施しと祈り マタイ6:1~6

 今日の箇所を読むと、神の国は何によって作られるのかが分かります。また、何が神の国建設を邪魔するのかが分かります。
 神の国は、施しと祈りによって作られます。神の国建設を邪魔するものは、偽善です。

1、人に見せるためにしない

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(マタイ6:1)

1節が中心聖句です。ここで分かることが二つあります。私たちは、人に見せるための行動を取りやすい。もう一つは、隠れた善行をすると父なる神から報いがある。

偽善は、人を実体以上に立派に見せるトリックで、実体がありません。お互いの信頼関係を壊します。偽善は、粗悪なコンクリートでビルを作るようなものです。

人に見られたくてするのでなく、良い事を隠れてしましょう。逆に言うなら、誰が見ていても良いことはどんどんしましょう。そうすると、神からの報いが来ます。これは神の約束です。もう一度言います。神から報いが必ず来ます。


2、施し(2~4節)

だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:2~4)

 何かを持っている人が、何かがなくて困っている人に与えることが施しです。まさに、これは神の国が広がり作られていく事です。

 あなたは、施しをしていますか。
 年配の人はお金や物を持っています。それを与えましょう。若い人は、お金や物は少ないのですが、時間とエネルギーを持っています。それを与えましょう。

 パリサイ人、律法学者は、人々に見える場所で施しをしました。それは偽善です。右の手のしていることを左の手に知られないようにする姿勢が大事だとイエスは言われました。
 神の国は、隠れた施しによって作られます。あなたも、キングダムビルダーです。


3、祈り(5~6節)

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:5~6)

神の国は、祈りによって作られます。施しは人間の力で行われます。私もあなたもキングダムビルダーとして与えることで貢献できます。
でも、究極的なことを言うと、神の国は人間の力では作れません。神が作るのです。だから、人は神に祈るのです。祈りなしに神の国は作れません。

ところが、人に聞かせる見栄を張った祈りなら無意味です。神の国を作りません。神に向かって祈る誠実な祈りが神の国を作ります。

パリサイ人たちは人にほめてもらいたかった。祈る姿を人に見せたかった。そのため、会堂や往来の激しい四つ角で祈りました。長い長い祈りをしました。美辞麗句で飾った言葉を家で準備し、練習してきた祈りでした。

クリスチャンが共に祈ることを否定しているわけではありません。見せびらかす祈りを否定しているのです。誰かと共に祈るときも、人でなく、神に向かって語りましょう。
主イエスは言われました。奥まった部屋で、戸を閉めて、隠れた所で祈りなさい。誰も見ていない所での祈りが最も大切なのです。そういう祈りが、神の国を作ります。

 野球が好きな一人の少年がいました。中学には野球部がなく、高校に入って初めて本格的な練習をしましたが、レギュラーにはなれませんでした。球拾いや、グランド整備を頑張りました。試合にでられなくても、練習を地道に頑張り、下級生ができても一緒にグランド整備をしました。高校3年になった時、監督が新しいキャプテンの名を発表しました。彼の名前が呼ばれました。誰もが驚きました。下級生からの強い推薦があったからでした。
 キャプテンになった後、初めての公式試合で監督から登録選手表を渡されました。1番、2番、3番に自分の名がありません。5番から9番にもありません。キャプテンになっても補欠かとがっかりしましたが、4番打者を見ると自分の名がそこにありました。それ以来、期待に応える打者に成長しました。彼はやがて、上場企業の社長になりました。
 誠実に生きる人は、誰かに見られていて、「報い」があります。
 
自己点検しましょう。
 ①私は、施しをしているか。もし、したことがなければ、やってみましょう。
 ②一人で祈る時間を大切にしているか。父なる神に誠実に祈ってみましょう。
 ③施しも祈りも、人目を気にせず、誰が見ていなくても、見ていても、誠実に父なる神だけを意識して行いましょう。あなたは、キングダムビルダーになれます。

 →あなたの番です
  □隠れて、与えましょう
  □隠れた場所で、祈りましょう

聖書で自己点検 マタイ5:17~48

 神の国は、聖書を鏡として自分の心を点検する人によって作られます。


1、聖書を神の国作りの土台とする

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイ5:18)

神の国を作るために不可欠なのは聖書です。たとえ天地が滅びても神の言葉は滅びません。神の言葉は絶対的な基準だからです。神の言葉を無視したり、自分に都合良く聖書を解釈するなら、神の国を建設することはできません。(19~20節)神の国は、聖書を愛する人によってのみ作られます。

