第1コリント3:1~23 キリストが土台


 信仰的なプライドは、実に空虚なものです。

1、幼子だから

 コリント教会の仲間割れ問題は3章でも取り上げられています。

 コリントの教会の人は、次のように考えたのでしょう。「私はパウロ先生から直接学んだから、私は特別なクリスチャンだ」とか、「博学のアポロ先生の教えのほうが深いし、私はアポロ先生にほめてもらったので群を抜いた信仰レベルに達した」と。両者がグループを作って自慢し、対立していました。

ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(4~7節)

 パウロに属すとかアポロに属すとかで「ねたみや争いがある」(3節)なら、「キリストにある幼子」であり、「御霊に属する人」とは呼べず、神を知らない人と何ら変わらないとパウロは指摘しました。

自分の所属する教会の牧師を批判し、有名な伝道者のファンになって遠方の集会に出席し、悪口仲間を集め、教会のメンバーと勢力争いをして、自分は普通の信者と違うというエリート意識を持つなら、パウロの言うとおりの「幼子」です。

 私も、恥ずかしい話ですが、信仰面で一つだけ強いプライドを持っていた時期がありました。<神への誠実さは誰にも負けない> 今考えると、この自信は空虚なものでした。誰にも負けないという発想がすでに間違っています。明らかにエリート意識がありました。

あなたは空疎な信仰的プライドを持っていませんか。祈りの時に特殊な言葉が使えるとか、賛美の時に我を忘れて歌えるとか、聖書研究の時に気のきいたコメントが言えるとか、祈ったら病気の人が元気になったとか、自分がスペシャルだと錯覚していませんか。信仰レベルが人より高いと考えた人こそが、何も分かっていない幼子なのです。

 「私が植えて、アポロが水を注ぎました」(6節)とパウロは言いました。教会のない所で福音を語り教会をスタートさせたのがパウロの主な役割で、既存の教会を豊かにするために用いられたのがアポロでした。パウロもアポロも本質は同じで、教会を育て上げる主の働き人です。大切なのは、育てて下さる神です。そして、私達は神に育てられているのです。だから、プライドは何もないはずです。誇るならキリストを誇る。誇るなら自分の弱さを誇るだけです。


2、キリストを土台とする

 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(10~11節)

 誰よりも奮闘し、命をかけて福音を伝えたパウロは、自分のことを「与えられた神の恵みによって」(10節)建築家にされたと考えました。こういう謙虚な人が御霊に属する人です。

 パウロはクリスチャンを植物にたとえた後、今度は、建物にたとえました。大事なのは土台であり、その土台はキリストだと述べます。人柄の良さや道徳的熱心さ、知的理解の深さ、奉仕や伝道への貢献度は土台になりません。

 私たちは皆キリストを土台として家を建てます。それが、私達の信仰であり、信仰生活そのものです。ただし、家を建てる材質は人によって違います。金や銀を使う人もいれば、草やわらで作る人もいます。

 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(13~14節)

 人生には火のような試練が襲って来る時があります。その時、一人一人がどのような素材で信仰の家を建てたかが明白になります。

 人生の試練で、気がつくと何もかも失ったという人もいるでしょう。その時、決してなくならないのが土台である主イエスです。

 私たちも、パウロのような謙虚な人にさせて頂きましょう。
 主イエスを信じると告白した時、私達の人間的な誇りはこっぱみじんに吹き飛んだはずです。ただ主の恵みによって、十字架の死によって救われたのですから、人間的なものを誇ることを止め、十字架の主イエスだけを誇りましょう。信仰的なエリート意識なんて実態がないのです。

「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。」(21節)

→あなたの番です
□信仰のエリート意識は捨てる
 □主イエスを信仰の土台にすえる
 □謙虚な心で、信仰の仲間と共に生きる


第1コリント2:1~16 神の知恵


 コリント教会で起きた仲間割れは、知的プライドに原因があるとパウロは見抜きました。人間的な知恵に偏重せずに、御霊に頼れ、というのが第1コリント2章の内容です。

 主イエスは十字架の前に、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。」(ヨハネ16:7)と語り、御霊が来ることの幸いを予告されたことを思い起こしてください。

  今日は、御霊に焦点を当てましょう。

1、御霊によって福音を語る

 パウロは、コリントにおいて、心に決めたことがありました。御霊によって語ると決意していたのです。十字架のイエスだけを語ろうと心に決めたのです。

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。(第1コリント2:1~2)

