ヨシュア記10:1~21 太陽よ、動くな


 私たちは、誰かを助けるために生まれてきた。

 
1、ギブオン救出作戦

それで、エモリ人の五人の王たち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王とその全陣営は、相集まり、上って行って、ギブオンに向かって陣を敷き、それを攻めて戦った。(5節)

エルサレムの王が呼びかけ、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王が連合して、この同盟軍によるギブオン攻撃が始まった。(1~5節)

 嘘をついて同盟関係に入ったばかりのギブオン人が、ヨシュアに泣きついてきました。国会答弁のように、ただいま各方面との調整を試み、様々な知見を持ち寄り、前向きに対処いたします。なんて言って、時間かせぎをすれば、ギブオンは自滅しますが、ヨシュアはそんなことはしません。

 ヨシュアは、文句の一つも、皮肉の言葉も言いません。イスラエルの民からも不服の声は上がりません。主の名によって盟約を結んだのですから、たとえ奴隷であっても大事な身内なのです。すぐに攻撃態勢に入り、直線距離20マイル、実際には千メートルも高い場所にあるギブオンに向かい、夜の闇をついて出かけました。「ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。」(9節)

 主が8節で語っておられるところをみると、ヨシュアが主の指示を仰いだことが分かります。9章と同じ失敗はしません。戦いが勝利に終わると主がヨシュアに告げられました。

 主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」(ヨシュア記10:8)

 注目すべきは、主がギブオンを救えと命じておられないことです。それは、いわば主とヨシュアとの暗黙の了解事項なのです。助けにいくのは当たり前。むしろ、この機会は、敵であるカナン人を聖絶するチャンスであると主は明言しておられるのです。

 誰かを助けようと行動を起こす。すると、私たち本来のミッションがいつのまにか達成されていく。これが神の知恵、神の計画なのです。

ヨシュアは、朝方の奇襲攻撃を成功させました。(10節)

彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。(11節)

人が誰かを助けようと動く、そのときに、神の力があらわれるのです。
奇跡とは、何でしょう。誰かを助けたいけど力がない、でもやってみます、神さま助けてくださいという祈りの応答として、奇跡が起きるのです。

彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。(11節)

直径20センチにもなる雹が観測され、写真も残っていますが、このときも、巨大な氷が降ってきたのでしょう。

ヨシュアは、連合軍を徹底的に壊滅させるのは今だと悟り、非常識とも言える祈りをささげました。時間を与えてください。時を止めてくださいと祈りました。

主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。(12~13節)

主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(14節)

ヨシュアとイスラエルの民は、ギブオンを救出すると、時計の反対周りに5都市同盟軍に追い討ちをかけ、最終的には、5都市の王たち全員を殺害し(23~27節)マケダ、リブナ、ラキシュ、ゲゼル、エグロン、ヘブロン、デビルを聖絶しました。(29~39節)

青森県最北端の小さな町に、あさ子さんという女性がいました。海に近い彼女の農地を買いたいという申し出がありましたが断りました。原子力発電所用地だったからです。その後、地域の地権者157人のうち、156人が土地を売り、あさ子さん一人が30年間首を縦に振りませんでした。彼女の土地は炉心から当初50mの距離にありました。彼女はその土地に家を建て、一人で反対を続ける中で亡くなり、娘さんがその意志を引き継ぎ「あさこはうす」として戦いを続けています。原発施設は今も建設途中で、40%ができています。手紙を出すことだけでも、助けることになります。

あなたのそばにも、現代のギブオン人がいます。
私たちの身近にも、助けを求めている人がいます。
誰が助けを求めていますか。


2、主の戦い

 ヨシュア記10章を読み直すと、「主」とう字が多いことに気づきます。

 10節「主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので」
 11節「主は天から彼らの上に大きな石を降らし」
 12節「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日」
 14節「主が人の声を聞き入れたこのような日は」
 14節「主がイスラエルのために戦ったからである」
 19節「主が彼らをあなたがたの手に渡されたからだ」
 25節「主がこのようにされる」
 32節「主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので」
 42節「主が、イスラエルのために戦われたからである」

ここから分かることは、主が私たちの前に立たれて闘うということです。

今誰かを助ける時だ。
今、誰かのために戦うべきだ。
そう導かれたなら、行動しましょう。そうすると、主が先に立たれ、敵を恐れさせ、天から雹を降らせ、時間さえ止め、主ご自身が先頭に立って戦われるのです。

自分一人の幸せだけを追求するなんて、ちっぽけな人間になるのはもうやめましょう。私たちは、誰かを助けるために生まれてきたのです。

→あなたの番です。

□誰かが、あなたに助けを求めていませんか
□今、行動を起こし、主の助けを求めましょう
□主が戦われるのです

 「イスラエルの神、主が、イスラエルのために戦われたからである」(42節)
 

