マタイ9:27~31 ふたりだから

 一人と二人。大きな違いがあります。


1、ふたり


 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。(マタイ9:27)

 目が見えないなら道も分からないし主イエスの姿も顔も見えないから、盲人が二人いても何の役にも立たないと考えるのは大間違いです。

 イエスさまは道端では何の反応もしてくれませんでしたが、盲人の二人は親友だったのでしょうか、あきらめず、励まし合ってイエスさまについて行けました。ギリシア語の2は、デュオです。二人だから立ち向かえたのです。

 「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。」(伝道者の書4:12)

 あなたも、この盲人の二人のようになりましょう。クリスチャンの友達を作って下さい。今の年齢からでも遅くありませんから、祈り合える友、助け合える友を作りましょう。



2、あわれんでください


 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。(マタイ9:27)

 二人は、主イエスを「ダビデの子」と呼びました。マタイの福音書で、実際の人物が主イエスをダビデの子と呼んだのはこの盲人の二人が最初でした。

 マタイ12:23では、民衆が「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言っていました。マタイ21:9では、人々はイエスさまがダビデの子であると確信して「ダビデの子にホサナ」と歓迎した様子が書いてあります。
 マタイの福音書の冒頭に、主イエスがダビデの子であると書かれています。マタイの福音書のテーマは、旧約聖書が預言した救い主がイエスであるということです。その観点から言うなら、この名もない盲人こそが、救い主に初めて気づいた人物なのです。目は見えませんが、心の目は誰よりも見えていました。

 「あわれんでください」という言葉は、ギリシア語で「エレイソン」です。カトリックのミサで歌われる「キリエ・エレイソン」というラテン語の賛美の、憐れんでくださいという言葉と同じです。
 「あわれんでください」とは、二重の意味が込められています。主イエスの深い愛で包んで下さい。そして、今直面している問題から助け出して下さいという祈りです。目が見えるようにして下さいという願いを込めて、あわれんで下さいと叫んだのです。

 あなたも今、この祈りが必要ではありませんか。主イエスの愛、主イエスのあわれみ、主イエスから来る慰め、主イエスが共にいてくれることが必要です。今、目の前の問題からの脱出が必要です。助けて下さいと祈りましょう。




3、信じたとおりに

 家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。
 イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。(マタイ9:28~31)

 群衆のたくさんいる往来の真ん中で二人の目をいやしたなら、好奇の目にさらされます。場合によっては、ユダヤ当局の監視を受けたり、イエスの宣伝を助けるための嘘だと捕縛される可能性すらあります。それで、いやされた事を知らせるなと主イエスが言われたのでしょう。残念ながら彼らは、嬉しすぎて主イエスの忠告を無視してしまいます。

 主イエスは、家の中で、落ち着いて、二人と語り合い、彼らの信仰を明確にしてあげたいという意図を持っていたので、戸外では二人に取り合いませんでした。
 主イエスは、わたしがあなたがたの目を開けられると信じているのかい、尋ねました。盲人たちの信仰告白を導き出す質問でした。「そうです。主よ。」と二人は応えました。

 主イエスは、二人の目に手で触れて、言われました。「あなたがたの信仰のとおりになれ。」すると、見えるようになりました。

 盲人二人が、少し明かりを感じる程度にして下さいとか、片目でも見えればいいと考えていたなら、そうなったでしょう。でも、二人は、普通に見えるようになりたいと願いました。それで、完全に見えるようになったのです。
 今日も、主イエスは、あなたに言われます。あなたの信じたとおりになるよ。あなたは、何を願っている。そんな程度の願いで本当に充分かな?


