詩篇13篇 いつまでですか 

 私たちの悩みはエンドレスなのか。

1、いつまで?        

 「主よ。いつまでですか。
あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」(1節)

 ダビデは「いつまで」という言葉を4回も使っている。詩篇13篇のトーンはこの言葉が決めた。
「いつまでですか」と問うのは、どんな時だろう。それは、苦しみに耐えてきた時だ。これ以上は体力も気力は維持できないという限界状態で発する言葉がこれだ。

 1節から2節を見ると、孤独、思い悩み、悲哀、恥、不当な取り扱いに苦悩するダビデの姿が浮かび上がる。
 あなたも「いつまでですか」と神に訴えているところだろうか。

 神は人間が作った時計の奴隷ではない。これは、著名な説教者チャールズ・スウィンドルの言葉だ。私たちの時計と神の時計は進み方が異なる。



2、立ち向かう祈りへ       

 神への訴えはいつしか祈りに変わっていた。それが3節。これは光を求める祈りだ。目の輝きとは活力と理解することも可能だ。

 「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。
私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。」(3節)

 あなたはいつも、やらされていると思っていないか。野球やフットボールでいえば、守備やディフェンスの姿勢だ。追われる、急がされる、せかされる。守りの姿勢では、「いつまでですか」と言うしか道はない。神がくださった人生だ。神が与えてくださる光によって、前向きに立ち向かおう。

 中国のジョージ・チェンは、福音を伝えただけで収容所に入れられた。人の排泄物に膝まで浸かって肥料を作る作業を言い渡された。彼は、18年間、それに耐えた。「悪臭で看守も近づかないので、一日中、祈ったり賛美できた。みじめに見えたが、実は幸せだった。」と語っている。

 人生の難題に真正面から取り組む勇気を与えるもの、それが信仰だ。




3、恵み(חֶסֶדヘセド)に拠り頼む 

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。
私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います。
主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(5~6節)

 祈り始めることにより、ダビデの姿勢が劇的に変わった。ヘセドに信頼する人になった。
ヘセドとは、旧約聖書における中心概念の一つ。契約に基づく愛のこと。恵み、いつくしみなどと訳される。ヘセドは、裏切ることのない神の愛であり、恵みだ。神の恵みに賞味期限切れなど一切ない。

 突き詰めて言うと、私たちの悩みには終わりが来る。

 神の恵みには終わりはない。

 「いつまででですか」という訴えに対する神の回答はこの詩篇にない。その代わり、祈りによって、難問に立ち向かう姿勢が与えられたダビデが描かれ、また、自信を持って神の恵みに立っているダビデがいる。ダビデには今、歌がある。喜びがある。

 神の恵みという言葉を、「イエス・キリスト」と置き換えて読んでみよう。そのままピッタリと当てはまる。

さあ、あなたの番です。

 □ どんな時でも、神のタイムテーブルに信頼しよう。
 □ 「いつまでですか」と訴える姿勢から、
   立ち向かう力を求める祈りを身に着けよう。
 □ 神の恵みは決して変わることがない。

  →神は脱出の道を備えて下さる。第1コリント10:13

詩篇12篇 混じりけのない言葉

 私たちは、人間の言葉という海で漂流している。

 現代社会で生きることは、人間の言葉というオイルやヘドロに汚染された海で泳ぐようなもの。ダビデはその苦しさの中で神を呼び求めた。それが詩篇12篇。あなたも、人間の言葉で窒息しそうですか。


1、不純物だらけの人間の言葉

「主よ。お救いください。
聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。
人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。」
(1~2節)

 人間の言葉はつまるところ嘘とへつらいであり、その内面は二心で満ちている。不純物でいっぱいだ。周囲を見回すと信頼できる人がいない。アメリカ社会といっても表と裏が違う人はざらにいる。裏切る人はどこにでもいる。人間の言葉は信頼できない。ダビデも不純物だらけの人間の言葉に傷つけられた。
 
 嘘というのは、ヘブル語で空っぽという意味。「へつらいを」新共同訳は「なめらか」と訳している。二心は、原文では、心と心。

 嘘をつくときは目が泳いだり、口の周辺に手が行く。自分の姿を思い出してみよう。

 あなたも、ビジネスで誰かに裏切られたり、心変わりされたことがありますか。親戚、家族、知り合いに裏切られたことがありますか。ダビデは、誠実でない人々を処罰してくださいと訴えた。
 
