第1サムエル11:1~16 激しく燃えて


 水難救助の専門家によると、「助けて」と叫びながら水におぼれる人はいないそうです。「助けて」と言える余裕はないのです。
私たちが、解決不可能と思える問題に直面した時、どんな道があるのでしょうか。

1、ヤベシュの危機
 
 ヤベシュ・ギルアデはイスラエル人の町で、ヨルダン川の東側にあり、他の部族から孤立した自然環境に位置していました。ナハシュに率いられたアモン人に包囲されたヤベシュの人々は降伏しか道はありませんでした。ナハシュの出した条件は過酷で、全員の右眼をえぐり取るなら命は助けよう、というものでした。(1~2節)

 ヤベシュの長老たちは彼に言った。「七日の猶予を与えてください。イスラエルの国中に使者を送りたいのです。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたに降伏します。」使者たちはサウルのギブアに来て、このことをそこの民の耳に入れた。民はみな、声をあげて泣いた。(第1サムエル11:3~4)

 ヤベシュの人々は必死でした。助けて下さいと全イスラエルに使者を送りました。サウルが住んでいたギブアの住民は、知らせを聞いて泣きました。
 泣く理由は何でしょう。敵が強すぎて、勝てそうもない。目をえぐるとはひどすぎる。時間がない。初めて聞く話だ。協力した立ち向かうのは無理だろう。無力と悲惨さに泣いたのです。

 人生で、私たちがヤベシュ・ギルアデの人々の立場になることがあります。夫婦問題、親子、子育て、失恋、孤独、金銭、職場、病気、いじめ、ひきこもり、暴力、自死、様々な問題が押し寄せます。その時は、ヤベシュの人々のように、助けを求めましょう。

 あなたの個人的問題は、あなただけの問題ではないのです。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。」と第一コリントで書かれてあるとおりです。実は、多くの人があなたと同じ悩みを体験しています。経験者がいます。解決のリソースを持っている人がいます。あなたの心を励まし、支えてくれる人がいます。黙らないで。「私たちを救う者」(3節)が必ずいます。

 →あなたの番です
  □ヤベシュの人のようになったら、助けを求めよう



2、燃えたサウル

 サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった。(6節)

泣くだけの人。動き出す人。あなたは、どちらですか。
「このしるしがあなたに起こったら、手当りしだいに何でもしなさい。神がともにおられるからです。」(10:7)とサムエルがサウルに言った言葉を思い出します。

彼は一くびきの牛を取り、これを切り分け、それを使者に託してイスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルとに従って出て来ない者の牛は、このようにされる。」と言わせた。民は主を恐れて、いっせいに出て来た。サウルがベゼクで彼らを数えたとき、イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。(7~8節)

サウルはリーダーシップのある王になっていました。サウルの決断は、サムエルも支持する決断でした。人々は、サウルが怖くて従ったのではありません。主への恐れが人々に生まれ、サウルに従ったのです。

「あすの真昼ごろ、あなたがたに救いがある。」(9節)とサウルはヤベシュの人々に連絡し、人々は救出を確信して待ちました。これは、あなたへの勝利の約束の言葉です。

翌日、サウルは民を三組に分け、夜明けの見張りの時、陣営に突入し、昼までアモン人を打った。残された者もいたが、散って行って、ふたりの者が共に残ることはなかった。(11節)

サウルは熱いだけの男ではありません。主の導きと助けの中で、戦略を練りました。3方向からの攻撃と早朝奇襲攻撃により、眠っていた敵をみごとに打ち砕きました。

サウルと民は、完全勝利の後、南に下り、ヨルダン川西にあるギルガルでいけにえを捧げ、主を礼拝し、王としてのサウルを再確認しました。(14~15節)ギルガルはヨシュアがヨルダン川を渡って最初に主を礼拝した場所なので、あらたな旅立ちにふさわしい場所なのです。

主は使命を私たちに与えてくれます。成すべき事が見えたなら、激しく下る主の霊によって、私たちは燃やされ、かつ、協力者と計画が与えられます。
あなたの番です。泣くだけの者を止めて、燃えて動く人になりましょう。