パウロは、コリントに来る前にアテネで伝道しました。哲学の本場アテネでエピクロス派やストア派の哲学者に負けじと議論しました。(使徒17:16~34)今までとは違う語り口で、つまり哲学の言葉や論理を駆使した福音を語ったのでしょう。けれども、反応はおもわしくなく、開拓伝道は行き詰まり、教会を立ち上げることは出来ませんでした。アテネを去り、西に50マイルほどのコリントに到着した時には、「弱く、恐れおののいていました。」(3節)と述懐するほど意気消沈していたのです。

そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(4~5節)

 この説明は、キャンパスクルセードによる伝道の定義を思い起こさせてくれます。「伝道とは、御霊により、分かりやすくイエスを伝え、結果は神にまかせること。」

 9節にあるように福音とは人間が想像も及ばない事でした。聞いたことも、見たことも、人間の心に思い浮かんだこともない十字架の福音でした。神が人となり私たちの罪を背負って身代わりに死んで下さるという事は、まさに神の知恵なのです。それは、世の始まる前に神が定めた福音でした。(7節)だから、人間の知恵や説得術では福音本来の力を発揮することができないのです。福音は御霊によって語るものなのです。

十二弟子の一人ペテロは、学歴のない漁師でした。「ことばのなまりではっきりわかる」(マタイ26:73)と言われたほどの田舎者でした。
そのペテロが主イエスの昇天後、熱心に伝道し、当局に逮捕され、最高権力者たちの前で尋問されたことがありました。「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。」(使徒4:8)とありますが、ペテロの受け答えを見て国会議員や律法学者たちは舌を巻きました。「ペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いた」(使徒4:13)のです。学歴がなくても、方言丸出しであっても、神に祈り、聖霊に頼って語る時、神のことば本来の輝きが出てくるのです。

ある人が弟を教会の日曜礼拝に連れて行きました。その時に語られた牧師先生は田舎の言葉丸出しで主イエスの十字架と復活だけをとつとつと語ったそうです。弟を連れて行った当人は頭を抱えてしまいました。だめだ。理系の大学を出たインテリで共産主義の活動家の弟にこんな話は通用しない。礼拝を終わると、その弟は「イエスさまを救い主として信じる」と言いました。理由を聞くと、唯物思想も共産主義も私を救えなかったけれど、私のために十字架で死んでよみがえってくださった神の子イエスなら私を救えると思ったそうです。

あなたも、聖霊に頼って、十字架のイエスを宣教しませんか。



2、御霊によって理解すること

 主イエスを伝える時に御霊によって語るなら、神の言葉を聞く時も御霊の助けが必要です。

主イエスの十字架を知的に理解しようとしても、ある部分までで終わってしまいます。御霊の助けをもらうと、私たちの心の深い部分で理解できるようになります。御霊は、神の心の深みにまで到達しているので、神の心を私達に直接分からせてくれるのです。

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。(10~12節)

 この世に生を受けて生まれた人間は、最初、御霊に関することは、まったく理解できません。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(14節)

 I surrender allという有名な聖歌があります。折り返しの部分はこうです。
I surrender all, I surrender all,
All to thee, my blessed Savior,I surrender all.
作詞者のJudson W. Van DeVenter (1855–1939)は、自分の賜物をセキュラーの世界で用いて有名になるか、すべてを明け渡して伝道者として主に仕えるか、思い悩んだ末に主に人生を明け渡すことにして、その時の決意を歌にしました。降伏します。身を任せます。明け渡します。そういう心を持って神の前に出る時、御霊は私たちの中に自由に働いて下さいます。

 私たちは徹頭徹尾、罪人です。性格や人格や行動パターに大きな欠陥を抱えています。知的理解が有限で偏りがあります。そういう私たちが、自分の不完全さに気づいて、御霊に耳を傾けることは当然のことです。罪を悔い改める謙虚な低い心になって聖書の言葉に向かうと、御霊が大切な事を教えてくれます。

耳を傾けましょう、御霊に。ゆだねましょう、御霊に。

私は高校時代にフェンシングをしていましたが、剣を握る時に競技用の手袋を使っていました。冬は、部室に放置した手袋が硬直して使いにくくなります。
私たちは神が使用する手袋のようなものです。私達が我を張ったら、神は神の計画を実行できません。柔らかな手袋なら、持ち主が自由に動けます。御霊の声に耳を傾け、御霊の励ましを受けて動く。それは最も神の栄光を表す方法です。

「私たちには、キリストの心があるのです。」(16節)

