創世記25:1~34 祝福を次世代に


 「天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」

この阿倍仲麻呂の歌は、海外在住者には特別な意味合いがあります。阿倍仲麻呂は遣唐使として中国に旅立つ前に春日神社で祈祷を受けました。中国の皇帝にその才能を認められ約30年間帰国できず、やっと日本に戻れると分かった時に詠んだのがこの歌です。夜空に見える月は春日神社や三笠山の上に出ている月と同じなのだという郷愁の歌でした。残念なことに乗った舟が嵐に遭い、結局、故国に帰れずに中国で亡くなりました。
中国で学んだ知識を日本に持って帰れなかった無念と望郷の念が心を打ちます。

神から頂いた祝福を次世代に伝えられないとしたら、もっと大きな悔いが残ることでしょう。

1、アブラハムからイサク

 25章全体の流れを見てみましょう。1~10節は、アブラハムの晩年、イサク以外の子供の動向、アブラハムが死んで妻サラと同じ墓地に葬られたという内容です。

アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。(創世記25:8)

 神は、アブラハムを祝福すると約束されました。(創世記12章)祝福とは、ぼんやりした概念ではありません。祝福は、具体的で現実的な結果をもたらすものです。
 たとえば、アブラハムは高齢にも関わらず息子イサクが与えられ、経済的な富が増え、平安な老年と長寿を授かりました。
 その祝福は、イサクに引き継がれました。これも神の祝福の一つです。

アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。(11節)

私たちに置き換えると次のようになります。主イエスを信じてから、私たちが手にしたすべてが祝福で、罪のゆるし、永遠の命、心配ごとを主にゆだねられる事、感謝の心、試練の中での平安など、ちょっと考えるだけでも豊かな祝福だと分かります。

 あなたが神からもらっている祝福を、独り占めしてはいけません。神から受けた祝福は次世代へ、また、周囲の人々に手渡していくものなのです。

 主イエスによる十字架の救いを子供たちに教えましょう。神と共に生きることの素晴らしさを生活と言葉で伝えましょう。これは、いわば、垂直関係における祝福の伝達です。
 また、水平関係における祝福の伝達も実行しましょう。それが、伝道です。難しく考えないで、神さまがして下さった普段の出来事を話せばよいのです。


2、イサクからエサウへ

 12~18節では、アブラハムの奴隷女の子孫について書いています。イシュマエルから12の氏族が生まれのですが、それぞれが「敵対した住んだ。」(18節)と書かれてありますが、人数が増える祝福だけでそれ以上の祝福は伝えられていません。

 19節からは、イサクの子供についての記述です。
 イサクがリベカと結婚したのが40歳で、子供が与えられたのが60歳でした。(20、26節)不妊の妻のためにイサクは祈り、その祈りがかなえられました。妊娠したリベカは、お腹の様子がおかしいので主のみこころを求めました。

 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(23節)

 本来、兄が長子の権利を受け継ぐことになっていましたが、兄が弟に仕えるという未来をリベカに明かしていました。その理由は、これから明らかになります。

 リベカは双子の赤ちゃんを産みました。最初に生まれた子にエサウという名を付けました。全身が毛深くて赤く見える赤ちゃんでした。次に生まれた息子は、兄のかかとをつかんでいたので、かかと(アケブ)から派生した名、ヤコブと呼ばれました。(24~26節)



3、長子の権利を軽んじたエサウ

この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。(27~28節)

 双子は成長し、特徴がはっきりと表れました。エサウは家から離れて野を駆け回るのが得意で猟師になりました。ヤコブは家のそばでの仕事が好きでした。
 残念なことは、父と母が一人だけを偏愛したことです。えこひいきが始まりました。

 ある日、エサウが猟から帰ると腹がぺこぺこで、ヤコブの作ったまめ料理を食べさせろと言いました。ヤコブは、しめたと思い、この機会にエサウの長子の権利を自分のものにしようと迫りました。

するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。(31~34節)

 エサウは、いとも簡単に長子の権利を弟ヤコブに渡しました。「エサウは長子の権利を軽蔑したのである。」(34節)と聖書はエサウの行為を厳しく批判しています。

 長子の権利とは、第一に、他の兄弟の「二倍の分け前」(申命記21:17)を受け継ぐ権利です。次に、家族全体のためにいけにえをささげる祭司的な役割です。第三に、子供や孫に霊的な祝福を受け継がせる特別の祈りができることです。
 後にイサクは死期を悟って子供に祝福の祈りをささげ(創世記27:27~29)、ヤコブも子供や孫たちに祝福の祈りをささげました。(48:14~20、49:1~28)

