マタイ10:5~15 オンザ・ジョブ・トレーニング

1、御国が近づいた

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:5~8)

主イエスは、後継者としての十二弟子のトレーニングを始めました。簡単な説明をした後すぐに、「ふたりずつ遣わし」(マルコ6:7)たことが分かります。机に座って講義を聴くより、On the job trainingのほうが物事を効果的に学べます。

ペテロたちが二人一組になってどこかの町に入ると、町の広場などで主イエスに言われたとおりに、まず、「天の御国は近づきました。」と叫んだと思います。でも、その後、言葉に詰まって顔を赤くしたかもしれません。それで良いのです。

主イエスが語られた教えを思い出し、主イエスの言われた意味に気づき、自分の言葉になって話し出したことでしょう。

主イエスが、弟子たちの伝道対象を決めました。ユダヤ人にだけ伝え、異邦人に伝えるなと言われました。これは、第一に、祭司たちやパリサイ人を刺激しないためだと思います。第二に、一番語りやすい対象です。ユダヤ人は同国人なので、自分の言葉で自然に語れます。主イエスが羊飼いのない羊のようにご覧になった人々が対象なので、深いあわれみの心をもって語れます。

言葉につまったり、質問されたりして困ったら、病気の人を招いたことでしょう。苦しみを聞いてあげて、祈ってあげて、主イエスの名によっていやす働きを真剣にしたと思います。人々の前で病人がいやされたら、群集は弟子たちの話を真剣に聞くようになるでしょう。

主イエスは、今日も、あなたを遣わされています。まずは、あなたと似た人に福音を伝えてごらんと主イエスは励ましておられます。言葉に詰まっても構いません。イエスさまのこと、教会のこと、聖書のことを誰かに話してみましょう。そして、身近な人の苦しみに寄り添い、解決のために祈ってあげましょう。



2、何も持たずに

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。(マタイ10:9~10)

旅に出る人は、宿屋の代金、食料、着替え、万一の場合の備えをします。それは、今も昔も同じです。主イエスは弟子たちに、お金を持たず、万が一の準備もなしに伝道旅行に行きなさいと命じました。

適量のストレスを与え、役割を限定し、なすべき事をはっきり指示するなら、短期間にスキルを上げることができます。
十二弟子は、自分がするしか他に道がないので、自覚が全然変わったことでしょう。主イエスの言葉を思い出し、その意味を深く悟ったことでしょう。目の前で病人がいやされるのを見て、神の力を確信したことでしょう。

主イエスは、十二弟子を意図的に極限状態に置かれました。主イエスは、ストレスのかかる場面で弟子たちをトレーニングされたのです。

2008年、宇宙航空研究開発機構は宇宙飛行士を募集し、963人が応募、最終選考に10人を残しました。彼らは宇宙空間と同じような狭い閉鎖隔離施設に1週間滞在させられ、ストレスのかかる作業をこなし、審査員はカメラで候補者の姿をモニターしました。必要に応じてリーダーになり、場合によってはリーダーをサポートする良きフォロワーにもなり、また、緊急事態でも冷静さを忘れず、心折れずに対応できる人材を審査員は探しました。その結果3人が選ばれ、次の訓練に進み、3人とも宇宙飛行士として宇宙ステーションで働くことができました。

 何も持たないことは、心細いです。それは、見方を変えると、すべて持っているとも言えます。「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とあるからです。

 災害や事故への備えを万全にして、貯金も、保険も、家も、会社も問題がないと思っても、突然の大地震やサブプライムローンの破綻が起きると何の役にも立ちません。つまり、持っていると思っている人も、実は、何も持たない人と大差ないのです。

私たちの人生も旅に似ています。スーツケースが人より大きく、重くなる人は、心配性です。私たちの人生の持ち物を軽くして、主に頼って生きて生きましょう。



3、平安を祈り、ちりを払う

どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。(マタイ10:11~15)

一つの町に入ったら、伝道活動を通して知り合った人の中から、伝道拠点となる家を見つけるようにと主イエスは言われました。ぜひ我が家に泊まって下さい。あしたも教えて下さい、多くの人をいやして下さいという家族の世話になりなさいと言われました。

