再建に取り掛かろう ネヘミヤ2:9~20

 シリーズ「指導者ネヘミヤ」の第3回。リーダーシップとは何だろう。一番簡潔な説明は、影響力だ。ネヘミヤは文字通り、人々に大きな影響を与えた指導者だ。

1、夢を掲げること I have a dream.

 ネヘミヤは旅の疲れを取ると、夜間にエルサレムの城壁の南から東の部分を視察した。恐らく、北部から都入りをし、西部方面に宿舎があったので、南部と東部の視察が必要だったのだろう。最終的な実況見分を終え、ネヘミヤはついにユダヤ人指導者らに夢を語った。
 「あなたがたは、私たちが直面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼きは払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」(17節)
 1963年8月28日、約20万人の黒人らが人権回復を求めワシントンへ大行進を行ったが、マーティン・ルーサー・キング牧師はその際にI have a dream.と呼ばれる有名な演説をして多くの人々の心に希望を与えた。
 ネヘミヤも人々に夢を語った。リーダーシップとは夢を掲げることだ。自分の夢ではない、神の夢を語るのが真に霊的なリーダーだ。12節に「私の神が、私の心を動かし……」と書いてあるが、ネヘミヤの夢は神が与えた夢だった。
 第二次世界大戦後アメリカ生まれの日系二世が荒廃した東京に乗り込んで、町を再建しようと叫んでも、日本人は冷ややかな反応をしただろう。ネヘミヤの場合も、ペルシャかぶれの変なユダヤ人に命令されたくない、と冷遇されてもおかしくなかった。真摯な祈りが神に届き、マイナス要素の多い中でもネヘミヤは夢を伝達することができた。
 ジョン・マクスウェルはアメリカの企業家やリーダーたちのメンターと呼ばれるリーダーシップの権威だ。その彼は20年以上牧師をしてきた人物で、彼のリーダーシップ理論の土台は聖書だと言っても過言でない。聖書のリーダーシップは、政治でも経済でもどんな分野でも活用できる真理だ。
 神の夢はあなたにとって何だろう。神の夢を受け止めた人には、神の力がみなぎる。第2歴代16:9「その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」


2、影響力を与えること Let's roll!

 2001年9月11日、同時多発テロでユナイテッド93便はハイジャックされた。乗客らは世界貿易センタービルで何が起きたかを知り、自分たちの飛行機も大量殺害の道具となることを知った。戦うべきだと誰かが言ったのだろう。そして、男性乗客らは決意を固めた。午前9時55分、トッド・ビーマーは、「Let's Roll(さあやろうぜ)」と叫んで仲間と共にコックピットを目指して突入し、さらなる惨事を防いだ。

 リーダーシップとは他者に影響を与えることだ。ネヘミヤは、再建の必要性、神の御手、王の許可などを人々に詳細に伝えた。希望は人々にこだまして、再建の機運が盛り上がった。聖書の言葉に注目しよう。ネヘミヤの言葉はユダヤ人の言葉になっていた。
 「そこで彼らは、『さあ、再建に取りかかろう』と言って、この良い仕事に着手した。」(18節)

3、あきらめないこと He can do it.

 主のために働こうとするとき、また、良い事に着手する時に必ず反発が起こる。サヌバラテ、トビヤ、ゲシェム(10、19節)は、ネヘミヤの敵対者になった地方役人だ。ネヘミヤは、敵からの影響力を阻止した。反対に動じないのは、信念の強さでなく、神を見上げているからできる。
「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。」(20節)
 1970年4月11日、アポロ13号は月を目指していたが、酸素ボンベが爆発、3人の宇宙飛行士が生き残れる道を閉ざされた。月着陸船に酸素があることに気づき一同が乗り移り、寒さと暗闇と息苦しい船内で4日間耐え、奇跡的な生還を果たした。Jamese Lavell船長は、後に以下のように語ったという。どんなときでも決してあきらめてはいけない。神を信じ、神のうちに夢と希望を持ち続けなさい。未来はあなたの手の中にある。

 リーダーシップの話は、あなたには関係ない事ですか。こんな商売方法ではもうからないと気づいているなら、あなたは売り場のリーダーになる可能性があります。こうしたらチームは強くなれると思っているなら、あなたもコーチ候補者です。あなたが家庭にたった一人のクリスチャンなら、あなたがリーダーです。聖書を学ぶグループがあったらいいのになと思うなら、あなたがスモールグループを始めればいいのです。

