ヨシュア記3:1~17 ヨルダン川を渡る

イスラエルの民は、シティムからヨルダン川の川岸まで来ていた。

もう少し南に下ると広大な死海が横たわり、向こう岸に渡るのを阻んでいた。北に行くなら、「見よ。獅子がヨルダンの密林から…上って来るように」(エレミヤ49:19)とあるように、蛇行する川に沿ってジャングルが広がっていた。
ヨシュアたちのいた場所が川を渡るには最適だった。だが、15節から分かるようにヘルモン山の雪解け水と冬季の雨のせいで、ヨルダン川の水量が最も多い季節だった。大勢のイスラエル人が小さな渡し舟で何往復もしていたら、敵から致命的なダメージを受けたことだろう。さあ、どうしたらいいのか。
 あなたの前にも、水かさが増し濁流となったヨルダン川が横たわっているかもしれない。

1、通ったことのない道

あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。(ヨシュア3:4)

私たちの人生も、実は、「今までこの道を通ったことがない」という道なのです。人生は繰り返しに見えて、一度として同じ道はありません。初めて通る道なのです。ですから、熟練した道先案内人が必要なのです。

 祭司がかつぐ神の箱の後に続いて歩く。それが、「行くべき道を知る」ための鍵でした。通常の旅では、神の箱はイスラエルの民の真ん中に位置して(民数記2:17)民は移動しました。神が道を示す必要があるとき、先頭を進みました。(民数10:33)
今、祭司たちから、約800m離れて歩かなければならないのは、神の箱がどこを通るのかを知るためであり、神が何をされるのかをはっきりと見るためでした。

あなたの番です。
あなたの前を進む神の箱は、どこにありますか。どこを指差していますか。



2、身をきよめる

ヨシュアは、3日間かけて戦いの準備をするように命じていた。1章11節では食料の準備を命じ、2章では偵察を送って敵地を偵察し、3章では、さらにこう命じました。

ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」(ヨシュア3:5)

私達の人生の戦いでは、「身をきよめる」ということはとても大切な要素です。なぜなら、力の強さだけで勝利するなら必ず傲慢になるからです。それでは、勝利がかえってあだとなります。
身をきよめるとは、祭司のふりかけるきよめの水を受けるとか、きものを洗うなどの実際の行為を意味しますが、内面的に言えば自分の心を見つめ、自分中に罪がないか、悪い動機がないか、謙虚な心があるかを調べることです。

これは、心の定期健康診断です。
今、私たちにも、身をきよめましょう。「ごめんね」と言えてますか。穏やかですか。ゆとりがありますか。人を思いやることができますか。前向きですか。
自分の問題的が見えますか。自分が最も力を入れる分野が分かっていますか。神さまから心が離れていませんか。変えたいと思っている事がありますか。本当に祈るべきことを祈れていますか。あなたは温かい雰囲気を発生している人ですか。

ヨシュアが命じたように、「あなたがたの身をきよめなさい」という言葉は、私にも、あなたにも語られています。

身をきよめ、備えができたとき、神は不思議を行われます。



3、ヨルダン川を渡る

民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。(ヨシュア記3:14~17)

 いつ、ヨルダン川に変化が見られましたか。
 川に近づいた時ですか。いいえ、祭司たちが足を水に入れた時です。

ヨルダン川に近づいただけでは何も起こりません。実際に足を水に入れた時に、奇跡が起こりました。祭司たちのいた場所から上流20キロも離れたアダムという町の付近で水は止まったのです。やがて水は乾き、祭司たちはイスラエルの人々が渡り切るまで、川の真ん中で立ち続けました。

あなたにとって、ヨルダン川とは何ですか。今週は、神を信じて、水に足をつける時です。

私が大学生の頃、所属していた教会の出席者が増え、二階増築が話し合われました。でも、東電の高圧電線が教会の空き地上空を通っていて建築許可は下りない場所でした。牧師先生は、祈って、祈って、思い切って東電の事務所に出かけ、その旨を伝えました。すると、「わかりました。実は、高圧電線の位置を高くする工事の計画がありました。工事終了次第、建築をしてもらっても構いません。それから、保証費として100万円を差し上げます。」今から30年以上も前の100万円は価値がありました。足を水につけたら、素晴らしいことが起きました。


あなたが水際に足を踏み出すとき、神が動かれる。
「箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき」(15節)

→あなたの番です。
□あなたの前を進む神の箱は、どこに向かっていますか
□心の定期健診をしましょう
□水際に足を踏み出しましょう

 

ヨシュア記2:1~24 赤い目印

人生は戦いだ。生きていれば、戦いの場に引きずり込まれることが時にある。ヨシュアの戦い方から今日も学んでいきたい。キーワードは、斥候、行動、赤いひもの3つだ。


1、二人の斥候(1~7節)

ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家にはいり、そこに泊まった。(ヨシュア2:1)

ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダン川を挟んでエリコの対岸に当たるシティムにおり、戦闘の準備に取り掛かっていた。エリコはパレスチナ最古の町で、紀元前7~8千年頃から存在するオアシスの町。ヨルダン川から見ると、山を上る中腹に位置した城壁に囲まれた町で、約束の地を占領するための最大の難関とみなされていた。

ヨシュアは二人の斥候をひそかに派遣した。敵地を知らずに戦うことは、勇気ではなく無謀な自殺行為だ。斥候たちは、エリコの人々に気づかれないように、遊女の家に入り込んだ。
だが、エリコの人々はイスラエルの動向に目を光らせており、怪しい人物が町に入ったことを察知した。(2~3節)
遊女ラハブは、調べに来た人物に、二人が来たことを認めたが、帰って行ったと伝えた。(4~5節)事実はそれに反して、「彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。」(6節)

 「行って、あの地を偵察しなさい」と神はあなたに言われています。
あなたの人生でも、斥候を送り出す必要がありませんか。目の前に立ちはだかる問題が大きすぎて、正面から向かって行けないときがあります。まず、斥候を送りましょう。入念に調べたほうが良いことがあるはずです。それは、本当に必要ですか。あなたのしようとすることは、いくらかかりますか。それは、神が喜んでくださることですか。

2、ラハブの信仰

 ヘブル人への手紙は、遊女ラハブを信仰の偉人のリストに加え、称賛している。ラハブが斥候の二人をかくまい逃がしたことがラハブの信仰の行いだと理解している。

信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。(ヘブル11:31)

どこにラハブの信仰があるのでしょう。それは、第一に、ラハブがカナン人の偶像を神と呼ばず、イスラエルの神をヤハウェを呼んでいることから彼女の信仰姿勢が分かります。

主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。(9節)

私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。(11節)

新改訳聖書で「主」が太字になる場合は、原文ではヤハウェ指します。ラハブは、ヤハウェが神だと告白しました。神が全世界の究極的な支配者であるので、パレスチナの土地がイスラエルに与えていることを認めました。

ラハブが、まことの神、主を信じるようになった詳しいいきさつは分かりませんが、危険を冒してまで斥候をかくまい、自分の信仰を行動で表しました。
後にラハブは救出され(6:25)、イスラエルの仲間と認められ、主イエスの系図にも名を記されました。「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ」(マタイ1:5)

聖書知識を持っていることだけでは、あなたの人生は変わりません。信仰に裏付けられた行動があなたを変えます。「その人に行いがないなら、何の役にたちましょう」(ヤコブ2:14)
さて、あなたは、今週、どんな行動を取り、あなたの信仰を表しますか。もしかしたら、あなたのところに逃げ込んで来る人を助けることかもしれませんね。
3、赤い目印

 ラハブは、イスラエルが攻撃するときに自分と家族を助けて欲しいと願い出ました。(12~13節)二人の斥候は、かくまってもらった恩に報いて、救出を約束します。(14節)
 ラハブは、二人を城壁づたいに逃げられるように綱を用意し、ヨルダン川に戻らず反対方向の山に隠れ、3日後に川を渡るように助言しました。二人はそれに従い、無事に陣地に戻りました。(22節)

 二人の斥候は、ラハブの家の目印として「赤いひも」を手渡しました。この目印を窓に結んでおけば、イスラエルの兵士は危害を与えないと約束しました。

私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。(18節)

救い。赤。3日。この3つの言葉で、何かを連想しませんか。主イエスは私たちの罪を赦すために十字架で死に、赤い血を流し、3日後によみがえって下さいました。不思議な一致があります。この箇所もまた、十字架の予告の一つとみることができるでしょう。

滅ぼされてしまうはずの者が、赤い目印一つで救われる。福音とは、そういうものです。あなたが、まだクリスチャンでないなら、あなたの心の窓に赤いひもを結んで、外から見えるようにして、主イエスを信じます、私を滅びから救って下さいとはっきり祈り、告白して下さい。

あなたが赤いひもをしっかり心に結ぶなら、イエスさまはかたときもあなたを離れません。あなたを救うのは、主イエスが流してくださった赤い血です。

ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。(21節)

→あなたの番です
     あなたの人生にも偵察が必要です。よく調べ、祈りましょう。
     知識でなく、行動が、あなたを変えます。アクションしましょう。
     赤い目印を心に結びましょう。主イエスはあなたから離れません。

ヨシュア記1:1~9 雄々しくあれ

リーダーが交代するとき、そのグループは危機を迎えます。今度のリーダーは良い人か。きちんと役割を果たせるだろうか。人々は、不安を感じ、昔のリーダーを懐かしがります。

指導者の交代という危機を乗り越えるための秘訣が7つあります。
①新リーダーを任命、②使命を確認、③「与えようとしている」と「与えている」を理解する、④神の約束を受け入れる、⑤雄々しくあること、⑥みことばを口ずさむ、⑦フォロアーシップ


