キリストに似ることが、幸せになる秘訣 ピリピ3:12~15

 価値ある目標は人を幸せにします。目標は、繰り返しの毎日に意義を与え、生きがいをもらたします。キリストに似た者になることを、あなたの人生の目当てにしましょう。

1、パウロを変えたキリストとの出会い(ピリピ3:5~11)

 ハワイからカリフォルニアに来て看護士になる勉強をしていた女性、コリン・ワン・コリンズワースさんがいました。クリスマス5日前、レストランで働いていましたが、1時間も何も注文をしない男性が座っていました。担当のウエイトレスが休憩に入ったのでコリンさんは交代してオーダーを取りに行きました。
 男性はナチョスと水とオーダーしました。2ドル95セント、一番安い食べ物です。チップは期待できません。支払う時に男は100ドル紙幣を出し、「つりはいらないよ、今晩お母さんに電話でもするといい、メリー・クリスマス」と言って帰ってしまいました。家に帰るとテレビで片道99ドルのディスカウントチケットの宣伝をしていて、これでハワイに帰れます。
 看護士になったコリンさんは、クリスマスには誰か同じような境遇の人に自分が受けたと同じようなプレゼントをするようになりました。誰かの親切や愛、生き方に触れて、その後の人生が変わるという経験は珍しくありません。

 パウロは、主イエス・キリストに出会って、価値観ががらりと転換しました。イエス・キリストを知っている事だけで、あとはいらない、あとはちりあくたに過ぎないと言い切りました。
 
 「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」(ピリピ3:8)

 ピリピ2章の前半を見ると、イエス・キリストに出会う前のパウロは、現代人と同じ価値観に生きていたことが分かります。自分の生まれが純粋なユダヤ人であることを誇り、現代風に言えば学歴や能力を誇示していました。また、パウロが生まれつきのローマ市民であることが他の聖書箇所で分かりますが、これはパウロの両親が裕福で社会的地位が高かったことを推測させます。

 キリストに出会ったパウロは、キリストをもっと知りたい、キリストに似た者になりたい、キリストの弟子として生きていきたい、という価値ある目標で心は満たされたのです。


2、人間の努力と神の助け

 パウロの使っている言葉に目を留めましょう。その熱意、努力、集中度はまるでオリンピック選手のようです。

「ただ捕らえようとして」
「追求しているのです」
「ただ、この一事に励んでいます」
「ひたむきに前のものに向かって進み」
「目標を目ざして」
「一心に走っているのです」

 キリストのようになりたいが、自分の現状を知っている者としては、それはおこがましいし、無理だと感じる人が多いだろう。
 心配いらない。聖霊なる神の助け、主イエスによる援助がある。

 第2コリント3:18では、「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに御霊なる主の働きです。」と書いてある。ピリピ3章12節では、「ただ捕らえようとして、追求しているのです。それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださる。」と主イエスの励ましが明記されている。 


3、パウロの目指したもの

 パウロは何を目指していたのだろう。以下のようなものを目標にしていたようだ。

1)キリストに似た者 品性の向上、御霊の実
2)キリストの弟子 伝道、弟子の養成、愛の実践
3)キリストをもっと知る 聖書と祈り
4)キリストの栄光を表す 礼拝、仕事、人生の目標設定

 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そしえ、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)

 メアリー・デントン(1857~1947)はネバダ州生まれ。若い時にはお互いに愛し合い、一時は結婚を約束したファウラーという名の青年がいましたが、日本人への宣教と女子教育の重荷を神から与えられ、1888年31歳の時に日本に渡り、戦争中も日本に帰らず生涯を日本のためにささげました。
 現在京都にある同志社大学の前身となる学校で、ミス・デントンとで呼ばれ、自分の生活を切り詰め、靴下につぎを当てながら、日本人学生たちの学費や生活費を援助しました。
 アメリカを後にして50年たったとき、一人のアメリカ人紳士がミス・デントンのところを訪れ、「これを神さまのために使ってください」と2万ドルを私に来たといいます。その紳士がファウラーさんでした。一生かかって仕事をして貯めたお金を渡しに来たのです。そのお金でできたのが同志社の女子学生の校舎となったといいます。

 能力や地位に関係なく、歳をとっても、病気になっても持ち続けることができるものが、価値ある目標です。キリストに似る者となる、という目標はあなたにとって価値ある目標となるでしょう。
あなたの人生を貫く目標は何ですか。