ヨシュア記9:1~27 遠い国からの使者

 ヨシュア記9章のキーワードは何でしょう。
 
第1のキーワードは、「主の指示を仰がなかった」(14節)。自分の判断や論理や経験や緊急性を優先させると、あとで、後悔します。
 第2は、「誓い」。ヨシュアたちは、どんな誓いであっても神の前の誓いを誠実に守りました。詩篇15:4の「損になっても、立てた誓いは変えない。」という言葉を思い出します。
第3は、「しもべ」。8、9、11、24節に使われています。「しもべ」という言葉を手がかりに、私たちとギブオン人との共通点を探していきましょう。


1、ギブオン人の視点で見る

 9章は、ギブオン人がヨシュアたちをだまして盟約を結んだという内容です。

さて、ヨルダン川のこちら側の山地、低地、およびレバノンの前の大海の全沿岸のヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。(1~2節)

一つの町単位ではイスラエルに立ち向かうことができないと判断した町の長老たちが、同盟を組むことを提案しました。10:2によると、ギブオンの町は、有力な町で、町の人々は勇士だったので、同盟の誘いが来たはずです。が、仲間に加わりませんでした。
むしろ、イスラエルの奴隷になる道を選びました。このことがカナン人に知れたなら、裏切り者として同盟軍に血祭りにされたことでしょう。また、偽装工作が発覚すれば、使者はその場で殺され、ギブオンの町は聖絶されたことでしょう。


2、負けるが、勝ち

中国の古典、「孫子の兵法」は、戦争についての哲学と実際が書かれた含蓄のある書物です。その中に、「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という言葉があります。戦わないで勝つことが、最も良い戦いだと述べています。
南北戦争の有名な激戦地ゲティスバーグの戦いでは、丘という有利な地形に陣取る北軍に対し、南軍は無謀な攻撃を何度も繰り返し多くの犠牲者を出しました。「高い陵にいる敵を攻めてはならない」との孫子の兵法から言えば、ありえない作戦です。
本当の勝利とは何か。どうしても必要なら戦う。そうでなければ、戦うことを選ばない。リーダーには、俯瞰できる見識が求められるのです。


イスラエルと戦っても勝ち目はない。
同盟を組んでも負ける。必ず聖絶される。
だが、何としても生き残りたい。家族も、親戚も、友人も、子供たちも守りたい。

結論は、イスラエルと盟約を結び、しもべ、つまり奴隷となり、生き残ることでした。
負けるが勝ち。そう、悟ったのです。

 こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。」(6節)


3、使者たちの説明

 イスラエルの人々は、そのヒビ人たちに言った。「たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。」(7節)

遠くから来た使者たちは怪しい、とヨシュアたちは睨みました。国名も、都市の名も言わない。カナン人が偽装しているに違いないと早くも見破りました。でも、ギブオンの使者は、追い詰められても、落ち着き払って答えました。「私たちはあなたのしもべです」(8節)


 彼らは言った。「しもべどもは、あなたの神、主の名を聞いて、非常に遠い国からまいりました。私たちは主のうわさ、および主がエジプトで行なわれたすべての事、主がヨルダン川の向こう側のエモリ人のふたりの王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさったすべての事を聞いたからです。(9~10節)

これらの言葉は、ラハブが斥候たちに話した内容(ヨシュア2:9~10)と酷似しています。イスラエル人から見れば、ギブオン人は異教徒であり、異国人だが、イスラエルの神はまことの神であり、力があり、イスラエルの民にカナンの地を与えることのできる神だと理解していました。

 「彼を知り己を知らば、百戦殆うからず」と孫子の兵法にありますが、ギブオン人は、イスラエルがどんな民族かを深く知り、その神を認め、主と共に歩む道を選びました。


4、カナンの女との類似性

カナンの女が主イエスのもとに来て、悪霊につかれた娘を助けてほしいと願う場面が福音書に記録されています。(マタイ15:21~28)このカナン人とギブオンの人は似ています。
主イエスは、ユダヤ人の救いのために来たので「犬」(異邦人)に与えるパンはないと、厳しく言いました。カナン人の女は、自分は確かに「犬」に等しいと認め、それでも食卓から落ちたパンはいただきますと切り返し、その信仰が大いに評価されました。

このカナンの女と、ギブオン人は似ています。何としてでも助けてほしい、たとえ「犬」と呼ばれようと、「しもべ」になろうとも構わない。

カナンの女と、ギブオンの人々と、私たちは似ています。
私もあなたも、そのままでは、滅びるしかない存在です。罪の解決を持たずに地獄に落ちる定めです。自分で自分を救えないのです。
だから、どんな手段を取っても、救われたい、助かりたいと願うのです。私たちも、滅びが間近に迫って初めて真剣に救いを求めます。どんな方法でも助かりたいと思うものです。

