マタイ14:1~12 ヘロデとヘロデヤ



 水は低きに流れ、といいます。国主ヘロデも妻ヘロデヤも、その通りです。


1、捕らえられたヨハネ

そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」(マタイ14:1~2)

 国主ヘロデは、ヘロデ大王の息子の一人でヘロデ・アンティパスといいます。当時のユダヤはヘロデ大王の3人の息子により分割統治されており、国主ヘロデの担当はガリラヤとペレヤ地方でした。
国主ヘロデは、イエスの奇跡は本物だと思いました。誰が何と言おうとイエスがバプテスマのヨハネの生まれ変わりに違いないと信じ込んでいました。その理由が今日の箇所に書いてあります。

実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。(マタイ14:3~5)

 国主ヘロデは、アレタ4世の娘を妻としていましたが一方的に離縁し、ヘロデの兄弟ピリポの妻を奪って妻にしました。ヨハネはその結婚の不当性を厳しく責めました。そのため、ヨハネはヘロデに捕らえられました。
ヨハネが庶民の信頼と尊敬を受けた預言者だったので、ヨハネ殺害は政治的にマイナスだと判断した国主ヘロデはヨハネを牢に入れたままにしていました。

 国主ヘロデは自分の間違いを正すことをせず、不正だと糾弾するヨハネを監禁しました。水は低きに流れるのです。


2、誰が勝利者か

たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。(マタイ14:6~12)

 今日の舞台はペレヤ地方で、死海東側に位置するマケルス要塞です。

国主ヘロデは誕生日パーティーにローマの千人隊長や地域の有力者を招きました。妻ヘロデヤの連れ子の娘サロメがダンスを披露し拍手喝采を浴びたところで、ヘロデは上機嫌になり、何でも願いをかなえようと娘に言いました。
まさか、ヨハネの首が欲しいとねだるとは想像もしていませんでした。宴会の華やいだ席はいっぺんに凍りついたでしょう。妻ヘロデヤは、バプテスマのヨハネを殺すチャンスをうかがっていたのです。国主ヘロデは列席の人々の注目を浴びる中で追い詰められました。「今ここに」首を盆に乗せてきてほしいと、少女サロメは言いました。有無を言わせぬ勢いがあり、即座にという強い圧力をかけました。

あなたの番です。あなたは、こんな約束をしますか。あなたなら、娘の約束を聞いてやりますか。

 実は、逃げ道はあったのです。妻と娘を叱り飛ばせば良かったのです。バプテスマのヨハネは神の人だ、お前たちは何と恐れ多いことを言うのだ、恥を知れ、と。
これを機会に人生をやり直しても良かったのです。ヨハネを釈放する。ヨハネの言うことは正しかった。私の結婚は神の前に罪だった。今ここで悔い改める。結婚も解消する。妻と娘よ、生活に困らない費用を渡すから即刻ここを去れ。

「王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。」とあります。心を痛めて良い人に見えたとしても、ヘロデは大人物気取りの約束をし、人前のメンツを第一にしました。ヨハネの首が運ばれると、妻ヘロデヤと娘は勝ち誇り、ヘロデは顔に怒りをにじませたことでしょう。

 今日の箇所の登場人物から学ぶことがあります。
 まず、国主ヘロデ。傲慢な態度に問題があります。うかつな約束が窮地に陥れました。だから教訓は、傲慢な振舞いは止めよ、安易な約束はするな、自分を大きく見せる誘惑に負けるな、世間体を気にするよりも神の目を第一にせよ、です。

 妻ヘロデヤは、夫をあやつり、娘を支配し、自分の願いを遂げる人間でした。教訓は、人をだますな、人をコントロールするな、一時的な成果だけを追求するな、です。
 この後に、妻ヘロデヤは夫を説き伏せ、ローマ皇帝カリグラに「父のような位を与えてほしい」と進言させました。カリグラはヘロデを危険視し、国主の座を剥奪して流刑としました。蒔いた種は刈り取るのです。

 バプテスマのヨハネは、自分の意図しないタイミングで命を奪われました。私たちの人生も同じで、自分の時計で死ねるわけはありません。盆に乗せられ人々の前に出されたヨハネは、どんな顔をしていたのでしょう。
 ヘロデは、主イエスのことをヨハネのよみがえりだと勝手に思い込み恐れました。誰が勝利者だったのでしょう。ヨハネこそ真の勝利者です。