 キリストのような品性を目指そう。

 キリストのように行動しよう。

 キリストが願われた事を行おう。

 「キリスト・イエスにおいて上い召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)

愛すことが、幸せになる秘訣 ルカ10:25~37

 「愛されていないから私は不幸」と感じる人が圧倒的に多い。本当に幸福になりたいなら、愛されることを待つのではなく、あなたが誰かを愛せばいい。

1、聖書の教え

 以下の聖書の教えを見るとすぐに気がつくことがある。誰かを愛し始めれば、その状態が幸せなのだ。

詩篇41:1 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。
箴言14:21 貧しい者をあわれむ人は幸いだ。
使徒20:35 受けるより与えるほうが幸いである。


2、良きサマリヤ人のたとえ

 ルカ10章で主イエスは律法学者と対話していたが、「私の隣人とはだれのことですか」(ルカ10章29節)と律法学者は質問をしてきた。この言葉を聞いた主イエスは、律法学者の思考パターンの欠陥を見抜き、たとえ話を通じて大事な事柄を教えようとされた。

 たとえ話を簡単に説明しよう。人里離れた峠道で強盗に襲われた男がいた。3人の人が順番にそこを通りかかった。神に仕える祭司が最初に来たが、反対側を通って男を無視した。次に、神殿で仕事をするレビ人が来たが、同様に通り過ぎた。3番目に来たのがサマリヤ人だ。宗教的・社会的な観点から律法学者はサマリヤ人を忌み嫌っていた。そのサマリヤ人が被害者の男を助け出した。「あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」(23~24節)

 「私の隣人とはだれのことですか」と居直る律法学者に、「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(36節)と主イエスは迫った。律法学者はしぶしぶ自分の問題点を認めた。主イエスは、「あたなも行って同じようにしなさい。」(37節)と諭された。


3、愛すための3ステップ

 このたとえ話から、人を愛する3つのステップを取り出してみよう。

1)見る
 
 髪型を変えたのに夫はまったく気づかないという不満を私は何十回も聞いている。夫たちは奥さんをまったく見ていないようだ。
 幼児が両親に必ず言う言葉は「見て」だ。砂場で山を作ったよ、滑り台を降りられたよ、100点が取れたよ、とにかく見てもらうだけで子供は愛を感じるのだ。

 サマリヤ人は最初の二人と違って被害者を見た。直視した。それが次のステップにつながった。見ることは、それ自体が愛なのだ。あなたも、身近な人に目を向けてみよう。体を向けよう。ありのままを聞いてみよう。瞳を見つめてみよう。
 

2)感じる

 サマリヤ人はその男を見て、かわいそうに思った。相手の心を感じ取ること、これも愛だ。

日本では『~~力』という本がたくさん出版されている。それに習えば、共感力というものをもっと開発してもよいと思う。相手の立場に立って物事を考えてみれば、自然に優しい心が生まれてくる。非難せずに、ありのままを受け止めよう。悲しみ、痛み、苦しみ、不安、孤独、それらを自分の事のように感じる心が愛だ。


3)動く

 サマリヤ人は、その人に役立つことを具体的に実行した。その場で傷の応急処置を行い、家畜に乗せて宿屋に連れて行き、看病した。その上、宿泊費まで出すつもりだった。義務で動いていない。自然に体が動いてる。

 誰かのために体を動かし、お金を使ったとき、見返りを求めてはいけない。これは大事な知恵だ。お返しを求めないことにより、愛が喜びになる。それが幸せになる。もしも、「ありがとう」の言葉をもらったら、それはラッキーな事だ。水を注ぎだすように、誰かを愛そう。

 働く女性が昼休みにクッキーとカフェラテを買い求め、木陰のベンチに腰掛け、お気に入りの雑誌に目を向け、手を伸ばして袋の中のクッキーをつまみました。テーブルの向かいに座った男性もその袋からクッキーを食べているの気づきました。目が会うと男性はニコリとしました。怒りを抑えて雑誌に目をやりましたが、何度も手を出して食べているのが分かりました。最後の一個に同時に手を伸ばしたとき、男性はそれを半分にし。ニコリと笑って女性に手渡しました。憤然としてオフィスに戻り、雑誌を自分のバッグに入れよう開けてみると、顔から血の気が引きました。自分が買ったクッキーの袋がそのまま入っていたのです。<私が、あの人のクッキーを食べていたんだ> それにもかかわらず、あの男性はニコリとしていました。

