マタイ1:18~25 ヨセフの勇気

 ヨセフがいなければ、クリスマスは無かったかもしれません。


1、絶望

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。(マタイ1:18)

「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた」とあります。ヨセフとマリヤは、正式な婚約期間に入っていました。当時のユダヤの習慣では、婚約した男女はすでに夫婦とみなされました。マリヤは、天使ガブリエルの言葉を聞き、聖霊によって身ごもったことを知り(ルカ1:26~36)、妊娠の事実を婚約者のヨセフに告げたのでしょう。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。(マタイ1:19)

ヨセフは「正しい人」だったので、激しく悩み、混乱し、絶望しました。ヨセフには二つのチョイスがあったのです。
一つは、マリヤをふしだらな女性として公に訴えることです。そうすれば、マリヤは死刑です。もう一つは、内密に婚約破棄することです。マリヤは生きて行けます。でも、ヨセフは何も説明できません。すべてを胸の内にしまうことになります。

ヨセフはマリヤを信頼していたし、愛していたのでしょう。でも、マリヤの口から聞いた説明は信じられません。若いヨセフが悩んだ末に出した結論は、マリヤを内密に去らせることでした。ヨセフの心は定まり、今後の方針を「決めた」のです。ヨセフは勇気ある決断をしました。男です。

物事には、あれか、これかの二つではなく、人間が及びもつかない第三の道があります。ヨセフはこの時、第三の道、神の道があることを知りませんでした


2、恐れ

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。(マタイ1:20)

内密にマリヤを去らせると決めても、まだヨセフは思い巡らしていました。つまり、決断がぐらついていたのです。納得できなかったのです。

聖霊による妊娠というマリヤの言葉を信じたいのですが、恐れがあって前に進めません。そんな事は聞いたことがない。ありえない。世間の人は何と言うだろう。ヨセフは騙された、まぬけな亭主だと噂するかもしれない。

そんな時に、天使が夢に現れました。第三の道を伝えに来たのです。

「ダビデの子」と天使が呼びかけ背後に深い意味がありました。ヨセフ、あなたは自分がダビデの子孫だという自覚を忘れたのか。まことの救い主は、ダビデの家系からしか生まれない。ヨセフ、あなたはダビデの子孫、ダビデの子だ。

「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と天使は言いました。
ヨセフ、あなたは何を恐れている。人の目、社会の批判を恐れているが、恐れよ止めよ。神が全責任を取るという時に、神は「恐れるな」と言われます。

本当にマリヤを愛しているなら、彼女の言葉を信頼しなさい。あなたが信じないで、誰が信じるか。マリヤが誠実で、嘘のない人だとあなたは知っているはずだ。今こそ、マリヤを迎えなさい。恐れるべき方を恐れなさい。神に不可能はない。マリヤの胎に宿っているのは、聖霊による。あなたは、神に選ばれた。神の信頼に応えなさい。恐れを捨てなさい。神は、将来にわたってずっと、あなたと共におられる。


3、救い主

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)

生まれる子供が男の子であると天使は明言した。名前は、「イエス」という名にするよう天使は命じました。その名の意味は、当時誰でも知っていました。「イエス」は、「主は救い」を意味しました。

主イエスは、ご自分の民をその罪から救うために生まれる方です。

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:21~23)

この福音書を書いたマタイは、マリヤの妊娠について旧約聖書的な解説を挿入しています。ヨセフよりも700年前に活躍した預言者イザヤが、処女から生まれる救い主を予告していました。イエスというお方は、わたしたちと共におられる方です。

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。(マタイ1:24~25)

ヨセフは、主の使いの言葉をそのまま受け止め、妻を迎え入れ、御使いの言った通りに、子供が生まれるとイエスとなづけたました。

聖霊による妊娠は、アクシデントや偶然ではなく、神の必然、神の予定だったのです。マリヤを訴えるという道ではなく、また、内密に婚約破棄にするのでもない、マリヤを正式な妻として迎え結婚する道があったのです。これが、第三の道、神の計画なのです。神の計画を歩むこと、それこそが、神の栄光を表す人生です。