 「主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、
ことごとく断ち切ってくださいますように。」(3節)

 言葉で不誠実な人は、態度も傲慢だ。

 「彼らはこう言うのです。『われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。』」(4節)

 私たちの社会には、神とは別の価値観があって幅を利かせています。それで、嘘つき達が大手を振って歩いていられるのです。(8節)

 人間の言葉の中で漂流している我々は、二種類の言葉を本能的に求めている。
 一つは、ほっとできる言葉。もう一つは、正直な言葉。東京農工大の生協の名物店員白石さんの言葉は秀逸。味わい深い言葉で学生の質問に答えている。後者の代表例は、相田みつをの言葉だ。人間の弱さを正直に見つめて多くの共感を得ている。星野富弘さんの詩画も正直で、聖書的な希望が隠し味で入っている。
 ほっとできる言葉は、前向きな言葉と言い換えることもできる。正直な言葉は、キリスト教的に言えば、罪の悔い改めということも可能だ。人は、こういう言葉を求めて生きている。



2、混じりけのない神の言葉

 神の言葉は、三つの要素を持っている。

1)救う言葉(5節)

「主は仰せられる。『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。』」(5節)

 神の言葉は、ほっとできるし、正直で、感動を覚えるが、それだけではない。神の言葉は、私たちを実際に救うことができる。

2)真実の言葉(6節)

 ハワイみやげの定番といえばコナコーヒー。でもコナ原産のコーヒーが10%や20%程度でもコナコーヒーと呼ぶ。高いけど、買うなら100%のコナコーヒーがいい。

 「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(6節)

 当時、銀は炉で溶かされ不純物を取り除いて処理された。7回という数字は完全数なので、100%純粋な銀という意味。神のことばは、純度100%。決して裏切らない。信頼に足る言葉だ。変わることがなく、変える必要がないほど完全。

3)支える言葉(7節)

 私たちが、ほっとする言葉や優しい言葉を求めるのは、前向きの言葉を求めている印といえる。神のことばは、私たちを励まし、支え、守る。

 「あなたが、主よ、彼らをお守りになります。あなたはこの時代からとこしえまでも彼らを保たれます。」(7節)

 デンマークの哲学者キルケゴールは今から200年前に生まれた人だが、キリスト教的背景を持って人生を見つめた。彼によると、人間には3つの段階があるという。
   1)美的段階
   2)倫理的段階
   3)宗教的段階

 最初の段階で、人は欲望を追求するが、やがて行き詰まりを経験する。第二の段階では、道徳的な生活を志すが、やはり失望を見い出す。第三の段階は、死すべき自分の罪に気づき、自分自身を神にゆだねる。いわば信仰の飛躍が必要だという。

 私たちもダビデのように率直に祈ろう。「主よ。お救いください。」(1節)

 日曜の朝、行きつけのカフェでコーヒーを注文した人がいた。コーヒー代金は既に支払われていますと店員が告げた。店内を見てもそれらしい人物はいない。「さきほど、あるお客様が20人分のコーヒー代を払って行かれ、お客様は8人目に当たります。」と説明した。テーブルに着いた後、店内の見知らぬ人と目を会わせ、お互いに笑い合った。
 この話を知って、教会の姿に似ていると思った。命という代価を主イエスが先に払ってくださった。主イエスによる罪の救いを無代価で頂いた我々が今、教会で出会っている。目を合わせ、お互いに、感謝ですね、主イエスは素晴らしいですね、ともっと言い合ったらいい。

 あなたの番です→
  □否定的な言葉のプレイバックは止める
  □毎日、聖書を読む
  □示された聖書の言葉を握って、解決を信じる

 純粋な神の言葉に信頼して、困難な人生の荒海を乗り越えよう。

詩篇11篇 主に身を避ける 

 行き詰ったらどうするか。11篇はその答えです。

「主に私は身を避ける。」(1節)

 冒頭の一節がその詩篇の結論ということがしばしばありますが、11篇もそうです。主に身を避けるという言葉は、詩篇7、16、31、57、71篇にも使われています。これはきっぱりとした信仰告白です。この言葉が出てきた背景を考えてみましょう。


