詩篇46:1~11  神はわれらの避け所


 1986年、バイオリニスト五嶋みどりさんはタングルウッド音楽祭でオーケストラと共演中にバイオリンのE弦を切ったことがありました。14歳だったみどりさんは、コンサートマスターのバイオリンを借りて続きましたが、再び切れてしまいました。再度バイオリンを借りて最後まで弾ききりました。助けられて演奏を全うしました。
 今日の詩篇で一番私が心に残る言葉は、「そこにある助け」です。


1、そこにある助け

詩篇46篇全体を見て下さい。助けを求める言葉がありますか?いいえ。
この詩篇は、苦しみの中で助けを願った詩篇ではありません。どんな苦難がやって来たとしても恐れないという信仰の歌です。将来に向けて、主の守りを確信している詩です。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。
(1~3節)

1~3節は、私たちが苦しむ時、神の助けは必ずそこにあるから、どんな事態にも恐れないと述べています。
そこにある助けの「そこ」とは、大きな試練や困難を意味します。新共同訳聖書では「必ずそこにいて助けてくださる。」と訳しています。苦しみのある場所に、神の助けが必ずあるのです。

川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。
(4~7節)

 4~7節は、神が恵みは川のように流れ出ており、主は寝ている間に救って下さると述べています。
 川は、豊かさ、命、うるおいを表しています。実は、エルサレムに川などありません。エルサレムは山の上の町で、町の中にも、町の周囲にも川は流れていません。夏は一滴の雨も降りません。ギボンの泉という水源が離れた場所にあり、岩盤をくり貫いた地下水道で市内に水が引き込まれているだけでした。

 詩篇の作者は、信仰の目でエルサレムを見ています。神の恵みが大きな川のように都エルサレムに流れ込む姿を見ているのです。目で見える景色が真実の景色とは限りません。神がエルサレムの真中におられ、恵みの川で町中を潤しているのです。
 あなたも、信仰の目を開いてみましょう。神の恵みの大河が流れています。

 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。
わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。
(8~11節)

 8~11節は、神が戦争を終わらせ、勝利を与えて下さったと書いてあります。神の前では、弓も槍も戦車も兵隊も、何の意味もないことが分かります。
 神が、「やめよ」と言って下さるなら戦争も止むのです。争いや試練で心騒ぐとき、心を静め、主こそ神であることを知る必要があります。

 46篇で同じフレーズが繰り返されていますが、これは46篇の核です。大軍を率いた神が私たちと共におられる。ヤコブを愛し守られた憐れみの主こそが、私たちの砦となって下さるのです。

 万軍の主はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらのとりでである。(7、11節)

 あなたも、あなたの人生を振り返って下さい。また、最近受けた主の助けを思い出して下さい。あぶない所で主が介入して下さった経験があるはずです。そこをしっかり押さえて、あなたの感謝ノートに赤線を引き、記憶のしおりを挟んでおきましょう。そうすれば、詩篇の作者と同じ確信に立てます。神はわれらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある助けと言えます。


2、包囲されても

 主が外敵から救って下さった記録が聖書にあります。
 紀元前701年、神の都エルサレムはアッシリヤの大軍に包囲され絶対絶命の危機に立ちました。(イザヤ37章)ユダの王ヒゼキヤは神殿に行き主の助けを求めました。主は、驚くような方法でその祈りに答えて下さいました。聖書学者たちは、この出来事が詩篇46篇の背景にあると考えています。

 主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。(イザヤ37:36)

 宗教改革者ルターは、この詩篇から強い感化を受け、1527~9年に賛美歌を作詞し作曲しました。それが賛美歌267番です。宗教改革の先頭に立ち、命を狙われていたルターにとって詩篇46篇は心励まされる特別の詩篇だったようです。

 イギリス人のウイリアム・ケアリーは、インド宣教に出かけたプロテスタントの世界宣教の先駆者でした。インドの言葉、ベンガル語に聖書を翻訳する働きをしていましたが、ある時、火災が起きて、大切な原稿を失い意気消沈しました。ですが、主がもっと完成度の高い翻訳を望んでおられると理解し、初めからやり直し、1801年に完成させました。

