ヨブ記38章1~41節 嵐の中で語られる主

ヨブ記の結論部分に入ります。

 ヨブと友人3人の対話は、平行線をたどり、感情的にもつれ、堂々巡りに陥り、ついに31章で暗礁に乗り上げました。「この三人はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。」(32章1節)
 議論を聞いていた若者エリフは怒りに燃え、32章から37章で持論を展開しました。荒削りで率直な若者らしい意見です。その中身は、38章以降で神がヨブに直接語りかける内容に、かなり似ています。ヨブが神を見上げるための道筋をエリフが整理したともいえます。

 それまで沈黙を保ってこられた神が38章でヨブに語りかけます。
「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
知識もなく言い分を述べて、
摂理を暗くするこの者はだれか。」(38:1、2)

 第1に、「答えて仰せられた」に注目してください。
神の沈黙と感じられた長い時間は、神が傾聴しておられた時間だったのです。苦難の中でヨブが発したすべての言葉は神に聞かれていたのです。それで、神は答えたと書かれているのです。深い思いやりと忍耐があって初めて、打ち明け話や恨みつらみを長時間聞けるのです。神はあなたに沈黙しているのではない。神は、あなたのうめきと悲しみ、祈りにできないあなたの心を聞き取っておられるのです。
 エリフは36章15節で「神は悩んでいるものをその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」と言っています。

 第2に、「あらし」に目を留めてください。
嵐とは何でしょう。神の怒り。神の力。神の臨在。それらすべての表れとみることができます。いつもの風が止み、黒雲が湧き出て周辺を暗くしたかと思うと、強烈な風がゴーゴー吹き荒れたのでしょう。稲光が怪しく光り、大音響の落雷も起きたかもしれません。おそらくヨブは、風をまともに顔で受け止めながら、神の声に耳を傾けたことでしょう。
 順風満帆のとき、人はのほほんとなって神を忘れるものです。けれども、人生の嵐に直面すると、真剣に神を求めます。そういう意味から、嵐の経験こそが意義深い経験と思える日がきます。

 第3に、「摂理を暗くする」を見てください。
 神がヨブに語られた中心メッセージは、ヨブの知識があまりにもお粗末だという指摘です。不十分な知識で語り続けるなら、節理を暗くすると指摘されました。有限で罪深い人間は、実は何も知らないのです。
 摂理を暗くするとは、どんなことでしょう。ヘブル語で「エーツァー」という言葉を、新改訳聖書は「摂理」と訳し、他の聖書は「はかりごと」、「経綸」などと訳しています。摂理とは、私たちが知りえない崇高で深遠な神の支配を表します。
 その神の支配や深いみこころ、思いやりを疑ったり、曲解してはいけません。運命は冷たいものですが、摂理は温かいものです。私たちの試練や苦しみを大きく包み込む神の摂理に信頼しましょう。


 

上滑りする言葉 ヨブ記22章1~30節

 今日のメッセージの副題を、「信仰ゆえの楽観・積極人生の勧め」とします。

 あなたは悲観的な人ですか。楽観的な人ですか。今、ため息をついた人は悲観的な人です。自分が楽観的な人だと思う人は手を上げてください。手を上げられた人は本当に楽観的な人だと思います。「あの人がそうは思えない」と心で思った人は、間違いなく悲観的な人です。

 ヨブ記22章は、議論がちょうど三巡目に入った場面です。ヨブの友人三人の中で最長老格に当たるエリファズが意見を述べたのが今日の箇所です。エリファズはヨブとの対話を重ねるうちに苛立ちが先行するようになり、なりふり構わずヨブを説き伏せようという姿勢になりました。
22章でエリファズは、否定的で、上滑りした意見3種類を述べます。

1) ヨブがどんなに正しくても神には関係ない。

「人は神の役に立つことができようか。
賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。
あなたが正しくても、
それが全能者に何の喜びであろうか。
あなたの道が潔白であっても、
それが何の益になろう。」(2、3節)

 なんと悲観的な意見でしょう。罪深く、有限で、弱い私たち人間をご存知の上で、神は様々な使命を人間に与えてくださいました。神は人間に失望してない、神は人間に期待している、というのが聖書を貫く中心思想です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:3)とはっきり書かれています。時として我々もエリファズのような悲観論に飲み込まれるときがあります。

