新しく生まれる ヨハネ3:1~8

ある中年の男性のところに妖精が現れ、何でも願いを聞いてあげようと言ったそうです。(これはもちろんジョークです)20歳若い妻がほしいと願いました。妖精は、分かった、目を閉じて10数えなさいと命じました。数え終わって目を開けて、家の中で妻を捜しましたが、何も変わっていないのでがっかりです。妻は夫の顔を見て言いました。「どうしたの、急に老け込んで」男が鏡を見ると、20歳年老いた自分がいました。願いはかなっていたのです。

 今日のテーマは、新しく生まれるという事です。

1、歳をとってもやり直せるのか

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」(ヨハネ3:1~2)

 ニコデモは当時の有力者でした。「パリサイ人」であり「ユダヤ人の指導者」(1節)であり、「イスラエルの教師」(10節)と言われています。現代のアメリカに置き換えれば、ベテランの上院議員で、有名大学教授といえるでしょう。
 ニコデモが、夜、そっと、お忍びでやって来たのは、宗教指導者パリサイ派の同僚に自分の行動を知られたくなかったからです。パリサイ派の人々は主イエスを嫌悪していましたが、ニコデモは、主イエスが神から遣わされた人だと信じていました。
 名誉も、財産も、地位も、権力もあるのに、ニコデモは満ち足りていませんでした。

 ニコデモは目的を持って主イエスに会いにきましたが、挨拶に終始して本題に入れません。主イエスは、ニコデモの求めを見抜き、ズバッと言い当てました。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

ニコデモが求めていたのは、新しく生まれる、ということです。ニコデモは涙ぐましいほど本気だったので、次のように生真面目に質問しました。

ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)

 この質問から、ニコデモが3つの事を考えていたことが分かります。
     かなりの高齢になった自分でも、人生をやり直したい。
     母の胎に戻ってでも、やり直したいという熱意を持っている。
     新しく生まれることはとても難しい事で、今では絶望的な気持ちで過ごしている。
 あなたはニコデモに似ていますか。あなたは新しく生まれたいと思いますか。


2、風が吹くと、木の葉が揺れる

 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:5~8)

 新しく生まれる力は、自分の内側にはなく、自分の外からやってくると主イエスは言われました。これが大事なポイントです。3節の「新しく生まれる」の直訳は、上から生まれるとなっています。上から、つまり神によって変わるのです。

 もし、自分の努力や頑張りで自分が変わるのなら、とうの昔に変われたでしょう。でも、無理なのです。そのことを、主イエスは、肉によって生まれた者は肉でしかないという表現で説明されました。新しく生まれたいなら、肉を捨てることです。つまり、努力、強い意思、真面目さ、忍耐、という自分の力による頑張りを捨てて、神に任せるという受け身の姿勢が必要です。

人を新しく生まれ変わらす力は、まるで風が吹くようなものだと主イエスは言われました。あなたは一枚の葉っぱなのです。木の葉は自分で自分を揺らすことはできません。あなたという木の葉をさやさやと動かしてくれるのは、外から吹く風なのです。

 このことを主イエスは、別な表現でも説明されました。人は水と御霊によって生まれるのです。水とは、洗礼の水、バプテスマの水です。バプテスマとは、何を意味するでしょう。イエスさまを私の救い主と信じますという公の信仰告白です。ですから、人が新しく生まれるために必要なものは、信じることなのです。信じる人の心に神の風が吹き始めるのです。
 
 自分のありのままの姿を神の前で見つめましょう。みっともない姿かもしれません。汚れていて、ねたみやすく、欲望の塊かもしれません。何でも人のせいにして、すなおでなくて、外側ばかり飾る空っぽ人間かもしれません。自分の姿を神と共に見つめてください。

 あなたを会社に例えるなら、100兆円の負債を負って倒産した会社なのです。車で言えば、バッテリーが死んだ車です。キーをまわしたり、ボンネットを開けてあちこちいじっても無駄なのです。友達が呼んだAAAが後ろに来ているので任せればいい、頼めばいいのです。
 あなたの人生のAAAは、イエス・キリストです。

生物学的な父親以外に、義理の父が5人いた男子高校生がいました。つまり、お母さんが5回離婚したのです。大人は信じられない。人生は単なるゲームだ。真面目に生きるのは意味がないと考え、麻薬漬けの毎日を送っていました。そんな時、高校の学食で誰かが熱心にイエス・キリストの話をしている姿に出会いました。話をしている人も麻薬におぼれた過去があると分かりました。一番後ろで話を聞いていましたが、最後に前に進み出て、イエスさまを信じる祈りをしました。
その翌日、マリファナをやろうと取り出しましたが、止めようという気持ちが自分の内側から起きるたことに驚きました。聖書を学び、自分が変えられていくことが分かりました。この高校生とは、リバーサイドの大きな教会で牧師をしているグレッグ・ローリー先生のことです。


 あなたの番です。
□自分は倒産した会社だと気づきましょう
□主イエスに任せて、新しく生まれ変わらせて頂きましょう
□すでに信じている人は、もっと御霊の風に身を任せましょう
 