ですから長子の権利は、神の祝福を次世代に伝える大事な役割を担うものなのです。エサウは、その大切な権利をスープと引き換えにしたのです。アブラハムがそれを見たら、どんなに嘆いたでしょう。

1973年11月、サンフランシスコのホテルで特別な集会が開かれました。講師は、当時全米一と言われたダラスファーストバプテスト教会の牧師、W. A. Criswell牧師。メッセージを終えて握手の列ができ、そこに19歳の青年が並んでいました。
クリスウエル牧師は、主に導かれました、あなたのために祈りますと言って、その大学生と思われる青年の頭に手を置きました。「父よ、この若い伝道者に二倍の霊的祝福をお与え下さい。彼が将来牧師となる教会をダラス教会の二倍の大きさにして下さい。」
祈られた青年の名は、リック・ウォレン。後に世界的に有名になるサドルバック教会を開拓した牧師で、大統領就任式で祈る牧師になるとは誰が知りえたでしょうか。

 まとめます。
 神の祝福は確かに存在します。そして、祝福は次世代に伝えるものです。神がアブラハムに注いだ祝福を、私たちの子供や身近な人に手渡しましょう。

 「アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。(11節)


 →あなたの番です
  □私は、主から特別な祝福をもらっている
  □この祝福を次世代へ、周囲へ、私は伝えます

創世記24:1~27  水を汲むリベカ


 創世記24章は、お嫁さん探しの物語です。
将来の結婚相手を探している人にとっては、とても示唆に富んだ内容です。大事なポイントは二つ。第一に、結婚相手に何を望むのかを祈りながら絞り込む。第二は、この人だと分かったら思い切って飛び込むということです。

 もちろん、24章は、その他の人々にとっても有益です。何が最も大事なのか。それが、人生を決めます。


1、嫁の条件

 主に祝福されて老年を迎えたアブラハムは(1節)、最後の気がかりとなっていた息子イサクの嫁探しを最年長のしもべに正式に委託しました。(2節)イサクの嫁がどんな人であるべきか、アブラハムは考え抜いて条件を絞り込んでいました。

私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。(創世記24:3~4)

アブラハムの考えた嫁の条件は二つ。アブラハムの親戚であること。そして、結婚のために実家を出てパレスチナまで来てくれることです。
アブラハムの親戚から選ぶということは、同じ信仰を持つ人という意味でしょう。リベカの兄が「主に祝福された方」(31節)と述べたり、「このことは主から出たこと」(50節)と結婚に賛同した姿を見ると、リベカが主を信じる家族の一員だと分かります。
結婚のため実家を離れてパレスチナまで来てくれることも重要です。主はアブラハムにパレスチナの地を与えると約束されましたが(7節)、約束の継承のためにパレスチナに地に住むことは必須条件だったのです。

イケメン、または美人、金持ち、心優しく、リーダーシップがあり、スポーツが上手で、考え深く、背が高く、東大卒、ユーモアたっぷりで、人の話を聞き、バイリンガルで、同じ趣味、ファッションの趣味が良くて…、などと結婚相手への条件を持っている人はもっと絞り込む必要があります。将来の伴侶に、一番何を望みますか。

あなたの未来を輝かせたいなら、今、あなたにとって何が本当に大切なものか、考えてみて下さい。
何が本当に大事なのかを絞り込みましょう。そのテーマを良く考え、祈り、主の導きをもらいましょう。



2、走るしもべ

 アブラハムのしもべは、らくだの背に揺られて長い旅をしてユーフラテス川近くの親戚が住む場所にやって来ました。その間、主の導きを求めて祈りました。アブラハムのしもべは、アブラハムに示された2つの基本方針を土台としながら、イサクという人物に似合う人はどんな人かをさらに具体的に絞りました。

彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(11~14節)

 見知らぬ人に水をくれる人。また、らくだ10頭に自発的に水を与える人。この二つに条件を絞りました。つまり、内面的には心優しい人であり、外面的には具体的に行動できる生活力のある人です。

 水汲み場にリベカが来ました。おそらく年長者であろうしもべが「走って行き」(17節)、私は水戸のちりめん問屋の隠居で(違いますね)、水を飲ませてほしいと言うと、リベカはすぐに飲ませてくれて、らくだのためにも水を汲もうとして「走って行き」(20節)ました。しもべは、その姿を感動を持って見ていました。水汲み作業は重労働なのです。

 この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。(21節)

 見知らぬお嬢さんの名前を聞くと、アブラハムの兄弟の孫であることが分かり、しもべは驚きと恐れをもってその場にひざまずき、主を礼拝して言いました。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(26~27節)