1、新リーダーを任命する

 さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。(ヨシュア記1:1)

適切な人物を新リーダーに任命する。これはとても大事です。後継者を決めずにそのまま放置することはグループの崩壊を意味します。
 今日の箇所では、神がモーセの後継者としてヨシュアを選んだことが分かります。ヨシュアは、「モーセの従者」で長年モーセから信仰を学んできた人でした。

 リーダーの息子だからとか、長くいるから、歳が上だから、社会的に地位があるから、声が大きいからなどの理由で、リーダーを選ぶ場合が多いですが、しばしばそれは問題を招きます。
 神が選ばれたリーダー、それが、リーダーの資質で最も大事な要素でしょう。神が選んだリーダーが誰なのか、見極めるのは人間的には難しいことです。現代に適応するなら、毎週礼拝を欠かさない人が教会のリーダーになるための必要条件だといえるでしょう。礼拝を優先順位のトップに置く人は、神を愛している人、神の栄光をあらわしたい人、神から学びたい人だからです。いわば、神の「従者」としての姿勢を保っているからです。


2、使命を確認する

 わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。(2節)

新しいリーダーは、いよいよ自分の番だ、自分のカラーを出すぞ、と意気込みます。でも、聖書に描かれるリーダーは自分のやりたいことを好き勝手にやるわけではありません。神が与えて下さった使命をしっかりと受け継ぐ人が真のリーダーです。
 約束の地に入り、そこを占領すること。それが、ヨシュアに与えられた使命です。

ここで大きな質問をします。あなたにとっての約束の地とは何ですか。言い直します。あなたは、どんな使命を神から与えられていましたか。

 もう少し、このテーマを因数分解してみましょう。以下の3つの分野での使命とは何ですか。
1)家庭で、2)社会で、3)教会で。

あなたが勝ち取るべき地は、何ですか。


3、「与えようとしている」と「与えている」の違いの認識

わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(2~3節)

 「与えようとしている」(2節)と「与えている」(3節)という二つの言葉の意味するものを、リーダーはしっかりと把握する必要があります。
神は、イスラエルの民にこの地をすでに「与えている」のです。神の側ではすでに完了しています。小包は発送されました。
 けれども、イスラエルの民は今ヨルダン川の東側におり、約束の地には入っていません。ヨシュアとイスラエルの民が実際に歩いて入り、勝ち取った土地、「足の裏で踏む所」だけが自分たちのものになります。
 
私たちの人生にも、「与えようとしている」と「与えている」があります。勝利や祝福を自分のものにするには、足で踏む必要があります。足は汚れたり、傷ついたりするでしょう。でも忘れないで下さい。すでに与えられているのです。神の側では完了しています。勝利は間違いないのです。神が約束された広大な領土(4節)は、ダビデとソロモンの時代に実現しました。


4、神の約束を受け入れる

あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(5節)

ヨシュアには、神からの約束が与えられました。「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。」
 神が共にいるという意味は、失敗や落胆がないという意味ではありません。この後の記録を見るとヨシュアは何度も失敗し、心が萎える経験をします。神が共におられたので、失敗から立ち上がり、困難を乗り越えることができたのです。

 アフリカの奥地を一人で旅することになれば心配でいっぱいになりますが、そこで30年活動してきた宣教師が一緒に行ってくれるなら安心ですね。神は、ベテランの道先案内人です。


5、雄々しくあること

強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。(ヨシュア1:5~7)

ヨシュアが臆病だったので、雄々しくあれと言われたのでしょうか。いいえ違います。イスラエルの宿敵アマレクとの戦いで先頭に立ったのは若き日のヨシュアでした。(出エジプト17:9~10)また、カナンの地を偵察に行った12人の一人で、多くの者が悲観的な事を述べて人々の士気をくじきましたが、ヨシュアはカレブと共に信仰に立って積極的な意見を述べました。(民数記14:6~9)

 ヨシュアが若かったから恐れがあったのですか。いいえ。斥候に使わされた時が20歳前後なら、40年の荒野の旅を計算すれば、経験を積んだ60歳の壮年です。

偉大な指導者の後のリーダーはプレッシャーが強いものです。イスラエルの大勢の人々の命運を自分が背負うと思えば、責任感で恐れが来ることは当たり前でしょう。
神からの助けなしには、リーダーの責任は果たせないと謙虚に思える人が神に用いられるリーダーです。神の励ましで奮い立つ人こそ、真のリーダーです。

 ヨシュアはモーセから「雄々しくあれ」と言われました。(申命記31:7~8)また、神ご自身も「雄々しくあれ」と直接ヨシュアに語られました。(申命記31:23)そして、ヨシュア記に入っても、同じ言葉で励まされました。リーダーに必要なのは、神からいただく勇気です。


6、みことば 

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(8節)