どんな苦難の時にも、主は私たちと共におられ、助けて下さいます。苦しみがあるなら、必ず、主の助けがそこにあります。主は私たちと共におられます。

 「神はわれらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある助け。」(1節)


 →あなたの番です
  □神はわれらの避け所
  □苦しむとき、そこに神の助けがある
  □万軍の主は、「やめよ」と言って苦難を終わらす方


王の結婚式  詩篇45:1~17


 詩篇45篇は、王の結婚式を歌っためずらしい詩篇です。
イギリス王室の結婚式は実に豪華です。花婿は赤い礼服、花嫁は純白のドレスで美しさを際立たせます。この詩篇はそんな場面を彷彿とさせます。

1、王の婚礼

 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。
神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。
雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。
あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。
あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。
あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。
神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。(詩篇45:2~6)
 
前半部分である1節から9節は、花婿である王に対する賛辞です。
 王の権力と正義、そして優しさ、真理、柔和さがたたえられています。また、その王座は世々限りなく続くと歌われています。力と優しさを持つ王は理想の男性像といえます。

 王たちの娘があなたの愛する女たちの中にいる。
王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ。
娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。
ツロの娘は贈り物を携えて来、民のうちの富んだ者はあなたの好意を求めよう。
王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。
彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、
彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。(詩篇45:9~14節)

 後半に当たる10節から17節は、外国から嫁いできた花嫁について述べられています。きらびやかなドレスや金の装飾品や従者たちの姿に目が留まります。また、結婚生活の喜びと子供に恵まれる姿などが語られています。



2、理想の王との結婚

 詩篇45篇は王の婚礼で歌われましたが、それにふさわしい実際の王がいたのでしょうか。純粋な信仰を持った王、ダビデも罪を犯し完全な正義を持てませんでした。賢者ソロモン王も、高い税金を課して国民を苦しめたので優しさや柔和さとは無縁でした。

新約時代に入ると、この詩篇の内容に合致するのがまことの王、主イエスであると理解され、詩篇45篇の6~7節がヘブル人への手紙で引用されました。

御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」(ヘブル人への手紙1:8~9)

主イエスこそ、力ある神、真理と柔和を兼ね備えた真の王です。私たちが100%の信頼を寄せても、裏切られることがないのです。
王は豪華な花婿姿だけでなく、「没薬、アロエ、肉桂のかおり」(8節)などの高級香水で身を包み、その香りをかぐだけでも花嫁は幸福感で満たされました。私たちは、今、主イエスの愛に包まれています。

外国の王家からイスラエルの王に嫁ぐ花嫁には、王への忠誠が求められました。「父の家を忘れ」(10節)、結婚相手の王に「ひれ伏せ」(11節)とあります。
日本の伝統的な花嫁衣裳は白無垢です。あなたの色に染めて下さいという意味があるのでしょうか。父の家とは、つまり外国の文化や伝統、外国の王の王女としての身分などをすべて忘れ、イスラエルの王の妻としての道に専心するようにという勧めです。
クリスチャンにとって「父の家を忘れ」とは、この世の価値観から離れ、キリストが生きるように生きる生き方と説明できます。この世界の罪に傾斜する価値基準から離れ、主イエスへのさわやかな献身が求められています。
主イエスと結婚して生活をすると考えて下さい。それこそが、本当の幸せを得る道です。

あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(2節)

娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(10~11節)

ある男性が女性と付き合っていましたが、別れました。その際、彼は彼女の欠点を何項目に渡って詳細に手紙に書いて送り付けました。彼女は、それを読んで返事を送ってきました。彼の素晴らしい点を列挙した温かい手紙でした。その彼女はクリスチャンでした。彼が受けた衝撃や自己嫌悪は想像できますね。時が流れ、彼は教会につながり洗礼を受けました。「父の家を捨て」る価値観を持っていた彼女の生き方は見事です。

花婿である主イエスをたたえましょう。力と優しさと柔和と正義を持つ主イエスの姿に近づきたいですね。「父の家を捨て」、罪を離れ、主イエスの価値観で生きていきましょう。私たちは、主イエスと結婚生活を送っているのです。