 私たちはちょうどこの女性と同じようなものです。神の愛を受けながら、主イエスを無視し、自分勝手に生きてきて、愛されていないと文句を言うようなものです。あなたは神に愛されています。あふれるほどの愛を受けています。その証拠は主イエスの十字架です。この女性は、誰かにクッキーを分けたいと願ったことでしょう。それが愛です。私たちの愛です。

 さあ、あなたの番です。今週、誰を愛しますか。どういうふうに愛しますか。あなたが、周囲の人に愛を届ける震源地になってください。

神を礼拝することが、幸福になる秘訣 マタイ22:34~38

 ひとことで今日のメッセージを要約します。神を礼拝することが、あなたを幸せにします。

 私は確信をもってそう言えます。まず体験的な理由から説明しましょう。

1、神を礼拝すると本当の意味で幸せになる

 数学の表グラフには座標軸があり、0、0の原点があります。それと同様に、礼拝に出ると原点である神を見つめることができ、本来の自分の姿が客観的に確認できます。
 また、神の素晴らしさを見つめることにより、私たちは様々な励ましや慰めを受けることができます。それは、つまり、幸せな状態だといえるのです。
 神に注意深く目を留めると何か起きるかを以下にリストアップしました。

偉大な神  → 謙虚な人になる。
聖い神    → 正直になれる。「ごめんなさい」と言える。
愛の神    → 心が温かくなる。人を愛しゆるす気持ちになれる。
生きている神  → 勇気と希望が生まれる。
 

2、礼拝とは神を愛すこと

 礼拝とは何でしょう。簡単に言えば、神を愛すということです。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)
「これがたいせつな第一の戒めです。」(マタイ22:38)

主イエスは、旧約聖書に数ある律法の中で一番大事なのが神を愛すことだと言い切りました。「キミは愛されるために生まれた」というステキなプレイズの歌詞があり、私も大好きですが、同様な言い方をしてみるなら、「キミは神を礼拝するために生まれた」と言っていいでしょう。

 私たち夫婦には3人の子供がいます。どの子もかわいいし、大好きです。子供が小さいとき私は毎日<大好きごっこ>をしました。「父さんはキミのこと、このくらい好きだよ」と子供をぎゅっと抱きしめます。すると、子供は「僕も大好き」といって思いっきり強く私を抱きしめます。「父さんはもっと大好きだよ」「僕のほうが大好きだよ」
 神は、私たちが胎児の時から私たちを知っていて生まれるのを待っていてくださいました。そして、親が赤ちゃんの世話をする以上に私たちをいつくしみ、守りの手を差し出し続けてくださいました。子供が反抗期に入ると親を無視するように、人間は神を無視します。神がいるなら見せてみろ。神を試験管に入れて実験するかのようにしか神の存在を考えられません。そして、あるとき聖書を知り、礼拝に出るようになり、初めて神に戻ります。

 その時、私たちは、「神さま、あなたが大好きです」と言えるようになります。それが歌になれば賛美歌で、形に表せば献金になります。相手の言葉を何時間でも電話で聞きたい恋人のように、私たちは聖書の言葉を聞き、牧師のメッセージに耳を傾けます。大好きな人が急病になったり臨終になれば飛行機に乗ってでも体を運び「ここにいるよ」と私たちは言いますが、礼拝も同じで、あなたに会いたい、あなたがとても大事な存在だと思うので日曜日に礼拝に行くのです。これからは新しい心をもって礼拝に行くことができますね。


3、短い祈りの勧め

 礼拝に出てさわやかに帰るだけでなく、毎日の生活や職場でも神を礼拝できます。この分野ではブラザー・ローレンスの言葉が実際的で示唆に富んでいます。(詳しくは『敬虔な生涯』を参照)

