ヨハネ11:1~16  病気の知らせ



  今日は、3つのことを取り上げます。
第一に、主に愛されている人でも病気になる。
第二に、納得できなくても、神の言葉は神の言葉
第三に、病の目的は、神の栄光があらわされること。

 
1、主イエスに愛された者の病

さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。(ヨハネ11:1)

都エルサレムから3キロほどの町ベタニヤに、3人の兄弟、マリヤ、マルタ、ラザロが住んでいました。ラザロは、主イエスに愛された人(3、5節)で、「わたしたちの友」(11節)とイエスさまに言われています。

そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(ヨハネ11:3)

 「あなたが愛しておられる者が病気です」という言い方に、マリヤたちの気持ちが表れています。困惑と怒りが隠れています。マリヤとマルタが信仰の危機にあることが見て取れます。
なぜですか。何かの間違いです。おかしいです。そんなこと、あるはずがありません。主イエスさまが特別に愛して下さっていたラザロが病で苦しむはずがないと訴えていました。

 86歳のシスター、渡辺和子(1927~)さんは、ボストンの大学で博士課程で学び、36歳という異例の若さで岡山のノートルダム清心女子大学の学長に就任しました。50歳の頃、渡辺シスターはうつ病になりました。とても苦しんだそうです。つらくて自殺すら真剣に考え、神さまをうらみました、とも言っておられます。
 クリスチャンの精神科医が、信仰とうつ病は何の関係もない、恥じることはない、と言ってくれて本当に慰められたとシスターは語っています。
なぜですかと後ろ向きに悩んでいたシスターでしたが、何のための病なのか、何のための苦しみなのかと、積極的に目的をとらえていく視点が与えられたそうです。

神に愛されている人でも病になります。
あなたが信仰を持っていても病気になります。
何も悪いことをしていなくても、病になることがあります。
それは、事実なのです。



2.納得できなくても、神の言葉は神の言葉

 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」(11節)

 眠っています、という言葉は、14節によると死んでいるという意味でした。弟子たちにとって、ラザロの死という事実は大きな衝撃でした。弟子の一人、トマスは、悲しみに圧倒され、自分を失って16節の言葉を思わず口走りました。

 17節によると、主イエスが到着した時にはラザロが墓に入って4日たっていました。ですから、マルタとマリヤが使いを出してすぐにラザロは死んだと思われます。冷たくなったラザロの遺体の前で呆然としていたマルタとマリヤのもとに使いの者が帰って来たことでしょう。主イエスは来てくれなかった。悲しみに失望が重なった彼女たちに、使いの者は主イエスの言葉を伝えたはずです。でも、マルタとマリヤには空しく響いたことでしょう。

イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(4節)

 主イエスは、死で終わらないとはっきり言っておられましたが、彼女たちは聞き取ることができません。

神のことばは、納得できたから真実になるというものでもありません。マルタとマリヤが納得できなくても、受け入れられなくても、神の言葉は神の言葉というだけで真実なのです。
 
 

2、神の栄光のための病

ラザロの病に目的があったのです。ラザロの死にすら意味がありました。それは、神の栄光のためだったのです。

イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(4節)

神の栄光とは何でしょう。
それを見たり体験して、神は本当にいるんだ、と心で深くうなずいた状態と言い直してもいいでしょう。神の力は何と偉大なんだろう、私はなんとちっぽけなんだろう、と神の大きさに圧倒され謙虚になった体験を、神の栄光の体験と言ってもいいでしょう。

 NBAバスケットボールの選手のジェレミー・リン選手は昨シーズン大きな話題になりました。台湾系アメリカ人のリン選手は、大きな黒人選手の中で小さくきゃしやに見える選手。ハーバード大学を卒業した優秀な生徒で、将来牧師として奉仕したいというクリスチャン。2つのチームに入りましたが解雇され、ニューヨーク・ニックスに入っても出番がなく、選手仲間のリビングのソファーで眠った翌日、怪我した選手の穴埋めとして201224日の試合に急遽出場して大活躍、一躍スターとなりました。リン選手は、試合後のインタビューでも、神の栄光のためにプレイしていると語りました。リン選手の場合、どん底で神から出場チャンスをもらった事自体に神の栄光があらわれ、さらに、試合で大活躍したことによって神の栄光が表れ、インタビューで神のあかしをして栄光をあらわしました。彼は、選手生活を終えた後も神の栄光をあらわすでしょう。