マキャベリは1531年に『君主論』を書き、どうしたら強い国家を作れるかを述べました。王国を作る主役は、野望を持った王です。王が国作りに用いるものは、第一に強い軍隊(暴力)、第二に法律(王にとって都合の良いルール)です。王が最終的に望むものは、自分の誉れ、権力、富、快楽です。(荒野の誘惑を思い出して下さい)
以下は『君主論』からの引用です。
「民衆というものは頭をなでるか、消してしまうか、そのどちらかにしないといけない」
「一見、悪徳のように見えても、それを行うことで、みずからの安全と繁栄がもたらされる場合がある」
「信義など気にかけず、奸策をめぐらして、人々の頭を混乱させた君主のほうが、むすろ大きな事業をやりとげている」
「人間は邪悪なもので、あなたへの約束を守るものではないから、あなたのほうも、他人に信義を尽くす必要はない」
王国を作るためには、虐殺も、裏切りも、嘘も、見せかけの優しさも、最終目的のためにすべてが正当化されるとマキャベリは言います。現代社会の大統領、首相、政治家がマキャベリズムを利用していることが良く分かります。

それと比較して、神の国建設がどんなものかを考えましょう。
神の国を建設する主体は、普通のクリスチャンたちです。神の国を作るための手段は、暴力や嘘や策謀ではありません。自分の罪を認める人、つまり心の貧しい人たちが主体です。悲しみを知っており、善を求め、平和で柔和で、あわれみ深い者たちによって神の国は建設されます。最終的に求めるものは、神の国であり、神の国の拡大であり、神の栄光です。
目的が良ければ何をしても良いというマキャベリズムはクリスチャンの辞書にはありません。だから、自分の動機が正しいか、心の在り方は神に喜ばれる状態か、聖書を鏡にして点検する必要性があるのです。人は表面的につくろって、心の中に悪を隠してしまい、自分は良い人だと言い聞かせています。21~48節では、6つの項目を自己点検しなさいと主イエスが語られました。


2、太陽はすべての人に注がれる
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21~22)

「と言われたのを、あなたがたは聞いています」「しかし、わたしはあながたがに言います」というフレーズを主イエスは繰り返されています。主イエスは聖書を廃棄して、まったく別な教えを語られたのではありません。聖書の本来の意味を取り戻しただけです。


①「人を殺してはならない」(21節)→憎むことは殺人と同じ。仲直りせよ。(24節)
②「姦淫してはならない」(27節)→誰でも心で姦淫している。心を野放しにするな。
③「妻を離別する者は」(31節)→自分勝手な都合で離縁するな。
④「偽りの誓いを立ててはならない」(33節)→悪や不誠実さを隠すため誓うな。
⑤「目には目を」(38節)復讐する権利を放棄せよ。
⑥「敵を憎め」(43節)→自分の敵を愛し、祈れ。

 山上の垂訓は、「立派な教えですな、深いですな」と感心しても何の役にも立ちません。やってみましょう。毎朝、聖書を読み、神の語りかけを素直に聞き、聖書の言葉を鏡にして自分の本当の姿を見つめて軌道修正しましょう。そのようにして聖書で自分の心を整えた人がキングダムビルダーになれます。

 主イエスが今日の箇所で言われたように、誰かと仲直りし、欲望に流れ込む心を制御し、夫婦愛を深め、悪は正直に告白し、「倍返しだ」と叫ばずに復讐の権利を投げ捨て、敵を憎むことに固執せずに敵のために祈って親切にしてみましょう。そのようにあなたが行動すると神の国が広がります。

 「天の父が完全なように、完全でありなさい。」(48節)という言葉で締めくくられています。悪人にも良い人にも分け隔てなく太陽を照らし雨を注ぐ神に私たちも近づきたいですね。

 →あなたの番です
  □聖書を鏡にして自分の動機を見つめる
  □自己保身しない、仲直りする、敵のために祈る

マタイ5:1~16 心の貧しい者は


 マタイの福音書5章~7章は同書の中心部分で「山上の垂訓」と呼ばれ、3章にわたって主イエスの教えの真髄がまとめられています。その基本テーマは、神の国の建設です。

 「山上の垂訓」を勉強し過ぎて迷路に入る人がいます。また、「素晴らしい教えですな」とほめるだけで一つも実行しない人がいます。「山上の垂訓」は実行するためにあるのです。


1、8つの心
 「~の人は幸いです」という、8つの項目を暗記して下さい。それは必ずあなたの人生を豊かにします。前半後半に分け、4項目ずつまとめれば簡単に覚えられます。時折、暗唱して自分の心をチェックして下さい。

