創世記10~11章 バベルの塔


 主が、バベルでしたことを、誰が予想できたでしょう。

1、ノアの息子たちの子孫

これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。(創世記10:1)

 ノアの3人の子供から、世界の民族が生まれました。
 ヤペテの子孫は、海沿いの国つまり地中海、カスピ海、黒海沿いの民族となり、ヨーロッパに広がっていきました。(5節)マゴグ、マダイは黒海沿岸の東ヨーロッパの人々。アシュケナズはヨーロッパ人、タルシシシュはスペイン、ドダニムはギリシャの人。

 ハムの子孫は、クシュ(エチオピア)、ミツライム(エジプト)をはじめ、中近東、バビロンへと増え広がり(6節)、イスラエルと後に対立するカナン人もその流れの民族です。(15~18節)

 セムの子孫からは、ユダヤ人が生まれ出ます。(11:10~32)セムの子孫テラの息子であるアブラハムがユダヤ民族の父となります。創世記は、カメラをズームアップして多数の人々の様子からアブラハム一人に焦点を合わせることになります。


2、バベルの塔

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11:1~4)

ハムの子孫のニムロデは、地上で最初の権力者(10:8)となり、シヌアルの地でいくつかの町を建て、「バベル」(10:10)も作りました。「頂が天に届く塔」(4節)を建設するつもりでした。世界一番高い建物とは、その町や国の国力が世界一だと示す印です。

シヌアルの地とは、チグリス・ユーフラテス川流域の平野。この地域にはジッグラト(ziggurat)と呼ばれる遺跡が残っています。空から俯瞰すると四角形で、地上から見ると大きな台形を2層、3層に重ねた建造物です。この地では硬いレンガを作る技術が発展し、瀝青を防水材・結合材として使ったようです。瀝青は、石油を産出する地域で見つかる天然のアスファルトです。

そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。(11:5~8)

 この箇所には強烈な皮肉が込められています。バベルの人々は天にまで届く塔を作り、神のようになり、自分たちの名を広めようとしました。けれでも、神が「降りて」みないと様子が分からないほどの低い建物だったのです。神の領域に達したと豪語する人間の愚かさは、すべてこのようなものです。

 神は、人々の「ことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないように」されました。それにより、人々は世界に散って行ったのです。

 今日の箇所で大事な事はこれです。
 私たちが最も大切なものを見失う時、驚くようなショック療法を神は用いられる。

 言葉が通じなくなりました。相手の言ったことが分からない。自分の言おうとしたことが伝わらない。その結果、同じ目的で協力できない。人と人の間が断絶しました。
 もし、あなたが、身近な人との間で心が通じなくなったなら、あなたのバベルの塔を神が壊そうとしているのです。


3、ことばが通じる世界へ

 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(11:9)

混乱させるというヘブル語が「バーラル」です。バーラルしたので、その町がバベルと呼ばれたのは納得できる。つまりここは、語呂合わせによる説明です。

ヨハネの福音書の冒頭で主イエスが何と呼ばれていたかを思い出して下さい。
「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)
主イエスは、言葉として神と人を結ぶ方です。主イエスは、十字架の救いによって、人と人との心をつなぐ方です。だから主イエスを知った人は、人本来のコミュニケーションを取り戻せるのです。「ごめんなさい」を言えるし、「ゆるす」と言えるし、「愛している」と言えるし、「私もです」と共感する心も、主イエスのゆえに回復できるのです。
 ペンテコステに聖霊を受けた弟子たちが外国の言葉で福音を語りました。それはバベルの塔で分断された人々をつなぎ合わせる印となりました。

 あるアメリカ人男性は心に傷を負ってベトナム戦争から帰ってきました。彼は仕事に没頭して成功、やがて浮気をし、アルコール依存になりました。妻も夫もクリスチャンでした。そんな夫を赦せない妻は、夫を軽蔑しました。そんな時、結婚カウンセラーに話を聞いてもらい、聖書の言葉に従うチャレンジを受けました。「妻もまた自分の夫を敬いなさい」(エペソ5:33)を実行してみたらどうかと。神の言葉なので、結果は神が責任を持ってくれると教えられました。熟慮の上、今の夫の姿に左右されず、神の言葉に従ってみることにしました。夫が仕事をしてくれることを感謝し、尊敬している気持ちをきちんと伝えました。すると、夫の態度が変わり、結婚以来一度も妻の車を洗ってくれたことがないのに、急に洗ってくれました。皿を洗ってくれました。もらったボーナスから500ドルをお小遣いとしてくれました。断絶していたコミュニケーションが回復したのです。