みことばを口ずさむこと。思い巡らすこと。それが、リーダーとしての役割を果たすために不可欠な生活習慣です。
ですから、毎日聖書を読んでいる人がリーダーになっていくのは、自然な流れです。

 私は大学時代、教会の高校生会のリーダーになりました。「どうだい、先週、毎日聖書は読めたかな」と高校生に質問しながら、ディボーションができるよう指導していました。実は、そのおかげで、毎日聖書を読む習慣が身に付いたのだと思っています。40年間、毎朝聖書を読む習慣は最も価値ある生活習慣でした。


7、フォロアーシップ

 ヨルダン川東岸部、南から北に向かって、イスラエルの12部族のうち、ルベン、ガド、マナセの半部族がすでに領地を得ていました。ですが、彼ら2部族半は他の部族の先頭に立って戦いを続けると約束し、(14節)新リーダー、ヨシュアへの忠誠を新たに表明しました。

 あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。(16~17節)

何でもします。どこへでも行きます。なんとすがすがしい言葉でしょうか。

 指導者交代の際に、新しいリーダーに不安を感じ、昔のリーダーを懐かしがり、場合によっては反抗することがしばしばあります。ルベン、ガド、マナセの半部族は、神が立てたリーダーであることを根拠に、文句なしに従うという忠誠心を示しました。リーダーシップは、フォロアーシップがあって初めて機能します。新リーダーを生かすも殺すも従う人々の態度次第です。
私は25歳で副牧師になりました。40代、50代、60歳代の先輩たちが、若造のメッセージを熱心に聞き、私の未熟なリーダーシップに従ってくれました。

あなたは誰に対してフォロアーシップを示しますか。美しいフォロアーシップを示してください。


→あなたの番です。
     あなたにとって、約束の地とは何ですか。
     リーダーとして立つために、あなたは何が必要ですか。
     合言葉は、「雄々しくあれ」。神はあなたと共にいます。
     何をすることが、あなたのフォロアーシップですか。

 
 





 

 

 

 

新しく生まれる ヨハネ3:1~8

ある中年の男性のところに妖精が現れ、何でも願いを聞いてあげようと言ったそうです。(これはもちろんジョークです)20歳若い妻がほしいと願いました。妖精は、分かった、目を閉じて10数えなさいと命じました。数え終わって目を開けて、家の中で妻を捜しましたが、何も変わっていないのでがっかりです。妻は夫の顔を見て言いました。「どうしたの、急に老け込んで」男が鏡を見ると、20歳年老いた自分がいました。願いはかなっていたのです。

 今日のテーマは、新しく生まれるという事です。

1、歳をとってもやり直せるのか

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」(ヨハネ3:1~2)

 ニコデモは当時の有力者でした。「パリサイ人」であり「ユダヤ人の指導者」(1節)であり、「イスラエルの教師」(10節)と言われています。現代のアメリカに置き換えれば、ベテランの上院議員で、有名大学教授といえるでしょう。
 ニコデモが、夜、そっと、お忍びでやって来たのは、宗教指導者パリサイ派の同僚に自分の行動を知られたくなかったからです。パリサイ派の人々は主イエスを嫌悪していましたが、ニコデモは、主イエスが神から遣わされた人だと信じていました。
 名誉も、財産も、地位も、権力もあるのに、ニコデモは満ち足りていませんでした。

 ニコデモは目的を持って主イエスに会いにきましたが、挨拶に終始して本題に入れません。主イエスは、ニコデモの求めを見抜き、ズバッと言い当てました。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

ニコデモが求めていたのは、新しく生まれる、ということです。ニコデモは涙ぐましいほど本気だったので、次のように生真面目に質問しました。

ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)

 この質問から、ニコデモが3つの事を考えていたことが分かります。
     かなりの高齢になった自分でも、人生をやり直したい。
     母の胎に戻ってでも、やり直したいという熱意を持っている。
     新しく生まれることはとても難しい事で、今では絶望的な気持ちで過ごしている。
 あなたはニコデモに似ていますか。あなたは新しく生まれたいと思いますか。


2、風が吹くと、木の葉が揺れる

 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:5~8)

 新しく生まれる力は、自分の内側にはなく、自分の外からやってくると主イエスは言われました。これが大事なポイントです。3節の「新しく生まれる」の直訳は、上から生まれるとなっています。上から、つまり神によって変わるのです。

 もし、自分の努力や頑張りで自分が変わるのなら、とうの昔に変われたでしょう。でも、無理なのです。そのことを、主イエスは、肉によって生まれた者は肉でしかないという表現で説明されました。新しく生まれたいなら、肉を捨てることです。つまり、努力、強い意思、真面目さ、忍耐、という自分の力による頑張りを捨てて、神に任せるという受け身の姿勢が必要です。

人を新しく生まれ変わらす力は、まるで風が吹くようなものだと主イエスは言われました。あなたは一枚の葉っぱなのです。木の葉は自分で自分を揺らすことはできません。あなたという木の葉をさやさやと動かしてくれるのは、外から吹く風なのです。

