ヨハネ2:1~25  水がぶどう酒に



  主イエスは、神の子、救い主です。なぜそう言えるのでしょう。主イエスの言葉と行動を注意深く観察すれば納得できるはずです。主イエスのように語った人はいません。主イエスと同じことができた人は歴史上誰もいません。
 今日は、ヨハネの福音書2章を通して、主イエスが水をぶどう酒に変えた出来事と、エルサレムの神殿を掃除された様子を見ながら、主イエスがどんな方かを発見しましょう。


1、水をぶどう酒に変える

 主イエスの母マリヤと関係が深い人の子供が結婚したのでしょう。それで、ガリラヤのカナで開かれた婚礼に、主イエスも弟子たちも招かれていました。宴もたけなわという時にぶどう酒が底をつきました。結婚式の主催者がマリヤに助けを求めたのでしょう。それで、マリヤはイエスのところに行きました。

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(3~5節)

「女の方」という言葉が冷たいと感じる人がいるでしょう。ヨハネ19:26では、十字架の上の主イエスが弟子のヨハネに母の世話を任せる箇所がありますが、同じく「女の方」と呼びかけています。皇帝アウグストがクレオパトラに出した手紙にも同じ用語が使われていたことから女性への敬称といっても良いでしょう。主イエスはご自分の時計で動いておられるのです。

「ぶどう酒がありません」これは、事実、困惑、助け、の3つが込められた言葉です。主イエスは、マリヤの要請を無視したように見えますが、マリヤが主イエスの指示を待機するようにと手伝いの人に言っているところから、あうんの呼吸で、主イエスが助けてくれる時が必ず来ると信頼したというべきです。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(7~10節)

あなたが参加者の一人だったら、こう感じたでしょ。なんだい。もうぶどう酒のおかわりがないのかい。お祝いの席なのにしょぼくれてるね。俺たちに来て欲しくなかったのかい。なに、おかわりあったの。早く言ってよ。すごい、最高級品のぶどう酒だ。えっ、何だって、水がめから汲んだものだって。主イエスが水をぶどう酒にしたというのかい。いっぺんに酔いがさめたよ。すごいね。結婚式の最高のお祝いだね。
これが、7つのしるしのうちで最初のものです。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(11節)神の栄光がこうしてあらわされました。

あなたの人生で、困ったことが起きていますか。それがあなたのぶどう酒です。助けを主イエスに求めましょう。解決できそうにないと思っていますか。主イエスは、神です、まことの救い主です。ですから、水の成分すらぶどう酒に変える力を持っています。ヨハネ1章で語られたように、主イエスは神です。ですから、水を最高級のぶどう酒に変えることができるのです。
主イエスを信じて、まず、水がめに水を満たすアクションを起こし、主のみわざを待ちましょう。主イエスは、最高のタイミングであなたを助けを与えてくださいます。
主イエスは、問題を解決して下さいます。あなたという普通の水を、ふくよかな香りのぶどう酒に作りかえることができるのです。



2、神殿から商売人を追い出す

 主イエスは過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに上り、神殿の様子をご覧になりました。

そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(14~16節)

 主イエスは、柔和で、愛にあふれた方というイメージがあります。でもそれは、誰かが作ったイメージに過ぎません。主イエスは、間違ったことには毅然と対処される方です。
この時どんな音がしていますか。想像力をたくましくして下さい。ビシッ、メー、モー、ジャラジャラ、バタン。「何をするんだ」「やめろ」という叫び声。
注意深く見ると、主イエスは、ハトを逃がすことはしていません。つまり、損害は与えずに、しかも、商売人をそこから出すことに成功しているのです。大胆かつ、繊細です。
 神殿の一角を占拠していた商売人たちは、主イエスに反論できませんでした。また、当時の警察権力も主イエスを逮捕しませんでした。なぜですか。主の言われたことが正しいからです。

 主イエスは神殿を「わたしの父の家」と言っています。主イエスが神の子なので、父の家を掃除するのは当然なことです。

 お前はいったい誰だ、証拠を示せと迫る人々に、主イエスはこう言われました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(19節)
 弟子たちは、この言葉の意味はすぐに悟れませんでした。主イエスの復活後、なるほど、この言葉はご自分の体を神殿にたとえて復活の予告をされたのだと理解したのです。