その家に入る時は、家のため、家族のため、平安を祈りなさいと主イエスは命じました。十二弟子は、人をいやす権威だけでなく、家庭に平安をもたらす権威まで授けられました。祈ると、その通り、神の平安が実態を持って留まりました。

伝道旅行に出ても、すべての人が歓迎してくれるわけでもありません。反発や迫害もあるでしょう。そういう時は十二弟子もがっかりしたことでしょう。そんな時には、足のちりを払い落とすという儀式にも似た行為をしなさいと主イエスは命じました。

福音を拒絶する人が受ける裁きには責任がない。そうした象徴的な行為です。目の前で病気のいやしという奇跡を見ていながらも、主イエスの福音や主イエスの弟子たちを拒む者はソドムやゴモラよりも罰が重いというのです。

○イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
○胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
○その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。


→あなたの番です
  □あなたと似た人に、あなたの言葉で福音を伝え、平安を祈ろう
□ストレスのかかる環境は、成長のチャンス
□人生という旅で、荷物を減らし、主に頼ろう
  


マタイ10:1~4 十二弟子

 弟子はギリシア語でマセーテース。その意味は、学ぶ者です。

1、寄り添う人になる

 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。(マタイ10:1) 

主イエスは、なぜ十二弟子を選んだのでしょう。主イエスが天に上った後も、働きを継続させ、拡大させるためです。10章以降は、弟子の訓練についてかなり詳しく書いてあります。

主イエスの主な活動はマタイ9:35に簡潔に書いてあるように、①会堂で教える、②御国の福音を伝える、③病人をいやす、でした。弟子たちも同じことをする必要がありますが、まず命じられたことは病人をいやすことでした。主イエスは弟子たちに、悪霊を制する権威、病気をいやす権威を授けたのです。病をいやす権威を十二弟子に授けること自体が主イエスが神である証拠になります。
病をいやすためには、病で悩み苦しむ人たちの話を聞く必要があります。つまり、悩む人々に寄り添うことが十二弟子の最初の仕事になったのです。

あなたの番です。主イエスは、今も、弟子を求めておられます。働き人が少ないのです。あなたも、悩む人や苦しむ人に寄り添い、話を聞き、具体的に助けましょう。そういう人がキリストの弟子です。



2、変えられた弟子

 さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。(マタイ10:2~4)

 主イエスは徹夜の祈りをして十二人を選びました。(ルカ6:12~13)選ばれた人は、権力者ではなく、家柄の良い人ではなく、学問もない人でした。ほとんどはガリラヤの漁師で、まさに庶民です。

バルトロマイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイについてはほとんど記述がありません。アンデレ、ピリポ、トマス、福音書に数度登場するだけです。せっかく弟子に選ばれたのに、イスカリオテのユダはユダヤ当局と結託して主イエスを裏切りました。

 ペテロは漁師でした。長所は、強い好奇心と積極性です。短所は、調子に乗りやすい、誘惑に弱い所です。シモンが本名ですが、主イエスが「ペテロ」というニックネームを付けました。これは、目標であり、励ましを意味する名前です。シモンはこんにゃくのような人ですが、やがてペテロ(岩)のようになる。
 十字架前に主イエスを知らないと3度言い、激しく悔い、復活の主に出会って別人のように変えられました。ペテロは神殿の門にいた足なえを主イエスの御名によっていやし、大勢に福音を語ったために捕縛され尋問を受けましたが、「無学な、普通の人」の「大胆さ」(使徒4:13)が際立ちました。ペテロは変えられ、岩のような人物になったのです。

ヤコブとヨハネは兄弟で、主イエスは彼らに「ボアネルゲ=雷の子」(マルコ3:17)というあだ名を付けました。主イエスを拒絶したサマリヤ人を焼く尽くしましょうと提案したほど(ルカ9:54)怒りっぽい人達でした。ヨハネはやがて、愛の使徒と呼ばれるまでに変えられます。ヤコブは最初の殉教者になり、忍耐の極みまで働かせました。

