クリスマスにといえばキャンドルのイメージがあります。今回は、光としてこの世に来られた主イエスに目をとめましょう。
マタイとルカの福音書はクリスマスの出来事を詳しく描いていますが、ヨハネの福音書にはそれがありません。おそらくヨハネは、クリスマスの本質的な意味を1章の中に要約したのでしょう。以下はその冒頭部分です。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ1:1~5)
1、暗闇の世界に光が来た
世界は暗い。実のところ、世界は闇だとヨハネは言います。不平等、抑圧、搾取、暴力が世界に満ちています。また、悲劇、苦難、悲しみ、痛みなどが次々に襲ってきます。
このような闇の世界に主イエスは来てくださいました。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(5節)
子宮癌の手術の結果赤ちゃんが生めなくなった若い女性がいましたが、妹の妊娠の知らせを聞き奈落の底に突き落とされました。その赤ちゃんが生まれても人前では抱くことさえできません。部屋を暗くしていつものようにベッドで泣いていたある夜、ドアが少しだけ開き、廊下の明かりが差し込みました。父親のシルエットが見え、温かい声が聞こえました。「ちょっと言いたいことがあってな、そのままのお前が一番好きだよ」ドアが閉まると、女性は一段と大きな声で泣きました。この一言が、彼女の一生の支えとなりました。
イエス・キリストは、あなたの希望の光となるために闇の世界に来てくださいました。どんな闇の中でも、キリストは輝くことができるのです。
2、私の内側を照らす光
闇は私たちの外部にありますが、私たちの内部にも勢力を持っています。罪という闇です。私たちの心の闇を照らす光はこの世に存在しません。
ただし、光として世に来られた主イエスだけが、すべての人の心を照らすことができます。罪を明らかにするだけでなく、その罪を赦しきよめる光として私たちを包んでくれます。
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(9節)
私たちの内側の闇を解決する道をヨハネは明らかにしています。主イエスを自分の救い主として信じることです。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(12節)
3、私が輝き出すとき
光を受け入れると変化が起きます。私たち自身が光り出すのです。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)
私は小さい火、光りましょう、と歌いだす子供賛美歌があります。私たちも光りましょう。光る男性はみんな「ひかる君」、光る女性はみんな「ひかりちゃん」です。ウルトラマンは光の国から来たという設定ですが地上では3分しか光れません。私たちは主イエスという光を受け、いつまでも輝くことができるのです。
ある会社のオフィスに赤い薔薇の花束が花瓶付きで届きました。結婚記念日のお祝いとして夫が妻に送った豪華なものでした。一つ一つのバラは君と過ごした一年間を表している、アイラブユー、とカードに書いてありました。オフィスにいた他の女性たちはその日、魔法にかけられたように、うっとりと過ごしました。小さな光が、オフィス中を照らしたのです。
今年のクリスマス、光として来られた主イエスに感謝し、あなた自身が光となって誰かに光を届けましょう。
→あなたの番です。
□闇の世界を歩む希望、キリストを見上げましょう。
□主イエスは、あなたに救いをもたらす光です。信じ受け入れましょう。
□主イエスと共に歩み、あなたが光となりましょう。
エペソ4:1~16 結び目
頭に浮かぶのはいやな事ばかり。
いやな事を何とかやり過ごす。
そうやって365日が過ぎ、一生が終わる。
そんな人生でいいですか。今日の箇所から、違う生き方を探してみましょう。
1、ひとつになる(1~6節)
1節によると、クリスチャンは神に招かれた存在であると分かります。
「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」(1節)
クリスチャンは、イエス・キリストの姿へ成長するように召されています。
「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)
信仰の成長に招かれた私たちが学ぶべき最初のことは、ひとつになるということです。
同じ飛行機に乗り合わせた乗客の心はバラバラです。座席上のボックスに無理やりスーツケースを入れる人を見れば何となく嫌な気持ちがします。でも、その飛行機がハイジャックされテロに使われると知ったなら、同じ目的を共有する同志に変わります。
「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」(5節)
3章からの流れで言えば、異邦人とユダヤ人が一つになることをパウロは想定していたのでしょう。二者が一つとなるのは、文化的、感情的、歴史的に見て実に困難なことでした。でも、一つになるのは不可能ではりません。
クリスチャンは同じ神を信じるという意味で、すでに一であり、乗り合わせた乗客ではないのです。一つであることを維持するために、次のような心構えを持つようにパウロは勧めました。
「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(2節、3節)
嫌な人のことばかりを考えている。案外、そんな人が多いのです。まるで、嫌な人が亡霊になって周囲に漂う中で暮らしているようです。
誰かと同じ服装や言葉使いや考え方を強要されたら悲鳴を上げますね。自分自身は誰とも似てないし、ユニークであり、自分に誇りを持っているなら、他の人にもそうする権利があることを認識しましょう。
神は実に多様な人をお造りになりました。神のみこころの実現には異なるタイプの人が必要なのです。謙遜、柔和、寛容は、こうした広い視点から見ても妥当な態度です。
違いを喜びましょう。違いから学びましょう。
主イエスがその人をあなたのそばに置かれたのは、あなたの成長のためかもしれません。
2、結び合わされる(16節)
16節を見ましょう。私たちの成長は、一人だけの成長ではなく、他の人と共なる成長です。
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(16節)
植物で言えば、ひまわり型ではなく、アイビー型が大事です。ひまわりは単体でニョキニョキと育ち大輪の花を咲かせます。一方、アイビーは蔦の絡まるチャペルのイメージのように、茎と茎とが絡まりあい、相互に支え合いながら上方へと伸びています。
クリスチャンの成長は、互いに支えあうものです。備えられた結び目が成長を支えてくれます。
私も今までたくさんのクリスチャンに出会い、そのすべての人から教えられ、祈られ、具体的に助けてもらいながら今日まで生きて来ました。あなたもそうですね。
誰かと関わりを作りましょう。自分が先に心を開きましょう。
あなたが結び目になるかもしれません。
3、みことばによる成長
11節から13節で、パウロは牧師の存在理由を説明しています。牧師は、クリスチャン(聖徒)を整え、奉仕の働きをさせ、キリストに似た者となるようにと人々を導きます。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(11~13節)
「整え」と訳された言葉は、ギリシア語でκαταρτισμός、英語で言えばequipという意味になります。
この用語の使用例を他の箇所で見ると、破れた網をつくろう、不完全なものを完全にする、間違いを正す、訓練する、という意味で使われています。
クリスチャンを整え、成長を促し、キリストの姿へと導くのは、神の言葉です。みことばを大切にしましょう。みことばの意味を探りましょう。暗記してその意味を味わいましょう。みことばに励まされ、具体的に行動しましょう。
冒頭で言ったように、嫌な事ばかり考え、とにかくやり過ごすという人生はもう止めましょう。
神は、あなたを成長へと招いておられます。すべての事がキリストの姿に変わるための触媒だと考えてみませんか。
悔いのない人生を送りませんか。あなたの一番したい事は何ですか。主イエスがあなたの背中を押している事は何ですか。12節の「奉仕の働き」とは、実は、そのことかもしれません。
あなたにお尋ねます。あなたは以下の働きへと主から招かれていませんか。
・子供にイエスさまを伝える働き
・家庭集会を開く
