第1サムエル4:1~22 栄光が去った時


 「勝った試合から学べることは何もなかった」
 とゴルフ選手ボビー・ジョーンズは語りました。敗北から多くを学んだという意味でしょう。
 「栄光が去った」と言わしめた戦いから、大切な教訓を学びましょう。

1、敗北

約束の地に定住したイスラエルにとって最大の敵はペリシテ人でした。ペリシテ人は、海岸に近い5つの町を支配下に置く強い民です。戦場は海から東に15キロ付近の丘陵地帯。イスラエルはエベン・エゼルに、ペリシテ人はアフェクに陣を敷き、にらみ合っていました。緒戦はペリシテが優勢で、イスラエル軍は4千人を失いました。(1~2節)

民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。」(3節)

 イスラエルの長老たちは、敗戦の背後に主の手があったと推測しました。その判断は適切でしたが、後がいけません。「なぜ?」に対する答え書いてありません。答えのないうちに、お手軽で即効性のある解決策を取りました。
 イスラエルの長老たちは、神の箱がありさえすれば勝てるという短慮に走りました。「シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。」(3節)

 ヨシュア記7章に敗北の記録があるので比較すると大切な点が見えてきます。
 「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。」(ヨシュア7:6)
 ヨシュアと長老たちは夕方まで悔い改めと悲しみを表明しながら、主に祈りました。「なぜ?」という問いを大切にしたのです。すると、主が応答され、約束を破った者がおり、罪のきよめが必要だと指摘されました(ヨシュア7:10~13)。指示に従った結果、イスラエルは勝利を得ました。

 敗北したら、敵ではなく、主に目を注ごう。主の望まれる道だったのか。罪の悔い改めが必要ではないか。主に頼っていたか。謙虚で平和な心でいたか。砕かれた心で再スタートしよう。

 本当の勝利者とは、敗北から学ぶ人です。

 

2、栄光が去った

神の箱が安置されていたシロは戦場から東に30キロの距離。イスラエルの指導者は神の箱を兵器の一つのようにみなし、神の箱さえあれば勝てると考えました。悪名高い祭司ホフニとピネハスが神の箱運搬の責任者なので、彼らは霊的指導者としては不適格でした。イスラエル兵は神の箱を見ると歓喜の雄たけびを上げ、地がどよめいたといいます。(4~5節)

 ペリシテ人は神の箱到着を知り恐れおののきますが、かえって全力でイスラエルに向かって行ったので3万人を倒しての大勝利となりました。ホフニとピネハスは殺され、神の箱は敵に奪われました。(6~11節)神が予告したとおりになりました。

この知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、民のうちに打たれた者が多く出ました。それにあなたのふたりの子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。彼は四十年間、イスラエルをさばいた。(17~18節)

神と民をつなぐ祭司エリはいわば首のポジションに当たります。その首がおられたのは実に象徴的な最後でした。

ピネハスの妻は、急な陣痛で男子を出産して亡くなりました。最後に言い残したのは息子の名で、イ・カボデ。「栄光がイスラエルから去った」(21節)という意味でした。何年も前から、神の栄光はなかったのですが、やっと気づいたのです。

栄光が去ったと認識することが、栄光を取り戻す第一歩です。


 マーサは10歳の時から、ダラスで、お父さん一人によって育てられました。自動車の運転もお父さんから教えてもらいました。大学生で看護実習のある時も、お父さんは5時に起きて朝食を作ってくれました。イエスさまのことも教えてくれて、子供の時も10代の時も教会に一緒に行きました。大学を卒業しヒューストンに就職した時も荷物を運んでくれました。
 マーサは6月から仕事を始め、週末をパーティーやアルコールで時間を過ごし、日曜の朝は起きられず、礼拝に行きませんでした。10月になると、楽しかったはずなのに空しくなり、孤独になり、落ち込み、週末に家に帰ることにしました。敗北者でした。
 父さんは、「ウエルカムホーム」と言ってハグして温かく迎えてくれました。「何があったのかを無理に話すことはない。神さまには全部話すんだよ。」と言ってくれました。
 自宅で過ごした週末、自分を取り戻し神に祈ることができ、帰る前に父さんに何があったのかを話せました。父さんは、それを受け入れ、「毎日祈っているよ」と励ましてくれました。
 飛行機でヒューストンに着くとタクシーに乗り、アパートに戻らず、近くの教会に直行し、日曜夜の礼拝に参加しました。それが、マーサの新しいスタートになりました。