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

ルカ15:11~24 神は捨てない

今日から、聖書のエッセンス、「福音とは何か」というシリーズを始めます。取り上げる箇所は、ルカの福音書から「放蕩息子のたとえ」です。ポイントは3つあります。1、人間の本質は何か。2、どうしたら神に立ち返れるか。3、神とはどんな方か。

1、人は自己中心で欲望追及の毎日を送っている

弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。(ルカ15:12~13)

弟息子は、財産の生前贈与を父に求め、聞き入れられました、手にしたことのない大金を持ち、意気揚々と都会に出かけました。そこで、放蕩三昧の暮らしをしました。酒を浴びるほど飲み、宴会騒ぎをし、不道徳な行為をすることを指します。30節で兄が言及していますが、性的にみだらな行為にのめり込んだようです。
主イエスが取り上げた最初のポイントは、人間が自己中心で、欲望追及を目指す存在だということです。

人は自己中心です。それは写真の見方ですぐに明らかになります。5~6人で写真を撮ってもらいます。どの写真がいい写真かみんなで話すと、「これが良い写真」だとすぐに分かります。それは、自分が良く撮れている写真のことです。集合写真を見るとき、必ず最初に自分の顔を捜します。人間は、自己中心な生きものなのです。

また、人間は、欲望を追い求める存在です。外国に一人で出張し、仕事が終わって現地で4日間の休暇がもらえたとします。カジノで20ドルだけ使いましたが、驚くことに100万ドルもうけました。あなたは一人、休暇もあるし、金もある。あなたなら、どうしますか。何を考えますか。放蕩息子のたとえが、がぜん現実味を帯びてきます。

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。(ルカ15:14~16)

 現代風に言えば、世界恐慌の到来です。就職口がない。食料が極端に少なくなり、高騰して流通しない。弟息子は知人を訪ねますが、劣悪な労働環境で、食べ物はもらえず、寝る場所だけを手にいれましたが、空腹で死にそうでした。



2、どのようにして神に立ち返ればいいのか

 私達人間は、欲望追及の人生を夢見ていますが、ある日、我に返ります。我に返る条件は、第一に、みじめな失敗をすること。第二に、金がなくなること。第三に、孤独になり、心の理解者が誰もいなくなることです。

 我に返って、神のもとに戻りたいと人は願います。でも、どうしたらいいのか分かりません。放蕩息子の祈りは、神に帰る方法を教えてくれます。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』(ルカ15:17~19)

弟息子は、二つの悔い改めをしています。天に対しての悔い改め、もう一つは、父親に対する悔い改めです。真実味があって、謙虚な言い方をしています。私たちも、同じ祈りをすれば神に立ち返ることができるのです。

弟息子は、自分の放蕩生活で、父親の顔に泥を塗ったことに気づきました。父親が汗水たらして蓄えた財産をあっという間に失った親不孝者だと悟りました。こんな人間は、息子の資格を失ったと本気で考えたのです。



3、まことの神は、走り寄る神

 弟息子は、実家に戻りました。ぼろぼろの心とぼろぼろの着物で帰りました。息子として迎えてもらうためではなく、きちんと謝罪することと、雇い人にしてもらう事だけを念頭において帰りました。

父親は毎日のように遠くに目を凝らし、息子の姿を捜していたようです。失敗するが、帰って来ると信じていたようです。父親が走り寄り、息子の首を抱き、何度も口づけしました。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。(ルカ15:20~24)

走り寄り、抱きしめる父親。この父親の姿は、どの時代でも、どこの国でも、あり得ない姿です。こんな父親は地上にはいません。主イエスは何を言いたいのでしょう。これが、神なのだと語っておられるのです。

 日本からアメリカの大学に留学するにはかなりお金がかかります。私立大学で生活費も高ければ、年間300万円はかかるかもしれません。ESLのクラスに入り英語の勉強をするので、日本人留学生は卒業するまで5年くらいかかりますから、総額1500万円になります。
たとえば、卒業前に麻薬に手を出し、逮捕され、国外追放になって日本 に戻ったとします。父親は何と言うでしょう。卒業できずに退学になり、1500万円は無駄になったと話せば、父親は、どんな反応を示すでしょう。あなたを 殴るか、放心状態で天井を見上げるか、肩を落としてため息をつくかでしょう。
こういうたとえで話せば、放蕩息子の父親がいかに普通でないかが分かるでしょう。

息子がごめんなさいと言ったから、父親は抱きしめたのですか。いいえ。息子が何かを言う前にすでに抱きしめていました。神は、無条件で、両手を広げ、あなたの帰りを待っています。

息子は準備していた言葉(18節)を最後まで言えましたか。いいえ。言えません。

父親は、息子が言おうとしている言葉が分かったようで、あえて言葉を遮りました。最高の洋服と指輪と靴の用意と、パーティーのしたくを使用人に命じています。お前は、靴をはけない奴隷ではない。息子の印である指輪をもう一度与えよう。お前は、私の子供だ。誰が何と言おうと、私の子だ。

主イエスを信じた人を「神の子」と聖書は呼びますが、その言葉の意味を深く考えさせてくれる放蕩息子のたとえです。

私も、放蕩息子のたとえのような歓迎と食事を受けたことがあります。今も、その時のことを思い出すと涙が出ます。さあ食べなさい、着なさい、使いなさい、とたくさんの人が私を応援してくれた日々を私は決して忘れません。