 この8項目は、神の国を作るのはこのような人達であると述べているのです。あなたが、悲しむ人であっても、あなたは神の国を作る一員です。

 悪魔、欲望、人気、権力、富を誘惑に用いました。これらを獲得すると幸せになれると普通考えますが、主イエスはその一つにも言及されませんでした。

①心の貧しい者は幸いです。               天の御国はその人のものだからです。
②悲しむ者は幸いです。                       その人は慰められるからです。
③柔和な者は幸いです。                       その人は地を相続するからです。
④義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
⑤あわれみ深い者は幸いです。           その人はあわれみを受けるからです。
⑥心のきよい者は幸いです。               その人は神を見るからです。
⑦平和をつくる者は幸いです。           その人は神の子どもと呼ばれるからです。
⑧義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5:3~10)

弱く、力なく、ピュアで、一見頼りないと見えるこうした人々でも、神に信頼して行動すると、神の国は着実に作られていきます。

 心の貧しい者とは、自分の罪を正直に認める人のことです。自分の弱さを知り、謙虚な心を持つことからすべては始まります。神の国の国民は全員、赦された罪人です。
悲しむ者とは、大切な人を亡くしたり、親友と離れ離れになったり、夢破れた人のことです。悲しみを経験した人は、社会の宝です。悲しんだ人は、人をいやす人になります。  柔和な人は、存在自体が世の光です。その人の温かさ、柔らかさ、安定さが周囲の人を幸せにします。
義に飢え渇く人は、不正を見逃さず、苦しむ人を助けたいと願う人です。勇気の人、行動の人、変革の人です。

あわれみ深い者は、自分以外の人に目を向ける人です。他者の心に寄り添い、耳を傾け、持っているものを与え、支え、励ます人、つまり愛の人です。
心のきよい者は神のきよさに関心があり、他者を見下して特権意識を持つタイプではないので、神だけを見るようになります。
平和をつくる者は、暴力や嘘を用いません。争いの間に立つ勇気を持ち、忍耐強く平和を作ります。家庭にも、職場にも、国と国の間にも平和が必要です。
義のために生きると迫害されます。正義、愛、平和、信仰のために行動を起こせば、必ず反発や誤解や暴力を受けます。それでも進み続ける人が神の国を作ります。

あなたは、今、この中でどの心を持っていますか。
 あなたは、どんな心が欲しいですか。
 あなたは、この中で、何をしていますか。


2、地の塩、世の光

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:13~16)

 神の国を作ろうとする人は、主イエスを信じる信仰のゆえに、ののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口を受けると主イエスは予告されました。そして、そんな時こそ喜びなさいと言われました。

 クリスチャンの基本的役割は、「塩」であり「光」だと主イエスは教えました。塩とは、社会の腐敗を止めるもの。光とは暗い世界を照らすもの。
 クリスチャンが、塩として働くことを止めるな、光であるのに隠れるな、と主イエスは言われました。私たちが誠実に歩むなら、人々は神の栄光を見ることになるのです。

インドは約100年間イギリスの植民地にされ苦しみました。独立のきっかけを作ったのはガンジーでした。イギリス政府が塩の専売を行い、インド人は海から塩を作ることさえ法律で禁じられてました。1930年3月12日、ガンジーはイギリス政府による塩の専売に抗議し、アフマダーバードからダンディー海岸まで380キロの道を80人の支援者と23日かけて歩き、数千人が途中から加わりました。この行進は大きな影響を与え、非暴力、不服従を貫いたガンジーがインドの独立を勝ち取りました。塩の行進はキング牧師に大きな影響を与え、1963年のワシントン大行進につながります。
銃撃事件で友達を失ったフロリダの高校生は、銃販売規制を求めて今年2018年3月24日にワシントンに集まります。新たな行進です。若い高校生たちもアメリカを変えることができます。

ある若いクリスチャン女性が会社で働いていました。所属部署では会社のお金をごまかしてみんなの飲食費に当てていました。上司は彼女に、そのお金の管理係りに指名しました。彼女は、その実体を初めて知って、これは間違ってます、いけないことです、私にはできませんとはっきり言いました。これも、神の国を作る小さな働きの一つです。

 罪を悔い改め、主イエスを信じた人は、神の国を作るという使命を与えられます。誰かに職業は何ですか聞かれたら、こう答えて下さい。「キングダムビルダーです」神の国を作ることが私の仕事で、そのために保険会社に勤務し、主婦をしていると考えて下さい。
山上の垂訓には神の国を作るために必要な、マインドとアクションが語られています。今日の箇所は、その中でも最も大切で基本的な心構えが書かれているのです。8つの心を持って、今週、あなたもキングダムビルダーになって下さい。