 人は二種類の人しかいません。勇気を持って行動する人と、勇気を隠している人です。誰もが正義感があり、誰でも何が正しいかが分かっています。でも、怖いのです。
主イエスは、陰で批判する人ではありません。また、心で願うだけで黙っている人ではありません。

あなたも、勇気を出す時です。主イエスは、あなたを励まし、勇気を出せとおっしゃっています。

 さて、神は、どの分野で正義を表わしたいと願っているのでしょうか。政治、経済、文化、地域社会、ビジネス、家庭、自分自身。



 今日、心に残したい言葉。
「水がめに水を満たしなさい。」(7節)
「さあ、今くみなさい。」(8節)
「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(16節)

主イエスの言葉と行動を見て、主イエスがどんな方か分かりましたか。その分かったことを土台にして、主イエスを信じましょう。そして、主イエスについて行きましょう。

→あなたの番です
   □あなたの「ぶどう酒」とは何ですか。
   □神は、どこを掃除したいと思っておられますか。
   □神の助けを信じ、勇気を出して、一歩を踏み出しましょう。



ヨハネ1:1~51 神の子羊



ヨハネの福音書はユニークです。

マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、基本的には同じ構造と同じ出来事を土台にしていますが、ヨハネはまったく異なる視点で主イエスの生涯を描きました。クリスマスの物語りを語らず、山上の説教にも言及せず、たとえ話もありません。 このユニークさは、ヨハネの目的に由来しています。次のみことばに本書の執筆理由が書かれています。

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)

主イエスを信じてほしい。主イエスを信じて、本当の命を得てほしい。主イエスが信じるに値する救い主であることを、7つの奇跡に焦点を絞ってヨハネは福音書を書きました。
全体の序章となるヨハネの福音書1章を見ていきましょう。


1、主イエスは誰か(1~18節)

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14節)

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(18節)

 主イエスは100パーセント神です。そして、主イエスは完全な人になられました。主イエスの語られたこと、主イエスのなさったこと、主イエスの存在そのものが、神から人への「ことば」となり、神を解き明かすのです。

2、バプテスマのヨハネの証言(19~28節)

 バプテスマのヨハネは、主イエスが、「世の罪を取り除く神の子羊」(29節)であり、「この方が神の子であると証言」(34節)しました。

バプテスマのヨハネは、悔い改めを述べ伝えて人々にバプテスマを授け、王の罪を厳しく糾弾して死刑になった勇気ある預言者です。
主イエスの昇天後、ある地域ではバプテスマのヨハネの人気が高まりました。その行き過ぎを懸念したヨハネは、主イエスだけが救い主であり、バプテスマのヨハネは救い主ではなく、主イエスの道を整える「荒野で叫んでいる者の声」(23節)であることを強調しました。


3、主イエスと出会う時(35~50節)

 後に主イエスの12弟子となる3人が登場します。アンデレ(35~40節)、アンデレの兄弟シモン(41~42節)、ナタナエル(43~51節)。

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。(38~39節)

アンデレは、心ひそかに強く求めていることがありました。道を知りたい。真理をつかみたい。本物が欲しい。主イエスと出会うことにより、アンデレの求めは満たされました。それは、興奮気味にアンデレがシモンに主イエスを紹介していることから分かります。

 あなたは、何を求めていますか。主イエスは、あなたの求めに応えて下さる方です。

 次に、シモンが主イエスに出会った場面も、印象的です。

彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(42節)

 主イエスは、漁師としての外見ではなく、シモンの未来の姿に注目していました。今は不安定で弱い人間だが、将来かならず揺り動かない「岩」(ペテロ)になると言われたのです。
 多くの人は、自分の姿にがっかりしていて、自分が変化するとは考えにくいのです。主はあなたの未来を肯定的に見る方です。あなたが変貌することを信じて、励ましてくれる方です。