3、自分に適用する

 サウルの動きが上図。それを、私たちに適用すると下図になります。

 

















 地域住民の悩みやニーズに応答し、そうした人々を助けたり、励ましたり、支えたりしていくうちに、新しいミニストリーが始まる場合があります。私たちの教会でしている幼児クラスも若いママのニーズに応えて開始したミニストリーです。

 私たちの辛い経験が新しいミニストリー誕生の糸口にもなります。

 →あなたの番です。
 □あなたの使命を見つけましょう
 □主の導きと主の霊を受け、祈りながら動き出しましょう
 □協力者や賜物のある人を募りましょう
 □戦略・計画を立てて実行しましょう

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10:13)



第1サムエル10:1~27 新しい人へ


 人は、変われるのか。
 今日の箇所を読むと、答えが分かります。


1、油そそがれたサウル(1~16節)

 サムエルは早朝、サウルと二人きりになり、サウルに油を注いでイスラエルの王として任命しました。油を注ぐ行為は戴冠を意味します。油は、主が、注がれたのです。

サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。(第1サムエル10:1)

王になるという心の準備は、サウルにありません。そこでサムエルは、その日のうちに起きる3つの事柄をサウルに克明に予告し(2~6節)、これは間違いない主の選びだと悟らせようとしました。サウルはその3つの事柄を体験し(9節)て確信を得たはずです。場所、人数、人々の持ち物や外見、もらったパンの数など、サムエルの言った通りでした。

その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。(5~6節)

「主の霊があなたの上に激しく下る」「あなたは新しい人に変えられます」サウルはまるで預言者の一人のように変わりました。ぼーとしている感じで、焦点の合わないカメラのようなサウルは信仰面は未開発に見えましたが、熱心な預言者のように変わったので人々は驚き、流行語まで登場しました(10~12節)。

「このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。」(7節)とサムエルに命じられたので、後にサウルは大活躍することになります。

あなたの番です。あなたも変わります。新しくなれます。

どうしたら、人は変われるのでしょう。神が変えてくれるのです。神から任された役割があるとき、その人が自分自身を神にゆだね、それを受けて神は使命を成し遂げる力を付与してくれます。人がそれを見ると、変えられたと思うでしょう。

変えられたということは、別の言葉で言い換えるなら、その人らしさを取り戻すことだと私は思うのです。他人の真似はしない、自分であることに安心できる。ほこりで白くなった街路樹が、にわか雨の後にきらきら輝き出すように、主の霊を受けた人は変えられるのです。

新しい仕事、新しい住まい、新しい役割、新しい人間関係、それを、主からのものとして受け止めましょう。その時、主の霊が注がれ、あなたは新しく変えられます。



2、王としてのデビュー(17~27節)
 
 サムエルは、ミツパにイスラエルの民を集め、主が選ばれた王を公に紹介しました。サムエルは神が誰を選ばれたかを知っていましたが、くじという方法を用いて、王を選ぶプロセスを、人々の前でガラス張りにして見せました。選ばれたのは、もちろんサウルでした。

こうしてサムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。それでベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づけたところ、マテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが取り分けられた。そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。(20~21節)

 13章1節によると、サウルは30歳で王になりました。公に王として選ばれても、隠れてしまうサウルを見ると、青年らしいなと思います。青年の特徴は、自信がないことです。能力があるのに、自分など取るに足らないと考えてしまうのです。(ところで、中年の特徴は、根拠のない自信を持っていることです。えーやん、えーやん、完璧や。私は天才だな。「天才」は忘れたころにやって来る、なんて中年の人は言ってます。)

それで人々がまた、主に、「あの人はもう、ここに来ているのですか。」と尋ねた。主は、「見よ。彼は荷物の間に隠れている。」と言われた。人々は走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。サムエルは民のすべてに言った。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな、喜び叫んで、「王さま。ばんざい。」と言った。(22~24節)