現代は、神を無視し、人間がバベルの塔をあちこちに建てる時代です。そのような価値観から離れて、神と共に生き、神の栄光を求め、身近な人と心通じる生き方をしたいですね。

→あなたの番です
 □あなたがバベルの塔を作っていませんか
□あなたが修復したい人間関係は何ですか
 □主イエスは、愛のことばとして、私達の間にいてくださいます

創世記9:1~29 命と虹と上着


 さあ、新しい国を作ろう。ノアはきっとそう思ったことだろう。神の国建設が始まったのです。新しい国の憲法は何か、ビジョンは何か、規則は何か、何をするのか、決めなくてはいけない事がたくさんありました。

1、命の尊さ

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。(創世記9:1~4)

 大洪水が終わり、新しい出発に際し、主はノアと3人の息子たちを祝福されました。主は、創世記1:28でアダムに語られた言葉を繰り返し、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(1節)と命じました。主はノアたちに世界の適正な管理をゆだねました。(2節)

創世記1:29では人の食物は植物とされていましたが、ここで主は、動物も人の食料として許可されました。(3節)ただし、血は避けなければなりません。「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」とありますが、血とはいのちの象徴なのです。

福岡県の県立高校で命の大切さを十数年も教え続けている真鍋先生がおられます。生徒は、9月から鶏を卵から育て、名前を付けて大切に育て、12月には食肉として解体して食べるという授業です。生徒たちは泣きながらに鶏を押さえて命の最後を見届け、放血器にぶら下げられて血が流れる姿を見る事になります。その肉を料理して食べる時、「いただきます」という言葉の重みを知るのです。人間の私たちは、いのちを頂いて生きているのです。

動物の命を大切にできる人は、人間の命も大切にできます。神のかたちに造られた尊い命を奪ってはいけません。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、との命令に従って人類が増えるなら、嫌いな人も増えるでしょう。その時、互いの命を大切にせよという命令です。

人の血を流す者は、人によって、血を流される。
神は人を神のかたちにお造りになったから。(6節)

 私達人間は、植物と動物の命を「いただいて」生きる者です。生きとし生けるものを大切にしましょう。主に生かされている事を感謝しましょう。食前の感謝の祈りを心を込めてしましょう。



2、虹は契約のしるし

わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。(13~15節)

 虹は突然目の前に現れるもので、心が洗われる気がします。私が9年間住んでいたホノルルは虹の町と言われるように、たびたび虹が出ました。雨が小降りになり、雲の切れ間から太陽が顔を出すと、太陽の反対側にくっきりと虹が現れます。

 ノアの目の前にも虹が現れました。神は、その虹に意味を与えました。この虹は、神の「契約のしるし」(13節)だと言われました。「すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない」(15節)という約束でした。強い雨が降るたびに、ノアたちは洪水の再来かと不安になっていたことでしょう。ですから神の約束を聞いて虹を見たとき、ノアと息子たちはどんなに安堵したことでしょう。幸せという名のカーペットがあるなら、それをめくると神が約束された安全という名のフロアリングが必ず見つかるはずです。

 8節から17節に、「わたし」が7度、「契約」が7度使われています。契約という言葉は聖書ではとても重要な概念で、旧約聖書には280回も出てきます。聖書における契約は、神のほうが率先して、あるいは一方的に、約束をしている場合がほとんどです。たとえば、アブラハムへの祝福、神が共にいる約束、ダビデの王国の繁栄の約束するなど、人間にとってありがたい約束ばかりです。

主イエスは最後の晩餐の席で、新しい契約を結ばれました。これも、主イエスからの突然の、しかも一方的な申し出でした。主イエスの命と引き換えに罪をゆるすという約束でした。

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:20)

 これから、虹を見る機会があったら、ノアの気持ちになってみて下さい。決して世界的な大洪水は起きません。虹は、神の守りの印なのです。そして、神の愛の印です。神は、私たちの安全を気づかい、24時間守っていて下さいます。あなたも、守られています。



3、セム、ハム、ヤペテ

 正しい人、従順なノアも、失敗することもあります。ぶどうを育て、収穫した実でぶどう酒を作り、飲み過ぎて酩酊して裸になってしまいました。

さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。(20~23節)

父の様子を知らされた息子のセムとヤペテは注意深く後ろ向きに近寄って父に着物を着せました。父の醜態を最初に目撃し兄弟に知らせたハムの息子カナンは、のろいを受けてしまいました。

ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」(24~25節)