・個人伝道者
・会社でバイブルスタディーをする
・悲しみを抱える人の痛みを共有する
・留学生を物心共に支援する働き
・お年寄りを支える
・クリスチャンに宿を提供する
・ホームステイ先となり伝道する働き
・牧師になる
・新しく教会を開拓する
・財産を用いて経済的に困った人を支える
・海外で宣教師と伝道する
・政治家として神と国のために仕える
・マスメディアで主をあかしする
・クリスチャンとして小説家になる
・聖書研究テキストを書く
・ホームレスを援助する
・教会を支える忠実な人となる
・とりなしの祈りをする
他にもたくさんの働きがあります。主イエスが、そうした働きにあなたを召してくださっていると分かれば、毎日の意味が違ってきます。
ロサンゼルス生まれで18歳の男性がきれいな女の子に誘われ教会に行きました。翌週の集会にも参加しました。6箇所の聖句暗記の宿題をしてきた男性は彼一人でした。彼は聖書を暗記することにより、神のすばらしさを知り、イエスさまを信じるようになりました。
彼はやがて海軍に入り、28歳の時から同僚らに福音を伝え、救われた人を訓練する働きを始めました。聖句暗記を特に奨励し、一人が一人を育てるように徹底した結果、海軍で1000人以上の人がイエスさまを信じるようになりました。
彼の名はDawson Trotman(1906-1956)、国際ナビゲーターの創始者です。ビリー・グラハムが、もっとも感銘を受けた人物と言及した優れた人です。
ドーソンは、神のみことばによって整えられ、奉仕の働きへと導かれた人の一人でした。
彼の50年間の人生は、湖でおぼれた少女を助け、そのために自分自身が死ぬという劇的な最後で閉じられました。
嫌な事ばかりを考え、やり過ごすだけの人生はもう止めましょう。成長を目指す人生、みことばに整えられる人生、勇気ある決断をする人生、生きがいのある人生を送りませんか。
→あなたの番です
□成長を目指しましょう
□違いを喜び、違いから学びましょう
□あなたの方から関わりを求めましょう
□みことばに整えられ、押し出され、あなたの使命を実行しましょう
いやな事を何とかやり過ごす。
そうやって365日が過ぎ、一生が終わる。
そんな人生でいいですか。今日の箇所から、違う生き方を探してみましょう。
1、ひとつになる(1~6節)
1節によると、クリスチャンは神に招かれた存在であると分かります。
「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」(1節)
クリスチャンは、イエス・キリストの姿へ成長するように召されています。
「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)
信仰の成長に招かれた私たちが学ぶべき最初のことは、ひとつになるということです。
同じ飛行機に乗り合わせた乗客の心はバラバラです。座席上のボックスに無理やりスーツケースを入れる人を見れば何となく嫌な気持ちがします。でも、その飛行機がハイジャックされテロに使われると知ったなら、同じ目的を共有する同志に変わります。
「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」(5節)
3章からの流れで言えば、異邦人とユダヤ人が一つになることをパウロは想定していたのでしょう。二者が一つとなるのは、文化的、感情的、歴史的に見て実に困難なことでした。でも、一つになるのは不可能ではりません。
クリスチャンは同じ神を信じるという意味で、すでに一であり、乗り合わせた乗客ではないのです。一つであることを維持するために、次のような心構えを持つようにパウロは勧めました。
「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(2節、3節)
嫌な人のことばかりを考えている。案外、そんな人が多いのです。まるで、嫌な人が亡霊になって周囲に漂う中で暮らしているようです。
誰かと同じ服装や言葉使いや考え方を強要されたら悲鳴を上げますね。自分自身は誰とも似てないし、ユニークであり、自分に誇りを持っているなら、他の人にもそうする権利があることを認識しましょう。
神は実に多様な人をお造りになりました。神のみこころの実現には異なるタイプの人が必要なのです。謙遜、柔和、寛容は、こうした広い視点から見ても妥当な態度です。
違いを喜びましょう。違いから学びましょう。
主イエスがその人をあなたのそばに置かれたのは、あなたの成長のためかもしれません。
2、結び合わされる(16節)
16節を見ましょう。私たちの成長は、一人だけの成長ではなく、他の人と共なる成長です。
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(16節)
植物で言えば、ひまわり型ではなく、アイビー型が大事です。ひまわりは単体でニョキニョキと育ち大輪の花を咲かせます。一方、アイビーは蔦の絡まるチャペルのイメージのように、茎と茎とが絡まりあい、相互に支え合いながら上方へと伸びています。
クリスチャンの成長は、互いに支えあうものです。備えられた結び目が成長を支えてくれます。
私も今までたくさんのクリスチャンに出会い、そのすべての人から教えられ、祈られ、具体的に助けてもらいながら今日まで生きて来ました。あなたもそうですね。
誰かと関わりを作りましょう。自分が先に心を開きましょう。
あなたが結び目になるかもしれません。
3、みことばによる成長
11節から13節で、パウロは牧師の存在理由を説明しています。牧師は、クリスチャン(聖徒)を整え、奉仕の働きをさせ、キリストに似た者となるようにと人々を導きます。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(11~13節)
「整え」と訳された言葉は、ギリシア語でκαταρτισμός、英語で言えばequipという意味になります。
この用語の使用例を他の箇所で見ると、破れた網をつくろう、不完全なものを完全にする、間違いを正す、訓練する、という意味で使われています。
クリスチャンを整え、成長を促し、キリストの姿へと導くのは、神の言葉です。みことばを大切にしましょう。みことばの意味を探りましょう。暗記してその意味を味わいましょう。みことばに励まされ、具体的に行動しましょう。
冒頭で言ったように、嫌な事ばかり考え、とにかくやり過ごすという人生はもう止めましょう。
神は、あなたを成長へと招いておられます。すべての事がキリストの姿に変わるための触媒だと考えてみませんか。
悔いのない人生を送りませんか。あなたの一番したい事は何ですか。主イエスがあなたの背中を押している事は何ですか。12節の「奉仕の働き」とは、実は、そのことかもしれません。
あなたにお尋ねます。あなたは以下の働きへと主から招かれていませんか。
・子供にイエスさまを伝える働き
・家庭集会を開く
・個人伝道者
・会社でバイブルスタディーをする
・悲しみを抱える人の痛みを共有する
・留学生を物心共に支援する働き
・お年寄りを支える
・クリスチャンに宿を提供する
・ホームステイ先となり伝道する働き
・牧師になる
・新しく教会を開拓する
・財産を用いて経済的に困った人を支える
・海外で宣教師と伝道する
・政治家として神と国のために仕える
・マスメディアで主をあかしする
・クリスチャンとして小説家になる
・聖書研究テキストを書く
・ホームレスを援助する
・教会を支える忠実な人となる
・とりなしの祈りをする
他にもたくさんの働きがあります。主イエスが、そうした働きにあなたを召してくださっていると分かれば、毎日の意味が違ってきます。
ロサンゼルス生まれで18歳の男性がきれいな女の子に誘われ教会に行きました。翌週の集会にも参加しました。6箇所の聖句暗記の宿題をしてきた男性は彼一人でした。彼は聖書を暗記することにより、神のすばらしさを知り、イエスさまを信じるようになりました。
彼はやがて海軍に入り、28歳の時から同僚らに福音を伝え、救われた人を訓練する働きを始めました。聖句暗記を特に奨励し、一人が一人を育てるように徹底した結果、海軍で1000人以上の人がイエスさまを信じるようになりました。
彼の名はDawson Trotman(1906-1956)、国際ナビゲーターの創始者です。ビリー・グラハムが、もっとも感銘を受けた人物と言及した優れた人です。
ドーソンは、神のみことばによって整えられ、奉仕の働きへと導かれた人の一人でした。
彼の50年間の人生は、湖でおぼれた少女を助け、そのために自分自身が死ぬという劇的な最後で閉じられました。
