詩篇25篇 小道を行く


  私たちの人生では、道を見失うことがあります。
先に行きたいのに、障害物があって進めない。道に迷い、同じ所をぐるぐる回る。疲れ切って、先に行く気力を失う。
そんな時、詩篇25篇は大きな励ましになります。詩篇25篇は、道の詩篇です。

ところで、私は先週、聖書を読んでいた時、左目にフラッシュライトのような光が見えました。何だろうと考えて、また目を聖書に向けていると続けて光が見えます。おかしい。数分後、また閃光が見えました。以前読んだ本に、同じような症状で網膜剥離になり失明したクリスチャンの話を読んだことがあったので、愕然とし、その日は、自分の心の中だけで祈り、妻にも、教会の人にも言えないで過ごしました。
「私に御顔を向け、私をあわれんでください。
 私はただ一人で、悩んでいます。」(詩篇25篇16節)
まさに、16節の心境でした。悪いことに、翌日は独立記念日で病院は休みです。妻に話し、近所の教会員で眼科の医師に電話し、対策を教えてもらい、翌日はファミリードクターで診察、翌々日に眼科医に見てもらい、網膜剥離ではないと診断を受けました。ほっとしました。加齢のせいで、多くの人に同じ症状が出ると言われ、肩の力が抜けました。知識の足らない自分の空回りに過ぎませんでした。
妻や子供に祈ってもらい、心配してもらい、寄り添ってもらい、家族の愛、主の守りを感じました。謙虚になること、良く知っている人に道を尋ねることの重大性を身にしみて感じました。


1、全体の流れ

1)1~3節

 主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。(1節)
 わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。(2節)

詩篇の作者は今、辛い状況にある。困っている。馬鹿にされたり、笑われたりしている。でも、今の自分にできることをしようと心を決め、主を待ち望みました。


2)4~5節

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。(4節)

辛く、困っている時に、何をしたらよいのだろうか。主の道を教えてもらうことが最善の方法だ。出口なしと思える時でも、必ず神の道はある。解決の道は、人間の頭でこねくり出すものではなく、主に教えてもらうものです。


3)6~7節

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。(7節)

自分を振り返ると、きれいな心でなかったし、若い時に大きな失敗もしてきた。だから、神のあわれみを求める。恵みによって、私を取り扱って下さるように願う。
罪の自覚は、導きを求める姿勢として、とても大切なもの。


4)8~11節

 主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。(8節)
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。(9節)

 罪人にさえ、主は道を教えてくれる。それが、私たちの神。心の貧しさを痛切に感じる中で、咎の赦しを心から求める。


5)12~15節

主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。(12節)
主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(14節)

主に道を教えられる者は幸せだ。主をもっと深く知り、親しく感じるようになる。苦しむ時、共にいてくださる方が私たちの神。辛い時に、神との友情が深まる。


6)16~22節

私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。(16節)
 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。(20節)

今、確かに、苦しい。悩みは強い。だから、ひたすら、神のあわれみを求めます。助けてください。恥を見ることがないようにしてくださいと願うのです。
最初に、「あなたを仰いでいます」(1節)と告白しましたが、最後も「あなたを待ち望んでいます」(21節)と祈っています。


2、25篇のキーワード

 詩篇25篇のキーワードの第一は「道」です。4節にも、8節、9節、10節にも、「道」という言葉が繰り返されます。それで私は、道の詩篇、と呼ぶことにしました。

 「道」は、道路を表す旧約聖書で最も一般的な用語で、ヘブル語でデレクといいます。「小道」(オルハ)は、デレクの同義語で、繰り返しの際の言い換え語です。道は、人が歩く道路の他には、人生を意味します。また、方向性の意味もあります。

道は自分で作るもの、そういう考えが一般にありますし、誇り高い人間の特権のようにも思えます。ただし、詩篇25篇を読むと、道は作るものではなくて、道は教えてもらうものだと分かります。自分は道を知らないという現実、神は道を知っておられる。だから、謙虚さがどうしても必要です。

 「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。」(4節)

道を教えてもらうためいは、謙虚になる必要があります。第2のキーワードは「罪」です。道が閉ざされたとき、自分のした罪が原因でこんな事になってしまった、と気づくことがあります。詩篇の作者は、道を失って苦しい時に、「私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。」(7節)と述べています。主は、「罪人に道を教えられる」(8節)方なのです。

9節に「貧しい者」(アナウィーム)とありますが、この言葉の第一の意味は、謙遜な者、へりくだる者です。道を求める者は、自分の罪に気づき、自分の心の貧しさに気づいて謙虚になる必要があるのです。

第3のキーワードは、「仰ぐ」です。
道を教えてもらう心を持ち、自分の罪深さに気づいてへりくだった心を持ったなら、最後にすることは、主を礼拝することです。
あわただしく対策を練ったり、走り回って道を作ろうとする人には、心の静けさがありません。神を仰ぎ見るとか、信頼(2節)するとか、待ち望む(3節)ということは不可能です。
道を教えてもらうためには、ぴたっと立ち止まることが不可欠です。静まらないと、神のみこえは聞こえません。