 3人目はナタナエルです。彼は聖書に精通した真面目な人で、ある種、悲観的な雰囲気を持つ人でした。主イエスは、彼の本質を初対面で見抜きました。

イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(47~48節)

どうして私をご存じなのですか、とナタナエルは驚きました。ナタナエルは、自分を真に理解してくれる人い出会って、感嘆の声を上げました。
主イエスは、本当のあなたを理解し、分かって下さる方なのです。あなたの誇りも、あなたのこだわりも、あなたの努力も、熱意も、情熱も、ご存じです。
 
 さあ、ヨハネの福音書を通して、主イエスをもっと知っていきましょう。どうしたら主イエスをもっと深く理解できるでしょうか。それは、主イエスのところに、私たちが行くことです。行けば、分かるのです。主は、そう招かれました。

 「来なさい。そうすればわかります。」(39節)
 「わたしに従って来なさい。」(43節)
 「来て、そして、見なさい。」(46節)

 主イエスは、あなたの本質を理解し、あなたの求めを満たし、あなたの可能性を応援して下さる方なのです。主イエスのもとに行きましょう。

→あなたの番です
 □主イエスに会いに行きましょう。
 □主イエスの声に耳を澄ませませよう。
 □主イエスについて行きましょう。

第2列王記7:2~15 良い知らせの日


 北王国イスラエルの首都サマリヤは、アラムの軍隊により包囲されて食料は底をつき、鳩のふんまでも売られる有様でした。年代で言えば、紀元前840年ごろの事でしょう。
 悪い知らせばかりで気がふさぐ時、実は、良い知らせがあったのです。


1、どうせ死ぬんだ

 ツァラアトに冒された人たち4人が主人公です。重い皮膚病のため隔離生活をしていた彼らは、往来の多い町の門で物乞いをしていましたが、何の成果もありませんでした。

たとい、私たちが町にはいろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死ななければならない。ここにすわっていても死んでしまう。さあ今、アラムの陣営にはいり込もう。もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。(第2列王記7:4)

 どうせ死ぬのだ。居直りは強いものです。サマリヤの町の門で死ぬ事も、敵軍のアラムの陣地で死ぬのも同じだ。一か八か、アラムの陣営で食料を恵んでもらおう。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」(マタイ10:28)と主イエスは言われましたが、居直りの上を行く究極の確信です。

こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。見ると、なんと、そこにはだれもいなかった。(5節)

 天幕に入ると豪華な食事が残されていたので、彼らは腹いっぱい食べて飲みました。あたりを見渡すと宝物の山でした。それで宝を抱えて自宅に隠し、それを何度か繰り返しました。

 笑いがこみ上げてしょうがなかったでしょう。


2、これでいいのか

漫画の天才バカボンでは、「これでいいのだ」という決めぜりふがありました。でも、重い皮膚病の4人は、これではいけないと思ったのです。
笑いが込み上げた後、後ろめたさが襲ってきました。これでいいんだろうか。俺たちだけ、こんなに幸せでいいんだろうか。サマリヤの町には飢えて死にそうな人がたくさんいる。

彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(9節)

 自分だけの幸せ。自分だけの安心。自分だけの宝。それでは、いかん、と気づくことが大事です。良い知らせは、自分だけで隠し持つべきものではないのです。


3、門衛に呼びかける

彼らは町に行って、門衛を呼び、彼らに告げて言った。「私たちがアラムの陣営にはいってみると、もう、そこにはだれもおらず、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」(10節)

彼らの報告を聞き、王はアラム軍のしかけた罠だとにらんで偵察隊を送りましたが、確かにヨルダン川を越えて自国に逃げたことを確認しました。アラム軍は、エジプトの軍隊が大挙してイスラエル王国を救助に来たと勘違いしたのです。(6節)

今日、まるで敵軍に包囲されて出口がないような人がいるかもしれません。神は、一瞬で包囲を解かれる方です。主を信頼して、神のときを待ちましょう。

 ところで、ツァラアトの人たちが門番に伝えたのは、真夜中でした。朝まで、待ってもよい時間帯です。なぜ、深夜に伝えに行ったのでしょう。
今、まさに、飢え死にする人がいる。そう気づいたのかもしれません。一刻も早く、良い知らせを伝えるべきだと思ったのでしょう。ツァラアトの人達は、行動を起こしました。アクションしました。サマリヤの町の門に戻り、門衛に叫び、状況を伝えました。