ハムの息子カナンがのろわれたのは唐突すぎて理解が追いつきません。ハムとその息子カナンが、泥酔していたノアに対して何かをした可能性があります。これは私の推測にすぎませんが、何が起きたのかを書くだけでノアを侮辱するよう内容だったのでしょう。

カイン―レメクの家系は神に反逆する都市と文化を造りました。今度は、ハム―カナンというマイナスの系譜ができてしまいました。人間の罪は深いです。

ある男子高校生が沖縄の教会を訪ね、牧師さんと話をしました。ラジオで聞いた讃美歌を歌いたいので教えてほしいという内容でしたが、やがて身の上話になり、最後には父や母や助産婦を殺したいという話になりました。父はアメリカ軍兵士、母は沖縄の女性、生まれてすぐ助産婦の医療ミスで少年は両目とも失明していました。まもなく、父はアメリカに戻り行方知れず、母は再婚し、祖母に預けられ、その祖母も彼の中学時代に亡くなり、天涯孤独になりました。
彼の生い立ちを聞いていた城間牧師は涙を止めることができませんでした。私の家に来て一緒に暮らそうと牧師は申し出てくれて、家族同様に愛され、彼は信仰を持ち、神学の勉強もして見違えるようになりました。歌が上手だったのでイタリヤ人の有名テナー歌手のオーディションを受けると、「君の声は日本人離れしたラテン系の明るい声だ」との賛辞を受け、メキシコ系アメリカ人だと話すと、「お父さんに感謝しなさい。神からのプレゼントだよ。多くの人を歌で励ましなさい」と言ってくれました。はじめて、父に対する感謝が生まれました。
その高校生が若き日の新垣勉さんです。テレビでも有名になったテノール歌手で、。彼の半生は中学の英語の教科書でも紹介されています。20年以上前に私が牧会していた教会に来て頂いて賛美してもらったこともあります。

あなたは、ハムやカナンのように父の心を苦しめていますか。主イエスに出会う前の新垣さんのように父親を軽蔑していますか。親や祖父への軽蔑心は、軽蔑している人自身を破壊します。悪い影響は子供にも受け継がれます。
両親、祖父母に対しての感謝の念を大切にしましょう。なぜなら、あなたの両親や祖父母は神が立てて下さった人だからです。きっと感謝できることがあるはずです。


 →あなたの番です
  □命を大切にし、生かされていることを感謝しましょう
  □虹は約束の印。神はあなたを守っておられます
  □軽蔑せず、両親や祖父母に感謝しましょう

 その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。(エゼキエル1:28)

創世記7~8章 大洪水と鳩



 大洪水を題材にした神話が、ギリシア、中近東、中国、エジプト、ポリネシア、南米、インド、アメリカ・インディアンなど、つまり世界中にあります。舟を作った、8人が助かった、山より高い大洪水だった、鳩が放たれた、という内容を含むものまであります。
 今日は、舟の中にいたノアたちの心に寄り添ってみましょう。

1、洪水の始り

 あと7日で洪水が来る、大雨は40日続く(4節)と主はノアに教えました。この情報はノアにとって大きな助けになりました。動物たちは、ノアが連れて来たというより、「はいって来た」(9節)という状態でした。準備が完了した7日後、「それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」(15節)箱舟のドアは神が閉められました。私たちの人生の扉を閉じるのも神がなさることです。

ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟にはいった。きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところにはいって来た。それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。(創世記7:5~12)

 ノアが600歳の時の第2の月17日(7:11)に洪水が始り、ノアが601歳の2月27日(8:14)に箱舟から出ました。つまり、ノアたちが舟の中にいたのは約1年ということになります。ただし、この日数は知らされていません。
 最初の40日と40夜は豪雨が続きました。太陽を見ることなく1ヶ月以上が過ぎたのです。薄暗い箱舟の中には、ノア夫妻と3人の息子夫婦がおり、たくさんの動物も息を潜めていたことでしょう。

 今、あなたも、先の見えない人生の豪雨に閉ざされていませんか。
 

2、希望のハト

 40日の豪雨が終わり、すべての生き物は死に絶えました。(21節)水は150日間増え続けました(24節)。豪雨だけでなく、「巨大な水の源」(11節)が張り裂けたことが原因で水が増え続けたのでしょう。
150日を区切りにして水は減り始めました。第7の月に舟はアララテ山にとどまり(8章4節)、第10の月には山の頂上が表れ、第11月にノアはカラスを放ちました。(7節)水は全面をおおっていたので、カラスは出たり、戻ったりしました。

それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。(10~13節)