「私の目はいつも主に向かう。」(15節)
「私はあなたを待ち望んでいます。」(21節)

 道を失った時、主に道を尋ねましょう。謙虚な心で、静かで礼拝する心で。


→あなたの番です
□道が見えないなら、神に道を聞く
□罪を告白し、謙虚になり、神を待ち望む

詩篇24篇 世界は主のもの


 木村清松牧師は、1908年、ナイアガラの滝をアメリカ人に案内され、こんな大きな滝は日本にはないだろうと言われました。ところが、これは私の父のもの、と発言、ナイアガラの滝の所有者を父に持つ日本人牧師として有名になりました。
 詩編24篇を読むと、壮大な神の姿と、それを迎える城壁の門が印象に残ります。

1、すべては主のもの

 詩篇24篇は、ダビデが神の箱をオベデ・エドムの家からエルサレムに運び上った時の歌と理解されています。
 その時、レビ人がラッパやシンバルや竪琴を演奏しながら歌い、大勢の人々が歓声を上げて神の箱を迎えました。(第2サムエル6:12、第1歴代15:25~28)

 ダビデが喜び踊って迎え入れた神とはどんな神ですか。ダビデが信じていた神とはどんな方でしょう。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。(詩篇24:1~2)

 神とは、世界を造られた方です。世界に存在するものすべて、世界に住んでいる人々も、神のものです。2節には、神が世界の骨組みとなる部分を造られたと述べています。
私たちは、神のベビーベッドで育てられ、神が植物に命じて造らせた酸素を吸い、神の別荘に住ませてもらい、神の用意された食材で料理を頂き、神の愛で守られているのです。

すべては神のもの。それに気づくと、生き方が変わります。私の持ち物も、私の能力も、私の記憶も、私の未来も、神のものです。それなら、私のお金や所有物を誰かに渡すことが楽になります。

 「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」



2、神を求める

 神の神殿に、誰が行けるのでしょう。

だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。セラ(3~6節)

 ひとことで言えば、神を求める人が神殿にふさわしいのです。「手がきよい」とは、実際の世界でも偽りや汚れのない生活をするという意味。「心がきよらか」とは、その人の内面に誠実さや純粋さがあるという意味でしょう。信仰とビジネスは別でっせ、なんて言うことは通用しません。真に神を信じているなら、手も心も等しく、神を見上げて生きるはずです。

そうは言っても、心が完全に正しく、生活が100%きよい人がいるでしょうか。むしろ、自分の罪やけがれを深く意識している人が、「神を求める者の一族」、「あなたの御顔を慕い求める人々」、なのだと私は理解しています。

「ヤコブである」という言葉に、慰めと励ましが隠されています。生まれつき性格が悪く、策略策謀で兄を押しのけたヤコブが、艱難辛苦を経験して砕かれ、神を求める者に変化しました。聖書で、ヤコブという名が使われるたびに、神のあわれみを意識できます。

あなたも、ヤコブとして、神を求める人になりましょう。神の御顔を慕い求める者になりましょう。

毎朝、祈りましょう。
私はあなたが大好きですと言ってみましょう。もっと、あなたという方を教えて下さい。もっと、あなたを知りたいです。もっと、深く知りたいです。もっと、親しくなりたいです。そう祈りましょう。



3、門を開ける

 中近東の大きな町には城壁があり、外敵から町を守っていました。高貴な人が町に入る時には従者が門を開けるよう要求します。門番はゲストの名を尋ねます。すると、どこのだれだれと従者が答え、門が開いたといいます。
 こうした文化背景から、ダビデは神がエルサレムに入る場面を想定しています。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。(7~10節)

 ダビデは、門を擬人化し、自らの決断で王である神を迎えるように促しています。門に呼びかけるなら、「開けよ」となりそうですが、かしらを上げよとは不思議な表現です。神の前に背筋をぴんと伸ばし、最大限の敬意を示せという意味なのでしょうか。
 この「門」は、第一義的にはエルサレムの門です。ですが、もっと広い意味を持つのでしょう。まずは、ダビデは自分自身の心の門に叫んでいるのでしょう。さらに、この詩編を読むすべての者、私やあなたにも語りかけ、あなたの心の門を広く高く開け、栄光の王の前に膝をかがめ、あなたの人生の王座に神を迎えよ、と言っているのでしょう。

 ソロモン王は絢爛豪華な神殿を建てました。ダビデは、神殿を建設しませんでした。でも、心の中心に神を迎え入れたのはどちらでしょう。神と共に戦い、昼も夜も神に祈り、罪を悔い、神を愛し、神を喜んだのは、間違いなくダビデです。

