これから、コリント人への手紙第2を毎週1章づつ学んでいきます。
先日、右足の小指を椅子にぶつけて、あまりの痛さに倒れこみました。それを話すと人は二種類に分かれます。一方のタイプの人はこう言います。若くないのですから、気をつけなくちゃいけません。あわてるからつまづきます。別のタイプの人は、自分のことのように感じて、痛いでしょう、おつらいですね、どうぞお大事にしてくださいと言います。どちらのタイプの人が、私の痛みを倍加させてくれたか、分かりますね。
第2コリントのキーワードは「慰め」です。シリーズ第1回目は、慰めをテーマに取り上げます。
1、神は、慰めの神
まことの神は、慰めの神です。
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。(第2コリント1:3)
神は、正しく、きよく、強くある方です。それだけではなく、私やあなたを慰めてくださる方であり、人の心に寄り添ってくださる方です。
弱った人、病気の人、傷を負った人、倒れた人に対して、神は慰めの神として接してくださいます。
主イエスも言われました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(第2コリント1:4)
そうです。神はどんな苦しみの中にある人をも慰めることができます。神なら、おできになるのです。神だけが、できるのです。だから、本当の神といえるのです。
大きな苦しみの中にいる人に、神は細い声で、その人の心に届く方法で、慰めを与えてくださるのです。あなたも、その慰めを受け取ってください。
2、苦しんだ人が、誰かを慰める
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(第2コリント1:4)
パウロの言葉によると、神の慰めを受けた人は、他の人を慰める人になれるといいます。あなたは、それを信じますか。
それだけではありません。どのような苦しみの人をも、私たちが慰めることができるといいます。私たちが、誰かの慰め手になれるのです。
私は牧師の仕事を辞したことがあります。その翌日、教会の英語部の方が私の家の前に車を止めました。仕事がなくなると生活が大変になるから食料を持って来ました、使ってくださいというのです。トランクは、お米、野菜、肉、食料で一杯でした。私は 呆然としました。
翌日、別の方がやはり車を止めました。トランクを開けると、やはり食料が満載してありました。涙が出ました。
ある年配のご婦人は、パンを買って届けてくれました。それも、毎週来てくれました。留守の時にはパンだけを置いていかれました。おいしいと評判のベーカリーのパンでした。置かれているパンを見るたびに、大きな慰めを受けました。
あるリタイアしたカップルは、私たち夫婦を日本食レストランに招き、ランチをご馳走してくれました。その時お二人は、一人分のランチを二人で分けて食べました。お二人の倹しい生活を思うと、食事が喉を通らないほど感激し、その心が伝わりました。
家主の突然の申し渡しで急に引っ越しの必要が出て、かなり落ち込んでいた時。二組のご夫婦は、私たちの転居を手伝い、ジョークを飛ばして明るい雰囲気にして、引越し荷物を運んでくれました。
その他にも、心温かな人たちから、たくさんの愛と慰めを受けました。それで、生きることができたといっても過言ではありません。
私は、10年たっても、これらの事を忘れません。何度も思い出し。何度も感謝し、何度も涙を流します。
神の慰めを受けた人が、私を慰めてくれたのです。
あなたも、誰かの心を慰めることができます。
あなたの痛み、暗闇が、誰かの慰めに繋がっているのです。
3、慰めの経験は希望を生み出す
パウロは、神が慰めの神であると説明しました。また、パウロは神の慰めや助けを確かに受けたと、経験的に語りました。8~9節によれば、それが、死を覚悟するほどの厳しい経験だったことが分かります。その経験がパウロに希望を与えました。
ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(第2コリント1:10)
そうです。苦しみと慰めを経験した人が、ゆるがない希望を持つ者になるのです。
苦難と慰めが、希望の人を生み出すのです。
あなたの番です→
□苦しみと弱さの真っ只中で、神の慰めを体験しましょう。
□あなたは誰かを慰めるために生まれた。
□自分を頼まず、神により頼む。そこに希望が生まれる。