マタイは、十二弟子の名前のリストに、自分の名に「取税人」という解説を加えています。マタイを取税人と書いているのは「マタイの福音書」だけです。極悪非道の取税人稼業の過去を書き入れ、主から受けたあわれみを忘れないように、謙虚に生きるようにと自戒しています。

十二弟子のその後の人生を見ると、以下の事が鮮明になります。イエスは弟子を育てる天才です。
普通の人が、輝く人に変わった。
短気な人が、愛の人になった。
裏切った人が、殉教を恐れない人に。
疑い深い人が、信仰の人に。
無学な人が、聖書を教える人に。
罪人が、きよい人に。

 聖書では、主イエスを信じて、病気がいやされた人が大勢出てきます。彼らは弟子と呼ばれず、信じた人とみなされています。
 十字架から約10年後、アンテオケ教会でキリストの弟子たちはクリスチアノスというニックネームを外部の人から付けられました。(使徒11:26)それは、「キリストのもの」、「キリストの追従者」という意味です。英語にすればクリスチャン、日本語ならキリスト者です。彼らはキリストの弟子でした。

 あなたは、キリストの弟子ですか。
 主イエスの言葉の意味が分からない、キリストに質問してみたいことがある、どうしたらうまくいくのかキリストからアドバイスがもらいたい、そう思っている人はキリストの弟子です。主イエスから学ぼうとしているからです。
 信仰面で失敗したことある人、伝道してうまくいかないと悩む人がいますか。その人もイエスの弟子です。主イエスのようになりたいと願っているから悩むのです。イエスの助言を受けて、自分の生き方を変えたいと願っているからです。
 十二弟子は、何度も主イエスに質問し、何度も失敗をしました。質問する、失敗する、それが弟子の印です。このプロセスなしに弟子にはなれません。

主イエスは、十二弟子のリストの後に、あなたの名前を入れたいと願っています。「わたしについてきなさい。」(マタイ9:9)と言ってマタイを招かれたように、あなたの名を呼んでいます。自分をイエスの弟子として意識しましょう。

主イエスよ、あなたから学びます、あなたが夢見た神の国を建設するために私にできることをします、と言いましょう。主イエスが、あなたのを本物の弟子に変えて下さいます。

あなたは何を主イエスから学びますか。何を今週行って、弟子として歩みますか。

「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」
「わたしのことばにとどまるなら、
あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)

→あなたの番です
 □弟子は、学ぶ者 □悩む者に寄り添う人になる
 □弟子になろう

マタイ9:32~38 収穫は多い

1、心を閉ざすパリサイ人

この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。
(マタイ9:32~34)

 耳が聞こえないので話せないという場合が多いので、この人が主イエスの奇跡も教えも耳から聞くことはできません。それで、主イエスを知っていた人がこの人を連れて来たのかもしれません。

 主イエスは、その人から悪霊を追い出し、話せるようにしてあげました。人々は驚きました。「そのとき足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」(イザヤ35:6)という預言の成就です。
 話せるようになった人は何と言ったのでしょう。「ありがとうございます。ずっと夢見たことでした。信じられません、私が話せるなんて。」と言ったかもしれません。

 伝道を難しく考えることはありません。主イエスを知らない人を、主イエスの所にお連れするだけで良いのです。自分がしてもらったように、してあげれば良いのです。

 この奇跡を見ても、喜ぶことなく、憤っている人たちがいました。パリサイ人です。目の前で起きた奇跡は否定できないので、この奇跡は悪霊のかしらによるものと決めつけました。最も悪いことをする悪霊が、親切で良いことをしたと言い張るのです。

 こんなに心を閉ざすのはなぜでしょう。パリサイ人は、主イエスが嫌いだからです。宗教権威者という立場が脅かされたので嫉妬心が燃え上がったのです。

 あなたにも私もすぐにパリサイ人になれます。自分より若い人が来たら嫉妬します。能力のある人、美しい人、人気のある人が来れば、私たちもパリサイ人と同じ気持ちになります。今、誰かに無性に腹が立ったり、いつもその人のあら捜しをしているなら、あなたもパリサイ人になっています。そういう自分にさよならしましょう。


