涙といっても色々な涙があります。無念の涙。抗議の涙。幸せの涙。温かい涙。今日の詩篇の涙は、どんな涙でしょう。
詩人は、何らかの処罰を神から受けているように見えます。
「主よ。御怒りで私を責めないでください。
激しい憤りで私を懲らしめないでください。」(1節)
神からの処罰に納得していますが、その厳しさに音を上げ、助けとあわれみを求めています。病気になっているかもしれません。(2~3節)神が遠くにいるように感じるほどです。(4節)一人で夜を迎えると、とめどなく涙が出ます。(6節)
「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、
夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(6節)
涙でぐしゃぐしゃの状態ですが、最後の節では涙を拭いて立ち上がっています。
「私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。
彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。」(10節)
いったい何が起きたのでしょう。回復の鍵は何だったのでしょう。
ポイントは、8~9節にありました。
「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。
主は私の泣く声を聞かれたのだ。
主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」(8~9節)
私たちの涙には様々な不純物が含まれています。憎しみ、怒り、事故憐憫、自己弁護が私たちの涙に含まれるうちは、神に受け入れられる涙とは言えません。
そんな時は、泣きましょう。もっと泣きましょう。主の前で泣きましょう。6節のように泣き続けましょう。そうするうちに、不純物が取り除かれていきます。
自分は本当に汚れた存在だ、誰が悪いのでも、めぐり合わせが悪いのでもなく、私が悪い、と虚心になって気づくなら、あなたが流す涙は真珠のようにきれいになります。砕かれた心、不純物が取り除かれた涙は、神が喜んでくださる涙です。
神は預言者イザヤを通してヒゼキヤ王に次のように言われましたが、これも純化された涙だったのでしょう。
「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」
(イザヤ38:5)
駅に向かうバスの中でこんな事があったそうです。
冬の寒い日、一台のバスが病院前のバス停に止まりました。大勢の人がそこで乗り込み、車内は満員、室温は不快になるほど急上昇。そのせいで、赤ちゃんが大声で泣き出しました。車内は険悪な雰囲気になりました。次のバス停で何人かが降りましたが、赤ちゃんを抱えた若いお母さんが「降ります」と声を上げて、料金を払おうとしました。
「ここが目的地ですか」と運転手が尋ねると、「いいえ、でも赤ちゃんが泣くので、降りて駅まで歩きます」と答えました。運転手は、マイクのスイッチを入れ、「このお母さんは、迷惑になるので歩いて駅まで行くと言っていますが、赤ちゃんの仕事は泣くことです、どうでしょう、このまましばらく皆さんとご一緒できませんか」と乗客に語りかけました。数秒の沈黙後、一人が拍手、その後全員が拍手して賛同しました。
あなたは今、泣いている赤ちゃん自身かもしれません。あるいは、赤ちゃんを抱え心で泣いていたお母さんかもしれません。神は、あなたが乗るバスの最良の運転手で、あなたの涙を見ていてくださいます。あなたの涙から、憎しみや自己憐憫、怒り、自己弁護が消え去ったとき、あなたの肩に手を乗せて、こう言ってくださるのです。「ここで人生を途中下車してはいけない、目的地まで行こう。私は、あなたの涙を知っている。あなたの涙は尊いものだ。」
さあ、あなたの番です。泣きましょう。神の前で泣きましょう。自分の本当の心が見えるまで涙しましょう。あなたは、涙の向こうにおられる神をきっと見い出すことでしょう。
「主は私の泣く声を聞かれたのだ。」
詩篇5篇 朝明けの祈り
朝の祈り、それが詩篇5篇です。
朝、それはあなたの生き方を映し出す鏡です。
絶望という毛布をベッドから引きずって起き上がる人がいます。
起きぬけの音楽として、恨みや憎しみの再生ボタンを押す人もいます。
否定的で消極的な気分を朝食にする人もいます。
それでは、人生変わりません。
1、朝の祈り
私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。
(詩篇5:1~3)
この祈りは、真剣で、悲痛な叫びです。
朝、心を注ぎだして祈っています。
朝の祈り、それは、あなたの人生を変える力です。
朝の祈り、それは、あなたを変える秘訣です。
朝の祈り、それは、今日に備える心構えを与えてくれます。
朝の祈り、それ自体が、解決に踏み出す一歩です。
朝の新鮮な空気の中で最初に神と語り、一番大切なことを神に教えていただいき、一番伝えたい願いを神に祈りましょう。
2、神が見えてくる祈り
あなたは悪を喜ぶ神ではなく、
わざわいは、あなたとともに住まないからです。
誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。
あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。
あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。
主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。
しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、
あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。
(詩篇5:4~7)
朝、神に祈ると、心の朝霧が晴れてくる。
神が正しいお方であることが確認できる。
神は、悪と同居できる方ではない。悪者は神とは相容れない。
自分が神とどんな関係にいるかも見えてくる。
神の<ヘセド>によって、礼拝者として神に近づくことができていることに気づく。
ヘセドとはヘブル語で、旧約聖書の中心概念の一つ。愛とか恵みと訳される言葉だ。新改訳で「恵みによて、あなたの家に行き」と書かれているのがヘセドだ。
3、敵が見えてくる祈り
主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。
彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。