 まとめます。誰かと二人で立ち向かいましょう。主のあわれみを祈り求めましょう。信じたとおりになると、主イエスを信じて下さい。

 ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。

「あなたがたの信仰のとおりになれ。」
 

 →あなたの番です
  □ふたりで立ち向かう
  □「あわれんで下さい」と祈る
  □信じたとおりになる

マタイ9:18~26 差し伸ばす手

 
会堂管理者と長血の女。二人は似ています。
二人とも絶望していました。ところが、どん底から立ち上がりました。
鍵は、反意接続詞と未来受動態です。


1、でも <反意接続詞>

イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。(マタイ9:18~19)

会堂管理者の12歳の娘が危篤状態に陥った。その後、娘は死んだという通知が来た。これは、父親としては絶望的な状況です。

絶望と悲しみの時に、誰と共にいるか、誰と語り合うかがとても大切です。会堂管理者は、娘が死んだという知らせを聞いても、主イエスのそばにいるという選択をしました。イエスのそばに立ち、主イエスと語らい、イエスの御顔を見ていたので、「でも」(原文では、ἀλλと言えたのです。娘が死んでも、「でも」と言い我が家に来て娘の上に手を置いて下さいと言えたのです。山登りで滑落したとき、ピッケルを斜面に突き刺して自分の体を止めるように、会堂管理者は絶望の滑落を止める「でも」を言えました。


会堂管理者は言いました。「でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。」私たちも、同じように言ってみましょう。

イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。
(マタイ9:23~26)

 会堂管理者の家にいた人々は、主イエスのことばを聞いてあざ笑いました。主イエスはそれを意に介せず、娘の部屋に入り娘の手を取りました。すると、死んでいた娘は起き上がりました。死から生き返ったのです。奇跡です。

 あなたの番です。すべての人間的可能性が閉じられても、人々にありえないと笑われても、「でも」と言ってみましょう。「でも」という反意接続詞は、信仰の言葉です。



2、きっと直る <未来形、受動態>

すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
(マタイ9:20~22)

この女性は、会堂管理者と同様に、絶望しきっていました。病気で長い間苦しみ、十二年の間は絶えず痛みにさらされ、出血に悩まされ、治療費もかなりの額を払いましたが直りません。12年間、絶望していたのです。
そんな時、主イエスの人柄や教えや奇跡を聞いて元気づけられたのです。「きっと直る」と考えたのです。ただし、これは、彼女の努力によって直るとか、彼女がそう思い込めば直るということではありません。
新改訳2017はここを、「私は救われる」と訳しています。原文はσωθήσομαι、文法的にいうと、未来形、かつ、受動態です。主イエスによっていやされる、という信仰です。

彼女のように出血を伴う婦人病の場合、汚れを背負っていると当時はみなされたので、主イエスの正面に出て「いやしてください」と頼むことは無理でした。

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」

それで彼女は、今までに前例のない方法を実行しました。主イエスに手を置いていただかなくても構わない。私のためにいやしの言葉を発してもらうこともはばかる。イエスさまに、自分の存在を認めてもらわなくてもいい。主イエスの着物に触れてみよう。群集に紛れて、後ろから、イエスさまの衣に触りました。すると瞬間的に直ったのです。
未来形で、受動態で、いやされると信じたので現実には何もしない。それは、彼女の態度ではありません。アクションしました。主イエスの衣に後ろから触れたのです。

イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。

あなたも、長血の女と同じような境遇にいるかもしれません。とてつもなく困難な問題に直面し、絶望の日常化という試練の中で、解決の前例を見たことがない。それなら、彼女と同じようにしましょう。神の設定された未来のある時に(未来形)、主イエスが主語になりあなたが救われる(受動態)。そう信じましょう。前例がなくても、あなたらしいオリジナリティーのある行動を今、取ってみましょう。それが、信仰です。

 あなたの番です。
 もう娘は死んだ、すべての扉が閉ざされたと思える事柄に直面していますか。直る見込みがなく12年間も苦しんできた病気のようなものを抱えていますか。
 現実を直視しつつも、「でも」と言いましょう。現実の困難さを知りつつも、きっと主イエスが私を救い出して下さると、手を伸ばして主イエスの衣に触れましょう。

「でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。」
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」