神は、神を愛する者の病の中に、神の栄光をあらわして下さいます。
神に愛されている者の試練の中に、神は神の栄光をあらわして下さいます。
神が愛してやまない者が死んでしまっても、神は栄光をあらわして下さいます。

あなたは、それを信じますか。

私の人生を通して、神の栄光をあらわして下さい、と積極的に祈りましょう。また、私の病と通して、さらに、私の死を通しても神が栄光をあらわして下さるようにと祈りましょう。

 →あなたの番です
 □主に愛されている者でも病の中、試練の中を通ることがある
 □主イエスは、私たちの苦しみを知っておられる
 □病の中に、涙の中に、神の栄光は必ずあらわされる

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第1ペテロ5:10)

ヨハネ10:1~42  良い羊飼い



  ヨハネ10章は、主イエスが羊飼いであることが力強く述べられています。主イエスが羊飼いなら、私たちはみな、羊になります。
羊の特徴は何でしょう。臆病。道に迷いやすい。弱い。頑固。誰かに似てますか?
失敗、挫折、病気、人間関係のもつれ、岐路に立ったとき、過ち、そんな時、私たちは自分が弱く、迷った羊だと感じます。

1、主イエスは良い羊飼い

 主イエスは、どんな意味で良い羊飼いなのでしょう。
主イエスの語られたことを手がかりにすると以下のようなことが分かります。

1)羊を知っている(14、27節)
2)羊を救う(9節)
3)羊に、命と安らかな生活を与える(9、10、28節)
4)羊のためにいのちを捨てる(11、15、18節)

わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(9~11節)

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。(14節)

 「羊」の代わりに、あなたの名前を入れてみましょう。あなたが、主イエスにどんなに大切にされているか気づきますよ。ダビデは詩篇23:1で「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と歌っていますね。

 ある日本人青年がオーストラリアの神学校に行って学び始めました。海外旅行が初めての経験で英語がまったく分からず、IQテストを受けると質問が分からないので0点で、校長に呼び出されました。日本に帰れ、お前は落第だと言われることを覚悟しました。学長は、遠くから学びに来てくれてありがとう、みんなあなたを歓迎している、心配するな、自分にできることをして、学校を楽しみなさい」と言ってくれました。この学生は牧師となり、現在も日本で用いられています。愛されていることが何か、この経験で学んだと言われています。

 主イエスは、あなたの名前を知っており、誰よりもあなたを良く知っていて、あなたを導き、あなたを守り、あなたに命を与え、あなたを豊かにし、あなたのために命を捨ててくれたお方です。私たち羊を命の道に導いてくれる最高の羊飼いです。

 命を捨てるのは、それ以外に助ける道がなくて最後の手段で命を捨てるということです。今年の北海道で何十年に一度の寒波が来ましたが、ある50歳代の男性は夜、9歳の娘さんを連れ帰る途中、猛烈な吹雪で視界を失い、車を捨て知り合いの家を目指しましたが、行く手を阻まれ、風に背で受け娘さんに自分の上着を着せて朝まで頑張りましたが、お父さんは凍死、娘さんの命は守れらました。

 もし、あなたが、道に迷い行く手を失っているなら、泥沼に迷い込んだ羊のようになっているなら、自分は失格者だ、自分なんて何の価値もないと思う人がいるなら、あなたの後ろを振り返ってください。泥まみれになってあなたを探しに来た主イエスがいるはずです。

 主イエスは、あなたのために命を捨てた、まことの救い主、あなたの羊飼いです。


2、主イエスは父なる神と一つ 

 主イエスは祭司や律法学者から見るなら、爆弾発言とみなされることを言われました。

 「わたしと父は一つです。」(ヨハネ10:30)

 これは、主イエスが行っている事と父なる神が行っていることが本質的に同じだと、27~29節で説明された結論でした。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(27~29節)

旧約聖書エゼキエル書34章には、羊飼いについての長い言及がある。「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる」(エゼキエル34:15)その箇所では、まことの羊飼いとは神ご自身であると語られている。主イエスが、ご自身こそ良い羊飼いであると主張され、神と一つであると発言されたのは、旧約聖書の観点から見ても必然的帰結なのです。

 ユダヤ人たちは、主イエスの発言を表面的に受け取り、神を冒涜していると即断したので、手に手に石を握りしめ、石打ちの刑にしようとしました。(31節)