2003年10月31日の朝、13歳のベサニー・ハミルトンはハワイ州カウアイ島のハエナビーチにいました。
クリスチャンの両親に育てられ主イエスを救い主として信じていた彼女は、本格的にサーフィンのトレーニングを受けていました。その日も、サーフボードに横たわり左手だけを海の中に入れて良い波が来るのを待っていました。突然全身に電気が流れたようなショックを受け、辺り一面は血の海になりました。巨大なサメがベサニーの左腕をボードと一緒に食いちぎったのです。神さま、岸まで帰れるように助けて下さいと祈りながら右手でパドリングをして岸を目指し、救助され、緊急手術を受けて命を取りとめました。
クリスチャンの友人はベサニーにエレミヤ29:11の聖書の言葉を届けました。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
ベサニーは、サメに襲された事故を神の計画と受け止め直しました。翌11月、事件から1か月後の感謝祭の前日、ベサニーは再び海に立ち、サーフィンを再開しました。二年後、ベサニーは全米大会で優勝、4年後にサーフィンのプロになり、6年後世界ジュニア大会で準優勝し、現在は結婚して子供もいます。
彼女は言います、私のことを見て勇気を感じてくれる人がいたら、左腕を失ったことは無意味ではなく、神のご計画があったと分かると。

ヨセフは、第三の道に目覚めました。事故や災難に思えた出来事が、神の計画だと分かったとたん、神の計画の中を歩む幸いに気づき、勇気が与えられました。救い主イエスの誕生は、絶望と恐れを乗り越えたヨセフによってもたらされたのです。

船は港にいれば安全だ。けれども、船はそのために作られたのではない。

あなたの番です。あなたは、今日、絶望していますか。恐れを持っていますか。人生には、人間が考える範囲内のあれかこれかの二者択一ではなく、神の切り拓かれる第三の道があります。神の計画として引き受けて下さい。主に信頼して、あなたという船を大海原に出航させて下さい。イエス・キリストは、どんな時もあなたと共におられるインマヌエル、救い主です。

「神は私たちとともにおられる」(23節)

→あなたの番です
 □絶望と恐れにつぶされない
 □絶望と恐れを突き破る神の計画を信じましょう



ヨハネの手紙第一、第二、第三、ユダの手紙


 物事をはっきりと言える人は、本質を理解している人です。十二弟子のひとり、ヨハネは短いセンテンスではっきり言い切る人でした。
 ヨハネは手紙の中で、神がどんな方かを教え、主イエスを信じたものが何を持っているかを説明し、主イエスを信じた者がどう生きたらよいかを示しました。まるで、神を網羅的に説明したリスト、クリスチャンの生き方を示したマニュアルのようです。

1、教会を守るヨハネ

 ヨハネの手紙第一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙第三、ユダの手紙、この4つの手紙には、教会を守るという共通テーマがあります。
 間違った教えに傾くな、邪悪なリーダーシップを排除せよと教えています。

迫害は、教会の外から攻撃して教会を潰そうとします。一方、間違った教えや邪悪なリーダーシップは教会内に巧妙に入り込むので注意が必要です。牧師だけでなく、信徒も教会を守るように招かれています。

というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。(ユダの手紙 4節)

私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。(ヨハネの手紙第三 9節)

なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。(ヨハネの手紙第二 7節)

教会が間違った教えを信じるようになれば異端になります。牧師や教会役員が独裁者のように振舞えば宗教カルトになり、教会員が被害者になります。

 純粋な信仰を守るため、聖書をまんべんなんく読み続けましょう。邪悪なリーダーシップにノーと言える健全さを持ちましょう。



2、主イエスを紹介するヨハネ

 この頃、ヨハネは80歳くらいになっていたかもしれません。ヨハネの手紙第一の内容は、だいたい3節ごとに区切ることができます。老聖徒ヨハネは、心に浮かんだ事柄を短く言い、違うテーマに移り、また同じ内容に戻る形で話を進めました。

 「神はどんな方ですか」と質問されたら、ヨハネはこう答えるでしょう。神は、いのち、真理、愛。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(ヨハネの手紙第一 1:1~4)