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。(エペソ2:11~13)

私たちも、神から遠く離れた存在でした。いわば遠い国から来た者です。イエス・キリストのゆえに、異国人の私たちも神の民の一員にさせてもらいました。
 ギブオンの人々の命は保証されましたが、「たきぎを割る者、水を汲む者」という奴隷の地位にされました。(21節)

ご覧ください。私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」(25節)

 ギブオン人は、生涯、神と神の民イスラエルに仕えると心に決めました。

こうしてヨシュアは、その日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれた場所で、たきぎを割る者、水を汲む者とした。今日もそうである。(27節)

ギブオン人は、イスラエルのために薪を集めたり、水を汲んだりという奴隷の労働(申命記29:11)をしました。それだけでなく、「主の祭壇」のためにも働くことになりました。単なる詐欺師、嘘つきなら、ヨシュアはこうした大切な役割を与えることはなかったでしょう。

クリント・イーストウッドの映画「グラン・トリノ」という映画は、なかなか味のある映画です。若い頃は、復讐ものの映画で殺戮を繰り返したイーストウッドですが、この映画では復讐の形が違います。負けることによって勝つという復讐です。


 あなたの直面している戦いは、争う価値がありますか。

 負けるが勝ち。主イエスの生き方も、死んで生きる道でした。
 自分を捨てる、自分の十字架を負う、そして、主イエスについていく。そういう道もあるのです。


→あなたの番です。
□主の指示を仰ぎましょう
□約束は守りましょう
□主イエスと共に、負けて、勝ちましょう。


ヨシュア記8:1~35 出直し

あなたは失敗を恐れないタイプですか。それとも、失敗を心配するあまり動けなくなりますか。では、あなたは、部下や後輩や子供たちに完璧を求めますか、それとも、基本がぶれなければ自由に任せるタイプですか。
 それでは、神は、どんな姿勢で私たちに関わってくださるのでしょうか。


1、戦いの全貌
 
エリコの戦いと今回の戦いでは、どこがどう違いますか。8章の全体の流れをまず押さえておこう。
「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。」(ヨシュア記8:1)主は全力で戦えとヨシュアに指示された。前回は、3千人程度で戦ったが、今回はゆうに3万人を越える全力戦だ。(3節)
 次に、主は、敵をあざむく作戦で戦えと言われた。「あなたは町のうしろに伏兵を置け。」(2節)そこで、ヨシュアは、夜のうちに敵地近くに潜み、西側に伏兵の兵士らを隠した。(12~13節)翌朝早く、イスラエルの民は前と同じように戦いに出て、しばらく戦うと劣勢にみせかけて背を向けて逃げ出し(14~16節)、主の指示を受けるとヨシュアは合図の投げ槍を高く差し伸ばした。(18節)すると、背後に隠れていた味方がアイの町に入り、火を着けた。(19節)立ち上る煙を見て、ヨシュアたちは向き直り反撃し、敵は挟み撃ちになり(20~22節)、ヨシュアは見事に勝利した。(25~29節)
その後、ヨシュアは、エバル山をのろいの象徴とし、ゲリジム山を祝福の象徴としみなし、(30~35節)、エバル山の祭壇には基本的律法が書かれた、人々はみことばを聞き、大声でアーメンと応答したことだろう。これは、モーセが申命記で命じていた事柄(申命記27:1~26)で、人生を神の祝福に満ちたものにするのは、私達の信仰と決断によると教えている。

 ヨシュアが夜中過ごした場所は、ベテルとアイの間に当たる場所で、約束の地を与えると神がアブラハムに語られた場所でした。(創世記12:7~8)


2、もう一度やってみる

上司に連絡や報告や相談しなくてもいい不思議な会社が日本にあります。何かにチャレンジして失敗しても異なる失敗なら、100回失敗しても問題にしない。社員が上司に相談もなく勝手に支店を開設してもいい。
残業禁止。全員が社員。給料は年功序列、定年は70歳。改善提案するだけで500円、良い内容なら3万円を支給。有給休暇以外に140日の休暇。子供が生まれたら育児休暇が3年。特許登録数は、ソニーや松下などの大企業についで日本で20位。社員約千人、売り上げ200億、創業以来46年間赤字なし。社長は社員のやる気を引き出すわざに長けています。

主なる神は、ヨシュアに基本となる方向性と、励ましの言葉を与えました。

主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」(ヨシュア記8:1)