 神は、あなたの人生のどこにおられますか。
 あなたの食卓の主賓席に神は座っておられますか。それとも、物置や家の外に追いやられていますか。会社のオフィスにも神を招いていますか。あなたの財布も財産も、神と共に管理していますか。神を、あなたの心のすべての場所で中心にお迎えしましょう。

 ジム・ホワイトはケニアで5年間、宣教師として活躍しましたが、ウイリアム・ニガンダという伝道者のことを尊敬していました。わずかな言葉を語るだけで、多くの人々が涙して改める神の人だと評判で、ある日、車を運転していた時に、ニガンダ師と出会いました。車の中に招き入れしばらくジムは語り合いました。後ろの席に座っていた5歳のジムの娘にニガンダ師は声をかけ、「お嬢ちゃんは何という名前なの」「バレリーっていうの」「バレリーは、イエスさまを愛しているかい」「うん、まあ」ニガンダ師と分かれた車の中では、温かい感動に包まれ、5分間、誰も、何も話しだしませんでしたが、バレリーは「お母さん、大きくなった、私、神の人になりたい」と言いました。

 神を愛す人、神を礼拝する人、神に変えられる人になりたいなら、努力を始める前に、心の真ん中に神をお迎えしましょう。


 →あなたの番です
 □世界は主のもの、あなたも主のもの。
 □神の御顔を慕い求める者になりましょう。
 □門を高く上げ、神を心の中心に迎えましょう。
 
 「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」

ヨハネ21:1~25  テベリヤの湖畔で



 主イエスは、誰に、どのように、使命を託すのでしょう。今日は使命について考えましょう。

1、岸辺に立つ主イエス

主イエスの指示があり(マタイ26:32)、ペテロたちはエルサレムからガリラヤに戻りましたが、まだ主と会えませんでした。主イエスに会えない宙ぶらりんの浪人状態で、不安にかられたのかもしれません。

シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。(ヨハネ21:3)

ペテロは、主イエスに招かれて網を捨てて主イエスの弟子になりました。ペテロはその網を再び拾い上げて漁を始めました。信仰も同じように、後戻りすることがあります。昔の生活態度に戻ってしまうこともあります。そんな時は、夜通し働いても一匹も取れません。魚が取れないことも、魚が取れることにも、主の御手があるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのですから」(ヨハネ15:5)を思い出すます。
体は冷え、疲れきり、がっかりしていた時です。その時、主イエスは岸辺に立たれました。

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」(4~5節)

あなたは疲れていますか。心が冷え切っていますか。希望を失っていますか。そんな時に、復活された主イエスが、あなたの岸辺に立っています。

捜したのに見つからない。苦労したのに、報われない。時間通りに行ったのに、門が閉ざされた。愛して愛して愛したのに、愛が届かない。そんな時、主イエスはそばにいます。



2、使命を託す

 たぶん、ガリラヤ湖漁業組合の一網最高の水揚げだったのでしょう、ていねいに153匹を数えました。その後、主イエスが準備されたおいしい朝食を食べ、3年間のありふれた日常が戻ってきました。そうだ、復活された主は、十字架の後も、共にいてくれたのだ。
主イエスは、あなたの朝のディボーションの時間においしくて力になる食事、つまり、みことばを用意してくれています。「さあ来て、朝の食事をしなさい」(12節)

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」(15節)

わたしを愛してますか。夫婦間でこの質問が出る場合は要注意、喧嘩開始の合図です。主イエスはこの質問の大前提を持っておられます。ペテロが、失敗をしても、ペテロのほうから謝罪できなくても、あなたへの愛は変わらない、という大前提があるのです。

主イエスが3度同じ質問をされた時、ペテロは心を痛めました。3度も同じことを言わなくてもいいのに。でも、その瞬間、主イエスの意図が分かったのでしょう。3度主イエスを知らないと言ってしまった過去を、主イエスが洗い流し、やり直しができるように、3度愛してますと言えるようにしてくれたのです。

はい主よ、私はあなたを愛しています。人生の再出発には、愛が不可欠です。主イエスを愛する愛からすべては始まります。不完全でも、小さくてもいいのです。まず、主イエスを愛しましょう。「私があなたを愛することは、あなたがごぞんじです」

ペテロの人生で、この瞬間が最も心が美しくて謙虚になった時です。「砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)。最も良い人になるのは、成功した時ではなく、砕かれている時です。

主イエスは、そんな状態のペテロに、使命をはっきりと告げられました。罪を意識できない人や、自分の弱さや醜さを知らない人に主イエスは大切なミッションを任せません。
私は汚れてます。私は不十分です。私は罪人です。主イエスを愛する愛はこれだけしかありません。過去に失敗を何度もしています。私ひとりでは何もできません。そういう人を主イエスは選らばれます。そして、明瞭に言われのです。わたしの羊を飼いなさい。(15、16、17節)