→あなたの番です
 □御霊によって、十字架の主イエスを伝えましょう
 □謙虚な心で御霊の声を聞き、自分をゆだねましょう


第1コリント1:1~31 十字架の言葉


 コリント人への手紙第1を1章ごとに見ていきましょう。
 今回のテーマは仲間割れです。

1、神の教会と聖徒たち

 コリントは、ギリシア半島南にある通商と政治の中心をなす巨大都市でした。東の港ケンクレヤと西の港レカイオンの距離がわずか8kmという地峡を生かして、船の積荷がコリントで積み替えられ活況を呈していました。「コリント風」という言葉が当時、みだらなことを意味したのは、町の南にあったアフロディト神殿に神殿娼婦が1000人いたせいでしょう。

 パウロは紀元50年、第2回伝道旅行でコリントを訪れ1年半滞在して教会を立ち上げ、母教会のアンテオケに戻りました。数年たった紀元55年ごろ、パウロは滞在中のエペソでコリント人への手紙第1を書きました。
 
 コリント教会は極めて問題の多い教会でした。この問題の教会のおかげで、今日、私たちが珠玉の言葉を手にしていることは主の節理としか言いようがありません。
 コリント手紙への手紙第1は、コリント人の質問にパウロが回答する形をとっています。テーマは、仲間割れ、性的不道徳、結婚の乱れ、偶像礼拝との関わり、御霊の賜物の取り扱い方、復活に対する疑問などです。

コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。(第1コリント1:2)

コリント教会にどんな問題があろうと、また、自分が開拓した教会であろうと、パウロにとっては「神の教会」でした。どんなに少数の集まりでも、礼拝堂がどんな建物であっても、教会は神の教会なのです。神の教会に所属しているという意識はとても大切です。
 また、コリント教会の人々がどんなに問題が多く、あきれた人々であっても、キリストによって「聖徒」とされた人々であることをパウロは忘れていませんでした。彼らもまた、「聖なるものとされた」人々なのです。



2、仲間割れ

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。(10~12節)

「仲間割れ」「争い」という言葉から分かるように、パウロが最初に取り上げた問題は教会内で起きた仲間割れでした。
パウロがコリント教会を去った後、アポロという伝道者がコリントにやって来て、かなりの人気を得たようです。アポロについては使徒18:24~28節に言及されていますが、「雄弁なアポロ」(使徒18:24)とあるように、パウロと違うタイプでインテリジェンスを感じさせる伝道者だったのでしょう。もしかしたら、パウロより若くて、イケメンだったのでしょうか。コリント教会にはパウロ派とアポロ派ができて対立しました。どちが正しいかという議論や感情的なぶつかり合いが起きて、教会内がぎくしゃくしたことでしょう。

仲間割れは、人のいる所なら必ず起こることです。学校でも、職場でも、国家間でも分裂や対立があります。親戚や兄弟、夫婦の中でも仲間割れが起きます。あなたの周囲に、仲間割れがありませんか。
現代の教会でも仲間割れが起きます。たとえば、著名な伝道者に心酔して自分の所属する教会の牧師を批判し、その伝道者のCDやDVDや本を周囲の人に渡して仲間を作り、教会を分裂させたという話は山ほどあります。有名牧師から洗礼を受けたことを、プライドにしているクリスチャンもいます。パウロが聞いたらきっと嘆くでしょう。パウロはそうした問題を見越して、自分では少数の者にしかバプテスマを授けていませんでした。(1:14~16)

あなたが、仲間割れの張本人になっていませんか。自分だけが正しく、他人は間違っていると固く思い込んでいませんか。何度も何度も、特定の一人の悪口を言うときは、自分の姿勢や態度や動機を点検する必要があります。

「主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」(10節)



3、十字架のことば

 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(18~21節)

 パウロは哲学の聖地、ギリシャで、難しい哲学を駆使したり、知識をひけらかすような手法を取りませんでした。当時の知識人から見れば、愚かに見えた福音でした。でも、十字架の言葉こそ力があるのです。「宣教のことばの愚かさ」の中に神の知恵が満ちているのです。

 仲間割れのテーマは1~4章で取り上げています。1章において、仲間割れ問題の解決策として提示されたのが、「キリストの十字架」でした。
 「キリストの十字架」(17節)
 「十字架のことば」(18節)
 「十字架につけられたキリスト」(23節)

 仲間割れの根本原因はプライドです。空虚でつまらないプライドが分派を起こします。自分は有名な伝道者から教えを受け〃悟り〃を得たハイレベルのクリスチャンだ、スピリチュアリティーの高い信仰者になったので普通の人とは違うと思い込む事が原因だったのです。
 十字架につけられた主イエスの姿を見るなら、私達のくだらないプライドは砕かれます。「神の御前でだれをも誇らせないため」(1:29)なのです。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(22~24節)