 主イエスは12弟子を選び指導者として育てました。弟子たちは120人のクリスチャンのリーダーになりました。(使徒1:15)その120人はペンテコステで救われた3000人のリーダーとなったはずです。(使徒2:41)神は今もリーダーを求めています。

 あなたも、自分自身を主にささげ、主に喜ばれるリーダーになりましょう。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。」(マルコ8:34)

天の神に祈る ネヘミヤ2:1~8

 「指導者ネヘミヤ」シリーズ第2回は、リーダーの最も大切な資質について考える。

 ネヘミヤはアルタシャスタ王の側近の献酌官として仕えていたが、ある日、王に顔色が悪いと指摘された。それを機会にユダヤ人の都エルサレムが廃墟となっている事がネヘミヤの憂いの原因であると告げた。
王は、「では、あなたは何を望むのか」(4節)と尋ねた。数ヶ月祈り続けたチャンスが到来した。今だ。ネヘミヤは瞬間的に祈った。「そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた。」(4~5節)
ネヘミヤの提案を受け入れた後、王は詳細な質問してきたが、ネヘミヤはそのすべてに的確に答えるだけでなく、工事実施に必要な王の許認可をその場で求めた。(6~8節)
 ネヘミヤは、大胆であり、緻密な人だった。ひざまずいて祈る人であり、行動の人だった。その中でも目を引く指導者としての資質は、一番大切なものを見分ける能力だ。今日は、このポイントを考えてみたい。

 ネヘミヤはエルサレムの窮状を聞き、断食して祈る中で考え抜いた。ユダヤ人全体にとって励ましと希望になる行動は何か。神の栄光になることは何か。今の自分の立場と能力を使って奉仕できることは何か。その答えが、エルサレムの城壁の再建だった。これは、現地に住んでいたユダヤ人ですら、不可能とあきらめていた一大事業だった。

 普通の人は、なにげない繰り返しに埋もれて生活している。日常という瓦礫の山にうずもれている。不平は言うが、何も変えようとしない。何も見えていない。けれども、真のリーダーは、なにげない繰り返しの毎日から、問題の本質を切り出す能力を持っている。最も大切な目的や理念を提示し、力とエネルギーを集中できるよう呼びかけることができる。これが、指導者に最も必要な資質だ。

 組織の指導者や企業家たちは、大きくなる方法や流行している方法を追い求めるが、いかにすれば(How to)に注目するのではなく、何のために(For what)に焦点を当てることが大事だ。
何が問題の本質か見極める分析力。物事の骨になる部分を提示できること。それが指導者にとって、最も大切な資質だ。

 日本で牧師をしていたとき隣家が火事になり、私はわずかばかりだが消化の助けをした。後日、消防署から電話があり、表彰したいという。ところが、表彰されたのは近所の男性と家内だけだった。私も家中に散っていた小さな炎を消したのだが、消防署によると、冷静に消防署に連絡し、プロパンガスの元栓を締めた功績から家内が表彰に値するという。本質を突いていたのは家内だった。さすがプロパンガス屋の娘、プロパン爆発事故の惨事を見聞きしていたので、決死の覚悟で元栓を締めたのだろう。

 物事で大事なのは、枝葉ではなく幹だ。粘土細工でいえば、細かい仕上げをする前に、全体の構造を支える骨組みをきちんと作らなければ話にならない。

 骨が大事だ。幹が大事だ。本質が大事だ。目的が大事だ。

 聖書の中には神の命令が多くある。その中でも、神を愛す(マルコ12:30)、人を愛す(マルコ12:31)、福音を伝え弟子を育てる(マタイ28:19~20)などは基本中の基本の命令だ。これを人生の骨とするなら、失敗はない。

 サドルバック教会のリック・ウォレン牧師は、5つの目的を聖書から切り出した。
 1、あなたは神の喜びのために造られた
 2、あなたは神の家族となるために造られた
 3、あなたはキリストのようになるために造られた
 4、あなたは神に仕えるために造られた
 5、あなたは使命のために造られた