 悲観的な人の声は巷にあふれています。人間の声を録音しようした人がいました。そんなもの不可能だと意見が出ました。いまだかつて誰もできなかった、というのが反対理由でした。それを無視してエジソンは1877年蓄音機を作りました。
 ミルトン・ライト牧師は、人間が空を飛ぶなどありえない事だとメッセージで語りました。その息子のウィルバーとオービルは、1903年12月17日キティーホークの海岸で12馬力の飛行機で世界ではじめて人間の乗った飛行機を飛ばすことに成功しました。
 1978年、日本のある電気会社で録音ができないテープレコーダーを発売することにしました。<録音できなければ誰が買うか>、<そんな変な和製英語では恥ずかしい>とか、否定的な意見が出ましたが、やってみました。これがSONYのウォークマン誕生の経緯です。


2) ヨブはひどい悪を行っている。

「あなたは理由もないのに、
あなたの兄弟から質を取り、
裸の者から着物を剥ぎ取り、
疲れている者には水も飲ませず、
飢えている者に食物を拒んだからだ。」(6~7節)

 これは、事実ではなく、エリファズの邪推です。第一、裸の人からは着物は剥ぎ取れません。
思い出してください。エリファズが最初に口を開いたとき何と言ったか。4章3~5節で、ヨブの善行を高く評価して、しっかりしろ、お前は他人が苦しんだときは助けてきたじゃないか、それが自分に及んだ時にはしゃんとしろ、と言っていたのです。

 悲観的な人は、人の悪い面ばかり見ます。人の欠点だけが目に入ります。さらに、かってな妄想、思い込みで、人をどんどん悪く仕立て上げていきます。人の良い点を見ましょう。

 日本プロ野球伝説の打撃コーチと呼ばれる高畠という人がいました。首位打者や盗塁王などのタイトル獲得選手を30人育てあげ、引退後は福岡で高校教師になり、NHKドラマにもなりました。その原作『甲子園への遺言』という本を読んでなるほどと思いました。
高畠コーチは選手の悪い癖や欠点は直らないものだと言い切りました。それではどうするか。徹底的にほめるのだといいます。30年間、ほめ続けました。あるときは、スイッチヒッターへ転向させた選手に秋から春まで付きっ切りで指導しました。はじめて左打席に立ったとき、「いけるぞ、これならいける。いいセンスしてるな」最初からほめ続けたといいます。この選手は後にパリーグ首位打者になりました。良いところを伸ばす。これが高畠コーチの秘訣でした。ほめた時はじめて人は伸びるのです。

 世界には、見方と敵がいるのではありません。自分の心が敵を作るのです。世界にいるのは隣人だけですね。その隣人を愛しましょう。その隣人に励ましの言葉を贈りましょう。

3) 神に立ち返れば、幸せになれる。

「さあ、あなたは神と和らぎ平和を得よ。
そうすれば幸いが来よう。」(21節)
 
エリファズは、邪推に基づきヨブを悪人に仕立て、どんなに潔白であったとしても神の役には立たたないとやる気を失わせた後で、こういう正論で説教しました。
ヨブは聞く耳を持ってなかったでしょう。文脈を無視して読めば、まぎれもなく聖書の真理です。良い言葉です。正しい言葉です。でもこれがヨブに向けられた言葉なら、むしろ逆効果でしょう。

 22章は、さしずめ、人の振り見て我が振り直せという箇所ですね。反面教師、他山の石ですね。こうならないようにしなさい、というのも実は後ろ向きですね。積極的な表現でメッセージを締めくくりましょう。
誤解しないでください。皆がイケイケのあっかるい人になれと言っているつもりはありません。神を信じているなら、全能者である神に頼って楽観的に行きましょうと勧めているのです。

最後にあなたへの具体的な3つの提案をします。

① <やってみよう>の精神を持ちましょう。
② 人をほめて励ましましょう。
③ 心からの言葉を伝えましょう。

 エリファズは、やってもダメだと言いました。そんなことないですよ。神がおられるんだから、あきらめることはないのです。やってみよう。神は私たちを絶えず応援しておられる。
エリファズは人の悪い面ばかりを強調した。むしろ、人を応援する者になろう。あなたも雇われてプロのコーチになったつもりで、身近な人をほめて、ほめて、励まし続けよう。
エリファズは上滑りする言葉でお説教しました。それより、何千倍も価値があるのは、前向きで、さわやかな積極的言葉だ。
  ありがとう。
  嬉しいです。
  やってみましょう。
  感謝します。
  おはようございます。
  おいしいです。
  私がやります。