神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。
(詩篇5:8~10)
この部分で「助けてほしい」と神に願っている。
敵がどんなに陰険な人々かが分かる。言葉でダメージを人に与える者たちだ。パウロはローマ3:13でこの箇所を引用し、罪人の代名詞としている。
詩篇には、敵に対しての基本姿勢があるようだ。それは、攻めの姿勢ではなく、守りの姿勢。つまり、敵が掘った穴に敵が落ちるのを見るという姿勢だ。自分の義を掲げ、敵に攻めかかるとき、自分自身が罪を犯したり、加害者になることもある。「彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。」という姿勢は、敵を冷静に見させてくれる。神の解決を落ち着いて信じることができる。
4、周囲が見えてくる祈り
こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、
とこしえまでも喜び歌いますように。
あなたが彼らをかばってくださり、
御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、
大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。
(詩篇5:11~12)
朝の祈りで心を注ぎだすと、自分だけでなく周囲に目が向かう。これは実に不思議なことだ。自分が苦しいはずなのに、回りの人のため祈るようになる。
『夫を支える30の祈り』という本がある。音楽家の夫と結婚し、苦しみの中で祈りの秘訣を学んだクリスチャン女性、ストーミー・オマーティアンが書いた良書だ。
妻がその本を持っているのを私は知っていた。昨日、ちらっとページをめくってみた。そこには、たくさん線が引いてあった。<妻は私のために祈ってくれた>という事実に改めて気づいた。ありがとう。こんなにも真剣に祈ってくれて。
祈りは、夫や妻、あるいは子供をコントロールする道具ではない。自分自身が神の手によって練り直される大切なプロセスだ。祈りこそ、自分自身が変えられる道だ。私たちの今日を変革し、私たちの将来を築くのが祈りだ。
あなたの朝を、真摯な祈りの時に変えてみよう。
明日の朝から、祈りの人となろう。
そのとき、あなたが神の盾に守られていることに心底気づくだろう。
朝、それはあなたの生き方を映し出す鏡です。
絶望という毛布をベッドから引きずって起き上がる人がいます。
起きぬけの音楽として、恨みや憎しみの再生ボタンを押す人もいます。
否定的で消極的な気分を朝食にする人もいます。
それでは、人生変わりません。
1、朝の祈り
私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。
(詩篇5:1~3)
この祈りは、真剣で、悲痛な叫びです。
朝、心を注ぎだして祈っています。
朝の祈り、それは、あなたの人生を変える力です。
朝の祈り、それは、あなたを変える秘訣です。
朝の祈り、それは、今日に備える心構えを与えてくれます。
朝の祈り、それ自体が、解決に踏み出す一歩です。
朝の新鮮な空気の中で最初に神と語り、一番大切なことを神に教えていただいき、一番伝えたい願いを神に祈りましょう。
2、神が見えてくる祈り
あなたは悪を喜ぶ神ではなく、
わざわいは、あなたとともに住まないからです。
誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。
あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。
あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。
主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。
しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、
あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。
(詩篇5:4~7)
朝、神に祈ると、心の朝霧が晴れてくる。
神が正しいお方であることが確認できる。
神は、悪と同居できる方ではない。悪者は神とは相容れない。
自分が神とどんな関係にいるかも見えてくる。
神の<ヘセド>によって、礼拝者として神に近づくことができていることに気づく。
ヘセドとはヘブル語で、旧約聖書の中心概念の一つ。愛とか恵みと訳される言葉だ。新改訳で「恵みによて、あなたの家に行き」と書かれているのがヘセドだ。
3、敵が見えてくる祈り
主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。
彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。
神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。
(詩篇5:8~10)
この部分で「助けてほしい」と神に願っている。
敵がどんなに陰険な人々かが分かる。言葉でダメージを人に与える者たちだ。パウロはローマ3:13でこの箇所を引用し、罪人の代名詞としている。
詩篇には、敵に対しての基本姿勢があるようだ。それは、攻めの姿勢ではなく、守りの姿勢。つまり、敵が掘った穴に敵が落ちるのを見るという姿勢だ。自分の義を掲げ、敵に攻めかかるとき、自分自身が罪を犯したり、加害者になることもある。「彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。」という姿勢は、敵を冷静に見させてくれる。神の解決を落ち着いて信じることができる。
4、周囲が見えてくる祈り
こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、
とこしえまでも喜び歌いますように。
あなたが彼らをかばってくださり、
御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、
大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。
(詩篇5:11~12)
朝の祈りで心を注ぎだすと、自分だけでなく周囲に目が向かう。これは実に不思議なことだ。自分が苦しいはずなのに、回りの人のため祈るようになる。
『夫を支える30の祈り』という本がある。音楽家の夫と結婚し、苦しみの中で祈りの秘訣を学んだクリスチャン女性、ストーミー・オマーティアンが書いた良書だ。