 →あなたの番です
  □厳しい現実に直面しても、「でも」と言いましょう
  □主イエスが救い出して下さる、と言いましょう

マタイ9:14~17 新しい皮袋

1、断食すべきだ

するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(マタイ9:14)

 バプテスマのヨハネの弟子たちがイエスのもとにやって来て、十二弟子たちを批判しました。主イエスに対する批判のつもりで弟子たちの生き方を非難したのです。

 宗教家ならば断食するのは常識だ。なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのか。バプテスマのヨハネよりもイエスのほうが有名になったので、バプテスマのヨハネの弟子たちが嫉妬心にかられて抗議したのでしょう。本来は敵対関係にあるパリサイ人を自分の仲間とみなしているのは驚きです。敵の敵は仲間になるのです。

 当時パリサイ人たちは月曜と木曜に断食していました。(ルカ18:12)自分たちが高い宗教性を持っていることをひけらかしていました。主イエスは山上の垂訓で、断食の偽善性を批判したのは(マタイ6:16~18)、まさに、こういう種類の断食の事でした。



2、花婿と花婿の友人

イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。(マタイ9:15)

なぜ断食しないのかという質問への答えがこれでした。主イエスは花婿であり、十二弟子たちは花婿の友人に当たります。だから結婚式で断食するなどありえないのです。
ただし、花婿が死んだときには、断食すると述べました。これは、十字架の死を暗示しています。

実は、主イエスの出現によりバプテスマのヨハネの人気が陰り、バプテスマのヨハネの弟子たちが心配している様子がヨハネ3章に記録されています。主イエスを花婿にたとえ、自分を花婿の友人の立場に置いたのはバプテスマのヨハネでした。バプテスマの弟子たちに、彼らの先生の言葉を思い出させているようです。

「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:29~30)

 私たちが親友の結婚式に出席し、親友の横に立っている場面を想像して下さい。花婿の喜びは友人の喜びになります。私たちの最も大切な友人であるイエスさまの結婚式に招かれて、私たちが花婿の喜ぶ姿を自分のことのように喜ぶ。これが、主イエスを信じた人の心の底に流れている喜びです。



3、新しい皮袋

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:16~17)

 16節と17節の意味は同じです。繰り返して強調しています。古い洋服が裂けた時、新しい布でつぎあてをすると、新しい布が強いので引き伸ばされた瞬間に古い生地が裂けてしまいます。
同じように、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら、発酵して膨張するので古い皮袋はその圧力に耐えられなくなり破裂します。

イエスさまを信じて変えられた心は、新しい布のようなもので、力があります。また、イエスさまを信じた私たちの心は、新しいぶどう酒のようで、新鮮で、ふくらむ力を持っています。

ですから、律法的な生き方、伝統や習慣や世間に合わせる生き方は似合いません。外見だけ飾る空しい生き方は無用です。否定的で、後ろ向きの口癖も過去のものです。

イエスさまを信じた人は、内面が変わり、親友の結婚式のような喜びが生まれ、最終的には、実際の生き方が変わります。新しいぶどう酒を入れるにふさわしい新しい皮袋が身についていきます。

「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

休暇で私たち夫婦は先週ドイツを旅してきました。ルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルクの教会に95か条の質問状を掲げた教会を訪れ、深い感動を受けました。ルターはその町の大学で、29歳から34歳まで、約5年間、詩篇やローマ書などを講義しました。その中で、人間の努力や苦行によって神の義を獲得することはできず、主イエスの十字架によって与えられる神の義が人を救うことを聖書から確信しました。聖書に反した行為、特に、当時教会で行われていた免罪符などに反対しました。
その結果、カトリック教会から破門され、命の危険にさらされ、1521年、ヴァルトブルク城にかくまわれ、10週間で新約聖書をドイツ語に翻訳しました。(その部屋を見た時は強い感動を受けました)聖書と言えば当時はラテン語聖書だけしか無く、民衆は読めませんでした。また、修道士は結婚を禁止されていましたがルターは修道女と結婚、3男3女をもうけ、温かい家庭を作りました。また、礼拝ではラテン語の賛美歌を聴くだけの聴衆でしたが、ルターみずから歌詞を作り、リュートも演奏し、作曲もし、民衆が歌える讃美歌を礼拝に取り入れました。
ルターは、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れた人でした。