2、主イエスの目

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。(マタイ9:35~36)

 主イエスがガリラヤ湖畔の町カペナウムでしたことが9章全体に書いてありました。つまり、罪を赦し、律法的な生活習慣から開放し、病気をいやし、失望している人に希望を与えて来ました。どこの町に行っても、主イエスはそれと同じことをしたのです。

 1)会堂で神のことばを教える………山上の垂訓。神のことばで人を生かす。  2)御国の福音を宣べ伝える…………神の国がある。救いがある。キングダムビルダー。  3)病気をいやし、悪霊を追い出す…現実の悩み苦しみから解放する。

 羊飼いを失った羊の状態だった群衆を無視することは主イエスには不可能でした。羊飼いを失い、良い牧草地に行けず、食べ物が無く、安全を失い、行き場をなくし、不安の中にいる羊と群集は同じだと見抜かれました。

 主イエスは人々に、神のことばを与えて魂の食物とし、福音を伝えて完全な罪の赦しを与え、神の国があることを教え、神の国を作る使命が与えられていること伝え、各人の切実な悩みを解決されました。

 あなたの周囲にいる人を見てください。本当の姿は、羊飼いのない羊です。その人のために、祈りましょう。



3、働き手が必要

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37~38)

 主イエスは弟子たちが見えないものをもう一つ見ていました。収穫を待つばかり畑です。豊かに黄金色に実った畑です。

豊作の畑とは、神の言葉を受け入れたい人がたくさんいるという事です。罪が赦され、信仰告白をし、神の国のために生きようとしている予備軍がたくさんいるという事です。弟子たちには見えませんが、主イエスには見えています。収穫は多いのです。必要なのは、刈り取る人だと主イエスは言います。

「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と主イエスは十二弟子に言われました。あなたが十二弟子の一人で、この言葉を聞いたらどう応答しますか。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)と言うことができます。

伝道とは、実った穂を刈り取るだけの作業なのです。もう、畑は色づいているのです。私たちが誰かを教会に誘ったり、聖書の言葉を教えたり、祈ってあげたり、具体的に援助するプロセスを通して伝道ができます。

フランシスコ・ザビエルは1547年、マレーシアのマラッカで3人の日本人に会い驚嘆しました。特に、ザビエルが語る聖書の言葉をメモしながら聞くヤジロウという武士の姿に驚いたのです。日本人は他の民族と違う。ザビエルは、ヤジロウを見て収穫するばかりの畑を見たのです。1549年、ザビエルは鹿児島に上陸、平戸で100人に洗礼をさずけ、山口で500人に洗礼をさずけ、約2年の日本滞在で多くの人を導きました。


まとめます。
奇跡を見ても心を閉ざし、嫉妬するだけのパリサイ人のような生き方を止めましょう。身近な人に寄り添い、みことばと愛と手を伸ばし、主イエスのもとに連れて行きましょう。それが、収穫の働きです。


矢印あなたの番です
 □偏狭で、嫉妬する自分に、さよなら
 □自分がしてもらったように、誰かにしてあげてイエスに導こう
 □収穫は多い、あなたが働き人になろう


マタイ9:27~31 ふたりだから

 一人と二人。大きな違いがあります。


1、ふたり


 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。(マタイ9:27)

 目が見えないなら道も分からないし主イエスの姿も顔も見えないから、盲人が二人いても何の役にも立たないと考えるのは大間違いです。

 イエスさまは道端では何の反応もしてくれませんでしたが、盲人の二人は親友だったのでしょうか、あきらめず、励まし合ってイエスさまについて行けました。ギリシア語の2は、デュオです。二人だから立ち向かえたのです。

 「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。」(伝道者の書4:12)

 あなたも、この盲人の二人のようになりましょう。クリスチャンの友達を作って下さい。今の年齢からでも遅くありませんから、祈り合える友、助け合える友を作りましょう。



2、あわれんでください


 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。(マタイ9:27)