 この出来事で分かることがあります。主は、導きを祈り求める人に、行くべき道を示してくださる方だということです。私たちの神は、私たちの人生の道案内となって下さるのです。
今、あなたは導きを求めていますか。祈って条件を絞り込みましょう。何が、本当に大切な事なのかを見極めましょう。これだと分かったらチャンスを逃がさず決断し、行動しましょう。



3、リベカの決断

するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」(50~51節)

 リベカは、この一連の出来事を兄のラバンに知らせました。ラバンは、しもべのあかしを聞いて主の導きを確信、リベカを嫁に出すことを賛成しました。しもべは、再びひれ伏して主を礼拝し(52節)、結納金としての金銀を渡しました。(53節)

 次の日になると、リベカを今日連れ帰りたいとしもべは申し出ました。リベカは即決即断、うばと次女たちを伴い約束の地に旅立ちました。(54~61節)

それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。(58~59節)

 「はい、まいります。」これは、信仰と勇気に裏付けられた言葉です。チャンスを逃さない人です。

 2009年1月15日、USエアウエイズの1549便はニューヨーク空港を離陸、1分半後に鳥が2つのエンジンに飛び込み飛行不可能となりました。バードストライクです。サレンバーガー機長は、瞬時に何が大事なことなのかを判断しました。乗客150人の命と、付近に生活している人々の命を守る。選んだ手段は、ハドソン川に着水することでした。水平に着水できなければボディーは真っ二つに折れて多数の犠牲者が出るので細心の注意を払いみごとな緊急着陸をやり遂げました。
 3人のフライトアテンダントはいずれも50歳過ぎのベテランで、一人残らず乗客を機外に脱出させることができました。彼女たちも、何が一番大事なことかを分かっていました。機長は最後まで機内に残り、客席を2度往復して一人も残っていないと確認してから機外に脱出しました。沈み行く飛行機内での誘導は犠牲的精神がなければ決してできません。
 何が大事か。それさえ分かれば、飛行機一機を水没させても、悔いは残らないのです。

 アブラハムのしもべは、最も大切な事は何かと祈りつつ絞り込みました。その結果、主の導きを見極めることができ、勇気を持って行動することができました。

あなたの未来が輝くために、あなたの明日が主の栄光をあらわすために、最も大切なことを絞り込み、それを勇気を持って実行しましょう。
主イエスは同じ趣旨のことを以下のように語っておられます。

「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ10:42)

→あなたの番です
 □最も大切な事が何かを絞り込む
 □導きの主を信頼して、勇気を持って行動する


創世記23:1~20  サラの墓


1、見送る

サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。(創世記23:1~2)

 アブラハムは10歳年下の妻に先立たれました。約束の地にやって来て約60年間、苦楽を共にした妻です。アブラハムは胸をたたいて嘆き、泣きました。
 創世記には多くの人が生まれ死んだと書かれていますが、23章になって初めて、サラの死が大きな悲嘆と共に記録されました。

 日本の交通事故死は一年間に4200件ですが、家庭の風呂での事故死は年間14000件にのぼります。びっくりする数です。1月から2月の事故が多く、65歳以上の人が心臓発作などで入浴中に亡くなっています。死は、私たちのすぐ隣りにあります。

 あなたも私も生きている限り身近な人の死を経験します。亡くなる人が、自分の親であっても、兄弟でも、自分の子供であっても、親友でも、恩師でも、私たちは死んで行く人を見送らねばなりません。葬儀に出席したり、喪主になるということ、それは偶然とか災難ではなく、私たちの人生の一部なのです。それが生きるということです。
 死には、予定通りの死も、納得できる死も、幸せな死もありません。必ず涙と別離の苦悩があります。自分の番が来るまで、死者を見送りながら私たちは生きていくのです。

亡くなった人を悲しみ、見送ることは、私たち人間の務めです。



2、土地売買

それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」(3~4節)

23章では、サラの埋葬地を手に入れるプロセスが書かれています。墓地となる土地が合法的に取得したことを証明するためにあえて詳細に記述しています。

羊と山羊を飼う遊牧民は、えさとなる牧草を求めて季節ごとに移動するので広大な土地を必要とし、テント住まいを余儀なくされます。そんなアブラハムが初めて買い求めた土地がサラの墓となる土地でした。

先住民のヘテ人は、アブラハムを尊敬しており、最上の土地を無償で譲ると申し出ましたが、アブラハムは代金を払うことにこだわりました(8節)。ヘテ人のエフロンが提示した銀400シェケルをアブラハムは支払いました。(15~16節)

町の門というのは当時の政治・経済・司法を行う所で、町の有力者が大事な取り決めを行う場所でした。証人たちの前で行われた売買なので正式な土地取得が成立したのです。

その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。(18~20節)