あなたがどんな人生を送ったとしても、帰るところがあります。私は、強い確信をもってそう言えます。神はあなたを待っておられます。さあ、帰りましょう。放蕩息子のように祈りましょう。

→あなたの番です。
□自己中心、欲望追求の人生を止めましょう。
□二つの悔い改めをして、神に戻りましょう。
□無条件に赦し受け入れる神を知ったなら、あなたも誰かを両手を広げて受け入れましょう。



ローマ15:4 希望の書

  霊感された神の言葉、聖書は、私たちの人生に3つのものを与えてくれます。第一に忍耐、第二に励まし、第三に希望です。あなたが、今日必要なものは何ですか。

1、忍耐

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

大きなリュックに重い本などを詰めて、学校のグラウンドを来る日も来る日も何週も歩く男性がいました。ヨセミテの奥深くに単独で入る訓練でした。鍛えれば筋肉は強くなり、苦しめば精神力が鍛錬され、高山の厳しい環境に耐えることができるのです。

忍耐は苦しみに耐える力です。苦しみに意味が見出せれば、私たちは苦しみに耐えられます。

過保護のママに育てられ、忍耐の訓練を受けなかった子供が大人になると、どうなるでしょう。長続きしない。すぐに文句を言う。人のせいにして、責任を取らない。楽しみを先延ばしすることができない。
忍耐は、実際に苦しむことを通して初めて身に付くものです。

けれども、この聖書箇所では、聖書を読むだけで忍耐が身に付くと書いてあります。それは、聖書の登場人物の経験に自分を重ね、神の介入の約束を信じることで忍耐する力が神から与えられるからです。

アブラハムも子供が与えられるまで長く忍耐しました。モーセは荒野で羊飼いを40年間しました。ヨセフは奴隷として売られ、エジプトの牢屋に入れられました。ヨブの忍耐は驚嘆すべきものです。こうした人々の苦労を読むと、今日の私たちが励まされます。忍耐すれば祝福が来る。我慢が豊かな品性を築くと信じられるのです。

「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:4)


2、励まし

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

多くの人が映画館に出かけるのは、なぜでしょう。励ましてもたいたいからお金を払っても行くのです。大画面と大音響と魅力的な人物たちによって、諦めるな、You can do it!と言ってもらいたいのです。君は愛される価値がある。やり直せる。そう言ってもらいたいのです。

創刊50年を越え、週刊誌の日本最高売り上を記録した雑誌マンガ雑誌の「週間少年ジャンプ」には3つのキーワードがあります。友情、努力、勝利。皆、励ましの要素ばかりです。

励まされる事の反対概念とは何でしょう。馬鹿にされる。無視される。一人ぼっち。頭から否定されること。私たちは、励ましの代わりにこうした否定的な言葉を聞いて生きています。

バッテリーがだめになって、誰かに助けてもらった人がいますね。ジャンプケーブルでつないでもらうと、動けなかった車のエンジンがかかります。励ましを受ける事は、その状態に良く似ています。落ち込んでいたはずの自分の中に、新たな意欲が湧き出てきます。決心がついて、実際に行動に取り掛かれます。

励ましとは、自分の外側からやってくる人格的な応援のことです。

励まされると、やる気が出ます。励まされると失敗から立ち直れます。喜びが生まれます。毎日の繰り返しに新鮮さが生まれます。別の方法に気づきます。肯定的な思考になります。
神は、行き詰った人を何度も励ましています。肯定的な言葉、愛の言葉、共にいるという安心感の提供、使命に目ざめさせる言葉、時には厳しい罪の指摘による励ましさえあります。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。(使徒23:11)

正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。(箴言24:16)

ノーベル賞作家パール・バックは、「何事も、不可能だと証明されるまでは可能だ。しかも、それは、今は不可能ということでしかない」という元気の出る言葉を残しています。


3、希望

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

カールズJr.のコップにこんなことが書いてありました。コップに半分しか入っていないと考えるか、半分も入っていると考えるか。あなたはどちらのタイプですか。
本当はどちらでも良いのです、何回もソーダをリフィールできるのですから。

希望の反対は、失望というより落胆です。もうだめだ。何をしてもうまくいかない。否定的な気分に支配されるのです。
有名な物語や映画には、決まってネガティブな脇役がいて、ヒーローを際立たせる役割を担っています。スターウォーズの登場人物なら、金ぴかロボットのC3P、ナルニア国物語なら「どろ足にがえもん」です。あなたが否定的な脇役になる必要はありません。あなたが人生の主役なのですから、希望をもらって前に進みましょう。

もしあなたが、忍耐という状態にいるなら、涙があるかもしれませんし、あなたはきっと一人で苦しみに耐えているところでしょう。そんな時に、あなたの外から、あなを愛する神から励ましの言葉が届きます。あなたの外側から希望の火があなたの心に点火されます。すると、あなたはいつの間にか希望に向かって歩き出していることでしょう。

希望を持つと、可能性を信じられるようになります。未来の絵を描けます。神が共にいるので、安心感が周りをおおいます。願いがかなうという楽観的な見方ができます。目の前の困難が小さく見えます。否定的な気持ちを捨てられます。まだ間に合うと思えます。