 主イエスは冒涜ではないと反論、主イエスが行って来た奇跡のわざに目を留めよ、と次のように語られました。すると、人々は振り上げた手を下ろすしかありませんでした。

 もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。(37~38節)

 水をぶどう酒に変え、カペナウムの役人の息子の病気を言葉だけでいやし、ガリラヤ湖の水の上を歩き、38年間歩けなかった男を立ち上がらせ、生まれつきの盲人の目を開けた主の奇跡のわざを否定することは、たとえ敵対者たちでさえできませんでした。

 私たちは弱く、迷いやすい羊ですから、まことの羊飼い、主イエスについていきましょう。


 →あなたの番です
 □あなたは、羊飼い主イエスに今日も導かれています
 □主イエスの声を聞いて、ついて行きましょう
 □主イエスのみわざが行われるように求めましょう

ヨハネ9:1~41  マイナスをプラスに



  この一節。ヨハネ9章3節。
この言葉で、どれほど多くの人が慰めらて来たことだろう。
傷ついた人、絶望した人、そして、その親たちは、この言葉で生きる勇気をもらってきた。

1、神のわざ

主イエスの弟子たちは、生まれつきの盲人を見て、素朴な質問をした。誰が悪いのか。誰が原因か。弟子たちは当時の人々の常識を述べたに過ぎなかった。盲人に生まれついたのは、本人の罪か、親の罪か。日本人なら、先祖のたたりか、と聞くだろう。

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:3)

なんとパワフルな言葉だろう。なんと積極的な言葉だろう。
神のわざがその人に現れるとは、次の3つの意味があると私は考える。
 1)神の力がその人の内部で働くこと。
 2)神の力がその人に及んだことが、周囲の人に分かること。
 3)本人や親たちが、生生きがいを持つこと。

英語訳聖書では、神のworks displayed in himとなっていて、神のわざがどんなにはっきりと示されるかが分かる。

Neither this man nor his parents sinned,” said Jesus, “but this happened so that the works of God might be displayed in him.(ヨハネの福音書9:3NIV

滋賀県に近江学園という知的障がい者の施設がありますが、設立者は日本の知的障がい者教育のパイオニアの一人、糸賀一雄(いとが・かずお、1914~68年)です。彼は高校時代にクリスチャンになっていました。彼は、常日頃からこう言っていました。この子供たちに光を、ではなく、この子供たちを光に。障がいを持った子どもたちが自ら輝く素材だから、もっと磨きをかけて輝かそうという発想です。

生まれつき、あるいは人生の途中でマイナスを背負っても、主イエスを信じて輝いる人たちがたくさんいます。たとえば、星野富弘さん、水野源三さん、レーナ・マリヤさん、ニック・ボイチェチさんの人生を見ると、神のわざを見ることができます。

生まれつきの盲人の男性は、主イエスによって目に泥を塗られました。(6節)シロアムの池までは、盲人の足では遠かったはずですが、その池の水で洗いなさいと言われ、アクションを起こしました。あなただったらどうしますか。

「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(7節)

 生まれつき目が見えないということは、あなたにとっては何を意味しますか。
主イエスを信頼し、主イエスの言葉を受け入れましょう。それが、いやされる鍵です。主イエスを信じて、歩き出しましょう。その時、あなたは光の中にいることに気づきます。


2、私は信じます

ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。(14~16節)

9章の後半、パリサイ人らは主イエスを非難し続け、いやされた盲人を尋問し、盲人の両親まで引っ張り出しました。(18~23節)その男性は、何度もパリサイ人に呼び出され、同じ質問をされてうんざりして、詳しいことは分からないが「今は見える」(25節)と述べました。

イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(35~38節)

盲人だった男は、会堂の組織から追放されましたが、主イエスを信じ、礼拝しました。

パリサイ人たちはウルトラ頑固でした。生まれつきの盲人がいやされても否定する努力を繰り返し、盲人をいやした主イエスを否定しました。目が開いているのに、目が閉じた状態になっています。(39~40節)
そういえば、日本の三大頑固の産地(?)として知られるのが、津軽、肥後、土佐です。それぞれ、「じょっぱり」、「もっこす」、「いごっそう」、という呼び名があり、頑固な男たちが有名です。生まれた場所に関わらず、人は皆、頑固です。でも、頑固な人ほど、主イエスを信じた後が素晴らしいです。