 朝の静けさの中で、ペテロは主イエスから使命を受けました。あなたは、どんな使命を主イエスからもらいましたか。




3、他人を見るな

 ペテロが自分の意図しない場所と時と方法で死ぬ、と主イエスによって予告され(18~19節)、心を引き締めたはずですが、では、ヨハネはどうなりますかと尋ねたのです。ペテロらしい反応で苦笑しますね。

ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(20~22節)

 主イエスはきっぱり言われました。あなたはあなた、人は人。他人は何の関わりもない。

 パウロは異本人への使徒としての使命が与えられました(使徒9:15)が、ペテロは羊を飼うことです。つまり、羊であるクリスチャンを守り、育てることです。
 あなたは、この二つの切り口で言えばどちらの使命を受けていますか。主イエスを知らない人々に福音を伝える人ですか、信者を励まし育てる方ですか。

 ある母と娘は犬猿の仲でした。相互に顔を見たくもない程です。母親が第4期の癌でホスピスに入り、身辺整理のために自宅に戻った折のことです。クリスチャンであった娘は母親を温かく受け入れ、3時間、親子水入らずで過ごしました。本人の希望でデパートの最上階のレストランにも行きました。そこで、寿司一人前をペロリと食べました。病院では、お粥二口しか喉を通らない人に何かの変化が起きました。お母さんは主イエスを信じました。そのあかしに洗礼を受け、まもなくして天に召されました。
 娘さんは、自分に与えられた使命が、お母さんと若いすることであり、主イエスの福音を伝えることだと認識したのだと私は推測します。誰も知らない3時間の間に、娘さんが今までの事柄を心から謝罪し、お母さんもそれを受け入れ、二人の距離が一挙に縮んだと思うのです。

 あなたも、隣の芝生は見ないことです。あなたには、あなたの道があります。あなたらしく、主イエスから与えられた使命を果たしていきましょう。

 「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

→あなたの番です
□弱り果てた朝、主イエスはあなたの岸辺に立つ
□砕かれた人が、主から使命をいただく
□周囲を見ずに、主イエスに従う


ヨハネ20:1~31 マリヤとトマス



  悩みや葛藤は人それぞれ違いますが、主イエスはどのように接して下さるのでしょう。復活した主イエスがマリヤとトマスにどう関わって下さったかを見れば、それが分かります。

1、泣いていたマリヤ

 マグタラのマリヤは感情的に大揺れでした。
主イエスが死なれた。大きな苦悩から救い出してくださった主イエスが死なれた。目の前の十字架でむごたらしく血を流し苦しむ姿を目の当たりにした。マリヤの精神的ダメージは、十二弟子よりひどかったでしょう。
埋葬の場所をはっきり見届けたマリヤ(マルコ15:47)は、アリマタヤのヨセフたちの埋葬作業では満足できず、自分の手で丁重に香料と香油を塗ろうと(マルコ16:1)日曜の朝早くに墓に出かけたのです。ところが、遺体が無いのです。

「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」(2節)

マリヤの困惑は、主イエスの遺体がなくなった事です。復活するなど考えの外にあったので、想像すらできません。ヨハネとペテロは、マリヤの報告を聞いて駆けつけ、空の墓を確認し(3~8節)、マリヤの言ったことは信じましたが復活は想定外でした。
マリヤは、一人残され泣いていました。遺体が盗まれた事でひどく心を痛めて泣きました。

しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。(11節)

天使が現れ、「なぜ泣いているのですか」(13節)と言いました。主イエスも「なぜ泣いているのですか」(15節)と言われました。でもマリヤは、復活された主イエスと会話しても、園の管理人としか思えません。(15節)彼女は遺体のあった場所に目を向けたので、主イエスは彼女の背後に追いやられました。
悲しみばかりを見つめ続けるマリヤ。主イエスに気づかないマリヤ。マリヤの姿は、私やあなたの姿です。

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。(16節)

主イエスの声を聞いていたのですが、さきほどは何も気づきませんでした。でも、主イエスが名前を呼んでくれたとき、体全体で反応しました。懐かしい主イエスの声。1節と11節のマリヤはギリシア語表記で、16節のマリヤはアラム語の音をそのまま残した「マリヤ」つまり、主イエスが発音された音そのままが書いてあります。マリヤの「ラボニ」も、その時の音そのままの表記です。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。」(イザヤ43:1)

主イエスは、今日もあなたの名を呼んでくれます。想像して下さい。世界に70億人の人がいたとしても、主イエスはあなたの名前を呼んでくれるのです。主イエスに、実際に名前を呼ばれた瞬間をイメージして下さい。あなたの弱さ、あなたの過去、あなたのすべてを受け入れ愛してくれる方が、あなたに目を留めて呼んでくれる喜びでいっぱいになるはずです。

あなたも、失ったものばかりに目を向けて泣くだけではだめです。あなたの名を呼ぶ主イエスに、きちんと応答しましょう。はい、ここにいますと。



2、怒ってしまったトマス

 マリヤは泣いていましたが、トマスは憤ってしまいました。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。(24~25節)