 →あなたの番です  
  □心貧しい罪人でも、悲しみで涙するあなたも、用いられる  
  □家庭と職場と社会で神の国を作ろう
  □小さくても光をともせば、神の栄光が現れる

マタイ4:1~11  野の誘惑


 悪魔の誘惑は、主イエスが御霊に導かれる中で起きました。

1、誘惑の目的

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。(マタイ4:1)

主イエスはヨルダン川を後にして、死海周辺と思われますが、荒涼たる荒野に入って行かれ、40日間断食されました。祈りに専念されたのでしょう。

主イエスは、悪魔の猛烈な誘惑にさらされ、私たちと同じように戦われました。「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

悪魔はこの時、二つの狙いを持っています。まず、主イエスが罪を犯すことです。どんな小さな罪でも主イエスが罪を犯せば、私たちの罪の身代わりにはなれません。
もう一つは、主イエスが十字架にかからないようにすることです。たとえば、主イエスが医者として有名になるとか、ローマ帝国からの独立を勝ち取る政治指導者になるなら、主イエスは成功者にはなれますが罪をあがなう救い主にはなれません。

私たちが誘惑に出会い、負けてしまえば罪を犯します。罪意識に苦しみ、神が遠くになったと感じます。誘惑に勝つ方法はあるのでしょうか。



2、石をパンにする=欲望

そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:2~4)

 悪魔は、主イエスの空腹時に、石をパンに変えて食べなさいと誘惑しました。最初は、小さな誘惑をしかけました。

 第一番目の誘惑の標的は何でしょう。欲望です。

 自分の欲望を満たすために、神の力を利用して奇跡を行う。それは、神の子、救い主がしてはいけない事です。神の子なのだから、石をパンに変えることができるはずだとプライドもくすぐりました。

一時的な欲望を、不正な方法を用いて満足させようとすると、刹那的な喜びしかやって来ません。嘘は嘘を生み、盗みは盗みを生み、性的罪は性的罪を生み、やがては欲望から抜け出せない下降スパイラルに陥って破滅します。

主イエスの答えはこうでした。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」旧約聖書、申命記8:3を引用されて、悪魔の誘惑を退けました。神の言葉を実行するとさわやかな満足感がやってきます。本当の満足は神と共に生きることです。神の言葉を食べ、実行するとき、満たされるのです。

 あなたの弱点の欲望は何ですか。食欲。性欲。金銭欲。
銀行の金を盗んで女に貢いで豪遊する支店長と、真面目に働いて貯金して初めて家族でハワイ旅行をする銀行員、どちらが本当に満ち足りるかあなたは分かるはずです。


3、身を投げよ=名声

すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5~7)

 悪魔は次に、エルサレム神殿の一番高い所から飛び降りてみよ、と主イエスに言いました。父なる神が主イエスを守られるのだから、何事もなく地上に降りられるはずだ。詩篇91篇まで引用して主張の正統性を訴えました。悪魔は聖書を知っていました。

 二番目の誘惑の標的は何でしょう。名声です。人気です。誰もいない荒野の崖の上から飛び降りろと言われたら、誰もが断るでしょう。無意味な話なので誘惑にすらなりません。神殿には常に大勢の人々が集まっていたので、目立つ場所から飛び降りて無傷なら、大喝采を受けます。宗教的スターになれるし、勇気をたたえてもらえます。
 
 私たちにとっても、人気は誘惑です。フェイスブックで「いいね」をもらったり、ツィッターで一番人気になれるなら、手段を選ばない人もいます。

 「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」主イエスは、申命記6:16を引用し、神を試みるのはいけない事だと反論されました。神の力を利用してはいかねいのです。

主イエスは、人気取りのために奇跡を行いませんでした。重い病人、生まれつきの盲人、歩けない人に出会うと、いやされました。そこには、おごそかな神の栄光があらわれました。奇跡は人々の救いと神の栄光が現れる時なのです。求めるべきは、自分の人気や名声ではなく、神の栄光なのです。



4、世界の栄華=権力と富

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(マタイ4:8~11)