1、まずは逃げる

 ダビデは友人たちから1~3節のような忠告を受けました。

「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、
暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(1~3節)

 いつ殺されてもおかしくない状況だから、逃げたほうがいい。社会の道徳基盤が崩壊しているので、正しく生きようとしても何の役にも立たない。

 逃げる。切羽詰ったときに最も有効な手段は、逃げることです。自殺するより、自己破産したほうがいい。殺されるより、学校を辞めるほうがいい。あなたが行き詰ってしまったなら、逃げましょう。

 ダビデも実際のところ、サウル王に命を狙われた時や、息子アブシャロムのクーデターの時には、逃げました。
 多くの人は、問題から逃げるだけで終わっています。ダビデは逃げただけでなく、神に逃げ込みました。これが神に身を避けるということです。




2、みそなわす主 

 「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。
その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。」(4節)

 口語訳聖書の4節には「みそなわす」という言葉が使われています。私が高校時代に通った教会に年配の男性がおられ、祈るとき必ずこの言葉が使ったことを懐かしく思い出します。みそなわすとは、<見る>の尊敬語です。神は見ておられます。
 
 ダビデの視点は、神に向けられていました。見ている方がおられる。たとえ、敵がいようとも、社会が堕落しようとも、神は見ていてくださる。逃げるとき、敵だけに注目してはいけません。復讐だけを考えてはいけません。逃げながら、神の視線を感じましょう。そこに、安らぎを見出しましょう。これも、神に身を避けることです。

 5~6節には、神が必ず正しい裁きを下してくださる事への信頼が語られています。これもまた、神に身を避けることです。

 ドイツの牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファーはヒットラーの政策を批判したことで知られています。1939年、亡命のため渡米しましたが1ヶ月で帰国、6年後に銃殺されました。勇気ある人です。39歳で昇天。短い生涯でしたが、その生き方と文章が今も多くの人に感銘と勇気を与えています。彼も、主の視線を知っていた人に違いありません。



3、御顔を仰ぎ見る 

 私たち人間は、誰一人例外なく正義を求めていますが、自分の物差しに応じた正義に偏りやすいのです。ですから、混じりけの無い正義を持たれるただ一人の神を礼拝することが必須となります。祈りが、どうしても必要になります。

 「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)

 「祈りのハイド」と呼ばれた宣教師がいます。イリノイ州出身のジョン・ネルソン・ハイド(1865-1912)は27歳の時インドに向けて出発しました。現地での宣教に困難を覚え、病気に倒れ、やがて祈りの中に大きな慰めと力を感じるようになりました。長時間の祈り、徹夜の祈りで知られ、祈りの実として多くの人が救いに導かれました。
 ウィルバー・チャップマン博士は、この祈りの人ハイドと共に祈った経験がありました。扉を閉めた部屋でハイド師と彼は跪きました。5分間、ハイド師は何も言葉を発しませんでしたが、チャップマン師の目から涙があふれ出ました。今、神とともにいる、と気づいたと彼は述べています。

 主イエスは言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)

 主に身を避けるとき、私たちは神の御顔を見るのです。その時、大きな慰めと力、安らぎがやってきます。

→あなたの番です
 □ 信頼できるクリスチャンに悩みを聞いてもらう
 □ 場合によっては、思い切って緊急避難をする
 □ 心を込めて主を礼拝する

詩篇10篇 主よ、立ち上がってください 

 不適切な質問は否定的な答えしか生み出さない。コミュニケーション・コンサルタントのドロシー・リーズが、そうした指摘をしています。
 「私は、なぜ不幸なんだろう」、「あなたは、なぜ、いつでもそういう態度なの」こうした種類の質問は、質問自体に問題があります。

1、見当はずれの質問

 「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」(1節)

 かつては神が自分のすぐ隣におられると感じた。でも今は距離がある。神がお隠れになったとしか思えない神の不在がある。そこで神に訴え出た。

 これは否定的な答えしか引き出さない不適切な質問なのです。


2、偏った視点

 「悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは『神はいない。』」の一言に尽きる。(3~4節)

