マタイ8:28~34 解放するイエス

 根本的な解決よりも、楽な現状維持を望む。それが人間の常です。たとえ痛みを伴っても完全な救いを与える。それが主イエスのやり方です。
凶暴な悪霊を一言で追い出す「神の子」イエスの姿を見ていきましょう。


1、凶暴で、わめく人

それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」(マタイ8:28~29)

 当時、悪霊につかれた人がいました。イエスさまと弟子たちがガダラの地に到着すると、悪霊につかれた人が主イエスに近寄って来ました。

「彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。」とあります。悪霊に支配されていたので、外見はとても凶暴になりました。人々はその姿を見て怖がり、彼らは孤立し、墓場に住むしかありません。凶暴、孤立、支配される。これが彼らの特徴でした。

悪霊に支配された人は、その状態から助けてほしいのですが、主イエスを前にしても、「悪霊を追い出して下さい」とは言えません。逆に、わめき散らし、支離滅裂で乱暴で冷淡な態度しか取れませんでした。

この人たちは、現代人に良く似ています。凶暴で、孤立し、何かの支配下にいます。愛して欲しい、誰かと心をつなげたい、この状態から解放されたいと願うのに、口から出て来る言葉は、悪口と批判です。そんな状態が続くと、社会や他人を見る眼が凶暴になります。自分だけが不幸せだとひがみます。自分をコントロールできなくなり、何かに支配されます。人の目を気にしたり、何かに依存しないと生きていけなくなります。
 
そんなあなたを解放するために主イエスは来られました。だから救い主なのです。


2、神の子の権威

ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。(マタイ8:30~32)

 皮肉なことですが、一般人より悪霊のほうが主イエスの本質を見抜いていました。人々は、主イエスの教えを聞き感動し、主イエスの奇蹟を見て驚嘆していましたが、それ以上先には行けません。悪霊は、主イエスが「神の子」だと知っていました。
悪霊は、主イエスが戦って勝てる相手ではないと分かっていたので争いません。最後に逃れ出る先を豚の群れにしてほしいとだけ主イエスに願いました。

 この人たちに取りついていた悪霊はものすごい数で、マルコ5:9によると、ローマ兵の単位で一個師団(レギオン=6000人)だといわれています。主イエスは、その大量の悪霊を追い出しました。悪霊は、滅びる前に悪あがきをして、豚の群れ全体を崖から湖に突進させ死なせました。

主イエスは、悪霊を追い出すのに時間はいりませんでした。長い祈りも、何かの犠牲も、特別な薬も、何も必要としません。ただ一言「行け」と言われました。それだけで、悪霊は出ていきました。ここに、主イエスの神の子としての圧倒的な権威を見ることができます。
マタイ8章全体を振り返ってください。主イエスは、ツァラアトをいやし、遠くにいた百人隊長のしもべを直し、ガリラヤ湖の嵐を静め、悪霊を追い出しました。それは、全部、主イエスがたった一言、ことばを発するだけで実現しました。

主イエスは、本物の神の権威をお持ちです。あなたが背負っている問題をたった一言で解消し、あなたを束縛している問題をたった一言で追い出せます。
だから主イエスを信頼しましょう。神の子イエスに任せましょう。主イエスに「行け」と宣言してもらいましょう。



3、現状維持を望む人

飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。(マタイ8:33~34)

 マルコの福音書の並行箇所を読むと、悪霊につかれた男性が主イエスによって助けられた後、洋服をきちんと着て、落ち着いた様子になったことが分かります。それを見た人々は、恐ろしくなったと書いてあります。(マルコ5:15)

 「どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」とあります。実に奇異です。
その男を悪霊から解放してくれてありがとう、と言ってよい場面です。再び豚が崖から飛び降りたら困るという経済的な心配が優先して、主イエスに出て行ってほしいと申し出ました。
 人間は、痛みを伴う根本的な解決よりも、安易な現状維持を求めるものです。問題を抱えていてもいい、ぬるま湯が好きなのです。イエスさまに、ここから出て行って下さい、などと言わないようにしましょう。