 三番目の誘惑で悪魔は、自分を拝むなら全世界を与えようといいました。

 「国々とその栄華」とあります。この誘惑の標的は、権力と富です。

 最後の誘惑はとてつもなく大きな代償が示されました。世界の支配者になれる、世界の富を自分のものにできる。代償が大きすぎると人は誘惑に負けます。

 この白い薬をあのコップに入れてほしい、そしたらテンミリオンを上げよう。この薬を手に取ってくれるだけで手付金のワンミリオンを渡そう。この種の誘惑に勝てますか。

主イエスは言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と申命記6:13の言葉を引用して誘惑を退けました。
主イエスが「引き下がれ、サタン」と言われました。得られる報酬がどんなに莫大であっても、まことの神以外を神として礼拝してはいけません。私たちが偶像礼拝を強要される時は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」という言葉を思い出しましょう。

 主イエスの目指していることは、世界の支配者になることや世界の富を独り占めにすることではなく、世界に仕えることです。ご自分の命を差し出して、罪と滅びから人々を救うことを目指しています。
 会社の社長、政治家、色々な部門の責任者は、自分の仕事や決断が本当に人々を幸せにするものか、権力と富を獲得するためなのか、見つめ直すことが必要です。

 誘惑に勝つ方法は、一人で立ち向かわないことです。信頼できるクリスチャンにあなたの誘惑を話し、祈って支えてもらって下さい。また、聖書の言葉はあなたに勇気をくれます。祈りの中で聖霊の守りと導きをもらって下さい。誘惑を振り払い、神の道を選べるならあなたは本当の満足を得ます。

 欲望。名声。権力。

 主イエスは、あらゆる誘惑を退け、十字架の道に進んでいかれました。あなたも、その足跡について行きましょう。

 →あなたの番です。
  □欲望でなく、みことばを行う満足を体験しましょう
  □名声でなく、神の栄光を求めましょう
  □権力でなく、仕える心を喜びとしましょう

マタイ3:13~17 父の眼差し


 私の手元に、私の子供時代の白黒写真があります。父が仕事で乗船していた貨物船の煙突を背景に、5歳くらいの私が両手を腰にあて、誇らしげに父の帽子をかぶって笑っている写真です。父の船に初めて乗れた喜びが見て取れます。
 この写真は父がシャッターを押したのだと最近になって気づきました。父の優しさや喜びや希望がこの写真に込められていたと分かってじーんとしました。
 今日の聖書箇所には、御子イエスに注がれた父なる神の愛に満ちた視線が見て取れます。


1、正しい事をする

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。(マタイ3:13~15)

 主イエスの公生涯の第一歩は、正しいことを行うことでした。
バプテスマをさずけて欲しいという主イエスの願いを聞いて、ヨハネは強く拒否しました。それは、主イエスが罪のない方で(第1ヨハネ3:5)、罪の悔い改めのバプテスマは不必要だったからです。主イエスが神の御子で、ヨハネは主イエスの靴の紐を解く値打ちもないと理解していたからです。

 「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と主イエスは言われました。神は正しいことを行う方であり、神に造られた私たち人間も正しいことを行うように造られているのです。
考えてみましょう。あなたの身の回りにある正しいことは何ですか。職場で正しいこと、家庭で正しいことは何ですか。正しいことを実行しましょう。

悪いことではなく正しいことを選ばれたというだけでなく、主イエスは謙虚に正しいことをされました。主がバプテスマを受けるという事は、謙虚さの極みです。私たちが正しい事をする時も、謙虚さを忘れないように。

 もう一言。主イエスを信じた人で、まだバプテスマを受けていない人がいるなら、受けてください。一般の人は、バプテスマは立派なクリスチャンの印と思い込んでいますが、それは誤解です。バプテスマは卒業式ではなく、入学式です。



2、三位一体の神のフェローシップ

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ3:16)

聖霊は、この時、目に見える形をとって主イエスに下りてこられました。聖霊を見たのは主イエスだけではありません。バプテスマのヨハネも、鳩の姿をとった聖霊が下るのを見たと証言しています。(ヨハネ1:32)
鳩の姿は、聖霊が主イエスのもとに、天から下って来たことを表しています。また、平和の象徴の鳩が、聖霊の優しさを示しています。主イエスの生涯はすべては、聖霊と共に歩む日々になりました。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)

 聖書には三位一体の神に言及している箇所が複数あります。たとえば、マタイ28:19、ヨハネ15:26、第二コリント13:13、などは有名です。
今日の場面は、三位一体の神が、歴史の中で、人の目や耳で確認できた唯一の瞬間という意味でとても貴重です。主イエスが神の子であり、まことの救い主であることを客観的に証明する歴史的事実です。