聖書には、希望の言葉があふれています。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(第1コリント13:13)

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10:13)

聖書が単なる知識や知恵の総合案内ではなく、神が忍耐と励ましを与え、希望の火をともしてくれる書であることが分かるでしょう。

神は、聖書でこう伝えたいのです。
あなたの存在を喜んでいる。
あなたの罪を赦したい。
過保護にせず、あなたを鍛えよう。
あなたは必ず成長できる。
あなたは、誰かを励ます人になれる。

ルサーとジェニーは第二次世界大戦前に結婚した若い夫婦でした。ルサーは空軍に入りB-17爆撃機の乗組員になりヨーロッパ戦線に遣わされました。2年間会えない日々が続きましたが、ある日夫から手紙が届き、編隊が移動する際に愛するあなたの上を飛ぶという知らせが届きました。その日、ジェニーは空を見上げました。町の人も大勢その様子を見に集まりました。下の窓からルサーが手を振るのが見えるほど爆撃機は超低空でやってきて、一つの小箱をパラシュートに付けて投下しました。箱の中にはヨーロッパのみやげや手紙が入っていました。
数日後、ジェニーは不思議なドレスを着て町を歩きました。迷彩色のパラシュートを切り抜きワンピースに仕立てたドレスでした。ルサーの愛に包まれて歩いていたのです。

あなたに投下された神からのプレゼントが聖書です。それを読むと忍耐が与えられ、励ましで力づけられ、希望を持てるのです。あなたは、神からの愛のパラシュートを身に付けて毎日を生きることができるのです。聖書はそんな、希望の書です。さあ、毎日聖書を読みましょう。


→あなたの番です
□つらくても我慢しよう。苦しみに意味がある。
□神の励ましをしっかり受け止めよう
□神に希望を置いて、行動を起こそう。まだ間に合う。

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)


イザヤ40:8 永遠の言葉

奥さん達は、定年した夫に対して以下のような不満を持っています。
・毎日3食作るのは面倒
・一日中ゴロゴロされるのがイヤ
・12時ぴったりの昼食を期待するな
・二人しかいないのに、会話がない
・家事を手伝ってくれない
・いい加減に自立してほしい
・電話でおしゃべりもできない
 そうは言っても、男たちはなかなか変われません。

 今日は、聖書が変わらない神の言葉であることを二つのポイントからお話します。それをふまえて、変わらない神の言葉こそが私たちを変えるものだという事を語りたいと思います。

1、滅びなかった聖書

 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

 イザヤ書の転換点が40章です。滅びのメッセージを語ってきたイザヤが、希望と回復と慰めを語り始めるのがこの章からなのです。
 イザヤ40章2節は、罪が赦される希望が語られ、3節からは王の帰還に備えて道を整えよというメッセージになり、6~8節はすべての人が草や花であり滅びていくものだが、神の言葉はとこしえに変わらず、信頼に足る神の言葉だと指摘しています。

 前回、聖書が書記者により注意深く伝えられたとお話ししましたが、歴史を振り返ると聖書は迫害を受け続けた書物だと言えます。
 紀元303年ローマ皇帝ディオクレティアヌスは聖書を焼き尽くすようにと命令を出しました。不思議なことに、それから9年後の312年、皇帝コンスタンティヌスはキリスト教を国教と制定しました。

 その後、聖書はラテン語に翻訳され公式聖書となりました。やがてラテン語は知識階級しか読めない言語になり、庶民が聖書を読めるようにと努力する人が現れました。
 ジョン・ウィクリフは1382年にラテン語から英語に聖書を翻訳しました。この翻訳は当事のイギリスでは受け入れがたい事で、カトリック教会はこうした翻訳を異端扱いしました。

 啓蒙主義時代の哲学者ボルテールは、「100年たてば、人々は聖書について何も聞かなくなるだろう」と語り、聖書が非科学的で価値のない書物だと言い切りました。

 最近の50年間で最も読まれた本という統計がありますが、それによると、聖書はナンバーワンになっています。博物館に飾られたのは、むしろボルテールの本でした。
1、聖書                  39億部
2、毛沢東語録             8億2万部
3、ハリーポッター       4億部

 聖書は、滅びることがありませんでした。紀元1500年から書き始められた書物は、3500年の年月を越えても今なお、人々に愛され、読まれ、大きな影響を与え続けています。



2、成就した聖書の言葉

 聖書の特殊性は、単なる道徳の教科書や哲学書ではないということです。聖書が神の言葉であるという証拠の一つは、預言が実現することです。神が「なる」と約束されたなら、その通りになるのです。

 モーセが書いた申命記には、様々な預言があり、後の時代にそれが成就しています。その数があまりにも多いのですべてを紹介するなら1冊の本が書けるでしょう。

 「主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。」(申命記2837

申命記28章は、ユダヤ人が神を忘れ、神にそむくなら大きな災いが襲うという預言の箇所です。ユダヤ民族はこの言葉の通り、紀元70年に国を失い、流浪の民となり、大きな困難を後に経験しました。

 「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し地の果てから彼らを集める。その中に目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。」(エレミヤ31:8