 主の基本方針は「アイに攻め上れ」でした。アイという苦手な町を後回しにして、他の町を攻める方法だってありますが、負けた相手にもう一度立ち向かえと主は言われます。イスラエルの民には直すことが必要でした。

やり直すとき、また失敗するのではと私たちは怖気づきます。それで主はヨシュアたちを励ましました。恐れるな。英語の聖書で読むと分かりやすいですね。Do not be afraid; do not be discouraged. 神は励ましの天才です。

神がなさることは、第一に、基本方針を示すこと。第二に、励ますことです。

逃げるのはもうやめよう。苦手な事に立ち向かおう。追試験を受けて合格してみよう。

 あなたの番です。神は、あなたに、どんな基本方針を示しておられるか、良く考えましょう。神からの励ましの言葉をしっかりと受け止めて下さい。
あなたがかつて失敗したことは何ですか。逃げ出したことは何ですか。主は、言われます。失敗を恐れるな。今度は、あなたの持てる力を出し切ってみなさい。


3、伏兵

あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。(2節)

 エリコの戦いの特長は、沈黙と祈りと神の力でした。アイでの戦いは、神が基本方針を示し伏兵という秘策をさずけ、ヨシュアが作戦を考え抜き連携を図って見事に成し遂げた戦いでした。神と人とのみごとなチームワークです。

そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ。』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。(4~6節)


神は方針を示し、細部は人に任せる。


これが、神のなさる方法です。神は、ヨシュアを信頼されたのです。私たちも、神に信頼されているのです。

 過疎の町、徳島県上勝町を明るい町に変えたのが20代の男性だと知って私は大いに励まされました。その男性は、葉っぱ、つまり料亭などの料理を飾る<つまもの>を町の名産品にしようと着想し、多くの人の協力を得て、町の年商を2億6千万円までに成長させたというのです。柔軟でクリエイティブな考え方と、実行力が素晴らしいと思いました。


 さあ、私たちも出直しましょう。やり直そう。考えよう。あなたが始めようとする<とんでもないこと>を神は待っておられます。

 神の基本指示を受けると、私たちは自信をもてます。神からの励ましを受けると、自発性が出てきます。神に信頼され、任されると、クリエイティブな部分が活性化されます。

 「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。」


 →あなたの番です。
 □神からあなたへの基本指示は何ですか
  □再試合で今度は勝ちたい相手とは何ですか
  □Think different in Jesus.


ヨシュア記7:1~26 アコルの谷


 ヨシュア記7章を読むと、大阪弁で言いたたくなります。「アカン!」 

1、聖絶とは何か。

「聖絶のもののことで罪を犯し」(1節)と書かれてありました。

聖絶とは、何でしょう。その地に住む人々を殺害し、持ち物や家畜、偶像とその神殿、町を焼き払うことを意味します。旧約聖書のある時期にだけ、神がイスラエルの人々に命じた命令です。
申命記7:1~6によると、聖絶して、約束の地に住む住民を殺し、異教の神殿を破壊し、カナン人と婚姻関係を結ぶなと命じています。申命記20:16~18によると、聖絶の目的が、偶像の神をイスラエルに持ち込むことを防止する措置だと納得できます。レビ27:28によれば、聖絶されるべきものは神にささげられたもので、それを自分が奪い隠すことが罪であることが分かります。

聖絶とは、恐ろしい伝染病を水際で防ぐ方法に似ています。鳥インフルエンザに汚染された鳥が見つかると、その農家の健康に見える鳥も全部処分されます。
申命記12:31「自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである」とあるように、当時のカナンの宗教は子供を犠牲にする残酷な宗教であり、神はその影響を取り去ろうとされたのです。

神は、今もあなたの心が天然痘やペストにならないよう、必死になって守っておられます。大声で警告してくださっているのです。麻薬、ドラッグには絶対手を出すな。魔術やあやしいスピリチュアリティーに関わるな。ギャンブルするな。姦淫するな。
神は何を止めようとしていますか。あなたは、何を神から警告されていますか。



2、本当の敗北理由

 ヨシュアたちはエリコで勝利し、アイという小さな町に向かいました。偵察隊は、3千人出せば勝てると報告しました。(2~3節)いざ戦ってみると、完全な敗北で、死者を出し、坂道を逃げ帰って来ました。(4~5節)ヨシュアは落胆して、泣き言のような祈りをしました。(7節)

なぜヨシュアたちは負けたのでしょう。心のゆるみですか。戦術の不備ですか。いいえ、もっと本質的な問題的があったのです。

しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。(ヨシュア記7:1)

 1節が鍵です。歴史が語られる前に、問題点がすでに指摘されています。大勝利の陰に、次の敗北の芽が生えていたのです。

イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。(11~12節)