 →あなたの番です
   □傲慢は破滅に先立つ 
   □人をだますな、支配するな
        □神のタイミングを静かに受け入れよ

マタイ13:53~58 ナザレ、主イエスの故郷

 ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや

 これは、明治生まれの詩人・室生犀星の詩。彼は金沢に生まれ、20歳の頃から東京と故郷を行き来し、29歳で出版した詩集に載せてあるものです。多くの人も、郷愁と嫌悪という両面的な感覚を故郷に対して持っているものです。


1、立ち去るイエス

「これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。」(マタイ13:53)

主イエスは、ガリラヤ湖畔での活動をひと段落させて、故郷に向かいました。
主イエスの宣教は以下のような行動と教えに特徴づけられます。

行動 弱い人に寄り添う愛の行動      
   病の人をいやす奇跡のわざ、奇跡
 教え 山上の垂訓 生き方、罪、希望、隣人愛など具体的な生活指針
   たとえ話  神の国のコンセプト、ビジョン、世界観


2、つまずく故郷の人たち

それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」(マタイ13:54~56)

 主イエスは、ふるさとのナザレに行くことにしました。ナザレの村は、ガリラヤ湖から見ると西側の丘陵地帯にあります。ナザレは旧約聖書には登場しない小さな村です。今回の故郷訪問は、母マリヤや弟たちが主イエスに会いに来たことに対する応答だと思えます。主イエスのふるさと伝道であり、家族伝道です。

イエスの話をきちんと聞いたのは初めてだったかもしれません。聞いたことのない内容だ。すごい話だ。深みがある。教えられる。感動する。真理をついている。人々は主イエスの話に驚きました。
ナザレの人々は、主イエスの「不思議な力」も目撃しました。主イエスは病人をいやしたのです。おそらく悪霊につかれた人も解放したのでしょう。

「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。」(54節)
 「いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」(56節)

教えを聞いて、不思議な力を見て、ナザレの人々は主イエスに対する信頼や尊敬や信仰を持ったでしょうか。いいえ。主イエスの知恵と奇跡の力がどこから来たのかという謎の解明に興味が移ってしまいました。どこから得たのか。誰から得たのか。どうやって得たのか。ナザレの人たちは、このような形で主イエスにつまずきました。


3、尊敬されなくても

こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。(マタイ13:57~58)

尊敬できなければ、私たちはその人から何一つ学べません。主イエスへの尊敬がなけらば、奇跡を見ても深い教えを聞いても、信頼や信仰に結び付きません。それが、ナザレの人々の姿でした。

イエスさまですらうまくいかない事がある。それは、私たちにとっての慰めにもなります。一度語れば家族全員が救われるというほど家族伝道は簡単ではないし、だからといってあきらめることはない。神が働いて下さるように祈り、謙虚に、正直に語りましょう。

あなたの番です。あなたも、家族伝道、故郷伝道をしませんか。
家族に対しては、本物のあなたの姿が最も大きなあかしの力になります。あなたが経験した苦しみを語り、主イエスと出会ったことで人生が変えられたことを素直に語りましょう。言葉の巧みさとは関係なく、あなたの心の中で起きた真実な変化は、家族であればあるほど気がつきます。

キリスト者にとっては、故郷は遠きにありて祈るもの、そして訪れ、語るもの。

ご存知のように、イエスの弟達は主イエスの十字架と復活を経て信仰を持ちました。(使徒1:14)家族や故郷の人たちが信仰を持つには、ふさわしい時があります。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

→あなたの番です
 □家族や故郷の人に、福音を語ってみよう
 □主イエスも故郷の人に尊敬されなかった

マタイ13:44~52 畑の宝

 あなたは宝を持っていますか。宝とは何でしょう。

1、宝

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイ13:44)

アメリカの切手収集家の間で、1918年発行の「さかさまジェニー」という切手は有名です。専門家たちがその切手に出会ったら、1億円を工面してでも購入するでしょう。たった1シートだけ、飛行機の絵柄がさかさまに印刷された希少切手なので、3億1千万円の値が付いているからです。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。(マタイ13:45~46)