 このことを主イエスは、別な表現でも説明されました。人は水と御霊によって生まれるのです。水とは、洗礼の水、バプテスマの水です。バプテスマとは、何を意味するでしょう。イエスさまを私の救い主と信じますという公の信仰告白です。ですから、人が新しく生まれるために必要なものは、信じることなのです。信じる人の心に神の風が吹き始めるのです。
 
 自分のありのままの姿を神の前で見つめましょう。みっともない姿かもしれません。汚れていて、ねたみやすく、欲望の塊かもしれません。何でも人のせいにして、すなおでなくて、外側ばかり飾る空っぽ人間かもしれません。自分の姿を神と共に見つめてください。

 あなたを会社に例えるなら、100兆円の負債を負って倒産した会社なのです。車で言えば、バッテリーが死んだ車です。キーをまわしたり、ボンネットを開けてあちこちいじっても無駄なのです。友達が呼んだAAAが後ろに来ているので任せればいい、頼めばいいのです。
 あなたの人生のAAAは、イエス・キリストです。

生物学的な父親以外に、義理の父が5人いた男子高校生がいました。つまり、お母さんが5回離婚したのです。大人は信じられない。人生は単なるゲームだ。真面目に生きるのは意味がないと考え、麻薬漬けの毎日を送っていました。そんな時、高校の学食で誰かが熱心にイエス・キリストの話をしている姿に出会いました。話をしている人も麻薬におぼれた過去があると分かりました。一番後ろで話を聞いていましたが、最後に前に進み出て、イエスさまを信じる祈りをしました。
その翌日、マリファナをやろうと取り出しましたが、止めようという気持ちが自分の内側から起きるたことに驚きました。聖書を学び、自分が変えられていくことが分かりました。この高校生とは、リバーサイドの大きな教会で牧師をしているグレッグ・ローリー先生のことです。


 あなたの番です。
□自分は倒産した会社だと気づきましょう
□主イエスに任せて、新しく生まれ変わらせて頂きましょう
□すでに信じている人は、もっと御霊の風に身を任せましょう
 
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

ルカ15:11~24 神は捨てない

今日から、聖書のエッセンス、「福音とは何か」というシリーズを始めます。取り上げる箇所は、ルカの福音書から「放蕩息子のたとえ」です。ポイントは3つあります。1、人間の本質は何か。2、どうしたら神に立ち返れるか。3、神とはどんな方か。

1、人は自己中心で欲望追及の毎日を送っている

弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。(ルカ15:12~13)

弟息子は、財産の生前贈与を父に求め、聞き入れられました、手にしたことのない大金を持ち、意気揚々と都会に出かけました。そこで、放蕩三昧の暮らしをしました。酒を浴びるほど飲み、宴会騒ぎをし、不道徳な行為をすることを指します。30節で兄が言及していますが、性的にみだらな行為にのめり込んだようです。
主イエスが取り上げた最初のポイントは、人間が自己中心で、欲望追及を目指す存在だということです。

人は自己中心です。それは写真の見方ですぐに明らかになります。5~6人で写真を撮ってもらいます。どの写真がいい写真かみんなで話すと、「これが良い写真」だとすぐに分かります。それは、自分が良く撮れている写真のことです。集合写真を見るとき、必ず最初に自分の顔を捜します。人間は、自己中心な生きものなのです。

また、人間は、欲望を追い求める存在です。外国に一人で出張し、仕事が終わって現地で4日間の休暇がもらえたとします。カジノで20ドルだけ使いましたが、驚くことに100万ドルもうけました。あなたは一人、休暇もあるし、金もある。あなたなら、どうしますか。何を考えますか。放蕩息子のたとえが、がぜん現実味を帯びてきます。

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。(ルカ15:14~16)

 現代風に言えば、世界恐慌の到来です。就職口がない。食料が極端に少なくなり、高騰して流通しない。弟息子は知人を訪ねますが、劣悪な労働環境で、食べ物はもらえず、寝る場所だけを手にいれましたが、空腹で死にそうでした。



2、どのようにして神に立ち返ればいいのか

 私達人間は、欲望追及の人生を夢見ていますが、ある日、我に返ります。我に返る条件は、第一に、みじめな失敗をすること。第二に、金がなくなること。第三に、孤独になり、心の理解者が誰もいなくなることです。

 我に返って、神のもとに戻りたいと人は願います。でも、どうしたらいいのか分かりません。放蕩息子の祈りは、神に帰る方法を教えてくれます。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』(ルカ15:17~19)

弟息子は、二つの悔い改めをしています。天に対しての悔い改め、もう一つは、父親に対する悔い改めです。真実味があって、謙虚な言い方をしています。私たちも、同じ祈りをすれば神に立ち返ることができるのです。