上記のみことばを読むと、神はいのちであり、イエス・キリストの本質もいのちだと分かります。いのちとは何でしょう。いのちとは、つながっていること、流れていること、止まっていないこと、交流があることです。

ヨハネは、信仰を<私―キリスト>という点と線として理解していません。むしろ、三位一体の神の輪の中に、ヨハネが加わり、その輪の中に私達を入れようとしています。主イエスを信じることによる、私たちは神とのつながりに入り、神のいのちをもらえるようになります。人は、神とつながることによって、本来のいのちを回復します。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1:5~7)

 ヨハネは、神は光です。暴力団が明るい陽射しの中でピクニックするのは似合いません。悪事は暗いところでします。神は光で、嘘がなく、罪がなく、きよさがあります。主イエスを信じた者も、罪が赦され、神の光の中を歩むようになるので、正義を選び(3:7)、キリストに似た者に(3:2)されていきます。

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(4:7~11)

上記のみことばを読むと、神の本質が愛だと分かります。愛のない者には、神は分かりません、神は愛だからです。神は、無条件であなたを愛しています。あなたが気づかなくても愛しています。その証拠は、十字架を見れば分かります。

神はいのちです。光です。愛です。だから、主イエスを信じた私たちも、神との交流でいのちをもらい、光の中を歩み、互いに愛し合うことができます。


→あなたの番です
 □守るべきものを守ろう
 □神はいのち、光、愛です。 □いのちを喜び、光に歩み、愛し合って生きていきましょう。

ペテロの手紙 第一、第二


 新約聖書の人物で誰に会いたいかと聞かれたら、私はペテロと答えます。
ペテロは漁師だったので日焼けした顔で、深く刻まれたしわがあったかもしれません。素朴な語り口、穏やかなまなざし、迫害で受けた傷跡、自分の失敗を語る率直さ、が想像できます。

文は人なりと言いますが、60年代に書かれたペテロの手紙には、ペテロの人柄がそのまま表れています。パウロのような論理的アウトラインはありません。トルコ半島に住むクリスチャン(第一ペテロ1:2)を心に思い描き、祈りつつ、迫害に苦しむクリスチャンを励まそうとして書いた手紙です。手紙のあちこちに、主イエスと過ごした思い出話が出てきます。(第一ペテロ1:7、2:4~8、2:21~15、4:12~14、5:1~2、第二ペテロ1:16~18)

ペテロの手紙のキーワードを3つチョイスするとしたら、①選び、②救い、③神の似姿を挙げることができます。


1、選ばれている
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(第一ペテロ1:2)

 神が私たちを選んだことを心に留めよ。ペテロはそう言いたいのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(2:9)

 主イエスがペテロを十二弟子に選んだのはなぜでしょう。それは、主イエスが昇天された後、主イエスの働きを継承するためでした。私もあなたも、「選ばれた種族」です。主イエスがして下さった素晴らしいみわざを周囲の人に述べ伝えるために選ばれました。福音を「いつでも弁明できる用意」(3:15)をしておきましょう。
 私たちも選ばれています。何のために選ばれたのか、よく考えて行動しましょう。

2、救われている

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(1:8~9)

 主イエスに会ったことのない人々が主イエスを愛していることを、ペテロは素朴に驚きました。主イエスを直接見ていないのに主イエスを信じている人々をペテロは心から喜びました。彼らの姿に、ペテロは救いの印を見ました。
 主イエスを信じたゆえの地上における救いだけでなく、天にたくわえられている救い(これから体験する素晴らしい恵み、受け継ぐ資産)があるとペテロは言いました。

 私は、ジグソーパズルが好きです。1000ピースのパズルを妻と一緒に楽しく作っています。カチッと入ったときは楽しいです。なんといっても、ジグソーパズルは完成すれば必ず美しい写真なり絵が現れるので安心して取り組めます。
 救われた人には、最後には救いの完成が約束されています。永遠の命が与えられ、朽ちない霊的資産がもらえるのです。

 救いがあると分かった人は、この世の小さなことに一喜一憂しなくなります。自分の終わりが分かっているので、じたばたする必要がありません。それで、損しても正しいことをしたり、苦労して人を助けたり、愛したりできます。また、上に立つ権威を尊敬して生活できます。(2:13)信仰ゆえの不当な苦しみを負う時も耐えることができます。(2:21~24)