岡山医大を1948年に卒業した男子学生、青木優(まさる)さんは、将来に夢を抱く医者の卵でした。病院でインターンとして勤務していたある日、目に稲妻のような光が走りました。それは網膜出血で、最終的に失明してしまいます。布団の中に頭を入れ、「なぜだ」と叫び続けました。そんな中でヨハネ9章3節の言葉に出会いました。「この一行の言葉のうちに、私は、イエスが『お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ』と語りかけておられるのを感じた。それは電光のように私の頭上にひらめき、雷鳴のように私の魂を打った」(『行く先を知らないで』より)なぜ、と理由を探すことをやめ。むしろ、この出来事の中にこそ、神の目的があると気づき、神学校に入学、牧師になり、多くの人を励ましました。

あなたにとってマイナスと思える要素は、神のわざが現れるチャンスとなります。あなたのマイナスをプラスに変えるもの、それが、プラスの形をした主イエスの十字架です。
主イエスと主イエスの言葉を信じて、あなたのシロアムの池に出かけましょう。
 
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:3)

→あなたの番です
□あなたのマイナス要素は、神のわざが現れるチャンスと考える
□主イエスを信頼し、シロアムの池であなたの目を洗いましょう

ヨハネ8:1~59  あなたは誰ですか


1、罪をゆるす主イエス

 最初に本文の問題に触れておきます。
 ヨハネ7:53~11は、新改訳聖書では括弧の中に入っています。この意味は、本来のヨハネの文章にはなかったという意味です。英語聖書NIVにも注意書きが付いています。
 文脈、文体、使用される語彙などが、この箇所が本来のヨハネのテキストになかったことを裏付けています。また、この物語は、写本によって、ヨハネの福音書の最後に付記されたり、ルカの福音書21章、または、24章の最後に挿入されたりしています。
 「この書には書かれていないが、まだ他の多くのしるし」(20:30)がある、とヨハネは言及していますが、ヨハネも共観福音書の記者も記録しなかった出来事の一つが姦淫の場で捕まった女の出来事なのかもしれません。さあ、内容に入りましょう。

私がこの場にいたなら、たぶん、怒ったでしょう。相手の男はどこにいる、その男も同罪だ。この女の命を何とも思わないのか、おまえたちは人間ではない。
ですが、主イエスは、静かに身をかがめていました。主イエスの心の中には別の風が流れていました。批判の北風でなく、ゆるしの風です。一言だけ言われました。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)
 
 年長者から出て行き、やがて、一人も残りませんでした。ここで分かることが2つあります。第一。主イエスは石を投げられる人としてその場に残ったのですから、主イエスは罪のない者なのです。第二。主イエスは女の罪を赦すことのできる方だということです。

 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)

 主イエスがどんな方か、心にとめてください。罪を指摘するのが人間です。罪を赦すのが主イエスです。殺そうとするのが人間で、生かすの主イエスです。

 私は家庭という場所が特別な場所だと思っています。子供は大人になるまで、何回も悪さをし、嘘をつき、親を裏切りますが、親は子供たちを何百回でもゆるします。家庭は本来、ゆるしの場所なのです。妻と夫も同じです。何度も過ちを犯し、謝り、ゆるします。同じことを家庭の外でしたら、人間として終わりになってしまいます。ゆるされて育ち、愛されて生きるのです。

 主イエスを信じて生きるということも、神を父とした家庭の一員になることです。主イエスが、ゆるしの鍵を握っています。
 さあ、飛び込みましょう。及びもつかないほどのきよいお方である、主イエスの胸に飛び込みましょう。主は、近寄りがたいほどきよく、罪のないお方でありながら、罪にまみれた私たちを抱きしめてくださる方なのです。「わたしもあなたを罪に定めない」


2、あなたは誰?

 主イエスとユダヤ人との会話が8章全体で続きます。
 ユダヤ人は、主イエスの奇跡をすでに知っており、主イエスが普通の人ではないと気付いていました。では、いったい誰なのかという疑問が起きました。それで、主イエスと話していた人々は「あなたはだれですか」(25節)と尋ねたのです。