聖絶すべきものをアカンが隠し持ったので、イスラエル全体が聖絶の危険に陥ったのです。伝染病を囲い込んだのと同じなのです。神は、聖絶のものを隠し持つ者を見つけ出し、処罰することが解決方法だといわれました。

立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。(13節)

敗北したことが目に見える問題でしたが、本当の問題は、聖絶のものを隠しておいた事にありました。
もしかしたら。今あなたに起きている問題の原因はどこか別にあるのかもしれません。失敗のきっかけになった「あの人」「あの事」にばかり目を奪われず、もう少し深くを見つめましょう。神から分析する智恵をもらいましょう。きよめが必要な分野があるかもしれません。きよさを求めましょう。

神は、「立て。民をきよめよ。」(13節)と言われました。立ち上がりましょう。きよさを求めましょう。


3、失って得るもの

こうして彼らは、アカンの上に、大きな、石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。そこで、主は燃える怒りをやめられた。そういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。(26節)

わざわいをもたらすというヘブル語「アカル」を語源にして、その地はアコルの谷と呼ばれイスラエルの人々の記憶に残るようになりました。イスラエルの人々は、アカンのような事はすまいと心に誓ったはずです。

根本的な問題解決をしようとすると、かなりのダメージを受けます。でも、悪いことばかりではありません。初期の癌なら手術して摘出すれば健康にすごせる場合も多くあります。隠していた罪をはっきり告白し、処罰や社会的制裁を受けることで再出発できた人もいます。
失って得るものもあるのです。

べサニー・ハミルトンは小さい頃から優れたサーファーとして広く知られたハワイの女の子でした。2003年、13歳の時、ハワイのマウイ島でサメに襲われ左腕を失いました。
神がいるなら、なんでこんなひどい事がおきるんだと考える人がたくさんいますが、べサニーは違います。事故以来、左肩を見せながら、神は真実な方だとあかししています。
彼女は今22歳、最近、被災地を訪れて、サメに噛まれた後にイエスさまがどんなふうに力づけてくれたかを明るく積極的に語りました。話の後の質疑応答のとき、被災地の日本人が質問しました。もし神が一つ願いをかなえてくれるとしたら腕を戻してほしいと願いますか。べサニーは答えました。今まで腕を戻してほしいと祈ったことはありません。腕を失ったことによって、世界のあちこちに行き、イエスさまのことをあかしできるようになったのでむしろ感謝していますと語りました。

 きちんと対処するなら、失ったものはもっともっと豊かなものに代わって戻ってきます。

 「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第1ヨハネ5:5)

 あなたの番です
 □神はあなたを悪から必死に守ろうとしています
 □本当の原因を見極める洞察力を主に求めましょう
 □失って得るものがあります


ヨシュア6:1~27 エリコの城壁



 エリコの城壁がどのようにして崩れたか。それがヨシュア記6章の記述です。
この内容は幼稚園の子供たちも分かるほど単純です。エリコの周囲をイスラエルの兵士たちが1日に1度、7日目には7周歩いて回り、角笛の合図で叫ぶと城壁が崩れたのです。
(とはいえ、聖絶の概念は難しいです。7日目が安息日であり、礼拝行為として戦いが行なわれたと指摘する神学者がいて、とても興味深い視点だと思います。)

さて、エリコの周囲を回ることにどんな意味があるのでしょう。私たちの日常生活に生かすにはどうしたら良いのでしょうか。それを、まず、あなた自身が考えて下さい。

礼拝でみなさんに同じ質問をすると、色々な答えが返ってきました。
  ・この戦いは神の戦いだ
   ・自分の力を過信しない
   ・黙る必要がある
   ・毎日祈る
 あなたの答えは何ですか。


1、あなたの手に渡した

 「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。」(ヨシュア記6:1)

 難攻不落。エリコの城壁の前では、誰もが戦意喪失しました。でも、主は、ヨシュアにこう言われました。

 「あなたの手に渡した。」(2節)

 まず、この言葉を神からの約束として受け取める必要があるでしょう。

 あなたの前に立ちはだかる城壁とは何ですか。たとえそれが困難な問題でも、神は、あなたの手に渡したと言っておられる。これが、あなたが受け止めるべき最初のメッセージです。



2、沈黙する兵士たち

 神がヨシュアに命じた攻撃方法は一風変わっていました。エリコの周囲をだまって歩くことです。

あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」(ヨシュア記6:3~5)

 毎朝、イスラエルの戦士は戦闘態勢を整えますが、何もせずにエリコの周囲を1周歩きます。神の箱を祭司がかつぎ、イスラエルの民がその前後を歩くのです。

ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」(10節)