 1614年生まれのブラザー・ローレンスは修道院で料理係りを長年続けましたが、どんな仕事をしているときでも教会堂で礼拝しているような心を内に持つことができました。学問もなく、作業をしても不器用なローレンスは、神を愛することにおいて熱心で一徹でした。40年もの間、主をいつも覚えていたいと修練を重ねるうちに、料理しているときも、材料を買出しに行くときも、主とともに過ごす秘訣を身につけることができました。
 そのローレンスが、短い祈りが有益であると教えています。ですから、短い聖句、信仰的真理、祈りの言葉などを普段の生活で口に出したり、心で祈ったりすることは大きな助けになります。他人がみれば独り言のように聞こえますが、心を込めて言ってみましょう。恋人たちは同じ言葉を繰り返しますが、それは退屈ではなく、自然なのです。

あなたが大好きです
ありがとう
あなたの恵みを受け取ります
一緒にいてください
あなたは生きておられます
あなたの安らぎを下さい
あなたの平安を感謝します

 もっと主を愛して生きていきたいと思いませんか。ヨハネが黙示録に記録した礼拝に関する印象的なシーンを見て終わりましょう。

「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(ヨハネの黙示録4:11)

主イエスを信じることが、幸せの秘訣 使徒16:25~34

 これから6回シリーズで<幸せになる秘訣>を話します。

 多くの人は、求めている何かが手に入れば幸せになると考えている。その何かを持っていないなら不幸になる。でも、本当の幸せは、所有するかしないかに関わらず得られるものだ。

1、暗闇の中での賛美

 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(使徒16:25)

 パウロは、ピリピの町で無実の罪で鞭打たれ、足かせを付けられた上に投獄された。屈辱、痛み、不快、不自由、未来なしの状態となった。普通なら狂乱状態になるところだ。ところがパウロは、神を賛美し、神に祈り始めた。牢屋にいた人々のために、とりなしの祈りをしたかもしれない。
 我々が苦しみに直面すると、「どうしてですか」と叫んだり動揺したりするが、パウロは神に賛美していた。これが本当の意味での賛美だ。
 幸せは、何かを所有していることや、人より優れていることではない。神がいること自体が幸せなのだ。私のすべてを知った上で見捨てない神がいる。私に命を与え、支えてくださる神がいる。最善をなしたもう神がいる。
 「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)
 私たちもこう告白したい。どんな状況でも幸せでいられる秘訣がここにある。

2、喪失ゆえの自害

 真夜中に地震が起きた。牢獄は揺れ動き、ドアは勝手に開いてしまった。眠りから目覚めた看守は、慌てふためき、確認もせずに囚人が逃げたと勘違いした。今後自分に降りかかる責任追及の厳しさを予想、自殺することが最善と結論づけた。暗闇に目が慣れているパウロは、あやしく光る看守の剣を見て取って叫んだ。
「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(28節)
 何かを積み上げれば幸せになると考える人は、失敗が何よりも怖い。けれども、大きな失敗を犯しても、主イエスにあっては、やり直しの道がある。

3、新しい出発―信じる生き方

ここで看守と囚人の立場が入れ替わって、看守が囚人に助けを求めた。

「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(30節)
 パウロの答えはいたって単純だった。
「主イエスを信じなさ。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
(31節)
 信じることが、看守を救った。ただ主イエスを自分の罪からの救い主として信じた。それで充分なのだ。

 主イエスを信じますかと私が問うときに、「いや、信じることができません」と答える人に出会う。その場合、かなりの人が思い違いをしている。以下にその勘違いの3つの種類をリストアップする。
1) 信じるには100%完全な信仰が必要だと思い込み、自分は不完全だからだめ、完全に信じられるようになったら信じる。
2) 信じたら、マザーテレサのような立派な人に瞬時になるべきだが、自分はなれそうにない。だから信じない。
3) 何をやっても中途半端だった自分だから、信じても生涯続けられそうもない。だから信じるとは言えない。

 こういう人たちの勘違いは、自分の力で自分を救おうとするものだ。よく考えてほしい。僕らは主イエスに救っていただく立場なのだ。自分で救えるほど我々の罪は軽くない。以下にたとえ話をしてみよう。

 身寄りのない日本人男性が、アメリカで手術を受け、日本語の話せる美しいアメリカ人女性に介護してもらうことになった。入院数日後、あなたの洋服や下着を洗濯しますよ、と言われたならどうするか。たいていの独身男性なら、申し出を断り、自分で洗うと言うだろう。けれども重体でベットから出られないのだ。清水から飛び降りる気持ちで洗濯を任せると、その女性は数時間後きれいにアイロンをかけて衣類と下着を持ってきてくれる。主イエスの救いはこれに似ている。