 主イエスの答えは、予想範囲を超える内容でしたので、人々はそれについていけません。

 ①主イエスに従う者は、決してやみの中を歩むことがない、と言い切りました。(12節)
 ②主イエスを遣わしたのは、父なる神だと明言されました。(18節)
 ③主イエスは、上から来たと語られました。(23節)
 ④父なる神から聞いた事だけを、そのまま告げていると言われました。(26節)
 ⑤主イエスを遣わした方は、主イエスと共におられると言われました。(29節)
 ⑥主イエスのことばにとどまるなら、わたしの弟子だと教えました。(31節)
 ⑦主イエスが真理を教え、真理が自由を与えると述べました。(32節)
 ⑧主イエスのことばを守るなら、死を見ることがないと約束されました。(51節)
 ⑨アブラハムが生まれる前から、主イエスはおられると断言されました。(58節)

 人々は、主イエスの言葉を文字通り受け取れず、主イエスが自分を神と等しくし、神を冒涜しているとして、石を投げて主イエスを殺そうとまでしました。

 あなたは、どう思いますか。主イエスは誰ですか。

 主イエスの言葉を否定するなら、8章に登場するユダヤ人と同じになります。主イエスの言われることを文字通り受けとめるなら、主イエスが神であり救い主だと分かります。
 
 ヴィクトル・ユーゴーが1862年に書いた小説『ああ無情』のテーマはゆるしだと私は思います。主人公ジャン・ヴァルジャンが刑務所から出て教会を尋ねると、司教は「あなたの名を知っていますよ、あなたの名は兄弟です」と言う場面が有名です。それなに、ジャン・ヴァルジャンは銀の食器を盗んで逃亡、警察に連行されます。司教は、銀の食器は私が差し上げたもので、この銀の燭台を忘れていますよと言って司教はゆるしと恵みを与えます。主人公は、その銀の燭台を生涯離さず、受けた赦しを他の人に返していく生涯を送るという小説です。私は、ヨハネ8章とテーマが通じるように思えます。

 主イエスは、優しい方で、思いやりの深い方ですが、それだけではないのです。神が人となられた方なので、事実、罪を赦し、命を捨てて罪の身代わりに十字架につき、私たちの罪を完全に帳消しにされたのです。主イエスが8章で語られたことは本当なのです。

 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(12節)

→あなたの番です
 □主イエスに罪を赦されていることを感謝しましょう
 □主イエスのいのちの言葉にとどまりましょう。

 
 
 

ヨハネ7:1~52  生ける水の川



 ヨハネ7章を要約します。
 主イエスは、秋に行われる仮庵の祭りに参加するためエルサレムに上られました。祭りに参加した大勢の人々の話題は、主イエスが救い主であるかどうかという点でした。宗教指導者のパリサイ人たちは、こうした情勢に危機感を抱き、役人を遣わして主イエスを逮捕させようとしましたが、役人たちは主イエスの教えに驚嘆したため捕らえることを断念しました。
 今回は、「わたしの時」、「生ける水の川」という言葉に焦点を当てます。

1、わたしの時

 ヨハネの福音書では、「わたしの時」と言う表現が何度も登場します。これは、主イエスさまが十字架につく時を意味しています。
 主イエスは、母マリヤに「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)と言われました。7章では、まだ主イエスを信じていない弟たちの言葉に応えて「わたしの時はまだ来ていません」(7:6)と語られました。さらに、8節、30節にも、まだ時が来ていないと書かれています。
 それが、12章23節になると「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と変化し、「自分の時を知られた」(13:1)、「父よ、時が来ました」(17:1)という表現になります。

  主イエスにとって、「わたしの時」とは、何でしょう。それは、父なる神の時、と言い換えても良いでしょう。主イエスは、十字架にかかる時がいつなのかを父なる神に問い、導きを求め、軽率な行動をつつしまれました。ご自分の使命を実行に移すタイミングを冷静に見ておられたのです。

 神は、あなたの環境を突然の濁流のように変化させ、時を教えることがあります。逆に、いつもの静かな繰り返しの中で、あなたの心に大きな変化を与えることもあります。
 「すべての営みには時がある」(伝道者の書3:1)と書いてある通りです。
 あなたの時を見極めましょう。あなたの時と何ですか。勇気を持って動く時ですか。はやる心を落ち着かせて、待つ時ですか。

 首から下の自由を失った星野富弘さんが、「渡良瀬川」という印象深い文章を書きました。小学生で泳ぎを覚えたての星野少年が、強い水流に流されて、岸にもどろうと必死に泳いだけれども押し流されたというのです。あの岸に戻るのをやめ、どこかの浅瀬に着くはずだと身を任せると膝下程度の水深の地点で立ち上がることができたという内容です。なにも、あの岸にもどれなくてもいいじゃないか。闘病中の星野さんは、この出来事を自分にも当てはめ、動かない体で生きる道を模索するようになります。
 これも、パーソナライズされた<わたしの時>を悟る例かもしれません。