もうアラムの大軍はいない。みんな逃げ帰った。食べ物が大量に残っている。誰も飢え死にする必要はない。みんな、助かるんだ。救われるんだ。


9節の言葉を、今年、心に留めたいと思います。

私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。(9節)
「この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って、朝日が昇るまで待っているなら罰を受けるだろう」(新共同訳)This is a day of good news and we are keeping it to ourselves.(NIV)

あなたは、どんな方法で福音を伝えられますか。

良い知らせを伝えるためのアイデア
     福音を伝えたい人のリストを作り、祈る
     福音を伝えるための名詞を作る
     礼拝に誘い、車で迎えに行く
     知らない日本人に声をかけて友達になる
     一緒に食事をする
     家に呼ぶ
     あなたの作った音楽、絵、文章でみことばを伝える
     人の話をとことん聞く
     苦しみの中にいる人を具体的に支える
     英語で困っている人を助ける
     良い本、ビデオ、CD、サイトをメールで教える

 私は高校3年の時に友達の関根君に誘われて教会に行き、クリスチャンになりました。彼なくして、今の自分はありません。私は何度も彼の誘いを断りましたが、何度も私に声をかけてくれた愛と祈りを心から感謝しています。
 クリスチャンになった後、彼は私にクリスチャンの生き方を見せてくれました。行動で手本を示してくれました。だから、高校に聖書を小脇に抱えて通うようになり、学校で伝道するようになりました。

 イエスさまを伝えるのが苦手な人への助言があります。一人でやらないことです。誰か、信仰の先輩に当たる人と行動を共にして、真似をしてみることです。二人ならできるものです。私も小心者でしたが、関根君の励ましと模範でどれだけ助けられたか分かりません。

 パウロはコリントで伝道していた時、主イエスの励ましを受けました。黙るなと。

 「黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない、この町にはわたしの民がたくさんいる。」(使徒18:9~10)

 私たちの生きている目的の一つは、福音を伝えることです。今年、福音を伝える年にしませんか。あなたの賜物を生かす、伝え方がありませんか。あなたらしい伝え方がありませんか。あるはずです。アクションしましょう。

→あなたの番です。
□今日は、良い知らせの日です
□ためらわず、福音を伝えましょう
□誰かと一緒に伝道しよう

ヨシュア記24:1~33 ヨシュアの最期



 ヨシュア記の最終章を迎えました。

 ヨシュアは、民の指導者たちをシェケムに集めました。のろいを象徴する北のエバル山と祝福を象徴する南のゲリジム山の間に位置する町がシェケムで、あなたはどちらを選ぶかと迫っています。
ヨシュアは、指導者たちを神の前に立たせ、神の言葉を聞かせ(1~13節)、いつまでも主に仕える決意をさせ(14~24節)、それを石に記しました(25~27節)。その後、ヨシュアは110歳で死去します。(29節)これがヨシュア記最後の章、24章の内容です。


1、神が語られたこと

ヨシュアの遺言が23章なら、24章は神の言葉を取り次ぐ最後の言葉と言えます。2節から13節は、神が語られた言葉そのものです。
内容は、アブラハムの祖父テラが、他の神を拝み、ユーフラテス川の向こうに住んいた時から始まり、約束の地にイスラエルの人々が移住できたことまでに及んでいます。

わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。(3~4節)

3~4節から神がしてくださったことをピックアップしてみると、「(アブラハムを)連れて来る」「歩かせる」「子孫を増す」「(イサクに)ヤコブとエサウを与える」「セイルの山地を与える」「所有させる」となります。すべてが、「わたし」つまり、神がして下さったことなのです。

神が語られた言葉で、何度も繰り返されるのは「わたし」という言葉です。新改訳聖書では14回も繰り返しています。歴史とは、神を信じる人々のために神が為して下さった良き事の記録と理解することもできます。

私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。(17節)