主イエスは、あなたを様々な束縛から解放してくれます。悪の束縛からの解放、人と比較する価値観からの解放、憎しみとねたみのマインドからの解放、否定的で消極的な未来像からの解放、心配ばかりの毎日からの解放を与えてくれます。
主イエスはその代わり素晴らしいものを下さいます。罪の赦し、新しい視点、自分らしさの発見、穏やかな落ち着き、親切な思い、希望ある未来、勇気ある生活、溢れ出る命、何度でも立ち上がる心が与えられます。

1972年札幌オリンピックの女子フィギュアスケートにアメリカのジャネット・リン選手が出場しました。彼女は18歳、全米選手権4回優勝の実力者で、金メダルをねらっていました。苦手な規定演技で4位に終わり、選手宿舎で一日泣き明かしたといいます。クリスチャンのジャネットは、イエスさまに怒りをぶつけていました。狂暴な状態と言ってもよいでしょう。やがて心が吹っ切れ、自由演技の時にはメダルより大切な事のために滑ろう、神さまの愛を伝える滑りをしようと心に決めました。
自由演技は笑顔で順調な滑り出しでしたが、ジャンプで失敗、しりもちをつきました。練習でも本番でも一度も転んだことのない所でのミスなので、これは神さまのシナリオなのかなと思ったそうです。だから、立ち上がると、笑顔に戻り、会場を魅了する素晴らしい滑りになり、芸術点で満点を出した審査員までいました。
総合結果は3位、銅メダル。けれども、札幌の妖精と呼ばれ、日本で大人気になり、今では、金メダルの人は忘れら、銅メダルのジャネット・リンは今でも覚えられています。そして、今に至るまで、彼女は主イエスの素晴らしさを伝え続けています。
 
 イエスは彼らに「行け」と言われた。(マタイ8:32)


→あなたの番です
 □凶暴で、孤立し、何かに支配されていますか
  □神の子、イエスに絶大な権威があります
  □主イエスに信頼し、解放されましょう


マタイ8:23~27 湖と嵐

 経験も、知識も、努力も役立たない時に信仰が成長し、キリストの弟子が作られます。


1、ついて行くと、嵐

イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。(マタイ8:23~24)

 十二弟子全員が主イエスの後について同じ舟に乗りこみました。はっきりとした行く先を知らず、誰に会うのかも知らず、何が起こるのかも知らず、ついていきました。キリストの弟子は、このようなプロセスによって作られるのです。

 十二弟子の中でも、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はガリラヤ湖の漁師でした。嵐になりそうな天候だったら、今は止めたほうが良いと警告したでしょう。そんな予兆は何もありません。舟はしばらく何事もなく進みましたが、一点にわかにかけ曇り突風が吹き荒れました。

 十二弟子が主イエスについて行った先で嵐に巻き込まれました。これは単なるアクシデントというより、弟子として成長する機会だといえます。
あなたは、今、嵐の中にいますか。それは、キリストの弟子として整えられるための「信仰の大学院」課程なのです。

「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。」


2、信仰の薄い人

弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8:25~27)

漁師の弟子たちは、嵐の最中、経験と知識を総動員して舟が沈まないように、安全な場所に逃げ込めるようにと努力しことでしょう。けれども、自分たちの手におえない事態だと分かると、慌てふためいて主イエスに助けを求めました。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」

眠りから目を覚ましたイエスは、二つの点が問題だと弟子たちをしかりました。第一に、嵐や波を怖がり過ぎている。第二に、信仰が薄い。

主イエスが他の箇所で「信仰が薄い」と言っておられる箇所(マタイ6:30、14:31、16:8、17:20)を見ると共通点があるのに気づきます。  信仰が薄いとは、以下の状態をいいます。   ①主イエスがそばにおられることを忘れる
②困難な状況だけを見る
③心配や恐怖のスパイラルに入る

主イエスは、起き上がって、風と湖をしかりました。すると、風は止み、湖は鏡のように静まりました。それを見た人々は驚嘆しました。病をいやす主イエスは、何となく理解できるが、自然界を支配するイエスは理解の範囲を超えていました。自然をコントロールできるのは創造主である神だけです。主イエスが病をいやすだけの方でなく、自然さえも支配される神なのかもしれない、と弟子たちは畏敬の念に包まれました。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と叱られるのは少し酷かなと私たちは思います。でも、主イエスが厳しく言われた背景がありました。