主イエスを信じ、主イエスにもらった新しい命が私たちの内で始まったのですから、私たちの外側、生活スタイルも自然と変わっていきます。
あなたの新しい皮袋とは何でしょう。新しく始めたい生活スタイルは何でしょう。正直さ、温かさ、平和、くじけない心、赦す姿勢など、あなたの新し皮袋があるはずです。

  →あなたの番です
   □親友の結婚式に出席している喜びが心にある
□内面の変化が外面の変化を生む
□新しい生活スタイルを始めてみる



マタイ9:1~8 罪を赦す

 一番深い問題は、罪です。

1、罪の赦しを求めてる

イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9:1~2)
 
 脳出血の深刻な後遺症のため、寝たきりになっていた男性がいました。彼の友人達は、彼を主イエスにいやしてもらおうとして、担架のような物に乗せて4人で運んで来ました。マルコやルカの福音書を読むと、家が人でいっぱいだったので、その4人が屋根に穴を開けてまでして、中風の男性を主イエスの前につり降ろしたことが分かります。マタイは詳細を省き、ポイントを絞って書いています。屋根を壊してまで主イエスに会わせたかった理由がきっとあるはずです。

 連れて来たのは家族ではなく友人でした。主イエスは、4人の信仰を見たので対応されました。寝たきりの男性の信仰を見たからではないのです。脳出血で一命は取りとめても、体が不自由で自暴自棄になり、感情の起伏を激しくさせ、家族を苦しめていたかもしれません。彼は、その事を毎日悔いていたのかもしれません。

 主イエスは、体のいやしではなく、罪の問題に焦点を当てて、「あなたの罪は赦された。」と言われました。これが的外れなら、男性は抗議したでしょう。実は、彼の最も深刻な悩みは罪だったのです。

主イエスは、「あなたの罪は赦された」と完了形で言われました。
罪は、誰にとっても過去の事柄です。過去の出来事なのに、現在の私を苦しめ、未来も暗くします。しかし、時間を超越する神ならば、罪の解決ができます。主イエスが、命を身代わりにして私たちの罪の罰を負って下さるゆえに、罪の解決が可能です。

 天使は主イエスの誕生前にこう言いました。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)
最後の晩餐の席で主イエスは次のように約束されました。「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)



2、罪を赦せるのは神だけ
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。(マタイ9:3~5)

 主イエスと男性のやり取りを見ていた律法学者は憤慨しました。イエスが罪を赦す力を持っていると公言したので、冒涜に当たると判断したのです。
 罪を赦せる権威は神だけが持っている。律法学者もそう考えていました。もし、イエスが神でないなら冒涜です。でも、イエスが神なら、間違いなく罪は赦されたのです。

 主イエスは、罪を赦す権威を持っていることを証明するために、寝たきりの男性をいやすことにしました。



3、家に帰る

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。(マタイ9:6~8)

 主イエスが誰かに向かって、親密に、憐れみを込め、「子よ」と呼びかけたのは、福音書の中でこの箇所だけです。中風の男性はこの一言だけでも深く感動したことでしょう。男性が抱えていた罪の痛みは、この呼びかけで消え去りました。「つらかったね。あなたの本意ではなかったね。罪を止めたくても止められなかったね。後悔の念で死にたいほどだね。でも、大丈夫だよ。あなたは、私の子だ。」そういう主イエスの心が込められている言葉なのです。あなたの罪は赦されたという宣言を聞いて、彼は穏やかな心になったでしょう。