嫌な事ばかりを考え、やり過ごすだけの人生はもう止めましょう。成長を目指す人生、みことばに整えられる人生、勇気ある決断をする人生、生きがいのある人生を送りませんか。
→あなたの番です
□成長を目指しましょう
□違いを喜び、違いから学びましょう
□あなたの方から関わりを求めましょう
□みことばに整えられ、押し出され、あなたの使命を実行しましょう
エペソ3:14~21 パウロの祈り
パウロの祈りは、普段私たちがしている祈りと違う。何が違うのだろう。
・私たちは他人の不完全さを嘆くが、パウロは他人の信仰の成長を神に願う。
・私たちは目先のことを祈るが、パウロは本質を祈る。
・私たちは自分に目を向けるが、パウロは神の栄光に目を向ける。
・私たちは自分の力を過信するが、パウロは神の絶大な力を信じる。
なぜ、パウロはこのように祈れるのだろう。それは、神が生きておられることを本当に知っているからだ。神が大いなる力をもって私たちに関わって下さると20節のように確信しているからだ。
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に」(20節)
3:16~21のパウロの祈りを暗記して何度も口に出してみて、私は多くのことを学んだ。
1、説明文が祈りに変わる
パウロは、エペソ人への手紙1章から3章で神の救いの素晴らしさを説明してきた。三位一体の神による救い、驚くべき神の恵み、ユダヤ人と異邦人が家族になるという奥義。ここに至って、パウロは説明を止め、祈り始めた。
パウロの初期の手紙、第1テサロニケ3:10~13にも同じパターンがある。説明がいつのまにか祈りになっている。
「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」(第1テサロニケ3:10)
祈りによって、誰かの信仰の不足を補うことができる。私たちも、誰かの相談を受けたとき、人間の言葉を一時停止し、神に祈ることが必要なのかもしれない。
2、本質的な課題を祈る
私たちの祈りはたいてい具体的だ。病気のいやし、試練からの脱出、お金が与えられること、子供の非行が直ること、すてきな彼女と結婚できること、希望校に合格すること。
緊急性が高く切実な祈りが多いが、ときに、周辺的な事柄に何度も振り回されることがある。たとえば、お金の使い方に計画性がなく、支払い期限ですったもんだする人を思い描けば分かりやすい。大事なことは、いつが支払い期限かではなく、その人がしっかりと自分の心をコントロールすることだ。
パウロは、木にたとえると幹や根の成長を祈っている。内面の成長という中心課題を祈っている。本質が神によって取り扱われれば、周辺的な事柄に毎度毎度振り回されなくてすむ。私たちの本質とは、内なる人が強くなることだ。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」(16節)
私たちの祈りを、的を得た祈りにしよう。
3、キリストが心のうちに住んでくださる
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(17節前半)
ルカ19章に、主イエスが悪名高いザアカイの家を訪問した記事がある。罪だらけのまま、心の掃除もしないまま、ザアカイは主イエスを家にお迎えした。主イエスは、ザアカイの心に住んでくださった、それでザアカイの心は前向きに変えられた。
私たちは、主イエスを私たちの心という家にお入れすることを躊躇している。主イエスに来ていただくことが素晴らしいとは分かっているが、それを邪魔する何かがある。それは、何だろう。
あなたの信仰によって、主イエスに住んでいただけますように。
4、キリストの愛を深く知ることができるように
「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(17節後半から19節前半)
キリストの愛を知る。それを、求道者が信仰を持つための初歩的知識と考えるならば大きな間違いになる。キリストの愛を知ることは、信仰の成長に不可欠で、生涯追い求めるべき中核的な真理だ。
主イエスの愛の広さは全人類を覆うほど広く、生まれてから今日まであなたを見放さずに愛すほど主イエスの愛は長く、私たちを天に引き上げることができるほど主イエスの愛は高く、どんな汚れた罪人にも届くほどキリストの愛は深い。
ロバート・マクルキン先生は日本で宣教師をした後、コロンビア・バイブルカレッジ/セミナリーの総長をされた方。奥さんが若年性アルツハイマーになり、マクルキン先生は神に祈ったという。どちらか二つのうち一つがかなうように。妻の病が奇跡的に治ること。もう一つは、自分の心に神の奇跡が起きること。最終的には、祝福されていた神学校の働きを辞し、奥さんの看病にすべてを捧げる道を選ばれた。マクルキン先生はキリストの愛を知っておられた。
5、栄光を祈る
「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(21節)
赦された罪人の集まりにすぎない教会が神の栄光をあらわす。救われたけれど不完全なわれわれ罪人が神の栄光をたたえる。罪人の賛美を受け入れる神の謙虚なあり方に感動する。
成功したとき、失敗したとき、喜ぶとき、落胆するとき、私たちはさまざまなことを祈るが、最後にいつも上を見上げるべきだ。どんなときも神の栄光を見上げる必要がある。私たち人間は、神を賛美するために生まれたのだから。
→あなたの番です
□誰かのために祈ろう
1)内なる人を強くしてください
2)キリストが心に住んでくださるように
3)キリストの愛を知ることができますように
4)神の満ち満ちた姿に引き上げてください
□同じ祈りを自分自身のために祈ろう
□私たちの願いを越えて施すことのできる神を信じよう
□いつも神の栄光をたたえよう
・私たちは他人の不完全さを嘆くが、パウロは他人の信仰の成長を神に願う。
・私たちは目先のことを祈るが、パウロは本質を祈る。
・私たちは自分に目を向けるが、パウロは神の栄光に目を向ける。
・私たちは自分の力を過信するが、パウロは神の絶大な力を信じる。
なぜ、パウロはこのように祈れるのだろう。それは、神が生きておられることを本当に知っているからだ。神が大いなる力をもって私たちに関わって下さると20節のように確信しているからだ。
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に」(20節)
3:16~21のパウロの祈りを暗記して何度も口に出してみて、私は多くのことを学んだ。
1、説明文が祈りに変わる
パウロは、エペソ人への手紙1章から3章で神の救いの素晴らしさを説明してきた。三位一体の神による救い、驚くべき神の恵み、ユダヤ人と異邦人が家族になるという奥義。ここに至って、パウロは説明を止め、祈り始めた。
パウロの初期の手紙、第1テサロニケ3:10~13にも同じパターンがある。説明がいつのまにか祈りになっている。
「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」(第1テサロニケ3:10)
祈りによって、誰かの信仰の不足を補うことができる。私たちも、誰かの相談を受けたとき、人間の言葉を一時停止し、神に祈ることが必要なのかもしれない。
2、本質的な課題を祈る
私たちの祈りはたいてい具体的だ。病気のいやし、試練からの脱出、お金が与えられること、子供の非行が直ること、すてきな彼女と結婚できること、希望校に合格すること。
緊急性が高く切実な祈りが多いが、ときに、周辺的な事柄に何度も振り回されることがある。たとえば、お金の使い方に計画性がなく、支払い期限ですったもんだする人を思い描けば分かりやすい。大事なことは、いつが支払い期限かではなく、その人がしっかりと自分の心をコントロールすることだ。
パウロは、木にたとえると幹や根の成長を祈っている。内面の成長という中心課題を祈っている。本質が神によって取り扱われれば、周辺的な事柄に毎度毎度振り回されなくてすむ。私たちの本質とは、内なる人が強くなることだ。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」(16節)
私たちの祈りを、的を得た祈りにしよう。
3、キリストが心のうちに住んでくださる
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(17節前半)