さあ、あなたの番です。神の力によって、やってみましょう。
 
 

贖う方 ヨブ記19章1~29節

 海外に生活する我々は日本の流行語に言葉に面食らいますが、「KY」という言葉を知っていますか。政治家までが使っていますよ。K(空気が)Y(読めない)という意味らしいです。「あいつはKYだからね」と使うようです。使い方が間違っていたらお許しを、私もKYの部類かもしれません。
 私たちの日常生活は困難が多いですね。空気を読めば、「もうだめだ」と結論付けたくなる状況ばかりです。あなたは現実だけに目を留めていませんか。神の真実に目を向けてください。あれもこれも頭の痛い問題ばかりですが、朝、一人で聖書を読むと、神の真実に目が行きます。

 ヨブは実に惨めな状況にいましたが、神の真実に突然のように気づいた人です。今日の箇所にはヨブ記の重要聖句が25節に登場します。
「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 ヨブは、神に責められたと感じていました。
「神が私の道をふさがれたので、
私は過ぎ行くことができない。
私の通り道にやみを置いておられる。」(8節)
 栄光も望みも神に奪われた(9~12節)とヨブは一人で思い込み、神の軍勢に攻め込まれていると感じていました。もちろんこれはヨブの主観的な判断です。

 ヨブは友人や家族からも見捨てられたと感じていました。
「私の親族は来なくなり、
私の親しいともは私を忘れた。」(14節)
「私が自分のしもべを呼んでも、
彼は返事もしない。」(16節)
「私の息は私の妻にきらわれる。」(17節)
「私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、
私の愛した人々も私にそむいた。」(21節)

 自分の置かれた空気をヨブが読むなら、出口なしです。でも、出口なしという空気を読まずに、前に進んだ人の姿は多くの人に勇気を与えます。

 小学校の先生が中学に進学した女の子を次のように励ましました。水泳が大好きでオリンピックに出たいと言ってたじゃないの、学校にプールがないくらいで夢を捨てちゃだめ。それに勇気を得て、水泳を続けた女子有名選手がいます。

 次に、自分の声が人と違うので恥ずかしいと思っていた少女がいました。親からもらった声を大事にして、むしろ鍛えなさいと励ましたのがお母さんでした。演劇部に入って前向きな人生を選んだこの女性は、後に有名な声優になりました。人とは違う変わった声こそがむしろチャームポイントになったのです。

 KYなんて打ち破って生きたこれらの人々は多くの人を力づけます。ヨブも、神に苦しめられたと思い込み、人には見捨てられ、出口なしの状況でしたが、前後脈絡関係なく、唐突に、魂を貫くような信仰告白を25節でしました。「私は知っている」という言葉に注目しましょう、ヨブの強い確信がにじみ出ています。

「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 「贖う」という言葉の意味を考えましょう。経済的に困窮し先祖代々の土地をやむなく売り払った時、落ちぶれて奴隷になってしまった時、身内の者が高価な代価を払って買い戻すことを普通「贖い」といいます。
 聖書では「贖い」を広義に使用しています。「敵」(ヨブ6:23)、「労役」(出エジプト6:6)、「苦しみ」(詩篇25:22)、「いのち」の危険(詩篇103:4)、「しいたげ」(詩篇119:134)、「罪」(イザヤ6:9)などからの救いのときに、「贖い」を使います。

 父なる神を贖い主と呼ぶ箇所は聖書に多いのですが、主イエスが生まれる前にヨブは救い主を信仰の目で見て、贖うお方であると言い切っています。イザヤ53章を除くと、こんなに鮮やかに救い主の姿を予告した箇所は旧約聖書にはないと私は思います。