妻がその本を持っているのを私は知っていた。昨日、ちらっとページをめくってみた。そこには、たくさん線が引いてあった。<妻は私のために祈ってくれた>という事実に改めて気づいた。ありがとう。こんなにも真剣に祈ってくれて。
祈りは、夫や妻、あるいは子供をコントロールする道具ではない。自分自身が神の手によって練り直される大切なプロセスだ。祈りこそ、自分自身が変えられる道だ。私たちの今日を変革し、私たちの将来を築くのが祈りだ。
あなたの朝を、真摯な祈りの時に変えてみよう。
明日の朝から、祈りの人となろう。
そのとき、あなたが神の盾に守られていることに心底気づくだろう。
詩篇4篇 私が呼ぶとき
夜の祈りと呼ばれる4篇を見ていこう。夜の祈りとみなされる理由は、床の上で自分の心に語る箇所(4節)と身を横たえ眠る(8節)という部分に由来する。
1、呼べば答える神
3篇と同じくこの4篇も苦難の中での祈りだ。根底に流れる思想は信頼。苦しくても、神への信頼に陰りはない。まことの神は、私たちが呼ぶとき明確に答えてくださる神だ。
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。
あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。
私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。(詩篇4:1)
苦しみのときにゆとりを与えてくださったと過去形で訳すのは口語訳、新改訳。ゆとりを与えてくださいと訳すのは新共同訳と英語聖書NIV。誤訳ではない。前者は直訳。後者は聖書ヘブル語文法に基づき<願い>を<完了形>で書き表す「祈願的完了形」であるとの認識。
第1ヨハネの手紙にはこの事と関連して興味深い聖句がある。祈りがきかれたと先取りする信仰姿勢を推奨している。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(第1ヨハネ5:14)
詩篇4篇の作者は、過去の試練において神からゆとりを頂いた経験があるのだろう。困難に出会った今、ゆとりを神に願っている。
4篇のような落ち着いた祈りができること自体が、既に<ゆとり>をもらっている印。
2、自分の心との対話
詩篇2篇と似た構造が2節にある。人々の一部が神から離れ、むなしいもの、まやかしを求めている姿をまず描き、3~5節で問題への対処方法を述べている。
恐れおののけ。そして罪を犯すな。
床の上で自分の心に語り、静まれ。(詩篇4:4)
夜の闇は神からの贈り物だ。明るい昼間、人間の目は自分の外にだけ向く。夜の闇が私たちを覆うと、目は自分の内面に注がれる。心を静めよう。自分の心と向き合おう。そのとき、自分の本当の姿が見えてくる。これなしには、本当の幸せをつかむことができない。
3、あなただけが!
7節は、物質的喜びを超えた真の喜びに言及している。
あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。(詩篇4:7)
私たちも神の恵みに目を留めよう。神がくださる喜びは物質的な喜びと次元が異なる。神からの喜びは以下の4つにまとめることができると私は考えている。
1)愛されている そのままのあなたが愛されている
2)罪赦されている どんな罪も赦された
3)主がともにおられる 一人ではない、神と共に歩むことは幸いだ
4)主に期待されている 自分が必要とされている、為すべき事がある
これらの恵みを夜、振り返るなら、大きな感謝に包まれ、熟睡することができる。
ところで、超豪華ホテルの理念には素晴らしい姿勢が掲げえられています。お客様がベッドで休むひとときを大切に考えていると公言するホテルもあります。ベッドに入り一日を振り返り、「このホテルに来て良かった」とお客さまに満足してもらうため、心温まる思い出作りのためにホテル従業員は働いているといいます。
神は、私たちが試練の中や苦難の中でも落ち着いて眠れるようにとすべてを整えておられます。あなたの安眠は神の贈り物です。
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。
主よ。あなただけが、
私を安らかに住まわせてくださいます。(詩篇4:8)
神に、心から「ありがとう」と言って今晩眠りにつきましょう。
本当の幸せは、主だけから来るのです。
→あなたの番です
1)自分の心を静かに見つめ、感謝と悔い改めをしよう
2)真の幸せは、神からだけ来るのです。そのことを心に刻みましょう
3)主が、あなたの願いにすでにかなえられたと先取りしよう
1、呼べば答える神
3篇と同じくこの4篇も苦難の中での祈りだ。根底に流れる思想は信頼。苦しくても、神への信頼に陰りはない。まことの神は、私たちが呼ぶとき明確に答えてくださる神だ。
私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。
あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。
私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。(詩篇4:1)
苦しみのときにゆとりを与えてくださったと過去形で訳すのは口語訳、新改訳。ゆとりを与えてくださいと訳すのは新共同訳と英語聖書NIV。誤訳ではない。前者は直訳。後者は聖書ヘブル語文法に基づき<願い>を<完了形>で書き表す「祈願的完了形」であるとの認識。
第1ヨハネの手紙にはこの事と関連して興味深い聖句がある。祈りがきかれたと先取りする信仰姿勢を推奨している。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(第1ヨハネ5:14)
詩篇4篇の作者は、過去の試練において神からゆとりを頂いた経験があるのだろう。困難に出会った今、ゆとりを神に願っている。
4篇のような落ち着いた祈りができること自体が、既に<ゆとり>をもらっている印。
2、自分の心との対話
詩篇2篇と似た構造が2節にある。人々の一部が神から離れ、むなしいもの、まやかしを求めている姿をまず描き、3~5節で問題への対処方法を述べている。
恐れおののけ。そして罪を犯すな。
床の上で自分の心に語り、静まれ。(詩篇4:4)
夜の闇は神からの贈り物だ。明るい昼間、人間の目は自分の外にだけ向く。夜の闇が私たちを覆うと、目は自分の内面に注がれる。心を静めよう。自分の心と向き合おう。そのとき、自分の本当の姿が見えてくる。これなしには、本当の幸せをつかむことができない。
3、あなただけが!