 神を近くに感じられない詩篇の作者は、悪者にばかりに目を向けました。3節から11節には、悪者の言動、習性、思考パターンなどをつぶさに描かれています。

 欲望の塊(3節)、低次元の宗教心(4節)、高慢な態度(6節)、毒舌(7節)、悪辣な習性(8~9節)、横柄な確信(11節)。

 通常、悪者にばかりに目を向けると良いことは一つもありません。否定的な気持ちがエスカレートするばかりです。

 あなたの身近に「悪者」がいますか。職場の同僚や上司、学校の教師や同級生、家庭の夫や妻、親や兄弟、あなたの周囲にいる人を悪者にすることは可能です。
悪者の欠点を101挙げなさいと言われたら、いとも簡単にできるでしょう。その際、自分の欠点が一つも言えないなら、あなたの視点は偏っており、あなたの考えはバランスが取れていません。



3、自分の歪みに気づく

 自分は清廉潔白で相手は限りなく悪人だという迷宮に入ると、そこから出てくることは不可能になります。
ですが、主のあわれみのゆえでしょうか、詩篇の作者は神への積極的な祈りに突然転じます。

 「主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。」(12節)

 なぜ、前向きになれたのでしょうか。鍵は11節かもしれません。

 「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」(11節)

 悪人の主張に目を留めたとき、自分の心の中で不協和音が響き始めました。どこかで聞いたフレーズです。神は忘れている。神は隠れている。神は見ていない。
これは、詩人の言葉と酷似しています。神に訴えた自分の言葉と本質的に同じです。

 そうです。これでは、信仰者である自分と悪人は同じになってしまいます。違う。違うはずだ。神は隠れてなんかおられない。神が見てないわけがない。神は今もここにおられる。それで、14節になると確信を持ってこう言いました。

 「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。」(14節)

 詩篇の末尾では、神の守りと主権を心からたたえています。

 あなたの心をチェックしてみましょう。
 ・あなたの訴えは、適切ですか。
 ・「悪人」ばかりに視点を向けていませんか。

 神はあなたのそばにいるだけでなく、あなたを背負って歩いてくれます。あなたが母の胎内にいた時から(イザヤ46:3)、白髪頭になっても、神の姿勢は変わりません。

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:4)

 どんな時も、どんなあなたも、神は目をそらせず、あなたと共にいてくださいます。

詩篇9篇 主に感謝します 

 9篇は初めて登場する感謝の詩篇です。ヘブル語ではacrostic形式を取り、頭文字がヘブル語のアルファベットになっています。それが10篇まで続いているので、本来は一つの詩篇だったと思われます。

1、感謝は、探すもの         

「私は心を尽くして主に感謝します。
あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」
(1節)

 人間が不幸なのは、自分が本当は幸福であることを知らないからだ、とドストエフスキーは言いました。
 
 ダビデは苦しみの中にいました。3節によれば、敵と相対する緊迫した状況にあり、13節を見ると、悩みと死の危険にあることが分かります。それでも、第一声は感謝でした。

 旧約聖書において「奇しいわざ」とは、神の世界創造のわざ、あるいは出エジプトにおける救いのみわざを指します。あなたにとっての「奇しいわざ」とは何でしょう。
ダビデは、苦難に目を向けるのではなく、あえて神のみわざを注視しました。それが、感謝する秘訣なのです。日常生活の背後にある神のみわざを探すとき、感謝が生まれます。

 感謝する人になりましょう。感謝は積極人生のトレードマークです。感謝は、愛の宅急便を受領した後の<受け取り通知>です。感謝は、明日のドアを開く鍵です。


2、賛美は、存在を喜ぶこと           

 家内が日本に1週間帰っていた間、我が家の夕食は短時間で終わり、みんなの食欲が低下しました。料理の出来、不出来という問題はさておき、なんだか変だと感じました。家内が帰って来て謎が解けました。家族団らんの雰囲気を作っていたのは家内なのだと。温かさ、楽しさ、ゆとり、それらは家内がいたから成り立っていたものでした。エアポートに迎えに行ったとき、おもわず「帰って来てくれて、ありがとう。いつも一緒にいてくれて、ありがとう」と言いました。

「私は、あなたを喜び、誇ります。
いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。」
(2節)

 賛美は、神の存在自体を喜ぶことです。心を開いて、<あなたがいてくれることが嬉しいです>と神に伝えることが賛美です。

 神の誠実さ、神の愛、神の赦し、神の守りを思い返してみましょう。神は賛美を受けるにふさわしい方です。
11節には、「主にほめ歌を歌え」とあります。14節でも、「あなたのすべてのほまれを語り告げる」とあります。