弟子にとって大事な事は以下の二つです。 1)主イエスに目をとめる 2)学習したことを生活に生かす
弟子たちは、突風の強さ、波の高さ、舟に入ってくる水の量、ゆれる舟ばかりを見て、おびえきってしまいました。怖さに支配されない秘訣は、イエスさまに目をとめることです。木の葉のように揺れる船の中で、主イエスは安心して寝ておられました。

「ところが、イエスは眠っておられた。」

ぐっすり寝ておられるイエスを見れば、大丈夫だと分かります。おびえからあなたを守る方法は、イエスに注目することです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

弟子にとって、学習することが大事です。目で見たこと、耳で聞いたこと、頭で理解したこと、心で感じたこと、それら全部を蓄積し、自分の思想に落としこみ、自分の言葉に置き換え、咀嚼しなおし、何かが起きた時に蓄積したものを具体的に生かせる事が学習成果です。

おこころ一つでいやしていただけますとやって来た皮膚病の男がいやされた場面を弟子たちは直接見ました。おことば一つでしもべは直りますと言った百人隊長にも会いました。それらを、しっかりと学習しておいたなら、嵐に直面した弟子たちは何と言えたでしょう。イエスさま、おことば一つ言ってください、嵐はきっと止みます。それが学習です。学習を生活に生かすということです。


私たちの人生にも突然の嵐が襲うときがあります。その時は、嵐を怖がらないで、私たちと同じ舟でぐっする眠っておられる主イエスに信頼しましょう。学習したことを生かし、嵐との遭遇を信仰の飛躍の機会にしましょう。おことば一つで嵐は止みますと言いましょう。

イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。(マタイ8:26)


→あなたの番です
□学習した信仰を現実に生かそう
 □嵐をこわがらない
 □舟で寝ておられる主イエスに信頼する


マタイ8:14~22  見せる、鍛える

 主イエスは、ご自分のありのままの姿を弟子たちに見せながら、同時に、弟子たちの訓練を始めました。

1、見せる、主イエス

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。(マタイ8:14~15)

 主イエスはペテロの家に寄りました。休息のためかもしれません。すると、ペテロの奥さんのお母さんが高熱のために寝ていたことが分かりました。主イエスは、その年配の婦人の手に触れました。熱はすぐに引き、主イエスをもてなしました。

 「イエスさま、ありがとうございます。熱が高くて死にそうだったのに、私に触れてくれたら一瞬でなおりました。熱がさめた時は、普通はふらふらして歩けないのに、今はぴんぴんしています。奇蹟です。食事作りくらいしか能がないから、イエスさまのために食事を作りますから、食べていって下さいね。」という心境だったでしょう。

 「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」

 「もてなす」という言葉は原語でディアコネオーといいます。本来の意味は、食卓で給仕することで、仕える、奉仕すること。教会の役員、執事(ローマ16:1)は、ディアコノスという呼ばれました。もてなすという動詞が名詞になったものですが、教会の役員が名誉職ではなく誰よりも仕える者として期待されていたことが分かります。救われた者、いやされた者は、自然な応答として、主イエスに仕える者になります。


夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:16~17)

 主イエスのもとには病人だけでなく、悪霊につかれた人が連れて来られました。悪霊は、サタンの手下で、人間に取り付き、人格と肉体を乗っ取ります。悪霊に取り付かれた人は、精神的に混乱したり、肉体的には病気になったり、危険な場面に陥れられたりして苦しみました。家族の苦悩も深刻でした。使徒の働き19章を見ると、ユダヤ人の悪魔払い祈祷師がいたことも分かります。

 「イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。」

 そうした悪魔払い師が長時間の祈祷や怪しげな薬や呪文などを使うのとは異なりました。原文では、ひとつのロゴス=wordで追い出した、となっています。主イエスは、たった一言で悪霊は逃げ去りました。

 主イエスは、弱い人、病気の人、苦しむ高齢者、悪霊に苦しむ人にまなざしを向け、病の辛さを共有して下さり、いやして下さいました。
 これは、700年前に預言者イザヤが予告した救い主の姿にぴったり一致します。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 高齢の人、病のために弱っている人、苦しむ人に寄り添う人になりたいです。