 起きなさいと言われた彼は立ち上がりました。前向きな気持ちが生まれていました。奇跡が起きました。完全に直ったのです。

 「家に帰りなさい」とあえて主イエスは言われました。男性は、妻に罪を犯したのかもしれません。子供に辛く当たったかもしれません。年老いた親を苦しめたのかもしれません。主イエスに罪赦された人は、新しい気持ちで家に帰ることが必要です。

 私たちも、主イエスを信頼して、立ち上がりましょう。あなたもいやされます。


 今日の箇所をまとめましょう。イエスは、罪を赦す権威を持つ神です。寝たきりの中風の男を瞬間的にいやすことにより、主イエスはそれを証明されました。
 キーワードは、「あなたの罪は赦された」(2節)と、「家に帰りなさい」(6節)です。

 あなたの罪は主イエスによって完全に赦されました。赦されたあなたは、誰かに「ごめんなさい」を言いましょう。ごめんなさい」という言葉は、「私はあなたを大切に思っています」、「愛しています」と同義語です。

「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」
「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」

 →あなたの番です
   □主イエスは、罪を赦す権威を持つ神
   □あなたの罪は赦された
 □「ごめんなさい」と言ってみる

マタイ8:28~34 解放するイエス

 根本的な解決よりも、楽な現状維持を望む。それが人間の常です。たとえ痛みを伴っても完全な救いを与える。それが主イエスのやり方です。
凶暴な悪霊を一言で追い出す「神の子」イエスの姿を見ていきましょう。


1、凶暴で、わめく人

それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」(マタイ8:28~29)

 当時、悪霊につかれた人がいました。イエスさまと弟子たちがガダラの地に到着すると、悪霊につかれた人が主イエスに近寄って来ました。

「彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。」とあります。悪霊に支配されていたので、外見はとても凶暴になりました。人々はその姿を見て怖がり、彼らは孤立し、墓場に住むしかありません。凶暴、孤立、支配される。これが彼らの特徴でした。

悪霊に支配された人は、その状態から助けてほしいのですが、主イエスを前にしても、「悪霊を追い出して下さい」とは言えません。逆に、わめき散らし、支離滅裂で乱暴で冷淡な態度しか取れませんでした。

この人たちは、現代人に良く似ています。凶暴で、孤立し、何かの支配下にいます。愛して欲しい、誰かと心をつなげたい、この状態から解放されたいと願うのに、口から出て来る言葉は、悪口と批判です。そんな状態が続くと、社会や他人を見る眼が凶暴になります。自分だけが不幸せだとひがみます。自分をコントロールできなくなり、何かに支配されます。人の目を気にしたり、何かに依存しないと生きていけなくなります。
 
そんなあなたを解放するために主イエスは来られました。だから救い主なのです。


2、神の子の権威

ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。(マタイ8:30~32)

 皮肉なことですが、一般人より悪霊のほうが主イエスの本質を見抜いていました。人々は、主イエスの教えを聞き感動し、主イエスの奇蹟を見て驚嘆していましたが、それ以上先には行けません。悪霊は、主イエスが「神の子」だと知っていました。
悪霊は、主イエスが戦って勝てる相手ではないと分かっていたので争いません。最後に逃れ出る先を豚の群れにしてほしいとだけ主イエスに願いました。

 この人たちに取りついていた悪霊はものすごい数で、マルコ5:9によると、ローマ兵の単位で一個師団(レギオン=6000人)だといわれています。主イエスは、その大量の悪霊を追い出しました。悪霊は、滅びる前に悪あがきをして、豚の群れ全体を崖から湖に突進させ死なせました。

主イエスは、悪霊を追い出すのに時間はいりませんでした。長い祈りも、何かの犠牲も、特別な薬も、何も必要としません。ただ一言「行け」と言われました。それだけで、悪霊は出ていきました。ここに、主イエスの神の子としての圧倒的な権威を見ることができます。
マタイ8章全体を振り返ってください。主イエスは、ツァラアトをいやし、遠くにいた百人隊長のしもべを直し、ガリラヤ湖の嵐を静め、悪霊を追い出しました。それは、全部、主イエスがたった一言、ことばを発するだけで実現しました。