アブラハムは、正式な手続きにのっとって土地を所有しました。

1986年1月、スペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げが迫った時、NASA当局と部品メーカーの意見が衝突しました。ロケット燃料タンクのゴム製品に強度不安があるとして部品メーカーの技術者らが打ち上げ延期を申し出ました。いわゆる「オーリング」と呼ばれる部品は寒さに弱く、打ち上げ日が零度を下回ったことで難色を示したのですが、 NASAや部品会社の幹部は強行し、打ち上げ73秒後に爆発しました。その技術者の日一人ロジャー・ボアジョリーはクリスチャンでした。責任ある仕事、正しい仕事をしましたのです。

取引や仕事において正しく行うということは、簡単に見えて、実は難しいことです。
正しく生きましょう。正しく商売しましょう。正しく仕事を行いましょう。



3、旅人で寄留者

「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが」(4節)

アメリカに住む我々日本人は、アブラハムの言葉に共感を寄せるでしょう。アメリカにおいて「ガイジン」とは私たち日本人のことです。
立場の不安定な異国人のアブラハムはヘテ人に頭を下げ、墓地に使う土地を譲って下さいと言わなければなりません。400シェケルが相場より高いとしても、その額で買うしかありません。(エレミヤ32:9によると、預言者エレミヤは17シェケルで畑を買っています)

 マクペラのほら穴は中央高地のヘブロンにありました。この土地は、将来、アブラハムの子孫がパレスチナの土地全部を所有するための、手付金的な意味を持っています。
 
 サラが葬られた後、アブラハムも約40年後に同じ墓地に葬られました。彼らの息子イサクも、孫のヤコブも同じ墓地に葬られました。(創世記25:9、50:13)

 ヘブル人への手紙では、アブラハムらの歩みを以下のように総括しています。

 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13)

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(ヘブル11:16)

 旅の恥はかきすて。そういう無責任な人は非難されますし、クリスチャンとしてふさわしい態度ではありません。たとえ旅人であっても、一時寄留者であっても、出会う人々に誠実に接し、その国の市民権を持つ者のようにふるまいましょう。

 私たちの人生も、アブラハムの人生と重なります。私たちが所有する土地や財産は、私たちが生きている間だけ私たちのもので、管理運営を一時的に任されているのです。今、この地に生きるということは、寄留者でありながら、まるでその国の古くからの市民のように生きることです。それが、永遠の故郷を持つ者の生き方なのです。生かされている命を大切にして、身近な人に愛を届け、喜びと感謝を伝え、主イエスの福音を伝え、与えられた使命を全うしましょう。

 →あなたの番です
  □死者を見送ることが、生きている者の務め
  □公明正大に商売を行い、仕事をする 
  □旅人、寄留者として、与えられた命を大切に生きる


創世記22:1~24 試練。テスト。


 今日は試練について考えます。今、あなたは試練の中にいますか。

1、神から来た試練

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:1~2)

信じられない主の命令です。たった一人の息子イサクを全焼のいけにえとして神にささげなさいという指示でした。アブラハムの子孫が夜空の星のように増え、世界の祝福の源になるという主の約束も、イサクが死ねば無意味になります。

 アブラハムは翌朝すぐに出かけました。(3節)ソドムが滅ぼされると聞いた時のアブラハムは、神に抗議し粘り強く交渉しましたが、今回は反発が見られません。その鍵は、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」という主のお言葉でしょう。イサクは、アブラハムとサラの間にやっと与えられた子でした。愛してやまない息子でした。たった一人の子供でした。神は、その事情を深く理解した上で命じておられるのだとアブラハムには分かったのです。

「神はアブラハムを試練に会わせられた」(1節)試練は、偶然ではなく、自分の失敗や罪の結果でもありません。本当の試練は神から来るのです。1節の「ナサー」というヘブル語は日本語で試練に会わせると訳され、英語訳では<テスト>ととなっています。

スタンフォード大学のウォルター・ミッシェルは、4歳の子供に興味深い実験をしました。後に、「マシュマロ・テスト」と呼ばれて有名になった研究です。机と椅子だけの部屋に、子供を招き入れ、マシュマロを一つ机の上に置いて、これを食べてもいいけど、私が用事で出かけて戻るまで15分待ったらもう一つ上げると伝えました。
30%の子供が我慢してもう一つのマシュマロをもらいました。後日、追跡調査をすると、我慢できた子供たちのSATテストのスコアが、我慢できずに食べてしまった子より平均210点上でした。学力の差は、幼い頃のIQの問題ではなく、セルフコントロール力の違いから出ているようです。つまり、この小さなテストが子供の未来の姿を予告していたのです。
テスト(試練)とは、将来の私たちの姿を教えてくれるのです。