 あなたの時とは何ですか。


2、主イエスの教え

 主イエスの言葉にゆらぎはありません。比類なき神の言葉を語られる神の子。それがヨハネの福音書に顕著な点です。はじめにことばがあり、その方が語っておられるのです。

 祭りに集まった人々は主イエスのことを話題にして、「良い人」だとか「群集を惑わしている」(12節)などと話し合っていました。「悪霊につかれています」(20節)と言う人までいました。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」(31節)と言って、主イエスの奇跡に目を留める人も大勢いました。「預言者なのだ」といったり、「この方はキリストだ」(41節)と言ったり、意見が分かれていました。(43節)

 特筆すべきは、主イエスの言葉が普通の人とはまったく異なっていたことです。
 「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」(15節)と、主イエスの教えを神殿で聞いていたユダヤ人たちは舌を巻きました。主イエスを逮捕するよう命じられた役人たちは、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」(7:46)と語り、逮捕できなかった理由にしました。

 主イエスは、ご自分の言葉がどこから来ているかを説明されました。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(16節)「あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。」(28~29節)6章では、「だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」(6:46~47)と証言されていました。
 
 父なる神を見ていて、父なる神から遣わされていて、父なる神の言葉を語られているので、主イエスの教えは普通の人の教えとはまったく違うのです。主イエスの言葉は、哲学的な深みと深い洞察があり、人を感動させる愛の言葉です。でも、それだけではありません。信じる人の心と生活を変化させる、力ある言葉なのです。それは、仮庵の祭りの最終日、神殿の祭壇に大量の水が注がれる時期に合わせて、主イエスは印象的な言葉を語られました。他の誰がこのような言葉を言えるでしょうか。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(37~38節)
 
 主イエスを信じることは父なる神を信じること。主イエスを信じる者の心には聖霊なる神が住んで下さるので、聖霊によって生ける水の川が流れ出す。(39節)
 水が一箇所にたまるだけなら、単なるため池です。ため池はやがてにごり、いやなにおいを発し、最終的には干上がります。多くの人は、このため池のような人生を送っています。
泉は違います。地下水脈は出口を探し地表にあふれて泉となります。泉は枯れることを知りません。泉から流れ出た水は小川になり、やがて大河となって乾いた土地を潤して流れ続けます。主イエスを信じたなら、あなたは心に泉を持ったのです。父なる神に直結している主イエスを信じたのですから、あなたの心の泉は本物なのです。あなたの心で始まった生けるいのちの水は、あなたの渇きを癒すだけでなく、あなたの周囲の人々を潤す大きな流れになるのです。
さあ、今週、あなたの生ける水の川を周囲に流しましょう。周りの人の心をと具体的な必要を潤しましょう。

絢子さんは秋田の生まれで、おばあさんと寝起きしていました。ある朝、おばあさんが「おれ死ねば、ここさ入るども、んだども、どこさ、いくんだべが」という独りごとを聞きました。翌年おばあさんが亡くなり、死の意味を真剣に求めるようになりました。大学に入り、クリスチャンの先生や上級生と出会い、教会に通い、聖書研究会に出席しました。「わたしについてきなさい」(マルコ1:17)の言葉が心に迫り、この方について行きたいと願い、やがて決心、洗礼に導かれました。
田舎に帰ると親族会議が開かれ、絢子さんに信仰をひるがえすようにと圧力がかかりました。けれでも、どんなに大人が説得しても決心は変わりません。お母さんが彼女にこういいました。「おめも大変だべな。んだども、おめがあの部屋っこさ入って出てけば、なんだかたいした落ち着いた、安心した顔になってるども、あそこで何してるんだ」聖書読んで、祈っているだけだと答え、「読んでみねが」と誘うと、「んだな」と言って、一緒に聖書を読み、祈るようになり、15年後に洗礼を受けたといいます。
絢子さんは、主イエスとつながることを知ったので、神が強さを与えてくれたのです。絢子さんは、主イエスの言葉に信頼することによって、人生が変わったのです。心の底から、生ける水が流れだしたことを経験したのです。
あなたも、比類ない神のことば、主イエスの言葉を受け入れて生きることにしませんか。

「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(38節)