 なぜ、オリーブの葉のことが書かれているのでしょう。みずみずしいオリーブの緑の葉が、ノアたちにとって希望の印になったのです。オリーブの種が芽を出したのかもしれない。生き残った大きなオリーブの木が、水面に顔を出したのかもしれない。それは、洪水後の新しい世界の希望の象徴となりました。
希望とは、暗闇に輝くかすかな光のことです。わずかな前兆でも、明日への励みとなります。あなたにとってのオリーブの若葉は何ですか。それが、あなたに希望を与えてくれます。

「The 33」という映画が2015年11月に公開されます。2010年8月、チリのサンホセ鉱山で落盤事故が起き、地下700メートル、温度35度、湿度90%の環境に33人が閉じ込められた実話をもとにしています。事故から17日後、直径8センチのドリルが地下の待避所まで届きました。我々33人は無事だという手紙その先端に付け、地上との連絡が始りました。生存者の多くはカトリックのクリスチャンで、69日後に救出されるまで祈りが大きな支えになったといいます。

33人の中の一人、ホセ・エンリケス(55歳)は福音派の牧師でした。地上と連絡が取れない最初の2週間の間、最も希望のない時に、みんなから祈ってほしいと頼まれたといいます。ホセはみんなに「牧師」と呼ばれるようになり、礼拝と祈りを導き、みんなを励ましました。
地上と地下を行き来して、食料や生活必需品を送り込むカプセルに、「ハト」という名前がつけられました。今日の箇所から考えると、とても意味深い命名ですね。
33人分の聖書も取り寄せられました。キャンパスクルセードは、33人にTシャツを送りました。彼らは地下でこのTシャツを着ました。前面にイエスさま感謝します、裏面に「地の深みは主の御手のうちにあり」(詩篇95:4)と書かれてありました。

ノアたちは不安な思いで箱舟の中にいたことでしょう。この生活はいつ終わるのか。世界はどうなっているのか。この後、生き延びられるのか。地下に閉じ込められた33人に近い心境だったかもしれません。でも、主はノアたちから目を離しませんでした。私たちに対しても主は心を留めておられます。

神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。(8:1)

地面が乾き切ると、主の命令に従い、ノアと動物たちは外に出ました。(8:16~18)ノアたちが最初にしたのは、主に感謝をささげることでした。大切に保護してきたきよい動物の中から、いけにえを主にささげました。(8:20)
主は、洪水により二度と地をおおうことはないと約束されました。(21~22節)

今日、心に刻みたい聖句は次の聖句です。「むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。」(8:11)
人生の豪雨や暗闇の時、あなたのオリーブの葉を見て、勇気をもらいましょう。

→あなたの番です
 □困難な時に、主は私たちを心に留めておられる
 □あなたにもオリーブの若葉がある。希望を持とう。


創世記6:1~22  ノアと箱舟


 ノアは、箱舟を作る時かなり苦労したと思います。変人扱いされたでしょう。でも聖書には、その辺のところは書いてありません。

1、神の悲しみ

さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。(創世記6:1~2)

「神の子」というのは天使のような存在ではなく、セツ、エノシュ、エノクと続いた信仰の家系を指す言葉だと思われます。一方、カイン、レメクの家系は、罪と不道徳と神への反逆を増幅させる文化を作り、女性たちは魅惑的な化粧やファッションを身に着けたのでしょう。信仰を大切にした家系の男たちでさえ、その魅力のとりこになり結婚し、レメクの文化の影響を受けてしまいました。こうして、堕落した文化への歯止めが効かなくなりました。

 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」(5~7節)

 悪が増大し、人々の考えることが悪に傾く時代になりました。神はそれを見て、深く悲しまれたのです。「主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(6節)というのは、神が間違えたという意味ではありません。神の悲しみが尋常ではなかったという意味です。断腸の思いで洪水を起こす事を決めました。まことの神は、冷酷な運命とは違います。最も愛の深い方の、最も深い悲しみを考えてください。神は、だれよりも悲しみの人です。もっとも、裏切られた方です。神の悲しみの涙が洪水となって地上に降り注いだように私には思えます。

 あなたに今日、心の悲しみがありますか。神は、その悲しみをすべて分かって下さいます。神にあなたの辛さを、そのまま伝えましょう。


2、正しい人、ノア

 セツ、エノシュ、エノクと続いた信仰の家系に、もう一人、ノアが加わりました。

しかし、ノアは、主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。(8~11節)

 ノアの特徴は5つあります。①主の心にかなう人(8節)、②正しい人(9節)、③全き人(9節)、④神と共に歩む人(9節)、⑤従順な人(22節)。
ノアについては、成功とかお金とか権力などは無縁でした。神との関係がどんな人だったのか、それが一番大事でした。

