1、コラジン、ベツサイダ、カペナウム
それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:20~22)
コラジンとベツサイダは町の名前です。主イエスは、個人が救われるだけでなく、町やコミュニティーが全体として変わることを願っていました。
コラジンはガリラヤ湖から2マイル北西に入った町です。ベツサイダはガリラヤ湖畔北部の町です。
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:22~24)
カペナウムはガリラヤ湖北部の町です。ガリラヤ湖に注ぐ川の東側がベツサイダ、西側がカペナウムです。
主イエスの公の活動は約3年ですが、最初の2年間はおもにガリラヤ湖周辺で行われました。カペナウムにはペテロの家があり(マルコ1:21、29)、主イエスはよくそこに滞在されていました。ですから、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの町々はどこの町よりも主イエスの教えを聞き、多くの奇跡を経験したのです。(マルコ1:32~34)
2、力あるわざ
それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。(マタイ11:20)
マタイは20節で「力あるわざ」と表現しました。原文ではδυνάμεις αὐτοῦ(=彼の力)です。聖書には、「奇跡」「不思議な力」「力あるわざ」という言葉が出てきますが、原文では同じ単語「デュナミス」が使われていて、力という意味です。
奇跡を見せてくれ、そうしたら信じるよ、という人がいます。ところが、この3つの町の人々は、盲人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえ、歩けなかった人が飛び跳ね、隔離された皮膚病患者がきれいにいやされて社会復帰し、死人がよみがえった姿を目撃したのですが、一時的に驚いただけで、罪を悔い改めて主イエスを信じる人は少数でした。奇跡を見ても、信仰を持つかどうかは別問題でした。
ツロとシドンは海沿いの外国の町で、太古から栄えた貿易港です。また、享楽の町、不道徳の町、異教徒の町でもありました。(悪名高い王妃イゼベルは、シドン王の娘でした)コラジンやベツサイダは、ツロやシドンよりも悪いと主イエスは言いました。
さらに、ユダヤ人の歴史で最も堕落した町として知られるソドムのほうが、カペナウムより裁きの日に罰が軽いと主イエスは言いました。
現代日本風に言えば、新宿歌舞伎町で主イエスの奇跡が行われれば、人々は罪を悔い改め、罪を悲しむ印としての荒布をまい、頭から灰をかぶったことだろう、となります。
ところで、その年の世相を漢字一字で表し大きな紙に筆で描くというパフォーマンスが行われますね。コラジンやベツサイダやカペナウムの人々の姿を漢字一つで表すなら何になるでしょう。「拒」です。
人間の心の底には、今の生き方を変えたくないという強い意思が横たわっています。イエス・キリストを拒絶する姿勢が染み付いています。主イエスは、わたし達が「拒」から「信」に変わることを願っておられます。
3、修理人イエス
ああコラジン。ああベツサイダ。(マタイ11:21)
「ああ」(ウーアイ)という言葉は、哀しみと嘆きを表す感嘆詞です。主イエスは、コラ人やベツサイダの人々を思い、嘆いているのです。悔い改めて、自分自身をゆだねてほしいと主イエスは願っています。
主イエスが繰り返したフレーズを思い出して下さい。それは、「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)です。
謙虚に自分の罪を認め、罪を悔い改め、福音を信じましょう。福音を信じるとは、主イエスを信じることです。
日本にはぬいぐるみを修理する有名な方がいます。穴が開いたり、パーツが取れたり、全体がしぼんだり、汚れたり、伸びきったものも直してくれるとテレビなどで知った人が、ぬいぐるみを持ってきます。
修理する人は、依頼主の話を良く聞いてから作業を開始します。最初は、内部に詰めてある綿やウレタンなどを出します。黄色く汚れています。それから、丁寧に手洗いして汚れを落とします。その後、専門知識と長年の経験を生かして、みごとに再生します。
主イエスは人間の修理人です。本来のあなたの姿に戻してくれます。ただし、最初に自分の罪を主イエスに言う必要があります。悔い改めですね。そして、洗ってもらいましょう。洗礼です。
ドストエフスキーの小説『罪と罰』は、人間の罪と悔い改めをテーマにしています。主人公ラスコーリニコフはお金欲しさから殺人を犯し、捜査をかいくぐって生き延びようとします。現実逃避したり、刑事の影を恐れたり、殺人を正当化し、人間が崩れていくこと自体が罪の罰でもあります。彼を愛するソーニャは、こう言います。「十字路へ行って、みんなにお辞儀をして、大地に接吻しなさい。だってあなたは大地に対しても罪を犯したんですもの、それから世間の人々に向かって大声で、わたしは人殺しですと言いなさい」ラスコーリニコフはソーニャの言葉の通りひざまずき、犯行を自白し、刑に服します。小説では、シベリアでの厳しい流刑生活が語られ、小説の最後にこう書かれています。「しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり……」
コラジン、ベツサイダ、カペナウムの人のようにならないで下さい。主イエスに心を閉じないで下さい。審判の日は来ます。罪のままでは滅びてしまいます。悔い改めて、主イエスを信じましょう。修理人イエスさまに身をゆだね、直してもらいましょう。
→あなたの番です
□コラジンやカペナウムのように拒絶しない
□罪を悔い改める謙虚な心を持つ
□修理人イエスにお任せする