 「神へのいけにえは、砕かれた霊。
  砕かれた、悔いた心。
  神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)


→あなたの番です
 □敗北したら、主の前に出ましょう
 □神の栄光は砕かれた心から始まる


第1サムエル3:1~21 主よ、お話しください


 第1サムエル3章の流れを追ってみましょう。
 少年サムエルは祭司の見習い中で、この日は礼拝施設で眠っていました。神がサムエルを呼ばれたのですが、少年サムエルは祭司エリの呼びかけと勘違いしてエリの部屋まで走って行きました。呼んでいないと祭司エリに言われ、サムエルは寝床に戻りました。同じことが、2度、3度と繰り返され、祭司エリは主がサムエルを呼んでいると気づき対応方法を教えました。サムエルは、4度目に呼ばれたとき、「主よ。お話しください」と応えて、主の言葉を聞きました。翌朝、エリに問い詰められ、サムエルは祭司エリ家族への裁きを告げました。祭司エリは、主が少年サムエルを選ばれたことを知りました。サムエルは、やがて、全イスラエルにおいて預言者として認められていきました。


1、語る神

 神はサムエルに声をかけました。(4、6、8、10節)
ハンナは神に心を注ぎ出して祈りましたが、今回は、立場が逆です。神がサムエルに語られました。まことの神は、ご自分の思いを人に伝える方です。
 あなたが心を静かにするなら、主の語りかけに気づくかもしれません。人は何のために生まれて来たのでしょう。その答えの一つは、神の言葉を聞くため、と言っても良いでしょう。

 「主はサムエルに仰せられた」(11節)

 神は、今、あなたに何を語っていますか。

 祈りの時、あなたが語るだけでなく、あなたが黙り、主の語りかけを聞くことが必要です。毎朝、聖書を読むことは、神の語り掛けに耳を傾ける習慣になります。



2、少年を必要とする神

 神は、大人ではなく、少年を選ばれました。

 「少年サムエル」(1節)
「主が少年を呼んでおられる」(8節)

 少年とは何でしょう。未熟という意味です。
 少年とは何でしょう。未来を思い描けない人です。
 少年とは何でしょう。成長する可能性があるということです。
 少年とは何でしょう。純粋な心を持つ者です。

 サムエルは少年でしたが、主に仕えていました。「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。」(1節)「主に仕えていた」(2:11)、「主に仕えていた」(2:18)仕える人とは、神を敬う人で、神の役に立ちたい、私を使って下さいという姿勢を持つ人です。

 人間がどのくらいの能力を持っているのか、神はあまり関心がないと私は思うのです。だって、神から見れば、人間の能力など大差ないからです。
 人間は、分厚い布のようなものです。そのままでは何の役にも立ちません。けれども、船のマストに結び付ければ、立派な帆になり、神が送ってくれる風により大きな船を動かせます。私を用いて下さいと自分をささげる人は、主が用いてくれます。

あなたは、少年ですか、青年ですか、中年ですか、老年ですか、定年ですか。そんな事は関係ありません。主は、神のために生きたいと心に決めた人を求めているのです。
あなたは自分が未熟だと言って主の招きを断りますか。主は、あなたが未熟なことを主は百も承知です。大事なことは、あなたが主の前でAvailable かどうかです。

私は、自分が大学3年で主の招きを確信して、卒業後に神学校に行きました。当時、自分の能力を客観的に測ることはできなかったし、未来の自分の姿を思い浮かべる事も不可能でした。経済的にどうなるのかは考えるだけ無駄でした。計算していたら、自分の生涯を主にささげることはできなかったでしょう。主の招きを聞いたなら、動きましょう。



3、名前を呼ぶ神

 神は、サムエルの名前を呼びました。
 
 「サムエル。サムエル。」(10節)

主は1度、2度、3度、4度、サムエルを呼んだことになります。主は100回でも1000回でも、あなたが気づくまであなたを呼んでいます。世界に何十億の人がいようと、神はあなたが必要だと言っておられるのです。

旧約聖書では、同じように名を呼ばれた人がいました。「アブラハム、アブラハム」(創世記22:11)、「ヤコブ、ヤコブ」(創世記46:2)、「モーセ、モーセ」(出エジ3:4)。神は、彼らの名を2度呼び、注意を喚起しています。
神は、あなたの名を知っています。あなたのパーソナリティーや背景を知って、あなたが必要だと声をかけています。