 →あなたの番です
  □まことの王、主イエスを賛美する
  □父の家を捨て、主イエスと生活する

詩篇44篇1~26 「しかし」という名のハーケン


 感謝する事と「しかし」と言うこと。それが、苦難を乗り越える鍵です。

1、感謝する者が、笑い者へ(1~16節)

神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。
あなたは御手をもって、国々を追い払い、そこに彼らを植え、国民にわざわいを与え、そこに彼らを送り込まれました。
彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。(詩篇44:1~3)

 イスラエルの民が歴史を振り返ると、神への感謝が沸き上がりました。エジプトでの奴隷状態から救い出されたのは、自分の弓や剣のおかげではないと理解していました。神に愛され、神の腕によって救われ、神に植えて頂いて約束の地に住めるようになったのです。

それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。
あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。
あなたは私たちを敵から退かせ、私たちを憎む者らは思うままにかすめ奪いました。
あなたは私たちを食用の羊のようにし、国々の中に私たちを散らされました。
(9~11節)
 やがて、イスラエルは外敵により滅ぼされ、国外に離散しました。外国人は、イスラエルの民を見て、神の民のくせにと「物笑いの種」(14節)にしました。ユダヤ人は「恥」(15節)を受けました。

 この詩篇は、苦難の中で主の救いを求める詩篇ですが、冒頭部分が感謝で始まっています。この感謝の通奏低音が苦しみを乗り越える最も大きな基本姿勢になります。
 神は救って下さった。その歴史認識は、現在も、未来も、神は救って下さるという信仰を呼び起こすのです。


2、「しかし」で踏みとどまる(17~19節)

これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無にしませんでした。
私たちの心はたじろがず、私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。
(17~18節)

スイスのツェルマットの町を訪れたとしても、霧が出ていれば眼前のマッターホルンは見えません。試練に遭うことと、神はいないという事柄は同義語ではないのです。苦しみの中でも神の愛や約束は生きています。だから、苦難という谷底に落ちてしまったら、17節にあるように、「しかし」ときっぱりと言うことが大事です。

ハーケンは岩場の割れ目に打ち込む登山用具ですが、どんな絶壁でもハーケンを足場にするなら登ることができます。「しかし」という名のハーケンを試練の岩場に打ち込めば失望の壁も越えられます。
詩篇の作者は「しかし」と言い放った後は、「あなたを忘れません」「あなたの契約を無にしません」「心はたじろがず」「あなたの道からそれません」という信仰のくさびを試練の壁に打ち付け続けました。

 ニューヨーク、ブルックリンのエバンズ牧師が癌と戦ったとき4つのルールを心に決めました。1)不平を言わない、2)家の雰囲気を明るく保つ、3)祝福を数えて感謝する、4)病気を有意義なものに転換する。このようにして、信仰のハーケンを2年間打ち付けて後、エバンズ牧師は天に召されていきました。

 状況がどうであれ、「しかし」という名のハーケンを打ち込み続けましょう。



3、起きてください(20~26節)

だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。
起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。(22~23節)

イスラエルの人々は、自分達があまりにも苦しいので、ほふられる羊の姿と自分とを重ねました。彼らが直面していたのは、何度も何度も殺され続けるほどの苦しみだったのです。それで、「起きてください」、と主に嘆願しています。「立ち上がって私たちをお助けください。」(26節)と神に叫んでいます。

マルコの福音書4章にもこれと似たシーンがあります。ガリラヤ湖が嵐になり、乗っていた小舟が沈みそうになり、十二弟子が主イエスを起こしました。その時、主イエスはぐっすりと眠っておられました。その意味することは何でしょう。この嵐によって死ぬことはない、という意味です。神の沈黙とは、そういう意味を持っていることがあるのです。

パウロは、ほふられる子羊の苦しみを述べた詩篇44篇22節をローマ人への手紙で引用しています。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:35~39)

たとえ、ほふられる羊のような苦難を体験したとしても、キリストの愛から私たちを引き裂くことはできないし、苦難の中で圧倒的な勝利者になれるとパウロは力説しました。この考えこそが新約的視点に立った詩篇44篇の理解なのです。