 畑の宝のたとえも、真珠のたとえも、同じ意味を持っています。本当に価値あるものに出会ったら、人は何をしても手に入れる。本物の宝はそれほど尊いものなのです。

 同種のたとえを主イエスが語るのは、語られている内容に間違いはなく、大切な事だと念を押しているのです。

 ところで、今日のたとえ話は、4つの福音書の中でマタイだけが記録しています。他の弟子たちにとっては、心惹かれる教えではなかったようです。お金という価値にこだわる取税人の経歴や主イエスとの劇的な出会いが、この宝のたとえ話に凝縮しているとマタイは感じたのでしょう。

イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。(マタイ9:9)

マタイが道端で仕事をしている最中に、主イエスは声をかけました。そのこと自体がまず、マタイの宝になりました。嬉しかったのです。愛を感じました。そのままで受け入れられていると感じたのでしょう。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マタイ9:13)

マタイが主催したパーティーを目撃したパリサイ人は、罪人の集会だと強く批判しました。イエスは公にマタイをかばいました。正しい人には医者はいらない。マタイのような罪人を招いて、いやすために来たのだと主イエスは言われました。この経験は宝となりました。

さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ(マタイ10:2~3)

主イエスが声をかけて弟子としてくださったことをことを思い出すと、マタイは感謝であふれました。12弟子の名前のリストで、自分にだけ「取税人マタイ」という古傷を加えています。キズ者のマタイはイエスに愛されたのです。信頼されたのです。彼の傷が宝になったのです。

宝とは何でしょう。苦しくても、悲しくても、物事が思い通りにいかなくても、人から笑われても、病気でも、孤独でも、貧乏でも、死を目前にしても、私を支えてくれるものが宝です。

本当の宝は、主イエスです。主イエスを知っていれば、すべてを失っても生きていけます。マタイは、12弟子の中で誰よりも主イエスとの出会いに感謝した人でした。すべてを売り払ってでも手に入れたい宝とは、主イエスなのです。

 あなたも宝を手に入れてください。すでにクリスチャンなら、宝の価値を再認識して下さい。
 


2、地引網のたとえ

また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ13:47~50)

 このたとえは、毒麦のたとえとそっくり同じ意味を持っています。地引網の中にサメがいたり毒針のあるエイがいたら危険です。漁師は取れた魚を選り分けます。人間の世界も同様で、世の終わりに選別が行われ、悪いものは火の炉に投げ込まれると主イエスは述べました。滅びの悲惨さを強調してたとえが終わっています。それは、滅びるなという警告です。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:51~52)

 山上の垂訓のまとめは、聞いた事を実行しなさい、でした。たくさんのたとえを語り終えた主イエスは、御国の学者として人々に教えなさいと諭しました。

 
 チャックルズという名の黒い犬は、自分の好きな物を見つけると自分の宝にして、自分専用の箱に隠す犬でした。一度自分の宝になったものは、容易に人には触らせません。
 飼い主のヘザーさんが癌の手術を受け、体のだるさを覚えてソファーで居眠りしたことがありました。目が覚めると、あごの下にアヒルのおもちゃがありました。頭の部分にはウサギのぬいぐるみ、お腹の上にはフリスビーとリスのぬいぐるみ、周囲には黄色いテニスボールがたくさん置いてありました。チャックルズが自分の宝を飼い主のために持って来て慰めていたのです。

 さて、あなたはどんな宝を持っていますか。本当の宝は、あなたを励ますだけでなく、他の人をも励まします。主イエスという宝を持っている人は、他の人にも宝を届けることができるのです。

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイ13:44)


 →あなたの番です
  □主イエスこそ、私の宝
  □天の御国の学者として、人に教えよう


マタイ13:24~43 毒麦のたとえ

 愛の神、正義の神、全能の神がいるのに、なぜ世の中は不平等で、なぜ苦しみに満ちているのか。その回答が毒麦のたとえです。

1、毒麦

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ13:24~30)

 神が世界を創造しました。神は出来上がった世界を見て良いと言われました。けれども、人間は堕落し、世界は不条理で悲鳴をあげています。

「良い種を蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。(マタイ13:37~43)

主イエスは、たとえの構成部分について弟子たちに解説されました。種を蒔く人はイエス。畑はこの世界。良い種とは、神の国の子ら、つまりクリスチャン。毒麦とは、悪い者の子。敵は悪魔、収穫は世の終わり、刈り手は天使です。