ルカ19章に、主イエスが悪名高いザアカイの家を訪問した記事がある。罪だらけのまま、心の掃除もしないまま、ザアカイは主イエスを家にお迎えした。主イエスは、ザアカイの心に住んでくださった、それでザアカイの心は前向きに変えられた。
私たちは、主イエスを私たちの心という家にお入れすることを躊躇している。主イエスに来ていただくことが素晴らしいとは分かっているが、それを邪魔する何かがある。それは、何だろう。
あなたの信仰によって、主イエスに住んでいただけますように。
4、キリストの愛を深く知ることができるように
「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(17節後半から19節前半)
キリストの愛を知る。それを、求道者が信仰を持つための初歩的知識と考えるならば大きな間違いになる。キリストの愛を知ることは、信仰の成長に不可欠で、生涯追い求めるべき中核的な真理だ。
主イエスの愛の広さは全人類を覆うほど広く、生まれてから今日まであなたを見放さずに愛すほど主イエスの愛は長く、私たちを天に引き上げることができるほど主イエスの愛は高く、どんな汚れた罪人にも届くほどキリストの愛は深い。
ロバート・マクルキン先生は日本で宣教師をした後、コロンビア・バイブルカレッジ/セミナリーの総長をされた方。奥さんが若年性アルツハイマーになり、マクルキン先生は神に祈ったという。どちらか二つのうち一つがかなうように。妻の病が奇跡的に治ること。もう一つは、自分の心に神の奇跡が起きること。最終的には、祝福されていた神学校の働きを辞し、奥さんの看病にすべてを捧げる道を選ばれた。マクルキン先生はキリストの愛を知っておられた。
5、栄光を祈る
「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(21節)
赦された罪人の集まりにすぎない教会が神の栄光をあらわす。救われたけれど不完全なわれわれ罪人が神の栄光をたたえる。罪人の賛美を受け入れる神の謙虚なあり方に感動する。
成功したとき、失敗したとき、喜ぶとき、落胆するとき、私たちはさまざまなことを祈るが、最後にいつも上を見上げるべきだ。どんなときも神の栄光を見上げる必要がある。私たち人間は、神を賛美するために生まれたのだから。
→あなたの番です
□誰かのために祈ろう
1)内なる人を強くしてください
2)キリストが心に住んでくださるように
3)キリストの愛を知ることができますように
4)神の満ち満ちた姿に引き上げてください
□同じ祈りを自分自身のために祈ろう
□私たちの願いを越えて施すことのできる神を信じよう
□いつも神の栄光をたたえよう
エペソ3:1~13 「小さな私が」
なすべき事は分かっているが、どうにも身動きが取れないときがある。パウロもそれに似た状況だった。
1、パウロの自己紹介に目を留める
パウロはどんなふうに自分を紹介しているか。今日の箇所では、この質問が大切な鍵となる。1、2、7、8、13節を読んでみよう。
1節では、異邦人に福音を伝えたことにより逮捕されローマで囚人となっていると説明している。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。」(1節)
2節では、神から任務を与えられた者だと書いている。「あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。」(2節)
7節では、神から賜物をいただき、福音に仕える者とされたと述べてい。「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」(7節)
パウロは自分をどう見ているかというと、すべての聖徒たちのうちで一番小さな者。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に」(8節)
今の状況を一言でいうなら、苦難を受けている。「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに」(9節)
パウロの自己紹介をまとめると次のようになる。
1)神から特別任務を与えられた。
2)自分は神の目には取るに足らない小さな人間。
3)現在は苦難の中にいる囚人。
普通、このような状況にいたら失望しているだろう。あなたも、この3要素が当てはまるかもしれない。やるべき事は分かっているが、自分には能力がなく、置かれた状況は過酷すぎる。パウロは、それでも、へこんでいない。
2、へこまない秘訣
なぜ、へこまないのか。
1)今の自分を世間の価値観で見ない
劣等感が強すぎる人は、人と比べ過ぎる傾向が強い。それをやめればいい。
主イエスに従った結果、囚人となった。恥ずべきところ一切ない。盗みや殺人をして牢にいるわけではない。パウロは囚人だが、胸を張って生きている。「キリスト・イエスの囚人」(1節)という理解がパウロの力強さの秘訣だ。
人を見ないこと。主イエスを見上げること。それが、へこまない秘訣。
2)取るに足らない者だが、神の特別の力を受けている
驚くばかりの恵みを神から受けている。自分からは生まれるはずのない絶大な力を神から注いでもらっている。その認識が、失望しない理由だ。
7節に「神の力の働き」とあるが、この「働き」はギリシャ語でエネルゲイアという。エネルギーの語源になった言葉だ。
あなたにも同じ力と恵みが注がれている。
3)任務をもらっている
パウロは、旧約時代の預言者も他の誰も気づかなかった奥義(隠されていた神の計画)を理解した。福音を伝えることでその任務を果たすことができた。
当時のユダヤ人は異邦人を忌み嫌い、同じテーブルで食事することなどあり得なかったが、パウロは次のように語っている。
「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6節)
この理解はパウロにとって心踊る出来事だった。福音をユダヤ人にも異邦人にも語ることは、この任務を実現することになる。
あなたは、神からどんな任務を頂いているだろうか。その事自体が、あなたの心を喜びで満たしてくれる。
4)神の栄光があらわされる
パウロは牢獄で自由を奪われ、神の前で自分の罪深さを認識しているが、それで終わりではない。へこんいるだけで終わりではない。パウロの信仰の目は神の栄光を仰いでいた。
「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」(13節)
13節だけでない。8~12節の流れも、神の栄光を示唆している。
自分の犯した罪、過ちを顧みると、自分はどんなクリスチャンより小さく、価値のない者だとパウロは認識していたが、神はあえてそのような者を用いられる。
囚人に過ぎないパウロが書いた手紙は、2000年間多くの人を励まし続けている。
パウロがへこまなかった理由を見てきた。あなたの番です。
□あなたが神から与えられた任務は何ですか。
□あなたは、神の前で正しく自分を評価していますか。
□あなたは、今、苦難の中にいるが、それが誰かの励ましになっていることを忘れてはいけない。
1970年、星野富弘さんは事故のため首から下が完全に麻痺してしまった。その彼をお見舞いをしたクリスチャンが何人かいて、その中で米谷さんという男性がおり、聖書を星野さんにプレゼントした。事故から4年して星野さんは洗礼を受けクリスチャンになった。あれから40年。星野富弘さんの詩画は世界に知られるようになったが、米谷さんのプレゼントを知っている人はわずかだ。
米谷さんは神からもらった任務を見事に全うした。また、世間的には「小さな者」と見られる星野さんが、世界の人々を励まし続けている。
この二人の姿は、私たちの励ましになる。そう思いませんか。
1、パウロの自己紹介に目を留める
パウロはどんなふうに自分を紹介しているか。今日の箇所では、この質問が大切な鍵となる。1、2、7、8、13節を読んでみよう。
1節では、異邦人に福音を伝えたことにより逮捕されローマで囚人となっていると説明している。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。」(1節)
2節では、神から任務を与えられた者だと書いている。「あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。」(2節)
7節では、神から賜物をいただき、福音に仕える者とされたと述べてい。「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」(7節)