7節は、物質的喜びを超えた真の喜びに言及している。
あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。(詩篇4:7)
私たちも神の恵みに目を留めよう。神がくださる喜びは物質的な喜びと次元が異なる。神からの喜びは以下の4つにまとめることができると私は考えている。
1)愛されている そのままのあなたが愛されている
2)罪赦されている どんな罪も赦された
3)主がともにおられる 一人ではない、神と共に歩むことは幸いだ
4)主に期待されている 自分が必要とされている、為すべき事がある
これらの恵みを夜、振り返るなら、大きな感謝に包まれ、熟睡することができる。
ところで、超豪華ホテルの理念には素晴らしい姿勢が掲げえられています。お客様がベッドで休むひとときを大切に考えていると公言するホテルもあります。ベッドに入り一日を振り返り、「このホテルに来て良かった」とお客さまに満足してもらうため、心温まる思い出作りのためにホテル従業員は働いているといいます。
神は、私たちが試練の中や苦難の中でも落ち着いて眠れるようにとすべてを整えておられます。あなたの安眠は神の贈り物です。
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。
主よ。あなただけが、
私を安らかに住まわせてくださいます。(詩篇4:8)
神に、心から「ありがとう」と言って今晩眠りにつきましょう。
本当の幸せは、主だけから来るのです。
→あなたの番です
1)自分の心を静かに見つめ、感謝と悔い改めをしよう
2)真の幸せは、神からだけ来るのです。そのことを心に刻みましょう
3)主が、あなたの願いにすでにかなえられたと先取りしよう
詩篇3篇 信頼して眠る
元気ないですか。誰のサポートも得られないと感じますか。
それなら、詩篇3篇はあなたのものです。
1、根底に流れる落ち着き
ダビデはすべてを失いました。
詩篇3篇の表題によれば、この詩篇がダビデの人生のどん底で作られたことが分かります。第2サムエル15章~17章を見ると、ダビデ王は息子アブシャロムのクーデターにより王宮を追われました。
詩篇3篇の根底に流れる通奏低音は、落ち着きです。
2、今日の詩篇のキーワード
第3篇のキーワードは、「盾」と「眠る」です。
「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。
主がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」(5~6節)
ダビデにとって、ホームレスに落ちぶれるほどの厳しい試練となりましたが、まるで他人事のように敵が増えてきたことに驚いています。(1~2篇)
都を出るときにシムイに石を投げら悪口を浴びせかけられましたが、それはダビデの心に重くのしかかりました。それが2節に影響しているのでしょう。
ダビデは最悪のコンディションの中で、神に目を上げます。神が盾であると告白しました。盾とは何でしょう。いうまでもなく、防御の武具です。鋭利な槍の先を受け止め、鋭い剣をとどめるのが盾の役割です。盾は傷だらけになりながら、主人を守るのです。
誰かが窮地に陥ったとき、他の誰かが援助したり弁護するなら、その人も非難の矢面に立たされます。それは、盾になってくれたことになります。神は、私たちの盾です。体を張って、命をかけて、私たちを守ってくれます。
ダビデは、敵に追われ野宿するような生活になりました。それでも、眠れたことを感動しています。感謝しています。苦難が激しい時に人が求めるのは「ごく普通の生活」なのです。神は、ダビデに普通の眠りを与えてくださる方です。
7節以降では、ダビデは神に立ち上がってくださるように願いました。詩篇3篇全体には、神への非難や不平はありません。救いが神にあることをダビデははっきりと知っていました。
3、落ち着きを自分のものにする
ダビデの信仰の秘訣とは何でしょう。どうしたら、私たちも同じ姿勢を持てるのでしょうか。それは、朝の聖書、祈り、思い巡らすこと、だと思います。
→あなたの番です
1)あなたに与えられている「普通」を発見しよう
目を開いて、あなたの普通が普通でないことに気づきましょう。
2)あなたの周囲の「盾」に気づく
聖書を読み、目を閉じ、思い巡らし、祈りましょう。
3)神こそがあなたの究極の盾
誰も頼りにならない最悪の時、神は盾としてあなたの周囲を覆ってくださいます。
ペテロは死刑を前にして眠り込むことができました。(使徒12:6~7)あなも静かな心で眠れますよ。
「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)
それなら、詩篇3篇はあなたのものです。
1、根底に流れる落ち着き
ダビデはすべてを失いました。
詩篇3篇の表題によれば、この詩篇がダビデの人生のどん底で作られたことが分かります。第2サムエル15章~17章を見ると、ダビデ王は息子アブシャロムのクーデターにより王宮を追われました。
詩篇3篇の根底に流れる通奏低音は、落ち着きです。
2、今日の詩篇のキーワード
第3篇のキーワードは、「盾」と「眠る」です。
「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。
主がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」(5~6節)
ダビデにとって、ホームレスに落ちぶれるほどの厳しい試練となりましたが、まるで他人事のように敵が増えてきたことに驚いています。(1~2篇)
都を出るときにシムイに石を投げら悪口を浴びせかけられましたが、それはダビデの心に重くのしかかりました。それが2節に影響しているのでしょう。