 「愚かな者」、「弱い者」、「取るに足らない者」(27~28節)である私達が選ばれ、キリストによって義とされ、聖められた(30節)ことに気づけば、プライド意識は吹き飛びます。

 エミーちゃんという女の子がクリスマスにおばあちゃんからプレゼントをもらいました。開けてみると可愛い人形でした。エミーちゃんは一日中、その人形で遊びましたが、夜になると古い人形を出してきました。髪の毛も随分ぬけて、腕も片方しかなく、片目は開きません。エミーちゃんは言いました。「おばあちゃん、プレゼントの人形をありがとう。でも、私はこの古い人形が大事なの。だって、この子を好きなのは、私だけだから。」

 エミーちゃんの古い人形は私の姿だと思うのです。いかがですか。
 取るに足りない私のために、イエスさまは十字架で死んで下さった。その主イエスの姿が私の心を打ちます。謙虚な心になります。プライドなど吹き飛びます。

 自分を振り返ってみましょう。仲間割れの原因を自分が作っていないか、心に隠れたプライドがないか。十字架だけを誇りと、十字架につけられた主イエスを伝えませんか。十字架の言葉こそ最もパワフルな言葉であり、仲間割れの本当の解決策なのです。

 「誇る者は主を誇れ」(31節)


 →あなたの番です
  □あなたが、仲間割れの原因を作っていませんか
  □つまらないプライドは捨てましょう
  □十字架の主イエスだけを誇りとしましょう


ピレモンへの手紙8~19節 送り出す教会 ―派遣するー


 送り出す教会シリーズ(2015)、3回目は「派遣する」です。
 私もあなたも、神から遣わされた存在であり、また、誰かを送り出す者です。


1、「遣わす」という言葉

遣わす。これは、聖書が語る大切な概念の一つです。なぜなら、旧約聖書の初めから新約聖書まで多くの箇所で使われている言葉だからです。
 遣わすとは、何かの目的を成し遂げるために、それにふさわしい人物を選び、特定の場所に送り出すことです。

 旧約聖書に目を留めましょう。ヨセフは、親族を食料危機から救うため、あらかじめエジプトに遣わされました。「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:5)モーセは、イスラエル民族をエジプトから救い出すため遣わされました。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト記3:10)ダビデの罪を指摘するために預言者ナタンが呼び出されました。「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。」(第2サムエル12:1)預言者を必要とした時に神は「誰を遣わそう」と語りかけ、イザヤが「ここに、わたしがおります。」と応答しました。(イザヤ6:8)

 新約聖書を見てみましょう。バプテスマのヨハネは神から遣わされた預言者でした。「神から遣わされたヨハネという人が現れた。」(ヨハネ1:6)主イエスは父から遣わされました。「父がわたしを遣わし」(ヨハネ6:57)主イエスは弟子を派遣されました。「わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)パウロも主イエスに遣わされました。「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。」(使徒22:21)

 これらの聖書箇所ですべて、「遣わす」という言葉が使われていました。聖書の神は、遣わす神です。主イエスは、遣わされた方であり、遣わす方です。

 私たちのオレンジコースト教会はアメリカにある日本人教会として特別な使命を主からもらっています。アメリカに来た日本人に主イエスを紹介し、その信仰を育てて日本に送り返す使命です。
 
 それと同時に、私たち個人も、主からの使命をもらっています。神は、あなたを、何かの目的のために、ある場所に遣わします。その目的とは何ですか。遣わされた場所とはどこですか。

あなたは神の派遣員です。神はあなたに大切な使命を託しておられます。




2、オネシモを派遣したパウロ

 本日の聖書箇所を読んでみましょう。ピレモンへの手紙は、パウロがオネシモを以前の主人のもとに遣わした時の手紙でした。

獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。(ピレモンへの手紙10~12節)

 オネシモはピレモンの家の奴隷でしたが逃亡し、ローマの獄中にいたパウロのもとに流れ着きました。そこで、オネシモは主イエスへの信仰告白に導かれ、パウロから信仰を学び、訓練を受け、成長しました。
パウロは、オネシモの将来を考え、主人ピレモンの家に戻ることが最も正しい道だと判断し、送り返しました。パウロに依頼されたテキコは、コロサイにあったピレモンの家までオネシモを連れ(コロサイ4:7~9)、パウロの手紙(ピレモンへの手紙)を渡しました。