 二人は、主イエスを「ダビデの子」と呼びました。マタイの福音書で、実際の人物が主イエスをダビデの子と呼んだのはこの盲人の二人が最初でした。

 マタイ12:23では、民衆が「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言っていました。マタイ21:9では、人々はイエスさまがダビデの子であると確信して「ダビデの子にホサナ」と歓迎した様子が書いてあります。
 マタイの福音書の冒頭に、主イエスがダビデの子であると書かれています。マタイの福音書のテーマは、旧約聖書が預言した救い主がイエスであるということです。その観点から言うなら、この名もない盲人こそが、救い主に初めて気づいた人物なのです。目は見えませんが、心の目は誰よりも見えていました。

 「あわれんでください」という言葉は、ギリシア語で「エレイソン」です。カトリックのミサで歌われる「キリエ・エレイソン」というラテン語の賛美の、憐れんでくださいという言葉と同じです。
 「あわれんでください」とは、二重の意味が込められています。主イエスの深い愛で包んで下さい。そして、今直面している問題から助け出して下さいという祈りです。目が見えるようにして下さいという願いを込めて、あわれんで下さいと叫んだのです。

 あなたも今、この祈りが必要ではありませんか。主イエスの愛、主イエスのあわれみ、主イエスから来る慰め、主イエスが共にいてくれることが必要です。今、目の前の問題からの脱出が必要です。助けて下さいと祈りましょう。




3、信じたとおりに

 家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。
 イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。(マタイ9:28~31)

 群衆のたくさんいる往来の真ん中で二人の目をいやしたなら、好奇の目にさらされます。場合によっては、ユダヤ当局の監視を受けたり、イエスの宣伝を助けるための嘘だと捕縛される可能性すらあります。それで、いやされた事を知らせるなと主イエスが言われたのでしょう。残念ながら彼らは、嬉しすぎて主イエスの忠告を無視してしまいます。

 主イエスは、家の中で、落ち着いて、二人と語り合い、彼らの信仰を明確にしてあげたいという意図を持っていたので、戸外では二人に取り合いませんでした。
 主イエスは、わたしがあなたがたの目を開けられると信じているのかい、尋ねました。盲人たちの信仰告白を導き出す質問でした。「そうです。主よ。」と二人は応えました。

 主イエスは、二人の目に手で触れて、言われました。「あなたがたの信仰のとおりになれ。」すると、見えるようになりました。

 盲人二人が、少し明かりを感じる程度にして下さいとか、片目でも見えればいいと考えていたなら、そうなったでしょう。でも、二人は、普通に見えるようになりたいと願いました。それで、完全に見えるようになったのです。
 今日も、主イエスは、あなたに言われます。あなたの信じたとおりになるよ。あなたは、何を願っている。そんな程度の願いで本当に充分かな?


 まとめます。誰かと二人で立ち向かいましょう。主のあわれみを祈り求めましょう。信じたとおりになると、主イエスを信じて下さい。

 ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。

「あなたがたの信仰のとおりになれ。」
 

 →あなたの番です
  □ふたりで立ち向かう
  □「あわれんで下さい」と祈る
  □信じたとおりになる

マタイ9:18~26 差し伸ばす手

 
会堂管理者と長血の女。二人は似ています。
二人とも絶望していました。ところが、どん底から立ち上がりました。
鍵は、反意接続詞と未来受動態です。


1、でも <反意接続詞>

イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。(マタイ9:18~19)

会堂管理者の12歳の娘が危篤状態に陥った。その後、娘は死んだという通知が来た。これは、父親としては絶望的な状況です。

絶望と悲しみの時に、誰と共にいるか、誰と語り合うかがとても大切です。会堂管理者は、娘が死んだという知らせを聞いても、主イエスのそばにいるという選択をしました。イエスのそばに立ち、主イエスと語らい、イエスの御顔を見ていたので、「でも」(原文では、ἀλλと言えたのです。娘が死んでも、「でも」と言い我が家に来て娘の上に手を置いて下さいと言えたのです。山登りで滑落したとき、ピッケルを斜面に突き刺して自分の体を止めるように、会堂管理者は絶望の滑落を止める「でも」を言えました。