 実にみごとな真理の提示だ。同教会は、この5つの目的を骨として掲げ、クリスチャンが各自の賜物や使命に応じてさまざまな形で肉付けし具体的な活動実を行っている。
 
 あなたの人生を貫く目的は何だろう。あなたが所属する教会のミニストリーの目的は何だろう。あなたの仕事の中心は何だろう。以下にそのヒントを挙げた。
 ○あなたの心に響く神の命令とは何か。
 ○神があなたを喜んで応援してくれることは何か。
 ○主イエスが、「あなたを誇りに思う」と言ってくれる事は何か。
 ○あなたにとって悔いのない人生とは何か。
 ○あなたに与えられた賜物は何か。
 
 「私の神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくれた。」(8節)

ああ、主よ ネヘミヤ1:1~11

 ネヘミヤ記はリーダーシップについてのすぐれた教科書だ。指導者はどう考え、どう行動したらいいか。困難にどう立ち向かったらよいか、仲間の協力を得る方法は、指導者としての自己管理は、など多くの点で示唆を与えてくれる。

序論としてのネヘミヤ記の背景

 イスラエル人は神に逆らい続けた。その結果、国は二つに分裂、北王国はBC722年に滅び、南王国のユダはからくも残った。けれどもBC605年エルサレムの人々はバビロン捕囚として遠く東の地に連れて行かれた。さらに、BC586年にエルサレムはついに滅亡。
バビロンの次に起きたのがペルシャ。クロス王は539年にユダヤ人に対して帰還命令を出した。それを受け、第1陣と第2陣がエルサレムに戻った。ネヘミヤは第3の集団に属する帰還者の一人だ。
 ネヘミヤは、アルタシャスタ1世(アルタクセルクセス王在位BC465~424年)の献酌官であり、やがてエルサレムに戻り城壁再建の指導者になる。なお、エルサレムの城壁が完成したのはBC445年ごろとされる。

1、 廃墟となったエルサレム 

 エルサレムからやって来た人々の話をネヘミヤは聞いた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」(3節)
 困難に直面しているなら、あなたは廃墟にいる。他人から馬鹿にされたり、笑われているなら、あなたは廃墟に住んでいる。城壁や門のない町が町としての基盤を失っているように、職を失ったり、築き上げた名誉を失っているなら、あなたは廃墟に座っている。

2、 すべては祈りから始まる 

 祈りが、暗い闇のカーテンを開く鍵になる。ネヘミヤの祈りを分析してみよう。
①嘆きの祈り(4節)
②悔い改めの祈り(6節)
③神の約束に訴える祈り(9節)→申命記30:1~5
④解決を求める祈り(11節)

 やり直しの第一歩はいつも祈りから始まる。廃墟から立ち上がりたいなら、祈りから始めよう。
 「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、」(4節)とある。困難が大きいとき、「ああ、天の神、主。」(5節)としか祈れない。神の前で注ぎ出すのなら、涙もうめきも立派な祈りになる。
 つらいことがあると人を責め、憎む人がいる。その人は廃墟に住み着いてしまった人だ。ネヘミヤは違う。ユダヤ人の苦難が先祖たちの不信仰に原因があると悟り、先祖を責めるのではなく彼らの罪を自分に引き寄せて罪の告白をした。自分にも非があると、自分の罪を悔い改めた。
さらにネヘミヤは、申命記30:1~5を念頭に神の約束を引き合いに出し、神の助けを求めて祈った。
 

3、私には何が残っているのか

 ネヘミヤがエルサレムの窮状を聞き、どれくらい落ち込んだかは分からない。数日はまともに祈れず、涙とうめきに終始したかもしれない。
その後、祈りが変わり、悔い改めとなり、主の約束に目が向かい、助けを求めるようになるにはかなりの日数が必要だった。けれども、その最後に、祈りの中から大切な自己認識が生まれた。

「そのとき、私は王の献酌官であった。」(11節)

 真っ暗闇に神からのスポットライトが当たった。すべてを失ってもなお残る自分の資源や可能性にネヘミヤは気づいた。
 <私はペルシャ帝国で王の側近として仕事をしている。この立場が、エルサレム城壁再建に役立つだろうか。しかり。私はそのためにここにいる。私を主に捧げよう。>こうしてネヘミヤは、廃墟から立ち上がり始めた。