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(2:21)

「道路に落としたゴミが多すぎて女子校生が拾い集めきれない、助けてあげてほしい」という電話を受けた日本の警察官が現場に着きました。夕方、日の落ちた県道で作業をしていた女子校生に尋ねると、誰かが落としたごみが散乱していたので拾い始め、自転車カゴには入りきれなかったので、コンビニでごみ袋を買って来て入れていたというのです。彼女は、当たり前と思ってゴミを拾った、と答えました。

当たり前、無意識、醸し出す雰囲気。そこに価値があります。主イエスに救われた人の心に主イエスが住んで下さるので、ごく当たり前に愛や正義や謙虚さがにじみ出てきます。それが付け焼刃でない本物です。
今週、救われているゆえの、当たり前の行動をしたいですね。

手紙を書いた頃のペテロには、信仰者としての年輪、主イエスを愛しているゆえの輝き、御霊による聖めの香りなどがにじみ出ていたことでしょう。

3、神の性質にあずかる者
 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1:4)

 ここに、私たちが「神のご性質にあずかる者」になれるという約束が書かれてあります。

 この約束があるので、聖さを求める生き方が空しくなりません。(1:15~16、第二ペテロ3:14)夫や妻は互いに尊敬し、愛し合うことができます。(第一ペテロ3:1~7)兄弟愛を働かせ、謙虚に生きることも可能です。(3:8)主から頂いた賜物を用いて、奉仕し互いに仕えます。(4:8~11)

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。(1:15)

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(4:2)

今から40年以上も前のことですが、ウイリアム・ニガンダというアフリカで有名な伝道者がいたそうです。アフリカでミニストリーをしていましたジム・ホワイトは、ウイリアム先生の噂を聞いていました。伝道集会などでウイリアム先生が講壇に立つと多くを語らないうちに心を刺され悔い改める人が出る人で、「神の人」という評判の高い人でした。
ナイロビで車を運転していたジム夫妻はウイリアム先生を見かけ、車に招き入れてしばらく話す機会がありました。ウイリアム先生は、後部座席にいた5歳の女の子に、「お嬢ちゃんのお名前は?」と尋ねました。「バレリー」と答えると、「バレリーは、イエスさまを愛しているかい」と聞きました。「うん、まあね」と答えました。しばらくして先生と分かれたジムの家族は5分間、誰も口をきけませんでした。ウイリアム先生との会話で受けた温かい感動が圧倒していたのです。その後、やんちゃ盛りのバレリーはお母さんにこう言いました。「私も大人になったら、神の人になりたい」


 主に選ばれ、主によって救われ、神のご性質にあずかる者と約束された私たちは、普通の人とは違う「当たり前の生き方」が始まりました。
 身近な人を愛す。仕事で正義を選ぶ。汚れを離れ聖さを求める。困難の中でも、忍耐し、信じ、仕え合う。それがごく自然にできるようになりたいです。


 →あなたの番です
  □選ばれ、救われ、神に似るようにされたことを感謝する □人生のどんな時も、愛と聖さを実行し、福音を伝えていこう

ヤコブの手紙

 「行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)
 このことばのように、ヤコブの手紙は厳しいという印象があります。ヤコブの手紙を読み解く鍵は、手紙をもらった人々の状況、そして、主イエスが語られた山上の垂訓にあります。


1、主イエスのように考える
 主イエスの弟であるヤコブは(マタイ13:55)、主イエスの復活後主イエスを信じ(使徒1:14)、エルサレム教会の中心人物(使徒15:13、ガラテヤ1:19)になりました。新約聖書の中で最も古い手紙の一つがこのヤコブの手紙です。迫害のためにエルサレムから各地に散らされたユダヤ人クリスチャンを励ますために書かれました。(ヤコブ1:1)