アーサー・アッシュ(194393という黒人テニスプレイヤーをご存じですか。貧しく生まれ、7歳から始めたテニスで頭角を現しました。ウォルター・ジョンソンという黒人医師が10歳のアーサーを引き受け、テニスも勉学も経済面も支え、フェアプレーの精神を教えました。まさに、少年に声をかけ、少年を育てたのです。
彼はテニスの4大大会に優勝、全米テニスチームの監督にまでなりました。また、黒人スポーツマンを励まし、人種差別反対運動を行いました。
Start where you are, Use what you have, Do what you can. これはアーサーの言葉です。
アッシュは心臓手術の輸血が原因でエイズになり49歳で死亡しましたが、7歳の娘に次のような言葉を言い残している。「神に祈りなさい。頼みごとをするためではなく、何が正しいことか、神が何を望んでおられるかを知る知恵と、それを実行する意志を祈り求めなさい。」

 主は、今日も、あなたの名を呼んでいます。それは、あなたと語り合いたい、あなたに託す使命があるという意味です。あなたが任された仕事は何ですか。

 →あなたの番です
  □主は、あなたに、何を語っていますか
  □「少年」のあなたを主が必要としています
  □主はあなたの名を呼んでいます


第1サムエル2:1~26 主にも、人にも愛されて


 
 「神は、本当にいるんだ。」
 そう体感した瞬間がありますか。
 背筋がぞくぞくして、鳥肌が立って、目が大きく見開かれる瞬間のことです。


1、ハンナの祈り

ハンナは男の子を授かった経験を通して神の力を目の当たりにしました。それで、ハンナは1節から10節で、比類なき神をたたえました。

主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。(2節)

 圧倒される経験、言葉を失う体験、現代人はそれを失いました。オーロラをこの目で見たい、氷河が海に落ちる音を聞きたい、アラスカの海でセミクジラがジャンプする姿を至近距離で見たい、それらを体感して大自然を造られた神をたたえたい。
 自分が思い描く神は、私が期待する神の姿であり私の創作物です。まことの神は、私たちの枠組みを超えた方です。6節を読むとそれが少し理解できます。

主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。
主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。(6節)

 神は、神の時に、神の方法で、事を行われます。それゆに神なのです。ちりとか、ゴミ捨て場の灰からも、主は人を引き上げて栄光を与えることができるのです。
成功者の多くは横柄になって(3節)身を滅ぼしますが、ハンナは一層謙虚になり、ただひたすらに神をたたえました。

比類なき神、圧倒的な存在、真の主権者、全能者、まことの神の前で、心ひれふしましょう。
圧倒され、言葉を失い、神を礼拝しましょう。


2、祭司エリの息子たち

 祭司エリの二人の息子たちホフニとピネハスは、圧倒的な神に目を向けようともぜず、神を無視しました。彼らは、よこしまな者で、主を知ろうともしません。(12節)神へのいけにえの肉のうち一番おいしいところを腕ずくで奪い(12~17節)、性的な逸脱行為(22節)を平気で行い、親の叱責を無視しました。それで「彼らを殺すことが主のみこころ」(25節)だと主は厳しい最終結論を出しました。

 ホフニとピネハスの問題点は4つああります。1)我慢ができず欲望のままに行動する 2)他者を力ずくでコントロールする 3)神を無視し、親を尊敬しない 4)ごめんなさいと言えない

赤ちゃんや幼児は自分を中心に世界が回っていると考え、親や周囲の者を泣き声や笑顔でコントロールします。エリの息子たちの内面は幼児そのもので、心の成長が止まっていたのです。

 祭司エリは教育に失敗しただけでなく、大人になった息子たちへの警告と処罰を先延ばしにした。それで主は、「あなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじ」(29節)と叱責され、アロンの家系というプライドも家系断絶という厳しい処罰を言い渡された。(30~34節)

“ホフニとピネハス度”を自己チェックしてみましょう。
□最後は自分の主張が必ず通る
□周囲の人を自分の願うとおりに動かせる
□いつもイライラして、身近な人があなたの顔色を気にしている
□悪いのは自分以外の人間だと考えている