 あなたの番です。あなたは今、廃墟にいますか。そこから見える大切なものとは何ですか。

 廃墟の経験。それは、あなたが神の栄光を表す都となるために、なくてはならない土台となる。すべてを失って、それでも残る大切なもの。その大切なもののため、精一杯生きていこう。うめきと涙の祈りから始めよう。残されている自分の可能性に気づいて、廃墟を後にして歩き出そう。廃墟を築き直すために。

廃墟からだけ見える青空がある。

本物は廃墟からしか始まらない。

 

聖霊の助け ヨハネ16:7~14

 「若葉のメッセージ」シリーズ6回目、最終回の今回は聖霊によって歩むことを考えましょう。信仰の確信を持って歩み続けるには御霊による歩みが不可欠です。自分の努力や真面目さでクリスチャン生活は維持できません。
  
1、聖霊なしにクリスチャン生活は不可能

 最初に聖霊についての基本情報を確認します。聖霊は三位一体の第3位格。聖霊は神です。(マタイ28:19、第2コリント13:13、使徒5:3~4)聖霊は人格を持つお方です。(ヨハネ16:8、16:13)
 旧約のヘブル語で聖霊はルーアハ、ギリシア語ではプニュウマ、パラクレートスで、日本語では、聖霊、御霊、助け主、慰めぬし、英語では、ホーリースピリット、カウンセラー、弁護者などと訳されます。

 聖霊なしにクリスチャン生活を送ることは不可能です。小説家の太宰治は、おのれのごとく隣人を愛せよという主イエスの言葉が自分の苦悩の原因だと言いました。マタイ伝を読むのに3年かかったとも書いています。彼が、一般人に混じり礼拝の中で聖書を聞いたなら、謙虚に主イエスを信じたなら、ヨハネ伝を詳細に読み聖霊を知ったなら、悲劇的な幕切れは避けられたかもしれません。

2、聖霊の働き

 聖霊は、私たちが信仰を持つはじめから終わりまで密接に関わる神です。私たちが信仰告白するときにも、罪を認めるときにも、聖化のプロセスを歩むときも、救いの確信を得るときにも、聖霊はそのすべての行程で私たちと共におられます。以下の聖書箇所を開いて確認してください。

①信仰を持つことを助ける
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(第1コリント12:3後半)
②信じた者が神を父と呼べるようにする
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6) 
③私たちの内に住む 
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(第1コリント3:16)
④天国が与えられることの保証
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」(エペソ1:14)
⑤聖化の歩みを助ける
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられ、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3:18)
⑥御霊の実を結ぶ原動力 (ガラテヤ5:22~23)
⑦主イエスをあかしする力 (使徒1:8)

3、聖霊によって歩む

 パウロは聖霊を良く知っていました。ローマ7章で罪との壮絶な戦いを語った後、8章で聖霊について述べるというパウロの思想の流れは十分に理解できます。聖霊だけが、罪と失敗に満ちた人間の希望であり、慰めであり、支えであり、友であり、実際的な力だからです。
 ①御霊は弱い私たちを助け、とりなしてくれる
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26~27)
 「助けてくださいます」と書いてありますが、この言葉は共に担うとか、代わりに負うという意味です。「ほむべきかな、日々、私たちのために、重荷をになわれる主」(詩68:19)という詩篇のように、聖霊が日々私たちの重荷を共に、あるいは代わりに負ってくださるのです。それで、クリスチャンとして歩み続けることができるのです。

 アメリカに住む男性は、案外友達がいません。日本から地理的に遠く離れたこともあるし、今さら友情作りも面倒という人が多いのです。聖霊が親友のようにして私たちの心に住んでくださるということは本当にありがたいことです。
 哲学者アリストテレスは、「友情とは、ふたつの身体の中にあるひとつの魂のことである」と言いました。至言ですね。イギリスの小説家オスカー・ワイルドは「真の友人は正面から刺す」と言いました。他人は私たちのことを真剣に考えないのでいい加減に聞き流しますが、親友は直言できる存在です。聖霊は、私たちの弱さを知り、ズバリと罪を指摘し、私たちの繰りごとにあきることなく耳を傾け、悩みをともに背負い、悲しむとき共に悲しみ(エペソ4:30)、私たちが祈れないときに代わりに祈ってくれる存在なのです。