いざ人々の前に出ると、サウルは背が高くて美しい若者なので、人々は熱狂してサウルを王として迎えました。サウル王に忠誠を誓う者も現れ(26節)、一方では、サウルを軽蔑する人々も一部にいましたが、サウルは何も言いませんでした。

主に選ばれ油注がれ主の霊を受けて変えられても、人々の賞賛と批判の矢面に立たされる時、青年サウルは怖気づきました。それが、現実です。あなたも、新しいポジションに立って、喝采と嫌味を受けた時は、次の言葉を心に留めて下さい。

「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」(24節)

→あなたの番です
□主の霊を受け、変えてもらいましょう
□主からもらった新しいポジションです。勇気を出してやり遂げましょう。

第1サムエル9:1~27 美しい若者


 私は、小学生の時、劇で王子様の役をしたことがあります。恥ずかしいような、晴れがましいような複雑な気持ちでしたが、生涯に二度とない良い経験になりました。
 あなたも、神が備えてくれた人生という舞台の主役です。でも、いつの間にか、主役の座を明け渡し、脇役や通行人になっている人がいます。

 今日は、サウルがどのようにして王に選ばれたのかを観察しながら、サウルとあなたを重ね合わせて人生について考えてみましょう。



1、美しい若者

旧約聖書の3大美男子は、サウル、アブシャロム、ダニエルだと私は思っています。

キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。(2節)

さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。(第2サムエル14:25)

 ダニエル1:4によると、ダニエルと3人の少年は容姿が美しいだけでなく知恵に秀でて思慮深いと書かれています。ダニエルと比較すると分かりやすいのですが、サウルは知性や思慮深さ、内面性や霊性において深みに欠けていました。

 第1サムエル9章7~8節によると、サウルの従者は不測の事態に備えて銀を所持していましたが、サウルには何の備えもありませんでした。
 神の人として尊敬されていたサムエルに直接会った時にも、サウルはその人物がサムエルだとは気づかず、「予見者の家はどこですか」(18節)と尋ねるなど、ちょっとちぐはぐです。

 サウルは、背が高く美しい若者ですが、心もとない人物です。・



2、サウルの別の面

 ところがです。主は、サウルの未熟さではなく、可能性と将来性を見ておられました。

主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」(15~17節)

 サウルは、ロバを追ってたまたまサムエルのところに来たように見えますが、実は、主が「遣わ」されたのです。主は、現在のサウルだけではなく、将来のサウルを見ていたことは、16節から分かります。サウルはイスラエルの民をペリシテ人から救う人になるのです。
 
 私にも、あなたにも、未開発な部分、未使用の部分があるのです。神は、それを知っておられます。主は、それを使ってみなさい、訓練してみなさい、試しなさい、開発してみなさいと言っておられるのです。

 江戸時代に日本地図を作成した人として伊能忠敬は有名ですが、50歳の時に測量の勉強を始め、55歳から日本各地を歩いて測量を始めたのです。これが未使用の部分です。


 中学、高校、大学と陸上競技をしていた女子学生がいました。長い距離を走ると後半で急に失速するので、「お前は素質がないから、人の倍練習して普通だ」と指導者に言われ続けました。目立った記録に恵まれなくても走るのが好きなので実業団に入りました。800mや1500mを走っていましたが、ある時、マラソンに挑戦しました。良いコーチに恵まれ、「お前は強くなるよ。きっと世界一になる」と励まされました。コーチは、365日、同じことを言ってくれました。その結果、2000年シドニーオリンピックの女子マラソンで優勝しました。これは高橋尚子さんの実話です。

 「彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。」(16節)とあります。神は、サウルを見るように、あなたを見ています。自分の可能性を自分で狭めないで下さい。あなたには、未開発な部分と未使用の部分があるのです。



3、導きを求めたサウル

迷い出たロバを探して途中で偶然サムエルに会ったとサウルは思っていました。けれども、主に偶然はありません。ロバがいなくなった事も、主の御手にあったことです。道の途中でサウルの従者が発した言葉は暗示的でした。

すると、彼は言った。「待ってください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへまいりましょう。たぶん、私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」(6節)