パウロは自分をどう見ているかというと、すべての聖徒たちのうちで一番小さな者。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に」(8節)
今の状況を一言でいうなら、苦難を受けている。「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに」(9節)
パウロの自己紹介をまとめると次のようになる。
1)神から特別任務を与えられた。
2)自分は神の目には取るに足らない小さな人間。
3)現在は苦難の中にいる囚人。
普通、このような状況にいたら失望しているだろう。あなたも、この3要素が当てはまるかもしれない。やるべき事は分かっているが、自分には能力がなく、置かれた状況は過酷すぎる。パウロは、それでも、へこんでいない。
2、へこまない秘訣
なぜ、へこまないのか。
1)今の自分を世間の価値観で見ない
劣等感が強すぎる人は、人と比べ過ぎる傾向が強い。それをやめればいい。
主イエスに従った結果、囚人となった。恥ずべきところ一切ない。盗みや殺人をして牢にいるわけではない。パウロは囚人だが、胸を張って生きている。「キリスト・イエスの囚人」(1節)という理解がパウロの力強さの秘訣だ。
人を見ないこと。主イエスを見上げること。それが、へこまない秘訣。
2)取るに足らない者だが、神の特別の力を受けている
驚くばかりの恵みを神から受けている。自分からは生まれるはずのない絶大な力を神から注いでもらっている。その認識が、失望しない理由だ。
7節に「神の力の働き」とあるが、この「働き」はギリシャ語でエネルゲイアという。エネルギーの語源になった言葉だ。
あなたにも同じ力と恵みが注がれている。
3)任務をもらっている
パウロは、旧約時代の預言者も他の誰も気づかなかった奥義(隠されていた神の計画)を理解した。福音を伝えることでその任務を果たすことができた。
当時のユダヤ人は異邦人を忌み嫌い、同じテーブルで食事することなどあり得なかったが、パウロは次のように語っている。
「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6節)
この理解はパウロにとって心踊る出来事だった。福音をユダヤ人にも異邦人にも語ることは、この任務を実現することになる。
あなたは、神からどんな任務を頂いているだろうか。その事自体が、あなたの心を喜びで満たしてくれる。
4)神の栄光があらわされる
パウロは牢獄で自由を奪われ、神の前で自分の罪深さを認識しているが、それで終わりではない。へこんいるだけで終わりではない。パウロの信仰の目は神の栄光を仰いでいた。
「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」(13節)
13節だけでない。8~12節の流れも、神の栄光を示唆している。
自分の犯した罪、過ちを顧みると、自分はどんなクリスチャンより小さく、価値のない者だとパウロは認識していたが、神はあえてそのような者を用いられる。
囚人に過ぎないパウロが書いた手紙は、2000年間多くの人を励まし続けている。
パウロがへこまなかった理由を見てきた。あなたの番です。
□あなたが神から与えられた任務は何ですか。
□あなたは、神の前で正しく自分を評価していますか。
□あなたは、今、苦難の中にいるが、それが誰かの励ましになっていることを忘れてはいけない。
1970年、星野富弘さんは事故のため首から下が完全に麻痺してしまった。その彼をお見舞いをしたクリスチャンが何人かいて、その中で米谷さんという男性がおり、聖書を星野さんにプレゼントした。事故から4年して星野さんは洗礼を受けクリスチャンになった。あれから40年。星野富弘さんの詩画は世界に知られるようになったが、米谷さんのプレゼントを知っている人はわずかだ。
米谷さんは神からもらった任務を見事に全うした。また、世間的には「小さな者」と見られる星野さんが、世界の人々を励まし続けている。
この二人の姿は、私たちの励ましになる。そう思いませんか。
エペソ2:11~22 平和を実現する
不思議です。
パウロはエペソ2章で平和について語っているのですが、平和になるための段取りを一つも書いていないのです。どうしたら平和を実感できるのでしょう。
1、対立
人間にとっての最大の問題は罪です。パウロは2章の前半でその解決方法に言及し、神の恵みによって罪が赦されると説明しました。話の筋立ては、かつての罪の姿、「しかし」の神、恵みによる救い、そして、救われた者の歩み方という順番でした。
パウロが取り上げた次の問題は、対立です。人間社会の問題の大半は、人と人との対立です。あなたは誰かと対立していますか。誰かを憎んでますか。誰かの一挙一動に腹が立ちますか。
11節以降のパウロの枠組みは2章の前半部分とそっくりです。ユダヤ人以外の異邦人は神から離れ、神との約束の外におり、偶像礼拝する者でした(11~12節)。「しかし」の神は、そうした異邦人を軽蔑せず、ご自身のそばに引き寄せてくださいました。
「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(2:13)
神の民として選ばれたユダヤ人は、選民意識のゆえに異邦人を見下げて、付き合いをしませんでした。ですからユダヤ人と異邦人の間には争いや差別がありました。見えない壁がありました。
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14~16)
2、平和は主イエスの中にある
平和になる具体的な方策、和解への段取り等は一切書いてありません。そのかわり、平和がどこにあるかを指し示しています。
平和は作るものではない。主イエスの中にある平和がある。まるで薄絹のベールが空から降りてくるように、平和は主イエスの十字架から私たちのもとにやってきて静かに私たちを覆うのです。
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし。ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(14~15節)
もう一度言います。平和は、そこにあるのです。主イエスの十字架を見上げるなら、その平和があなたのものになります。
私のような罪人のために主イエスは死んでくださったのか。感謝します、イエスさま、という心を持つなら、他者に向かう心が自然と穏やかになります。復讐を誓い、大きな石を握りしめて生きている人がいますが、主イエスの愛を十字架に見ることができるなら、石を捨てたくなります。空になった手を相手に差し出して握手することも可能です。
あなたには、憎んでいる人がいますか。近づいただけで、無性にイライラさせられる人がいますか。絶対に赦すもんかと決めている人がいますか。
そういう人は、十字架を見上げましょう。
18節以降は、ユダヤ人と異邦人が一つになると語られています。一つの家族になり、一つ建築物として組み上げられるというのです。
「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:18~22)
1974年12月20日、フロリダで10歳の少年クリス君が誘拐され、銃で撃たれましたが一命は取りとめました。混乱していたクリス君は、犯人の顔写真を見せられても断定できず、犯人は無罪になりました。事件から22年後、犯人が自白したと警察から知らされました。32歳になっていたクリスさんは犯人の男性と対面しました。高齢と衰弱、失明状態になった77歳の犯人に「ゆるしてほしい」と言われ、「もう、とっくにゆるしているよ」と答えました。クリスは毎日のように彼を訪問し主イエス・キリストの十字架を伝え信仰に導き、3週間後犯人は亡くなりました。
クリスは言います。被害者として生きるか、神の恵みを受けた者として生きるか、二つのチョイスがあったといいます。何度もアイスピックで胸を突かれ、頭を撃たれても片目を失明しただけで弾は脳に触れず、野外で6日間気を失っていたのに救出されたことを、神の恵み、神の奇跡と言わずにいられましょうか。私は守られた、恵みを受けた、奇跡の中にいたと確信したのです。だから犯人と友達になれたのです。
主イエスは、敵意を廃棄される方です。隔ての壁を取り除く方です。主イエスにこそ平和があるのです。
壊れた関係を修復したですね。家族とか、身近な人とは、特に心通わせたいですね。あきらめないでください。相手を必要以上に注視しないことです。まず主イエスを見上げるところからすべてが始まります。
→あなたの番です