 トマスはかつて、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と発言したほど、情熱家で激情タイプで一途な男でした。彼は死ぬ場所を探していたのかもしれません。そのせいで、十二弟子と同じ部屋にいなくて、復活の主に会えなかったのでしょう。

トマスはいいやつだったのですが、10人の弟子が笑顔満面で主イエスの復活を語ると、無償に怒りが込み上げ、逆切れ状態でプチンと切れてしまいました。「決して信じません」と叫び、つっぱったのです。意地を張ったのです。引っ込みがつかないのです。後悔とみじめさがひたひたと追って来たことでしょう。

 主イエスは、1週間後(26節)、つまり、トマスが冷静になった頃に再び姿を現し、トマスにだけに語られました。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(27~29節)

 主イエスは、トマスの暴言をなぞるように言われました。指をここにつけなさい。主イエスは、私たちの失言や失敗に寄り添ってくれる方です。トマスという人と、トマスのこだわりを理解してくれて、スペシャルメニューで応対してくれるのです。今も、トマスのようなあなたに、同じようにしてくれます。

 悲しみ落胆したマリヤには、名前を呼んでくれました。
 失言してみじめになったトマスには、寄り添ってくれました。
 それが、私たちの主イエスです。
 
 マリヤとトマスがこの後、どんな信仰を持ち、どんな生活をしたのか、考えるだけで楽しいと思いませんか。泣いてる人がいて、その理由を知っているのに「なぜ泣いているの」と語りかけるマリヤの姿も想像できます。信じ切れない人がいれば、見ないで信じるんだと諭すトマスの姿が想像できますね。

 「私の主。私の神。」「見ずに信じる者は幸いです。」この言葉を心に留めましょう。

→あなたの番です
 □あなたの悩みと葛藤を知っていて下さる方が、主イエスです
 □あなたの涙と憤りを分かって下さるのが、主イエスです
 □今週、誰かの涙や疑問に付き合いませんか
 


ヨハネ19:1~42 完了した

 十字架は信仰の原点であり、私たちの生き方を根本的に変化させるものです。
 主イエスを助けようとしたピラト、「完了した」と言い残して死なれた主イエス、十字架の最期を見届けた男たちの変化を、ヨハネ19章を通して見ていきましょう。
 


1、ピラトの証言

 ローマ総督ピラトは、主イエスと対話し主イエスの態度を見て、死刑に値する罪はないと判断、助けようと模索しました。4節でピラトは「あの人に何の罪も見られない」と述べ、6節で「私はこの人には罪を認めません。」と公言し、12節では「イエスを釈放しようと努力した」とある通りです。

 共観福音書の記述(マタイ27章、マルコ15章、ルカ23章)では、懲らしめた上で十字架に付けるという流れになっていますが、ヨハネの筆によるとピラトが主イエスを助ける策として鞭打ちを課したと読めます。1~5節を良くお読みください。

 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。(5節)

 ピラトが、この血だらけの男はイエスである、「さあ、この人です」と説明しなければ、主イエスだとは分からないほど無残な姿になっていたはずです。イザヤの預言の通りになっています。(イザヤ53:2~3)
 四十に一つ足らない鞭打ち刑は、それだけで死人が出るほど過酷な処置です。鞭の先に取り付けられた鉛や動物の骨が肉を裂き、背骨や神経をズタズタにする場合があるからです。血だらけの主イエスの姿を見せれば、ユダヤ人指導者たちの怒りやねたみが収まるのではとピラトは願いましたが、期待は裏切られました。

 旧約聖書では、罪のためのいけにえの動物が、傷なく、しみのない動物でした。同じように、主イエスも、何の罪のないお方であるゆえに、贖いとなれるのでした。

 主イエスさま、ありがとう。私の罪のために、罪のないあなたが身代わりに鞭打たれて下さって。私の罪の罰を体で受け止めて下さって。私は心からそう思います。



2、十字架

 共観福音書にあるが、ヨハネの福音書にない事柄を挙げてみましょう。クレネ人シモンが十字架を肩代わりしたこと、群衆から嘲弄されたこと、わが神わが神なぜお見捨てになったのですかという主イエスの言葉、左右にいた犯罪人の言動、百人隊長の証言、地震や裂かれた神殿の幕、などについてあえて書いていません。

 これらを見るとヨハネの意図は明確です。主イエスがたまたま苦しみを受けたのではない。主イエス自ら十字架を選び、人々の罪の贖いのため苦しみを主体的に受けられたと読めます。

 一方、ヨハネだけが書いている事にも注目しましょう。「ユダヤ人の王」との看板が3か国語で書いてあったこと、主イエスの母マリヤを弟子ヨハネにゆだねたこと、「完了した」との言葉、槍で脇腹を刺すと血と水が出たこと、などです。

 ヨハネは、十二弟子で唯一、主イエスの十字架の至近距離まで近づいた人でした。流れ出た血と水(34節)を自分の目で見て、「それをに目撃した者があかしをしている」(35節)と述べています。