→あなたの番です
□あなたの使命は何ですか、それを実行する<あなたの時>はいつですか
□あなたの持っている生ける水の川を周囲に流しましょう


 



ヨハネ6:1~71  いのちのパン



  ヨハネの書き方の特徴は、一つの出来事をまず取り上げ、それに対する群集や律法学者の反応を述べ、その議論全体から主イエスがどんな方かを説明するやり方を取っています。
 6章も同様で、5000人の給食という奇跡をきっかけに、主イエスがいのちのパンであることを述べています。
 あなたにも、いのちのパンが必要です。

1、困った時に何かが起こる

 ガリラヤ湖のほとりに大群衆が押し寄せていました。男の数だけでも5000人が集まって主イエスの話を聞いていました。

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」(ヨハネ6:5)

 現実的な解決がどうしても必要になった時、その時が、私たちの信仰が成長する機会になります。今、あなたが、人間関係でピンチに立った、お金が急に必要になった、病気や怪我をしてしまった、当てにしていたものが全部だめになった、などの具体的なトラブルは、あなたの信仰が成長するチャンスなのです。主イエスはピリポや弟子たちをためし、信仰を豊かにし広げようとされました。「イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。」(6節)

 ピリポは、計算しました「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」(7節)現代的に言えば年収の半分以上の費用が必要だったので、途方に暮れました。
 アンデレは、「大麦のパンを五つと小さい魚を二匹」(9節)を少年から分けてもらうことに成功しましたが、焼け石に水と気落ちしました。この少年は良く承知したと思います。

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。(11節)

主イエスがされたことに注目して下さい。①感謝する。②分ける。主イエスの手元にあったのはパンが5つ。それも貧しい人々が食べる大麦のパン。魚が二匹。大きな魚ではなく、小魚の干したもの二つ。主イエスはそれを感謝しました。手元にあるものを感謝しました。なんと美しい姿でしょう。その後、主イエスは、それをシェアしました。

これは、私たちへの大きな励ましです。主は、わずかな食物から5000人が満腹するほどの食べ物を生み出すことのできる方です。まさに、いのちのパンです。

 大麦のパン5つと小さい魚2匹。それは、何を意味しますか。あなたの能力、あなたのお金や時間、あなたの経験、あなたの祈り、あなたの努力、あなたの熱意がそれです。そのわずかなものを心から感謝しましょう。それを使ってみましょう。


2、いのちのパン

 主イエスはどんな方ですか。主イエスは、天から下って来たいのちのパンです。ヨハネは、まるで、交響曲や協奏曲を演奏するように、同じ主題=「いのちのパン」という主旋律を何度も何度も美しく奏でています。

「わたしはいのちのパンです。」(48節)

 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(34~35節)

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(51節)

 パンは、鑑賞するために存在しません。食べることで人の栄養となり命になります。主イエスは、わたしを食べなさいと言っておられるのです。私たちが食べられるように、ご自分の命を十字架で投げ捨てて下さったのです。パンである主イエスを食べるということは、主イエスを救い主として信じるということです。(29節)

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56節)

 主イエスが、体や血という直接的な表現を使ったので、聞いていたユダヤ人たちは「これはひどいことばだ」と反発し(60節)、パンの奇跡で主イエスについて来るようになった弟子たちの多くが離れていきました。(66節)

 他の福音書では十字架の前の晩に聖餐式の記述がありますが、ヨハネの福音書にはそれがありません。ヨハネは、5000人の給食の奇跡の中に聖餐式と十字架を見ていたのです。

 ある郵便局にマイクという職員がいました。彼は、お客さんに何か一言、励ましになる言葉をいうことを心に決めました。毎日、どのお客さんにも、心が軽くなるような言葉を言い続け、38年がたちました。ですから今では、切手が家に残っていても、マイクに会うため郵便局に切手を買いに来る人がいるほどになりました。

 あなたも、手にある5つの大麦のパンと小魚2つを感謝して、分けることができるはずです。

「わたしはいのちのパンです。」(48節)

 →あなたの番です
 □あなたが困った時、あなたは成長する
 □あるものを、感謝し、分けてみよう
 □いのちのパンを信じ、人々にシェアしよう


ヨハネ5:1~47 歩きなさい


 結婚していても、家族があっても、たくさんの友人に囲まれていても、私たちは突き詰めると皆、孤独です。ひとりぼっちに気づくと自分に自信がなくなります。私たちは誰か、励ましてくれる人を待ち望みます。
 主イエスは、そんな私たちを励ましてくれる方です。歩き出す力を下さる方です。