弟息子は、自分の放蕩生活で、父親の顔に泥を塗ったことに気づきました。父親が汗水たらして蓄えた財産をあっという間に失った親不孝者だと悟りました。こんな人間は、息子の資格を失ったと本気で考えたのです。



3、まことの神は、走り寄る神

 弟息子は、実家に戻りました。ぼろぼろの心とぼろぼろの着物で帰りました。息子として迎えてもらうためではなく、きちんと謝罪することと、雇い人にしてもらう事だけを念頭において帰りました。

父親は毎日のように遠くに目を凝らし、息子の姿を捜していたようです。失敗するが、帰って来ると信じていたようです。父親が走り寄り、息子の首を抱き、何度も口づけしました。

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。(ルカ15:20~24)

走り寄り、抱きしめる父親。この父親の姿は、どの時代でも、どこの国でも、あり得ない姿です。こんな父親は地上にはいません。主イエスは何を言いたいのでしょう。これが、神なのだと語っておられるのです。

 日本からアメリカの大学に留学するにはかなりお金がかかります。私立大学で生活費も高ければ、年間300万円はかかるかもしれません。ESLのクラスに入り英語の勉強をするので、日本人留学生は卒業するまで5年くらいかかりますから、総額1500万円になります。
たとえば、卒業前に麻薬に手を出し、逮捕され、国外追放になって日本 に戻ったとします。父親は何と言うでしょう。卒業できずに退学になり、1500万円は無駄になったと話せば、父親は、どんな反応を示すでしょう。あなたを 殴るか、放心状態で天井を見上げるか、肩を落としてため息をつくかでしょう。
こういうたとえで話せば、放蕩息子の父親がいかに普通でないかが分かるでしょう。

息子がごめんなさいと言ったから、父親は抱きしめたのですか。いいえ。息子が何かを言う前にすでに抱きしめていました。神は、無条件で、両手を広げ、あなたの帰りを待っています。

息子は準備していた言葉(18節)を最後まで言えましたか。いいえ。言えません。

父親は、息子が言おうとしている言葉が分かったようで、あえて言葉を遮りました。最高の洋服と指輪と靴の用意と、パーティーのしたくを使用人に命じています。お前は、靴をはけない奴隷ではない。息子の印である指輪をもう一度与えよう。お前は、私の子供だ。誰が何と言おうと、私の子だ。

主イエスを信じた人を「神の子」と聖書は呼びますが、その言葉の意味を深く考えさせてくれる放蕩息子のたとえです。

私も、放蕩息子のたとえのような歓迎と食事を受けたことがあります。今も、その時のことを思い出すと涙が出ます。さあ食べなさい、着なさい、使いなさい、とたくさんの人が私を応援してくれた日々を私は決して忘れません。

あなたがどんな人生を送ったとしても、帰るところがあります。私は、強い確信をもってそう言えます。神はあなたを待っておられます。さあ、帰りましょう。放蕩息子のように祈りましょう。

→あなたの番です。
□自己中心、欲望追求の人生を止めましょう。
□二つの悔い改めをして、神に戻りましょう。
□無条件に赦し受け入れる神を知ったなら、あなたも誰かを両手を広げて受け入れましょう。



ローマ15:4 希望の書

  霊感された神の言葉、聖書は、私たちの人生に3つのものを与えてくれます。第一に忍耐、第二に励まし、第三に希望です。あなたが、今日必要なものは何ですか。

1、忍耐

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

大きなリュックに重い本などを詰めて、学校のグラウンドを来る日も来る日も何週も歩く男性がいました。ヨセミテの奥深くに単独で入る訓練でした。鍛えれば筋肉は強くなり、苦しめば精神力が鍛錬され、高山の厳しい環境に耐えることができるのです。

忍耐は苦しみに耐える力です。苦しみに意味が見出せれば、私たちは苦しみに耐えられます。

過保護のママに育てられ、忍耐の訓練を受けなかった子供が大人になると、どうなるでしょう。長続きしない。すぐに文句を言う。人のせいにして、責任を取らない。楽しみを先延ばしすることができない。
忍耐は、実際に苦しむことを通して初めて身に付くものです。

けれども、この聖書箇所では、聖書を読むだけで忍耐が身に付くと書いてあります。それは、聖書の登場人物の経験に自分を重ね、神の介入の約束を信じることで忍耐する力が神から与えられるからです。

アブラハムも子供が与えられるまで長く忍耐しました。モーセは荒野で羊飼いを40年間しました。ヨセフは奴隷として売られ、エジプトの牢屋に入れられました。ヨブの忍耐は驚嘆すべきものです。こうした人々の苦労を読むと、今日の私たちが励まされます。忍耐すれば祝福が来る。我慢が豊かな品性を築くと信じられるのです。

「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:4)