 オネシモという名前は「有益な」という意味ですが、逃亡奴隷になって無益な存在になりました。でも、今は「役に立つ者」(11節)、「私の心そのもの」(12節)になったとパウロは太鼓判を押しました。この手紙はいわばオネシモの推薦状なのです。

 もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。(18~19節)

 オネシモが逃亡する際、主人から盗んだり金銭的被害を与えた可能性を考慮し、パウロ自身が損害賠償をすると手書きで署名までしています。パウロは、「さようなら」で終わりにせず、アフターケアにまで心を使っています。

 パウロのしたことは、送り出す教会のあるべき姿を体言しています。オネシモを救いに導き、信仰者として育て、最新の注意を払って本来いるべき場所に遣わしたからです。




3、実際に何をしたら良いのか

 何かの目的を成し遂げるために、それにふさわしい人物を、特定の場所に送り出すことが「遣わす」ことだと最初の述べました。

 アメリカで救われた人が日本で神の栄光を輝かせる人になってほしい。そう願って、育て、送り出します。新島襄、新渡戸稲造、内村鑑三、津田梅子のように、アメリカで信仰告白したり、信仰が強められた人々が日本に戻って大きな影響を残した歴史がありました。日本に遣わされたヘボンやクラーク博士なども日本人に深い印象を与えました。

 1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリー。仕事を終えた42歳の黒人女性がバスに乗っていました。エンパイア・シアターのバス亭で乗り込んで来た白人が、席を譲るように言いましたが、その黒人女性、ローザ・パークスは立ち上がりませんでした。それが理由で彼女は逮捕、拘留されました。黒人社会は、この事件をきっかけにバス乗車ボイコット運動を12月5日から開始しました。その運動の責任者として選ばれたのは、26歳という若さの牧師でした。マーティン・ルーサー・キング牧師です。困難を極めたプロテスト運動は11か月後に報われ、バスの座席分離自体が違法と認定され、勝利を得たのです。
 26歳の青年を指導者として選んだことには理由があったのでしょう。キング牧師は、その運動に「遣わされた」という感覚があったのだと思います。この後、キング牧師は命を削って運動の先頭に立ち、13年後に暗殺されました。キング牧師にしかできない使命を立派に果たしました。

 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。(エレミヤ1:6~7)

 預言者エレミヤは、神から使命を頂いても、自分は若くて未熟だという理由で拒絶しました。でも主は、若くても行って語れと命じました。主の目から見るなら、若いから選ばれたのですし、若さが必要だったのです。若いからこそ、長く主に仕えることができるのです。

 さあ、私たちも、自分自身が遣わされた場所で使命を果たしつつ、誰かを育てて遣わす者となりましょう。具体的には帰国する人がいたら以下のようなことをしてサポートしましょう。

 ・帰国前に、帰国準備の学びを共にして、帰国者を励ます。
 ・帰国後の出席予定教会を探し、現地でサポートしてくれる人とコンタクトを取る。
 ・帰国後も、連絡を取る。

 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)


 →あなたの番です
 □あなたは、何の目的で、どこに、遣わされていますか。
 □あなたは、誰を、どこに、送り出しますか。
 □送り出す人となるために、何をしたら良いですか。



使徒16:1~3 送り出す教会 ―育てるー



  送り出す教会シリーズ2015、2回目は「育てる」です。

 クリスチャンは何のために存在していますか。
 それは、誰かを育てるためです。

 もちろん、クリスチャンがこの世に存在する目的は他にもありますが、今日は上記のテーマに沿って考えましょう。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)と主イエスは命じました。あらゆる国に伝えなさいで終わっていません。弟子を作りなさい、つまり、誰かを育てなさいと命じているのです。主イエスが十二弟子にフォーカスしたことを考えるならば、弟子を育てることがどんなに大事か分かります。



1、テモテを育てたパウロ

それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。(使徒16:1~3)

紀元50年前後のことです。パウロは第2回伝道旅行に出かけ、現在のトルコ南部に位置する、ルステラという町に滞在しました。この町は、ローマ帝国による殖民都市のひとつと言われているので、少数のローマ市民(おそらく退役軍人)と教養のあるギリシア人が指導的立場を取り、ルカオニヤ語しか話せない一般庶民が多数を占めていたと思われます。

テモテは、父親からギリシア語と一般教養を学んでいたことでしょう。また、ユダヤ人の母ユニケから旧約聖書を学び、信じる心を教えられていました。(第2テモテ1:5、3:15)
パウロが第1回伝道旅行でユダヤ人に殺されかけたルステラに住んでいたテモテは、「ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人」(使徒16:2)となっていました。テモテの熱心な信仰姿勢が、こうした背景からも想像できます。