 ②自分の力や悟りでなく、御霊によって歩む
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)
 自分の努力と熱意でクリスチャン生活をせよと聖書は言いません。御霊によって歩めと勧めます。御霊によって歩むということを、噛み砕いて以下に書きました。これなら、日常生活で生かすことができますね。

 さあ、あなたの番です。今週、御霊によって歩みましょう。
・カウンセラーである聖霊と相談する
・弁護士である聖霊の助言に従う
・コーチである聖霊の声を聞き、自分を鍛え、道を選ぶ
・助け手である聖霊から力をもらいチャレンジする
・きよめ主である聖霊から罪の指摘と恵みのシャワーを受ける
・親友である聖霊を喜び、いつも心にとどめる
・慰め主の聖霊との会話にほっとし、慰めを受ける
・神である聖霊をあがめ、感謝する

 新しい自分になることを恐れてはいけません。私たちの心に住む聖霊を生涯の友として大切にし、友情をはぐくみましょう。

 このシリーズで学んできたことを土台にして、揺るがない信仰生活を送りましょう。

ファミリーの温かさ ヨハネ20:24~29

 「若葉のメッセージ」シリーズの第5回目。教会の交わりにとどまること、それが救いの確信を持ち続ける秘訣です。
 自分の信仰が、不十分、弱い、だめだ、ぐらつく、と感じるときこそ、クリスチャンの仲間から離れてはいけません。
  

1、決して信じません

 イエスが十字架にかかったのが金曜日。翌日が土曜、次の日が日曜。その日曜の夜のことです。弟子たちは自分たちも捕らえられることを恐れて、エルサレムのある家で息を潜めて集まっていました。主イエスが突然部屋に現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。(ヨハネ20:19)主イエスは、その手とわきばらの傷あとを見せ、弟子たちは喜びにあふれました。
 ところが、そこにトマスだけがいなかったのです。(ヨハネ20:24)こういう人があなたのそばにもいますね。乗り遅れてしまう人。
 
 トマスがひよっこり顔を出すと、他の弟子たちは、「私たちは主を見た。」(25節)と言うのです。笑顔満面で、「すごいぞ、イエスさまはよみがえったんだ。見たんだ。会ったんだ。触ったんだ。話したんだ。イエスさまは生きてる。ハレルヤ!」という感じです。
 人間とは不思議な生き物で、人が喜ぶと、自分は落ち込むものです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」とトマスは叫んだのです。

 「決して信じません」これはトマスの本心ですか。

 そもそもトマスは、他の弟子が集まった日曜の夜、いったいどこにいたのでしょう。聖書には書いてありません。想像するしかないのです。ヨハネ11:16の言葉にヒントがあるかもしれません。
 主イエスと親しくしていたラザロが死んだという知らせを受け弟子達一行が出かけようとした時、トマスは仲間の弟子に言いました。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(ヨハネ11:16)
 トマスは、事態を深刻に考え、思いつめるタイプ。純粋でまっすぐだが、もろい人。死ぬ場所を探していたかもしれません。主の死を一番悲しんでいたのはトマスだったのかもしれません。

 そうだとすれば、「決して信じません」という言葉の裏には、別な気持ちが隠れていることが分ります。私は、誰よりも主イエスの復活を信じたい。でも、今の気持ちは、証拠をはっきり見ないと信じられない。いい加減な気持ちで、復活を受け入れたくない。なぜ、私には現れてくれなかったのですか。

 あなたはトマスに似てますか。

 救いの確信がゆらぐとき、トマスのように口から言ってしまう人がいます。そう簡単には信じられません。
 クリスチャンでない人で、主イエスを心に迎えたい、信じたいと思っている人の中にも、トマスタイプがいます。信じるならきちんと信じたい。
 ほめる客は買わないといいます。さすがシャネルだね、いいね、という人は見て帰るだけの客です。これ、少し傷があるんだけと、安くしてくれない、と言う人は価値が分かっていて買いたい人です。信じられないと言う人に、信じたいという気持ちが隠れています。私はそういう人に勧めます。今のあなたで、信じたらいいよ、と。信じない段階では前に進めないのです。信仰は、信じることによってしか成長しません。