イスラエルの指導者は、神の言葉を聴いた応答として17節を語り、第一に神の導き、第二に奇跡、第三に神の守りがあった事を認めました。
私たちも時間を取って、1年を振り返ってみましょう。神がどのようにあなたを導いて下さったか。神がして下さった奇跡は何か。神がどんなふうにあなたを守って下さったか。
私は、カレンダーを開けて、その月ごとに神がして下さったことをもう一度確認して、主に感謝しました。あなたにも、神の導き、奇跡、守りがあったはずです。
涙の多い一年でしたか、苦しみの多い一年でしたか、暗闇の一年でしたか。そんな年ほど、神の恵みは大きいのです。



2、主に仕える

14節から24節で繰り返される言葉は何でしょう。「主に仕える」(9回)です。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。(14節)

神のなさった事を振り返ると、神こそ誠実で真実な方だと分かります。それに対する私達の応答も、誠実で真実で神を恐れ敬い、主に仕えるというのは当然の応答だと思いませんか。

ヨシュアは、イスラエルの指導者たちの姿勢がいまひとつと認識したのでしょう。厳しい警告を加えながら、真剣に主に仕えるようにと押し問答を続けました。

すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」(19~20節)

イスラエルの民は、主に仕えると真心から告白し、契約の石にそれを書き記し(24~27節)、事実として、ヨシュアと共に歩んだ長老たちが生きているうちはイスラエルの民は神から離れることはありませんでした。(31節)

あなたは、神に仕えますか。  何をすることによって、神に仕えますか。

“Date your wife”という本は素晴らしい本です。著者のJustin Buzzardは、毎朝、結婚の誓いに目を通します。毎年一年間の妻との楽しいプランを立てます。子供が生まれるまでは、毎月2泊でどこかに二人で泊まりに行く計画を立てました。遠くに住んでる友達の家を取り替えっこするだけの旅行も、テントで泊まる計画もあるので、あまりお金もかかりません。3人の小さな男の子が生まれた後は、毎週金曜の夜に妻とデイトをして、子供たちは友人に預かってもらいました。妻との計画を最優先して、仕事でキャンセルにしません。妻を愛しているから、夫のジャスティンが率先して計画を立てるのです。

あなたは、神を愛していますか。
神のために、新しい年はどんな計画を立てますか。
何を最優先しますか。
伝道のために、あなたのスケジュールをどう変更しますか。
あなた自身の霊的成長のため、修養会やECに出るため日程を取り、貯金しますか?
人を育てるために、あなたの優先順位をどう変更しますか。
毎日聖書を読む計画を作りますか。

あなたは、具体的に何をして、主に仕えますか。


→あなたの番です
□今年1年の、神の導き、奇跡、守りは何でしたか
□新しい年に、主のためにしたいことは何ですか

 ヨシュアは力強く言いました。私たちもそういいましょう。
 「私と私の家とは、主に仕える。」(15節)


ピリピ2:6~11  仕えるためのクリスマス



クリスマスは、神が人となられた日です。


1、捨てる

ピリピ人への手紙を読むと、クリスマスにどんな意味があるのかが分かります。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」(ピリピ2:6)

主イエスは、クリスマスに何かを捨てました。
何を捨てたのでしょう。神であることを捨てたのです。それがクリスマスです。

一人では生きていけない、一人では何もできない赤ちゃんの姿となって生まれて来たのです。

 私はあるお母さんを知っています。歯医者さんに行って、健康な歯を全部いっぺんに抜いて下さいとお願いしました。総入れ歯にするためです。詳しく説明する字数がありませんが、弱さを持って生まれた赤ちゃんを育てるためには、その道しかなかったのです。

あなたも、何かを捨てる必要に迫られるかもしれません。もしあなたが、自分の意思で何かを捨てるなら、それは、失うのだけではありません。見えない世界で何かを得ているのです。

 何かにしがみつくから失敗するのです。自分の意思で、捨てましょう。誰かを愛しているなら捨てられます。



2、下る
 
 主イエスは、下りました。上から下に降りました。

「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(7節)