実は、第2回伝道旅行に出発する前、パウロは苦い経験をしています。(使徒15:36~41)第1回伝道旅行の途中で逃げ帰ったマルコを連れて行くことをパウロは反対し、恩人・メンター・盟友であるバルナバと喧嘩別れをしてしまったのです。この時のパウロは、マルコを育てる発想を持ち合わせていませんでした。

バルナバという偉大なメンターを失って、パウロは大きな喪失感を覚えたことでしょう。アンテオケ教会で1年間、伝道旅行で1年間、パウロはバルナバから多くを学びました。そんな頃なのです。パウロがテモテの存在に気づいたのは。
余談となりまずが、この後、彼らはピリピに立ち寄りますが、そこでパウロとシラスは投獄されますが、テモテは除外されました。客観的に見ても、テモテはまだ若造だったのです。

この後、パウロは自分が死ぬまでの約14年間、テモテを育て続けました。マルコを許せなかったパウロでしたが、第2テモテの手紙では、弱さや臆病心に負けたテモテ(第2テモテ1:6~8)を切り捨てずに励ましています。テモテは、OJT(オン・ザ・ジョブトレーニング)の形でパウロから多くを習得していきました。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)



2、私が誰かを育てる

P&Gは、世界的に有名な企業で、フォーチュン誌の調査によると社員の能力が世界1位と認められたことがあります。マネージャークラスの評価は、仕事や利益面で50%、部下を育てた功績が50%の査定を受けるといいます。本気で人材教育に力を入れているのですね。

あなたは、今、誰を育てていますか。誰を育てようと思いますか。
何を教えますか。どのように育てますか。

信仰告白したクリスチャンを育てる時の大事なポイントが二つあります。
①信仰の確信を持つこと(救いを頭と心できちんと理解する)
  ②信仰生活の基本を身に着ける(新しい行動スタイルを体得する)

 どのように育てるのでしょう。育てるために必須条件は次の3つです。
  ①顔を合わせて定期的に会う
  ②聖書を共に学ぶ
  ③何かを共に行う

 その人と会い、聖書を学び、語り合い、祈り合い、何かを共にします。それを定期的に続けると、人は育ちます。あなたが先輩のクリスチャンなら、あなたが育てる人に何が足りないのかが分かります。ディボーションを毎日できる人に育てましょう。優先順位を判断できるように励ましてあげましょう。
 あなたが体得したすべてを伝えれば良いのです。あなたが育てた人が、次の人を育てることができるように育てるのです。

 私は高校3年の7月に信仰告白し、翌年の4月、大学生になるとすぐ、教会の高校生クラスのスタッフになり、教える立場になりました。それが私にとって、本当に良かったのです。教えることにより、自分が最も学びました。ディボーションや生活態度や普段の意識もおのずと変化しました。

 教育学の世界で、Three Person Teachingという考え方があります。何かを聞いて、ふーんと終わるならすぐに忘れます。教える人、聞いた人、聞いた人から教わった人という3 Personが成立する流れを作ることが、最も効果的な学習方法になります。自分をその流れの真ん中の位置に置き、聞いた事を次に伝える姿勢を持つと吸収力がぜんぜん違います。教える人が一番学ぶのです。育てる人は苦労と涙と葛藤を経験しますが、育てた人だけにしか見えない景色を見ることになります。

 「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(第2テモテ2:2)

 この聖句ではなんと4 Personが意識されています。パウロ→テモテ→教える力のある忠実な人→その人から学ぶ人。

 さあ、あなたが育てる人になりましょう。
・親なら子供に教えましょう。
・あなたがメンターになって人を育てましょう。
・日曜学校の先生になりましょう。
・中学生や高校生を教えましょう。
・同じ年齢の主婦を集めてスモールグループを作りましょう。
・教会のミニストリーを立ち上げ、仲間を集めましょう。
・家庭集会を始めましょう。
・学生伝道のために家庭を開放しましょう。
・帰国する人のために学習会をしましょう。
・自分自身が教会のバイブルスタディーや祈祷会や男性集会に参加しましょう。
・自分自身がメンターから学びましょう。

 学生時代、教室で学んだことは、ほとんど忘れています。でも、あなたの身近にいた先輩から学んだことは忘れないものです。親身になって先輩が教えてくれたこと、見せてくれた後姿、あなたのために飛んで来てくれたこと、涙を流して一緒に祈ってくれたこと、主に対する熱い思い、これらの事があなたを育ててくれたはずです。信仰の先輩たちは、彼らの時間や思いや命さえ削ってあなたを育ててくれたはずです。今度は、私たちの番です。育てる人になりましょう。