1、よくなりたいか

 主イエスは祭りのためエルサレムに上っておられたが、38年間病気で歩けない男とベテスダの池で出会った。

そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」(ヨハネ5:5~6)

 「よくなりたいか」と主イエスに尋ねられて、男はイエスでもノーでもない答えをした。すべて他人が悪い、運命が悪い、自分は被害者だ。彼は、主体性を失った否定的な男だった。

病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(7節)

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8節)

この男は、誰かに似ていませんか。それは、私であり、あなたです。主イエスは、今日も、同じ質問をされます。「よくなりたいか」あなたは何と答えますか。
あなたにとって、38年間の病気とは何でしょう。絶対に無理だ。解決はありえない。変わりようがない。それは、一つの強固な信仰のようなものです。
そこから、一歩出ましょう。人のせいにしない。自分の能力や可能性だけで計算しないことです。よくなりたいです、と主イエスに答えましょう。
 主イエスは言われます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」主イエスを信じて歩き出せば、あなたは変わります。道は開けます。信じましょう。

アメリカ人で、ある地位の高い方に、困難な依頼をする必要が発生しました。普通に考えると「無理だよな。初対面だし。」と最初は気が重かった一件がありました。でも、気を取り直し、祈って、電話でアポイントを取ることにしました。受付の人が取り次ぎ、その人物の秘書に取り次ぎ、気づいたら本人と直接電話で会話していました。その会話で、解決の方向性が一気に開けた経験をしまし、主をあがめました。

歩き出してみましょう。


2、主イエスの生き方

男が主イエスにいやされたのが安息日だったので、ユダヤ人が主イエスを批判しました。病人をいやすことが、仕事に当たるというのです。血の通った人間なら、良かったね、38年間も病気だったのに完全にいやされて良かったと喜ぶところですが、律法主義に凝り固まった人々は規則違反だと声高に主イエスを責めました。

そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」(10節)

 主イエスは、こうしたユダヤ人の批判に答えて、ご自分がどんな姿勢で生きているのかを説明されました。それが、11節から47節までの内容なのです。

 主イエスの主張を分かりやすく言えば、父なる神がなさっている事、願う事をしているだけだというのです。

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(17節)

 父なる神は世界創造の働きを6日間で終え、7日目には休まれました。けれでも、人をあわれむという働きは一日として休むことなく続けておらます。詩篇121篇にあるように、主は眠ることもまどろむこともないお方で、私たちへの愛は24時間降り注いでいて下さる方です。だから、主イエスは38年間病気だった人をあわれまれたのです。「ですからわたしも働いているのです」

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」(19節)

主イエスは、父のしておられることをいつもじっと見ておられます。父のされる事と同じことをします。何でもします。これが、主イエスの行動の動機であり、勇気の源泉なのです。

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。(30節)

 主イエスを遣わした方、つまり父なる神のみこころを求めて、それを行うことが主イエスの行動原則です。37節の言葉をきちんと読めば、主イエスが父なる神の姿を見ていたこと、父なる神の声を聞いていたことがはっきり分かります。
 主イエスは、父なる神だけを見つめている方なのです。人の賞賛など必要としません。今、一人で正義を行うとしている人、誰かのために匿名で良い事をしようとしている人、主イエスの態度を学びましょう。

 わたしは人からの栄誉は受けません。(41節)


 父なる神がなさっている事、願う事をする。それが、主イエスの行動原則です。私たちも、主イエスの行動原則を真似したいです。

 奥さんが52歳でアルツハイマーになり、奥さんを精一杯看護した男性がいました。その方は、どんな事があっても日曜には礼拝に行き、奥さんに牧師のメッセージを教え、共に賛美歌を歌ったといいます。主イエスを見上げることが、看護の源泉になっていたのです。

 主イエスの姿を真似ることが、クリスチャンの生き方の基本です。それは無理だというなら、38年病気だった人と同じになります。
あんな消極的で、否定的で、他人のせいにするような人間が変えられたのです。主イエスは、今日も「良くなりたいか」と聞いて下さいます。私たちも、主イエスだけを見つめて、歩き出しましょう。

 →あなたの番です
 □よくなりたいとはっきり口に出しましょう。
 □主イエスの力を信じて、自分の足で歩いてみましょう。
 □主イエスの心と行動を、自分の行動原理にして今週を過ごしましょう。