会堂管理者は言いました。「でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。」私たちも、同じように言ってみましょう。

イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。
(マタイ9:23~26)

 会堂管理者の家にいた人々は、主イエスのことばを聞いてあざ笑いました。主イエスはそれを意に介せず、娘の部屋に入り娘の手を取りました。すると、死んでいた娘は起き上がりました。死から生き返ったのです。奇跡です。

 あなたの番です。すべての人間的可能性が閉じられても、人々にありえないと笑われても、「でも」と言ってみましょう。「でも」という反意接続詞は、信仰の言葉です。



2、きっと直る <未来形、受動態>

すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
(マタイ9:20~22)

この女性は、会堂管理者と同様に、絶望しきっていました。病気で長い間苦しみ、十二年の間は絶えず痛みにさらされ、出血に悩まされ、治療費もかなりの額を払いましたが直りません。12年間、絶望していたのです。
そんな時、主イエスの人柄や教えや奇跡を聞いて元気づけられたのです。「きっと直る」と考えたのです。ただし、これは、彼女の努力によって直るとか、彼女がそう思い込めば直るということではありません。
新改訳2017はここを、「私は救われる」と訳しています。原文はσωθήσομαι、文法的にいうと、未来形、かつ、受動態です。主イエスによっていやされる、という信仰です。

彼女のように出血を伴う婦人病の場合、汚れを背負っていると当時はみなされたので、主イエスの正面に出て「いやしてください」と頼むことは無理でした。

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」

それで彼女は、今までに前例のない方法を実行しました。主イエスに手を置いていただかなくても構わない。私のためにいやしの言葉を発してもらうこともはばかる。イエスさまに、自分の存在を認めてもらわなくてもいい。主イエスの着物に触れてみよう。群集に紛れて、後ろから、イエスさまの衣に触りました。すると瞬間的に直ったのです。
未来形で、受動態で、いやされると信じたので現実には何もしない。それは、彼女の態度ではありません。アクションしました。主イエスの衣に後ろから触れたのです。

イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。

あなたも、長血の女と同じような境遇にいるかもしれません。とてつもなく困難な問題に直面し、絶望の日常化という試練の中で、解決の前例を見たことがない。それなら、彼女と同じようにしましょう。神の設定された未来のある時に(未来形)、主イエスが主語になりあなたが救われる(受動態)。そう信じましょう。前例がなくても、あなたらしいオリジナリティーのある行動を今、取ってみましょう。それが、信仰です。

 あなたの番です。
 もう娘は死んだ、すべての扉が閉ざされたと思える事柄に直面していますか。直る見込みがなく12年間も苦しんできた病気のようなものを抱えていますか。
 現実を直視しつつも、「でも」と言いましょう。現実の困難さを知りつつも、きっと主イエスが私を救い出して下さると、手を伸ばして主イエスの衣に触れましょう。

「でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。」
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」

 →あなたの番です
  □厳しい現実に直面しても、「でも」と言いましょう
  □主イエスが救い出して下さる、と言いましょう

マタイ9:14~17 新しい皮袋

1、断食すべきだ

するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(マタイ9:14)

 バプテスマのヨハネの弟子たちがイエスのもとにやって来て、十二弟子たちを批判しました。主イエスに対する批判のつもりで弟子たちの生き方を非難したのです。

 宗教家ならば断食するのは常識だ。なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのか。バプテスマのヨハネよりもイエスのほうが有名になったので、バプテスマのヨハネの弟子たちが嫉妬心にかられて抗議したのでしょう。本来は敵対関係にあるパリサイ人を自分の仲間とみなしているのは驚きです。敵の敵は仲間になるのです。

 当時パリサイ人たちは月曜と木曜に断食していました。(ルカ18:12)自分たちが高い宗教性を持っていることをひけらかしていました。主イエスは山上の垂訓で、断食の偽善性を批判したのは(マタイ6:16~18)、まさに、こういう種類の断食の事でした。