販売成績を優先するあまり、排気ガスの実数を隠すプログラムを組み込んだ自動車メーカーがありました。成功のためには、人の健康は二の次になります。
「その時代にあっても、全き人であった」とあります。悪に傾く人が多数派であった時、ノアはただ一人で神の前に正しく歩みました。本当の正しさは多数決では決まりません。少数であっても、一人であっても、主の心にかなう歩みをしませんか。


3、箱舟

 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。(14~19節)

 箱舟とは、長さ130m、幅22m、高さ13m、3階構造の箱でした。ノアと息子たちの仕事は、この大きな建造物を作ることと、人と動物の食料を確保すること(21節)でした。
 
 ノアは500歳の頃に、息子のセム、ハム、ヤペテが与えられまし。(5:32)洪水が起こるのは、ノアが600歳の時です。(7:11)神がノアに箱舟建設を命じたのは、その期間のどこかでした。箱舟建設にはかなりの日数がかかったことでしょう。
ノアの作業を見た多くの人はその理由を尋ねたでしょう。ノアは、誠実に理由を説明し、神の言葉を伝えました。(「義を宣べ伝えたノアたち」第2ペテロ2:5)けれでも、誰もその話をまともに受け止めません。それほどに人々は堕落し暴虐に満ち道を乱していたのです。

「わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは~箱舟にはいりなさい。」(18節)

 救いは神のイニシアチブで始まります。箱舟に入れば救われるという約束が、神から人に告げられました。大事なことは、箱舟に入ることです。また、妻や夫や子供や大切な人を一緒に連れて来て、箱舟に入れることです。
この箱舟は、主イエスの救いをあらかじめ示したものです。私達も、主イエスという箱舟に入るなら罪ゆるされ、救われるのです。

 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)


 →あなたの番です
  □神は悲しみを理解して下さる方
  □この時代に、正しく生きる
  □主イエスは、私の救いの箱舟

創世記5:1~32 神と共に歩む


 人生は旅客機のようです。一度離陸したら、必ず着陸しなければなりません。アダムの子孫の生き方を通して人生を考えましょう。

1、生きて、死んで

これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。(創世記5:1~6)

「アダムの歴史の記録」(1節)とあります。旧約聖書のギリシャ語訳聖書(LXX)ではこの部分がἡ ββλος γενσεωςと訳され、英語ではBook of Genesisとなります。

1~6節を読むと、アダムが神に似せて造られたこと、神に祝福されたこと、アダムーセツーエノシュと神から受けた祝福の流れが引き継がれたことが分かります。兄弟殺しのカインと神に反逆した権力者レメクの流れが語られた4章とはずいぶん違います。

 「~年生き」「こうして彼は死んだ」。これが、8回繰り返されます。彼らの寿命は、930、912、905、910、895、962、969、777歳です。大洪水で地球環境が激変する前のことなので、長寿が可能だったと考える人がいます。神に祝福されたことを表す象徴的な数字と考える人もいます。

 誰かのメモリアルサービスに出席すると、自分も写真の整理をしておこうと思うものです。葬儀で必要な写真は20枚で十分です。正面に飾る一番気に入った写真が一枚、子供時代や学生時代、働き盛りの様子、結婚式、子供や孫との写真などあれば事足ります。

 不思議なもので、誰かが死んでこの地上からいなくなっても、その人の生き方、その人が話した言葉、その人の笑顔、その人から受けた愛や親切は残ります。その人が生きた証しは、古い写真のように色あせるどころか、むしろ鮮やかに記憶に残るものです。

私が5年間礼拝に通ったハワイのマキキ教会にSさんという年配の女性がいました。細身で、控えめで、笑顔のきれいな方でした。バイブルスタディーが終わると、人がまだ部屋にいても照明のスイッチをすぐに切る方で、電気の節約が身に付いた方でした。身寄りのない方だったので、天に召された後はご自分の家を教会にささげる準備をしました。彼女が亡くなると、その家は売却され100万ドルが教会にささげられました。私にとっても、マキキ教会の人々にとっても、彼女は亡くなりましたが、その信仰と愛と献身は今も生きています。

「~年生き」「こうして彼は死んだ」。人は生まれ、人は死ぬものです。あなたの生きた証しを写真にではなく、日常生活に刻みましょう。



2、神とともに歩む人

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(5:21~24)

 エノクの地上生涯は365歳で、他と比べるとかなり短い人生でした。ところが他の人にない特徴があります。
「生きて」「死んだ」というフレーズは8回繰り返されましたが、エノクの場合だけ、「生きて」「いなくなった」となっています。新約聖書ヘブル人の手紙では、エノクが通常の形で死んだのではなく、神に<移された>のだと説明し、神から特別な祝福を受けたことが分かります。