先週学んだ「ヘブル人への手紙」も、迫害の中にいたユダヤ人クリスチャンに書かれたものでした。苦しい中で信仰を守り通すために、主イエスがまことの救い主だと確認し、主イエスから目を離さないようにと語っていました。
「ヤコブの手紙」も同じような読者を想定していますが、その内容を簡潔に言うならば、主イエスのように考え、主イエスのように行動せよとなります。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
(ヤコブの手紙1:2)

 試練は嫌なものです。誰も試練は喜べません。けれどもヤコブは、喜べと言いました。主イエスの山上の説教を彷彿させます。主イエスは、そういう人には天の報いが大きいと教えました。ヤコブは、試練で忍耐が育ち、成熟すると述べました。試練を表面的に見ず、大きな視点で見ることが大事です。

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。(マタイ5:11~12)

迫害や苦しみの中にいる人にとって、物事の洞察力はとても大切です。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

知恵というのは、迫害や試練の真相を見極める洞察力だと思います。今起きている事柄の本質を見抜くのが、主イエスのものの見方であり、本当の「知恵」です。主はあなたのみ知恵を必ず与えてくれます。

迫害を受けている人は、生活の困難を覚え、多くの場合は貧困に苦しみます。ヤコブは、貧しさは高い身分だと説明します。

貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。(ヤコブ1:9)

迫害でひどい仕打ちを受けた人は常に怒りモードに入っています。けれどもヤコブは、怒るなと言いました。

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブの手紙1:19~20)

主イエスも山上の垂訓で、人を「さばいてはいけません。」(マタイ7:1)と言われました。怒った状態で誰かに「ばか者」、「能無し」と言うのは殺人と等しいと語りました。(マタイ5:22)

試練の時、貧しい時、怒りたい時、ひどい仕打ちを受けたとき、主イエスのものの見方をしてみましょう。



2、主イエスのように行動する


 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)
 
 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)
 
 迫害、試練、経済的困難など生活上の悩みを抱えたときの処方箋は、「行動」です。小さなことでもいいのです。体を動かしましょう。誰かの役にたちましょう。

ヤコブは手紙の中で様々なアクションを勧めています。えこひいきしないで人と接する(2:1~4)、生活に困った人を具体的に助ける(2:15~16)、良い言葉を語る(3:2~12)、平和をつくる(3:13~18)、争わない(4:1~4)、罪を悔い改める(4:8~10)、謙虚に仕事をする(4:13~15)、互いのために祈り合う(5:14~16)。

 心が弱っている人、ダメージを受けている人にとっては、ヤコブの手紙の言葉は厳しいメッセージに聞こえるかもしれません。でも、迫害で苦しむ人へのアドバイスが「行い」であることに注意して下さい。弱っている人、ダメージを受けている人が、誰かのために自発的な行動をすること、それ自体に価値があり、逆に助けになるのです。

生きた信仰は行動します。行動すると、成功もあります、失敗もします。それでよいのです。生きた信仰者は、失敗を重ねながら愛を学び、忍耐を学び、主の力と恵みを発見します。あなたは、今週、何をしますか。アクションしましょう。

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。(ヤコブ5:13)

 →あなたの番です
  □主イエスのように考えてみよう
  □主イエスのように行動してみよう

ヘブル人への手紙


 信仰者が苦難に遭遇したら、どうしたらよいのでしょう。「ヘブル人への手紙」は教えてくれます、主イエスに目を留めよ、と。

1、主イエスこそ救い主

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:3)

 ユダヤ人がクリスチャンになる。それは、昔も今も容易なことではありません。初代教会の時代、ユダヤ人がクリスチャンになると会堂から追放され、ユダヤ人コミュニティーで厳しい迫害を受けました。クリスチャンになったユダヤ人は、暴力、罵倒、捕縛、経済的損出を経験しました。(ヘブル10:32~34)

 ユダヤ人クリスチャンは、「押し流され」(21)、「不信仰の心」(3:12)になり、「確信を投げ捨て」(6:11、10:35)、「動揺」(10:23)し、「いっしょに集まることをやめ」(10:25)、「神の恵みから落ち」(12:15)そうになりました。そして、ユダヤ教の律法やいけにえに心が惹かれました。