2、仲間たち

 それから8日後です。当時のユダヤ風に数えると、その日を含めて数えるので、1週間後の日曜日になる。トマスは仲間と一緒にいました。
 信じられないと言い捨てただけなら、トマスは自分の家に帰ったことでしょう。まだトマスは12弟子と一緒にいました。これが、大切なのです。クリスチャンの仲間の中にいる、これが重要なのです。

 信仰の確信がぐらぐらした人は、教会に留まりましょう。信仰のスランプにいるときは、クリスチャンの仲間の中にいましょう。これが、あなたを支えます。トマスに見習ってください。離れちゃいけません。
 他の弟子たちも偉いです。12弟子の一人のくせに、復活は信じないと公言したトマスを仲間として受け入れています。排除しません。

 受け入れる仲間、留まるトマス。これが、愛のコミュニティー、ファミリーの温かさです。仲間はトマスのため祈り、励まします。トマスは、主イエスとの出会いを求め、信仰の成長を願います。これが主の教会の姿です。

 私たちは、同じ世代のクリスチャン仲間の言葉や姿勢から、大きな励ましを受けるものです。何気ない会話、聖書を読んだ感想、普段していること、信じきった心、苦しみの中で主に従っている姿勢、そういうありふれた姿から力を受けるのです。

 私は夢見ます。青年があふれる教会。シニアが喜んで集まる礼拝。幼児を抱えた若いお母さんと子供の礼拝。夫婦が手をつないでやって来る礼拝。会堂が男であふれる男くさい礼拝。同年代がたくさんいる教会となって、多くの人に伝え、多くの人の集う教会になりたいです。

 信仰がぐらつくとき、自分が弱ったときこそ離れちゃいけない。賛美の中にいよう。祈り合う中にいよう。聖書を学ぶ場にいよう。奉仕する場にいよう。クリスチャンの交わりに留まろう。

 出口がない、袋小路と見えるとき、主イエスはあなたに現れてくださる。ヨハネ20:26「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、『平安があなたがたにあるように。』と言われた。」
 
 主イエスはトマスだけに向き直り、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」(27節)

 主イエスを十字架に釘付けたのは私やあなたですが、主イエスは傷の残る手で私たちを招いています。

 トマスは、感極まって、「私の主、私の神」と主イエスに伝えた。

 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(29節)と主イエスは言われた。

 信じるというのは、自分を信じるのではない。あなたのため、あなたを愛して十字架にかかった主イエスを信じるのだ。信じるという事は、ないものをあるように信じ込むことではない。生きておられる主をそのまま受け入れることだ。信じる人生は、前向きな人生を生み出す。

 さあ、あなたの番です。

 信仰がゆらいでいる人、教会に留まりましょう。同世代の交わりに自分から出て行きましょう。聖書研究のクラスや、スモールグループの交わりに参加しましょう。なければ、あなたと仲間で週に一度とか、月に一度とか、交わって祈り会う機会を作りましょう。主イエスを求めましょう。信仰の成長を求めましょう。


 トマスを受け入れる側のあなたに勧めます。あなたの交わりにいるトマスのために祈りましょう。信仰の前進になる事を共にしましょう。質問に誠実に答えましょう。聖書を一緒に学びましょう。その人を愛しましょう。

 受け入れる仲間、留まるトマス、そういう交わりを育てましょう。

失敗したとき  ルカ18:9~14

 「若葉のメッセージ」シリーズの4回目です。救いの確信を失うきっかけに、罪の問題があります。
 主イエスを信じた。バプテスマも受けた。けれども罪を犯してしまった。こんな自分は教会に行く資格がない、と極端に考えることがある。今日のメッセージは、そんなふうに考えている人へのメッセージです。

 主イエスは、パリサイ人と取税人の祈りをたとえ話として教えられました。自分は正しいと思い込み、他人を見下している人がいましたが、そうした人々が自分の間違いに気づくようにとたとえ話をしました。

1、パリサイ人の祈り

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:10~12)