あるご家庭のことをお話しします。土曜日の深夜、夫が帰宅しました。いつものように酒浸りでした。起こされた妻は、毎度のことでうんざりしましたが、すべての事を感謝しなさいという聖書の言葉を思い出し、寝込んだ夫の横で、感謝の言葉を言い始めました。
 こんな主人でも、いないより、いたほうが良いので感謝します。家に帰って来てくれることを感謝します。酒を飲んでも暴力を振るわないことを感謝します。女遊びをしないことを感謝します。日曜の午前は寝てくれるので、礼拝に行けることを感謝します。感謝といっても、あまりにも低レベルの感謝で、思わず笑い出しました。その声で目覚めた夫が、なぜ笑っているのかと尋ねました。正直に今の話をすると、こんな俺のことでも感謝してくれたと喜んで、今日の礼拝は一緒に行くと約束し、その通り実行したというのです。
 彼女は、「しかし」という名のハーケンを現状に打ち付け、感謝の流れを作って、主の恵みを頂けました。

私は私の弓にたよりません。私の剣も私を救いません。しかしあなたは、敵から私たちを救い、私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。(詩篇44:6~7)

苦しみの中で神が見えない時であっても、キリストの愛が私たちを守ってくれます。「しかし」と宣言して不信仰を振り払い、神の救いを感謝し、自分の弓や腕に頼らず神に信頼しましょう。


 →あなたの番です
  □苦しみの中で、「しかし」と言おう
  □自分の弓や腕に頼らない
  □感謝を見つけて歩み出そう

詩篇43:1~5   絶望が生み出すもの


  絶望から生まれるものがあるのでしょうか。

1、深まる苦悩

 43篇は42篇の一部であり、同じテーマを扱っています。詩篇42篇では、神の不在を嘆き、出口なしの苦難に苦しむ様子が語られました。43篇では、さらに苦悩が深まっています。

神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。
あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を拒まれたのですか。
なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか。
(詩篇43:1~2)

 詩篇の作者は1節で神に訴えています。さばいてください。訴えを取り上げて下さい。敵の言い分を退けて下さい。助け出して下さい。特に、敵の欺きと不正に強い苛立ちを感じています。

 詩篇42:9と詩篇43:2には似た表現がありますが、より深刻になっているのが分かります。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」という言葉は、「なぜあなたは私を拒まれたのですか」となっています。また、「なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか」が「なぜ私は敵のしいたけに、嘆いて歩き回るのですか」となりました。

 傷口に塩をぬられるようなことがあります。今のあなたも、そうですか。


2、光とまこと

どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。
あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。
(3節)

 先の見えない悩みは、まるで暗闇に放り込まれたようです。ですから、暗闇を照らす光を下さいと詩篇の作者は神に願いました。神の光があれば行くべき道が見えます。

 欺きと不正に翻弄されていたので、確かなもの、信頼できるものが必要でした。それで、神のまことを求めました。神のまことは、英語訳でyour faithful careと訳しています。
 Send me your light and your faithful care, let them lead me; (NIV)

神からの光と神のまことがあるなら、エルサレムの神殿で礼拝した時の喜びに戻れると確信したのです。

 日本で牧師をしていた教会に、盲人の教会員の方がいました。その方は自宅から歩いて駅に行き、電車で移動し、最寄の駅で降りて、タクシーに乗り、私たちの教会に通っていました。その間、ずっと盲導犬と一緒でした。主を信じて生きることと、盲導犬と一緒に歩くことには共通点があると彼はよく話していました。自分の全部を盲導犬に託さないと目的地にはつけないように、信仰の世界でも主に全面的に信頼して主の導きに従うことが一番だとその彼は教えてくれました。

 私たちも今、神の光と神のまことを求めましょう。その導きに従いましょう。神の光とは今の私たちにとっては、聖書の言葉、あるいは、祈りの中で与えられる確信と言い換えることもできます。また、神を信じて一歩を踏み出す時に不思議な形で道が開かれたり、思わぬ人からの助けを受けることがありますが、それが神のまことの具現化と言えます。

「どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。」(3節)


3、私の神を待ち望む

こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、
あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
(4~5節)