「パウロは、このテモテを連れて行きたかった」(使徒16:3)

→あなたの番です。
□あなたが育てるテモテは誰ですか。
□教える人が最も多く学びます。
□そのために、祈って第一歩を踏み出しましょう。
 

ルカ5:27~32 送り出す教会 -迎えるー

 これから「送り出す教会」というテーマで3回のメッセージをお届けします。今日は、その第1回で、迎えるということを考えましょう。

1、主イエスは目を留めた

 小学校の4年生ごろだったと記憶していますが、私は同じクラスのますみちゃんに「教会学校に行かない」と誘われました。髪が長くて、頭が良くて、明るい性格で、ピアノが弾けて、きれいな彼女に誘われてノーと言うはずがありません。喜んで教会に行きました。
 当時の私は、ハンサムで、成績優秀、優しい男性生徒だったので(笑)、私を選んでくれたのだと思います。(思い込みが強いです)

 主イエスが取税人のレビに声をかけて誘った事は驚くべきことでした。

この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。(ルカ5:27~28)

ローマ帝国では、国が税金を集めずに、徴税請負人(プブリカニ)に委託するシステムが全土で行われていました。ユダヤでもそうです。徴税請負人は、いわば民間企業ですから、十分の一税や様々な税金に自分たちの儲けを上乗せして集めました。税金が支払えない場合は徴税請負人が肩代わりし、後に利息を乗せて請求し、払えない一般人は奴隷として売られました。主イエスは、こんな「取税人」を十二弟子の一員にしたのです。

 徴税請負人は、冷酷で情け知らず、卑劣な人間のくず、自分の繁栄しか考えない金の亡者と思われていたことでしょう。ところが、主イエスは、そんな取税人のレビに声をかけました。

主イエスの3つのアクションに注意して下さい。出て行く、目を留める、話しかける。それが主イエスのされたことです。レビが主イエスに興味を持ったのではありません。主イエスがレビに目を留めました。自分の安全地帯から離れて、出ていくことが愛です。自分から目を留めることが愛です。自分から声をかける事が愛です。

神について何も分からず、思い込みが強く、迷信や流行や思想の影響下にあり、罪意識のひとかけらもない取税人のレビでした。でも、そのレビに、主イエスが声をかけたのです。

私たちが主イエスを選んだのではありません。主イエスが選ばれたのです。主イエスが、取税人の私に目を留めて下さったのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)


2、レビがパーティーを開いた

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:29~32)

 主イエスが罪人を招く目的は、「罪人を招いて、悔い改めさせるため」(32節)でした。レビも、罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じたので弟子となりました。

 29節の「レビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをした」という記述をに注目して下さい。
 主イエスさまに声をかけてもらって、目が開いて、イエスさまについていくことになり。それがあまりに嬉しくて、感謝があふれて、イエスさまにごちそうしたくなったのです。レビの開催した豪華な自宅パーティーの目的は、主イエスのためだったのです。

伝道とか、あかしとか、誰かを迎える事は、主イエスへの感謝が原動力になってはじめてできることなのです。

 このレビとは、十二弟子のマタイと同一人物です。興味深いことなのですが、十二弟子の名前のリストが福音書に3ヶ所がありますが、マタイの福音書だけが「取税人マタイ」(マタイ10:3)となっています。マルコもルカも遠慮してマタイの過去に沈黙していますが、マタイは自分が主イエスから受けた特別の哀れみを忘れないため取税人としての過去をあえて書き記したのでしょう。
 あなたが自分の名前をノートに書くなら、何と書きますか。「取税人マタイ」の取税人の箇所にどんな言葉が入りますか。私なら、「ろくでなしの平湯晴彦」「最低の男、平湯晴彦」と書くことができます。でも、そんな私を愛し、救い、新しい命を与え、生きる希望を下さった主イエスにお礼がしたいです。主イエスにお礼のご馳走をしたいです。



3、私たちのパーティー

 私たちも主イエスと同じようにしてみましょう。身近な誰かのところに出て行きましょう。目を留めましょう。言葉をかけましょう。
 レビと同じようにすることもできます。誰かを招いて、一緒に食事をしましょう。相手の悩みを親身に聞き、心を通わせ、自分を救ってくれた主イエスを紹介しましょう。