 パリサイ人の祈りには二つの特徴があった。
1)他人と比較する
 パリサイ人は、神に語りながらも、意識は他人にだけ向いていた。他人との比較は、結局、優越感か劣等感しか生み出さない。パリサイ人は、自分は立派な人間だと自認し、取税人のような詐欺も悪事はしていないと優越感に浸っていた。空腹でつらくても断食し、生活が苦しくても献金の割合は崩さななかった自分を自画自賛し、取税人を見下した。
2)問題的を意識できない
 注意してほしい。パリサイ人は他人に聞こえるように大声で祈りを聞かせたのではない。心の中で祈った。そこにパリサイ人の問題の深さが表れている。彼は、本気だった。自分は立派だと疑わずに信じていた。

 あなたは、このパリサイ人を非難するかもしれない。けれども、あなたは、パリサイ人に似ていないか。あなたの安心や誇りは、人との比較の産物ではないのか。


2、取税人の祈り

 「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(13節)

 取税人の祈りは、2つの特徴がある。
1)真実な悲しみ
 遠く離れて立つ、目を天に上げない、胸をたたく、という姿に、取税人の悲しみが表れている。自分の罪の重さに驚愕し落胆しきっている。

2)罪人である認識
 「罪をゆるしてください」と彼は祈ったのか。そうではない。罪人の私をあわれんでくださいと祈った。ここに、深い自己洞察と信仰がにじみ出ている。
 個々の罪を深く悔いることはもちろんだ。それらを主の前に差し出した後で、取税人はどうにもならない<自分>に直面した。罪を犯してしまう、弱い自分に気づいた。それで、罪をゆるしてくださいという言葉で終止符とせず、罪人である自分自身を主に差し出した。取り繕わず、人との比較で自己弁護をせず、裸で神の前に出る。これが、悔い改めだ。神は、心砕かれた罪人をさげすむことはない。

 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

 神のあわれみが、罪を赦し、罪をきよめ、罪人に生きる希望を与えてくれる。取税人は罪人である自分に必要なのは、神のあわれみ以外ないと気づいた。人はみな、神のあわれみをシャワーのようにあびて生きていくのだ。
 キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)と呼ばれるラテン語賛美歌はキリスト教の歴史で歌い継がれた最も有名な賛美歌形態であることもうなずける。

 ビル・マカートニーはコロラド大学フットボールチームを全国優勝に導いた監督で知られる。若いころクリスチャンになったが、成功するとともに形式的な信仰に陥り、娘が未婚の母になる問題を通して自分の問題点に気づいた。妻や娘との関係も修復し、人生をやり直した。その経験を男性クリスチャンと分かち合い、後にプロミス・キーパーズと呼ばれる運動を創設した。運動はその後拡大、1997年ワシントンDCで記念碑的集会を開催、聖書のメッセージに耳を傾け、全国から集まった何十万という男性たちが大地に跪いて真実に生きることを決意した。

 結論です。クリスチャンになっても、罪を犯すことがある。その時、自分は教会に行く資格がないとは考えてはいけない。あなたには、主イエスが必要だ。主イエスのあわれみが不可欠だ。だから、取税人のように、罪人のまま礼拝に出よう。そこで主のあわれみを受けよう。
 主はそんなあなたを見捨てず、悔い改めを促しておられる。取税人のように、主の前に立とう。主があきらめないのだから、私たちもあきらめてはいけない。
 「わたしは、愛するものをしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(ヨハネ黙示録3:19)

スランプ  第1列王19:1~8

 「若葉のメッセージ」シリーズ第3回目は、信仰のスランプについてついてです。スポーツ選手がスランプに陥った話は良く聞きますが、クリスチャンもスランプになります。それが信仰の確信を揺さぶることがあります。
 スランプに陥り、死を願った4人の例を見ながら、スランプの原因とその脱出方法を見つけましょう。脱出に導くキーワードは、<出会う>、<気づく>、<分ける>、<休む>、の4つです。

1、大きな災いに遭ったヨブ
 
 7人の息子と3人の娘を一日で失い、財産すべてをなくしたヨブは、神をのろい、生まれなければよかった、つまり死にたいと口にしました。

 ヨブ記3:11「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。」

 ヨブの場合は、大きな災難がスランプの原因です。悲しみと苦悩の中で、信仰がゆらぐのは理解できます。ヨブは、正しい者が苦しみに遭う不条理を嘆き、神に「なぜですか」と問い続けました。ところが答えは得られませんでした。苦悩の理由を求めても、答えを得ることはできないと私は思います。ヨブは問い続けた質問とは異なる次元で脱出の道を得ました。ヨブのキーワードは、<出会う>です。ヨブはまことの神に出会ったのです。目からうろこが落ちるように、神と出会ったのです。自分が知っていた神は、神のほんの一部だったことに気づきました。