 人に見せたくない自分の罪の失敗、過去の汚れた罪、それを主イエスは残らず十字架で背負って死んでくださった。私たちは、ただありがとう、あなたを信じますと言えばいい。

 その小さな一言があなたの人生を変える。あなたを救うのは主イエス。あなたを変えるのは主イエス。あなたを愛すのは主イエス。

 主イエスをあなたの罪からの救い主として信じよう。そうすれば、牢獄のような暗闇でも、幸せになれる。主イエスを認め、主イエスと共に生きるなら、あなたは幸せな人生に入れる。

山を降りながら  マルコ9:9~13

1、誰にも話してはならない

 主イエスと3人の弟子は栄光の山頂を後にした。山を降りる経験、それは山を登るよりも困難な道かもしれない。
 弟子たちは、心躍る経験を山上で経験した。主イエスの栄光の姿を自分の目で見たのだ。だれかれとなく言いふらしたい内容だが、主は他言をゆるさなかった。

 「さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。」(マルコ9:9)

 特別に大きな祝福の経験は、時間をかけてゆっくりと心の中で咀嚼する必要がある。さもないと、大きな奇跡や驚嘆する主の介入を、まるで自分が偉大になったかのような錯覚を持ってしまう。
 大きな祝福の後は、ただ主を賛美しよう。土の器の中に表された神の栄光をたたえよう。それが、上手な山の降り方だ。

2、弟子の質問に答えて

 弟子たちは、主の苦難と十字架の死、そして復活という一連の予告の意味が理解できないでいた。それで、さきほど見たばかりのエリヤに関連して主イエスに質問した。

「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょう」(11節)

 マラキ4:5に「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」という預言がある。律法学者も、救い主が来る前に、エリヤが来ると解説していた。主イエスによると、エリヤはもう来ている、というのが主イエスの答えだ。マタイ11:14では、「実はこの人こそきたるべきエリヤなのです」とバプテスマのヨハネがエリヤの役割を果たしたと説明していた。

 バプテスマのヨハネは結局は殺された、と主イエスは言及された。これは、後に控えている救い主に対しても人々は同様に扱うと暗示している。主イエスの苦難と十字架と死は偶然ではなく、旧約聖書の預言の成就であると、主イエスは弟子達にヒントを出しておられる。実際のところイザヤ53章はまさに、救い主の苦難の預言となっている。イザヤ53:4「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」。

 主イエスはどんな質問にも答えてくださる方だ。さらに、その質問をきっかけに、もっと大きくて深い真理を開示してくださる方だ。だから、今あなたが持っている疑問、質問をぶつけてみよう。主の答えを注意深く見つめよう。

3、書いてある

 「エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことをしたのです。」(12~13節)

 12節と13節の主イエスの答えに注目しよう。同じ言葉を繰り返しておられる。マタイ4:1~10を見ると、荒野の誘惑の際も3度も用いたのが「書いてある」という言葉だ。主イエスの力強さの秘訣は、神の言葉に信頼することにあります。

 私はハワイに家族で移り住むにあたり、赤坂の米国大使館で永住権の承認書類をもらった。手にした時は、苦労して祈って待った後だったので本当に嬉しかった。これでアメリカに正式に渡れる。入国審査の際、私の立場を客観的に照明してくれるのはこの書類だ。たとい自分の気持ちに不安が起きても、ここに書いてある、と自分を励ました。たった一枚の紙切れが私たち家族の身分を保証してくれた。聖書は、それ以上だ。救われた事を確信させ、神の愛を分らせてくれる。主イエスが共にいることを教えてくれる。<書いてある>、これは私たちの信仰の土台だ。

 2005年3月11日、アトランタに住む当時27歳の女性アシュレイ・スミスさんの家に突然見知らぬ男が入り込んで来た。聞くと、裁判所から逃走してきたブライアンという男で、4人を殺した凶悪犯だと分かった。男がろう城したのが分ると周辺は警察に封鎖された。恐怖の中でもアシュレイさんは、男に食事を出し、対話を試みた。自分が離婚して傷ついたこと、覚せい剤中毒だったこと、主イエスに出会い人生が変わったことなどを心を込めて話した。リック・ウォレンの『人生を導く5つの目的』(パーパス・ドリブン・ライフ)の32章を読んで聞かせた。人は神の下さった賜物を生かして生きるように造られた、あなたもそう生きたらいい。自首して人生をやり直せと勧め、男はそれに共鳴して翌日警官の前に出て行った。
 アシュレイさんは、ブライアンから天使と呼ばれたが、彼女はそれを否定した。つまり上手に山を降りたのだった。