父なる神は天の高みから地上の主イエスに「愛する子」と言われました。主イエスは父なる神から熱烈に愛されていました。主イエスも、十字架にかかるまでの日々に父なる神からの愛がどうしても必要だったのです。
聖書の中で、父なる神が特定の人物に対して、心からの喜びを表したことは、歴史上、この箇所以外はありません。

父なる神は、主イエスがへりくだって洗礼を受けた姿を喜び、これからの活動を応援されました。あなたはわたしの子、わたしはあなたを愛する、あなたの存在は私の大きな喜びだと、父なる神は大声で言われたのです。それは、私たち人間のためというより、愛する一人息子に対する声援だったのです。

1992年のバルセロナオリンピック陸上400mの準決勝で金メダル候補の一人、イギリスのデレク・レドモンド選手(Derek Redmond)は良いスタートを切りました。160mまで走ったところで肉離れを起こし、激痛に顔をゆがめてしゃがみこんでしまいました。ストレッチャーで搬送しようとした医療チームを振り払い、17歳のデレクは片足で走り始めました。しばらくすると一人の中年男性がコースに出て来て、デレクに肩を貸して何かを言いました。それは、デレクの父親のジムでした。「もう走る必要はない」と父が言うと、「最後までやる」と息子は答え、「それなら、一緒にゴールしよう」と父は語り、二人でゴールしました。65000人の観衆は立ち上がって二人の健闘をたたえました。
父の眼差しは息子に注がれていました。

主イエスのバプテスマの瞬間、父なる神の眼差しはひとり子イエスに注がれていました。主イエスの十字架に至る走路には数々の困難の待ち構えていました。へりくだってバプテスマを受けるところから一歩を踏み出した御子イエスを父なる神は喜び、天からはっきりと声をおかけになりました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」主イエスも、その声でどんなに力づけられたことでしょう。

主イエスは、神の国は近づいたと宣言されました。愛を注ぐ父なる神。鳩のように穏やかな聖霊。謙虚な神の御子イエス。この三位一体の神の温かい交わりこそが、神の国の始まりを知らせています。私たちもそのフェローシップに招かれています。

仲良し家族の夕食に招かれたゲストにように、私たちも神の愛の交わりの中に包まれ喜びをもらいましょう。そのような交わりの中で、私たちは正しいことを謙虚に行えるようになるのです。


→あなたの番です
 □正しい事を謙虚に行いましょう
 □三位一体の神とのフェローシップの中で生きていこう

マタイ3:1~12 バプテスマのヨハネ

 一人のテニス審判がこう言い残して死にました。「あの試合は清水が勝っていた。」
 1921年のデビスカップで、日本の清水善造選手とアメリカのチンデル選手が戦い、清水選手の鮮やかなサーブが決まり、チンデル選手は握手のためにネットに歩み寄った時でした。審判のフォーテスク氏は、ボールがネットにかかったと宣言しました。落胆した清水選手はそれをきっかけに崩れて試合に負けました。ボールはネットに触れていません。誤審ではありません。日本人に負けたくなかったのです。
 何年間も、フォーテスク氏は自分の過ちを忘れることができず、告白してから亡くなりました。

 人は、自分の人生を清算したいと思っています。そのきっかけを探しています。
 


1、荒野の矢印

そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。(マタイ3:1~4)

私が映画監督なら、この箇所を以下のように撮影します。
最初のシーン:荒涼とした死海周辺の景色が左から右にゆっくり見せます。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という声が聞こえ、叫んでいる人物は映しません。ヨハネの本質は声だからです。ヨハネが活動した場所は、死海にヨルダン川が注ぎ込む付近の荒野。ヨハネのメッセージは主イエスと同じで、悔い改めと神の国です。主イエスを信じた後、あなたも、神の国を建設することが人生の主な目的になります。
第二のシーン:道行く旅人に叫ぶ男の姿をカメラで下から上に見せる。らくだの毛皮の着物、皮のベルト、伸びきった髪の毛。2000年前のユダヤでも、こんなワイルドな服装をした人は皆無でした。預言者エリヤを彷彿させます。
第三のシーン:ひげ面の口をクローズアップ。イナゴが放り込まれてむしゃむしゃと食べる。棒の先に付けられた蜂蜜が口に入る。これが荒野で手に入る食料でした。
第四のシーン:洗礼者目線でヨルダン川の水中から上がる場面を撮る。そこにヨハネの顔のクローズアップ。イザヤ書40章3節の言葉が画面に映し出され、ナレーションが入る。「彼はバプテスマのヨハネと呼ばれた男、救い主の道を用意する預言者、荒野で叫ぶ声」