2、花婿と花婿の友人

イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。(マタイ9:15)

なぜ断食しないのかという質問への答えがこれでした。主イエスは花婿であり、十二弟子たちは花婿の友人に当たります。だから結婚式で断食するなどありえないのです。
ただし、花婿が死んだときには、断食すると述べました。これは、十字架の死を暗示しています。

実は、主イエスの出現によりバプテスマのヨハネの人気が陰り、バプテスマのヨハネの弟子たちが心配している様子がヨハネ3章に記録されています。主イエスを花婿にたとえ、自分を花婿の友人の立場に置いたのはバプテスマのヨハネでした。バプテスマの弟子たちに、彼らの先生の言葉を思い出させているようです。

「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:29~30)

 私たちが親友の結婚式に出席し、親友の横に立っている場面を想像して下さい。花婿の喜びは友人の喜びになります。私たちの最も大切な友人であるイエスさまの結婚式に招かれて、私たちが花婿の喜ぶ姿を自分のことのように喜ぶ。これが、主イエスを信じた人の心の底に流れている喜びです。



3、新しい皮袋

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:16~17)

 16節と17節の意味は同じです。繰り返して強調しています。古い洋服が裂けた時、新しい布でつぎあてをすると、新しい布が強いので引き伸ばされた瞬間に古い生地が裂けてしまいます。
同じように、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら、発酵して膨張するので古い皮袋はその圧力に耐えられなくなり破裂します。

イエスさまを信じて変えられた心は、新しい布のようなもので、力があります。また、イエスさまを信じた私たちの心は、新しいぶどう酒のようで、新鮮で、ふくらむ力を持っています。

ですから、律法的な生き方、伝統や習慣や世間に合わせる生き方は似合いません。外見だけ飾る空しい生き方は無用です。否定的で、後ろ向きの口癖も過去のものです。

イエスさまを信じた人は、内面が変わり、親友の結婚式のような喜びが生まれ、最終的には、実際の生き方が変わります。新しいぶどう酒を入れるにふさわしい新しい皮袋が身についていきます。

「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

休暇で私たち夫婦は先週ドイツを旅してきました。ルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルクの教会に95か条の質問状を掲げた教会を訪れ、深い感動を受けました。ルターはその町の大学で、29歳から34歳まで、約5年間、詩篇やローマ書などを講義しました。その中で、人間の努力や苦行によって神の義を獲得することはできず、主イエスの十字架によって与えられる神の義が人を救うことを聖書から確信しました。聖書に反した行為、特に、当時教会で行われていた免罪符などに反対しました。
その結果、カトリック教会から破門され、命の危険にさらされ、1521年、ヴァルトブルク城にかくまわれ、10週間で新約聖書をドイツ語に翻訳しました。(その部屋を見た時は強い感動を受けました)聖書と言えば当時はラテン語聖書だけしか無く、民衆は読めませんでした。また、修道士は結婚を禁止されていましたがルターは修道女と結婚、3男3女をもうけ、温かい家庭を作りました。また、礼拝ではラテン語の賛美歌を聴くだけの聴衆でしたが、ルターみずから歌詞を作り、リュートも演奏し、作曲もし、民衆が歌える讃美歌を礼拝に取り入れました。
ルターは、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れた人でした。

主イエスを信じ、主イエスにもらった新しい命が私たちの内で始まったのですから、私たちの外側、生活スタイルも自然と変わっていきます。
あなたの新しい皮袋とは何でしょう。新しく始めたい生活スタイルは何でしょう。正直さ、温かさ、平和、くじけない心、赦す姿勢など、あなたの新し皮袋があるはずです。

  →あなたの番です
   □親友の結婚式に出席している喜びが心にある
□内面の変化が外面の変化を生む
□新しい生活スタイルを始めてみる



マタイ9:1~8 罪を赦す

 一番深い問題は、罪です。

1、罪の赦しを求めてる

イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9:1~2)
 