さらに言うと、テストは将来の私たちの姿を作るきっかけになります。
あなたが相撲取りだとしましょう。怪しげな男が近づいて来て、「あんたは勝ち越しできる力がある。それで相談だが、もし明日の一番で負けてくれたら100万円あげるよ、どうだい悪い話じゃないだろう」と言ったとします。あなたなら、どうします。もしこのテストに失敗すれば、この力士の将来はどうなるでしょう。きっと、相撲賭博から足を洗えなくなります。テストは、それ自体が、明日のあなたを方向づけます。

本当の試練は神から来ます。その試練によって私たちは練りきよめられ、鍛えられ、さらに輝きを増し、最終的には神の栄光をあらわすことになります。


2、モリヤの地へ

 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。(7~8節)
 
 いえにえの羊はどこにあるのかとイサクに聞かれると、アブラハムは「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」(8節)と答えました。これが、アブラハムの信仰だったのです。
 アブラハムは指定の場所に着くと、石で祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縄でしばり、その上に寝かせました。

 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(10~12)

 アブラハムが刀を振り下ろそうとした瞬間、主の使いが呼び止めてイサクの命は助けられました。

アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。(13~14節)

パウロは、「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:13)と書いていますが、主の山に備えあり、と同じ意味ですね。

あなたの試練が一瞬であっても1年の長期に及んだとしても、アドナイ・イルエ、脱出の道は必ずあります。


3、神の友となったアブラハム

それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(15~18節)

「ひとり子を惜しまなかった」(16節)、「あなたがわたしの声に聞き従った」(18節)というアブラハムの信仰と姿勢を主が高く評価されました。

アブラハムが受けた試練はアブラハム固有のもので一般化できません。自分の子供を殺しなさい、という教えであるはずがありません。普通に考えるなら、アブラハムが行おうとしたのは子殺しで、世間でも、また聖書でも厳に禁じられている行為です。
ただ一人アブラハムと似た事をされた方がいます。父なる神です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、父なる神は御子イエスの命を私たちにお与えになりました。

創世記22章の出来事は、十字架において父なる神がなさろうとしていたことを、予告しておられたのだと私は思います。モリヤの地はエルサレム、4節の「3日目」という言葉は3日後の復活を連想させ、イサクも主イエスもひとり子なのです。

アブラハムは、父なる神の心の痛みを体験した地上でただ一人の人物になりました。後にアブラハムは神から「わたしの友」(イザヤ41:8)と呼ばれるようになったのは、この経験ゆえだと思われます。
キリストの十字架の苦難を描いた映画「パッション」で、主イエスが息を引いた後、天からの視点で一粒の水滴が落ちる場面がありましたが、父なる神の涙を象徴していたのでしょう。

さて、アメリカでは親が子供に運転を教えますが、私も娘に縦列駐車や車庫入れを教えました。要領がつかめないので、「ここで、何度でも練習しろ」と短気をおこして縁石に座っていたこともありました。
実地試験本番の日、私は娘を試験場(DMV)に連れて行き、近くの図書館で結果を待っていました。「主よ、テストに合格させて下さい。でも、不十分ならきっぱりと落として下さい。でも、やっぱり合格させて下さい。」とわけの分からない祈りを祈っていいると、娘が戻ってきて合格したというのです。「縦列駐車をやったか?」「うまくできた」「どうしてできたんだ」「お母さんから、コツを教えてもらって、その通りやったらできた」ハレルヤ!主の山に備えあり。娘は、テスト本番で、生まれて初めて縦列駐車を成功させたのです。
親は子供のテストの時、子供の成功を心から願います。神も、アブラハムが苦しいテストに合格し、将来の信仰姿勢を強固にしてほしいと熱烈に応援しておられたはずです。

 あなたは、今、試練の中にいますか。それなら、神の道を選びましょう。肉体的にも精神的にも経済的にに辛いかもしれませんが、必ず、主の山には備えがあります。試練のプロセスを通して、あなたはもっと愛の人、信仰の人、キリストに似た者に変えられます。

 →あなたの番です
  □試練は、私たちを磨き、神の栄光をあらわす
  □アドナイ・イルエ、主の山には備えがある

創世記21:1~34 夫婦の笑顔


 先延ばしにしている事がありますか。歯の治療。ビザや市民権のこと。引越し。子供の学校の問題。親戚の事柄。転職のこと。
大切なことだし、不都合も起きているし、何とか解決したいけれど、色々と難しいことが予想されて具体的なアクションが取れないことを私たちは抱えています。
アブラハムが、そういう問題にどう対処したかを見ていきましょう。


1、サラの笑顔

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。(創世記21:1~3)