 この詩篇には、神の解決を受けたという結論は見当たりません。問題は未解決のままですが、エルサレム神殿で神を礼拝する日を先取りしています。
詩篇の作者は、神の不在感を感じ、出口の見えない苦悩の中で神を待ち望んでいます。魂は絶望状態ですが、それを見つめる別の自分が、Put your hope in Godと静かに呼びかけています。

わが魂よ、なぜ絶望しているのかという言葉を読むと落胆した姿に目が行きます。でも絶望しないと見えない景色があります。もう少し積極的に言うと、絶望は信頼という窓を開けるために不可欠な要素なのです。
中途半端な落胆より、徹底した絶望のほうが良いのです。私たちが自分の罪に心底気づいた時にはじめて主イエスを救い主として信じたことを思い出して下さい。自分の罪に絶望した者だけが、自分を全面的に主にゆだねることができるのです。

2001年9月11日、世界貿易センタービル78階で仕事をしていた盲人のMichael Hingsonさんは突然の衝撃に驚きました。デスク下で寝ていた盲導犬Roselleも起き上がりました。マイケルさんは、どの階段が安全か目で確認できないので、自分の命を盲導犬にゆだねました。盲導犬は、煙と喧騒の中でも冷静に主人を助け、1時間かけて階段を降り、地下鉄の入口に導き入れて、間もなくビルは崩れ落ちました。マイケルさんは、その後、仕事を辞め、盲導犬のための働きに専念しました。
自分一人では判断できない。自分の力では無理だ。そのままでは絶望しかない。そういう時は、信頼できる誰かに全面的に信頼する以外、助かる道はないのです。

今、あなたは絶望しているかもしれません。出口が見えない試練や神の不在を感じる中かもしれません。そうならば、神を待ち望みましょう。神の光と神のまことを届けて頂いて、主の導きに身をゆだねましょう。詩篇42篇は絶望の詩ではなく、絶望を経験したがゆえに主に信頼した人の賛美の歌なのです。

こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、
あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
(4~5節)

→あなたの番です
  □苦しい時、神の光と神のまことを求めましょう
  □あなたの明日を信じ、神を待ち望みましょう

詩篇42:1~11 待ち望め


 詩篇42篇は、絶望の詩篇なのでしょうか。

1、苦悩と神の沈黙
 42篇を書いた人物の背景を考えてみましょう。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。(1~3節)

 「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」(3節)とあるように、苦しさのため涙の乾くことのない日々でした。「おまえの神はどこにいるのか。」(3、10節)という、敵対者からのさげすみの言葉が心を刺し通しました。「生ける神を求めて渇いています」とあるように、神の不在感(1~2節、9節)を強く感じていました。そのために深い失望(5、11節)を味わっていました。

 終わることのない苦悩と、神が沈黙しているように思える事、その二重苦ほど辛いものはありません。あなたも今、これと似た状況にいますか。

 出口の見えない苦しみと神の沈黙は、神がいないという証拠ではないし、神に愛されていないという印でもありません。神を愛し、正しく歩んだヨブも、同じ苦悩を通りました。主イエスも同様の苦しみを十字架で経験され、「わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と言われました。

2007年に出版された『Mother Threasa  Come Be My Light』という本は、ノーベル平和賞を受けたマザー・テレサの内面の暗闇を明らかにし、世界に大きな驚きを与えました。以下のようなマザーテレサの手紙がその本で紹介されています。
「どこに私の信仰があるのでしょう。心の深い場所、そこには何もなく、空虚と闇のみです。父よ、この底知れない痛みに耐えることができません。」
「父よ、教えてください。なぜ私の魂はこれほどの痛みと暗闇の中にいるのでしょう。」
「見上げても見ることができません、耳を傾けても何も聞こえません。」
「誰にも愛されたことがないほどに主イエスよ、あなたを愛したいのです。」