主イエスは、人間になりました。私たちとまったく同じ人になられたのです。弱さも、孤独も、痛みも、誘惑も、私たちとまったく同じです。

若いお父さんは、子供の誕生に戸惑い、おしめを代えるという「試練」で打ちのめされます目。離乳食を食べるようになると、赤ちゃんのうんちが大人に近づき、「俺にはできない、助けてくれ、紙おむつの取替えは無理だ」と大抵のお父さんが音を上げます。
私も苦労しました。はっきり言いましょう。プライドがじゃまして、おしめを代えることができないのです。俺がやることじゃないと思うのです。そこから、降りてみましょう。プライドを捨てましょう。下ってみましょう。

捨てることは、通常は、私たちの一部を失うことです。下るということは、私たちのプライドを捨てるということです。プライドとは、自分自身です。
下ることによって、不自由になります。下ると、ばかにされます。下ることにより、自分が本来の自分でない気持ちがします。

自分から、降りてみましょう。下に行ってみましょう。誰かと同じところに立ってみましょう。今まで見てきた世界がどんなに傲慢だったか気がつきます。



3、死ぬ

「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(8節)

捨てることは自分の一部を失うことで、下ることは自分のプライドを捨てることで、死ぬことは自分の最も大事なものを誰かのために使い尽くしてしまうことです。
主イエスは、私たちの罪を身代わりに背負い、私たちの受ける罰を受けてくれました。文字通り、私のために生まれ、私のために死んでくれた方なのです。

 十字架は屈辱と恥を伴う刑でしたので、当時の特権階級であるローマ市民はどんな悪人であっても十字架刑にはなりません。ユダヤ人の目から見るなら、十字架刑は神にのろわた者の印でした。(申命記21:23「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」、ガラテヤ3:13)

 主イエスが十字架についたという事実は、神の愛がどんなに広く深いかを表わしています。

リー・ストロベルは、シカゴトリュビューンの新聞記者で無心論者でした。ある年の11月、シカゴの西部に住む貧しい家族を訪ね、その様子を記事に書きました。60歳の祖母が11歳と13歳の孫と暮らしていました。部屋には食卓があるだけで、何もありません。シカゴの冬は寒いのです。でも孫娘たちは半そでの衣類しかなく、1枚あったグレーのセーターも薄手のものでした。祖母のデルガドスさんは主イエスを信じていて、イエスさまは私たちを見捨てる方ではないと語っていました。
ストロベル氏がクリスマスイブにその家を訪ねました。部屋は、新聞読者が送ってくれたプレゼントであふれ、電気製品、家具、暖かい衣類、食料、クリスマスツリー、そして現金が届いていました。デルガドスさんは言いました。感謝してるよ。でも、私らが働いて稼いだものじゃないんだ。プレゼントなんだ。近所には貧しい人がたくさんいる。だから、これから、届けようと思っている、と話しました。ストロベル氏は、その発言と行動に心を揺さぶられました。デルガドスさんは続けました。一番すばらしいプレゼントは、クリスマスに生まれてくださったお方、イエスさまだよ、と心から言うのでした。

→あなたの番です
□捨てる、下る、死ぬ。主イエスがして下さったことに感謝しましょう。
□今週、誰かに仕える人にさせてもらいましょう


ヨシュア記23:1~16  右にも左にも



「歳を重ねて、老人になった」(2節)「見よ。きょう、私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。」(14節)ヨシュアは、いわば、遺言として23章と24章を全イスラエルの前で語りました。

よく出来た息子と問題の多い息子の二人を残し、世を去ろうとする実業家が遺言するとしたら、どんな言葉を残すでしょう。
優秀で信頼できる息子には、「後は頼んだぞ、お前に何も言うことはない、謙虚な心を忘れるな」と言うでしょう。その反対のタイプの息子には、注意と警告の言葉を残すでしょう。

ヨシュアはどちらのタイプの遺言を23章で残したのでしょう。厳しい警告からみて、後者です。イスラエルの民が堕落して神に背く可能性があるとヨシュアは見抜いていたのです。


1、戦われたのは主

あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。(3節)