主の約束が実現しました。90歳のサラは赤ちゃんを生みました。100歳のアブラハムは、おじいさんではなく、父親になりました。主は不可能を可能にする方です。

サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」(6~7節)

赤ちゃんの名前はイサクですが、それは「彼は笑う」という意味です。

この年齢の女が赤ちゃんを生むことはあり得ない、と考えるのは現代人の私たちだけでなく、サラ自身も主の約束を聞いて冗談だと思って笑いました。今、赤ちゃんを腕に抱いたサラは、自分の愚かさを率直に認め、神に笑われてしまったと理解しています。かつての笑いは否定的な笑いでしがた、今、はちきれんばかりの笑顔になりました。このようにして、まことの神は私たちに笑顔を下さる方なのです。

今、あなたは暗い顔で毎日を過ごしていますか。主は、あなたに笑顔を必ず下さいます。主を知った人、主に罪を赦された人は、心の深い部分で大きな安心がやってきます。それが、普段の生活で落ち着いた笑顔になって表れます。


2、ハガルとの別れ

その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。(8~11節)

イサクの乳離れ記念パーティーの時、先延ばしにしていた問題と直面せざるをえませんでした。奴隷女ハガルに産ませたイシュマエルは14歳になっていて、彼が正式な跡継ぎのイサクをからかっていました。それを見たサラは、彼らを追い出すべきだとアブラハムを責めました。それでアブラハムはとても悩みました。道義的な問題もあり、情もからんでいるし、妻サラと奴隷女ハガルの確執も水面下であったことでしょう。イシュマエルとハガルが幼子イサクを殺害する可能性も捨てきれません。

 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」(12~13節)

 主はこの事で悩むな、主がハガル母子を守り、子孫を大いなる国民とすると約束されました。アブラハムに対して、ハガルとイシュマエルを家から出しなさいと促されました。

 それで、アブラハムは心を決めて、翌朝早く、二人と別れました。みごとな即断です。神がハガルとイシュマエルを守って下さると信じたからできたのです。
 
 家を去った二人は、砂漠をさまよい、水が尽き、悲劇的な死を予感した時、主の介入によって救われました。(14~21節)主は、アブラハムの見えない場所で、約束を実現されました。

 あなたの番です。先延ばしにしていた問題に立ち向かいませんか。主は、あなたを助けて下さる方です。


3、井戸の所有権争い

 ゲラルの王アビメレクは、いわば平和条約の更新のためアブラハムを訪れたと思われます。(22~24節)
 契約を結んだ後に、アブラハムは、自分たちの井戸がアビメレクのしもべに奪われて困っていると告げました。(25節)これも、先延ばしになりがちで、ちょっと面倒なトラブルです。アブラハムは、自分達が掘った井戸だと説明し、7匹の子羊をアビメレクに与えて所有権確認の印としました。(26~31節)ベエル・シェバは7つ井戸を意味します。
 アビメレク王が井戸の所有者はアブラハムだと認めた背景に、アブラハムの上に神の守りがある、「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」(22節)というアビメレクの認識がありました。つまり、ここでも、神の助けがあったのです。

 アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。(33節)

決断したり、アクションしたのはアブラハムでしたが、神の守りと助けと時にかなった神のサポートなしには不可能でした。イサクが生まれ、元気に育っている。ハガルとイシュマエルと分かれることができた。井戸のいざこざも決着がついた。それで、神の助けを忘れないように、記念の木を植えたのです。その場所で、主をたたえ、主に感謝し、主を礼拝しました。

私たちも、アブラハムを真似をしませんか。神が助けて下さった時、神にいやしていただいた時、思いもかけない祝福を頂いた時、記念の木を植えたり、記念になるものを作ったり買ったりしませんか。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)


 →あなたの番です
  □主は、私たちに笑顔を下さる方
  □先延ばししている事を主に信頼して取り組んでみる
  □主の助けを忘れないように記念の木を植える

創世記20:1~18 同じ失敗


 同じ轍を踏む。二の舞を演じる。
 これは、同じ失敗を繰り返すということわざですね。創世記20章を読みながら、同じ失敗を繰り返したアブラハムと自分の姿を重ねて考えてみましょう。

 ところで、小説家の村上春樹はアメリカ東部に約2年滞在し、その経験を『やがて哀しき外国語』に書いていますが、次の言葉は示唆に富んでいます。「外国で暮らすことのメリットの一つは、自分が単なる一人の無能力な外国人、よそ者でしかないと実感できることだ。」村上氏も自分の言いたいことの二割しか伝えられず、差別を受けたり、だまされたこともあったといいます。何もかも剥ぎ取られたゼロの、裸の自分になれることが貴重な経験だと、村上春樹は書いています。惨めな体験が、自分の本来の姿に出会うチャンスにもなります。

