるとパウロは力説しました。この考えこそが新約的視点に立った詩篇44篇の理解なのです。

あるご家庭のことをお話しします。土曜日の深夜、夫が帰宅しました。いつものように酒浸りでした。起こされた妻は、毎度のことでうんざりしましたが、すべての事を感謝しなさいという聖書の言葉を思い出し、寝込んだ夫の横で、感謝の言葉を言い始めました。
 こんな主人でも、いないより、いたほうが良いので感謝します。家に帰って来てくれることを感謝します。酒を飲んでも暴力を振るわないことを感謝します。女遊びをしないことを感謝します。日曜の午前は寝てくれるので、礼拝に行けることを感謝します。感謝といっても、あまりにも低レベルの感謝で、思わず笑い出しました。その声で目覚めた夫が、なぜ笑っているのかと尋ねました。正直に今の話をすると、こんな俺のことでも感謝してくれたと喜んで、今日の礼拝は一緒に行くと約束し、その通り実行したというのです。
 彼女は、「しかし」という名のハーケンを現状に打ち付け、感謝の流れを作って、主の恵みを頂けました。

私は私の弓にたよりません。私の剣も私を救いません。しかしあなたは、敵から私たちを救い、私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。(詩篇44:6~7)

苦しみの中で神が見えない時であっても、キリストの愛が私たちを守ってくれます。「しかし」と宣言して不信仰を振り払い、神の救いを感謝し、自分の弓や腕に頼らず神に信頼しましょう。


 →あなたの番です
  □苦しみの中で、「しかし」と言おう
  □自分の弓や腕に頼らない
  □感謝を見つけて歩み出そう

詩篇43:1~5   絶望が生み出すもの


  絶望から生まれるものがあるのでしょうか。

1、深まる苦悩

 43篇は42篇の一部であり、同じテーマを扱っています。詩篇42篇では、神の不在を嘆き、出口なしの苦難に苦しむ様子が語られました。43篇では、さらに苦悩が深まっています。

神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。
あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を拒まれたのですか。
なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか。
(詩篇43:1~2)

 詩篇の作者は1節で神に訴えています。さばいてください。訴えを取り上げて下さい。敵の言い分を退けて下さい。助け出して下さい。特に、敵の欺きと不正に強い苛立ちを感じています。

 詩篇42:9と詩篇43:2には似た表現がありますが、より深刻になっているのが分かります。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」という言葉は、「なぜあなたは私を拒まれたのですか」となっています。また、「なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか」が「なぜ私は敵のしいたけに、嘆いて歩き回るのですか」となりました。

 傷口に塩をぬられるようなことがあります。今のあなたも、そうですか。


2、光とまこと

どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。
あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。
(3節)

 先の見えない悩みは、まるで暗闇に放り込まれたようです。ですから、暗闇を照らす光を下さいと詩篇の作者は神に願いました。神の光があれば行くべき道が見えます。

 欺きと不正に翻弄されていたので、確かなもの、信頼できるものが必要でした。それで、神のまことを求めました。神のまことは、英語訳でyour faithful careと訳しています。
 Send me your light and your faithful care, let them lead me; (NIV)

神からの光と神のまことがあるなら、エルサレムの神殿で礼拝した時の喜びに戻れると確信したのです。

 日本で牧師をしていた教会に、盲人の教会員の方がいました。その方は自宅から歩いて駅に行き、電車で移動し、最寄の駅で降りて、タクシーに乗り、私たちの教会に通っていました。その間、ずっと盲導犬と一緒でした。主を信じて生きることと、盲導犬と一緒に歩くことには共通点があると彼はよく話していました。自分の全部を盲導犬に託さないと目的地にはつけないように、信仰の世界でも主に全面的に信頼して主の導きに従うことが一番だとその彼は教えてくれました。

 私たちも今、神の光と神のまことを求めましょう。その導きに従いましょう。神の光とは今の私たちにとっては、聖書の言葉、あるいは、祈りの中で与えられる確信と言い換えることもできます。また、神を信じて一歩を踏み出す時に不思議な形で道が開かれたり、思わぬ人からの助けを受けることがありますが、それが神のまことの具現化と言えます。

「どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。」(3節)


3、私の神を待ち望む

こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、
あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
(4~5節)

 この詩篇には、神の解決を受けたという結論は見当たりません。問題は未解決のままですが、エルサレム神殿で神を礼拝する日を先取りしています。
詩篇の作者は、神の不在感を感じ、出口の見えない苦悩の中で神を待ち望んでいます。魂は絶望状態ですが、それを見つめる別の自分が、Put your hope in Godと静かに呼びかけています。

わが魂よ、なぜ絶望しているのかという言葉を読むと落胆した姿に目が行きます。でも絶望しないと見えない景色があります。もう少し積極的に言うと、絶望は信頼という窓を開けるために不可欠な要素なのです。
中途半端な落胆より、徹底した絶望のほうが良いのです。私たちが自分の罪に心底気づいた時にはじめて主イエスを救い主として信じたことを思い出して下さい。自分の罪に絶望した者だけが、自分を全面的に主にゆだねることができるのです。

2001年9月11日、世界貿易センタービル78階で仕事をしていた盲人のMichael Hingsonさんは突然の衝撃に驚きました。デスク下で寝ていた盲導犬Roselleも起き上がりました。マイケルさんは、どの階段が安全か目で確認できないので、自分の命を盲導犬にゆだねました。盲導犬は、煙と喧騒の中でも冷静に主人を助け、1時間かけて階段を降り、地下鉄の入口に導き入れて、間もなくビルは崩れ落ちました。マイケルさんは、その後、仕事を辞め、盲導犬のための働きに専念しました。
自分一人では判断できない。自分の力では無理だ。そのままでは絶望しかない。そういう時は、信頼できる誰かに全面的に信頼する以外、助かる道はないのです。

今、あなたは絶望しているかもしれません。出口が見えない試練や神の不在を感じる中かもしれません。そうならば、神を待ち望みましょう。神の光と神のまことを届けて頂いて、主の導きに身をゆだねましょう。詩篇42篇は絶望の詩ではなく、絶望を経験したがゆえに主に信頼した人の賛美の歌なのです。

こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、
あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
(4~5節)

→あなたの番です
  □苦しい時、神の光と神のまことを求めましょう
  □あなたの明日を信じ、神を待ち望みましょう