戦いの主役は自分達ではなく神だったのです。このことを、イスラエルの民はしっかりと心に刻む必要がありました。

今年一年、あなたの戦いはどんな戦いでしたか。勝利できたなら、それは主のみわざです。主にあって、あなたは一騎当千の武将とされました。これからも、主に戦っていただきましょう。

 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。(10節)



2、右にも左にもそれず

 水泳で難儀するのは背泳です。私が背泳ぎすると、プールの壁が近寄ってきます。私たちの信仰も曲がりやすいのです。

あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。(6節)

クロールで泳ぐなら私は曲がることはありません。理由は簡単です。底に見える線に沿って泳いでいるからです。信仰も同じです。右にも左にも逸れない秘訣があります。主イエスを見て、主イエスについていけばいいのです。主イエスも「ついて来なさい」と言っておられます。

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)

戦いが起こり、試練がやって来た時、私たちは主イエスから目を離して自分流の方法でその場を無理やり乗り越えようとします。場合によっては罪を犯したり、嘘をついたり、神を裏切ったりしてでも、自分を楽にしようとします。つまり、右や左にそれるのです。そういう時こそ、主にすがり、主を愛しましょう。

ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。(8節)

 あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(11節)




3、堕落の危険性

 ヨシュアが特に声を大にして語ったのは、堕落の危険とその結末です。

しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。(12~13節)

もし、偶像の神に心を寄せ、この世の流れにどっぷりと浸ってしまうなら、最後に待っているのは滅びだとヨシュアは警告しました。「滅びうせる」(13、16節)、「根絶やしにする」(15節)と繰り返し言いました。
主は約束された良いことを一つ残らず実現された方なので、約束された滅びも確実に来るとヨシュアは念を押します。

 あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。(15節)

 ヨシュアはこの章で、「私の神」と一度も言いません。「あなたがたの神、主」という言葉を11回も繰り返しました。(3、5、5、8、10、13、13、14、15、15、16節)イスラエルの民に、信仰を自覚してほしいのです。私の神は生きておられるとはっきり分かってほしいという願いで、執拗に「あなたがたの神、主」という言葉を使ったのでしょう。

牧師の息子で大学を中退し俳優になったアメリカ人がいました。成功と不安を行き来し、やがては酒におぼれ、薬物に手を出し、大きな邸宅も人手に渡しました。クリスマスを前にして、妨害が入らないように家のドアを釘で打ちつけ、致死量の薬物を摂取しようとした矢先、電話がかかってきました。兄からでした。実家に集まりみんなでクリスマスをお祝いするところだ。母が夢を見て、お前が死のうとしていると言うんだ。こっちに来ないか。今、祈ろう。電話口で、彼は「罪人の私をあわれんでください」とだけ祈ったのですが、神に包まれるような温かさを感じ、人生の新しい一歩を踏み始めました。やがて実家に戻り、家族に支えらリハビリし、やがては牧師になりました。

ヨシュアは、外敵に勝利し、内部分裂の危機を乗り越えました。次の敵とは、自分自身の弱さなのです。私も、あなたも、神から離れ、軌道を離れやすい弱さを持っています。だから常に主イエスに目を向けていましょう。それたら、悔い改めて戻ればいいのです。

「主にすがらなければならない」(8節)
「主を愛しなさい」(11節)

 私のメッセージでの口癖は、「主は生きておられます」です。これは、いわば私の遺言のようなものです。私が死んだら、この言葉を思い出してください。(まだ死にませんよ)
「あなたの番です」という言葉もよく言います。神はあなたの神ですから、あなたなりのレスポンスをして下さいという意味です。
そして、私が、体全体、私の生涯すべてで語り続けたいことは、「あなたはやり直せる」です。どんな問題に出会っても、必ず立ち直れます。私は過去につぶれたことがあります。倒れたことも、死にたいと思ったことも、貧しくなったことも、明日の希望が見えなかった数年間も経験しました。でも、いける神が共にいて下さいました。神が私を励まし支えてくださいました。それで、立ち直れたのです。

さあ、あなたの番です。
□神が勝利して下さったことを振り返りましょう
□あなたは一騎当千の器にされました、神と共に戦いましょう
□道をそれたら、悔い改め、戻りましょう