ダビデは最悪のコンディションの中で、神に目を上げます。神が盾であると告白しました。盾とは何でしょう。いうまでもなく、防御の武具です。鋭利な槍の先を受け止め、鋭い剣をとどめるのが盾の役割です。盾は傷だらけになりながら、主人を守るのです。
誰かが窮地に陥ったとき、他の誰かが援助したり弁護するなら、その人も非難の矢面に立たされます。それは、盾になってくれたことになります。神は、私たちの盾です。体を張って、命をかけて、私たちを守ってくれます。
ダビデは、敵に追われ野宿するような生活になりました。それでも、眠れたことを感動しています。感謝しています。苦難が激しい時に人が求めるのは「ごく普通の生活」なのです。神は、ダビデに普通の眠りを与えてくださる方です。
7節以降では、ダビデは神に立ち上がってくださるように願いました。詩篇3篇全体には、神への非難や不平はありません。救いが神にあることをダビデははっきりと知っていました。
3、落ち着きを自分のものにする
ダビデの信仰の秘訣とは何でしょう。どうしたら、私たちも同じ姿勢を持てるのでしょうか。それは、朝の聖書、祈り、思い巡らすこと、だと思います。
→あなたの番です
1)あなたに与えられている「普通」を発見しよう
目を開いて、あなたの普通が普通でないことに気づきましょう。
2)あなたの周囲の「盾」に気づく
聖書を読み、目を閉じ、思い巡らし、祈りましょう。
3)神こそがあなたの究極の盾
誰も頼りにならない最悪の時、神は盾としてあなたの周囲を覆ってくださいます。
ペテロは死刑を前にして眠り込むことができました。(使徒12:6~7)あなも静かな心で眠れますよ。
「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)
詩篇2篇 国々は騒ぎ立つ
詩篇2篇は、1篇に比べると難解だ。誰が、何のために、誰について語った詩篇なのか?その謎を解いていこう。
1、王の即位の詩
謎解きの第一は、誰が書いたか。それは分からない。
謎解きの第二は、書かれた目的が何かだ。王の即位式に用いられた詩篇だろうと言われている。内容を確認すれば、すぐに分かる。
1~3節:近隣の王たちが、イスラエルの新王に対決姿勢を示す。
4~6節:神は、王たちの態度を笑い、イスラエルに王を立てたと宣言する。
7~9節:神から受けた信任を、王が表明する。
10~12節:御子に忠誠を誓うようにとの呼びかけ。
2篇の中心人物は、「油注がれた者」(2節)だが、6節で「王」と呼ばれ、7節では「わたしの子」、2節では「御子」と呼ばれている。
第2サムエル5:17以下には、エルサレムで即位したダビデ王にペリシテ人が戦いを挑んだ史実が書かれている。詩篇2篇の内容によく似ているが、ダビデがその「油注がれた者」かというと違う。2篇が語る王は、神から完全な信任を受けた特別の存在で、ダビデと言い切ることは困難だ。
神はダビデに以下のように約束された。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」(第2サムエル7:12~14)
「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる」この約束は、詩篇2篇の内容とぴたりと適合する。
「あなたはわたしの子、きょう、わたしはあなたを生んだ」(詩篇2篇7節)
そうすると、ダビデの子孫から生まれた王が、詩篇2篇の想定する王だということができる。多くの聖書学者たちは、主イエス・キリストを指し示す詩篇だという。
2、新約聖書に引用される詩篇
新約聖書に直接引用された詩篇は104箇所、間接引用も含めると400箇所にのぼると言われている。その多くが、主イエスの受難、死、復活、栄光を預言している。
復活後の主イエスは弟子たちに現れて、詩篇が主イエスについて証言しているとご自身の口で言われた。
「さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』」(ルカ24:44)
詩篇2篇を直接、間接に引用している新約聖書の主な箇所をあげると、以下のようになる。マルコ1:11、使徒13:33、ローマ1:4、ピリピ2:10~11、ヘブル1:5、ヨハネ黙示録2:27
詩篇2篇は、やがて来られる救い主であり、王である、主イエスを、あらかじめ指し示した詩篇であると理解できる。
3、王なる御子に栄光をささげよう
詩篇2篇10~12節で勧められているのは、悟れ、慎め、主に仕え喜び、御子に口づけせよ、という内容になっている。
神と御子が文章の流れではほぼ同格に扱われており、旧約聖書における三位一体に関する言及の一つとなっている。
詩篇1篇は、詩篇150篇全体の序論であり結論だと前回言及したが、2篇は<序論その2>という位置づけになる。それは、2篇の最後「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」(7節)が、詩篇1篇冒頭の「幸いなことよ」と呼応することが根拠になる。
詩篇2篇を大胆に要約すればこうなる。神の御子、イエス・キリストを王として栄光をささげよ。
一人の男性がいた。56歳。生涯で最も暗い日々を送っていた。脳卒中で半身が不自由になり、リュウマチの苦痛とも戦っていた。そんな彼が作曲の依頼を受けた。歌詞は聖書、それもイエス・キリストこそまことの救い主、王の王という内容だった。24日間かかって一気に書き上げた作品は「メサイヤ」として広く知られるようになった。この男性が作曲家のヘンデルだった。
私はこう想像している。ヘンデルは、自分の部屋で一人きりのとき、主イエスを王としてたたえていたのだと。
礼拝とは、神が良きものを下さったがゆえにささげるものではないと私は思う。もちろん主への感謝は礼拝の大切な一部だ。けれども、主イエスが王の王である、ただそのことにゆえ礼拝に値すると私は信じている。