2、鍛える、主イエス 

さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:18~20)

これからの箇所は、主イエスの弟子訓練の姿を見ることができます。

本来は主イエスの敵であった律法学者の一人が、主イエスの教えと奇蹟に魅了されました。どこにでもついて行きますと言うのですが、主イエスは、その律法学者の心の内を見抜かれて、あえて厳しく言いました。キリストの弟子の生活は簡単ではなく、寝る場所さえなくて野宿することもあるが、それでも来る覚悟があるかと言われたのです。

また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:21~22)

主イエスはカペナウムでの働きをひと段落させ、ガリラヤ湖の向こう側、つまり、東側に行くことにしました。その地域は外国人が多く住む場所で、普通ユダヤ人は行きたいとは思わない地域です。

十二弟子以外の弟子のひとりが、実家の父が死んだので、向こう岸への旅には参加できませんと言ってきました。すると主イエスは、葬儀は誰かに任せて、ついてきなさいと、厳しく言われました。
キリストの弟子は、自分のタイミングで動けません。大切なものを捨てたり、大切なものをささげたりするのです。

 価値観の破壊と再構築が行われます。これは、弟子としての最も大切なトレーニングです。困難な問題や局限状況に直面し、気づき、選択し、従い、仕え、献身する。これが、弟子としての鍛錬の道です。

「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です」(イザヤ64:8)
キリストの弟子は、まるで粘土です。最初は、空気を抜くために強く叩きつけられます。粘土の気持ちになれば痛いです。次は、形成です。自分の望まない形に作り変えられます。最後は、高温で焼かれます。それで、みごとな器になり、人々のお役に立ちます。

まさにキリストの弟子たちは、破壊と再構築のプロセスを通りながら、キリストに似た者になっていきます。さあ、弟子としての鍛錬が始まりました。ついて行きましょう。主イエスに。

 「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

 →あなたの番です
  □弱い人、年配の人、苦しむ人に寄り添う者になりましょう
  □弟子として作り変えてもらいましょう

マタイ8:5~13 百人隊長

 8章からは、主イエスと人々との出会いが書かれています。


1、百人隊長

イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」(マタイ8:5~7)

カペナウムは、川が注ぎ込むガリラヤ湖北部の町。一人の百人隊長が面会を求めてきました。もちろん、彼はユダヤ人ではありません。ローマ帝国の職業軍人です。百人隊長は、ローマの軍の最小単位、歩兵100人の指揮官です。戦闘時には鮮やかな羽飾りのついてかぶとをかぶり最前列で号令をかけるので戦死の危険がありました。隊長の号令によって様々な陣形を作って戦うので、兵士達からの絶対の信頼を受け、兵士たちの投票で選ばれる職でした。

この百人隊長は思いやり深い人でした。しもべの一人が中風で寝ていて苦しんでいる姿を見て、心を痛め、主イエスにいやしを懇願しました。中風とは、脳血管障害の後遺症のことで、半身不随になったり、顔がゆがんだり、手の震えが止まらなかったり、言語障害が残った人のことです。このしもべの症状はひどく、命の危険もあったようです。しもべという言葉が「若者」とも訳せることから、年齢的には若かったのかもしれません。

奴隷が売り買いされ家畜同然の扱いを受けていた時代ですから、このしもべが役立たずでやっかいものだとして家から追い出されてもおかしくありません。けれども、この百人隊長はしもべを助けたい直してやりたいと願って主イエスのもとに来ました。主イエスは、それを聞いて、すぐに助けに行こうとされました。

 哲学者カントはこう言いました。
 「あらゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。」
カントの言いたいことは、モノには一定の価値があるので同じ価値のモノと取り替えられるが、人間はモノではなく取替えがきかない存在だ、それが人間の尊厳、という事です。

 現代でも人間の尊厳は軽んじられています。学校の偏差値や成績で人間の価値が測られ、美人かハンサムかスタイルが良いかなどで差別され、金持ちか貧乏人か、有名企業の正社員かパートや派遣か、病気や障がいや高齢かという点で人間を評価しています。