 「ヘブル人への手紙」を書いた人物(著者不明)は、そうしたヘブル人に対して、主イエスに目を留めるように勧めました。主イエスは、旧約聖書が預言した救い主であり、「神の栄光の輝き」「神の本質の完全な現れ」(1:3)であり、「万物の存在の目的」(2:10)です。主イエスは、天使にまさり(1~2章)、モーセにまさり(3章)、ヨシュアにまさる(4章)のです。

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(9:12)

大祭司のいけにえは不完全であるがゆえ毎年繰り返されました。主イエスの十字架はたった一度で私たちの罪を完全にあがない、罪の赦しを与えてくれました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(4:15)

へブル人への手紙においては、主イエスが完全な救い主であることを教えるだけでなく、主イエスが苦しまれたということに注目しています。主イエスは、「多くの苦しみを通して」(2:10)、「苦しまれたので」(2:18)「私たちと同じように、試みに会われ」(4:15)、「お受けになった多くの苦しみ」(5:8)とあるように、主イエスは誰よりも苦しを経験されました。その苦しむ主イエスの姿が、私たちを勇気づけてくれるのです。

1967年7月、17歳のジョニー・エレクソンは岸から遠く離れた海に浮かぶ浮台に立ち上がり、海に飛び込みました。ガツンという感じで何かに当たり電気ショックのような痛みを感じ、力なく浮いていました。幸い一命を取りとめましたが、首の骨を折り、首から下は全く動かなくなりました。病室で痛みと闘っていたとき、見舞いに来た友達が言いました。あなたは、十字架で釘づけられたイエスさまと同じだね。そう言われて、ジョニーははっとしました。主イエスは、私と同じ痛みを知っておられる。主イエスも自分で手合いを動かせなかった。それが彼女の慰めになり、やがて絵筆を口にくわえて絵を描いたり、歌ったりするようになり、クリスチャンとして多くの人を励ますようになりました。ジョニーは、苦しむイエスに慰められたのです。

苦しんでいるなら、主イエスに目を向けましょう。


2、忍耐

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(10:35~39)

 迫害を受けて苦しむヘブル人に、「へブル人への手紙」は忍耐を勧めます。人生には忍耐の時期があるのです。忍耐には価値があり、忍耐は報われます。主イエスも苦しまれ、忍耐されたのです。
 「約束された方は真実な方ですから」(10:23)、「約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」(10:36)だから、旧約聖書の信仰者たちは困難な中で忍耐し「信仰によって」(11:8)歩んだのだから、「主はその愛する者を懲らしめ」(12:6)るのだから、やがて「ご自分の聖さにあずからせ」(12:10)て下さるのだから、忍耐を持って信仰の道を進みましょう。

 あなたも、今が忍耐のしどころです。忍耐は永遠には続きません。


3、主イエスから目を離さない

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(12:1~3)

 あなたが疲れ倒れたときは、人を見ず、自分も見ず、ただイエスさまを見上げましょう。苦難の十字架の道を選ばれた主イエスに目を向けましょう。あなたが元気を失い、疲れ果て、自分を支えるものが何もないと感じた時でも最後に残る確実なものがたった一つあります。主イエスが、あなたのために死なれたという事実です。十字架です。主イエスの苦しみ、痛み、流された血、受けた恥は、すべてあなたのためです。

 キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(7:25)
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(13:5)
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(13:8)

 →あなたの番です
  □主イエスは、まことの救い主
  □人生には忍耐の時がある
  □主イエスから目を離さない

テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙


 テモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙は、各教会に宛てたパウロの手紙と性格が異なります。先輩牧師であるパウロが、若い牧師を励ますために書いたもので、教会運営上の具体的アドバイスが多く含まれています。

 これら3つの手紙のエッセンスを生かせば、子育て、職場での後輩指導、信仰上の弟子訓練に応用できます。


1、主のあわれみを受け取る

信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。(第一テモテ1:2)

 パウロは、手紙の最初にいつも「恵みと平安」を祈りました。テモテに宛てた手紙だけに「あわれみ」を加えて「恵みとあわれみと平安」があるようにと祈りました。
 主イエスからあわれみを受けることなしに、牧師は続けられない。パウロは、まず自分の過去に触れて、どんなに大きな主のあわれみを受けたかを語りました。