 「1トンの興奮より、1グラムの信仰を大切に」とは、確かスポルジョンの言葉だったと思う。あなたも、素晴らしい祝福経験の山から降りることを学ぶ必要がある。徐々に高度を下げる旅客機のように着陸することが必要だ。歳を重ねることも、仕事をリタイヤすることも、恵まれたキャンプから実生活に帰る時も、奇跡を経験した後も、上手に自分と付き合おう。そして、ただ神をたたえよう。謙虚に生きよう。そして、どんな時も「書いてある」というキーワードに戻って、主の約束と愛を確認しよう。山を降りる経験は、もしかしたら、主の山を上る経験なのかもしれない。

高い山で マルコ9:1~8

1、高い山で起きた3つのこと

主イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。 近くの山といえば標高2814メートルのヘルモン山と考えるのが普通ですね。 そこで起きた事は以下の3つです。

1)主イエスが栄光の姿に変わった
2)エリヤとモーセが現れた
3)天から声がした

「それから6日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」(2~3節)
マタイの福音書17:2では「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」とその時の様子を説明している。主イエスが本来持っておられた神としての姿が3人の弟子の前で明らかになりました。神が造られ太陽ですら3秒と凝視できないのが人間です。ですから、神の栄光を言葉で説明するのは不可能といえます。

「また、エリヤがモーセとともに現われ、彼らはイエスと語りあっていた。」(4節)
エリヤは旧約時代を代表する預言者。一方のモーセはイスラエルの民をエジプトから導き出し、神の律法を人々に教えた旧約時代最高の指導者・教師。つまりこの二人は、旧約聖書を代表する人物とみてよい。その二人が、主イエスと語り合うという出来事は、主イエスこそ旧約聖書が預言してきたまことの救い主であるという証明になります。ルカ9:31によれば、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について話していた」という。
 
 「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」 (7節)
主イエスが公生涯の初めにバプテスマを受けましたが、その際天から聞こえた声と酷似しています。明らかにこれは人間の声ではなく、父なる神の声でした。


2、弟子たちの反応

ペテロたちの反応は2つあります。第1は驚き。第2は恐れです。ペトロはあまりに突然な主の栄光とエリヤらの出現に驚愕し、自分が言っていることすら冷静に把握できませんでした。いわば顕現記念チャペルを建立しますと言ってしまったのです。ペテロたちは、恐怖の念にとらわれました。神の栄光は、日常生活に前ぶれなくやってきます。

日本にいた頃の話ですが、大きな茶封筒が届いたことがありました。どうせ何かの宣伝かダイレクトメールだろうとしばらく開けもしませんでした。数日後、開封すると「おめでとうございます。2名様ハワイ旅行当選です」とあり、こういうタイプのキャッチセールスはよくあるんだ、と思って無視しました。家内が、まさかと思って、発送元のホームセンターに行ってみると、家内の名前で当選発表がしてあり、全国30万人の中から選ばれたということが分かり驚きました。家内は娘を連れて、本当にハワイ旅行を無料で満喫しました。これは小さな出来事で、たわいもないことですが、その後すぐハワイで牧師になるように導かれた事を考えると、神の導きの伏線があったこと驚きました。
神の栄光は、日常生活に突然流れ込む神の力と臨在の強烈な印です。


3、神の栄光がもたらすもの

権力者に捨てられ殺されると6日ほど前、主イエスは弟子たちに予告されました。また、主イエスについて来たい者は自分を捨てる必要があると厳しい姿勢を教えられました。それで、十二弟子は恐れと不安を持ったはずです。そんな時に天から父なる神の声がかかりました。

 「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」 (7節)

主イエスの栄光の姿を目撃し、エリヤとモーセと出会った3人の弟子は、主イエスこそまことの神であるという確証をもらい、たとえ厳しくても主イエスに従う道は正しい道であると確信を強めたはずです。ペテロは、生涯この日のことを忘れず、次のように説明しました。