ヨハネが祭司の家系に生まれ、救い主の道を整える者になると出生前に天使が告げられた人物(ルカ1章)だったことを、マタイは意図的に書きません。
ヨハネの本質が、荒野で叫ぶ声だからです。彼は救い主を指し示す道先案内の看板です。ただただ、人々に罪の悔い改めをうながし、救い主に会う備えをさせました。

私たちもバプテスマのヨハネと同じ使命を与えられています。生活の場で、職場で、学校で、どこででも、救い主イエスがいると矢印を出しましょう。


2、人生のリスタート

さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(3:5~10)

 バプテスマのヨハネは、誰も恐れずに同じメッセージを語りました。ヨハネは国主ヘロデの罪を指摘し(14:4)命の危険も恐れません。宗教家のパリサイ人や祭司のサドカイ人にも手加減しません。お前たちは偽善者だ、お前の本質は毒蛇だ、まむしの末だ。悔い改めの実を結ばないなら、形式的なバプテスマは無意味だと責めました。実を結ばない木を農夫が斧で切り倒すように、罪人には神の処罰が待っていると告げました。

 なぜ、こんなに男たち女たちが、わざわざ荒野までやって来て、バプテスマを受けたのでしょう。ヨハネは、神の愛を語りません。優しい言葉や慰めを言いません。罪を悔い改めよと命じただけですが、立派な大人たちが公の場で自分が罪人だと告白したのです。

 人はみな、過去を清算したいのです。ごめんなさいと神に言って、人生をやり直したいのです。

 昔、朝日新聞の投書欄に中年男性の告白がありました。つまらぬ事で、夫婦が言い争いになり、妻が出て行く言い出しました。奥さんが荷造りしたバックの中身をちょっと見ると、テッシュペーパーに包んだ宝石類がありました。女房が自分で買った安物で、目の奥がつんとしました。俺は、今まで指輪ひとつ買ってやったことがない。すまん。オレが悪かったと、書いてありました。素直にゴメンがいえない中年男の悲哀です。
新聞に投稿せずに、ごめんなさいを奥さんに言いなさい!と思いました。

今日、あなたは、ごめんなさいと言いたい事がありますか。神に向かって罪を悔い改めましょう。必要ならば、目の前の人にも、ごめんなさいをきちんと言いましょう。

自分の犯した過ちを進んで告白した人がいたら、その勇気をたたえ、良く言ったと受け止めてくれる家庭や職場があったら素晴らしいと思います。ごめんなさいと子供に言える父親。私が悪かったと夫にあやまれる妻。そんな互いを抱きしめられる家庭になりたい。
 

3、救い主を指し示す

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(3:11~12)

 ヨハネは、自分が尊敬されること、目立つことを嫌がりました。自分は救い主を指し示すだけの看板だ。口から発したら消えてしまう荒野の声に過ぎない。だから、救い主の履物を脱がせる価値もないと言いました。
 また、ヨハネは水のバプテスマをさずけるが、救い主のイエスは聖霊のバプテスマを授けて下さり、人々を聖霊の交わりと守りの中に入れてくれる方だと説明しました。自分と主イエスは次元が違うと述べました。
 主イエスは救い主ですが、世の終わりには裁き主にもなるとヨハネは語りました。ちょうど農夫が脱穀された麦を箕に入れ、風の力で籾殻を飛ばして実を選別し、いらない部分を焼いてしまうように、世の終わりに主イエスも同じことをされると述べました。
 だから、悔い改めるなら、今、なのです。

 今日のポイントは二つあります。
 罪を悔い改めて、人生のリスタートをしましょう。
 ヨハネのように、主イエスを指し示す矢印になりましょう。矢印は立派である必要はありません。まっすぐ主イエスを指させば良いのです。

 ロンドン市内の駅でアジア人女性を見つけ、「おいしいインド料理の店を近くで知っていますか」と私たち夫婦が尋ねたことがありました。彼女は親切に教えてくれて、実は日本人でした。話の最後に彼女は、「私は日曜日は教会に通っています。今度の日曜日においでになりませんか」と言いました。私たちはにっこりして、牧師夫婦であることを告げました。その数週間後、私はその教会の礼拝でメッセージを語らせてもらいました。
 あなたも、あなたの方法で矢印になれます。

 →あなたの番です
  □罪を悔い改めよう
  □いつでも、主イエスを指し示す矢印になろう
 


マタイ2:13~23 夜のうちに


1、逃げる

彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。(マタイ2:13~15)

