詩篇44篇1~26 「しかし」という名のハーケン


 感謝する事と「しかし」と言うこと。それが、苦難を乗り越える鍵です。

1、感謝する者が、笑い者へ(1~16節)

神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。
あなたは御手をもって、国々を追い払い、そこに彼らを植え、国民にわざわいを与え、そこに彼らを送り込まれました。
彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。(詩篇44:1~3)

 イスラエルの民が歴史を振り返ると、神への感謝が沸き上がりました。エジプトでの奴隷状態から救い出されたのは、自分の弓や剣のおかげではないと理解していました。神に愛され、神の腕によって救われ、神に植えて頂いて約束の地に住めるようになったのです。

それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。
あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。
あなたは私たちを敵から退かせ、私たちを憎む者らは思うままにかすめ奪いました。
あなたは私たちを食用の羊のようにし、国々の中に私たちを散らされました。
(9~11節)
 やがて、イスラエルは外敵により滅ぼされ、国外に離散しました。外国人は、イスラエルの民を見て、神の民のくせにと「物笑いの種」(14節)にしました。ユダヤ人は「恥」(15節)を受けました。

 この詩篇は、苦難の中で主の救いを求める詩篇ですが、冒頭部分が感謝で始まっています。この感謝の通奏低音が苦しみを乗り越える最も大きな基本姿勢になります。
 神は救って下さった。その歴史認識は、現在も、未来も、神は救って下さるという信仰を呼び起こすのです。


2、「しかし」で踏みとどまる(17~19節)

これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無にしませんでした。
私たちの心はたじろがず、私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。
(17~18節)

スイスのツェルマットの町を訪れたとしても、霧が出ていれば眼前のマッターホルンは見えません。試練に遭うことと、神はいないという事柄は同義語ではないのです。苦しみの中でも神の愛や約束は生きています。だから、苦難という谷底に落ちてしまったら、17節にあるように、「しかし」ときっぱりと言うことが大事です。

ハーケンは岩場の割れ目に打ち込む登山用具ですが、どんな絶壁でもハーケンを足場にするなら登ることができます。「しかし」という名のハーケンを試練の岩場に打ち込めば失望の壁も越えられます。
詩篇の作者は「しかし」と言い放った後は、「あなたを忘れません」「あなたの契約を無にしません」「心はたじろがず」「あなたの道からそれません」という信仰のくさびを試練の壁に打ち付け続けました。

 ニューヨーク、ブルックリンのエバンズ牧師が癌と戦ったとき4つのルールを心に決めました。1)不平を言わない、2)家の雰囲気を明るく保つ、3)祝福を数えて感謝する、4)病気を有意義なものに転換する。このようにして、信仰のハーケンを2年間打ち付けて後、エバンズ牧師は天に召されていきました。

 状況がどうであれ、「しかし」という名のハーケンを打ち込み続けましょう。



3、起きてください(20~26節)

だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。
起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。(22~23節)

イスラエルの人々は、自分達があまりにも苦しいので、ほふられる羊の姿と自分とを重ねました。彼らが直面していたのは、何度も何度も殺され続けるほどの苦しみだったのです。それで、「起きてください」、と主に嘆願しています。「立ち上がって私たちをお助けください。」(26節)と神に叫んでいます。

マルコの福音書4章にもこれと似たシーンがあります。ガリラヤ湖が嵐になり、乗っていた小舟が沈みそうになり、十二弟子が主イエスを起こしました。その時、主イエスはぐっすりと眠っておられました。その意味することは何でしょう。この嵐によって死ぬことはない、という意味です。神の沈黙とは、そういう意味を持っていることがあるのです。

パウロは、ほふられる子羊の苦しみを述べた詩篇44篇22節をローマ人への手紙で引用しています。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:35~39)

たとえ、ほふられる羊のような苦難を体験したとしても、キリストの愛から私たちを引き裂くことはできないし、苦難の中で圧倒的な勝利者になれるとパウロは力説しました。この考えこそが新約的視点に立った詩篇44篇の理解なのです。

あるご家庭のことをお話しします。土曜日の深夜、夫が帰宅しました。いつものように酒浸りでした。起こされた妻は、毎度のことでうんざりしましたが、すべての事を感謝しなさいという聖書の言葉を思い出し、寝込んだ夫の横で、感謝の言葉を言い始めました。
 こんな主人でも、いないより、いたほうが良いので感謝します。家に帰って来てくれることを感謝します。酒を飲んでも暴力を振るわないことを感謝します。女遊びをしないことを感謝します。日曜の午前は寝てくれるので、礼拝に行けることを感謝します。感謝といっても、あまりにも低レベルの感謝で、思わず笑い出しました。その声で目覚めた夫が、なぜ笑っているのかと尋ねました。正直に今の話をすると、こんな俺のことでも感謝してくれたと喜んで、今日の礼拝は一緒に行くと約束し、その通り実行したというのです。
 彼女は、「しかし」という名のハーケンを現状に打ち付け、感謝の流れを作って、主の恵みを頂けました。

私は私の弓にたよりません。私の剣も私を救いません。しかしあなたは、敵から私たちを救い、私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。(詩篇44:6~7)

苦しみの中で神が見えない時であっても、キリストの愛が私たちを守ってくれます。「しかし」と宣言して不信仰を振り払い、神の救いを感謝し、自分の弓や腕に頼らず神に信頼しましょう。


 →あなたの番です
  □苦しみの中で、「しかし」と言おう
  □自分の弓や腕に頼らない
  □感謝を見つけて歩み出そう