 贖う方がちりの上に立つ、とヨブは言っています。ちりとは何でしょう。ヨブが今座っている場所こそが、ちりです。ヨブにとって「ちり」は、悲しみと絶望と惨めさと死を象徴するものでした。1日に10人の子供と全財産を失った悲しみから、ちりを頭からまき、ちりの上で悲しんだのです。ヨブが慕う贖い主も、ちりの上に立つというのです。イエス・キリストは、ユダヤ人指導者に誤解され、ねたまれ、弟子に裏切られ、死の苦しみを通った方でした。まさに、ちりの上に立つ救い主です。

 神を信じ仰ぐ行為は、合理的でも論理的でもないと見える時があります。まわりの状況からいうと、とんでもなく飛躍しているとみられます。でも、神というお方が本当に生きておられるなら、それは無茶でも、無謀でもないのです。一番安全で確かな生き方なのです。「私を贖う方は生きておられ」とありますね。
 現実だけに振り回されず、神の真実に立って進みましょう。私たちをあらゆる困難から救い出してくださる方がおられるのです。そのお方が生きているのです。勇気を出して進みましょう。

「木には望みがある」 ヨブ記14章1~22

 14章でヨブが語ったことを4つに整理してみます。
1)人は弱く、はかなく、罪深い。
2)人は死んだら終わりだが、木には望みがある。
3)私をよみの深みに連れていき、罪を見過ごしにしてほしい。
4)けれども神は、そんな望みすら砕いてしまう。
 今日はこの中で、第2の「木には望みがある」ということに絞って考えてみましょう。

ヨブ記は、シンフォニーのようなものだと、私は思います。ベートーベンの交響曲第5番を例にして話しましょう。この曲は、1808年ウィーンで初演されました。最初にダダダダーンと第1主題が鳴ります。ベートーベンの弟子アントン・シントラーが冒頭の4つの音は何を示すのかと質問しましたが、「運命はこのように扉をたたく」と答えたそうです。主旋律のモチーフは既に1798年に記録があり、彼の耳が悪くなる時期と重なります。第1楽章は、運命に翻弄される弱い人間を表すといわれています。30歳でほとんど耳が聞こえなくなったベートーベンですが、1804年からの10年間に、エロイカ、運命、田園、ピアノソナタなど代表作を次々に世に送りました。苦悩を経て歓喜に至るというベートーベンの生き方が端的に表れている第5番です。

ヨブ記には、4つの主旋律があると私は思います。ダダダダーンに匹敵する第1主題が、「なぜ、正しい者が苦難を受けるのか」。第2主題は、「女から生まれた人間はは罪深く、弱い」です。第3、第4テーマは結論を話す42章前後に詳しく触れる予定です。

女から生まれた人間は罪深く、弱いという内容は最初エリファズの言葉で登場します。
「人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前にきよくありえようか。」(4章17節)。
次はヨブの言葉で今日の箇所にあります。
「女から生まれた人間は、日が短く、
心がかき乱されることでいっぱいです。」(14:1)
さらにエリファズの言葉が登場します。
「人はどうして、きよくありえようか。
女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか」(15章14節)
最後は、ベビルダデの言葉です。
「人はどうして神の前に正しくありえしょうか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。」(25章4節)

 小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」の歌や、平家物語の書き出し、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」などを思い起こします。


あなたの人生を交響曲にたとえると、第1旋律は何ですか。そして、それを受けたあなたの弱さの告白である第2旋律はどうなりますか。


ハワイにモアナルアガーデンがあります。「この木何の木、気になる木」という日立のコマーシャルにより日本で有名になりました。樹齢100年を越していると管理人に教えてもらいました。
ハワイに住んでいたとき、その木を1時間、見続けた経験があります。実に、堂々としています。一人でどこにも動けないのに、人に安らぎをくれます。木陰、風に揺れる枝や葉っぱ。鳥たちや虫たちを呼び集める木。素晴らしい木です。
近づいて、木陰から枝を見上げて驚きました。枝が蛇行しているのです。人に剪定され切られています。嵐のせいでしょうか、折られてます。自分の意思のとおりにまっすぐ伸びなかった木です。

「木には望みがある。
たとい切られても、また芽を出し、
その若枝は絶えることがない」(14章7節)

ヨブは、自分の境遇を嘆き、自分はだめだとため息をつきますが、何気なく目をやった木を見て、憧れを語ったのだろう。
この木に、自分の名前を入れてみましょう。それが、聖書から来る励ましです。この木にイエス・キリストの名を入れよう。それは、事実であり、真実です。