「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)

 「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(24節)、とあります。死ぬことを喪失と考えるのでなく、別な観点からも考えられますね。神がエノクを必要とされたのでしょう。

「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。」(22節)
「エノクは神とともに歩んだ。」(24節)

エノクにとっては、息子メトシェラの誕生が、神と共に歩くきっかけになったようです。それ以上詳しい理由は分かりません。何事にもきっかけがあります。もっと、神と近く歩きたい。私たちも、そう決意する時があります。

私は15年くらい、毎晩、妻と手をつないで歩いています。結婚してから、その時までの18年間、そういう習慣はありませんでした。同じ家にいるから、一緒に歩いて来たと思っていましたが、実際はそうではなかったのです。心は離れていました。おもに私に問題がありました。私の心は、妻からも子供達からも離れ、一人でさ迷っていたのだと、後で気づきました。
 意識して、時間を共有しないと、共に歩くことはできないと分かったのです。それで、手をつないで今、歩いています。

 神と共に歩くとはどんなことでしょう。自分でよく考えて、神と共に歩くとはどんな事か、3つくらい考えてください。
 
 神と話す。神から聞く。神を意識する。神の喜びになることを探す。神を大切にする。神への約束を守る。神の嫌われることをしない。神を尊敬する。神を喜ぶ。神に感謝する。神の助けをもらう。神に見てもらう。神の導きに気づく。神を愛す。神の期待にこたえる。神を誇りとする。神に「ごめんない」と言う。人々に神のことを紹介する。日曜礼拝を最も大切にする。毎朝、聖書を読み祈る。

 よく考えてみると、神は私達のそばにおられ、絶えず見守ってくれています。私達が神と手をつなごうと思うことが大事なのです。
 「生きて」と「死んだ」の間が私たちの人生であり、私達のチョイスです。カインやレメクのように、いつも怒って、神に逆らい、自分の欲望追及する道も選べます。エノクのように、神と共に歩み、神に喜ばれる生き方も選べます。意識して、神と共に歩みませんか。
 
 →あなたの番です
  □生きて死んだ証しを残しましょう
  □今週、神と共に歩みましょう

創世記4:1~26  神なき文化


 あなたの若い頃の写真を誰かに見せて下さい。きっと笑われます。何が面白いのかというと、ファッションが古くて髪型が古いのです。最先端の流行であればあるほど、後で笑われます。私たちはいつの時代に生きていてもその時代の文化の影響から逃げられません。
 
 創世記4章には、人が増え、町ができ、文化が生まれた事が書かれています。ただし、その文化の背景に問題が潜んでいました。

1、怒り

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4:1~5)

 アダムとエバに二人の息子が与えられました。子供は作るものではなく、主によって与えられるものです。神との関係が切れ、夫と妻が仲たがいし、それを見て育った子供がひねくれて、最後には兄弟を殺すことになりました。負の連鎖が始まり、もう誰も止められません。

 弟アベルは、貴重な羊の初子の中から、それも最上のものを選んで神にささげました。アベルは神と共にいることを喜んでいたので、その心がささげ物に反映しました。一方カインのささげものについては同じような言及がないことから、おそらく形式的なささげものだったのでしょう。アベルのような心が欠如していました。
弟のささげものだけが神の目に留まったことでカインは怒りました。神はノット・フェアで、私が正しい。自分の怒りが正当で他者が悪いと決め付ける態度は、3章のアダムとエバそっくりです。自分の心を冷静にふり返れば、神に対する尊敬や感謝に欠けていたと気づくはずでした。
カインの様子を見て、「罪が戸口で待ち伏せ」(7節)ていると神はカインに警告しましたが、それを無視し、カインは弟アベルを野原に誘いこみ、計画的に殺しました。(8節)殺害後も、「私は、自分の弟の番人なのでしょうか」(9節)と反省を示しません。

あなたは、いつも怒っていませんか。それは正当な怒りですか。結局は、神を拒絶していませんか。心で、誰かを抹殺していませんか。低い心にさせてもらいましょう。


2、しるし

それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。(4:12~16)

アダムの罪のゆえに被造物はのろわれましたが(3:17)、今度は逆に、アベルの血を受けた地がカインをのろいます。(3:10~12)カインの労働や農作業は今まで以上に困難になり、アイデンティティーを失った「さすらい人」となり実家を離れました。