 「おまえは愚かな奴だ、そんなしもべは切り捨てて放り出せばいいのだ」という声もあったかもしれませんが、百人隊長にはある確信があったのです。あのお方は、私に賛同してくれる。あのお方は、きっと助けてくれる。主イエスは、見捨てられようとしている人をあわれみ助けて下さる方だという確信があったのです。

 この百人隊長を見習って、私たちも心優しい人になりませんか。あなたの身近な人の尊厳を大切にしましょう。その人のために、行動してみましょう。



2、おことばを下さい

しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」(マタイ8:8~9)

 当時のユダヤ人は異邦人を見下しており、外国人の家には足を踏み入れませんでした。百人隊長の考えは、そうしたユダヤ人の習慣を尊重し、ユダヤ人であるイエスさまに外国人の百人隊長の家に来てもらうわけにはいかないと考えたのです。

 「ただ、おことばをいただかせてください」は直訳すると「一言だけおっしゃってください」です。上官が部下に命じれば、部下はその通りに動くという軍隊の指揮命令系統を熟知していた百人隊長は、神の子が命じてくれれば必ず実現すると信じました。

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1:3)
 風をしかりつけ、湖に、「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、おおなぎになった。(マルコ4:39)

 神は、ひとことで何かを成し遂げる。
 ひとことおことばを頂ければ、それで奇跡が起きると百人隊長は信じていました。


3、ちょうどその時

イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(マタイ8:10~13)

主イエスは、特別な驚きを示しました。神に選ばれた民、ユダヤ人の中にも、このような信仰を見たことがないと言って、主イエスは深く驚かれました。
世界の東西南北から、百人隊長のような信仰を持った外国人が大勢やって来て、族長アブラハムやイサク、ヤコブと同じ食卓に着くときが来ると予告されました。これは、将来の教会の姿、天国の姿のことでしょう。

主イエスは百人隊長に、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われました。百人隊長が戻ってみると、主イエスが言葉を発したちょうどその時に、中風の男がいやされたことが分かりました。脳出血の後遺症が回復するというのは、普通では考えられません。正真正銘の奇跡です。

 今週、心優しい人になりましょう。百人隊長のように。
 きっと直ると信じましょう。百人隊長のように。

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」

→あなたの番です
□心の優しい人になろう
□信じたとおりになる


マタイ8:1~4 わたしの心だ

 主イエスの教えが終わると、主イエスと人々との出会いの記録が始まります。


1、主イエスの教えを聞いた人々


イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。(マタイ8:1)

ガリラヤ湖畔の山は、主イエスの教えを聞く大勢の人で埋め尽くされていました。人々は主の教えに驚き、感動し、主イエスの後から山を下りました。「多くの群集がイエスに従った」とありますが、人々はすぐには解散せずに、主イエスの後について歩きました。イエスの話をもっと聞きたかったのでず。主イエスについて行きたかったのです。

 こういう事を話す人なら、ついて行きたいと感じる。それはもう、心の中で主イエスを信じ始めているのです。



2、ツァラアトの人

 すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」(8:1)

 ツァラアトとは、全身に広がった皮膚病のことです。古い日本語訳聖書はライ病と訳してきました。この種の皮膚病患者は、社会から隔離され、乞食のような生活を強いられました。この男は、こっそりと岩陰などに隠れて、主イエスの教えを聞いていたのかもしれません。

 東方の博士を別にして、マタイの福音書において、主イエスにひれ伏したのはこの皮膚病患者が最初です。なぜ、ひれ伏したのでしょう。イエスを「主」と認め、この方こそ神であり、まことの救い主であるとして、礼拝行為なのです。

お心一つで私をきよくしてしていただけます、と彼は言いました。この言葉の背後には、何があるでしょう。私は、自分をいやせません。けれども、あなたはいやせます、という堅い信頼があります。

この皮膚病の男は、私たちの姿とそっくりです。
人は表面上の問題と内面の問題の二つを持っています。主イエスの所に来るのは、表面上の悩みがきっかけです。けれども、主イエスは内面の問題、つまり、罪の問題の解決を与えて下さる方です。ですから、単に、病をいやして下さいと言わずに、きよめの問題としての解決を求めました。