私たちは、人生の嵐に翻弄されます。病になり、失敗し、道を外れます。そのうえ、弱く、罪深い。でも、それで終わりではない。私たちがより頼む主イエスがともにおられるので、失望することがないのです。

あなたの人生を襲った運命のため、私たちの主旋律は苦しみや悲しみ、怒りになりやすい。けれども、主イエス・キリストという最高の指揮者がいるので、暗い短調のメロディーでは終わらないのです。
手のひらに釘のある指揮者、イエス・キリストがあなたのメロディーを歓喜と賛美にあふれる第4楽章に必ず導き入れてくれるでしょう。7節を暗記して、あなたの力と希望の源泉にしましょう。

「ツォファルの言葉」 ヨブ記11章1~20

 今日は、「オムニポテンス」という言葉を心にとめてください。ラテン語で全能を意味する言葉です。オムニはすべて、ポテンスは可能とか力などを表します。ハレルヤコーラスでも、オムニポテンツという英語で主をたたえますね。
 7節の言葉を中心にすえて考えてみましょう。

 「あなたは神の深さを見抜くことができようか。
全能者の極限を見つけることができようか。」(7節)

 ヨブの友人の3番手はツォファルで、自説を11章で披瀝します。(翻訳によってはゾパル。原語のヘブル後の発音としてはツォファルに近い)どうやらツォファルは3人の中で一番若いようです。そのせいか、語気が強いですね。ヨブの言葉にかなり苛立っています。20章、2巡目のツォファルの言葉にも怒りが感じられます。3巡目でツォファルの番がやってきても、結局は声を発していません。<切れた>のかもしれません。

 ツォファルの要点は3つです。
1) ヨブのおしゃべりは詭弁であり、無駄話だ。

「ことば数が多ければ、
言い返しができないであろうか。
舌の人が義とされるのだろうか。」(2節)

ツォファルは、魂を削るようなヨブの叫びを表面的にしか聞けない人です。実に残念で、さびしいことです。4節でヨブの言葉を引用しますが、ヨブが9章21節前後で述べた苦悩など見過ごしています。

2) 神は全能者であり、人間は及びもつかない。

「あなたは神の深さを見抜くことができようか。
全能者の極限を見つけることができようか。
それは天よりも高い。あなたに何ができよう。
それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。
それを計れば、地よりも長く、海よりも広い。」(7~9節)

ツォファルは神についての真理を語りました。残念なことに、否定的な調子を含んでしか話せません。全能者の前で人は何もできない、神と争えないし、神のすべてを知りえない。ヨブのしている事は無意味だと説得している。

3) 自分の悪を神にわびれば、幸せが来る。

「あなたの手に悪があれば、それを捨て、
あなたの天幕に不正を住まわせるな。」(14節)

他の友人二人と同じ主張で、ヨブに罪を悔いるよう勧めました。そうすれば、明るくて、安らぎに満ちた未来が待っている(17~18節)と諭したのです。

 ヨブは、また一つため息をつき、否定的に真理を語ったツォファルの言葉に打ちのめされたことでしょう。けれども、神が全能であることは、まぎれもない真理です。ですからツォファルの言葉は、全能者を見上げる機会を多くの人に提供しています。

 横田めぐみさんのお母さんは、友人に勧められてヨブ記を読んだのですが、1章21節の言葉が心に染みただけでなく、今日の7節にも強い印象を受けたと言われています。全能の神は、人間の力では及ばない、深くて大いなる方だと気づきました。全能者。その大きさの前で、なにか心にストンと府に落ちるというか、心のうなずきが生まれたようです。

 私たちも、全能者である神の前に静かに立つことが必要ですね。ヨブは、ツォファルの言葉を承知済みであると12章で反論しますが、ヨブの結論的な言葉として次のような内容を心から語っています。

「あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成しとげられることを、
私は知りました。」(42章2節)

 オムニポテンス、全能。神が全能であることを、はっきり理解できたら、人生はきっと大きく変わるでしょう。全能の神に人生をゆだねることができます。困難なとき、安らぎを持てます。あなたも、全能者に信頼して歩きましょう。