 多くの男性は二つの事しか考えていません。仕事の成功とストレス解消の自由時間。そこには妻や子供たちの入るスペースが存在しません。結局自分のことばかりです。

 もしあなたがエリの息子と似ているなら、あなたの身近な人は苦しんでいます。わがままを悔い改め、主イエスを信じて頼り、家庭や職場での行動パターンを変えましょう。
 「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)


3、サムエルの成長

 祭司エリの劣悪な家庭環境に接していても、サムエルは立派に成長しました。

 「幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。」(11節)
 「サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた。」(18節)
 「少年サムエルは、主のもとで成長した。」(21節)
 「少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」(26節)
 「わたしは、わたしを尊ぶものを尊ぶ。わたしをさげすむものは軽んじられる。」(30節)

サムエルが健全に育った秘訣は何でしょう。それは、「主の前に」、「主のもとで」という要素です。圧倒的な存在、言葉が出ないほどの比類なき神の前に立つようにと教えられました。

 また、仕えるという経験が有益です。仕える生活は、わがままの対局にある生き方で、尊敬、従順、自己管理、忍耐、創造力を養います。

 東大に入学できる子にするとか億万長者にするのが親の夢なら目標が小さすぎます。世界を変える人材を育てましょう。神にも人にも愛される人を育てて世に送り出すのが母の役目であり、教育の目指すところです。救世軍創始者の妻、キャサリン・ブースは、「世界はあなたを待っているよ」と子供たちを腕に抱きながら語り掛けていたといいます。

 圧倒的な存在の神の御前で謙虚に生き、神と人に積極的に仕える人になれるように育てましょう。これが教育の目指すところです。神を尊ぶものは神に尊ばれる(30節)のです。

 「少年サムエルは、主のもとで成長した。」(21節)

 →あなたの番です
 □比類なき主権者の神をたたえる
 □他人も自分も不幸にする自分勝手を捨て去る
 □主と隣人を愛する者になる


第一サムエル1:1~28 ハンナの祈り

 「考える時間を持ちなさい。
  祈る時間を持ちなさい。
  笑う時間を持ちなさい。」
 こう言ったのはマザーテレサでした。

 私たちも、自分について考え直し、祈りに取り組みましょう。

1、いらだつハンナ

エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。(第一サムエル1:2)

 ハンナという名は、日本語なら、「恵」とか「好子」の意味になる。夫エルカナと妻ハンナの間には子供がいなかった。子供が生まれずにエルカナが死んでしまうと、当時の法律によれば土地は第三者の手に渡る。やむなくエルカナはペニンナを第二の妻として迎え、息子と娘が複数与えられた。(4節)

 エルカナは毎年、神の箱のあるシロという町に行き、主を礼拝し、いけにえをささげ、特別のご馳走を食べてその日を祝った。二番目の妻ペニンナは年中行事のように毎回ハンナをいじめた。ハンナは判で押したように毎年ペニンナの罠にはまり、食事すらできなかった。

彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。(6~7節)

 ところで、結婚カウンセリングの専門家は不幸な結婚かどうかは、夫婦の会話をしばらく聞いているだけで分かるといいます。会話の出だしが「あなた」から始まるなら、相手を否定したり、馬鹿にしたり、責める言葉が続きます。だから「あなたはいつも」は宣戦布告の印です。自分が交通事故を起こした時に、原因は朝の妻の言葉だと信じて疑わない夫がこの世には存在します。「私」という言葉から始めるなら関係は良くなります。「私が悪かった」「私はあなたを愛している」「私がやります」

 自分が不幸なのは、身近なあの人のせいだ、環境のせいだと考え続けるなら、不幸を自分で引き寄せているようなものです。ハンナも同様です。ハンナは毎年、ペニンナの罠にはまり、自分の優位に気づきませんでした。

夫のエルカナはハンナだけを愛していたのです。「彼がハンナを愛していたからである。」(5節)と書いてある通りです。ペニンナが何人子供を産んでも、夫の愛は依然としてハンナに注がれていたのを知っていたので、ペニンナはハンナを嫉妬していじめたのです。(6節)
 
 あなたは、ハンナに似ていますか。
 あなたは、愛されています。
 環境があなたを不幸にしているのではありません。また、身近な誰かがあなたの不幸の原因ではありません。あなたの考え方が不幸を引き寄せているのです。感謝を見出し、主の恵みに気づくなら、環境に左右されない平安と喜びがやってきます。