「私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」サウルは道を求めました。ロバが見つかる道を教えてもらいたかったのです。25節によるとロバは父のもとに戻っていました。サウルは、もっと大事な「道」をサムエルから教えてもらうことになりました。(25節)

神は、私たちに道を教えてくれます。予想以上の大きな仕事やミッションをあなたに任せるかもしれません。主のみこころなら、その道を勇気を持って進みましょう。
あなたが、サムエルの立場にいるなら後継者を探して任せてみましょう。未熟そうに見える後輩であっても、主の見方は違います。”This is the man I spoke to you about”(17節NIV)と主は言っておられるかもしれません。

あなたの人生で、あなたがきちんと主役になって下さい。いつも誰かのせいにして脇役や通行人である必要はありません。行くべき道を主に求め、それが分かったなら、未使用や未開発の部分を使ってみましょう。神は、あなたを大役に抜擢される方です。その信頼に応えましょう。

→あなたの番です
□主は、行くべき道を示してくださる
□未開発、未使用の部分を使ってみよう
□後継者を探そう

 「私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」(6節)



第1サムエル8:1~22 王を求めた民


 「みんなが持ってるから買って」「みんながやってるから、いいでしょう」
 これは子供が親にねだるときの常套句です。この場合、みんなとはクラスの全員ではなく、3~4人という意味ですね。
 イスラエルの民も、同じような論理で王が必要だとサムエルに詰め寄りました。


1、王を与えてください

そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」(第1サムエル8:4~5)

 サムエルのリタイヤの時期が近づきました。彼の後継者の息子たちは汚職にまみれて役に立ちません。このままでは、まともな裁判は期待できず、外国から攻撃を受けても防衛できず、安定した生活は送れないと人々は考えました。現実に圧倒されると、目に見えない神に信頼するより、目に見える力や組織に寄り掛かろうとするものです。
 神の存在は信じているが、心配でしかたありません。それで、他国を真似して王を樹立して、軍隊を作り、生活と命を守ってもらおうと考えたのです。

 私は、40歳代で、職探しをしたことがあります。
 履歴書を書くときは、心が重くなりました。英語で履歴書をやっと書き終え、主に助けを祈りました。でも私は現実の重圧に押しつぶされそうでした。明日が見えません。家族5人で生活していけるのだろうか。手持ちの金がなくなったらどうしよう。日本に帰るチケット代すらない。悩みました。
 いくつかの会社に履歴書を送り、面接まで行ったのは3~4社。最終的には、新聞記者として採用されましたが、その途中は本当に辛かったです。
 イスラエルの人々が苦慮した背景を私は理解できます。でも、もう一度、自分たちがしている事の意味と後代への影響を深く顧みるべきでした。

主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」(7~9節)

 サムエルは民の意見を聞いて不機嫌になりましたが、主の導きを求めました。この姿勢は立派です。祈りはこんな時こそすべきものです。

 主の説明はこうです。イスラエルの民は出エジプト以来、神を捨て、他の神々に心を向けて来たが、それと同じことをしている。主の結論は、「民の声を聞きいれよ」でした。これは、民を行くがままに任せ、種をまけば必ず刈り取ることを体験させよという趣旨です。



2、警告

そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。(11節)

11~18節で、王制とは何かをサムエルは民に説明し、王に従うことがどんなに過酷かを警告しました。王政の本質は、人々から収奪することです。ですから「取る」という言葉が4回も繰り返されています。

・若い男たちは兵士として取られ、身を挺して王を守る。
・兵士たちに給料を支払うために、民の畑は取り上げられる。
・若い娘たちは、王宮に仕える下働きとして取られる。
・収穫の10%の税金を取られる。
・羊などの10%を取られる。
・民は、王の奴隷となる。

サムエルは、王の権利を語るだけで、王のあるべき姿や義務を語りません。王の力がどれほど強大なのか、結局は奴隷に落ちるのだと警告しました。
なお、申命記17:14~20には、王の義務が書かれています。王は高慢にならず、神にそむかず、自分のために武力も妻も金銀も増やすなという命令が書いてあります。王ほど誘惑の大きな地位は他にないのです。