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(第一テモテ1:13~16)

先輩、親、上司、という立場の人は、立派な今の姿だけを見せるのではなく、失敗と未熟さがあった若き日を後輩に語ることが大切です。主からあわれみを受けたという経験談が若い人達に大きな励ましになります。
かくいう私も、神学校の1年生の時、寮を逃げ出したことがありました。自分の能力の限界と信仰の未熟さに失望して、いわば自主退校をしました。バック一つ持って部屋を出て、アルバイトニュースを買い求めました。大学の聖書研究会の部屋に泊まりましたが、その深夜に主のあわれみに気づき翌日学校に戻りました。私は、主のあわれみを受けて30年以上牧師として歩むことができましたが、あの日のことは忘れません。

私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(第二テモテ1:4~7)

テモテへの手紙第二にも、あわれみが書かれています。テモテよ、私はあの時のあなたの涙を覚えているよ。弱い時もある、臆病になる時もあるけれど、主のあわれみは注がれている、主から受けたものを思い出せ、必ず立ち上がれるよ、とパウロはテモテを励ましました。

 人を育てる者は、主からのあわれみを体験していることが必須です。


2、信頼できる人に任せる

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(第一テモテ3:2~7)

テモテへの手紙第一の時点では、テモテはエペソで牧師をしていました。また、テトスが手紙を受け取った時、テトスは地中海のクレテ島で牧師をしていました。二人とも若い牧師ですが、パウロに代わって各地を巡回していました。パウロは二人に対して、町ごとに教会の牧師を任命するようにと指示しました。上記の聖書箇所は、牧師の資質リストです。テトス1:5~9のリストも基本的には同じものです。牧師の資質を簡単に言うと、信頼できる人で、教える能力のある人です。

 パウロが第二の手紙でテモテを鼓舞している以下の部分でも、同じ事を言っています。他の人に教えることのできる人で忠実な人に弟子訓練をゆだねるように勧めています。

そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(第二テモテ2:1~2)

 主イエスは十二弟子を①選び、②育て、③任せました。パウロも、教会のリーダーたちに対して、常に次世代のリーダーを選び、任せるよう命じました。

 あなたの周囲に、クリスチャンとして信頼できる人がいますか。その人は教える力を持ていますか。その人を選び、育て、任せましょう。

 弟子作りの原則は、子育てにも、後輩育成にも応用できます。


3、自分自身も向上に努める

 パウロはテモテ第二の手紙を書く時点で、死期の近いことを悟っていました。(第二テモテ4:6~8)事実、この手紙はパウロの絶筆となりました。
 テモテよ、若くても軽くみられるな、信徒の模範となれ、教える事と自分の生き方を分離するな、一貫性のある信仰生活を送れとパウロはいつも語っていました。弟子を育てるあなた自身が、主の弟子であり続けなさいと教えました。

「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」(第二テモテ2:3)
 「熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(2:15)
「若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2:22)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(4:2)

あなたも、クリスチャンとして一貫性を持ちましょう。教会でも、家庭でも、職場でも、嘘がなく、誠実で、親切で、主イエスを愛す人として生きましょう。周囲の人に信頼される人になりましょう。神の栄光をあらわし、主イエスの福音を生涯語り続けましょう。
 人間ですから、罪を犯したり、失敗することもあります。大事なことは、悔い改め、主のあわれみを受けて立ち上がり、クリスチャンとしての一貫性を再構築することです。
 そのためにも、毎朝祈りましょう、毎朝聖書を読む人になりましょう。ありがとう、ごめんなさい、愛してます、私がします、と言える人になりましょう。


 →あなたの番です
  □主のあわれみを受け取りましょう
  □弟子を育てる弟子になりましょう
  □クリスチャンとしての一貫性を保ちましょう


ピリピ人への手紙、テサロニケ人への手紙

 今日は、喜びと感謝について考えましょう。

1、ピリピ人への手紙

 パウロはローマで上訴審開催を待っており、拘留状態にありました。そこに、エパフロデトがピリピ教会から献金を持って来て、生活の足しにして下さいとパウロに渡してくれました。(ピリピ4:18)パウロはそれをものすごく喜んで、感謝の手紙を書きました。それがピリピ人への手紙を書いた直接の理由です。

それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:20~21)

生きていても喜び。死んでも喜び。自分を通してキリストが明らかにされるなら、どちらでも構わないとパウロは考えたのです。日常生活に左右されない別次元の喜びをパウロは持っていました。
主イエスに愛されていること、主イエスの十字架で罪が赦されたこと、天国にいけること、罪深い私と共に主イエスがいてくださること、欠けの多い私を通してキリストがあがめられること、使命が与えられたこと、それらが喜びの源泉でした。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:4~7)

主にあって喜びなさいとパウロは何度も言いました。喜ぶか喜ばないかは、あなた次第です。主にあって喜ぶとは、生き方の選択です。あなたの心のカーナビを、喜びという方向にプリセットするのです。
多くの人は、不幸の原因を他人や環境のせいにしています。そういう人は一生不幸です。

教会に通う前の私は、毎朝不機嫌でした。前夜は運動部の疲れで夕食後はうたた寝して、夜中に置き出して夜更かしし、朝方自分の目覚まし時計では起きられず母に起こしてもらっても起きず、寝坊すると母親のせいにして「遅刻する!」と怒鳴りながらドアを思いっきり閉めて駆け出した高校生でした。私は他人のせいで不幸だと思い込んでいましたが、それは間違いでした。

出かける前に鏡の前で見だしだみを整えるように、一日を始める前に自分の心を整えることが、主にあって喜ぶことです。

 物事に左右されない喜びを身に着けるために、祈りが必要です。思い煩わずにまず祈ることです。他人の物まねのような笑顔を作るのではなく、自分らしい、心の穏やかさを持った、人生を肯定的にとらえる姿勢を整えるのです。それが、主にある喜びです。

 ヘドロの沼になってメタンガスを出すか、鮎が泳ぐ清流になるかは、それはあなたの心がけ次第です。さあ、周囲に影響されない自分、不幸を他人のせいにしない自分を作りましょう。主にあって、喜んでみましょう。



2、テサロニケ人への手紙

 私たちが、テサロニケ教会から学ぶ点は、迫害下でもくじけない心です。
パウロは通常、手紙の最初で各教会の信仰と愛を賞賛しますが、テサロニケ教会の場合、信仰と愛に加えて「忍耐」に言及しています。

私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(第一テサロニケ1:2~3)

 テサロニケの教会は、パウロが伝道した当初からユダヤ人による迫害が起きました。(使徒17:1~15)パウロに反対するユダヤ人は、町のならず者を利用して暴動を起こしたり、クリスチャンの家を襲わせました。クリスチャンになった瞬間から、苦難の人生が始まりました。テサロニケの人々はそんな中でも信仰告白し、周囲の人にイエスさまの福音を伝え(第一テサロニケ1:8)、信仰に堅く立っていました。(第一テサロニケ3:7~8)迫害の苦しみは、「神の国のため」(第二テサロニケ1:5)なのです。

 テサロニケのクリスチャンは、暴力や差別、あざけり、経済損出などを経験していたので、主イエスが再び地上に来られる日を強く待ち望みました。そうした信仰が暴走して、主イエスが来る前にクリスチャンは死なないという間違った理解が生まれ、死んだ仲間を見て落胆した人が出たので、パウロは主イエスの再臨を説明しました。

 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4:16~17)

 主イエスの再臨に気を取られ過ぎて日常生活がおろそかになる人も出てきたので、落ち着いた生活を心がけ、きちんと仕事をしなさいとパウロは教えました。(第一テサロニケ4:11、第二テサロニケ3:11~12)さらに、そんな困難な状況だからこそ、喜べ、祈れ、感謝せよと励ましました。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ5:16~18)

喜びを選び取り、祈ってゆだね、物事のポジティブな面を見つけましょう。そうすれば環境に左右されず芯が強く穏やかで自分らしい心を身に着けることができます。

 
→あなたの番です
 □主にあって喜びましょう
  □苦しい時こそ、感謝を見つけましょう