 外国に住まなくても、同じ失敗を繰り返す体験は、隠れていた自分本来の姿に出会うチャンスになります。その失敗が身近な人に知られ、恥ずかしくて、血の気が失せてしまう経験。これも、何もかも剥ぎ取られてゼロになる体験です。
 失敗なしに生きることは不可能です。恥ずかしい失敗をしてしまったら、何を学習するか、どのようにそこから立ち上がるかが大事なのです。

1、失敗、叱責、助け

アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。(創世記20:1~2)

 ソドムが滅ぼされた姿を目にしたくなかったのでしょう、アブラハムは山を降りて南西側のペリシテ人の平原に移動し、ゲラルに住みました。そこで、妻のサラを妹と偽るという、失敗をしました。創世記12章で、アブラハムはエジプトにおいても同じように嘘をつきエジプト王とトラブルになっていました。つまり、同じ失敗を繰り返したのです。

今回は、ゲラルの王アビメレクがアブラハムの妻サラを宮廷に召抱え、まもなく王の正式な妻となる運びとなっていました。アブラハムはどんな気持ちで、この成り行きを見ていたのでしょうか。

神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」(6~7節)

 アブラハムは今回のトラブルに際して、何もしていません。何もできなかったのです。神が主導権を取って解決して下さいました。神がアビメレク王の夢に現れ、事実を明らかにし、サラを無事にアブラハムに返し、危害を加えないように命じました。その結果アビメレク王は、神の語り掛けを厳粛に受け止めました。(8節)

 それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」(9節)

自分が悪かったときに叱責を受ける。それは、とても大事です。アビメレク王はアブラハムを厳しく責めました。神は、アビメレクの口を借りて、神の叱責の言葉を語っておらるように見えます。

本当に不思議なことですが、アビメレク王はアブラハムを罰する代わりに領内におけるアブラハムとサラの安全を保障し、サラをアブラハムに返し、多数の家畜や銀まで与えました。(14~16節)
アブラハムは、アビメレク王からもらった家畜や財産を見るたびに、恥じ入り、同時に、深く神に感謝したことでしょう。神は、失敗を恵みへと変換して下さったのです。

あなたの番です。恥ずかしい失敗をしたにも関わらず、あわれみをかけてもらったり、助けられた経験がありますか。それは、主です。主があなたを守り、助け、恵みを下さったのです。その主に感謝と賛美をささげましょう。

今、失敗の只中にいますか。主の守りと助けを信じて待ちましょう。自分の失敗をうやむやにしたり人のせいにせず、自分の失敗を認め、悔い改めて、神にゆだねましょう。


2、祈ったアブラハム

そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。(17節)

神は、アビメレク王の夢の中でアブラハムの本当の姿が何か、アブラハムの使命が何かを告げました。アブラハムは「預言者」であり「あなたのために祈って」(7節)くれる人物と紹介されています。17~18節によると、アビメレク王に赦された後、アブラハムはアビメレクと家族のために祈ったことが分かります。そして、その祈りはきかれました。

神は約束されたとおり、アブラハムを祝福する者を祝福され、アブラハムによって周囲の人々に祝福が及ぶようにして下さいました。「わたしはあなたの盾である。」(創世記15:1)の通りに主は守って下さいました。

 恥ずかしい失敗をして神の助けと守りを経験したゆえに、私たちは身近な人にも幸せになってもらいたいと願うようになります。あなたが神から受けた恵みが多ければ多いほど、誰かのために祈る人になります。
 
 「あの人は……あなたのために祈ってくれよう。」(7節)

 この恥ずかしい失敗をアブラハムは隠すこともできました。ですが聖書にこの記録が残っている理由は、アブラハムが子供や孫に失敗を話したし、話す必要を感じたからでしょう。失敗こそ最も多くを学べる機会だからです。

 アブラハム・リンカーンは苦労の多い人生を送りました。貧農の家に生まれ、9歳で母が亡くなり、小学校は1年間だけ通い、雑貨屋の経営に失敗し倒産し10数年かけて借金を返しました。婚約者に死なれ、心を患って入院、何度も選挙で落選したすえに51歳で大統領になりました。
 あなたの成功の理由は何ですかと尋ねられた時リンカーンはこう答えました。多くの失敗を繰り返し、様々な苦しさを経験しましたが、そのすべての失敗と苦しい経験が私を人間らしい人にさせてくれたのです。