馬が好きで、乗馬クラブに入りたいという人がいたとします。華麗に馬に乗れるような実力がついたら乗馬クラブに入会しようと考えるなら愚かです。馬に乗れないそのままの姿で、乗馬クラブに入れば、教えてもらえて乗れるようになるのです。
同じように、立派な人なれたら、聖書を完全に理解できたら、クリスチャンらしくなれたら、その時にはクリスチャンになろうと考えている人がいます。それでは、死ぬまでクリスチャンになれません。罪人のままで、主イエスの前に出ましょう。主イエスがあなたを救うのです。この皮膚病患者のような謙虚で、真実な心で、主イエスをあなたの救い主として信じ受け入れましょう。


3、主イエスの心
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。(マタイ8:3)

 主イエスは、ひれ伏した男性を見ました。彼の真実な言葉を聞きました。おそらく、主イエスはひざまずき、男の肩あるいは腕に触れたのでしょう。これが主イエスの愛です。誰も触れなかった彼の体に触れました。男は、主イエスの手の温かさを生涯忘れないでしょう。また、皮膚病の男のすべてを受け入れたあかしに、男が使った言葉を用いて返事をされました。

 「わたしの心だ。きよくなれ。」

 そう言うと、絶望的だった皮膚病が一瞬のうちにいやされました。普通の肌に戻ったのです。神にしかできない奇蹟です。

イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」(マタイ8:4)

当時の祭司は宗教的な働き以外に、病人隔離の宣告、その逆に、癒された人の社会復帰の公式認定をする保健所のような役割も担っていました。
いやされたのだから、きちんと祭司に見てもらい、律法の規定通りに神への感謝をささげなさい。家に帰って普通の生活に戻ることが最も大切だと言われたのです。
いやしそのものを面白おかしく誰にでも話してしまうと、だんだんと焦点がずれていき、自分をヒーローにしてしまいがちです。むしろ、謙虚な姿勢で、社会復帰をしなさいと命じました。

●あなたの番です。まだイエスさまを救い主と公に告白していない人がいたら、今日、イエスさまを信じましょう。主イエスは、あなたの罪をゆるし、きよめて下さいます。

●<自分で解決できない何か>を持って苦しんでいる人がいますか。主イエスに手を伸ばしてもらい、触れてもらいましょう。愛でおおってもらい、いやしてもらいましょう。

「わたしの心だ。きよくなれ」

→あなたの番です
 □私もこの皮膚病患者と同じです
 □主イエスよ、あなたの心で、私をいやして下さい

マタイ7:24~29 岩の上に家を建てる

 人生の目的は何でしょう。「山上の垂訓」全体から結論を出せば、人は神の国を作るために生きている、となります。今日は、山上の垂訓の結論部分を読みます。

1、岩の上の家

 パレスチナの大工は、木材だけでなく、石を材料にして家を作りました。主イエスのお父さんは大工で、主イエスもヨセフの仕事を引き継いだので、どんな場所に家を建てたら良いかを主イエスは良く知っていました。家の良し悪しは、家を建てる場所で決まります。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。(マタイ7:24~25)

 主イエスのことばを聞いて行う人は、岩の上に家を建てた賢い人です。第一に雨、第二に洪水、第三に風がやって来ても、岩の上の家はびくともしません。

 パレスチナの気候は南カリフォルニアとそっくり同じで、夏には雨が降らず、冬に雨が降ります。時折、激しい雨が集中的に降ることがあり、岩地に降った雨は地面に染み込まず谷に集まり、鉄砲水のように流れ下り、洪水になることもあります。岩の上の家はそんんな時でもしっかり立って揺るぎません。

 家を建てるとき、安全で快適な場所を選びます。そこに住む家族が幸せになれるようにと細心の注意を払って場所を決めます。人生も同じことです。あなたが選んだ生き方が、その後の人生を方向付けます。
雨や洪水や風は、人生の試練を象徴しています。岩の上に家を建てても試練は襲ってきますが、家は壊れません。そんな人生を誰もが望んでいます。