2、願いがきかれないヨナ

 自分の願い通りにならないと、へそを曲げ、信仰が揺れてしまう人がいます。あなたが今欲しいものは何ですか、とのアンケートに答え、「変人」と書いた人がいました。「恋人」のつもりが字を間違えたのです。クリスチャンの独身男性が陥りやすい失敗に、<自爆テロ的プロポーズ>があります。「祈って、聖書を読んで分りました。あなたは神のみこころの人です。結婚してください。」こう一方的に言われた女性はたまりませんね。「それは神の御旨ではなく、あなたのおこころでしょう」と言ってやりましょう。

 ヨナは紀元前700年代の預言者でしたが、自分勝手な男でした。アッシリヤの首都ニネベを救うためにメッセージを語れと神に命じられ、俺はいやだとばかりに反対方向を目指して船で逃げ出した預言者です。嵐の海で魚に飲み込まれ、その中で悔い改め、ニネベに出向き、3日で滅ぼされるから悔い改めよと町中で語りました。その結果、王様を含めて皆が悔い改め、町は救われたのです。
 願いがきかれなかったのを見てヨナは、腹を立て、勢いにまかせて俺を殺せと息巻いたのでした。

 ヨナ書4:3「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」

 脱出のためのキーワードは、「気づく」です。自分のわがままに気づくことは大切な人生のレッスンです。願いがきかれないことを通して、自分の本当の姿に気づくことは重要です。その時、神の忍耐やあわれみにも気づくのです。

3、責任の重さにつぶされたモーセ

 モーセは、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数12:3)と言われる指導者です。偶像礼拝をした民を神の怒りから救おうと自分の命さえ投げ出した人物です。(出エジプト32:32)エジプトから民を導き出し、シナイ山で十戒を頂き、幕屋を作り終えた頃、人々がエジプトを思い出し、肉が食べたい、にんにくやスイカが食べたいと不平をもらしました。それを聞いたとき、モーセは死を願いました。張り詰めた糸が切れたのです。このわがままな人々を連れて歩くのには耐えられない。死んだほうがいい。モーセのスランプの原因は責任の重さでした。

 民数記11:15「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

 脱出の鍵は、<分ける>です。民数記11:17で主は、モーセの霊を民の指導者に分けるよう勧めておられます。
 あなたの重荷を誰かと分かち合いましょう。分けることは恥でもないし、弱さでもありません。一人で抱え込むと、あなたもつぶれ、あなたの周囲の人も被害を受けます。分けることは、人生の智恵です。奥さんに話しましょう。夫に話しましょう。仲間に話して祈ってもらいましょう。支えてもらいましょう。重荷を少し持ってもらいましょう。

4、疲れたエリヤ

 炎の預言者エリヤは、バアルの神と預言者との戦いに疲れ切り、豪雨の中を走り下り、陰の権力者イゼベルに命を狙われて、力尽きました。

第1列王19:4「主。もう十分です。私のいのちを取ってください。」

 スランプの原因に覚えがないという人は、蓄積疲労が原因として考えられます。寝てない。休んでない。疲れすぎて、頭も回転しない。体は不調だし、悪いことばかり考える。早く寝なければと思っても、眠れない。
 神はエリヤを責めません。エリヤに食べさせ、ゆっくりと寝かせる神でした。神がエリヤに言われ言葉は、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」(第1列王19:7)でした。

 信仰のスランプからの脱出法、最後のキーワードは、<休む>です。思い切って休みを取りましょう。いつもより1時間、早く寝ましょう。運動を少しずつ始めましょう。温泉にもつかってみましょう。
 

 あなたは今日、信仰のスランプにいますか。信仰のスランプから脱出するためのキーワードで、あなたに必要なものは以下のどれですか。神と出会う。自分の我がままに気づく。責任を分ける。思い切って休む。

 あなたの番です、信仰のスランプの原因を見定め、適切な脱出方法を試みましょう。それも、誰かと祈り合いながら、励まし合いながら。