2、心を注ぎだす祈り

ハンナは毎年、祈ったはずです。「赤ちゃんを与えて下さい。ペニンナを見返したいのです。復讐したいのです」けれでも、祈りはかなえられませんでした。

シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(9~11節)

この年のハンナの祈りは、違っていました。堂々巡りからついに脱したのです。祈りの目的は復讐でも、はらいせでもありません。ハンナの目はペニンナから離れ、主ご自身に向きました。ハンナの祈りは、「主に」(10、20、26節)、「主の前に」(12、15節)ささげられた祈りでした。与えて下さい、そうすれば、あなたにすべて与えます。将来、主と人々のお役に立つ赤ちゃんを与えて下さいという祈りになりました。

ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(15~18節)

最初は、いらだちの言葉と愚痴のような祈りだったのでしょう。それが、心を注ぎだす祈りに変化しました。最後は、生まれる息子を主にささげると約束して、心が晴れ晴れしました。顔がみごとに変わりました。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(18節)

主はハンナの祈りに答えて、息子を与えて下さいました。(20節)サムエル(その名は神)という名を付け、ハンナは手塩にかけて育てました。離乳食が食べられるようになると、祭司エリに引き渡し、祭司として育ててもらうことにしました。(24~28節)

ラインホルト・ニーバーの以下の祈りをご存じかもしれません。
 God, grant me the serenity to accept the things I cannot change,
 The courage to change the things I can,
 And wisdom to know the difference.
 この祈りは、静けさと勇気と知恵の3つを求める祈りです。変えられないものを受け入れる静寂さ、変えることのできることを変える勇気、その二つを見極める知恵を求める祈りです。
 ハンナも心を注ぎだして祈ったので不要なものがそぎ落とされ、動機が純化されて赤ちゃんを胸に抱くことができました。そこには、優越感も傲慢さもありません。主にささげ尽くした爽やかさと感謝が残りました。

あなたも、今、心を注ぎだして祈りましょう。

→あなたの番です
□環境ではない、自分を点検しよう
□復讐ではない、心を注ぎだす祈りをしよう


ルカ24:36~53 イースターと魚


 2002年の全国高校野球の地方大会で、9回裏ツーアウトで14対5で負けていたチームがありました。誰もがあきらめる場面ですが、それから10点を入れて逆転勝ちしたというのです。
 今日はイースター。私たちの人生を逆転に導く主イエスの復活に目を留めましょう。

1、真ん中に立つ主イエス

これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。(ルカ24:36)

 「これらのことを話している間に」とは、弟子たちが5種類の話題を何度も繰り返し語り合っていたのだろうと私は想像します。

悲嘆:大好きな主イエスが死んでしまったので、悲しくてしょうがない。
自責:主イエスを裏切り、見捨て、自分たちだけが助かってしまった。
失望:イスラエルをローマ帝国から解放してくれると思っていた。
不安:自分達も主イエスのように殺される。どうやって生きていこうか。
不信:主イエスの復活の噂を耳にしたが、ありえない。信じられない。

 あなたは、これら5つのうち、どれを今、抱えていますか。生きている限り、悲しみ、自責の念、絶望、明日への不安、信じられない弱さは避けられません。それが生きているということです。
 主イエスは、その問題を抱えた私たちの真ん中に立って下さる方です。イースターは9回裏ツーアウトのあなたに大逆転を与える出来事なのです。すべてがダメでも、主イエスは大丈夫と言うお方です。

「イエスご自身が彼らの真中に立たれた」(36節)ここに、イースターの希望があるのです。


2、魚を食べる

 私たち日本人は、主イエスの復活の話を聞くと「ありえない。信じられない」と知性派になりますが、幽霊はいるかという質問になると「いると思う。きっといるよ」と真顔で言います。

 実は、弟子たちも主イエスを見て驚き、恐れ、幽霊のようにしか思えませんでした。(37~39節)この場面は、主イエスのユーモア、ゆとりを感じさせます。

それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。(41~43節)

 主イエスは、本当によみがえられたのです。幻でも幽霊でもありません。部屋の中に突然現れることができる体で、かつ、魚を食べることのできる体でした。
復活の主イエスの目撃者は第1コリント15:6によると500人を越えています。主イエスは、イースターの日曜だけでなく、その後40日間弟子たちに現れたと使徒1:3に記録されています。