 賛美していると、悩みは小さくなります。まるで縮小コピーするみたいに、みるみる小さくなります。賛美によって主が共におられる事を確信できるので、悩みに立ち向かう体勢ができるのです。


3、信頼は、感謝と賛美の轍(わだち)が導く           

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。
主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」
(10節)

 感謝と賛美は、信頼への轍を作ってくれます。御名を知る、つまり、神をもっと知ることができるならば神に拠り頼むことは容易になります。神に拠り頼むなら、明日への希望がわいてきます。

 9節で「主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで」とあります。12節で「血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない」とあります。マイナスの状態でも、神に信頼するなら勇気が生まれるのです。
 
 さあ、あなたの番です。
 1)本当に感謝できる事を5項目探しましょう
 2)「あなたがいてくれてありがとうございます」と神に伝えよう
 3)苦しみにではなく、神に意識を向けましょう。

詩篇8篇 人とは何者なのでしょう 

 詩篇8篇は、星空を見上げたダビデの感嘆と賛美です。大自然を造られた偉大な神をご一緒にたたえましょう。

 哲学者カントが『実践理性批判』の中で、感嘆と畏敬の念で自分の心を満たすものが二つあると述べたことを思い出しました。それは、我が上なる星空と我が内なる道徳律、です。

1、星空を見上げて

「私たちの主、主よ。
あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。
あなたはご威光を天に置かれました。」
(詩篇8:1)

 現代人に最も欠けているのは、神を畏れ敬う心でしょう。都市文化は傲慢を下敷きにして成立しています。街を出て、森林、山々、湖畔に足を踏み入れると、私たちは都会のよろいを脱ぎ捨てることができ、穏やかな心になれます。それはなぜでしょう。自然は、神のふところを思い出させてくれるからです。
 満点の星空を見上げる時、その素晴らしさのゆえに私たちは言葉を失います。人間という地平線をはるかに越えた偉大な創造主を想起せずにはいられません。
 ダビデは神の御名をたたえ、天に表わされた神の素晴らしさをたたえました。

「あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、」(詩篇8:3)

 詩篇8篇の中心思想は、同じ言葉が繰り返されていることから1節と9節であることが分かります。

「私たちの主、主よ。
あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」
(詩篇8:9)

 さあ、あなたの番です。家を出て、木々を見上げましょう、花々に目を向けましょう。星空をしばし見つめ、山の頂に残る雪を凝視しましょう。ダビデと同じ心で主をたたえましょう。



2、自分を見つめて

 ダビデは偉大な神の前で自分を振り返り、自分がちっぽけな存在であることを深く認識しました。ダビデの疑問はそこから発します。
 3節の「人」は原文でエノシュ、4節の「人」はアダムになっています。前者は弱さを持つ者、後者は土を意味します。弱く小さな者にさえ目を留める神に、ダビデは畏敬と喜びを同時に感じています。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」
(詩篇8:3~4)

 5~8節を見ると、神が人をご自身の形に造り(創世記1:27)、栄光を付与し、多くのものを「治め」(6節)るように命じたことが分かります。
 人とは弱い者、はかない者でありながら、神の期待に応えることができる存在だと分かります。
 
 あなたの番です。神があなたにゆだねて下さったものが必ずあるはずです。それを、きちんと治めましょう。誰かの役に立つ仕事、生き方を選び取りましょう。大いなる神の前で謙虚に、しかも、はつらつと愛と真実を実行しましょう。また、神が人に委ねられた自然を保護・育成しましょう。

 テキサス州ダラス郊外で3月7日、ブランディ・トッドさん(28歳)が公園で二人の子供を遊ばせているとき、背後から薬物中毒の男に刺される事件が起きました。背骨を損傷する深い傷で下半身不随となりました。ブランディさんは事件後、「これで終わりじゃないわ、私は生きてるし、両手も使える。幸せになるわ」と子供たちに伝えたといいます。夫も犯人をゆるすと発言しました。小さな町の人々は事件を悲しみ、4歳と8歳の子供の母、ブランディさんのためにできることを始めました。車椅子で動けるように家の改造工事を町の人々がボランティアで行い、地域の2つの教会は改造費用のかなりの額を負担しました。医師は、無保険だった女性の医療費を肩代わりしました。