カインは自分の行く末を案じ、私は誰かに殺されると(13~14節)泣き言を言いました。神は、信じられないほどあわれみ深い方です。神を怒り、神に背を向け、警告を無視し、弟を殺し、悔い改めもなく、復讐を恐れて泣きつくカインでしたが、神は見捨てません。
神はカインに特別な印を付けて復讐から守られました。どんな印かは分かりませんが神のプロテクションが施されたのです。

私達もカインのように自分勝手で恩知らずです。でも、神の守りが今までも、これからもあります。私たちにの目には見えない愛の印が押されています。



3、レメクの歌

レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。(19~22節)

 カインは自分の町を建て始めました。(17節)さすらい人としての定めを無視して定住しました。これは神への反逆です。人を殺して反省しないカインの作った町です。カインの思想や態度は子供や孫に引き継がれ、増幅していきました。
 カインの子孫レメクは、カインの1000倍悪い人間になっていました。自分の力だけを頼り、神に逆らう人間の典型となりました。結婚は、一人の男と一人の女が一体となることですが(2:24)、レメクは神のルールにま正面から逆らい二人の妻を持ち(19節)、快楽を肯定しました。
 レメクの息子ヤバル(20節)は家畜を飼う者の先祖となるほど牧畜業に成功します。ここに人間の力だけを頼った富の蓄積が始ります。次の息子ユバル(21節)は音楽家になり、音楽の力を利用して神なしの文化を広めました。もう一人の息子トバル・カインは(22節)鍛冶屋となり当時の最新技術を駆使して農機具だけでなく武器を作成しました。

 レメクには現代文明のすべてがあります。神の否定、神の定めを無視、快楽と富の限りなき追及、自分だけの正義、武力による権力と収奪。23~24節は、長く歌い継がれた古い歌で、ささいな傷を付けられても殺害するレメクの残忍さが表れています。背信と快楽と富と暴力のテーマソングです。

さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(23~24節)

傲慢で殺伐としたレメクの歌と対照的なのが、アダムの息子セツの子エノシュの祈りです。エノシュは主の名によって祈りました。礼拝を始めたのです。
人間の力や欲望を誇る時代にあって、神を喜び、神に感謝し、神と共に生きる文化を作ったのです。

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。(26節)

 映画や書籍やテレビやインターネットに現代文明がにじみ出ています。神を礼拝するのは愚かな事で、人間の力だけを信頼し、男女の結婚は古くさい束縛で、富と快楽と権力こそ追及すべきものだと、現代文化は大音量のスピーカーで叫んでいます。

新しい文化を作りましょう。神をたたえ、神と共に生きる文化を創造しましょう。Sherwood Baptist Churchが作った劇場用映画の第一作、「フェイシング・ザ・ジャイアント」などはその一例でしょう。星野富弘さんの詩画や三浦綾子の小説も新しい文化の創造に当たります。

 人の悪口を言わないコメディアン。暴力やセックスを売り物にしない映画やゲーム。結婚まで純潔を守るデート。親と子供たちが手をつないで祈り合う家庭。抑圧と搾取と不平等のない経済。神をたたえる音楽や芸術。その他、あらゆる可能性があります。あなたも、神を信じて生きる文化を作りませんか。

 →あなたの番です
  □怒りを捨てる
  □神を否定し人間を誇る文化を見抜く
  □どこででも主を礼拝し、どんな事柄も祈る

創世記3:1~24 御顔を避けて



 なぜ私は嘘をつくのだろう。人を傷つけてしまうのだろう。私たちは皆ボタンを付け間違えたことに気づいています。どこでボタンを付け間違えたか創世記3章は教えてくれます。

1、善悪の知識の木

 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。(創世記2:9)
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(2:16~17)

 「ビーチフロントの豪華別荘を1ヶ月間無料で使っていいよ」と友人に言われたら、どうします。もちろん私は行きます。そして普段以上に大切に使います。
結婚の喜びや祝福を得るには、どうしたらいいですか。結婚式で愛を誓うだけでなく、生涯その約束を守ることです。約束を破ったら家庭は地獄になります。
与えられる特権や祝福が大きければ大きいほど、守るべきルールが自ずと発生します。善悪の知識の木は、それによく似たものです。

神は、人だけを神のかたちに創造し、最大限の自由意志を与え、豊かなエデンの園に置き、すべての被造物を守り導く権限をお与えになりました。人はきわめて大きな祝福を神から頂きました。ですから当然、守るべきルールが発生します。そのルールとは、神に感謝し、神に従い、神と共に歩むことです。命をもらい、食べ物をもらい、すばらしい特権をもらっているのですから、これを守らないなら恩知らずになります。「善悪の知識の木」を食べないということは、神からの祝福を守るためのルールの象徴なのです。