 主イエスがユダヤ人の王であることを3か国語(20節)で書かれてあったことは、当時のローマ帝国の西の公用語がラテン語で東がギリシア語であったことから、主イエスこそまことの王であると世界中に宣言したに等しいと、ヨハネは読み取ったのでしょう。

 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。(20節)

 主イエスは、背中の激痛と手足の釘の痛みに耐えながら、母のことを思いやり、弟子のヨハネに母の世話を任せると告げました。ヨハネもマリヤを自分の実の母のようにして最後まで看取るとこの時決めました。十字架に遭遇した者は、誰かと深く結びつき、誰かの重荷を負うことを嫌いません。

 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(27節)

 ヨハネにだけある「完了した」との最後の主イエスの言葉を考えましょう。
 主イエスの逮捕、裁判、鞭打ち、十字架の死に至るすべてのプロセスを、主イエスは自ら引き受け、すべての苦しみを味わい尽くし、罪の贖いのわざを完全に成し遂げたと読めます。私たちの罪がどんなに深くとも、主イエスが罰を代わりに受けて、死んで下さったので、もはや、何も必要としないのです。

 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。(30節)




3、変えられた二人

 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。(38節)

 アリマタヤのヨセフは、共観福音書においては、有力議員とか金持ちとか正しい人と書かれてありますが、隠れキリシタンだったとヨハネは言い切りました。ユダヤ人を恐れていた男が、大胆にも、主イエスの遺体の埋葬をすると言い出したのです。

 ニコデモについても、「夜イエスのところに来たニコデモ」(39節)と意気地のない姿を暴露していますが、そんな男が公に埋葬を手伝い、高価な没薬をささげたことが分かります。
 この二人の男は、なぜ変化したのでしょう。それは、主イエスの十字架の意味が分かったのです。私のために、主イエスは苦しみを受けられたと心の底で分かったのです。それで隠れキリシタンを止めて、はっきりと主イエスの弟子であることを明らかにしたのです。
 主イエスの十字架は、我がため、と理解できたのです。

 中国で地震が起き、救助隊が生存者を捜していた時の話を知りました。赤ちゃんが奇跡的に生き残っており、救助隊員は喜びました。そばにいた女性は死んでいましたが、手にある携帯電話を読んだ救助隊員は涙を禁じえず、同僚隊員にもそれを見せ、皆が涙したと言います。その携帯電話には、あなたがもし助かったら、お母さんがあなたを愛していたことを忘れないでね、と書かれてあったそうです。恐らく、建物が崩れてくるとき、母親が背中をまるめてわが子を守ったのでしょう。背骨や内臓の激痛で気を失う前に、母はテキストを残したのですね。

 「完了した」と、主イエスはテキストを残しました。しっかり受け止めましょう。



→あなたの番です
 □正しい人が私の身代わりになってくれた。
 □救いに必要なすべての事は完了した。
 □あなたも、アリマタヤのヨセフになれる。


 

ヨハネ18:1~40  逮捕と訊問


 ヨハネ18章の内容は以下のようにまとめられます。
  1~11節:ゲッセマネの園で主イエスが逮捕される
  12~27節:大祭司の尋問とペテロの否認
  28~37節:主イエスとローマ総督ピラトの対話
  38~40節:強盗が恩赦になり、十字架刑が決定

 今日の箇所の最も適切な解説は、バッハの「ヨハネ受難曲」です。ヨハネ18章と19章の言葉すべてにメロディーが付けられたもので、音楽として聴く聖書と言えます。バッハの聖書理解の深さに感銘を受けます。できれば、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏をお聞き下さい。指揮者の鈴木 雅明さんはクリスチャンであり、バッハの素晴らしい理解者です。

 主イエスは、あなたをかばう方です。今日の箇所を注意深く読むと、それが分かるでしょう。


<ヨハネ福音書の特異な視点>

 18章は、主イエスが逮捕され、徹夜の尋問が行われ、ピラトのもとで死刑が決まるまでの出来事が書かれてあります。
 今日の箇所を一読すると、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とほぼ同じ記述という印象を持つでしょう。ですが、何度も読むと、ヨハネの独特な視点に気付きます。

 共観福音書にあるが、ヨハネの福音書にないものをピックアップしてみます。

 ゲッセマネの主イエスの祈り、ユダが口づけで主イエスを裏切る、弟子たちが逃げ去る、大祭司の尋問における偽の証人、激昂する祭司長たち、主イエスへの愚弄や暴力、ピラトの前での主イエスの沈黙。

 共観福音書の印象は、苦難の杯に苦悩する主イエス、卑劣なユダ、臆病で無責任な弟子たち、けしからん祭司長たち、殴られた主イエス、無言の主イエスです。十字架の苦しみに翻弄される主イエス、苦難や侮辱に耐える主イエスという側面が浮かび上がります。