なぜ岩の上の家はなぜ倒れないのでしょう。土台がイエスさまだからです。
主イエスの言葉を実行するということは、主イエスを信頼しているということです。主イエスの言われたことが本当だと信じる時に主イエスの言葉を実行します。主イエスを信じ、主イエスと共に歩み、主イエスの言われたことを行う人は幸いな人生を送ることができます。

主イエスを信じ、その言葉を実行しましょう。あなたの家は揺らぎません。


2、砂の上の家

 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:26~27)

 主イエスのことばを聞いても、それを行わない人は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ています。第一に雨、第二に洪水、第三に風、という自然災害は前者と同じです。けれども、砂の上に建てた家なので、もろくも倒れてしまいました。しかも、それはひどい倒れ方です。

 主イエスの助言は、たいしたことはないし、警告も取るに足らないと思えるとき、主イエスの言われたことを実行しません。主イエスの言われたことを聞いても行わない人は、主イエスを無視し、主イエスを信頼していないのです。

 普通、二つとか、三つの例を出して何かを説明する場合は、最後に解決とか成功の例を入れるものです。主イエスは、その逆の順番にして、砂の上の家が壊れる場面で話を終えました。しかも、ひどい倒れ方だったと強調されました。それは、強い警告なのです。

 主イエスは、あなたを愛しています。倒れるな、壊れるな、人生を終わりにするなと叫んでいるのです。

砂の上に家を建てるのは、安易な生き方で、嘘と見せかけでその場しのぎをする生き方です。悪を正当化して生きたら、あなたは洪水と共に滅びます。「ひどい倒れ方」になってしまいます。

主イエスは山上の垂訓の中でこのように言われました。心の貧しい者は幸いです。あわれみ深い者は幸いです。実際に人を殺さなくても心で殺すことも、神の前では同じ。偽善者になるな。神を父としてあがめ、罪を悔い、罪をゆるし、人をさばくな。自分にしてほしいことを人にしなさい。求めなさい。明日の心配は無用です。神の国とその義を第一に求めるキングダムビルダーになりなさい、そうすれば必要なものは全部与えられる。日ごとの糧は天の父が下さる。天に宝を積みなさい。狭い門から入りなさい。

心の純真さや正義感を保ち、神に祈り、優しく接し、希望と信頼を持って生きる。そうすると、あなたは神の国を作ることになります。

ある女性が、携帯用水筒に熱々のお茶を入れてエアポートに来ました。飛行機に乗る前に荷物検査官に通告されました、液体は持ち込めない、水筒ごと破棄すると。大切な水筒だったので、全部飲めば問題ないですねと言って、女性はお茶を飲みました。熱いのでわずかしか飲めません。すると、話を聞いていた後ろの青年がその水筒を手に取ってお茶を飲みました。その後ろの人も飲みました。水筒は次々と渡っていって、6人面の女性が飲み干して空にしました。歓声を拍手がわきました。外国のエアポートで受けた親切にその女性は胸を熱くし、私もいつか受けた恩に報いようと心に決めたそうです。

 「あなたの番です」あなたは、山上の垂訓のどの教えを実行しますか。


3、権威ある者のよう

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マタイ7:28~29)

 パリサイ人、律法学者は、庶民を見下して権威的に律法を教えていました。主イエスの教えを聞いた人々は、主イエスが律法学者のように教えないことにひどく驚きました。主イエスは、まったく違う。権威的に教えるのではなく、まるで「権威ある者」のように教えている。本当の権威を持つ方、つまり神が人となって語っているかのように感じたのです。主イエスの奇蹟を見なくても、人々は、主イエスが神であることを感じ始めていました。

 人となられた神、主イエスは、あなたを愛しているので強い警告をしました。滅びるな、倒れるな、わたしに信頼しなさい、わたしの言葉を実行しなさいと語りました。


 →あなたの番です
  □岩の上の家は揺るがず、砂の上の家は倒れた □主イエスを信頼し、主イエスの言葉を実行しよう
  □神の国を建設するために生まれた



マタイ7:15~23  警告

 山上の垂訓も、いよいよ最後の部分に入ってきました。13~23節は警告、次回取り上げる24~29節は結論になります。
 飛行機に乗る時はパスポートを忘れるなとか、パリではスリに気をつけろ、などが警告です。警告とは、最重要事項の点検です。これを怠るとすべてが無駄になります。