良い麦の種を蒔いても、敵が毒麦の種を蒔くことがあります。成長途中で毒麦を刈ると、良い麦にも危害を与えてしまうので、収穫の時を待ってから、毒麦を刈り集めて焼き、良い麦を倉に納めるよう主人は命じます。

 弟子たちが復活の主イエスに出会った時、以下のように、瞬間的な解決を求めました。

 復活されたイエスさまに出会った弟子たちは、期待を込めてこう質問しました。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1:6)主イエスは、今ではないと言われました。

 世の中には毒麦が確かに存在する。主イエスは、毒麦をすぐには刈り取らない。けれども、最後に必ず刈り取り、束にして、焼くと約束されました。ここに、私たちへの励ましと慰めがあります。
 この主イエスのたとえから分かるように、この地上で私たちは毒麦と縁を切ることはできません。人生は、長期戦なのです。私たちの周囲には、悪と邪悪な人が存在します。
 主イエスは、私達以上に毒麦の存在に気づいています。収穫時に、毒麦全部を刈り取り焼き払うと主イエスは言われました。その事は、誠実に生きようとしている私たちへの励みとなります。

 主イエスを信じ、主イエスの後に従う人は、愛と正義を行い、誠実に謙虚に歩みます。そういう人は、今も主の祝福が覆いますが、最後の日には、太陽のように輝くと主イエスは確約されました。とても大きな励みになります。

「だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。」(30節)




2、広がる神の国

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。(マタイ13:31~34)

からし種はゴマ粒以下の小さな種ですが、成長すると3mくらいになり、鳥がとまれるほどの潅木になります。
1サトンは13リットルで、3サトンは大量な小麦ですが、小さな酵母菌を混ぜると大きくふくらみます。
二つのたとえは同じ意味を持っています。神の国の始まりは極めて小さいけれど、信じられないほどの大きく拡大するという意味です。

毒麦との共存は長い期間続きます。それでは、世界は毒麦に占領されてしまうのでしょうか。いいえ。毒麦がじゃましても、神の国が大きくおおきく広がるのです。

「天の御国は、からし種のようなものです」(31節)

ちっぽけでどこにでもいる普通の人が、主イエスを信じ受け入れることから、神の国は広がり始めます。まことに小さなスタートでも、誰も想像ができないほど広がるものだと主イエスは私達を励ましてくれています。

生きてる限り周囲に毒麦が生えてくるが、神の国が小さく始まり大きく広がることを励みに今日も正しく歩み続けよう。後に天の御国で太陽のように輝く日が来る。

 →あなたの番です
  □この世界には、毒麦がはえている
  □神の国は小さく始まるが、拡大する □正しく歩む者は、今輝き、後にさらに輝く

マタイ13:1~24 種まきのたとえ

 あなたの人生を、実り豊かな人生にしましょう。どうしたら、そうなれるのでしょう。


1、たとえで話す不思議

イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」(マタイ13:3~10)

 主イエスは、舟に乗り、腰をおろして、岸辺に集まった群衆に話をされました。十二弟子は、主イエスの話し方に驚きました。山上の垂訓(マタイ5~7章)のような話し方ではなく、たとえだけで話を終えられたからです。弟子たちは不思議に思い質問しました。なぜ、たとえで話すのですか。何の解説もしないなら、農業の話です。
 主イエスが話した内容は、誰でも知っていることでした。聞いた人は、それがどうしたんだ、という気持ちになってしまいます。



2、たとえで話す目的

イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』マタイ13:11~15)

 難しいことを易しく解説するために用いるのが、通常のたとえです。主イエスのたとえは、それと異なりました。信じようとする人には深い理解と鮮明な印象を与え、聞く気のない人には無駄な話だと思わせる効果がありました。聞く人を分けるのです。

「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないから」だと主イエスは言われました。
語られる神の言葉は同じでも、聞く人の姿勢しだいで理解はまったく異なるとイザヤは言いました。聞いても聞こえないことになるし、見ても分からない状態が起きると予告していました。イザヤが予告していた通りのことが今、弟子達の目の前で起きていたのです。



3、実をむすぼう

ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:18~23)

