1、パリサイ人の罠
イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。(マタイ12:9~10)
片手の不自由な男性が会堂にいました。偶然だったのでしょうか、罠だったのでしょうか。パリサイ人は彼を例に取り上げて、主イエスに議論をしかけました。
安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」
安息日に仕事をしても良いとの証言を主イエスから引き出し、神の律法に逆らったとしてユダヤ当局に訴えようとしていました。実際に安息日に病人をいやす行為をさせれば、もっと強力な証拠になります。
2、羊は助ける
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」(マタイ12:11~12)
主イエスは、イエスかノーで最初答えません。質問には質問で答えました。
羊を一匹しか所有していない人は貧しい人です。そういう人は、羊を家族のように大切にします。だから、羊が穴に落ちたら、すぐに助けあげるでしょう。同じ境遇なら誰でも同じことをします。たとえ安息日でも、ほとんど自動的に抱き上げるでしょう。
安息日には何をしたらよいのでしょうか。それは、良いことです。神が喜んで下さる良いことをするのです。
「安息日に良いことをすることは、正しいのです」
3、安息日には、良いことを
それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。(マタイ12:13~14)
パリサイ人は意見の違う人を黙らせようという人々です。自分たちの立場を危うくする人物はどのように殺害するかを考える人々でした。一方主イエスは、意見の違うパリサイ人とも、きちんと議論します。また、議論をしただけで終わらせず、苦しんでいる人を実際にいやします。
いやす時には迷いがありません。いつものように、直します。苦しみ人、悲しむ人をほおっておけないのです。パリサイ人が見ていても治します。パリサイ人が見ていなくても、いやします。態度には一貫性があり、躊躇がありません。主イエスは、そういう方です。
安息日に人をいやしたら自分の立場が危うくなると主イエスは知っていました。それでも、いやしました。福音書全体を見ると、今回の出来事を含めて5回、安息日に人をいやしています。
①18年間腰の曲がっていた女性をいやす。(ルカ13:16)
②水腫をわずらっていた人をいやす。(ルカ14:4)
③エルサレムのベテスダの池で、38年間病気の男性をいやす。(ヨハネ5:9)
④シロアムの池で、盲人をいやす。(ヨハネ9:14)
⑤会堂で、手の不自由な人をいやす(マタイ12:13)
この箇所を細かく見て行くと、主イエスの愛、主イエスの勇気、主イエスの行動に圧倒されます。首都エルサレムでも実行している事から、殺されることは覚悟の上の行動とも取れます。
人を救うためなら、ルールの逸脱もいとわない。良いことなら、いつでも、どんな場面でもする。伝統的には、安息日には人をいやしてはいけないという人間の作ったルールが幅をきかせていましたが、主イエスは人々注視の中で、堂々とやってのけました。その姿は、人々を勇気づけたことでしょう。
安息日は、お互いを監視するための日ではない。安息日にいやすことは神の律法にかなうと主イエスは伝えたかったのです。安息日に良いことをすることが、父なる神の喜びだと示したかったのです。
昨年12月22日(土)午前8時ころ。ミルウォーキーで勤務中の女性バス運転手は、反対側の歩道を歩くよちよち歩きの赤ちゃんを見つけ、バスを緊急停車させ自分が降りて、赤ちゃんを保護、911に連絡しました。救急隊が来るまでバスを走らせずに、氷点下の道を歩いていた子を温めるために抱きしめていました。乗客5~6人も文句を言いません。
自分がバス運転手だったら、どうしただろうと考えます。
安息日は、良いことをする日です。
私たちも主イエスの考え方と行動に習いましょう。
迷いなく、いつものように、良い事ができる人になりたい。そう思います。
「安息日に良いことをすることは、正しいのです」
→あなたの番です
□安息日は、良いことをする日
□議論で終わらせず、行動する