 預言者エレミヤは、国を失ったユダヤ人が、必ず帰還すると預言しました。多くの人は、この預言の成就はあり得ないと考えていました。ですが。1948年にイスラエルが建国されると、世界中は驚きました。ユダヤ人移民が世界中からやって来て、建国から4年間で人口は65万人から130万人と2倍に増えました。また、ソ連の崩壊により、ロシアから100万人のユダヤ人が大挙してイスラエルに押し寄せました。「彼らを北の国から連れ出し」というエレミヤの預言の言葉に目を奪われます。

 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中では最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2

旧約聖書には、主イエスの誕生、生涯、十字架、復活などの預言が豊富にあります。上記のミカの言葉は、主イエスがベツレヘムで生まれるとの予告です。本来ガリラヤ地域のナザレに生活していたマリヤが、ローマ帝国の人口登録の法令によりベツレヘムに出かけた時に出産しました。聖書の預言は驚くばかりの正確さです。

 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

有名人もやがては死にます。人間の文明も滅びます。信頼していた人も裏切ります。確かなものはこの地上にないとさえ思えます。
たった一つ、変わらないものがあります。それは神の言葉、聖書です。私たちの神のことばは永遠に立つのです。

「イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)
永遠に変わらない神と神の言葉によって、私たちは「変わること」ができるのです。変わることのない愛で愛し続けて下さる主イエスを信じ、主イエスと共に歩みなら、私たちの内に変化が起こります。その変化を経験して下さい。

→あなたの番です
 □聖書は変わらない神の言葉
 □変わらない聖書を人生の土台とする
 □主イエスを受け入れ、変えていただく

第2テモテ3:16 霊感を受けた聖書

今回は、3つの神学用語を手がかりにして聖書について考えます。

1、啓示

モノを調べるときは、客観的に観察すれば理解できます。でも、人格を持った存在は、相手が黙ってしまえば何も分かりません。神は、ご自分の方から語り始めました。

神がご自身のことを人間に語ることを「啓示」といいます。啓示は英語で、Revelationです。
人間の知性は有限なので無限の神を理解することは不可能です。教えてもらわない限り、神を知ることはできません。
神が明らかにされた内容は、①神とはどんな方か、②神は何を願っておられるのか、③神が人にして下さったことは何か、ということです。
神が私たちに何としても伝えたいという強い意思が、啓示に込められています。

「わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(エゼキエル38:23)

啓示には二つの種類があり、自然啓示と特別啓示といいます。自然啓示とは、自然や宇宙が神の偉大さを語っているという意味です。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)

グランドキャニオンやヨセミテ公園に行った人は、「凄い」意外の言葉が見つからないほど深い感銘を受けます。

特別啓示とは、聖書のことです。神の偉大さは自然啓示で分かりますが、神が愛であること、聖であること、真実であることは聖書から分かります。また、イスラエルの歴史を通して神がどんな方か分かり、主イエスの十字架の意味も聖書から分かります。



2、霊感

神ご自身がを総合プロデュースし、監修し、世に出した書物が聖書です。そのプロセス全体を聖書を「霊感」と呼んでいます。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(第2テモテ3:16)

私はわずか5年ですが、新聞、出版の仕事に携わりました。そこで気づいたことは、世の中の書物が必ず編集者の手を通って世に出ているということでした。小説でも、論文でも、雑誌でも、編集者が何度も読み直しています。誤字、表現の正確さ、論旨のねじれ、不快語の使用など様々な面からチェックし訂正しています。本によっては、編集者があらかじめ書き手にテーマを提示したり、アイデアを提供することもあり、映画で言えば、プロデューサーの役割を担う場合もあります。

神が伝えたい内容を監修し、聖書の書き手が正確に書き残せるように、神がそのプロセスすべてを守られるというのは当然のことです。
「霊感」は英語では、Inspiration原語のギリシア語でθεόπνευστοςといいますが、 その単語は神と息で構成されており、神が人に息を吹きかけると人間に命が与えらたように(創世記2:7)、神が言葉に息を吹き入れたイメージが思い浮かびます。生きた言葉なのです。

聖書の書き手は、その時代に生きた弱さと長所を兼ね備えた人物たちです。稀有の指導者モーセ、純粋な信仰者でありながら罪に崩れ折れたダビデ王、異国で毅然と信仰を貫いたダニエル、主イエスを3度否んだペテロ、医者で知識人だったルカ、復活の主に出会った元パリサイ人のパウロなど個性豊かです。聖霊がこれら約40人の書き手を守り、導き、書き手の個性を最大限に生かしながら、神のメッセージを伝えたのです。
聖書は、約1600年間にわたり書き続けられました。このような本は歴史上に例がなく、世界のどこにも聖書と似ている書物はありません。時代も違い、場所も違い、著者が違うのに、中心テーマが統一されている奇跡と言える書物が聖書です。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(第2ペテロ1:21)

聖書が霊感を受けた特別な本だということを説明するには、聖書がどのように守られ、どのように伝えられてきたかを説明することが助けになるでしょう。
聖書のオリジナルが残っていないので内容が信頼できないと考える人います。それは、聖書がどのように伝えられてきたかを知らないから言えることなのです。
ユダヤ人は、聖書を大切に、また厳重な注意を持って書き伝えてきました。聖書を書き写す人はその道のプロにだけ許されていました。覚えている聖句も必ず見てから書くという規則がありました。書き終わったページは読み直し、アルファベットを数えます。創世記は、7万8064語あるので、最初から単語を数え正しく書けているかを確かめます。各書の真ん中のアルファベットを見つけ、その字に誤りがないかを確かめます。詩篇80:14にあるアインという字は、ヘブル語聖書では必ず少し浮き上がって書かれています。それは、詩篇全体の真ん中のアルファベットであることを示しています。もし、何らかの書き間違いが見つかったなら、必ず焼き捨てられます。