サムエルは、蒔いた種は必ず刈り取ると警告しました。

その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。(18節)



3、幻想に酔う民

それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(19~20節)

民は王を理想化しました。
公正さと犠牲心を持つ者が王を期待しました。果たして、一兵卒の前に飛び出し敵の攻撃を一身に集める王がいるでしょうか。自分の利益を後回しにして国民の幸福を第一にする王がいるでしょうか。親がどんなに警告してもその道に突き進む10代の若者とよく似ています。
この後のユダヤの王の歴史を見れば、王政の現実がどんなに悲惨か分かります。ほんの数%の金持ちが世界を支配している現代と構図は変わりません。

主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」(22節)

7章でサムエルが言ったように、主に帰り、主に心を向け、主に仕え、隣人を愛していくことが人間本来の生き方であり、幸せの源なのです。

 ニック・ブイチチ君(Nick Vujcic)は今31歳、両手両足を持たずに生まれてきましたが、神を信じる両親に育てられ、今、多くの人を励ましています。水泳、スケボー、釣り、色々なスポーツを楽しむ前向きな生き方をしながら、主イエスが救い主であることを世界の人に伝えています。「人と違うことの中にこそ神からの使命がある」、とニックは言っています。
 私たちは周囲の人と同じようになれれば安心し、なれなければ時落胆します。ニックは人と同じにはなれませんが、主が与えたユニークな生き方や使命を生きています。

 あなたは周囲の誰かのマネをして、平均的な人になることを求めていますか。そんなの、一つも面白くありません。イスラエルの人々は、「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」と願いました。まことの神を知らない異国の人々のまねをして、神への信頼を忘れてしまいました。

 →あなたの番です 
□王に頼るのではなく、神を信頼しましょう。
□武力や国力ではなく、神の愛と守りに目を留めましょう。
□周囲と同じで平均的生き方にごまかされず、ユニークで自分らしい生き方を求めましょう。
 □現実的な問題に直面した時こそ、生きておられる神に頼りましょう。

「私と私の家とは、主に仕える」(ヨシュア24:15)



エベン・エゼル 第1サムエル7:1~17


 アメリカに駐在者として生活した人が帰国する際、米国で買った家具や電気製品などを安く売ったり、知人に無料であげて、飛行機に乗る。帰る時は、捨てるべきものがある。
 今日は、主に帰る、というテーマを扱う。


1、主に帰る

その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。(第1サムエル7:2)

空白の20年が過ぎた。神を忘れ去った20年だった。神に逆らった20年だった。神の箱はキルヤテ・エアリムに仮に置かれて20年間も放置されていた。
ペリシテに敗北したイスラエルは、復興の糸口もつかめず、ペリシテ人の圧迫に20年間苦しめられた。そして、ついに神を求めた。あなたにも空白の20年があるはずです。
 神から離れていた人々は何をどうしたらいいのか分からないので、サムエルは短い言葉で、なすべきことを教えた。

そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」(3節)

主に帰れ。それは、後の預言者たちが何度も語るフレーズですが、私の調べたところによると、旧約聖書で一番最初に使ったのは、今日の箇所のサムエルでしょう。
イスラエルの人々も、あなたも、実家を飛び出して放浪している。主はあなたの心の実家だから、ただ、そのままで帰ればいい。不必要な荷物は捨てる。つまり、悔い改めて、外国の神々を捨て、罪を告白する。心一つで主に帰ればいい。実家にはあなたが必要なものはすべてある。主を尊敬し、主を愛し、主と共に生きる。それだけだ。
信仰を持つとは、主に帰ることなのです。

彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。「私たちは主に対して罪を犯しました。」こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。(6節)

 サムエルは皆の前で水を注いだ。水は、悔い改めた心を象徴している。悔い改めた心は、最も低い心、柔らかな心、澄んだ心だ。私たちも、水のように悔い改めよう。

 上司とのトラブルをきっかけに行方不明になった若い社員がいました。実家のお母さんは心配して、心当たりの繁華街に出掛けて行って行方を探しました。ある日、買い物から帰ると息子が玄関口に立っていました。「ここはあなたの家よ。そんな所に立っていないで、家に入りなさい」と呼びかけると、息子は入ってきたといいます。