2、励まし

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

多くの人が映画館に出かけるのは、なぜでしょう。励ましてもたいたいからお金を払っても行くのです。大画面と大音響と魅力的な人物たちによって、諦めるな、You can do it!と言ってもらいたいのです。君は愛される価値がある。やり直せる。そう言ってもらいたいのです。

創刊50年を越え、週刊誌の日本最高売り上を記録した雑誌マンガ雑誌の「週間少年ジャンプ」には3つのキーワードがあります。友情、努力、勝利。皆、励ましの要素ばかりです。

励まされる事の反対概念とは何でしょう。馬鹿にされる。無視される。一人ぼっち。頭から否定されること。私たちは、励ましの代わりにこうした否定的な言葉を聞いて生きています。

バッテリーがだめになって、誰かに助けてもらった人がいますね。ジャンプケーブルでつないでもらうと、動けなかった車のエンジンがかかります。励ましを受ける事は、その状態に良く似ています。落ち込んでいたはずの自分の中に、新たな意欲が湧き出てきます。決心がついて、実際に行動に取り掛かれます。

励ましとは、自分の外側からやってくる人格的な応援のことです。

励まされると、やる気が出ます。励まされると失敗から立ち直れます。喜びが生まれます。毎日の繰り返しに新鮮さが生まれます。別の方法に気づきます。肯定的な思考になります。
神は、行き詰った人を何度も励ましています。肯定的な言葉、愛の言葉、共にいるという安心感の提供、使命に目ざめさせる言葉、時には厳しい罪の指摘による励ましさえあります。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。(使徒23:11)

正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。(箴言24:16)

ノーベル賞作家パール・バックは、「何事も、不可能だと証明されるまでは可能だ。しかも、それは、今は不可能ということでしかない」という元気の出る言葉を残しています。


3、希望

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

カールズJr.のコップにこんなことが書いてありました。コップに半分しか入っていないと考えるか、半分も入っていると考えるか。あなたはどちらのタイプですか。
本当はどちらでも良いのです、何回もソーダをリフィールできるのですから。

希望の反対は、失望というより落胆です。もうだめだ。何をしてもうまくいかない。否定的な気分に支配されるのです。
有名な物語や映画には、決まってネガティブな脇役がいて、ヒーローを際立たせる役割を担っています。スターウォーズの登場人物なら、金ぴかロボットのC3P、ナルニア国物語なら「どろ足にがえもん」です。あなたが否定的な脇役になる必要はありません。あなたが人生の主役なのですから、希望をもらって前に進みましょう。

もしあなたが、忍耐という状態にいるなら、涙があるかもしれませんし、あなたはきっと一人で苦しみに耐えているところでしょう。そんな時に、あなたの外から、あなを愛する神から励ましの言葉が届きます。あなたの外側から希望の火があなたの心に点火されます。すると、あなたはいつの間にか希望に向かって歩き出していることでしょう。

希望を持つと、可能性を信じられるようになります。未来の絵を描けます。神が共にいるので、安心感が周りをおおいます。願いがかなうという楽観的な見方ができます。目の前の困難が小さく見えます。否定的な気持ちを捨てられます。まだ間に合うと思えます。

聖書には、希望の言葉があふれています。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(第1コリント13:13)

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10:13)

聖書が単なる知識や知恵の総合案内ではなく、神が忍耐と励ましを与え、希望の火をともしてくれる書であることが分かるでしょう。

神は、聖書でこう伝えたいのです。
あなたの存在を喜んでいる。
あなたの罪を赦したい。
過保護にせず、あなたを鍛えよう。
あなたは必ず成長できる。
あなたは、誰かを励ます人になれる。

ルサーとジェニーは第二次世界大戦前に結婚した若い夫婦でした。ルサーは空軍に入りB-17爆撃機の乗組員になりヨーロッパ戦線に遣わされました。2年間会えない日々が続きましたが、ある日夫から手紙が届き、編隊が移動する際に愛するあなたの上を飛ぶという知らせが届きました。その日、ジェニーは空を見上げました。町の人も大勢その様子を見に集まりました。下の窓からルサーが手を振るのが見えるほど爆撃機は超低空でやってきて、一つの小箱をパラシュートに付けて投下しました。箱の中にはヨーロッパのみやげや手紙が入っていました。
数日後、ジェニーは不思議なドレスを着て町を歩きました。迷彩色のパラシュートを切り抜きワンピースに仕立てたドレスでした。ルサーの愛に包まれて歩いていたのです。

あなたに投下された神からのプレゼントが聖書です。それを読むと忍耐が与えられ、励ましで力づけられ、希望を持てるのです。あなたは、神からの愛のパラシュートを身に付けて毎日を生きることができるのです。聖書はそんな、希望の書です。さあ、毎日聖書を読みましょう。


→あなたの番です
□つらくても我慢しよう。苦しみに意味がある。
□神の励ましをしっかり受け止めよう
□神に希望を置いて、行動を起こそう。まだ間に合う。

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)