「そこから右にも左にもそれてはならない。」(6節)

 

ヨシュア記22章  誤解


 外敵との戦いをひとまず終えたイスラエルは22章に入って、あわや内戦、見方同士の殺し合いという瀬戸際に立たされます。
 これは、私たちの日常生活でよく起きることで、意気消沈する結果を招きます。夫婦のいがみ合い、親子の断絶、友人同士の仲たがい、教会の分裂など私たちも経験する出来事です。
 今日は誤解について考えましょう。誤解の発生要因を検証し、解決方法を探りましょう。

1、2部族半の気持ち

ルベン、ガド、マナセの半部族はすでに相続地をヨルダン東側に得ていましたが、他のイスラエル人と共に今まで戦ってきました。ヨシュア記1:12~18で約束したように、どこへでも行き、何でもするという献身姿勢を最後まで崩しませんでした。
それでヨシュは2部族半の人々の姿勢を高く評価し、祝福して彼らを居住地に帰しました。(ヨシュア記22:1~5)その興奮さめやらぬ中で2部族半の人々は祭壇を築きました。

申命記12章は、いけにえをささげる祭壇は1箇所と明記しています。「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。」(申命記12:13)
別な場所に祭壇を作ったので、誤解の種になりました。

祭壇を作った理由は、自分たちもイスラエルの一部だと証拠を残すためでした。

しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。『あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。(ヨシュア記22:24)

「私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。」(28節)
 
 ヨルダン川西側の人々は、二部族半の人々の気持ちは理解できず、神への反逆、イスラエルからの離反と判断、早急に滅ぼすべきだとの強硬論が支配的となりました。

2、誤解が生まれる背景

 一般的に言って、誤解は次の要素で起きます。
1)外観とうわさと先入観(主観的な判断、好き嫌い)
2)感情的な行動(思慮の欠けた対処、話し合うことを避ける態度)

 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。(10節)

 ヨルダン西部の人々は、見える部分、外観だけで判断しました。

イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」(11節)

2部族半が神に逆らい、不信の罪を犯し、独立分派行動を起こしたとのうわさに惑わされたのです。先に領地を得たしたたかな連中という先入観もあったかもしれない。

 今すぐ、ヨルダン東側の2部族半を攻撃し、滅ぼすべきだと頭に血が上ってしまった。

イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。(12節)

早急な態度を取ったイスラエル人とあなたは似ていませんか。
 
 自分を点検しましょう。
□外見と噂と先入観で人を判断していませんか
□感情に流された早急な行動をしていませんか

 夜中に見たEmailで感情を害し、かっとなって書いたメールがあるなら、送信ボタンを押すのは明日にしましょう。押さなくて良かったときっと思うはずです。

3、解決方法

 イスラエルの民は、どのように解決しましたか。
1)攻撃を中止する
2)早期に面会し、真意を確認する

それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。(13~14節)

 中立的な立場の祭司ピネハスを中心とした調査団が派遣されました。すばやい行動、直接会う。この二点は人間関係トラブルを解消するために、極めて有効な方法です。

ピネハスたちは怒っており一方的に決め付けていた(16~20節)ので模範的な調査団とは言えませんが、率直に疑念を述べ、2部族半の真意を確認できたのは主のあわれみといえるでしょう。「きょう、私たちは主が私たちの中におられることを知った」(31節)という記述は、主の介入、主の臨在を感謝した言葉だといえます。

誤解すること、誤解されること。これは、生きてる限り避けられません。私たちの中におられる主イエスの助けがあれば、誤解問題に勇気と愛で対応できます。
最後に試されるのは、あなたの勇気です。ある神学者は、勇気とは神への祈りの中で告げられる恐れだと表現しました。目を閉じてあなたの正直な恐れと願いを神に告げ、目を開けたときには勇気を持って誤解問題に立ち向かいましょう。

→あなたの番です。
□直接会う
□事実を確認する
□謝罪する
□和解する
□主をたたえる

そこで、イスラエル品は、これに満足した。それでイスラエル人は神をほめたたえ(33節)