たとえには霊的真理が隠されています。たねまきのたとえは、農業の話ではなく、実を結ぶ人生を過ごすための秘訣が語られています。

種とは、神のことばです。
道ばたにまかれた場合は、主イエスの言葉を聞いても、拒絶する人、無関心でいる人のことを意味します。これでは、信じる心が生まれません。
岩地にまかれるとは、主イエスの言葉に少し関心を示し、わずかに芽を出す人です。こういう人は、根がないので、困難や迫害でつまずくので、信仰の実を結べません。
いばらの中にまかれた種とは、みことばを聞いてはいるのですが、この世の思い煩いや富の誘惑に負けて、実を結ばないで終わります。主イエスよりもこの世の栄誉を求め、正義や愛を選ばすに嘘や不正や妥協を選んでしまうので、中途半端な生き方になり、罪に負け、実をむすべません。
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで」良い地に落ちた種は豊かな実をむすびます。みことばを悟るとは、難しい悟りを開くという種類のものではなく、シンプルなことです。みことばを聞いて主イエスを信じること、そして、みことばを聞いて実行することが、みことばを悟ることの中身です。そういう人は、日常生活で祝福を受け、実をむすぶ人になります。

今日のあなたの心は、どの状態ですか。道ばた、岩地、茨、良い地?

主イエスは、今日も、あなたに種をまいています。毎週の礼拝で、しっかりとみことばを受け止め、信じ、生活で実行しよう。朝、一人で神の前に出て、聖書を読み、その日に主がまいて下さるみことばの種を受け取りましょう。そういう人の人生は実をむすぶ人生になります。

私たちが結ぶ実は三層あると私は思います。第一は、信仰の実です。信仰を持つことが実りです。試練や誘惑に負けずに信仰を維持し深めることは実りです。第二に、御霊の実です。品性が変えられ、キリストのように変えらていくことは、人生の実りです。周囲の人に笑顔をもたらします。第三に、神の国建設に携わることが実りです。正しい仕事、誠実な業務、お客様の利益を優先する製品作りやサービス、聖い態度、愛を届ける姿勢。神の国の建設をすることにより、神の栄光をあらわすことができます。

ワランス・ハートレイは、イギリスに生まれました。父親は、メソジスト教会の聖歌隊の指導者で日曜学校の校長でした。ワランス自身も聖歌隊の一員となり、音楽を自分の仕事としました。マリア・ロビンソンというフィアンセの女性と将来を語り合い、世界最大の旅客船の楽団で指揮をすることを誇りとしていました。
1912年4月15日の夜、タイタニック号は氷山とぶつかり、船体が傾き始めました。混乱する甲板に出てハートレイは演奏を始めました。人々の心を静め、勇気を与えるために。深夜2時20分、巨大な船が沈没するまで1時間30分、ハートレイは8人の楽団と共に音楽をかなで、最後は「主よみもとに近づかん」の賛美歌を演奏し、海に散っていきました。生き残った人達は、みな、ハートレイたちの演奏を生涯忘れませんでした。
彼の人生は短いものでしたが、豊かな実を結びました。

あなたも、実を結ぶ人生を送りましょう。道端、岩地、いばらの地にならず、良い地になりましょう。

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」


→あなたの番です
 □主イエスは、あなたに種をまいている
 □みことばを素直に聞いて、信じよう
 □みことばを実行して、実をむすぶ人生にしよう

マタイ12:46~50 主イエスの家族

「家族の者がその人の敵になります。」(マタイ10:36)と、主イエスが言われたことがありますが、主イエスの家族でもそれが起きました。


1、イエスの肉親
イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」(マタイ12:46~47)

 主イエスの実家は、丘陵地帯のナザレという町にありました。母マリヤと弟たちはガリラヤ湖畔まで下りて来て、おそらくカペナウムの町までやって来たのでしょう。兄弟たちとは弟たちのことで、マタイ13:55によれば、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」です。

 マルコの福音書は、マリヤと弟たちが来た理由を率直に書いています。「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ』という人たちがいたからである。」(マルコ3:21)
イエスの家族は、パリサイ人たちが流した悪い噂を信じてしまったようです。イエスの気が狂っていたら、弟4人なら力ずくで連れ戻せると考えたのでしょう。ヨハネ7:5によると、「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」ことが分かります。
 パリサイ人から批判と悪口の集中砲火を浴びていた主イエスですが、家族まで敵に回してしまいました。