 主に帰りましょう。成功談も、お土産も、いりません。水のように注ぎ出された心だけを持って、主に帰ればいいのです。
 主は放蕩息子の父のように、あなたを受け入れてくれます。



2、サムエルが祈る

 ペリシテ人はイスラエルの動きを見て戦いの準備と勘違いしました。私たちが主のもとに戻ると、「敵」は行動を開始します。

そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。(8~9節)

 主に立ち返った人々は20年前の失敗は繰り返しません。敵が間近に迫っていても、サムエルに祈りの要請をしました。神の助けを信じたのです。
サムエルの祈りには力がありました。「サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。」(詩篇99:6)

サムエルは子羊のいけにえをささげました。かわいい、乳離れしていない小さな羊がささげられるのは旧約聖書でも異例です。主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と呼ばれたことを思い出します。

戦いの勝敗は、人数の多さや勇敢さとは関係なく、神の御手にあるのです。サムエルが祈り、主を礼拝し、全焼のいけにえをささげていると、ペリシテ人の上空で強烈な雷鳴が起きました。イスラエルはその混乱に乗じて、勝利をおさめました。

サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。(10節)

ペリシテ人に占領されていた5つの町まで取り戻し(14節)、戦勝記念に石を一つ据え、「エベン・エゼル」と名づけました。エベンは石、エゼルは助ける。
あなたの番です。主の恵みを受けた時に何かの記念を残しましょう。ノートに記録しましょう。その日を記念日にするのもいいです。感謝する、心に刻む、思い起こす、歌を作る、主をたたえる。どんな方法でも、主の恵みを大切にしましょう。そういう経験の一つ一つが、主との結びつきを深めてくれます。

サムエルはこの後、イスラエルのリーダーとして人々を導きました。「サムエルは、一生の間、イスラエルをさばいた。」(15節)

現代は、サムエルのような、心の指導者、祈り手が必要です。あなたが、家庭でサムエルになってください。学校で、会社で、身近なコミュニティーで、サムエルになってください。祈って下さいと誰かに頼まれる人になりましょう。

→あなたの番です
 □主に帰る
 □あなたの「エベン・エゼル」を作る
 □あなたが、サムエルになる

「わたしに帰れ」(ゼカリヤ1:3)

第1サムエル6:1~21 進む雌牛


 虫歯ができた時、あなたは、すぐ歯医者に行きますか、耐えられないほど辛くなるまで放置しますか。ペリシテ人は後者でした。
 
1、7ヶ月間の放置

 ペリシテ人は7ヶ月間、ただ様子を見ていた。問題解決は先延ばしになった。

主の箱は七か月もペリシテ人の野にあった。(第1サムエル6:1)

 神の御手による病はペリシテ人の地域から去らなかった。神の箱をたらい回しにしたり、野に放置すれば問題は去って行くと思ったが、そうはいかなかった。
そこで、ペリシテの領主たちは、やっと重い腰を挙げ、祭司や占い師を呼び助言を求めた。ペリシテの祭司たちは、「神の手があなたがたから去らない」(3節)原因がイスラエルの神をないがしろにしたことにあると理解し、「エジプト人とパロが心をかたくなにしたように、心をかたくなにするのですか。」(5節)とペリシテ人領主たちの戦勝者のおごりを戒めた。

 私たちも変化を喜ばない者です。同じ事を繰り返している中で、何となく問題が解決することを望みます。でも、問題は悪化するばかりです。

いつもの周回軌道から脱出する勇気を持ちましょう。それが、生きた信仰です。



2、償い

すると彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。それに対して、必ず罪過のためのいけにえを返さなければなりません。そうすれば、あなたがたはいやされましょう。なぜ、神の手があなたがたから去らないかがわかるでしょう。」(3節)