「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」(第2ペテロ1:16~18)

あなたの生活に、主イエスの栄光がすでに注がれていませんか。もう一度、信仰の目で見つめ直しましょう。今、暗黒の中にいるなら、主イエスの栄光が光輝くように祈りもとめましょう。

一人の女性が就職試験を受けました。アメリカでは、<落ちた>という知らせは通常来ません。1ヶ月間何の便りもないので、落ちた事実を認め、どこが足らなかったのか聞こうと電話をかけようとした瞬間、電話が鳴りました。取ってみると、その会社からで、「おめでとう、採用されました」という内容でした。彼女はクリスチャンでした。話し終えてから「やったー」と叫んだのは当然ですが、まるで主イエスの栄光に出会ったような瞬間でした。

主イエスは生きておられます。今も、あなたにご自身を知らせたいと願っておられます。あなたの今週の歩みの中に、主イエスの栄光が届きますように。素晴らしい驚きが来ますように。

十字架を負って マルコ8:34~38

 旅に出かけるとき、普通3つの作業をします。第1に、出かけると決めます。第2に、いらない物を置いていきます。第3に、大切なものを持っていきます。

 主イエスは、人生という旅のために必要な忠告をされました。
1、 ついて行く意志
2、 自分を捨てる
3、 十字架を負う

1、ついて行く意志
 
 主イエスは、すでにペテロやアンデレを招いています。「わたしについて来なさい。」(マルコ1:17)それに応えて、12弟子はついて来ているのです。今日の場面で主イエスが再び「ついて来なさい」と言われたのは、弟子たち心を再点検し、基本姿勢を確認されたとみるべきでしょう。
 あなたは、主イエスについて行くと決心しましたか。主イエスの背中が見えるような人生を送っていますか。
 主イエスについて行くと、はっきり心に決めることは、何よりも大切です。
 
2、自分を捨てる
 
 星野富弘さんの詩は、自分を捨てることに関して深い示唆を与えてくれます。

いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあうと知った日
生きているのが嬉しかった

 自分に執着すると、かえって不幸になります。もともと、命は神さまからもらったもの。私たちの所持物も、神の恵みで一時的に手元にあるのです。最後は、何ももたずに、神のもとに帰ります。
 旅に出るときや、遠距離に転居する時も、何が大事で、何が不必要か分ります。それと同じように、一旦自分自身を、そして自分が抱え込んでいるもの全部を神にお返ししてみましょう。
 自分の所持品、自分が築いてきた地位や名誉、今後の計画、大事にしている人々。これらのものを、神の御手に一度お返ししましょう。

3、十字架を負う

 十字架とは、何でしょう。当時の意味では、十字架は死刑の道具です。十字架を負うとは、処刑に使う道具を自分で背負って刑場に歩く姿を意味しました。
 人々の罪を赦すための十字架にかかる、これが主イエスの人生の目的でした。イエスさまの生涯は、目に見えない十字架を担う毎日だったのです。十字架にかかる前の苦しみは筆舌に尽くせないもので、恥と辱めと痛みと悩みに満ちたものです。
 そういう意味から、十字架とは、神の使命達成に付随する苦難ということができます。
 あなたの十字架とはなんですか。あなたの生まれつきの苦難、遭遇した苦しみ、絶えがたい悲しみ、などはあなたの十字架になる可能性があります。けれども、苦しみが自動的にあなたの十字架になるわけではありません。その苦しみを、逃げることなく担う覚悟が十字架を負うことにつながります。
 あなたに託された神からの使命を果たそうとすれば、あなたは様々な苦難に出会います。神の御旨を生きようと思えが、苦しみが発生するかもしれません。その苦しみや辱めから逃げない、これが十字架を負うことなのかもしれません。

 1534年8月、イグナチヨ・デ・ロヨラは、6人の仲間と共に、神にすべてを捧げる誓いをパリ郊外モンマルトルで行いました。その中にいた20歳代後半の男性が、後に日本を訪れ福音を伝えましたフランシスコ・ザビエルです。自分を捨て、自分の十字架を負って、主についていった一人です。

 あなたの人生の旅支度は済みましたか。捨てるものを捨て、負うべきものを勇気を持って負い、主イエスの後についていく、これが幸いな人生の秘訣です。