 ヨハネの視点は違います。主イエスが主体的に苦しみを選び取り、堂々と十字架への道を歩いているという理解で書いています。

 もちろん二つの事実があったのではなく、事実は一つです。ヨハネが歳を取り、十字架の出来事を何度も振り返り、熟慮する中で、共観福音書に触れられていない大切な側面があるとヨハネが思い至ったのでしょう。

 ヨハネにあって、共観福音書にはない記述を見ていきましょう。

1)後ずさりして倒れる兵士たち

 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。(4~6節)

 主イエスは、ご自分から誰を捜すのかと問われました。また、「それはわたしです」と積極的にご自分を提示されました。私を捕えよと挑戦するかのようです。その迫力に兵士たちは後ずさりして倒れてしまったほどです。主イエスは、十字架を恐れていません。


2)弟子をかばう主イエス

 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」(8節)

 そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。(19節)
 
 主イエスは、ゲッセマネの園で、私を捕えよ、弟子はそのままで去らせよと言われました。弟子たちをかばっておられます。
 大祭司の尋問時にも、弟子の情報を聞き出そうとされると、完全に無視し、弟子について何もお語りになりません。

 無責任で口ばかりの不甲斐ない弟子たちにはスポットライトは当たらず、弟子たちをかばう主イエスの姿が浮かび上がっています。

 主は、そのように、今も私たちをかばって下さる方なのです。


3)ペテロの拒絶の言葉

 共観福音書では、ペテロが主を3度否んだことを以下のように記録しています。
  「何を言っているのか、私には分からない」(マタイ26:70)
  「そんな人は知らない」(マタイ26:72)
  「そんな人は知らない」(マタイ26:74)

 ヨハネの記述は以下のようです。
  「そんな者ではない」(ヨハネ18:17)
  「そんな者ではない」(ヨハネ18:25)

 ペテロが実際に主イエスを否んだ時には、両方の言葉を口から出したのでしょう。ヨハネの強調点は、私ではない、という言い方にあります。英語の聖書を見ると良く分かります。I am notとなります。

 主イエスが、逮捕される場面で言われた言葉と比べると、違いがはっきり分かります。誰を捜すのか、ナザレのイエスだ、それはわたしだという部分のことです。

 「それはわたしです。」(5節)
 「それはわたしです。」(6節)
 「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。」(8節)

 ペテロは3度、私はそんな者ではない、と言いました。
 主イエスが3度、わたしだ、と言われました。(英語ではI amです)

 
 私たち、みなが、ペテロです。
 私たちも、自分が犯した罪を指摘されると、とっさに否定します。
 わたしではありません。主イエスは違います。


 以下の話は事実ではなく、私が創作した寓話です。
 大企業の社長で、地位も財産もある中年の男性がいたとします。ある日、警察がやってきて下着泥棒の容疑で逮捕すると言います。社長は、とっさの事なので、「私はしていない、何かの間違いだ」と返事をします。警察は、「ここに礼状があり、確かな証拠がある、あなたの机とロッカーを捜査します。コンピューターと書類一切を証拠として持ち帰ります。署までご同行下さい、それとも手錠をかけますか」と迫ってきました。その容疑は事実だったので、社長は真っ青になっていました。
 そこに誰かが突然現れます。「その逮捕状は私に対するものです。私がやりました。私を捕え、私を牢に入れ、私を罰して下さい」

 そう言ってくれるのが主イエスです。主イエスが、それはわたしです、捕えるべき相手は私だ、とゲッセマネの園で繰り返し言われた言葉は、実は私のための言葉なのです。



 主イエスは、「真理をあかしするために生まれ」(ヨハネ18:37)と言われました。主イエスは、真理を明らかにするために十字架で死なれました。
 主イエスのあかしされた真理は、神がどんなに愛の深い方か、神による罪の赦しがどんなに完全なものか、主イエスを信じる者に与えられる命がどんなに生き生きしているか、そうした真理が明らかにされているのです。真理は、人を赦し、人を生かすのです。


 →あなたの番です
 □主イエスが私をかばってくれたこと、それを心に刻みましょう
 □今週、誰かをかばいましょう
 □主イエスに従い、堂々と生きていきましょう

 

ヨハネ17:1~26 主イエスの祈り

 主イエスは信じるに値する方です。主イエスを信じて、まことの命を得てほしい。ヨハネが福音書を書いた中心目的がそれでした。(ヨハネ20:31)

 1~12章は、主イエスの奇跡が語られています。13~17章は、主イエスの人柄が語られています。ですから、主イエスの奇跡を土台に主イエスを信じることもできるし、主イエスの人格に触れて主イエスを信じてついて行くことができるのです。

 今日の箇所、17章を読みましょう。主イエスは、奇跡を行うだけでなく、教えるだけでなく、愛してくれるだけでなく、あなたのために祈ってくれる方だと分かります。

1、栄光をあらわして下さい(1~8節)

 主の祈りの最初の部分は、神の栄光があらわされることです。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。(1節)