□あなたが対立している人は誰ですか
□キリストを見上げましょう。平和があなたを覆います
□キリストが命を捨てたほどの他者を愛しましょう
パウロはエペソ2章で平和について語っているのですが、平和になるための段取りを一つも書いていないのです。どうしたら平和を実感できるのでしょう。
1、対立
人間にとっての最大の問題は罪です。パウロは2章の前半でその解決方法に言及し、神の恵みによって罪が赦されると説明しました。話の筋立ては、かつての罪の姿、「しかし」の神、恵みによる救い、そして、救われた者の歩み方という順番でした。
パウロが取り上げた次の問題は、対立です。人間社会の問題の大半は、人と人との対立です。あなたは誰かと対立していますか。誰かを憎んでますか。誰かの一挙一動に腹が立ちますか。
11節以降のパウロの枠組みは2章の前半部分とそっくりです。ユダヤ人以外の異邦人は神から離れ、神との約束の外におり、偶像礼拝する者でした(11~12節)。「しかし」の神は、そうした異邦人を軽蔑せず、ご自身のそばに引き寄せてくださいました。
「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(2:13)
神の民として選ばれたユダヤ人は、選民意識のゆえに異邦人を見下げて、付き合いをしませんでした。ですからユダヤ人と異邦人の間には争いや差別がありました。見えない壁がありました。
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14~16)
2、平和は主イエスの中にある
平和になる具体的な方策、和解への段取り等は一切書いてありません。そのかわり、平和がどこにあるかを指し示しています。
平和は作るものではない。主イエスの中にある平和がある。まるで薄絹のベールが空から降りてくるように、平和は主イエスの十字架から私たちのもとにやってきて静かに私たちを覆うのです。
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし。ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(14~15節)
もう一度言います。平和は、そこにあるのです。主イエスの十字架を見上げるなら、その平和があなたのものになります。
私のような罪人のために主イエスは死んでくださったのか。感謝します、イエスさま、という心を持つなら、他者に向かう心が自然と穏やかになります。復讐を誓い、大きな石を握りしめて生きている人がいますが、主イエスの愛を十字架に見ることができるなら、石を捨てたくなります。空になった手を相手に差し出して握手することも可能です。
あなたには、憎んでいる人がいますか。近づいただけで、無性にイライラさせられる人がいますか。絶対に赦すもんかと決めている人がいますか。
そういう人は、十字架を見上げましょう。
18節以降は、ユダヤ人と異邦人が一つになると語られています。一つの家族になり、一つ建築物として組み上げられるというのです。
「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:18~22)
1974年12月20日、フロリダで10歳の少年クリス君が誘拐され、銃で撃たれましたが一命は取りとめました。混乱していたクリス君は、犯人の顔写真を見せられても断定できず、犯人は無罪になりました。事件から22年後、犯人が自白したと警察から知らされました。32歳になっていたクリスさんは犯人の男性と対面しました。高齢と衰弱、失明状態になった77歳の犯人に「ゆるしてほしい」と言われ、「もう、とっくにゆるしているよ」と答えました。クリスは毎日のように彼を訪問し主イエス・キリストの十字架を伝え信仰に導き、3週間後犯人は亡くなりました。
クリスは言います。被害者として生きるか、神の恵みを受けた者として生きるか、二つのチョイスがあったといいます。何度もアイスピックで胸を突かれ、頭を撃たれても片目を失明しただけで弾は脳に触れず、野外で6日間気を失っていたのに救出されたことを、神の恵み、神の奇跡と言わずにいられましょうか。私は守られた、恵みを受けた、奇跡の中にいたと確信したのです。だから犯人と友達になれたのです。
主イエスは、敵意を廃棄される方です。隔ての壁を取り除く方です。主イエスにこそ平和があるのです。
壊れた関係を修復したですね。家族とか、身近な人とは、特に心通わせたいですね。あきらめないでください。相手を必要以上に注視しないことです。まず主イエスを見上げるところからすべてが始まります。
→あなたの番です
□あなたが対立している人は誰ですか
□キリストを見上げましょう。平和があなたを覆います
□キリストが命を捨てたほどの他者を愛しましょう
エペソ2:1~10 恵みによって
今日からは、エペソ人への手紙の連続メッセージに戻って2章から再スタートします。救いを説明する用語は新約聖書にたくさんありますが、その中で一番大切なのは、「恵み」という言葉です。ギリシャ語ではカリスといいます。特に8節は大事な言葉なので、ぜひ暗記してください。
1、私たちの以前の姿
普段は元気なのに、血液検査の結果コレステロールが高いとか血糖値が高いなどと言われてびっくりすることがあります。1~3節はその感覚に似ています。神を知らなかった時の私たちの実像は以下の通りです。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1~3)
私たちはみな罪の中で生活していたのだと1節で説明しています。その罪のせいで、生きているとは名ばかりで実態は死んでいたと言うのです。2節。神を信じないで生きるのはニュートラルな状態で、自由で自立していると考えがちですが、実は違うのです。気づかないうちに悪霊を信じて生きているのだとパウロはいいます。3節では、人間が欲望に引きずられて生きている、とパウロは指摘します。
きよい神が私たちの心の「血液検査」をするなら、普通で元気な人間でも、罪に罪を重ねた悪人と診断されるのです。
どうしても見たい芝居があって、「母が危篤で」と上司に嘘をついた人がいました。幕が開く前にちらりと横を向くとそのボスがいて目が会い、恥ずかしさでその場を飛び出したといいます。動転して数時間歩き回り、喉が渇いて喫茶店に入りました。すると、向かいに先ほどの上司がいたのだそうです。
私たちが神を知らないときは、罪の中に埋もれ、自分が死んでいることも、自分がやっていることの矛盾も自覚できない状態だったのです。
2、「しかし」の神
止めると言ったのに酒におぼれる、ギャンブルを繰り返す、麻薬に手が出る、盗みが直らない。そういう人を見たらどんな気持ちになりますか。嘘をつく、裏切る、陰湿ないじめをする、人情がない。そんな人をどうしますか。
まことの神は、私たち人間と違う反応をします。罪まみれになり悪霊に振り回され欲望の奴隷となった人を見て、神は「しかし」と言われるのです。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。(エペソ2:4~5)
親から叱られるのは間違いないと覚悟した女の子がいました。ところが、お父さんはどこに行きたいかと優しく尋ね、子供は「チャックEチーズ」と答えました。子供用の楽しいレストランです。お父さんはそのお店で、「これが、恵みと言うんだよ」と教えたといいます。
私たちの神は「しかしの神」です。人が見捨てる場面でも、決して見限りません。愛していると伝えてくれます。
アメジンググレイスという賛美歌は日本でもコマーシャルなどで知られるようになりましたが、あの歌は神の恵みの偉大さを歌っているのです。信じられないほど神の愛は大きく、神の恵みは図りがたいと歌っているのです。
3、恵みによって
8節の言葉は福音の中核です。聖書が語る救いを端的に説明しています。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8~9)
英語の聖書はギリシャ語の雰囲気をよく伝えています。
For it is by grace you have been saved, through faith—and this is not from yourselves, it is the gift of God— (NIV)
by grace、救いは神からの一方的な恵みによってもたらされます。人間の努力やまじめさによりません。信仰は恵みを受け取るパイプとして機能します。だから、through faithなのです。