本当の幸せは、御子イエスを信じて、共に歩くことである。あなたも、主イエスをあなたの王として心の中心にお迎えしよう。
→あなたの番です
□神の御子イエスを礼拝において心からたたえよう
□あなた一人の場所で、主イエスを王としてあがめよう
□王に仕える者として、誇りを持って今週も生きよう
1、王の即位の詩
謎解きの第一は、誰が書いたか。それは分からない。
謎解きの第二は、書かれた目的が何かだ。王の即位式に用いられた詩篇だろうと言われている。内容を確認すれば、すぐに分かる。
1~3節:近隣の王たちが、イスラエルの新王に対決姿勢を示す。
4~6節:神は、王たちの態度を笑い、イスラエルに王を立てたと宣言する。
7~9節:神から受けた信任を、王が表明する。
10~12節:御子に忠誠を誓うようにとの呼びかけ。
2篇の中心人物は、「油注がれた者」(2節)だが、6節で「王」と呼ばれ、7節では「わたしの子」、2節では「御子」と呼ばれている。
第2サムエル5:17以下には、エルサレムで即位したダビデ王にペリシテ人が戦いを挑んだ史実が書かれている。詩篇2篇の内容によく似ているが、ダビデがその「油注がれた者」かというと違う。2篇が語る王は、神から完全な信任を受けた特別の存在で、ダビデと言い切ることは困難だ。
神はダビデに以下のように約束された。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」(第2サムエル7:12~14)
「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる」この約束は、詩篇2篇の内容とぴたりと適合する。
「あなたはわたしの子、きょう、わたしはあなたを生んだ」(詩篇2篇7節)
そうすると、ダビデの子孫から生まれた王が、詩篇2篇の想定する王だということができる。多くの聖書学者たちは、主イエス・キリストを指し示す詩篇だという。
2、新約聖書に引用される詩篇
新約聖書に直接引用された詩篇は104箇所、間接引用も含めると400箇所にのぼると言われている。その多くが、主イエスの受難、死、復活、栄光を預言している。
復活後の主イエスは弟子たちに現れて、詩篇が主イエスについて証言しているとご自身の口で言われた。
「さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』」(ルカ24:44)
詩篇2篇を直接、間接に引用している新約聖書の主な箇所をあげると、以下のようになる。マルコ1:11、使徒13:33、ローマ1:4、ピリピ2:10~11、ヘブル1:5、ヨハネ黙示録2:27
詩篇2篇は、やがて来られる救い主であり、王である、主イエスを、あらかじめ指し示した詩篇であると理解できる。
3、王なる御子に栄光をささげよう
詩篇2篇10~12節で勧められているのは、悟れ、慎め、主に仕え喜び、御子に口づけせよ、という内容になっている。
神と御子が文章の流れではほぼ同格に扱われており、旧約聖書における三位一体に関する言及の一つとなっている。
詩篇1篇は、詩篇150篇全体の序論であり結論だと前回言及したが、2篇は<序論その2>という位置づけになる。それは、2篇の最後「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」(7節)が、詩篇1篇冒頭の「幸いなことよ」と呼応することが根拠になる。
詩篇2篇を大胆に要約すればこうなる。神の御子、イエス・キリストを王として栄光をささげよ。
一人の男性がいた。56歳。生涯で最も暗い日々を送っていた。脳卒中で半身が不自由になり、リュウマチの苦痛とも戦っていた。そんな彼が作曲の依頼を受けた。歌詞は聖書、それもイエス・キリストこそまことの救い主、王の王という内容だった。24日間かかって一気に書き上げた作品は「メサイヤ」として広く知られるようになった。この男性が作曲家のヘンデルだった。
私はこう想像している。ヘンデルは、自分の部屋で一人きりのとき、主イエスを王としてたたえていたのだと。
礼拝とは、神が良きものを下さったがゆえにささげるものではないと私は思う。もちろん主への感謝は礼拝の大切な一部だ。けれども、主イエスが王の王である、ただそのことにゆえ礼拝に値すると私は信じている。
本当の幸せは、御子イエスを信じて、共に歩くことである。あなたも、主イエスをあなたの王として心の中心にお迎えしよう。
→あなたの番です
□神の御子イエスを礼拝において心からたたえよう
□あなた一人の場所で、主イエスを王としてあがめよう
□王に仕える者として、誇りを持って今週も生きよう
詩篇1篇 主の教えを喜びとし
今日から詩篇を順番に見ていきましょう。
1、詩篇とは何か
詩篇とは何でしょう。ひとことで言えば、人間の魂の叫びです。それは、人の本音であり、神への祈りです。
聖書全体は神から人に下された啓示であり、いわば下に向けられたメッセージです。詩篇はその逆に、人から神への上向きの方向性を持っています。それで詩篇には、賛美、祈り、涙、ため息、疑い、のろい、訴えさえも含まれているのです。
詩篇1篇は、詩篇全体の序論であり、同時に結論です。
2、悪者とは何か
詩篇1篇は、人の生き方を白と黒とにあえて簡略化しています。あなたは、正しい人として生きるか、悪者として人生を終えるか、詩篇の読者に二者択一を迫る目的です。
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(1節)
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。(4節)
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(6節)
神との関係を絶ち、自分中心に生きる人を、詩篇1篇では「悪者」と呼んでいるようです。正しい者とは、神と共に歩く人を指すのでしょう。