 ニール・アンダーソンという聖書翻訳宣教師がパプア・ニューギニアで20年間活躍しました。村の人がジャングル奥地に入って狩に出ると聞き、彼は同行しました。ノブタやニシキヘビ、小動物や鳥を捕まえた夜、二人の村人の間に座って雨宿りをしました。右の人は、カブトムシを焼いたものを食べてます。左の人は、カブトムシの幼虫を竹筒に入れてあぶり、うまいよと宣教師の膝に置きました。アメリカ人宣教師が清水から飛び降りる覚悟で口に含むと、村人が背中をたたいて喜んでくれました。
 ある朝、イワシの缶詰のように同行者20人と横になって眠った翌朝、誰かの独り言が聞こえます。よく聞くと、祈りの言葉でした。「ここはあなたの森ですが、どうぞ獲物が捕れるよう助けてください」。別な男も祈っています。「残してきた妻や子供たちが守られますように」。次の祈りも聞こえます。「アメリカ人宣教師が村の言葉を理解して、神の言葉を俺たちに伝えてくれますように」
 素朴で、力強い、本音の祈りでした。アンダーソン宣教師は、村人の祈りに深く心動かされました。

 全能者を信頼した人は、人生が変わります。オムニポテンス、全能の神を生活の場で信じましょう。




 



 
 

「仲裁者」 ヨブ記9:1~35

 今日は、無力感について考えましょう。

 象は信じられないほど大きな力を発揮しますが、サーカスの象は杭につながれただけで静かになるといいます。それはなぜでしょう。鎖で杭につながれた小象時代、いくら暴れても逃げ出せないと学習したからです。それで、簡単に引き抜けるはずの杭につながれても、あきらめています。
多くの人が「サーカスの象」になっています。無気力におおわれています。

 ヨブ記8章では、了見の狭い学校教師のようなビルダデが意見を述べ、ヨブはその言葉を聞いて落胆しました。そんなこと、言われなくても知ってるよと1節で言い捨てました。ヨブは9章全体で神に反論しています。最初は間接的に、27節からは直接的に、神に反論しました。けれども、ヨブの心を支配していたのは圧倒的な「無力感」でした。

 ヨブの無力感を4つのフレーズでまとめました。

1、神は力が強く、とうてい太刀打ちできない。(3~12節)
「たとい神と言い争おうと思っても、
千に一つも応えられまい」(3節)
ヨブは神の創造の偉大さに思いを馳せ、おうし座、オリオン座など天体と造られた神に言及するが、その目は虚ろになります。

2、神が決めたことには逆らえない。(13~19節)
「神はあらしをもって私を打ち砕き、
理由もないのに、私の傷を増し加え
私に息もつかせず、
私を苦しみで満たしておられる」(17、18節)
 災難は神から来たのではないが、ヨブは神のせいだと誤解する。

3、神に自分の潔白さを主張しても、相手にしてもらえない。(20~31節)
「たとい私が正しくても、
私自身の口が私を罪ある者とし、
たとい私が潔白でも、
神は私を曲がった者とされる」(20節)
 ヨブは、22節のように、神の前では悪者も正しい者も結局同じ災いを受けるに過ぎないと無気力を加速させている。

4、神とヨブの間に、仲裁者がいない。(32~35節)
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が
私たちの間にはいない」(33節)
誰か、私を助ける人はいないか。神の前に立ってくれる人がいないか。私を弁護する人がいないか。これがヨブの叫びです。救い主を求める悲痛な叫びです。


 無力感に捕らわれている人は普通、二箇所にしか目が行きません。第一は、直面している問題。もうひとつは、弱い自分です。神を信じている人の場合は、もう一点が加わります。神をゆがんで見てしまうのです。色眼鏡をかけて神を見ます。不可能を可能にする神を忘れます。思いやり深い神を忘れます。