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(3:22~24)

3章全体から分かるように、人はルールを破りました。神は、その一日中アダムの謝罪を待たれたのでしょう。夕方、そよ風が吹く頃まで待たれました。足音など立てない方が、あえて人に気づかれるように存在を表しました。自分から謝るきっかけを作られたのでしょう。
でも、人は神に謝ることもせず、謙虚にもなりませんでした。それで、罪の報いとして、夫も妻もとても厳しい処罰(3:16~19)を受けました。妻の場合は、夫を恋い慕っても夫に支配される、いびつな夫婦関係が始り、出産の苦しみが増しました。夫は、苦しんで食を得なければならず、人間は永遠の命が奪われました。世界全体も、虚無に服しました。(ローマ8:20~21)

3:15には、救い主イエスがサタンに勝利することが予告されています。また、3:21では、神が裸の二人に衣を着せて下さいましたが、動物の命を犠牲にして人を覆われたので、主イエスの身代わりの十字架の予告となっています。

3:23~24によると、アダムとエバは「いのちの木」から隔離されて永遠の命を失い、エデンの園から追放されました。「エデン」は本来「喜び」を意味しました。
黙示録22:2では救いの完成の時が語られ、巨大な都、新しいエルサレムに「いのちの木」があることが分かります。永遠の命が再びもたらされる印です。



2、神のようになる

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:1~6)

 へびは、「どんな木からも」食べてはいけないのか、と神が意地悪という印象を作りました。「ほんとうに」と念を押して神を疑わせます。最後には、神の言葉を完全否定します。そして、「神のように」なれると強調しました。女は誘惑に負け木の実を食べ、夫にも食べさせました。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(8~12節)

本来、人間は絶対に神にはなれません。造り主と被造物とでは天地の違いがあります。では、<神のようになる>というのはどんな意味でしょう。最高権力者になったと錯覚すること、能力もないのに全能感だけ持つこと、決して自分は失敗を犯さないと思い込むこと、です。

ですから、神から「食べたのか」と問われても、アダムは「ごめんなさい」と言いませんでした。悪いのは妻だと責任転嫁しました。本気でそう思ったのです。
神が置かれた女が悪い、つまりは神が悪いと責めました。これが、神に背を向けた人間の行き着く姿です。神のようになっていたので、自分が悪いとは思わないのです。
かばってくれないアダムを見て妻は怒ったでしょう。妻も過ちを認めず、へびが惑わしたと述べて自分が犠牲者のように振る舞い、神の創造に落ち度があったと言っているのです。

まったく逆の場面も想定できました。アダムが、「私が食べました。ごめんなさい。妻は悪くありません。私が責任者ですので、私が処罰を受けます。」それを聞けば、エバはこう言うでしょう。「いいえ、私が悪いのです。最初に食べたのは私で、夫をそそのかしたのです。私だけを処罰して下さい。」「いや、僕だけが悪い。」「いいえ私です」こんな夫婦になりたいです。

あなたの番です。
あなたが、「神のよう」になっていませんか。家庭や職場や友人の中で、悪いのはいつも自分以外の誰かだと考えていませんか。自分ひとりで怒りまくっていませんか。絶対に正しいと言い張っていませんか。相手の言葉を冷静に聞けなくなっていませんか。夫婦のどちらかが、相手の怒りを恐れるあまり、自分の意見を押し殺していませんか。

私たちはみな不完全です。助け手がいないと一人では何もできないのです。その唯一の助け手を否定したり、無視したり、ひどい点数を付けるなら、神があなたのそばに置いた配偶者を拒絶することになります。神を非難したアダムと同じになっています。

「あなたは、どこにいるのか。」(9節)という神の言葉が聞こえたら、低い心になって神の前に出て、神にごめんなさいと言いましょう。そして、配偶者、あるいは身近な家族に「ごめんなさい」と言える人になりましょう。それが、私達の家庭をエデンの園をする合言葉になります。

末期がんで闘病中のある男性は、ある日、奥さんにこう言いました。「僕は、死んでも君と会いたい。天国で君に会いたい。だから、僕は主イエスを信じて洗礼を受ける」

 神の「御顔を避け」た(8節)二人でしたが、黙示録22:4では、栄光のエルサレムに住む人々は「神の御顔を仰ぎ見る。」と書かれています。

「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(第1コリント15:22)

→あなたの番です
 □「神のよう」にならない
 □「ごめんなさい」と妻や夫や子供に言う
 □救い主イエスに希望を置く