 失敗がその人を築き上げます。恥ずかしい失敗をしたなら、大切なものをつかんでから立ち上がりましょう。

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

 →あなたの番です
  □恥ずかしい失敗をしたなら、謙虚に神の前に出る
  □神は、あなたの尻拭いをして下さるほど恵み豊かです
  □誰かの幸いを祈る者になる

創世記19:1~38 塩の柱


 今日のテーマは「滅び」です。

1、滅びから逃げる

 アブラハムを訪れた三人のうち二人がソドムを訪れましたが、創世記19:1によるとその二人は天使だったと分かります。ロトはソドムの門にいました。この時代、町の門に座る人は町の権力者を意味しました。9節から分かることは、古くからの町の住民からロトは成り上がり者としてねたまれていたようです。

 ロトは、二人を特別な人物と認識して歓迎し、食事を提供し、自宅で泊まってもらうことにしました。夜がふけると、ソドムの町の大勢の男達がやって来て、「ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」(5節)と言って、二人の客人を差し出すように迫りました。知りたいとは性的な意味合いを持つ言葉なので、ソドムの町の人々がどれほど堕落していたかが分かります。

 ロトが御使いを助けようとした熱意は認めますが、未婚の娘二人を代わりに差し出すという姿勢については私たちは納得できません。ロトに危険が迫ると、二人の御使いはロトを助け出して家の中に招き入れました。御使いは、群集の目が見えなくなるような特別な目つぶしをくらわせました。(6~11節)御使いは、ソドムを滅ぼすために来たとロトに伝えました。

 「 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」(13節)

 <滅び>には、二種類のタイプがあります。
 他者の邪悪な行為によって滅ぼされる場合。もう一つは、自分自身から出た有害な事柄によって自ら滅ぶ場合。ソドムは自分達の罪が原因となって滅びを避けられませんでした。
 いじめで自殺する子供たちは、他者の悪による滅びです。アルコール・薬物・ギャンブル依存の人たちは、後者の場合です。

 あなたは、今、滅びの危険を感じていますか。
 外部からの圧迫がひどすぎると、被害者はもう終わりだと思い詰めてしまいます。覚えてほしいことは、いじめでも、ブラック企業でも、カルトでも、多重債務でも、家庭内暴力でも、夫婦関係の破綻でも、様々な依存症でも、必ず脱出の道があるということです。

あなた自身の罪から出た問題でも、神は助けて下さいます。邪悪な人々の虜に捕えられても、脱出の道はあります。滅んではいけません。逃げ出しましょう。


2、アブラハムゆえのロトの救出

ロトの娘の夫たちはこの話を冗談だと聞き流し、滅びました。(14節)

夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」(15~17節)

御使いたちはロトたちの手を握り、無理やり走り出しました。それは、「主の彼に対するあわれみ」(16節)によるものです。
主イエスを信じた私たちは、それと同じようにして救われたのです。あなたの身近にいたクリスチャンが、しつこいくらいの愛を持ってあなたの手を無理やりつかんで主イエスのもとに連れて来てくれたのです。

「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」(17節)逃げる時は、未練を残してはいけません。罪と欲望の町は滅びるしかないのです。それを惜しんで振り向くなら、ソドムと同じ滅びを身に受けます。ロトの妻は、後ろを振り返ったので塩の柱になってしまいました。(26節)

主が硫黄の火を降らせたので、遠くから見るとソドム一帯はかまどの煙が上がるようでした。(24、28節)その光景をアブラハムは住まいのある山地から目撃しました。

こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。(29節)

29節によれば、ロトが救い出されたのは、ロトが正しかったせいでも、ロトが信仰深かったからでもない事が分かります。主がアブラハムと結ばれた契約のゆえにロトが救われたのです。祝福がアブラハムを通して周囲の人々に流れ出たのです。
 私たちも同じです。私たちの良い行いによるのではなく、主イエスの十字架の死によって救われたのです。

 主イエスは、天から火が下りソドムが滅ぼされた出来事について言及され(ルカ17:29)、「ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ17:32)と警告されました。

 アーロン・ラルストンは2003年、ユタ州のキャニオンランズ国立公園で滑落、深くて狭い岩の裂け目で右手が落石の下敷きになり身動きがとれなくなりました。5日間そこを動けず、食料も水もなくなり、命が尽きる予感がしました。ついに6日目、右手を小型ナイフで切断しました。それで救われたのです。アーロンは、切り離した痛みの中であっても、心は大きな歓喜を経験しました。

 主イエスの体に釘が打ち込まれ、血が流され、主イエスの最後の息が終わった時に、私たちは罪から救われ、滅びからまぬかれたのです。以下のことばを心に留めましょう。

 「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」(17節)
 「主の彼に対するあわれみによる。」(16節)

 →あなたの番です
  □滅びに気づき、滅びから逃げ出そう
  □救いは神のあわれによる