 私たちも、家族に信仰を理解してもらえず、馬鹿にされたり、けなされたりすることがあります。主イエスは、私たちの立場を体験的に分かってくれます。

 主イエスはこの時、母や弟たちと議論しませんでした。このタイミングでは無駄だと判断されたのでしょう。おそらくこの2年後、弟たちは主イエスを救い主と信じました。「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒1:14)信じるのに時があるのです。



2、イエスの真の家族
しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12:48~50)

家族が来ていると知らせてくれた人に、主イエスは禅問答風に言われました。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」その人が答えに窮していると、わざわざ手を伸ばして、この人たちがわたしの家族だと言われました。示した人々は、主イエスの弟だちではなく、弟子たちでした。家族はそれを見て驚いたことでしょう。この後、主イエスが家族と話したとは聖書は書いていません。

家族とは、血のつながりを土台とした、世界で最も大事で濃密な人間関係です。私たちは家族に愛され、育てられ、一人前になります。やがて、互いに助け合う一員になります。

主イエスは、家族の定義を大きく変えました。血縁や人種や言語や親密さが神の家族の絆ではなく、父なる神のこころを行う人が主イエスの家族だと言われました。人生の目的の一致。父なる神の夢を実現する人。神の国建設に携わる人。それが主イエスの家族です。

 ある青年が大学院で学んでいました。お父さんが危篤と知らされて病院に行きました。今まで父に反抗してきたのですが、素直な心になってベッド脇でこう言いました。「お父さん。もう心配しないでいいよ。お父さんの遺志はしっかりと僕が継ぐからね。」息子は学校を中退して、父の社長職を引き継ぎました。
 父の心を行ったことで、彼は真の意味で家族になったと言えるかもしれません。

 父なる神の心とは何でしょう。自分の言葉で言い換えてみましょう。
 正しく生きる。人に優しくする。誠実に生きる。謙遜に生きる。忍耐する。仕える。育てる。ケアする。励ます。慰める。与えられた使命を全うする。
 今週、父の心を一つでもしてみましょう。

父なる神の心を行おうと願い、具体的に実行する人に対して、主イエスはこう言ってくれます。あなたは、わたしの家族だよ。あなたは一人ぼっちではない。


→あなたの番です
 □あなたは一人ぼっちじゃない
 □あなたは神の家族の一員
□父なる神のみこころを行ってみよう


マタイ12:38~45 あなたの心に触れたいイエス

 主イエスは、強烈なストレスにさらされる中でも、心折れそうな人々に愛を注ぎました。悪意ある質問に答える時すら、パリサイ人に真理を悟らせようとし、悔い改めのヒントを何度も投げかけました。
 今回も、一人のかたくなな心をもつパリサイ人に主イエスは真摯に語られました。


1、悪い時代になった

そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。(マタイ12:38~39)

 パリサイ人の一人が「先生」と語りかけました。主イエスを殺そうとしている人の言葉なので、これは嘘で偽善です。尊敬心のない者が「先生」と呼ぶのは侮辱です。

 主イエスの数々のいやしを目の前で見て来たのに、しるしが見たいと言い張るのです。目が見えず、口がきけず、悪霊につかれていた人のいやしも見ているのに、それでも不十分だというのです。救い主の証拠となる奇跡ができるはずだというのです。

 悪い時代になってしまった。悪い人々が増えてしまった。姦淫の時代だ。邪悪な人々だ。主イエスのいやしによって、あれだけ多くの人の流した感謝の涙に心が動かされないでいる。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と主イエスは嘆きました。

 主イエスは、何が問題点なのかを瞬時に見抜きました。しるしが提示されるか、されないかが問題ではない。パリサイ人が、最初から信じるつもりがないことが問題なのです。誰かの証言を聞いても、何かの事実を見ても、心が閉じているのです。目の前で主イエスがガリラヤ湖の水の上を歩いても、きっとこう言うでしょう。悪霊の力で歩いたのだと。

それで主イエスは二つの話をしました。預言者ヨナの話しを聞いてニネベの人々が悔い改めた話。ソロモンの話しを聞きに来た南の女王がその言葉に驚き、感嘆した話です。しるしが起きるか起きないかでなく、大事なことは聞く人の心の柔らかさ、謙虚さなのだというのです。


2、ニネベと南の女王

ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。(マタイ12:40~42)