そのような手続きを経ていますから、1947年に発見された死海写本(BC2世紀~AD100年頃作成)の正確性に世界が驚嘆し、旧約聖書は正しく伝えられて来たと納得したのです。

新約聖書の正確性について次に触れましょう。古典と呼ばれる書物は、そのほとんどがオリジナルを失っています。今から約千年前に書かれた源氏物語もすべて写本でしか読むことができず、大きく分けると3つの系統があることが分かっています。清少納言(966年頃~1025年頃)は『枕草子』の中で、自分の物語がしばしば劣悪な形に改作される事を嘆いています。
ヨーロッパに目を向けると、シーザーの書いた『ガリア戦記』も原本が残っていませんが、私は岩波文庫で読むことができました。実は、その信頼できる写本は5つしかなく、オリジナルから約1000年たった写本が一番有力なのです。プラトンの書物に関しても同じことが言え書物によっては7つの写本しかなく、オリジナルからやはり1000年たったものです。
新約聖書は、紀元100年頃には書き終わっており、現存する『ジョン・ライランド写本』(AD125年)は、ヨハネの死後30年ごろのものです。新約聖書の写本の総数は5366もあります。

聖書は特別な書物だということは、その伝達方法からも言えるのです。


3、照明

「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」(使徒24:45)

この箇所は、復活された主イエスが、弟子たちの心を開き、聖書の意味がよく分かるようにされた場面の記述です。

一般人が読んでも分からないというのでは、神とのコミュニケーションが始まりません。私たちが聖書を読むとき、聖書の内容を正しく理解できるように神が助けて下さるのです。それを、神学用語で「照明」と言います。英語で、illuminationといいます。神は、人の心をひらき、神の言葉への興味を与え、聖書理解を助けて下さいます。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

神は、今も、私たちの心を開いて下さいます。だから、聖書は、神の助けを求めて祈ってから読みましょう。


4、伝えたい情熱をお持ちの神

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第2テモテ3:16)

聖書は、4つの実際的な効果を持っています。何が正しい事かを教え、してはならないことを明確に戒め、教えから逸脱した時には、本来あるべき場所に戻し、神の求める道を真っ直ぐに歩けるように鍛えてくれる書物です。

それで、聖書は、哲学の本よりも奥が深く、同時に、現実世界ですぐに役に立つ実用書でもあるのです。


神は、私たちにご自身を明らかにしたいという強い意思をお持ちです。それは、啓示、霊感、照明の3つの要素を考えるだけで分かります。神は自分から語られ、正確に伝わるように守り、理解できるように助ける方です。

以下は昔の教科書に載っていた「稲村の火」という文章の一部です。

「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。

これは、1854年(安政元年)12月23日、安政の東海地震(M8.4)が起きた時、現在の和歌山県広川町に住んでいた庄屋の濱口儀兵衛さんが自分の稲束に火を放ち、村人を津波から救おうとした実話です。何としても伝えたい時は、思いきった行動を取るものですね。

私たちの神の熱意に影響され、誰かに神の言葉を熱意を持って伝えられないでしょうか。
あなたが、文章を作る才能が与えられているならそれを用いましょう。ブログでも、フェイスブックでも、小説でも、文章にして神の言葉の素晴らしさを伝えましょう。聖書は神の言葉なので、そのまま聖句を紹介するだけでインパクトがあります。
絵が描ける人なら、あなたの絵に聖書の言葉を添えて誰かに渡しましょう。習字ができるなら色紙に聖句を書いて差し上げましょう。音楽ができるなら、神の言葉を歌にしましょう。料理が上手なら、誰かを呼んで食事して、さりげなく聖書を伝えましょう。


神は、何としても私たちに伝えたい事があるのです。それで、自然を通して語り、聖書を通して語り、正確に書き記せるように書き手を守り、私たちが読んで分かるように私たちの心を開いてくださる方なのです。聖書って思っていた以上に凄い本なのです。

→あなたの番です。
□神は私たちにぜひ伝えたいという熱意をお持ちです
□聖書を読むとき、まず祈って、理解の助けを求めよう
□聖書をあなたらしく伝える努力をしよう

詩篇119:105  聖書とは


これから4回シリーズで、聖書とは何かを考えていきます。第1回目の今日は、聖書とは何なのか、一言で言えば何なのか、というテーマを取り上げます。
今日は、詩篇119:105を取り上げます。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

1、神と言葉

まず、創世記の冒頭部分とヨハネの福音書1章の最初の部分を比べてみましょう。良く似ています。そこで言われていることは、神がおられる、神が言葉をお持ちだ、ということです。

初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ」すると光があった。 
(創世記113 新改訳第3版)