 理解してくれる人との接触がないと、人は孤独感が深まります。最後は、圧倒的な無力感に支配され、固まってしまいます。

 一人の日本人婦人がアメリカでポリスに呼び止められました。車の中から、「何か、私が悪いことをしましたか」と尋ねると、「あなたは、最低速度違反だ」と言われチケットを切られました。遅すぎるというのです。
 道路工事のため、道路には赤いコーンが置かれ、車線が規制されていたので、ゆっくり注意しながら走っただけでした。憤懣やるかたなしですが、お上には逆らえません。無力感でいっぱいになりました。
職場の同僚に話すと、「ノット・ギルティー」と主張して、裁判で戦ったらいい、「私も応援するよ」と励ましてくれました。現場の写真を撮り、交通裁判所に出廷する準備を始めました。クリスチャンの仲間に話して祈ってもらいました。
 祈って、祈って、ドキドキしながら当日を迎えると、法廷内に例の警察官がいます。やがて自分の番になりました。ふたを開けてみると、相手側のポリスは、「手元に資料がない」と説明、ポリスが争う意思を撤回したと判事は判断、女性に無罪を告げました。いわば不戦勝の勝利です。ハレルヤです。主をたたえ、感謝しました。

 あなたには、今日、無力感がありますか。そこから出る道筋を紹介しましょう。

1、 勇気をくれる人に相談する。
2、 小さなアクションを今日から始める。
3、 あなたの横に立つ主イエスに信頼して、勇気を出す。

「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出してなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。」(使徒23章11節)
主イエスがそばにおられる、それが勇気の源です。

 仲間に話そう。主イエスに話そう。小さく始めよう。勇気を出そう。主イエスを信じて進もう。あなたも無力感から解放されます。

「キリストのために生きる」 ピリピ1:20、21

 新年あけましておめでとうございます。

 悔いのない人生を送りたいと、思いませんか。年の初めは普段考えない大きな事を考えましょう。ドーンと大きな視点で自分を見つめましょう。

 ハワイではどんな家にもアリが入ってきます。高層コンドミニアムにもアリは来ます。ある日私は、透明なコップの縁にアリが一匹いるのに気づきました。アリは左周りに歩き出し、出発地点に戻っても左に左に歩き続けました。いつまでたっても回り続けました。毎日の生活にだけ追われている人はこのアリと同じです。そこから抜け出しましょう。

「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、
いつものように今も大胆に語って、
生きるにしても、死ぬにしても、
私の身によって、
キリストのすばらしさが現されることを求める
私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」。
(ピリピ1章20、21節)

 パウロは、自分の体を通してキリストの素晴らしさを現すために生きていました。ですが、パウロのこのときの状態を考慮すると、よくも言えたと感心します。この時、パウロは牢獄にいたのです。
過去を振り返ればクリスチャンを迫害し死に追いやった暗い過去があります。現在は牢獄の中にいて、パウロの素行を疑問視する向きもありました。将来はというと、何の保障もなく死刑の可能性もありました。
 そのパウロはそんな「自分の身」をもってキリストをあかししたいと願っているのです。突き抜けています。牢獄の天井を突き破るくらい、目が天に開いています。貫く心棒がはっきりしています。このパウロの言葉を読んだ多くの人が2000年間励まされているのです。

 1964年の東京オリンピックからもう40年以上時が過ぎていますが、私が記憶に残っている陸上選手の名前があります。カルナナンダ選手です。
 1万メートル決勝に出場したセイロン(現在のスリランカ)の選手です。400メートルのトラックを25周し、有名選手は30分を切ってゴールします。すべての選手がゴールしましたが、カルナナンダはまだ走っています。苦しそうに走ります。1周したときには、7万5千人の観衆からあざけりの反応が出ました。2周しました。まだゴールになりません。3周して、あきらかにラストスパートをかけ、全力で走ってゴールしました。観衆の空気はがらりと変わり、感動と声援がスタジアムを包みました。
 カルナナンダ選手は、インタビューに答えてこう言いました。昨晩高熱が出ましたが、力を振り絞って走りました。娘が大きくなったら、父さんは東京で頑張ったと言ってやりたい。28歳、ゼッケン67。

あなたもキリストのために走ろう。この世界の基準なんてたいしたことはない。カルナナンダ選手も、勝利のために走らなかった。記録のために走らなかった。故郷にいる家族と娘のために走ったのです。
僕らもキリストのために生きよう。キリストに再会するとき胸をはって語れる人生を送ろう。「いつか、そうなりたいね」と言っているなら、左周りのアリと同じになる。悔いのない人生を送りたいなら、今、この瞬間からそれを始めればいい。
キリストのために、という生き方を始めたら、誤解されるかもしれない。笑われるかもしれない。損するかもしれない。それでもいい。キリストのため、具体的なアクションを始めよう。