主イエスは、本物の神の権威をお持ちです。あなたが背負っている問題をたった一言で解消し、あなたを束縛している問題をたった一言で追い出せます。
だから主イエスを信頼しましょう。神の子イエスに任せましょう。主イエスに「行け」と宣言してもらいましょう。



3、現状維持を望む人

飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。(マタイ8:33~34)

 マルコの福音書の並行箇所を読むと、悪霊につかれた男性が主イエスによって助けられた後、洋服をきちんと着て、落ち着いた様子になったことが分かります。それを見た人々は、恐ろしくなったと書いてあります。(マルコ5:15)

 「どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」とあります。実に奇異です。
その男を悪霊から解放してくれてありがとう、と言ってよい場面です。再び豚が崖から飛び降りたら困るという経済的な心配が優先して、主イエスに出て行ってほしいと申し出ました。
 人間は、痛みを伴う根本的な解決よりも、安易な現状維持を求めるものです。問題を抱えていてもいい、ぬるま湯が好きなのです。イエスさまに、ここから出て行って下さい、などと言わないようにしましょう。

主イエスは、あなたを様々な束縛から解放してくれます。悪の束縛からの解放、人と比較する価値観からの解放、憎しみとねたみのマインドからの解放、否定的で消極的な未来像からの解放、心配ばかりの毎日からの解放を与えてくれます。
主イエスはその代わり素晴らしいものを下さいます。罪の赦し、新しい視点、自分らしさの発見、穏やかな落ち着き、親切な思い、希望ある未来、勇気ある生活、溢れ出る命、何度でも立ち上がる心が与えられます。

1972年札幌オリンピックの女子フィギュアスケートにアメリカのジャネット・リン選手が出場しました。彼女は18歳、全米選手権4回優勝の実力者で、金メダルをねらっていました。苦手な規定演技で4位に終わり、選手宿舎で一日泣き明かしたといいます。クリスチャンのジャネットは、イエスさまに怒りをぶつけていました。狂暴な状態と言ってもよいでしょう。やがて心が吹っ切れ、自由演技の時にはメダルより大切な事のために滑ろう、神さまの愛を伝える滑りをしようと心に決めました。
自由演技は笑顔で順調な滑り出しでしたが、ジャンプで失敗、しりもちをつきました。練習でも本番でも一度も転んだことのない所でのミスなので、これは神さまのシナリオなのかなと思ったそうです。だから、立ち上がると、笑顔に戻り、会場を魅了する素晴らしい滑りになり、芸術点で満点を出した審査員までいました。
総合結果は3位、銅メダル。けれども、札幌の妖精と呼ばれ、日本で大人気になり、今では、金メダルの人は忘れら、銅メダルのジャネット・リンは今でも覚えられています。そして、今に至るまで、彼女は主イエスの素晴らしさを伝え続けています。
 
 イエスは彼らに「行け」と言われた。(マタイ8:32)


→あなたの番です
 □凶暴で、孤立し、何かに支配されていますか
  □神の子、イエスに絶大な権威があります
  □主イエスに信頼し、解放されましょう


マタイ8:23~27 湖と嵐

 経験も、知識も、努力も役立たない時に信仰が成長し、キリストの弟子が作られます。


1、ついて行くと、嵐

イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。(マタイ8:23~24)

 十二弟子全員が主イエスの後について同じ舟に乗りこみました。はっきりとした行く先を知らず、誰に会うのかも知らず、何が起こるのかも知らず、ついていきました。キリストの弟子は、このようなプロセスによって作られるのです。

 十二弟子の中でも、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はガリラヤ湖の漁師でした。嵐になりそうな天候だったら、今は止めたほうが良いと警告したでしょう。そんな予兆は何もありません。舟はしばらく何事もなく進みましたが、一点にわかにかけ曇り突風が吹き荒れました。