 さあ、あなたの番です。大いなる神をたたえながら、あなたらしい応答をしましょう。あなたの命は、このために神から頂いたのかもしれません。

詩篇7篇  正しい審判者

 怒っていますか。この詩篇は、怒っているあなたのための詩篇です。

 アメリカに住み始めた人は、たいていカルチャーショックを経験します。日本で当たり前にできたことが、ここではうまくいかない。英語が下手なので、無視される。小さなフラストレーションが積み重なって、怒りが爆発してしまう。これは、誰もが通る道です。

 ダビデの怒りは、それとは違いました。表題にあるように、ベニヤミン人クシュに対して強い怒りを持っています。巨人ゴリアテに勝利するほどの勇士が、大勢の敵を向こうに回してもひるむことない戦士が、たった一人の男の挙動に悩まされています。この敵がサウル王だと言う人もいますが、推測の域を出ません。あなたにも、「ベニヤミン人クシュ」がいますか。


1、正しさを主張するダビデ

 「私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら」(3、4節)

 ダビデは自分の正しさを主張しました。裏切ったこともなければ、陥れたこともない、自分のメンツにかけて、そんなことはしていない、と敵の悪口、批判に強く反発しました。

 「主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。」(8節)

 ダビデは自分が正しいことを強調し、誠実に歩んで来たと述べました。それも神の前で言い切りました。ダビデは窮地に陥っていたのでしょう。敵の非難が身にしみたのでしょう。

一般的に言って、自分の正しさを頑固なまでに振りかざすときは、自分自身を落ち着いて省みることが必要かもしれません。


2、怒る神?

 ダビデは自分の怒りを神の姿に投影している、と私には思えるのです。

 「主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。」(6節)
 「神は正しい審判者、日々、怒る神。」(11節)

 ダビデによると、神は「日々、怒る神」です。けれども、ダビデは別な詩篇でこう言っています。「私は悩み、貧しいのです」「主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵とまことに富んでおられる方。」(詩篇86篇1、15節)

 どちらのダビデと一緒にいたいですか。自分が誠実だと神に訴えているダビデと、自分が貧しいことを認め、神が怒るのに遅い方だと告白するダビデ。私は後者のダビデと一緒にいたいです。
家内は私に、「落ち込んでいる時のあなたが、ステキ」と言ってくれて、とても慰められています。

 あなたは、無実の罪で疑われたことがありますか。そんな時、この詩篇7篇に流れる強い言葉に共鳴することでしょう。


3、いと高き方

 怒りを神にぶつける祈り。自分の正しさを主張する祈り。敵に鉄槌を下してほしいと懇願する祈り。いずれも、悪いことではありません。霧が晴れて、遠景が見えてくるように、神の前での祈りは、2つのものをはっきりと見せてくれます。神がどんな方か。自分はどんな人間か。

 「その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。」(17節)

 最後の節、この詩篇の結論で、神を「いと高き方」と呼びました。詩篇の中で、神を「いと高き方」と呼んだのは7篇がはじめてです。地上の様々な権力の上に神はいます。遠いのではなく、はるかに超越している事実を「高い」と表現しています。

 正義、メンツ、こだわり、勝ち負け、などからまったく離れた視点を持ちませんか。正しい審判者を、落ち着いた目で見上げることができたなら、敵が小さく見えます。敵が掘った落とし穴に、敵が落ち込むと確信できます。「彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。」(15節)勝った負けたと騒ぐじゃないよ、です。私たちの神は、高みからすべての地上の営みを曇りなく見ることができるのです。あなたが貫いている正義の辛さや無念さを神は理解してくださるのです。

 「義は天から見おろしています」(詩篇85:11)


 あなたは今日、不当な扱いを受けていますか。無実なのに訴えられましたか。卑劣な中傷を受けていますか。

→あなたの番です
1)あなたの怒りを、そのまま祈りにして、神に聞いていただこう
2)いと高き方を見上げよう
3)悪者はおのれの掘った穴に落ち込むと達観しよう

 今週、がっかりするようなことが起きたら、「いと高き方」を見上げよう。