 まことの神を知らないペリシテの祭司や占い師ですら、道理をわきまえていました。イスラエルから神の箱を奪ったのだから、第一に神の箱を返還し、第二に償いをしなさいと助言しました。

 レビ記に規定された「罪過のためのいけにえ」(参考:レビ記6:1~7)は、これと同じ発想に基づいたささげものです。人の物を奪ったり、壊したりした時は、現状回復を行い、5分の1を損賠賠償として償い、神にいけにえをささげるのです。

ハワイ沖、2001年2月、潜水艦グリーンビルが練習船えひめ丸に衝突して9人の命が失われました。スコット・ワドル(Scott Waddle)艦長は、実はクリスチャンでした。
事故が起きた週末、ワドル艦長はいつも出席していたハワイの教会の礼拝に参加しました。彼の著書「The Right Thing」を読むと、最初からワドル艦長は自分の非を全面的に認め、9人の死を悼み、遺族に直接謝罪したいと願い、かつ、行動していたことが分かります。でも、米国海軍はそれを許可しませんでした。
ワドル艦長は翌年12月、宇和島水産高校を訪れ、記念碑の前に花をささげ、涙と共に祈りをささげました。学校側も遺族も謝罪を拒絶、関係者の臨席が無い中、多数の報道陣とカメラだけに囲まれて、彼のなすべきことをしました。10年後の追悼記念会にも遺族の許可が得られるなら参加したいとの意向も表していました。

私たちの番です。心を込めた謝罪の言葉、現状回復、誠意を伴った金銭や物品による償いをしませんか。

失敗を失敗だけで終わらせず、神に栄光を帰す機会にもできるのです。

あなたがたの腫物の像と、この地を荒らしたねずみの像を作り、イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。(5節)



3、生きておられる主

 ペリシテの祭司たちは、牛に引かせた車に神の箱を乗せイスラエルに返還するようにとアドバイスしました。ただし、くびきを付けたことのない雌牛2頭を用い、子牛を牛小屋に残し、誰も道案内せずに、好きに行かせなさいと言うのです。

すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。(12節)

くびき初体験の牛は暴れます。乳を飲ませている雌牛なら子牛の小屋にもどります。ところが、雌牛2頭はイスラエル領地を目指し斜面を登り、東に進み、右にも左にもそれずにベテ・シェメシュに到着しました。雌牛は、自分の意思に反して進むことを嫌うかのように、鳴き続けました。(10~12節)

ペリシテの領主は一部始終を見届けました。ベテ・シェメシュはレビ人の町(ヨシュア21:16)なので人々は神の御名をあがめ、牛をいけにえにしてささげました。
主は生きておられます。異教の世界でも、主はご自分の方法で栄光を表されました。主は、私たちの予測を超えた、すばらしい事をなさる方です。

 私は、「お前は、馬鹿なことをしたな」と言われたいと思います。人から見たら愚かなこと、無駄な事でも、主イエスが良くやったと言ってくれるならそれが喜びです。


 →あなたの番です
 □安定軌道から脱出する時です
 □謝罪とつぐないを心を込めてしましょう



第1サムエル5:1~12 困った、どうしよう


 
 イスラエル人が一人も登場しない。極めて異例な聖書箇所が5章です。
異教の神殿に奉納された神の箱は、どうなるのか。


1、ひれ伏すダゴン像

 神の箱は、アカシヤ材で造られ、長さは約1.2m、高さも幅も約67cmの箱で、外側を純金が覆っていた。中には、モーセの十戒が書かれた石の板が収められている。神の箱は、イスラエル人の礼拝施設の一番奥の至聖所に置かれる最も大切なものだった。

ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。(第1サムエル5:1~2)

ペリシテ人は、戦いで勝利すると、宿敵の首や戦利品を神殿に奉納する習慣があった。士師記16:23~27によると、ペリシテ人は宿敵サムソンを捕らえ盲目にしてダゴンの宮で3000人の観衆の前で見世物にしたこともあった。第1歴代誌10:8~10によれば、イスラエルの初代王サウルの首はダゴンの神殿に並べられた。今日の箇所では、奪い取った神の箱はダゴンの神殿に置かれた。だが、その翌日、不思議な事が起きた。

アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。(3節)

 ダゴンの像は、上半身が人間で下半身が魚の形をした像だと言われている。神の箱を置いた翌朝、そのダゴンの像が、まるで神の箱を拝んでいるように地にひれ伏していた。あわてて元あった場所に像を戻したが、その次の日、再び像は倒れていた。

次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。(4節)

 頭部は知恵を、両手は力を象徴する部位。ダゴンの神は主の前に何もできない存在であると示した倒れ方だ。

 さらに、腫瘍ができる伝染病が発生、多くの者が苦しみ、亡くなりました。(6節)

アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」(7節)

ペリシテ人は、ダゴンを守らなくちゃ、と考えました。人間が神を助ける? 逆です。



2、どうしたらいいのか、神の箱

それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。(8節)

主の力を目の当たりにしても、ペリシテ人は主を礼拝する姿勢は取らず、神の箱を他の町に引き取ってもらうという安直な解決手段を取りました。
 ガテでもアシュドデと同じ被害を受けたので、北方にあるエクロンに送ろうと計画しましたが、その町の住民が大反対しました。(10節)

そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。(11節)

 結局、神の箱はイスラエルに返すことに決めました。
イスラエル人に信仰復興が起こったわけではありませんし、勇気を出して神の箱を奪い返したのでもありません。そんな力も信仰もイスラエルにはありませんでした。でも、神の箱はペリシテ人の手によってイスラエルに戻ろうとしています。神は、栄光を失ったのでしょうか。いいえ、ここに栄光が表れているのです。

自分が罪を犯したから、何も良いことは起きないだろう。そう考えるクリスチャンは多いです。また、自分は神の前にだらしない歩みをしているので、自分の周囲の人が信仰を持つはずはないと考える人も多いです。
さて、この考え方は正しいのでしょうか。今日の箇所からいうなら、間違っています。イスラエルの人々が敗北し、罪を犯し、すべての気力が失せていた時に、ダゴンの神殿で像が倒れ、神のさばきが町々に及びました。
あなたや私の状態に関係なく、神は神のお考えに基づいて物事を進め、ご自身の栄光を現します。

幕末から明治時代にかけて活躍した人物の中に、聖書を読んで影響を受けた人が多数いました。新島襄は、クリスチャンの知人もいないし、キリスト教を教えてくれる人にも出会ったことがありませんが、漢語訳聖書の抜粋を読んで天地がひっくり返るほど驚き、単純な信仰を持って、国禁を犯してアメリカに学びに出かけました。
また、西郷隆盛が漢訳聖書を読んだことは歴史的事実で、「敬天愛人」という彼のモットーは、心を尽くして神を愛し隣人を自分のように愛せという主イエスの教えの影響を否定することは難しいでしょう。
ジョン万次郎はマサチューセッツで学んでいた頃、礼拝に出席しました。勝海舟も、咸臨丸でサンフランシスコに約1か月滞在した時、礼拝に出席しました。咸臨丸に乗った福沢諭吉も、自分の子供たちに西洋の神のGODを敬えと教えています。
自由民権運動に関わった人々にはクリスチャンになった者もいて、板垣退助の息子や片岡健吉などが挙げられます。
主イエスを信じて生きる人が少なく、キリスト教禁教下の日本という最悪な環境でしたが、幕末から明治にかけて主は多くの日本人に聖書との接点を与えてくれました。

神を知らない人々の真ん中で、神は神のみこころを行い、栄光を現されるのです。私たちの生きている不信仰な世界にも、神は神の方法で事を行われます。

主は、弱い者や取るに足らない者、見下された者、無に等しい者を選び用いられます。(第1コリント1:26~31)それは、「神の御前でだれをも誇らせないためです。」(第1コリント1:29)私たちの弱さや失敗をはるかに超えた領域で、主は力強く働いておられます。

 →あなたの番です
 □神は人の助けを必要とせず、ご自身の栄光を現される   □弱さの中で主を誇ろう