この時、どんな音がしただろう。角笛の音と、兵士らの足音、時たま聞こえる鳥の声ぐらいでしょう。角笛は7人の祭司が吹きました。(8節)兵士は声を出してはいけないのです。(10節)イスラエルの民は、暴徒の集まりではなく、統制されていました。

角笛は、モーセがシナイ山に登った時に聞こえた角笛を思い出させます。シナイ山での角笛は、神がおられることを教え、人々に畏敬の念を与えました。(出エジ19:16)

戦士たちは何を考えて歩いたのだろう。目は下を向いたのか、上を見たのか、それとも、エリコの城壁に向いていただろか。黙るとき、人は、何をするだろう。色々な考えが頭をよぎっただろう。
こんな事をいつまでやらせるのだ。早く戦おう。十分準備はできている。そう考えても無理はありません。納得できなくても、神が言われた方法に従う。これは、人間にとって大事な生き方です。

「あながたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」(10節)

角笛の音が聞こえる中、人々の心は最終的には祈りになったと私には思えます。6日間、屈強な戦士たちが沈黙の中で祈っていたのでしょう。神の箱がそこにあって、一緒に移動したいるのですから、神の臨在を深く感じていたでしょう。


 イスラエルの戦い方を私達の生活に生かしてみよう。問題の周囲を回り、祈ってみよう。誰かと一緒に問題の周りをまわり、一緒に祈ろう。神がおられることに意識を集中しよう。問題から距離を置いて、祈ってみよう。6日間祈り続けると何かが変わります。自分の態度が変わるし、神のみこころが見えてきます。平安が与えられます。

納得できなくても、神の言われることに従うことが大事です。あなたも6日間、問題の周囲をまわりながら祈りましょう。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。(詩篇62:1)



3、7日目に叫ぶ

七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。(15~16節)

7日目に、イスラエルの勇士は7回もエリコの周囲をまわった。エリコの人々は、沈黙を続けながら周囲を歩く人々を見て、ぞったしたはずです。

そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。(20節)

 叫ぶだけで城壁が崩れた。これが神のなさることです。

 イギリスのブリストルで孤児院を始めたジョージ・ミューラー(1805-1898)は祈りの人として知られます。ある日、朝食がないまま、ミューラーは400人の子供たちと共に食前の祈りをしました。するとドアをノックする音が聞こえ、焼きたてのパンとミルクが届きました。イベントがキャンセルになったというのです。65年間、こんなふうにして孤児院の働きを続けることができました。祈りは5万回かなえられたといいます。当時のイギリスは化学万能意識が社会を支配していましたが、ミューラーは神は生きておられると信じ、実際的な問題の解決を神に願い求め、応えられました。

 神のなさることは、人の想像を超えています。(第1コリント2:9)
 
→さあ、あなたの番です。
 □神がエリコの城壁を私の手に渡しておられると信じる
□問題のまわりで6日間祈る
 □納得できなくても、神の方法で戦おう


ヨシュア5:1~15 主の軍の将

   ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は記念碑を作り主をあがめたが、いまだに戦闘態勢に入らない。今日の箇所では、敵に襲われたらひとたまりもないような危険な行動をする。
 なぜ、そうするのか。また、なぞの人物が現れるがそれは誰なのか。

1、敵は途方にくれていた

イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。(1節)

 イスラエルの敵である、エモリ人やカナン人は、心配で押しつぶされていた。神の力により、イスラエルの民がカラカラに干上がったヨルダン川を渡った話を聞き、戦意喪失していた。

 今日、あなたに知ってほしいことがあります。あなたは、今、心配でつぶされそうかもしれません。未来が見えずに恐れているかもしれません。でも、あなたの敵は、あなた以上に心配して、みじめなほどにブルブルと震えているのです。
 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

 神は、あなたの敵に、大きな恐れを注入してくれる方です。


2、心を決める

 イスラエルの男性全員が、神の命令により、割礼を体に刻む処置をした。(2~9節)

 割礼は、男性の性器を被う皮の一部を切り取る外科手術で、アブラハムが神と契約を結んだ時に神に命じられた契約の印だった。イスラエルの人々は、男子が生まれると8日目に割礼を施すことになっていた。(創世記17:1~12)
アメリカで男の子が生まれると、宗教上の問題は別にして、医学的観点から割礼の処置を行っている。
 出エジプトを経験した成人男子がすべて荒野で死んだ後(6節)、生まれてきた男子への割礼は一切行なわれていなかった。神に逆らった世代が神への反逆の意味でしなかったのか、それとも、神の民の印にふさわしくなかったからか、理由は分からない。