 この時代からざっと700年前の出来事でした。アッシリアの首都ニネベは、罪深く邪悪で神に逆らう町として有名でした。三日三晩、大魚の腹の中で生き延びたという預言者ヨナの話はニネベの人に大きなインパクトを与えました。今のままでは神に滅ぼされるという警告は、町の人々の心をとらえました。預言者ヨナの体や顔や髪の毛に、魚の中で消化されかけた後遺症がみられたのかもしれません。大魚の中で生き延びた地獄のような体験のリアルさを聞いて、人々は身の毛もよだったかもしれません。
 邪悪なニネベの人々も、預言者ヨナが語る神の言葉を聞き、ヨナの体験、生き残ったしるしを見て、心から悔い改めたました。ニネベの人々は、パリサイ人とは違って、柔らかい心を持っていました。

主イエスはヨナよりもはるかにすぐれた方です。今、主イエスは、病人をいやし、神の言葉を語っていました。ニネベの人なら、主イエスを見て、すぐに悔い改めたことでしょう。心をかたくなにしたパリサイ人がしるしを見せろと叫び続けるなら、さばきの日にニネベの人々がパリサイ人を罪に定めると主イエスは語りました。

この話の中で主イエスは、十字架で死んで三日後によみがえると、そっと予告されています。実は、十字架と死と三日目のよみがえりこそが、唯一のしるしなのです。

 もう一つ。ヨナの例と似ているのですが、旧約聖書の出来事を主イエスは取り上げました。イエスさまの時代から約1000年前のことです。
ソロモンがユダヤの王だった時、南の国、シェバの女王が噂を聴いてはるばるやって来ました。女王は、ソロモンの語る知恵の言葉に魅了されました。また、王の宮殿や従者の姿、神殿や礼拝する人々を見て圧倒されました。女王は「あなたの神、主はほむべきかな」(第1列王10:9)と神をたたえたのです。
 さばきの日が来たら、シェバの女王が、心の閉じたパリサイ人たちを厳しくさばくだろうと主イエスは告げました。
 
 南の女王の関心は、ソロモン王の知恵の言葉でした。おそらく、自分こそ知者だと誇っていたからこそ、賢者の誉れ高いソロモンに会いたかったのです。いわば、知恵の道場の門前破りです。われこそは真の知者なりと言いたかったのでしょう。神の知恵に満ちていたソロモンにまったく歯が立ちませんでした。高慢な女王に見えても、ソロモンの言葉を低い心で聞く謙虚さを持っていたのです。かたくなな心で、目を閉じ、耳を閉じていたパリサイ人とは正反対の姿勢でした。

 邪悪なニネベの人も、権力者で知者の女王も、柔らかい心で言葉としるしを受け入れました。自分の非を認め、神をたたえました。



3、7つの悪霊を引き連れて

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」(マタイ12:43~45)

 最後に、悪霊を追い出してもらっても、その悪霊は7つの悪霊を連れて来て支配するというたとえを主イエスがされました。かたくなな心を貫くなら、同じめにあうと言われたのです。邪悪な人はもっともっと邪悪になる。「初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです」

 これは、主イエスの警告です。主イエスを殺したいパリサイ人であっても、しるしを見せろと悪態をつく男であっても、そのままではコンクリートのような心になる、邪悪な人になってしまう。心の在り方をかえてみようと、彼の心に触れようとしています。

 宗教哲学者のマルチン・ブーバーは、真実な出会いによって人は新しい人になると述べています。主イエスと心の深い部分で出会うことができれば、私たちは一瞬手前の自分とはまったく異なる私になれます。主イエスは、あなたの心と出会いたいと願っています。

ひるがえって自分の姿を見つめましょう。神があなただけに示して下さったしるし、つまり、神しか為し得ない出来事があなたの人生にありませんか。この一年の間に、神は確かにおられたと思えた出来事がありましたか。ここ1ヶ月の間に、主の助けや守りを体験しましたか。
また、預言者ヨナが語ったように、ソロモン王が神について語ったように、神についての言葉を聞いて納得したり、心に平安が来ませんでしたか。

主イエスの行動を見、主イエスの言葉を聞いて、謙虚に主イエスを受け入れましょう。

「ヨナよりもまさった者がいるのです」(41節)

→あなたの番です
 □謙虚に見たり聞いたりする心があれば、大切なものが見える
 □悪意ある人を思いやる主イエスの姿