ウイリアム・ニール・ムーアは1974年のある夜、老人宅に忍び込み金品を盗もうとしました。不審者に気づいた老人に撃たれましたが弾は逸れ、反射的に打ち返した拳銃の弾が命中、77歳の老人は死亡しました。わずかばかりの金を掴んで逃走するも逮捕され、死刑判決を受けました。彼は当時22歳でした。
幼い息子をかかえ、妻は麻薬中毒、貧困のどん底で魔がさした犯行でしたが、ウイリアムは正当防衛を主張せず、自分の罪を認めました。
刑務所を尋ねた牧師夫妻からイエス・キリストの話を聞きました。キリストはあなたを愛している。もちろんあなたのした罪を知っている。罪を悲しんでいる。しかう、あなたを愛している。あなたを罪から救うために十字架で死んでくださった。こうした言葉はウイリアムの心にしみこみました。
ウイリアムは主イエスを信じ、洗礼を受け、人生が180度変わりました。多くの囚人を主イエスのもとに導き、被害者の遺族もウイリアムを許すと正式に伝え、助命嘆願運動が起き、17年後死刑判決が取り消されました。こんな例は後にも先にもありません。それも死刑執行直前のことでした。彼は後に釈放され、現在は牧師となり自分の失敗を告白しながら、キリストの愛を伝えています。
自分は神の恵みを受けるに値しない人間だと、あなたは思いますか。神の恵みは、そういうあなたに差し出されているのです。受け取ってください。恵みを知ったならば、身近な人に恵みをプレゼントして下さい。
→あなたの番です
□罪を悔い改め、主イエスを救い主として信じましょう。
□「しかしの神」に感謝と賛美をささげましょう。
□恵みで救われたのだから、恵みを誰かにプレゼントを今週しましょう。
1、私たちの以前の姿
普段は元気なのに、血液検査の結果コレステロールが高いとか血糖値が高いなどと言われてびっくりすることがあります。1~3節はその感覚に似ています。神を知らなかった時の私たちの実像は以下の通りです。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1~3)
私たちはみな罪の中で生活していたのだと1節で説明しています。その罪のせいで、生きているとは名ばかりで実態は死んでいたと言うのです。2節。神を信じないで生きるのはニュートラルな状態で、自由で自立していると考えがちですが、実は違うのです。気づかないうちに悪霊を信じて生きているのだとパウロはいいます。3節では、人間が欲望に引きずられて生きている、とパウロは指摘します。
きよい神が私たちの心の「血液検査」をするなら、普通で元気な人間でも、罪に罪を重ねた悪人と診断されるのです。
どうしても見たい芝居があって、「母が危篤で」と上司に嘘をついた人がいました。幕が開く前にちらりと横を向くとそのボスがいて目が会い、恥ずかしさでその場を飛び出したといいます。動転して数時間歩き回り、喉が渇いて喫茶店に入りました。すると、向かいに先ほどの上司がいたのだそうです。
私たちが神を知らないときは、罪の中に埋もれ、自分が死んでいることも、自分がやっていることの矛盾も自覚できない状態だったのです。
2、「しかし」の神
止めると言ったのに酒におぼれる、ギャンブルを繰り返す、麻薬に手が出る、盗みが直らない。そういう人を見たらどんな気持ちになりますか。嘘をつく、裏切る、陰湿ないじめをする、人情がない。そんな人をどうしますか。
まことの神は、私たち人間と違う反応をします。罪まみれになり悪霊に振り回され欲望の奴隷となった人を見て、神は「しかし」と言われるのです。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。(エペソ2:4~5)
親から叱られるのは間違いないと覚悟した女の子がいました。ところが、お父さんはどこに行きたいかと優しく尋ね、子供は「チャックEチーズ」と答えました。子供用の楽しいレストランです。お父さんはそのお店で、「これが、恵みと言うんだよ」と教えたといいます。
私たちの神は「しかしの神」です。人が見捨てる場面でも、決して見限りません。愛していると伝えてくれます。
アメジンググレイスという賛美歌は日本でもコマーシャルなどで知られるようになりましたが、あの歌は神の恵みの偉大さを歌っているのです。信じられないほど神の愛は大きく、神の恵みは図りがたいと歌っているのです。
3、恵みによって
8節の言葉は福音の中核です。聖書が語る救いを端的に説明しています。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8~9)
英語の聖書はギリシャ語の雰囲気をよく伝えています。
For it is by grace you have been saved, through faith—and this is not from yourselves, it is the gift of God— (NIV)
by grace、救いは神からの一方的な恵みによってもたらされます。人間の努力やまじめさによりません。信仰は恵みを受け取るパイプとして機能します。だから、through faithなのです。
ウイリアム・ニール・ムーアは1974年のある夜、老人宅に忍び込み金品を盗もうとしました。不審者に気づいた老人に撃たれましたが弾は逸れ、反射的に打ち返した拳銃の弾が命中、77歳の老人は死亡しました。わずかばかりの金を掴んで逃走するも逮捕され、死刑判決を受けました。彼は当時22歳でした。
幼い息子をかかえ、妻は麻薬中毒、貧困のどん底で魔がさした犯行でしたが、ウイリアムは正当防衛を主張せず、自分の罪を認めました。
刑務所を尋ねた牧師夫妻からイエス・キリストの話を聞きました。キリストはあなたを愛している。もちろんあなたのした罪を知っている。罪を悲しんでいる。しかう、あなたを愛している。あなたを罪から救うために十字架で死んでくださった。こうした言葉はウイリアムの心にしみこみました。
ウイリアムは主イエスを信じ、洗礼を受け、人生が180度変わりました。多くの囚人を主イエスのもとに導き、被害者の遺族もウイリアムを許すと正式に伝え、助命嘆願運動が起き、17年後死刑判決が取り消されました。こんな例は後にも先にもありません。それも死刑執行直前のことでした。彼は後に釈放され、現在は牧師となり自分の失敗を告白しながら、キリストの愛を伝えています。
自分は神の恵みを受けるに値しない人間だと、あなたは思いますか。神の恵みは、そういうあなたに差し出されているのです。受け取ってください。恵みを知ったならば、身近な人に恵みをプレゼントして下さい。
→あなたの番です
□罪を悔い改め、主イエスを救い主として信じましょう。
□「しかしの神」に感謝と賛美をささげましょう。
□恵みで救われたのだから、恵みを誰かにプレゼントを今週しましょう。
第1ペテロ1:3~9 手紙を書いたペテロ
手紙を書いたペテロ
第1ペテロ1:3~9
2010年10月31日
さあ、いよいよ「ペテロの生涯シリーズ」の最終回です。中高年となったペテロの足取りをたどってみましょう。
中高年という言葉に反応した人は、人生の秋から冬を旅する人です。
1、巡回伝道したペテロ
前回、ペテロはユダヤ当局に逮捕され危うく殺害されるところでした。その後、エルサレムで公に活動することはありませんでした。使徒の働きの記述を調べても、いわゆる「エルサレム会議」(使徒15章)で証言をした記録しか残っていません。
書簡を調べると、ペテロがアンテオケに行ったことが分かります。(ガラテヤ2:11)その後、恐らく小アジア(今のトルコ、第1ペテロ1:1)で伝道したようです。パウロの指摘によれば、ペテロは妻と共に伝道旅行をしていたようです。(第1コリント9:5)ペテロの最期は、ローマで迎えたようです。(第1ペテロ5:13)
AD130年頃ヒエラポリスの司教をしていたパピアスは、「ペテロの通訳であったマルコが記憶していたことをすべて正確に書き下した」と述べています。
ペテロは通訳者を介して伝道していたのです。考えてみてください、ペテロがエルサレムを離れたのは、50歳を過ぎた頃でしょう。若くないので、故郷を去り、故国を後にし、異文化、異言語で生活をするのは並大抵ではなかったでしょう。
あなたのミドルエイジはどんな毎日ですか。ペテロの人生は、老いてもなお前向きでした。中高年になったなら、ペテロのように輝こうではありませんか。
2、信仰を貫いた秘訣
このころ、ローマ皇帝ネロによるクリスチャン迫害が起きました。ペテロもその迫害で殉教したと言い伝えられています。はっきり分かることは、ペテロが二度と主イエスを否むことがなかったということです。