 マザーテレサは38歳の時に主イエスからの招きの言葉を受け、貧しい人々の中に出て行きましたが、40歳代から70歳代まで彼女の魂の暗闇は続き、信頼できる少数の神父たちだけに心の苦悩を相談していました。
 この本のタイトルは、「私のところに来て、そして出ていって、私の光となりなさい」と主イエスに彼女が招かれた時の言葉でした。キリストの光を届けるために、マザー・テレサの心が闇に覆われている必要があったと彼女が理解していたようです。また、主イエスの十字架の苦悩を体験するという特別な賜物を受けていたのでしょう。



2、自分に語りかける自分



 改善されない苦悩、そして、呼んでも応答してくれない神を前にして、この詩篇の作者は絶望して信仰を捨てたのでしょうか。いいえ。

パレスチナの夏には一滴の雨も降らず、11月から3月には時折雨が降り、谷底に雨水が集まり一時的な川ができることもあります。干上がった川底に鼻を付けて水分を必死に探す鹿の姿こそが、神との関係修復をあきらめない人の姿を物語っています。

私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。(4節)

 彼は、巡礼者の一員としてエルサレム神殿に旅したことを思い起こしました。あの時、神を身近に感じ、信仰的に大きな喜びがありました。(4節)それは蜃気楼ではなく事実でした。

 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。(6~7節)

 この印象的な自然描写は、作者の苦悩の二重写しです。パレスチナ北部のヘルモン山は、雪を頂く高山で、雨水や雪解け水などが斜面を下り、大きな滝となってヨルダン川源流に注ぎます。その時起きる大波に飲み込まれて翻弄される姿が出口のない悩みを表しています。そんな時、支えになるのは、神の恵みと神への祈りでした。

 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。(8節)

 42篇で二度繰り返される印象的なフレーズを読むと、絶望の中で一条の光が差し込んでいることが分かります。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
私の前で思い乱れているのか。 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5節)

 出口のない苦悩と神の不在のゆえに、彼は確かに落胆しています。弱り果てて思い乱れている自分を否定しません。もう一人の自分は、うなだれている自分に静かに語りかけます。こんな時だからこそ、神を待ち望むんだよ、と。
 事態が改善せず、敵の攻撃も止まず、神を求めても身近に感じられない中であっても、神が神であるという事実が神を賛美する根拠を与えてくれるのです。だから、「私はなおも神をほめたたえる」と言えるのです。
 神の顔を強く意識しているのは、こんな時でも神の顔は私たちに向いていて、神のまなざしが自分に注がれているという信仰であり、希望です。

 2001年9月11日、貿易センタービルに旅客機が突っ込んだ後、ユナイテッド93便もハイジャックされ目標に向けて飛行していました。乗客のトッド・ビーマーは、電話交換手と連絡を取り機内の様子を伝えました。33歳のトッドは、乗客が生き残れる可能性が少ないことは認識していましたが、主を待ち望んでいました。いよいよ、テロリストと闘うという直前、主の祈りを一緒に祈ってほしいと伝え、その後、詩篇23篇を唱え、"Let's Roll"「さあ、いくぞ」という叫びを残して仲間と一緒に突進、最終的に飛行機は墜落しました。テロリストの目的を阻むことができたのです。

 42篇は絶望の詩篇ではなく、絶望してもおかしくない状況で、神を待ち続けた人の信仰告白なのです。

「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(5節)

 →あなたの番です
  □状況に改善がなく、神の不在を感じますか
  □神を待ち望みましょう 
     □なおも神をほめたたえましょう

コロサイ4:7~9 目立たない賜物


 「奉仕」の賜物、「分け与える」賜物、「慈善」の賜物(ローマ12:7~8)、「助ける者」(第1コリント12:28)に、<目立たない賜物>という呼び名を付けてみます。

こうした賜物を与えられた人は、どちらかというと静かで目立たない人が多いですね。新しいことを企画したり、リーダーシップを発揮するタイプではありませんが、与えられた役割をきちんと果たし、裏方の仕事に喜びを感じます。


1、テキコ

私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。(コロサイ4:7~8)

テキコはパウロの弟子の一人でした。テキコの特徴は忠実な奉仕です。コロサイの手紙だけでなく、エペソ人への手紙においても、パウロはテキコを「忠実な奉仕者」と紹介しています。忠実とはいったい何でしょう。人が見ていても見ていなくても、与えられた役割を果たす責任感と実行力です。

あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。(エペソ人への手紙6:21)

パウロはローマの牢獄でエペソとコロサイの人々に手紙を書き、その手紙の配達をテキコに託しました。パウロは、もう一つ難しい仕事をテキコに依頼しました。コロサイのピレモン宅から逃げ出した逃亡奴隷のオネシモを主人に送り届ける役です。

また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。(9節)

 パウロのもとでイエスを信じ別人に生まれ変わったオネシモを、主人のもとに届け、パウロからの信書を手渡して、元の主人と元の奴隷の間を穏やかに取り持つ役割でした。忠実で、穏やかで、平和的で、与えることを喜びとするテキコだから、この難しい任務を果たすことができました。
 テキコの目立たない賜物は、2000年間多くの人々の目に留まることになりました。


2、私たちの奉仕

あなたの番です。御霊は次のような賜物をあなたに与えているかもしれません。

「奉仕」の賜物
「助ける」賜物
「分け与える」賜物
「慈善」の賜物

 奉仕や助ける賜物を与えられている人は、机を並べる、会計係りをする、お茶をサーブする、掃除するなど、主役ではなくて脇役として力強く貢献します。通訳の奉仕も名脇役の一人です。

まとまったお金をそっと献金する人がいますが、まさに分け与える賜物を主からもらっている人です。人をもてなしたり、宿泊を提供するということも、分け与える賜物に関連しています。お料理が好きな人や誰かを泊められるスペースのある人もそうです。
 慈善の賜物は、ホームレスの人への食事提供をしたり、経済的に恵まれない子供の学費・生活費を助ける活動などができます。マザーテレサは、慈善の賜物を特別いっぱい与えられた人でした。

あなたに、このような賜物が与えられているなら、それを主と人々のために惜しむことなく用いて下さい。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2:8~10)

カナの婚礼に出席された主イエスは、水がめに満たした水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。宴会の終わり近くなのに良いぶどう酒が振舞われたので人々は驚嘆しました。水を何度もくみ上げて運び、水がめに注いだ下働きの人だけが主イエスの奇跡を目の当たりにしました。「水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」(ヨハネ2:9)と書かれてある通りです。
<水をくんだ手伝いの者>だけが主のみわざを体感できるのです。これこそが、水を汲む者の美学です。

田中いさおさん・きよさん夫婦は、映画『喜びも悲しみも幾歳月』のモデルになった方々で、太平洋に突き出た高さ40mの岩山の上にある塩屋崎灯台が仕事場兼住居でした。陸の孤島と呼ばれる場所での勤務ですから、飲料水にも事欠き、米のとぎ汁で顔を洗い、おしめを洗ったといいます。二人目の出産時は、夫が新生児を受け止め、へその緒を切りました。毎晩、毎晩、舟の航行の安全のために灯台に灯をともす仕事と生活は、目立たない歩みですが、忠実さ、継続力が問われる大切な役割でした。

主はあなたに、奉仕、分け与える、慈善、助ける賜物を与えて下さったかもしれません。それならば、忠実さと継続力に磨きをかけて、信仰の明かりをともし、世の光という灯台になって福音の光と神の愛の光を届けて下さい。あなたの財産、時間、労力、経験を分け与える事こそがあなたの生きがいになり、あなたの輝きになります。

 
 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)


 →あなたの番です
□奉仕、分け与える、慈善、助ける賜物を与えられていますか
□忠実さに磨きをかけましょう
□分け与えることを喜びましょう


使徒9:36~43 いやす賜物


 医療技術が進んだ今、いやしが必要な人が逆に増えています。現代こそ、いやす人が求められています。

1、広い意味での<いやしの賜物>

 第1コリント12:9~10に、「ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇跡を行う力」が与えられていると書いてあります。いやしの賜物を与えられた人は、神のいやしの力を届ける管のように用いられます。

 奇跡的ないやしの力がなくても、広い意味でのいやしの賜物を与えられているかもしれません。以下の項目に該当するかを確認して下さい。

・主の力によって病気を治す力が与えられている
・病人のためにとりなしの祈りをする
・自分自身が体や心の病気を経験者した
・仕事やプライベートで、実際に誰かを看病したりケアしている
・人の話をゆっくりと聞くことができる
・「あなたは、いやし系だね」と言われたことがある