 十二弟子が主イエスについて行った先で嵐に巻き込まれました。これは単なるアクシデントというより、弟子として成長する機会だといえます。
あなたは、今、嵐の中にいますか。それは、キリストの弟子として整えられるための「信仰の大学院」課程なのです。

「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。」


2、信仰の薄い人

弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8:25~27)

漁師の弟子たちは、嵐の最中、経験と知識を総動員して舟が沈まないように、安全な場所に逃げ込めるようにと努力しことでしょう。けれども、自分たちの手におえない事態だと分かると、慌てふためいて主イエスに助けを求めました。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」

眠りから目を覚ましたイエスは、二つの点が問題だと弟子たちをしかりました。第一に、嵐や波を怖がり過ぎている。第二に、信仰が薄い。

主イエスが他の箇所で「信仰が薄い」と言っておられる箇所(マタイ6:30、14:31、16:8、17:20)を見ると共通点があるのに気づきます。  信仰が薄いとは、以下の状態をいいます。   ①主イエスがそばにおられることを忘れる
②困難な状況だけを見る
③心配や恐怖のスパイラルに入る

主イエスは、起き上がって、風と湖をしかりました。すると、風は止み、湖は鏡のように静まりました。それを見た人々は驚嘆しました。病をいやす主イエスは、何となく理解できるが、自然界を支配するイエスは理解の範囲を超えていました。自然をコントロールできるのは創造主である神だけです。主イエスが病をいやすだけの方でなく、自然さえも支配される神なのかもしれない、と弟子たちは畏敬の念に包まれました。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と叱られるのは少し酷かなと私たちは思います。でも、主イエスが厳しく言われた背景がありました。

弟子にとって大事な事は以下の二つです。 1)主イエスに目をとめる 2)学習したことを生活に生かす
弟子たちは、突風の強さ、波の高さ、舟に入ってくる水の量、ゆれる舟ばかりを見て、おびえきってしまいました。怖さに支配されない秘訣は、イエスさまに目をとめることです。木の葉のように揺れる船の中で、主イエスは安心して寝ておられました。

「ところが、イエスは眠っておられた。」

ぐっすり寝ておられるイエスを見れば、大丈夫だと分かります。おびえからあなたを守る方法は、イエスに注目することです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

弟子にとって、学習することが大事です。目で見たこと、耳で聞いたこと、頭で理解したこと、心で感じたこと、それら全部を蓄積し、自分の思想に落としこみ、自分の言葉に置き換え、咀嚼しなおし、何かが起きた時に蓄積したものを具体的に生かせる事が学習成果です。

おこころ一つでいやしていただけますとやって来た皮膚病の男がいやされた場面を弟子たちは直接見ました。おことば一つでしもべは直りますと言った百人隊長にも会いました。それらを、しっかりと学習しておいたなら、嵐に直面した弟子たちは何と言えたでしょう。イエスさま、おことば一つ言ってください、嵐はきっと止みます。それが学習です。学習を生活に生かすということです。


私たちの人生にも突然の嵐が襲うときがあります。その時は、嵐を怖がらないで、私たちと同じ舟でぐっする眠っておられる主イエスに信頼しましょう。学習したことを生かし、嵐との遭遇を信仰の飛躍の機会にしましょう。おことば一つで嵐は止みますと言いましょう。

イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。(マタイ8:26)


→あなたの番です
□学習した信仰を現実に生かそう
 □嵐をこわがらない
 □舟で寝ておられる主イエスに信頼する


マタイ8:14~22  見せる、鍛える

 主イエスは、ご自分のありのままの姿を弟子たちに見せながら、同時に、弟子たちの訓練を始めました。

1、見せる、主イエス

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。(マタイ8:14~15)

 主イエスはペテロの家に寄りました。休息のためかもしれません。すると、ペテロの奥さんのお母さんが高熱のために寝ていたことが分かりました。主イエスは、その年配の婦人の手に触れました。熱はすぐに引き、主イエスをもてなしました。