イザヤ40:8 永遠の言葉

奥さん達は、定年した夫に対して以下のような不満を持っています。
・毎日3食作るのは面倒
・一日中ゴロゴロされるのがイヤ
・12時ぴったりの昼食を期待するな
・二人しかいないのに、会話がない
・家事を手伝ってくれない
・いい加減に自立してほしい
・電話でおしゃべりもできない
 そうは言っても、男たちはなかなか変われません。

 今日は、聖書が変わらない神の言葉であることを二つのポイントからお話します。それをふまえて、変わらない神の言葉こそが私たちを変えるものだという事を語りたいと思います。

1、滅びなかった聖書

 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

 イザヤ書の転換点が40章です。滅びのメッセージを語ってきたイザヤが、希望と回復と慰めを語り始めるのがこの章からなのです。
 イザヤ40章2節は、罪が赦される希望が語られ、3節からは王の帰還に備えて道を整えよというメッセージになり、6~8節はすべての人が草や花であり滅びていくものだが、神の言葉はとこしえに変わらず、信頼に足る神の言葉だと指摘しています。

 前回、聖書が書記者により注意深く伝えられたとお話ししましたが、歴史を振り返ると聖書は迫害を受け続けた書物だと言えます。
 紀元303年ローマ皇帝ディオクレティアヌスは聖書を焼き尽くすようにと命令を出しました。不思議なことに、それから9年後の312年、皇帝コンスタンティヌスはキリスト教を国教と制定しました。

 その後、聖書はラテン語に翻訳され公式聖書となりました。やがてラテン語は知識階級しか読めない言語になり、庶民が聖書を読めるようにと努力する人が現れました。
 ジョン・ウィクリフは1382年にラテン語から英語に聖書を翻訳しました。この翻訳は当事のイギリスでは受け入れがたい事で、カトリック教会はこうした翻訳を異端扱いしました。

 啓蒙主義時代の哲学者ボルテールは、「100年たてば、人々は聖書について何も聞かなくなるだろう」と語り、聖書が非科学的で価値のない書物だと言い切りました。

 最近の50年間で最も読まれた本という統計がありますが、それによると、聖書はナンバーワンになっています。博物館に飾られたのは、むしろボルテールの本でした。
1、聖書                  39億部
2、毛沢東語録             8億2万部
3、ハリーポッター       4億部

 聖書は、滅びることがありませんでした。紀元1500年から書き始められた書物は、3500年の年月を越えても今なお、人々に愛され、読まれ、大きな影響を与え続けています。



2、成就した聖書の言葉

 聖書の特殊性は、単なる道徳の教科書や哲学書ではないということです。聖書が神の言葉であるという証拠の一つは、預言が実現することです。神が「なる」と約束されたなら、その通りになるのです。

 モーセが書いた申命記には、様々な預言があり、後の時代にそれが成就しています。その数があまりにも多いのですべてを紹介するなら1冊の本が書けるでしょう。

 「主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。」(申命記2837

申命記28章は、ユダヤ人が神を忘れ、神にそむくなら大きな災いが襲うという預言の箇所です。ユダヤ民族はこの言葉の通り、紀元70年に国を失い、流浪の民となり、大きな困難を後に経験しました。

 「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し地の果てから彼らを集める。その中に目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。」(エレミヤ31:8

 預言者エレミヤは、国を失ったユダヤ人が、必ず帰還すると預言しました。多くの人は、この預言の成就はあり得ないと考えていました。ですが。1948年にイスラエルが建国されると、世界中は驚きました。ユダヤ人移民が世界中からやって来て、建国から4年間で人口は65万人から130万人と2倍に増えました。また、ソ連の崩壊により、ロシアから100万人のユダヤ人が大挙してイスラエルに押し寄せました。「彼らを北の国から連れ出し」というエレミヤの預言の言葉に目を奪われます。

 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中では最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2

旧約聖書には、主イエスの誕生、生涯、十字架、復活などの預言が豊富にあります。上記のミカの言葉は、主イエスがベツレヘムで生まれるとの予告です。本来ガリラヤ地域のナザレに生活していたマリヤが、ローマ帝国の人口登録の法令によりベツレヘムに出かけた時に出産しました。聖書の預言は驚くばかりの正確さです。

 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

有名人もやがては死にます。人間の文明も滅びます。信頼していた人も裏切ります。確かなものはこの地上にないとさえ思えます。
たった一つ、変わらないものがあります。それは神の言葉、聖書です。私たちの神のことばは永遠に立つのです。

「イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)
永遠に変わらない神と神の言葉によって、私たちは「変わること」ができるのです。変わることのない愛で愛し続けて下さる主イエスを信じ、主イエスと共に歩みなら、私たちの内に変化が起こります。その変化を経験して下さい。

→あなたの番です
 □聖書は変わらない神の言葉
 □変わらない聖書を人生の土台とする
 □主イエスを受け入れ、変えていただく