 現代の手術用のメスではなく、火打石を削って作ったナイフでは、処置は痛かったはずだ。創世記34:24~25によると、割礼後3日目が一番傷が痛むという。戦うことは不可能だ。それでも、割礼をした。敵が襲ってきたら、全滅の危機だったが、神に従った。生きることも死ぬことも神に完全にゆだねた。

主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。(7~8節)

傷は痛んだが、神の民の自覚は逆に鮮やかになった。私たちは、神の民。私たちは、神に従う。神のために戦う。そういう気概が起きたはずだ。

 試練や問題に立ち向かう時、私が誰なのかを確認することは大切だ。私は神に造られた者で、ずっと神に愛されてきた。イエスさまが私の罪のために十字架で死んでくださり、私はイエスさまを救い主として信じた。だから、生きることも、死ぬことも、主の御手の中にある。そう心から言えたら、私たちはとても強くなる。
 「私にとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)

 あなたも心を決めましょう。敵や問題に翻弄される前に、自分が誰なのかを旗印を鮮明にしましょう。主イエスを信じていないなら、今日、信じますと神に言いましょう。神をすでに信じた人は、信じたあかしとして、洗礼を受けましょう。

 どんな事が起きても、何が横たわっていても、神を信じる者として前に進みましょう。


3、主の軍の将

 リーダーにはリーダーだけの不安がある。大統領選挙候補者は、人前では元気で覇気があっても、一人になると、投票予測データが出るたびに、落ち込んでいるかもしれない。
イスラエルの司令官のヨシュアは、難攻不落の城壁の町エリコを遠くからながめ、一人たそがれていた。

さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」(13節)

 気がつくと前方に将軍のような軍装をした男が立っていた。それも、鞘からぬいた両刃の剣を手に握っていた。

 この見知らぬ人物が、殺気をみなぎらせ、剣を振り上げてヨシュアに迫って来たなら、ヨシュアは話しかける間もなく剣を抜いて応戦しただろう。ヨシュアが歩み寄ったという記述を見ると、見知らぬ戦士がエリコの方角を見て立っていたと考えるのは論理的だろう。

すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(14~15節)

 その戦士は、敵とも言わず、見方とも言わない。最初に、「いや」と言っている。主の軍の将だと言った。まるで、ヨシュアの質問が的外れだと指摘しているようだ。敵か味方は重要ではない。ヨシュアが、神の側にいるかどうかが肝心だと言っているように見える。

 ヨシュアは、その謎の人物を礼拝した。黙示録22:9を見ると、天使は人間による礼拝を拒絶するものだと分かる。とすると、この人物は天使ではないと分かる。その人物は、ヨシュアにはきものを脱ぐように命じた。
 モーセが燃える柴を目撃し、靴を脱いで主を礼拝した場面を思い起こす。多くの聖書学者は、主の軍の将が生まれる前の主イエスだと説明している。

 「この戦いは主の戦いだ」と言った人物がいる。信じられないほど大柄な敵の前に立ち、鎧も身に付けず剣も持たずに立ち向かった。その名は、ダビデ。第1サムエル17:47に書かれてある。
 私たちが直面している戦いや試練も、主の戦いなのです。

 怖くなるのは、自分で戦おうとするからだ。戦いの先頭に立つのはあなたではない、主イエスだ。主イエスは、すでに臨戦態勢にある。あなたが将軍ではない、主イエスが主の軍の司令官だ。主イエスは、何千、何万という戦士を引き連れて、戦ってくださる。

この箇所から何を学べばよいのだろう。
何か大きなことに取り組む前に、敵や試練に立ち向かう前に、主を礼拝しよう。それが、最も正しい戦い方だ。靴を脱ぎ、神の前に謙虚になろう。神が生きておられることを信じよう。神をたたえ、礼拝しよう。問題や悩みを主の御手にお任せしよう。神が戦ってくださると信じよう。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

私は25歳で副牧師になり、28歳で別の主任教会に導かれました。やがて教会に来る人が増えて会堂建設の必要に迫られました。総工費はかなりの額になりました。私には城壁のようにそそり立つ問題に見えました。
50歳代の男性役員たちと共に銀行に出かけ、融資の依頼をしました。責任者の私は30歳代前半の若造でした。役員たちは、連帯責任者となり契約書に実印を押しました。彼らの信仰は見事です。銀行の担当者は、私たちの計画を受け入れ、融資を許可しました。(今考えると、役員達の社会的信用の高さ、教会の会計報告の堅実さ、当時の社会の経済状況などがプラスに働いたと思えます)最終的には3階建ての教会堂が建ちました。
主が前に進んでくださったから、としか私には思えません。

 →あなたの番です
 □あなたの敵が震えていることに気づこう。
 □主イエスについて行くと心に決める。
 □主の前で靴を脱ぎ、主を礼拝しよう。


「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」(14節)