 脳出血の深刻な後遺症のため、寝たきりになっていた男性がいました。彼の友人達は、彼を主イエスにいやしてもらおうとして、担架のような物に乗せて4人で運んで来ました。マルコやルカの福音書を読むと、家が人でいっぱいだったので、その4人が屋根に穴を開けてまでして、中風の男性を主イエスの前につり降ろしたことが分かります。マタイは詳細を省き、ポイントを絞って書いています。屋根を壊してまで主イエスに会わせたかった理由がきっとあるはずです。

 連れて来たのは家族ではなく友人でした。主イエスは、4人の信仰を見たので対応されました。寝たきりの男性の信仰を見たからではないのです。脳出血で一命は取りとめても、体が不自由で自暴自棄になり、感情の起伏を激しくさせ、家族を苦しめていたかもしれません。彼は、その事を毎日悔いていたのかもしれません。

 主イエスは、体のいやしではなく、罪の問題に焦点を当てて、「あなたの罪は赦された。」と言われました。これが的外れなら、男性は抗議したでしょう。実は、彼の最も深刻な悩みは罪だったのです。

主イエスは、「あなたの罪は赦された」と完了形で言われました。
罪は、誰にとっても過去の事柄です。過去の出来事なのに、現在の私を苦しめ、未来も暗くします。しかし、時間を超越する神ならば、罪の解決ができます。主イエスが、命を身代わりにして私たちの罪の罰を負って下さるゆえに、罪の解決が可能です。

 天使は主イエスの誕生前にこう言いました。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)
最後の晩餐の席で主イエスは次のように約束されました。「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)



2、罪を赦せるのは神だけ
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。(マタイ9:3~5)

 主イエスと男性のやり取りを見ていた律法学者は憤慨しました。イエスが罪を赦す力を持っていると公言したので、冒涜に当たると判断したのです。
 罪を赦せる権威は神だけが持っている。律法学者もそう考えていました。もし、イエスが神でないなら冒涜です。でも、イエスが神なら、間違いなく罪は赦されたのです。

 主イエスは、罪を赦す権威を持っていることを証明するために、寝たきりの男性をいやすことにしました。



3、家に帰る

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。(マタイ9:6~8)

 主イエスが誰かに向かって、親密に、憐れみを込め、「子よ」と呼びかけたのは、福音書の中でこの箇所だけです。中風の男性はこの一言だけでも深く感動したことでしょう。男性が抱えていた罪の痛みは、この呼びかけで消え去りました。「つらかったね。あなたの本意ではなかったね。罪を止めたくても止められなかったね。後悔の念で死にたいほどだね。でも、大丈夫だよ。あなたは、私の子だ。」そういう主イエスの心が込められている言葉なのです。あなたの罪は赦されたという宣言を聞いて、彼は穏やかな心になったでしょう。

 起きなさいと言われた彼は立ち上がりました。前向きな気持ちが生まれていました。奇跡が起きました。完全に直ったのです。

 「家に帰りなさい」とあえて主イエスは言われました。男性は、妻に罪を犯したのかもしれません。子供に辛く当たったかもしれません。年老いた親を苦しめたのかもしれません。主イエスに罪赦された人は、新しい気持ちで家に帰ることが必要です。

 私たちも、主イエスを信頼して、立ち上がりましょう。あなたもいやされます。


 今日の箇所をまとめましょう。イエスは、罪を赦す権威を持つ神です。寝たきりの中風の男を瞬間的にいやすことにより、主イエスはそれを証明されました。
 キーワードは、「あなたの罪は赦された」(2節)と、「家に帰りなさい」(6節)です。

 あなたの罪は主イエスによって完全に赦されました。赦されたあなたは、誰かに「ごめんなさい」を言いましょう。ごめんなさい」という言葉は、「私はあなたを大切に思っています」、「愛しています」と同義語です。

「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」
「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」

 →あなたの番です
   □主イエスは、罪を赦す権威を持つ神
   □あなたの罪は赦された
 □「ごめんなさい」と言ってみる