はしめにあったのは神さまの思いだった。思いが神さまの胸にあった。その思いごそが神さまそのもの。はしめのはしめに神さまの胸のうつにあったもの。神さまの思いがこごって、あらゆるものが生まれ、それなしに生まれたものはひとつももねーぁ。神さまの思いにゃあらゆるものを生がす力があってぇ、それはまた生ぎる喜び人の世に輝かす光だった。光は人の世の闇照らしてだったのに、闇に住む人はそのことに気がつかねえでだったんだ。
(ヨハネの福音書1:1~5 ケセン語訳聖書 山浦玄嗣訳)

宇宙も地球も光も闇も時間もないとき、神だけがおられたのです。神がどんな方かは、神が語られる言葉によって分かります。光よあれと言われるだけで光が現れる。神は言葉に力のある存在です。

その人が言った言葉は、その人柄を表すものです。だから、その人が死んだ後は、その人の言葉が思い出されます。つまり、言葉はその人なのです。
「名誉などいらない、欲しいのはマグマのように噴出するエネルギーだ」と岡本太郎は言いました。太陽の塔を作った情熱的な芸術家らしいなと思います。
「試合で失敗したシュートは9000本、ウイニングシュートでミスして試合に負けたことが26回ある」と言い切れる人は、バスケットの超有名選手マイケル・ジョーダンです。

神とはどんな方か、神の語られた言葉を聞くときそれが分かります。

神は人間だけを神のかたちに似せて造り、人間に語りかけようとされました。神が持っておられた自意識、自由、考えること、善悪の判断、愛、コミュニケーション能力が人間に与えられたので、人は言葉を持つようになりました。それで私たちは言葉で自分を洞察し、言葉を操って自分を表現するようになりました。
私たちの言葉は、神と心を通わすために与えられたと言ってもよいのです。



2、心の耳を澄ます

神の言葉をどのように聴いたらよいのでしょう。そのヒントは申命記6:4の祈りにあります。この言葉は、ユダヤ人が一日に5回唱える祈りであり、ユダヤ人にとって最も大切な言葉です。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)

祈りとしてささげられる申命記6:4の言葉ですが、リクエストのリストのようなお願いの祈りとはかなり違います。聞けという命令文です。
私たちは、神が語っておられることを聞くことが一番必要なのです。神の語りかけを聴くことが、私たちに一番必要なことです。

だから、人はパンだけで生きるのではないのです。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きるものなのです。


3、神の言葉が足元を照らす

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
(詩篇119:105)

ところで、旧約聖書のヘブル語でダバールという単語があります。ダバールには、本来2つの意味があります。言葉という意味と、出来事という意味です。ユダヤ人は、当たり前のようにこの2つのことを一つの言葉で言い表しました。
神は、言葉としてのダバールで私たちに直接に語られます。また、私たちが経験する出来事によっても神は私たちに語りかけておられます。

詩篇119:105においても、「みことば」という単語がダバールです。ダバールが私たちの足もとを照らす光になると語っています。この箇所の光は、移動する光です。つまり、神との交わりが続く中で、神が光を照らし続けてくださるのです。これは神と共に歩む人生を示しています。

105節の前提は、私たちが暗闇にいるということです。あなたも今、暗闇にいますか。暗闇とは、先が見えない不安と孤独を意味します。

 1900年、34歳の日本人男性が文部省の勧めでイギリスに留学しました。東京帝大を卒業し英語を教えていた男性でしたが、ケンブリッジ大学から入学を拒否され、一人のイギリス人から個人教授を受ける以外は、大学にも、図書館にも行かず、何度も住まいを変え、最後には「猛烈な神経衰弱」と家主に言われ、1903年に日本に戻ります。現代的な視点でいえば、彼はカルチャーショックを受け、うつ状態になったということができるでしょう。彼の名は、夏目漱石です。

現代も漱石のようなカルチャーショックで暗闇に沈みこむ留学生や移住者が多くいます。語られた言葉が理解できない、自分の考えや感情を表現できない、孤独だ、悩みを誰にも分かってもらえない。そんな状態は、闇です。それと似たような困難な境遇にいる人もいるでしょう。

神は、あなたを立ち上がらせてくれる言葉を今も語っています。心の耳を傾けるなら、あなたへの愛のメッセージに気づくはずです。朝、神はあなたにもりもりとやる気を起こさせてくれます。神の言葉によって。

聖書とは何でしょう。それは、神がずっと私に語りかけているという証拠なのです。

聖書。神が生きておられる。神が語っておられる。聖書は、そのことをはっきりと示してくれるものです。あなたも、神の語りかけを聞き、元気になって下さい。


→あなたの番です。
□神はずっとあなたに語っています
□神の言葉と出来事を聴きとりましょう
□神のことば、光で足もとを照らしてもらいましょう

マルコ14:66~72 鶏が二度鳴く前に

   痛恨の失敗。それは、体も心も世間体も人生もバラバラにするほど辛いですが、最も大切な事柄を学べる宝のような体験にもなり得ます。
 今日は、ペテロが主イエスを3度否んだ場面を見ていきましょう。

1、一度目

ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。(66~68節)

女中はペテロをまじまじと見つめました。ペテロには、女中の鋭い視線が痛かったでしょう。女中は、「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」(67節)と言いました。それを聞いてペテロは、とぼけました。「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」(68節)