神からの愛、神からの励ましを受けることなく、神と共に歩くことがない人は、悪者のはかりごとに近寄ってしまいます。やがて、罪人の道に入ることが習慣になり、あざける者の座に落ち着いて動きがとれなくなることは理解できます。
悪者の本質は、むなしく、籾殻のように空っぽで、最後には滅びが待っていると聖書は語ります。
3、幸せとは何か
本当の幸せとは何でしょう。それは、神と共に生きることです。これが、詩篇1篇の言いたいことであり、詩篇全体の中心主題です。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(3節)
神と共に生きる人は、水路のそばに植えられた木のようだと描写されています。イメージが残るほど鮮やかな描写です。
嬉しいときは、歌いだします。
悲しいときは、泣きます。
切ないときは、うめき、助けを求めます。
混乱したときは、抗議します。
どんなに苦しくつらくても、神と共にあるなら、乗り越えられます。
神と共にいる秘訣は、神の言葉を愛し、神の言葉を思い巡らし、神の言葉を口ずさむことです。
朝に読んだ聖書の言葉を、まるで弁当を持って出かけるようにして心に蓄えて持っていきましょう。日曜の礼拝で読まれた聖句は、レストランでもらうボックスに入れるようにして、持ち帰りましょう。
→あなたの番です
□礼拝の聖句を持ち帰ろう
□朝読んだ聖書を「お弁当」にして持って出よう
□神の言葉を思い巡らそう
□いつでも、どこでも神に語りかけよう
あなたも、しあわせをつかんでください。
1、詩篇とは何か
詩篇とは何でしょう。ひとことで言えば、人間の魂の叫びです。それは、人の本音であり、神への祈りです。
聖書全体は神から人に下された啓示であり、いわば下に向けられたメッセージです。詩篇はその逆に、人から神への上向きの方向性を持っています。それで詩篇には、賛美、祈り、涙、ため息、疑い、のろい、訴えさえも含まれているのです。
詩篇1篇は、詩篇全体の序論であり、同時に結論です。
2、悪者とは何か
詩篇1篇は、人の生き方を白と黒とにあえて簡略化しています。あなたは、正しい人として生きるか、悪者として人生を終えるか、詩篇の読者に二者択一を迫る目的です。
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(1節)
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。(4節)
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(6節)
神との関係を絶ち、自分中心に生きる人を、詩篇1篇では「悪者」と呼んでいるようです。正しい者とは、神と共に歩く人を指すのでしょう。
神からの愛、神からの励ましを受けることなく、神と共に歩くことがない人は、悪者のはかりごとに近寄ってしまいます。やがて、罪人の道に入ることが習慣になり、あざける者の座に落ち着いて動きがとれなくなることは理解できます。
悪者の本質は、むなしく、籾殻のように空っぽで、最後には滅びが待っていると聖書は語ります。
3、幸せとは何か
本当の幸せとは何でしょう。それは、神と共に生きることです。これが、詩篇1篇の言いたいことであり、詩篇全体の中心主題です。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(3節)
神と共に生きる人は、水路のそばに植えられた木のようだと描写されています。イメージが残るほど鮮やかな描写です。
嬉しいときは、歌いだします。
悲しいときは、泣きます。
切ないときは、うめき、助けを求めます。
混乱したときは、抗議します。
どんなに苦しくつらくても、神と共にあるなら、乗り越えられます。
神と共にいる秘訣は、神の言葉を愛し、神の言葉を思い巡らし、神の言葉を口ずさむことです。
朝に読んだ聖書の言葉を、まるで弁当を持って出かけるようにして心に蓄えて持っていきましょう。日曜の礼拝で読まれた聖句は、レストランでもらうボックスに入れるようにして、持ち帰りましょう。
→あなたの番です
□礼拝の聖句を持ち帰ろう
□朝読んだ聖書を「お弁当」にして持って出よう
□神の言葉を思い巡らそう
□いつでも、どこでも神に語りかけよう
あなたも、しあわせをつかんでください。
ギデオンの剣 士師記7:9~25
ギデオンのシリーズ最終回となります。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
ご存知のように、平家物語の冒頭部分です。源義経が「一の谷の合戦」でひよどり越えをする場面は、ギデオンの戦いを彷彿させます。どちらも奇襲作戦で大軍勢を打ち破りました。
1、さあ、攻め下れ
その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。(9節)
主は、優しさと配慮のある方です。心配なら偵察してきなさいとギデオンに言われました。彼は密かにミデヤン兵の世間話に聞き耳を立てました。大麦のパンが下ってきて、陣営が破壊される夢を見たと一人の敵兵が語り、聞き手は、それはギデオンに違いないと話していました。
ギデオンはその場で礼拝しました。勝利の確証を得て、また、敵陣の偵察も同時に終えて自陣に帰還、兵士らに作戦をさずけました。
神は、あなたに、今だ、と語られるときがあります。はっきりとそれが分かったのなら、躊躇せずに攻めくだるべきです。あなたの手に渡したと主は言われるのです。
2、私を見よ
大麦のパンは小麦のパンに劣り、いわば貧乏人の食べ物として知られていました。ギデオンはミデヤン兵の夢を聞いて痛快な気持ちになったでしょう。くらえ!貧乏人の食物を、弱虫の勇気を、といったところです。