今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(5節)

 栄光とは何でしょう。圧倒的な光によって、神の力、神の聖さ、神の威厳などが表されることです。

主イエスは、この数時間後、逮捕され、拷問を受け、鞭で打たれ、無残にも十字架で死んでいきました。表面的には栄光のかけらもありません。けれども、この姿にこそ、神の栄光があらわれたと私は理解しています。4節から分かるように、神の栄光とは、父なる神のみこころ行う所にあらわれるからです。

あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。(4節)

 初期の科学者たちは、神がおられるので宇宙、自然に秩序があると理解し、神の栄光のために化学を行いました。天文学者ケプラーの言葉をご紹介します。彼もまた、神の栄光を求めた一人です。
 「私たち天文学者は、自然の書についての祭司なのです。自分たちの考えに栄光を求めるのではなく、神の栄光を求めるのです。」

私たちも、私たちの人生を通して神の栄光をあらわして下さいと祈りましょう。


2、弟子のための祈り(9~19節)

 「私は彼らのためにお願いします」(9節)と、主イエスは祈りました。これは、弟子たちのための祈りです。主イエスは、今も、祈っておられます。あなたのために祈っておられます。ただし、過保護ママのようには祈りません。

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。(15節)

 弟子たちは、主イエスに遣わされた存在です。ちょうど、父なる神が主イエスを世に使わされたのと同じです。この世と聖め分かたれ(17、19節)、神の栄光をあらわすように(10節)と期待されています。

 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。(18節)

 スザンナ・ウエスレー(1669年生まれ)は、たくさんの子供をイギリスで育てました。子供たちが5歳を過ぎるとスザンナは、毎晩時間を取って、一人の子供に、台所で主イエスのことを教えました。イギリスを流血革命から守ったといわれるジョン・ウエスレーは彼女の15番目の子供で、やはり母から聖書を学びました。
 主イエスが弟子たちのために祈られたように、スザンナも子供のために教え、祈りました。スザンナの語る言葉を聞きたいと200人が集まったことがあるといいます。

 主イエスが私たちのために祈っていてくださると知るだけで、何かこう勇気が出てきませんか。私たちの応援団長が主イエスなのです。片時も私たちのことを忘れないでいてくれます。


3、弟子に導かれる人達への祈り(20~26節)

 弟子たちに導かれた新たなクリスチャンを想定して、主イエスは祈られました。主イエスがいなくなった後、十二弟子が働きを引き継ぐと、主イエスは確信していたのです。弟子の次の世代も多くなると主イエスは見通しておられました。壮大なビジョンです。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。(20節)

 私たちも、信仰が自分だけで終わってしまわないように、誰かに救いを伝えましょう。あなたが救いに導いた人で終わってもいけません。その人たちが次の人にバトンタッチできるようにも祈りましょう。

 血のつながる家族という面で言えば、子供がクリスチャンになるように祈り導き、孫もクリスチャンになるよう祈り励まし、ひ孫もクリスチャンになるように祈るという具合です。
 誰かを救いにに導くという側面でいえば、私→私が決心に導いた人→その人が導いた人、という順番になります。その3代目の人のためにも、その次の世代のためにも祈りましょう。パウロも同じようなことを言っています。

 「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」(第二テモテ2:2)

 最終的には、どんなに多くのクリスチャンが生まれても、ユニティーを失っては台無しです。。三位一体の神の交わりに信じた者が入れてもらい、その交わりが一つであり続けることが神の栄光につながります。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(21節)

 まとめましょう。
 主イエスは、常に神の栄光を求めながら、父なる神と親しく語り合う方です。父なる神と御子主イエスとの親しい交わりにわたし達を招き入れてくれる方です。
その交わりにしっかりコネクトできるように、主イエスは私たちのために祈り、私たちの次の世代のためにも祈られました。
 主イエスのような素晴らしい紹介者はいません。主イエスに仲介していただいたのですから、もっと神を親しく神を知る者、神の栄光をあらわす者になりたいですね。
 そして、私たちも、3つの祈り(=神の栄光をあらわせるよう、次の世代のための祈り、その次の世代のための祈り)をしていきましょう。

 モニカは、331年に北アフリカに生まれた女性でした。結婚相手は暴力を奮う男。息子は放蕩して手がつけられません。それで、いつしか、祈りの人になりました。
息子が主イエスのもとに導かれるようにと祈っていたとき、司教から「涙の子は滅びない」と励まされました。この息子が、後に歴史に名高い神学者になりました。モニカはアウグスティヌスの母なのです。
一人の涙の祈りが、息子という次の世代を導き、その息子により次の世代にまで影響を残す祈りとなっていきました。主も、私たちの涙の祈りを知っていて下さいます。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(イザヤ38:5)


→あなたの番です
 □今週、祈る人になりましょう。
 □自分のために祈り、弟子や子供のために祈り、孫や将来救われる人のために祈りましょう
 □神の栄光のために祈りましょう。