1、狭い門から入れ

世の中に二つの門があると、主イエス語られました。広い門と狭い門です。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13~14)

旧約聖書の時代も、イエスさまの時代も、大きな町には頑丈な城壁があり、立派な正門から人々が中に入るので門の付近はにぎやかでした。旅の間は山賊に襲われる心配もあるし、道に迷うこともありますが、門を通って町に入れば安心です。あえて、小さな門を探す人はいません。ですから、「狭い門から入りなさい」という主イエスの教えを聞いて、人々は奇異に感じだことでしょう。

広い門は、大きな門で、広い道が続いていて、多くの人がその門を通っています。見栄えが良く、人気があります。けれども、その門から入るなら滅びます。

もう一つの門は、小さな門であり、道は狭く、その門を見つけることが難しく、少数の人しか入れません。見栄えが悪く、人気がない門です。けれども、狭い門から入るなら「いのち」を得ます。

見かけが立派で人気のある方に行きたいのが人情です。でもそれは滅びの門です。見掛けにとらわれず、落ち着いて、見極めて、納得して、狭い門を選びましょう。

これが、山上の垂訓を無駄にしないための主イエスの警告なのです。あなたの前に、大きな門と小さな門が見えますか。狭い門を選んで下さい。



2、偽預言者に気をつけよ

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:15~20)

次の警告は、偽預言者に気をつけよ、です。

偽預言者は、羊のようなイメージで、柔和で良い人を装って近づいてきます。けれども、その本質は貪欲な狼です。つまり、人々を餌食にし、苦しめ、支配するのです。そのような偽預言者を見抜きなさい。偽預言者について行くな。偽預言者を拒絶せよ。これも主イエスの警告です。また、あなた自身が偽預言者化するなという警告でもあります。

主イエスが現代におられたらこう言うでしょう。偽牧師、偽役員、偽伝道者、偽リーダー、偽クリスチャンに気をつけよと。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:21~23)

文脈からいうなら、21~23節は偽預言者に対する神の裁きと捉えることができます。神が偽預言者を拒絶し、天の御国に入れないと宣言されると、偽預言者たちは自分達の正当性を述べるだろと主イエスは言われました。

偽預言者が、悪霊を追い出し、奇蹟を行ったと主張し、天の御国にふさわしいと自負しても、神には通じません。こうした自負こそ、霊的傲慢の印です。

<私は普通の信者より信仰面ではるかに優れていると考える>それが霊的傲慢です。別の言い方をすれば霊的盲目です。霊的傲慢が偽預言者を作ります。何かを教えたり指導したりすると、人々が喜び、人々からの尊敬が返ってきます。そのようにして、偽預言者は尊敬を糧にして肥大化し、人々を洗脳し、人々に金を集めさせ、信者の数を増やし、権力を私物化し、最終的には自分お神とし、自分の王国を作ります。カルト宗教はすべて同じ構造です。

このように危険極まりない偽預言者なので、気をつけること、「実」で判断し見極めることを警告しました。

また、あなた自身が偽預言者にならないようにしましょう。影響力のある人、声の大きい人、リーダーに推奨される人、聖書知識の多い人、信仰歴の長い人、「長」とか「先生」と呼ばれる人、気をつけましょう。
霊的傲慢にならない秘訣は、自分が罪人であることを忘れないことです。また、謙遜でいることです。主イエスが語られた「パリサイ人と取税人」のたとえの取税人の祈りを心に留めていてください。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)

主イエスは、心の貧しい人、悲しむ者、柔和な者、義に飢えかわく者、あわれみ深い者、心のきよい人、平和を作る人、義のために迫害されている者が幸いだと言われました。そして、宗教カルトの教祖になる誘惑をすべて退け、主イエスは徹底して謙虚に生き、十字架で命をささげるという「狭い門」を選ばれました。

あなたも主イエスの道をたどり、狭い門を選び、謙虚に生きましょう。
 →あなたの番です
 □狭い門から入りましょう
 □偽預言者に気をつけましょう
 □霊的傲慢にならず、謙虚に生きましょう