パウロは、復活こそがキリスト教の根幹であると次のように言いました。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(第1コリント15:17)
主イエスは弟子たちによみがえると約束したので、もし主イエスの復活がなかったなら、主イエスは嘘つきになります。また、弟子たちも嘘つきです。キリスト教も聖書も無意味です。罪のゆるしも、救いもありません。

フランスの数学者ブレーズ・パスカル(1623-)は主イエスを信じたクリスチャンです。神がいる、神がいない、と二つの場合を想定した時、神がいると信じて生きるほうが益が多いと確率的な視点から神を信じることを勧めました。
パスカルの死後、彼の衣服の襟に縫いこまれていたメモが見つかり、「パスカルの覚書」として知られていますが、パスカルが主イエスを信じた時の喜びが伝わってきます。

あなたは、主イエスの復活を信じますか、信じませんか。


3、聖書を悟らせる

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。(44~46節)

弟子たちは、復活の姿を目撃したから、燃える証し人になったのでしょうか。違います。それなら、復活の姿を現すたびに主イエスは魚を食べればよかったのです。
主イエスは、復活の体を示してから、聖書を教えました。これなくして確かな信仰は維持できないのです。主の証人となって世界に出て行くために、十字架と復活が神の計画であり、聖書があらかじめそれを預言していた事を理解する必要があったのです。

たとえば、詩篇16篇から救い主の復活、詩篇22篇から十字架の苦悩、イザヤ53章から罪の身代わりが預言されていたことが分かります。
そして、主イエスは、私たちが聖書の真理を悟ることができるように、私たちの心を開いて下さるお方でもあるのです。

次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。(46~48節)

九州で生まれたある男性は、20歳代前半でカリフォルニアに出かけ、陶器を売って大もうけしようと試みました。英語も話せない彼が、うまく商売ができるわけはなく、借金をかかえ、希望を失いました。そんな時、アメリカ製のキャンディーを食べ、「これだ!」と直感、日本で製造販売しようと思い立ったのでした。
生活のため、ある家でハウスボーイをしました。その主人はM.C.ハリス牧師でした。キリスト教が大嫌いな彼でしたが二人の優しさに触れ、2年後にイエスを救い主と信じて洗礼を受けました。紆余曲折あった後、洋菓子製造方法を学び、日本で洋菓子屋を開店。移動販売の車の屋根に、キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られたと書いて、商売と同時に、主イエスの福音を伝えました。彼が森永太一郎です。

主イエスがよみがえったと目で見るだけでなく、聖書が予告していたお方であるとの理解はとても大切なのです。

あなたの人生に大逆転を起こすお方、それが復活の主イエスです。あなたの心の真ん中に立ち、あなたを今日も励ましておられます。

→あなたの番です
 □悩みと問題の真っ只中に、復活の主イエスは立たれます。
 □主イエスは、本当によみがえりました。
 □聖書が予告した救い主がイエス・キリストです。


第1テサロニケ5:1~28 喜び、祈り、感謝


 いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事について感謝せよ。これは、この手紙で一番有名な言葉です。迫害で苦しむテサロニケの人々に、パウロはなぜ、そう命じたのでしょう。

1、目を覚ます

 聖書によれば、主イエスが再び来られることは確実。でも、いつかは誰も知らない。5章の前半部分は、4章後半の流れを引き継いで再臨への備えに言及しています。
 パウロのオリジナルというより、「だから目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないからです。」(マタイ25:13)という主イエスの言葉の言い直しと理解できる。

 「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」(5~6節)

 「昼の子」、「光の子」の「子」とは、英語ではchildではなく NIVではsonと訳されている。だから、光の後継者、光に所属する者と理解できます。あなたは、暗闇にいますか、光にいますか。私たちは、世の光であるキリストに属しています。
 目をさました態度こそ、再臨を待つ根本姿勢です。信仰と愛を胸当てとし、救いの望をかぶと(8節)をかぶり、主の兵士として常に備えよとパウロは教えました。

 再臨にはいくつかの意義がありますが、命の恩人に再開し、感謝を述べる日と言えます。
 私が新聞記者をしていた時、脊髄ドナーとなってくれた人に感謝の言葉を伝えたいので記事にしてほしいという男性が社を訪ねて来たことがありました。医療上は匿名の約束ですが、その人を見つけて、「おかげで、命を長らえることができました。」と伝えたいというのです。