ペテロが手紙を書いたのは63年頃、殉教は64年と推定する学者がいます。ペテロの年齢は70歳前後か、それ以上ということになります。
漁師だったので顔は日焼けして、顔に刻まれたしわには、年齢が感じられたでしょう。そんなペテロが、淡々と主イエスとの生活を語ったなら、どんなに人々の心をとらえたことでしょうか。
ペテロが信仰を貫いた秘訣は、何でしょう。それは、「生ける望み」だったと私は思うのです。
「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(第1ペテロ1:3)
無学で普通の人ペテロは、主イエスに出会ったことにより人生が大きく変わりました。粗野で、自分中心の庶民が、聖徒と変えられました。
神が下さったものは、生ける望みでした。中年になっても、老年になっても、消えることのない望み。その望みがペテロを生涯導きました。
生ける望みがあるので、試練を経験することも価値があると言い切りました。主イエスを3度否んだ経験も、火を通して精錬された経験と理解していたことでしょう。
「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(第1ペテロ1:7、関連→第1ペテロ4:12~13)
教会史家エウセビオスによると、ペテロがローマで殉教するときペテロの妻が先に殺され、主を忘れないようにと妻に語ったと伝えられています。ペテロ自身は逆さ十字架を希望し、その生涯を終えたといわれています。ペテロの最期に関しては聖書に記述がなく伝聞なので真偽のほどは定かではありません。
さあ、あなたの番です。あなたも、主イエスから生ける望みをいただき、ペテロのように生きていきましょう。
試練はやがて栄光に変わると信じましょう。やがて、主イエスにお会いする日が来ます。
星野富弘さんの「きく」という詩があります。
よろこびが集まったよりも、
悲しみが集まったほうが、
しあわせに近いような気がする。
強いものが集まったよりも、
弱いものが集まったほうが、
真実に近いような気がする。
しあわせが集まったよりも、
ふしあわせが集まったほうが、
愛に近いような気がする。
この詩を読みながら、ペテロの影響力の強さと考え合わせました。人に最も勇気を与えてくれるのは、普通の人です。だから、こんなふうに思いました。
罪人が集まったほうが、イエスさまに近い気がする。
普通の人が集まったほうが、ペテロに近い気がする。
先週2010年10月、カリフォルニアの海岸で19歳の青年がボディーボードをしている時にサメから攻撃を受けて死亡しました。ルーカスという男性です。28日、海でメモリアルが行われたと新聞で報道していました。150人の親戚と友人が集まり、そのうちの数十人が海で輪を作り、花を流し、祈りをささげました。参加者の何人かのTシャツには「Ask me about Luke」と書いてありました。ルークはルーカスの通り名で、彼はいい男だった、彼について何でも聞いてほしいという意味ですね。
私たちクリスチャンは、Ask me about JesusというTシャツを心に着ているのです。ペテロは、イエスさまについて語り続ける人生でした。
普通の人ペテロが、普通でない生涯を送りました。あなたにもできます。あなたの番です。主イエスの与えてくださった希望を胸に、主イエスの愛と福音を伝えていきましょう。
第1ペテロ1:3~9
2010年10月31日
さあ、いよいよ「ペテロの生涯シリーズ」の最終回です。中高年となったペテロの足取りをたどってみましょう。
中高年という言葉に反応した人は、人生の秋から冬を旅する人です。
1、巡回伝道したペテロ
前回、ペテロはユダヤ当局に逮捕され危うく殺害されるところでした。その後、エルサレムで公に活動することはありませんでした。使徒の働きの記述を調べても、いわゆる「エルサレム会議」(使徒15章)で証言をした記録しか残っていません。
書簡を調べると、ペテロがアンテオケに行ったことが分かります。(ガラテヤ2:11)その後、恐らく小アジア(今のトルコ、第1ペテロ1:1)で伝道したようです。パウロの指摘によれば、ペテロは妻と共に伝道旅行をしていたようです。(第1コリント9:5)ペテロの最期は、ローマで迎えたようです。(第1ペテロ5:13)
AD130年頃ヒエラポリスの司教をしていたパピアスは、「ペテロの通訳であったマルコが記憶していたことをすべて正確に書き下した」と述べています。
ペテロは通訳者を介して伝道していたのです。考えてみてください、ペテロがエルサレムを離れたのは、50歳を過ぎた頃でしょう。若くないので、故郷を去り、故国を後にし、異文化、異言語で生活をするのは並大抵ではなかったでしょう。
あなたのミドルエイジはどんな毎日ですか。ペテロの人生は、老いてもなお前向きでした。中高年になったなら、ペテロのように輝こうではありませんか。
2、信仰を貫いた秘訣
このころ、ローマ皇帝ネロによるクリスチャン迫害が起きました。ペテロもその迫害で殉教したと言い伝えられています。はっきり分かることは、ペテロが二度と主イエスを否むことがなかったということです。
ペテロが手紙を書いたのは63年頃、殉教は64年と推定する学者がいます。ペテロの年齢は70歳前後か、それ以上ということになります。
漁師だったので顔は日焼けして、顔に刻まれたしわには、年齢が感じられたでしょう。そんなペテロが、淡々と主イエスとの生活を語ったなら、どんなに人々の心をとらえたことでしょうか。
ペテロが信仰を貫いた秘訣は、何でしょう。それは、「生ける望み」だったと私は思うのです。
「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(第1ペテロ1:3)
無学で普通の人ペテロは、主イエスに出会ったことにより人生が大きく変わりました。粗野で、自分中心の庶民が、聖徒と変えられました。
神が下さったものは、生ける望みでした。中年になっても、老年になっても、消えることのない望み。その望みがペテロを生涯導きました。
生ける望みがあるので、試練を経験することも価値があると言い切りました。主イエスを3度否んだ経験も、火を通して精錬された経験と理解していたことでしょう。
「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(第1ペテロ1:7、関連→第1ペテロ4:12~13)
教会史家エウセビオスによると、ペテロがローマで殉教するときペテロの妻が先に殺され、主を忘れないようにと妻に語ったと伝えられています。ペテロ自身は逆さ十字架を希望し、その生涯を終えたといわれています。ペテロの最期に関しては聖書に記述がなく伝聞なので真偽のほどは定かではありません。
さあ、あなたの番です。あなたも、主イエスから生ける望みをいただき、ペテロのように生きていきましょう。
試練はやがて栄光に変わると信じましょう。やがて、主イエスにお会いする日が来ます。
星野富弘さんの「きく」という詩があります。
よろこびが集まったよりも、
悲しみが集まったほうが、
しあわせに近いような気がする。
強いものが集まったよりも、
弱いものが集まったほうが、
真実に近いような気がする。
しあわせが集まったよりも、
ふしあわせが集まったほうが、
愛に近いような気がする。
この詩を読みながら、ペテロの影響力の強さと考え合わせました。人に最も勇気を与えてくれるのは、普通の人です。だから、こんなふうに思いました。
罪人が集まったほうが、イエスさまに近い気がする。
普通の人が集まったほうが、ペテロに近い気がする。
先週2010年10月、カリフォルニアの海岸で19歳の青年がボディーボードをしている時にサメから攻撃を受けて死亡しました。ルーカスという男性です。28日、海でメモリアルが行われたと新聞で報道していました。150人の親戚と友人が集まり、そのうちの数十人が海で輪を作り、花を流し、祈りをささげました。参加者の何人かのTシャツには「Ask me about Luke」と書いてありました。ルークはルーカスの通り名で、彼はいい男だった、彼について何でも聞いてほしいという意味ですね。
私たちクリスチャンは、Ask me about JesusというTシャツを心に着ているのです。ペテロは、イエスさまについて語り続ける人生でした。
普通の人ペテロが、普通でない生涯を送りました。あなたにもできます。あなたの番です。主イエスの与えてくださった希望を胸に、主イエスの愛と福音を伝えていきましょう。
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