 「あのナザレ人」という言い方には、嘲笑、侮蔑の気持ちが込められています。現代風に言えば、まさか、あんたはクリスチャンじゃないよね。奇跡や復活なんて現代社会で信じているやつは、よっぽどの間抜けだな。そう誰かに言われて、自分がクリスチャンだと言えないなら、ペテロを笑えません。
 
 笑いものになるのが怖いので、自分の信仰をうやむやにする。それが、主イエスを否定するきっかけになります。

 クリスチャンで宮内庁の高官という方がおられました。皇室との関わり、神道の伝統、その中でクリスチャンとして歩むことはさぞ困難でしょうと問われると、彼はこう答えました。「そうです。中途半端なキリスト教では守っていくのは難しいです。でも、本当に熱心なキリスト教信仰ならば、貫くことは難しくはありません。」

キリスト者であるという旗印を鮮明に掲げましょう。


2、二度目

すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。(69~70節)

女中は近くの人に言わずにおられません。「この人はあの仲間です。」(69節)ペテロは再び打ち消しました。

 女中一人ならなんとかやり過ごせました。でも、複数の男たちが女の話を聞き始めたのでペテロは恐ろしくなりました。火に当たっていた人々は、主イエスをさげすむ人々だったので、ペテロは窮地に追いやられました。

私たちが主イエスを否定するようになる第二のきっかけは、自分が少数派になった時です。

 →「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)



3、三回目

しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。(70~71節)

女の話を聞いた複数の男たちが、ペテロの存在に気づきました。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」(71節)あなたはあの男といっしょにいた。間違いない。ガリラヤなまりの言葉が動かぬ証拠だ。

ヨハネの記述によると、ペテロに耳をそぎ落とされた人の親戚がそこにいたようです。(ヨハネ18:26)この場を収拾するには非常に強く否定するしかありません。リビングバイブルは71節をこう訳しています。「そんな男のことなんか、知るもんか。これがうそなら、どんなばちが当たってもかまわないぞ」のろいをかけるとは、そういうことです。

主イエスを否定する第三のきっかけは、自己保身です。



4、鶏の声

するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(72節)

ペテロは数時間前に何と言っていたか思い出しましょう。

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)
ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)

ペテロはみごとに失敗しました。

大好きで、尊敬してやまない、どこまでもついて行きたい主イエスを、3度も否定したのです。あれだけ見栄を切ったのに、自分のふがいなさに激しく泣いたことでしょう。

ところで、4つの福音書の成り立ちは、マルコの福音書が最初に書かれ、それを参考にマタイやルカが独自の視点でまとめ、かなり時間がたった後それまでの福音書に取り上げられてない部分をヨハネが補ったと考えられます。4つの福音書全部が記録している部分は案外少なく、バプテスマのヨハネ、5000人の給食、ゲッセマネの祈りやピラトの裁判、主イエスの十字架などが共通する部分です。
それ以外では、ペテロのつまづきの予告とペテロが3度イエスを否むという箇所が福音書4つに共通している箇所なのです。主イエスの福音を記録するとき、ペテロの失敗はどうしても詳細に書かなければならない重大事項なのです。それは、ペテロの失敗が、ペテロ一人の失敗ではなく、弟子の誰にとっても身に覚えるのあることで、また、聖書を読む人すべてに当てはまる弱さだからです。
主イエスは、そんな弱さのあるペテロを見捨てず、赦し、愛し、励まし、再び立ち上がらせました。これこそ、福音が人を生かす実例なのです。主イエスが私たちに伝えたい大切なメッセージなのです。
あなたは弱い。そんなこと最初から分かっている。あなたを強くするのはわたしだ。名前の通りの「ペテロ=巌」にするのはわたしだ、と主イエスは言っておられるのです。

ある中学1年の男子は、夏に主イエスを自分の救い主として信じました。お母さんが筋金入りの気合の入った信仰者だったので、年末になると。「あんた、クリスチャンになったんやったら元旦礼拝やろ。お父さんと勝負してきいや」と言いました。それまでは、父親が長男を連れて初詣にお寺や神社に行くのが、その家のならわしでした。
「僕は、夏の教会のキャンプで、クリスチャンになる決心をしました。だから、悪いけど、明日はお寺でなくて、教会の礼拝に行きたいです。」「お前は俺が育てているんだ。成人したら何を選んでもええ。けど、今は俺の言うことを聞け」少年の目からぽろぽろ涙が出ました。主よ、何と言ったらいいのですかと祈りながら精一杯言いました。「僕は生まれて初めて自分で決めました。間違った信仰なら引きづり戻しても構わないけど、今僕が信じたこと、自分が決めたことを信頼してくれへんか」
お父さんは、しばらく黙りました。そして、「行ってええぞ」と言ってくれました。後で聞いたことによると、「あいつが本気で俺に勝負してきた。それが嬉しかった」とお父さんがお母さんに言ったそうです。

あなたも、本気で勝負しませんか。

→あなたの番です。
□笑われても、主のしもべとして生きていこう
□少数派になっても、主を愛していこう
□自分にマイナスになろうとも、誠実に生きよう
□主イエスは、弱い私を必ず立ち上がらせてくださる

「わたしは、あなたの信仰がなくらならいように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)