マタイ1:20を見てください。ヨセフが夢の中で主の使いの言葉を聞くのは今回が始めてではありません。婚約者マリヤの妊娠で悩んだ時に、それは聖霊による妊娠であり、救い主の誕生なのだと主の使いが教えてくれました。
東方の博士が帰った後、ヨセフは夢を見ました。主の使いは、エジプトに逃げなさいと指示しました。理由は、ヘロデ王が殺そうとしているということでした。

ヨセフの行動は敏速でした。ヘロデの兵隊が明日来るかもしれない。夜、動いた方が人目につかない。夜のうちにマリヤも赤ちゃんも連れてベツレヘムを去りました。博士たちからもらった宝物はエジプト滞在費になりました。

 逃げる。それは立派な選択肢です。

 学校でいじめられたり行き詰ったら、転校しましょう。
会社の職場環境が劣悪なら、良い仕事を探して、転職しましょう。
疲れきったり、燃え尽きたら、リタイヤしましょう。
近所とのトラブルで苦しむなら引越しましょう。
借金解決の最終手段として自己破産もあります。お金のために死ぬことはありません。
 暴力亭主、アルコール依存の夫に殺されそうなら、逃げましょう。
 アメリカでダメなら、日本に帰ってやり直しましょう。

逃げることは敗北ではなく、人生を立て直す道です。家族を立て直すための勇気ある決断です。立ち向かえない強敵ならば、戦わずに去りましょう。
逃げてもよいのです。



2、歴史上の事実

その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」(マタイ2:16~18)

 ヘロデ王は巨大な建造物をいくつも作った権力のある王でした。同時に猜疑心の強い人物で、息子のうち3人を殺し、妻を殺し、義理の母を殺し、家臣たちを殺害した人物でした。新しい王として生まれた赤ちゃんの所在がつかめないので、ヘロデはベツレヘムで生まれた赤ちゃんを皆殺しにしました。

 預言者エレミヤは約600年前、ラマという町に人々が集められバビロン捕囚として連れて行かれる様子を、エレミヤ書31:15に記録しました。バビロン捕囚とは、つまり奴隷になるということです。ラマはベツレヘム近郊の町でした。
そのずっと昔、ヤコブの妻ラケルはこのベツレヘムに埋葬されました。ラケルは二人目の子供ベニヤミンを生んで直ぐに死亡しました。ベツレヘムにはラケルの涙も染み込んでいたのです。そして今、ベツレヘムで赤ちゃんを失った多くのお母さんたちの涙が流れました。預言者エレミヤは、未来を知らないままこの悲惨な出来事を予告していたのです。聖書が神の言葉といわれる理由の一つは、こうした預言の成就にあります。

ベツレヘムの赤ちゃん虐殺事件をマタイが記録したのは理由は二つあります。第一は、エレミヤの預言が成就したことです。第二は、博士がヘロデを訪ねた事が歴史的事実だということを指摘したかったのです。博士たちがヘロデ王に面会したからこの虐殺が起きたのです。

聖書が道徳や哲学の書と考える人がいますが、聖書はまず第一に歴史的な記録であることを忘れないでください。道徳、ことわざ、教訓、知恵は役にたちますが、人を罪から救うことはできません。主イエスは、歴史的に実在したお方で、実際に十字架で死に、よみがえってくださった方です。そこにキリスト教の独自性があります。



3、帰る

ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。(マタイ2:19~23)

 ヘロデは紀元前4年に亡くなりました。
3度目になりますが、主の使いが夢に現れてヘロデの死を告げ、エジプトを離れるように命じました。ヨセフはそれに従いました。さらに、主の使いは4度目に現れ、ヘロデ王の息子アケラオが支配するユダヤ地域を避け、北部に住むように命じました。それで、北部の田舎町ナザレで生活することになりました。

 主イエスの母マリヤの信仰が素晴らしい事は良く知られています。神への従順、神に不可能はないと理解する心、忍耐などがマリヤの素晴らしい点です。今回、夫ヨセフの行動を見て、彼もまた立派な信仰者だと思いました。

 「立って」という言葉を主の使いは用いました。ヨセフは慣れ親しんだ環境に留まりたかったでしょう。でも、そこを出よとプッシュする意味で「立って」と強調しました。今度は、帰れとの命令です。それは、使命達成のためでした。救い主は、エジプトにいては何もできないのです。

あなたは、主から、帰れと言われているかもしれません。あなたが使命を果たすのは今いる場所ではなく、ホームです。故国に、故郷に、本来いるべき所に帰りましょう。

 「ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(2:14~15)
 「彼は、立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。」(2:21)

→あなたの番です
 □必要なら、そこから逃げましょう  
 □指示があったら、ホームに帰りましょう