 「イエスさま、ありがとうございます。熱が高くて死にそうだったのに、私に触れてくれたら一瞬でなおりました。熱がさめた時は、普通はふらふらして歩けないのに、今はぴんぴんしています。奇蹟です。食事作りくらいしか能がないから、イエスさまのために食事を作りますから、食べていって下さいね。」という心境だったでしょう。

 「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」

 「もてなす」という言葉は原語でディアコネオーといいます。本来の意味は、食卓で給仕することで、仕える、奉仕すること。教会の役員、執事(ローマ16:1)は、ディアコノスという呼ばれました。もてなすという動詞が名詞になったものですが、教会の役員が名誉職ではなく誰よりも仕える者として期待されていたことが分かります。救われた者、いやされた者は、自然な応答として、主イエスに仕える者になります。


夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:16~17)

 主イエスのもとには病人だけでなく、悪霊につかれた人が連れて来られました。悪霊は、サタンの手下で、人間に取り付き、人格と肉体を乗っ取ります。悪霊に取り付かれた人は、精神的に混乱したり、肉体的には病気になったり、危険な場面に陥れられたりして苦しみました。家族の苦悩も深刻でした。使徒の働き19章を見ると、ユダヤ人の悪魔払い祈祷師がいたことも分かります。

 「イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。」

 そうした悪魔払い師が長時間の祈祷や怪しげな薬や呪文などを使うのとは異なりました。原文では、ひとつのロゴス=wordで追い出した、となっています。主イエスは、たった一言で悪霊は逃げ去りました。

 主イエスは、弱い人、病気の人、苦しむ高齢者、悪霊に苦しむ人にまなざしを向け、病の辛さを共有して下さり、いやして下さいました。
 これは、700年前に預言者イザヤが予告した救い主の姿にぴったり一致します。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 高齢の人、病のために弱っている人、苦しむ人に寄り添う人になりたいです。



2、鍛える、主イエス 

さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:18~20)

これからの箇所は、主イエスの弟子訓練の姿を見ることができます。

本来は主イエスの敵であった律法学者の一人が、主イエスの教えと奇蹟に魅了されました。どこにでもついて行きますと言うのですが、主イエスは、その律法学者の心の内を見抜かれて、あえて厳しく言いました。キリストの弟子の生活は簡単ではなく、寝る場所さえなくて野宿することもあるが、それでも来る覚悟があるかと言われたのです。

また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:21~22)

主イエスはカペナウムでの働きをひと段落させ、ガリラヤ湖の向こう側、つまり、東側に行くことにしました。その地域は外国人が多く住む場所で、普通ユダヤ人は行きたいとは思わない地域です。

十二弟子以外の弟子のひとりが、実家の父が死んだので、向こう岸への旅には参加できませんと言ってきました。すると主イエスは、葬儀は誰かに任せて、ついてきなさいと、厳しく言われました。
キリストの弟子は、自分のタイミングで動けません。大切なものを捨てたり、大切なものをささげたりするのです。

 価値観の破壊と再構築が行われます。これは、弟子としての最も大切なトレーニングです。困難な問題や局限状況に直面し、気づき、選択し、従い、仕え、献身する。これが、弟子としての鍛錬の道です。

「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です」(イザヤ64:8)
キリストの弟子は、まるで粘土です。最初は、空気を抜くために強く叩きつけられます。粘土の気持ちになれば痛いです。次は、形成です。自分の望まない形に作り変えられます。最後は、高温で焼かれます。それで、みごとな器になり、人々のお役に立ちます。

まさにキリストの弟子たちは、破壊と再構築のプロセスを通りながら、キリストに似た者になっていきます。さあ、弟子としての鍛錬が始まりました。ついて行きましょう。主イエスに。

 「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

 →あなたの番です
  □弱い人、年配の人、苦しむ人に寄り添う者になりましょう
  □弟子として作り変えてもらいましょう