ヨシュア記4:1~24 記念の石

イスラエルの民はついにヨルダン川を越えて、約束の地に入りました。約束の地とは、イスラエルの民がリラックスできる楽園ですか。いいえ、この時点では、約束の地とは戦場を意味します。ヨルダン川を渡ってすぐの場所がギルガルですが、そこにヨシュアは記念碑を建設しました。戦闘集団が戦地に入って最初にする行動としては、とても奇異な動きです。記念碑にどんな意味があるのでしょうか。

1、忘れないため

イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。――ヨシュアはヨルダン川の真中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある。――(ヨシュア4:8~9)

 ヨシュアは12部族の代表者に、ヨルダン川の川底から12の石をかついて来て記念碑を作るようにと命じました。(5節)それは、ヨシュアの思いつきではなく、神がヨシュアに命じたことでした。(2~3節)この石は、12人の信仰のあかしと言ってもよいでしょう。

 私たちは忘れやすいので、記念碑が必要なのです。体が震えるほどの奇跡を経験しても、やがて感動は色あせます。目先の忙しさに追われ、辛い試練が来ると、そんな奇跡があったことすら忘れてしまいます。

 この記念碑は、神が生きておられること、神が愛して下さったこと、神が偉大な奇跡をなさったことの「しるし」(6節)であり、「永久の記念」(7節)でした。

 あなたの信仰の記念碑とは何でしょう。洗礼証明書ですか。海でバプテスマをした人は、高校野球のように海の砂を記念にボトルに入れますか。
あなたの信仰に意味のある写真や物を、家や職場に飾ってはどうでしょう。私のオフィスのデスク前の壁には、私の人生の危機の時に支えてくれた9組の人々の写真を飾っています。




2、子供に教えるため

後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、「これらの石はどういうものなのですか。」と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。「イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。」(ヨシュア4:21~22)

 記念碑は、記念碑自身が語りだすという特長を持っています。
これは何、と子供たちは記念碑を見て素朴に質問するでしょう。大人たちは、これは、神がヨルダン川を渡らせてくれた記念碑で、この石は全部ヨルダン川の川底から持ってきたものだと説明できます。

 注意して下さい。信仰を子供に説明するのは母親ですか。いいえ、父親です。子供に信仰を教える責任は父親にあります。
子供は、父親から信仰の話を聞くのが好きです。たどたどしい言葉であっても、父親が神を信じている姿を子供に見せてください。子供は、だませません。単なる知識の受け売りでは、信仰は伝わりません。父親の信仰のあかしは、子供に伝わります。

もう一度言います。記念碑は、そこにあるだけで、あなたの信仰をあかしするチャンスを生み出します。勇気を持って、あなたの身近に置いてみましょう。

「これらの石はどういうものなのですか。」(21節)と聞かれる日を楽しみに待っていましょう。




3、未来を変えるため

あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(ヨシュア4:23~24)

記念碑は、過去を懐かしがるという懐古趣味ではなく、実は、未来志向なのです。記念碑は、未来への勇気を与えてくれます。記念碑は、未来を変える力になります。これから、ずっと主を恐れ、神についていく励みとなります。

こんなにも神に助けてもらったのだから、これからは誰かを助けよう、という意思を与えてくれます。神からたくさんのものをいただいたから、神にたくさんのものをお返ししようと考えるのです。その思いこそがあなたの未来を変えます。

「あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(24節)

37歳でアメリカに派遣され、シリコンバレーで工場建設に携わった男性がいました。激務が連日のように続き帰宅が遅くなり、夫婦仲が悪くなってしまいました。数年後、奥さんが教会に通いだし、主イエスを信じ、家での姿が見違えるように変わりました。教会へは運転手として妻や子供たちを送っていたお父さん自身も、自分も主イエスをはっきりと信じるようになりました。
それから7年、牧師に召されたことを知り、やがて会社を早期退職、神学校に行き、牧師になり、癌のため働き半ばで神のもとに召されました。告別式で、息子さんがお父さんの変化について証しをされました。お父さんはクリスチャンになり、牧師になり、以前にはなかった笑顔が印象的だと語りました。招天式のプログラムには、お父さんの笑顔が大きくカラーで印刷されていました。これは、「記念碑」の一つといって良いでしょう。
残された奥さんは、夫が語り続けた主の福音メッセージを広く知らせるためにウェブサイトを開設されました。これもまた、記念碑です。



→あなたの番です
□写真でも、置物でも、あなたの信仰を記念する「記念碑」を飾りましょう
□お父さん、あなたの信仰のあかしを子供に話しましょう
□受けた恩を、神と人に返しましょう