マルコの福音書は、簡潔です。
主イエスの福音にピタリと焦点を合わせているからです。
福音は、伝えられ、いのちを与え、人を作り変えます。
マルコの福音書は、早ければ紀元50年代後半に完成したと学者たちは言います。マタイとルカは「マルコの福音書」を参考にして福音書を書きました。それはつまり、福音書の基本アウトラインはマルコによって方向付けられたと言えるのです。
1、主イエスは、福音を伝えるために来られた
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)
1章1節は、マルコの福音書の表題です。主イエスがこの世に来られた目的は、福音を知らせるためでした。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」(1:38)
福音とは、本来、良いニュースという意味です。主イエスが宣教の初期に語られた福音は、律法による救いや行いによる救いではなく、罪を悔い改めて主イエスを信じるだけで救われるという福音でした。信じるだけで救われるのですから、これはまさに福音でした。(主イエスの宣教活動の初期、主イエスは十字架の死を予告しておられませんでした)
主イエスが福音を語り始めた時期、人々はびっくりしました。主イエスの教えの素晴らしさに驚嘆し、主イエスの奇跡に驚きました。
マルコは、何百という奇跡の中から特に意義深い事例を取り上げて、おもに1~8章に記しました。主イエスは、人々の信仰を引き出す言葉をかけられました。
寝たきりの中風の男に、「起きなさい」(2:11)
片手のなえた人には、「手を伸ばしなさい」(3:5)
長血の女に、「あなたの信仰があなたを直したのです」(5:34)
ヤイロには、「恐れないで、ただ信じていなさい」(5:36)
バルテマイに、「何をしてほしいのか」(10:51)
人々は、未熟で素朴に主イエスを信頼しました。すると、奇跡、救い、罪の赦しを体験しました。驚くべき奇跡は、主イエスが救い主であることの証明です。
主イエスは福音を伝えるために来られました。あなたも伝えましょう。
福音は信じるためにあります。まだ信じていないなら、主イエスを信頼しましょう。
2、主イエスは、命を与えるために来られた
十字架は偶然の悲劇ではありません。「あなたは、キリストです」(8:29)とペテロが信仰告白をした後、主イエスが十字架の死と復活を3度予告されたことからもそれが分かります。(8:31、9:31、10:33~34)
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(10:45)
これは大切な言葉です。主イエスが何のためにこの世に来られたのかがはっきり分かります。主イエスは十字架で私たちの罪を身代わりに背負い、贖いの代価としてご自分の命を私たちに与えるために来られました。
主イエスは最も大切ないのちを私たちに与えてくれました。
今週、誰かが困っている時、その人にいのちを与えるようなヘルプをしましょう。
3、主イエスは、人を作り変えるために来られた
ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(14:51~52)
この箇所はマルコの福音書にしかありません。前後を読んでも、彼が誰かは分かりません。他の福音書記者は、このみっともない男性について書くのを遠慮しました。おそらく、マルコ自身なのでしょう。深夜、主イエスが捕らわれたという情報を知らされマルコは、寝ぼけ眼で暗い町に飛び出しました。身の危険を感じると、逃げ出しましたが、布がじゃまだったので裸で逃げたのです。
今は、ペテロの通訳をしたり、福音書を書いたりして人々からは「先生」と呼ばれるような立場にたっていても、私は罪人であり、主を見捨てた弱虫だとマルコは告白しているのです。主イエスは、そんなマルコを愛してくださった。罪人、失敗者、臆病者のマルコを主イエスは作り変えて下さったと言いたかったのです。主イエスの十字架と復活が私を変えたとマルコは世界に伝えました。
本来のマルコの福音書は16章8節で突然終わっています。あなたがマルコのように主イエスによって変えられ、証し人となって福音を語ることにより、マルコの福音書は完結します。
「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」(13:10)
「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら」(14:9)
→あなたの番です
□福音は伝えられるもの → 信じよう
□福音はいのちを与えもの → 誰かを助けよう
□福音は人を作り変える → あきらめない