 私たちも再臨の時に、主イエスに同じことを言うのです。命の恩人に感謝の言葉を言うのです。10節には、主イエスが私のために死なれたとはっきりと書いてあります。
 「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(10節)


2、互いに励ます

 主イエスの再臨を待つ間、互いに励まし合う(11節)ようにとパウロは語りましたが、その具体的内容が12~22節に記されています。今日のあなたに必要な助言はどれですか。

 みことばを教える人を尊敬する。(12節)
 弱い人を配慮し助ける。(14節)
 復讐しない。(15節)
 喜び、祈り、感謝をこころがける。(16~18節)
 御霊の助け、神の導きを大切にする。(19~20節)
 物事の本質を見極め、悪を避ける。(21~22節)

 私たちは健康に良いことには敏感で、運動という予防手段も、定期健診によるチェックも、処方薬やサプリメントを飲むことも、進んでします。でも、心や魂の健康のために何もしていません。  12~22節を普段から心掛けましょう。それが、魂を悪から守り、魂を強め、魂の健康を豊かにするのです。以下のパウロの祈りを見て下さい。

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(23~24節)

テサロニケの人々は日常的に迫害を受けていました。悪を受けたので悪で仕返ししたかったのです。でも、パウロは、悪で悪に報いるな、復讐するなと教えたのです。

 最後に触れたいのが、16~18節です。辛い毎日だったテサロニケの人にこそこの命令が必要だったのです。こんなに辛いから喜ぶ必要があり、感謝する必要があったのです。これこそが、神のみこころだと確信していたのです。
 
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(16~18節)

ひまわりのように、いつも喜びに顔を向けたい。自分の弱さに謙虚で、神に信頼して祈る者になりたい。環境に左右されずに感謝を見つける人になりたい。
新共同訳では、「どんなときにも感謝しなさい」、NIVではgive thanks in all circumstancesとなっています。あらゆる時に、あらゆる環境で、感謝は見つかるのです。

ロジャー・クロフォードは、右手に1本、左手に2本の指しかなく、片足は義足の人です。でも、テニス指導員としてプロ認定されて活躍し、その後は、講演活動などで多くの人を励ましています。常に微笑むだけで人生は変わる、という彼の言葉には説得力があります。


 1909年2月28日、北海道の塩狩峠で鉄道事故が起きました。連結器が壊れて列車最後部の客車が坂を逆走、クリスチャンで鉄道員だった長野政雄さん(29歳)が自分の体を車体の下敷きにして乗客の命を救いました。乗客は、亡くなった長野さんを見て号泣したといいます。車内には、長野さんがいつも携帯していた聖書と妹さんへのお土産の饅頭が残されました。長野さんの生き方は、主イエスの生き方を現代に伝えてくれる実例です。 
 「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(10節)


ネガティブな世界に影響され、誰かへの復讐のために生きるとしたら、それは空しい生き方です。
あなたの番です。今週、喜びませんか。感謝を見つけませんか。それが、あなたの魂を健康にします。また、それは、絶えず祈ることにより可能になり、主イエスにあって実現します。それが神のみこころだからです。
再び主イエスにお会いし、命を頂いた感謝が言える日が来ることを忘れないでください。

 →あなたの番です
 □「昼の子ども」として生きる。
 □復讐せず、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝する。


 

 
 


第1テサロニケ4:1~18 きよさと再臨


 二つの助言が必要だとパウロは考えました。
 第一に聖く生きること、第二に再臨の主に会う備えをすることです。


1、聖く生きる

前半の中心聖句は3節です。「神のみころは、あなたがたが聖くなることです。」

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。(3~7節)

 3節の「不品行」という言葉は品格のある訳語ですが、実感のない言葉です。原文のギリシア語ではポルネイア、ポルノの語源です。英語ならsexual immoralityとなります。
 聖く生きるとは心の問題だと思いがちです。でも、ここでは違います。からだの問題なのです。具体的な生活習慣のことなのです。それで、「自分のからだを、聖く、また尊く保ち」と命じたのです。