広い意味でいやしの賜物をもらっている人は、自然に以下のように行動します。
弱った人のそばにいてあげる。手を置く。抱きしめる。話を聞く。食べ物を出す。リラックスした雰囲気にしてあげる。信頼する。代わりに仕事をしたり、車を運転したりする。見捨てない。慰め、励ます。愚痴を聞いてあげる。あきらめない。共に喜ぶ。

広い意味でのいやしの賜物は、目立たない人に与えられている場合が多いです。パウロは、目立つ賜物と目立たない賜物に触れ、キリストの体の中では目立たない器官、弱いと見られる器官がとても重要だと言ったのは、こうした<広い意味でのいやしの賜物>の必要性を述べたのかもしれません。

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。(第1コリント12:22)


2、タビタ

 今日の聖書箇所では、いやしの賜物を与えられたペテロと、広い意味で<いやしの賜物>を与えられたタビタの姿を見ることができます。

ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。(使徒9:36~38)

 海沿いの町ヨッパにタビタという女性のクリスチャンがいましたが、病気で亡くなりました。主イエスが復活され昇天された後なので、人々はペテロを呼びに行きました。葬式をしてほしかったのでしょうか。

そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。(39節)

 すぐに来て欲しかったのは、葬式のためではなかったようです。すでに遺体は洗いきよられて安置していましたが、葬式が始まる雰囲気がありません。やもめたちは、言葉では言いませんが、タビタを生き返らせて欲しいと全身でペテロに語っていました。

 あなたが死んだとします。家族や親戚以外で、誰が飛んで来てくれますか。大粒の涙をはらはら流して、生き返らせてほしいと懇願する人がいるでしょうか。
 「やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(39節)とあります。あなたが死んだら、あなたが誰かに与えたものを取り出して来て、これはあの人からもらったものだ、あの人は私にこんなに良くしてくれたと言ってくれるでしょうか。

 「この女は、多くの良いわざと施しをしていた」(36節)とあります。タビタは、与える人でした。広い意味でのいやしの賜物は、与える賜物と言い換えても良いでしょう。タビタはやもめたちのために、時間を与え、お金を与え、物を与え、心を与えたと言ってもよいでしょう。

ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。(40~42節)

 まったくの異例な事ですが、ペテロは皆をその場から出して一人になってひざまずき、タビタを生き返らせてほしいと主に祈りました。主イエスが会堂管理者の娘を生き返らせた場面とそっくりの言い回しで(マルコ5:41)、タビタ、起きなさいと呼びかけました。
タビタは目を開けました。なぜペテロがいるのか驚いたでしょう。タビタと再開したやもめたちは大歓声をあげ、主を礼拝し、お祝いの食事の席になったことでしょう。

やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。(39節)

つい最近、ハワイから電話がありました。最初、私は知らない人だと思いました。話を聞いていくと、彼女の母親がつい最近亡くなったこと、そのお母さんが私が牧師をしていた教会の教会員だったこと、彼女が死んだ時には平湯牧師に連絡してほしいと頼んだことが分かりました。その年配の女性は、私が苦しい時に、山を越えて運転して来て、私を励ますために、おいしいパンを買って届けてくれた人でした。それも一度ではなく、三度も四度も届けてくれたのです。私は、彼女の行動によって、いやされました。慰めを受けました。その方が、私のことをずっと何年も忘れず、祈ってくれたのだと改めて知り、深い感動と悲しみを覚えました。ヨッパのやもめたちのように、私も、彼女にもらったパンを見せながら、彼女の思いやりを知ってほしいと思いました。

あなたは普段目立たない人かもしれませんが、現代のタビタです。神はあなたを<いやす人>として造られたのかもしれません。あなたの時間を、物を、聞く耳を、愛を、サポートを、あなた自身を、誰かのために与え、その人のいやしを願いましょう。

→あなたの番です
 □広い意味で、いやしの賜物をもらっていませんか
□病気の人、弱っている人のそばに行きましょう
□良いわざ、施しを、あなたらしく実行しましょう