 誰に目を留めたら良いのでしょう。2つのタイプの人とは自然に語り合えます。
 ①あなたに似ている人。②あなたが具体的に助けて応援できる後輩。

あなたに似た人とは、年齢が近い、境遇が同じ人です。男性なら男性に、女性なら女性を招きましょう。異性への伝道は止めましょう。混乱と誘惑を作るだけですから。レビは、自分に似ている人、つまり、同業者の取税人や世間から後ろ指を指される罪人を招きました。

 あなたが何かを先に経験しているなら、これからそれを経験する人を具体的に助けたり支援したりできますね。あなたが、アメリカで結婚した人、アメリカで出産した人、アメリカで子供を学校に入れた人なら、最近カリフォルニアに来た親子を助けられます。アルツハイマーの家族をケアしている人、問題のある子を抱えている人、夫婦問題で苦労した人、そういう人は先輩として後輩を励ますことができます。

 さあ、あなたの番です。聖書の言葉を聞いたら、行動してみましょう。祈りのノートに、イエスさまを信じてほしい人の名前を書き入れ、祈り、思い切って食事に誘いましょう。
 あなたがレビになる時です。

 →あなたの番です
 □私も「取税人マタイ」です
 □私を救ってくれてありがとう、と主イエスに心から感謝する
 □似ている人や後輩を食事に招いてみましょう


イザヤ43:18~21 新しい事


 新車。新婚。新大陸。新学期。新人。新生児。新年。
 不思議ですね、新しいという言葉が付くだけで新鮮になります。
 どうしたら新しくなれるのかを、考えてみましょう。

1、新しい事をする神

 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。」(イザヤ43:16~17)

 かつてイスラエルの民はエジプトで奴隷生活を余儀なくされました。逃げようとしても、紅海が道をはばみました。ところが、神は今まで考えつかないような新しい方法でイスラエルの民を助け出して下さいました。海に道を作られたのです。海の中の道です。

 今日の箇所で、神は再び新しい事をすると語られました。「海の中の道」ではなく、「荒野に道」という方法によってです。

 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(19節)

 イザヤが活躍した時代はユダ王国の末期でした。つまり、イスラエルの人々がバビロンに捕囚として連れて行かれる前のことです。やがてユダ王国は滅亡し、奴隷としてバビロンに連れて行かれます。神がイザヤを通じて預言されたのは、イスラエル人をバビロンから連れ戻すということでした。今度は、海の道ではなく荒野に道を作ると言われたのです。

 新しくなるにはどうしたらいいか。それは、新しいことを行う神を信頼することから始まります。神は、私たちが見たことのない新しいことを企画し実行される方です。
年のはじめに、新しいことをする神をたたえ、信頼し、導きを求めましょう。



2、私たちも新しい事を始めよう

 神が新しい事をされる方なら、神のかたちに造られた私たちも同じDNAがきっとあるはずです。新しい年、新しい事にチャレンジしませんか。

 私はこんな事を考えました。神は私たちに二つのスーツケースを与えて下さったのではないかと思うのです。

 一つのスーツケースにはたくさん物が入っています。そこには、決まったスケジュールがびっしり組み込まれていて隙間がありません。毎日の決まりきった仕事に疲れ果て、家族との関係も自分自身も見直すこともできません。このスーツケースは、何かを変えたいのに何もできないという日常を象徴したものです。

 もう一つのスーツケースには何も入っていません。多くの人は、このスーツケースの存在を知りません。でも、必ず空のスーツケースを持っています。
そのスーツケースに名前を付けるなら、夢のスーツケース、ミニストリーのスーツケース、愛情のスーツケース、生きがいのスーツケース、と呼んでも良いでしょう。
 今までのスケジュールや毎日の繰り返しを見直して、本当にやりたい事に取り組んでみませんか。一番大事なことに時間を使いませんか。大切な人と心通わす時間を作りませんか。あなたの夢を実現しませんか。

見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(19節)

 神は新しい事をされる神です。私たちを新しくするプロフェッショナルです。
新しい事に挑戦しませんか。主のためにあなたの人生を燃やし尽くすような生き方をしてみませんか。主にあって、あなたの夢を実現しませんか。

 雪が降り積もった早朝の景色が新年です。
積雪が多い朝は道の場所さえ分かりません。
道はあなたが作るのです。
神は、あなたに新しい道を進んでほしいのです。

 今年、誰かに福音を伝えましょう。
新しいミニストリーを始めましょう。
身近な人に、きちんと愛を伝える時間を作りましょう。

 祈って、勇気を出して、スケジュールを組んでみませんか。


「見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。」