 テサロニケは繁栄した港町で、商業や政治の中心地でした。つまり、性道徳が乱れやすく、家庭にも性的罪の余波が襲っていたのです。
 性的な誘惑に負けない男性は、この世に一人もいません。カエサルがクレオパトラの誘惑に乗り、エジプトの王位継承問題に深入りしたことは有名です。男性は視覚から誘惑されます。誰も見ていないなら、後で問題にならないなら、お金で済むなら、一度限りなら、そういう場面で男性は性的な罪を犯します。

クリスチャンになっても、不倫を続ける、援助交際をする、不適切な場所に出入りするなら、それはパウロが6節で指摘するように、クリスチャンの友を踏みつけて裏切ることになります。性的な罪は自分ひとりの問題で済まずに、配偶者を苦しめ、家族を巻き込み、平穏な暮らしに嵐を招き入れてしまいます。

ところで、オランダはネーデルランド(低い土地)と呼ばれ、九州くらいの広さで、国土の4分の1が海面下にある国です。
1916年に大洪水に襲われ、第一次世界大戦時に食糧不足を経験したため、1927年から5年をかけて大掛かりな防波堤の建設を行い、かつての湾を淡水湖にし、埋立をして耕地を作りました。幅90m長さ32キロという世界最大の堤防が、国民に安定した生活をもたらしたのです。今も、海面が人々の目線よりもはるかに高い状態ですが、オランダ人はその地に住むという毅然とした決意を持って生きています。

強引な類比だと叱られるかもしれませんが、オランダの人々の生き方と、クリスチャンの生き方に、私はある種の共通点を感じるのです。
この世界には性的誘惑が満ちていて、放置すればその洪水に飲まれてしまいます。自分をきよく保つ方法は守りに徹することだと思うのです。パウロが、「避ける」、「保つ」「おぼれず」、「しない」、という言葉を使った理由が納得できます。ヨセフも主人の妻から誘惑を受けた時、ひたすら逃げました。(創世記39:18)
愛する妻や配偶者、家族や親友の顔を思い浮かべ、彼らを決して裏切るまいという態度も心の堤防になるでしょう。
強固な堤防を作りましょう。それが、あなたと、あなたの最愛の人たちを守る唯一の方法です。周囲の人々が何と言おうが、決然とした態度を取りましょう。もし罪を犯し浸水箇所ができたとしても、何度でも悔い改め、水をかき出し、修理しましょう。

毎日の生活で、体の聖さを保ちましょう。あなたにとっての堤防とは何ですか。何をすることですか。何をしないことですか。



2、再び来られる主イエス

13~18節は神学用語で「携挙」と呼ばれる内容です。その日が実際はどのようになるのか詳細は分かりませんが、主イエスは必ず来られます。

主イエスが再びこの世界に来られるという予告は、私たちが思う以上に聖書に多く書かれています。チャック・スウィンドルによると、主イエスが再び来られるという言及は新約聖書で300回箇所あり、30節に一度出てくる勘定だといいます。
パウロも、テサロニケの手紙で何度も触れています。
 「イエスが天から来られるのを待ち望む」(1:10)
 「主イエスが再び来られるとき」(2:19)
 「主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき」(3:13)
 「主イエス・キリストの来臨のとき」(5:23)

テサロニケのクリスチャンは迫害のゆえに辛い毎日を過ごしていました。迫害が原因で先に死んでいった仲間がいて、悲しみに沈んだ人もいたのでしょう。再び主が来られることを期待するあまり、生活に混乱がみられたのかもしれません。それで、「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」(11~12節)とも命じています。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(13~18節)

 「私たちの主のみことばのとおりに言いますが」(15節)とあるのは以下のマタイの箇所だと思われます。ヨハネの福音書でも主イエスは再び来ると約束しておられます。

そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:30~31)
 
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:2~3)

 この世界は不平等で、悪がはびこり、一部の者が弱者を抑圧し搾取しています。また、自分自身に目を向ければ、罪があり、自己中心で、誘惑に負けやすく、聖い生活に困難を感じます。
ですから、世界の問題も、私という問題も、どうしても最終解決が必要です。それが再臨の意義です。

希望ある未来が約束されています。主イエスが再び来るからです。
主イエスに出会う日から逆算するように今日を生きてみませんか。
主イエスに再会するのですから、今日、神の国の建設に携わりませんか。

→あなたの番です。
□性的誘惑に負けない堤防を作り、家族と自分を守ろう。
□再び来られる主イエスに会う備えをしよう。