それから、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。(17節)
あの臆病なギデオンが、私を見なさい、私のやるとおりにせよ、と命令をしています。神は、弱い者を選び、育て、用いてくださる方です。
あなたが現代のギデオンです。
3、主の剣だ
三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。
(20~21節)
ギデオンの古戦場を実際に訪ねた人に聞くと、丘のような山に囲まれた場所だということでした。
ギデオンは、秘策を授けました。たいまつを壷で隠し、敵陣の上方に待機させました。ギデオンの合図で、300人が壷を割ります。すると周辺一帯が大音響に包まれます。寝入っていた敵軍は大慌てで起き上がり、たいまつの明かりが周囲の山を取り囲んでいることに気づきます。「主の剣、ギデオンの剣」とイスラエル兵が大声で叫び、左手にたいまつを掲げながら、右手の角笛を高らかに吹き鳴らします。
集結したはずのイスラエル軍が突然消息を絶ったので、ミデヤン軍は疑心暗鬼になっていたので、奇襲攻撃を受けると同士討ちを始めるほどの混乱をきたしました。ミデヤン軍は一枚岩ではなく、寄り合い所帯の同盟軍であったので、見方がイスラエルに寝返ったと思い込んだのかもしれません。
22節によれば、ギデオンの兵士は角笛を吹き続けました。本来は通信係である角笛担当者の背後に何千、何万というイスラエル兵がいると考えたのは無理もないことです。同士討ちによりかなりの数の兵士が戦死したと思われます。
ギデオンは、一旦返した兵士らを呼び寄せ、ミデヤン人討伐を慣行しました。勝利です。主の勝利です。人間の力によらない主の栄光です。
→あなたの番です
□ミデヤン人とは、今のあなたにとって何ですか
□あなたにとっての角笛とたいまつとは何ですか
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)
それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。
(出エジプト記14:13)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
ご存知のように、平家物語の冒頭部分です。源義経が「一の谷の合戦」でひよどり越えをする場面は、ギデオンの戦いを彷彿させます。どちらも奇襲作戦で大軍勢を打ち破りました。
1、さあ、攻め下れ
その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。(9節)
主は、優しさと配慮のある方です。心配なら偵察してきなさいとギデオンに言われました。彼は密かにミデヤン兵の世間話に聞き耳を立てました。大麦のパンが下ってきて、陣営が破壊される夢を見たと一人の敵兵が語り、聞き手は、それはギデオンに違いないと話していました。
ギデオンはその場で礼拝しました。勝利の確証を得て、また、敵陣の偵察も同時に終えて自陣に帰還、兵士らに作戦をさずけました。
神は、あなたに、今だ、と語られるときがあります。はっきりとそれが分かったのなら、躊躇せずに攻めくだるべきです。あなたの手に渡したと主は言われるのです。
2、私を見よ
大麦のパンは小麦のパンに劣り、いわば貧乏人の食べ物として知られていました。ギデオンはミデヤン兵の夢を聞いて痛快な気持ちになったでしょう。くらえ!貧乏人の食物を、弱虫の勇気を、といったところです。
それから、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。(17節)
あの臆病なギデオンが、私を見なさい、私のやるとおりにせよ、と命令をしています。神は、弱い者を選び、育て、用いてくださる方です。
あなたが現代のギデオンです。
3、主の剣だ
三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。
(20~21節)
ギデオンの古戦場を実際に訪ねた人に聞くと、丘のような山に囲まれた場所だということでした。
ギデオンは、秘策を授けました。たいまつを壷で隠し、敵陣の上方に待機させました。ギデオンの合図で、300人が壷を割ります。すると周辺一帯が大音響に包まれます。寝入っていた敵軍は大慌てで起き上がり、たいまつの明かりが周囲の山を取り囲んでいることに気づきます。「主の剣、ギデオンの剣」とイスラエル兵が大声で叫び、左手にたいまつを掲げながら、右手の角笛を高らかに吹き鳴らします。
集結したはずのイスラエル軍が突然消息を絶ったので、ミデヤン軍は疑心暗鬼になっていたので、奇襲攻撃を受けると同士討ちを始めるほどの混乱をきたしました。ミデヤン軍は一枚岩ではなく、寄り合い所帯の同盟軍であったので、見方がイスラエルに寝返ったと思い込んだのかもしれません。
22節によれば、ギデオンの兵士は角笛を吹き続けました。本来は通信係である角笛担当者の背後に何千、何万というイスラエル兵がいると考えたのは無理もないことです。同士討ちによりかなりの数の兵士が戦死したと思われます。
ギデオンは、一旦返した兵士らを呼び寄せ、ミデヤン人討伐を慣行しました。勝利です。主の勝利です。人間の力によらない主の栄光です。
→あなたの番です
□ミデヤン人とは、今のあなたにとって何ですか
□あなたにとっての角笛とたいまつとは何ですか
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)
それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。
(出エジプト記14:13)
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