マタイ8:5~13 百人隊長

 8章からは、主イエスと人々との出会いが書かれています。


1、百人隊長

イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」(マタイ8:5~7)

カペナウムは、川が注ぎ込むガリラヤ湖北部の町。一人の百人隊長が面会を求めてきました。もちろん、彼はユダヤ人ではありません。ローマ帝国の職業軍人です。百人隊長は、ローマの軍の最小単位、歩兵100人の指揮官です。戦闘時には鮮やかな羽飾りのついてかぶとをかぶり最前列で号令をかけるので戦死の危険がありました。隊長の号令によって様々な陣形を作って戦うので、兵士達からの絶対の信頼を受け、兵士たちの投票で選ばれる職でした。

この百人隊長は思いやり深い人でした。しもべの一人が中風で寝ていて苦しんでいる姿を見て、心を痛め、主イエスにいやしを懇願しました。中風とは、脳血管障害の後遺症のことで、半身不随になったり、顔がゆがんだり、手の震えが止まらなかったり、言語障害が残った人のことです。このしもべの症状はひどく、命の危険もあったようです。しもべという言葉が「若者」とも訳せることから、年齢的には若かったのかもしれません。

奴隷が売り買いされ家畜同然の扱いを受けていた時代ですから、このしもべが役立たずでやっかいものだとして家から追い出されてもおかしくありません。けれども、この百人隊長はしもべを助けたい直してやりたいと願って主イエスのもとに来ました。主イエスは、それを聞いて、すぐに助けに行こうとされました。

 哲学者カントはこう言いました。
 「あらゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。」
カントの言いたいことは、モノには一定の価値があるので同じ価値のモノと取り替えられるが、人間はモノではなく取替えがきかない存在だ、それが人間の尊厳、という事です。

 現代でも人間の尊厳は軽んじられています。学校の偏差値や成績で人間の価値が測られ、美人かハンサムかスタイルが良いかなどで差別され、金持ちか貧乏人か、有名企業の正社員かパートや派遣か、病気や障がいや高齢かという点で人間を評価しています。

 「おまえは愚かな奴だ、そんなしもべは切り捨てて放り出せばいいのだ」という声もあったかもしれませんが、百人隊長にはある確信があったのです。あのお方は、私に賛同してくれる。あのお方は、きっと助けてくれる。主イエスは、見捨てられようとしている人をあわれみ助けて下さる方だという確信があったのです。

 この百人隊長を見習って、私たちも心優しい人になりませんか。あなたの身近な人の尊厳を大切にしましょう。その人のために、行動してみましょう。



2、おことばを下さい

しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」(マタイ8:8~9)

 当時のユダヤ人は異邦人を見下しており、外国人の家には足を踏み入れませんでした。百人隊長の考えは、そうしたユダヤ人の習慣を尊重し、ユダヤ人であるイエスさまに外国人の百人隊長の家に来てもらうわけにはいかないと考えたのです。

 「ただ、おことばをいただかせてください」は直訳すると「一言だけおっしゃってください」です。上官が部下に命じれば、部下はその通りに動くという軍隊の指揮命令系統を熟知していた百人隊長は、神の子が命じてくれれば必ず実現すると信じました。

 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1:3)
 風をしかりつけ、湖に、「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、おおなぎになった。(マルコ4:39)

 神は、ひとことで何かを成し遂げる。
 ひとことおことばを頂ければ、それで奇跡が起きると百人隊長は信じていました。


3、ちょうどその時

イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(マタイ8:10~13)

主イエスは、特別な驚きを示しました。神に選ばれた民、ユダヤ人の中にも、このような信仰を見たことがないと言って、主イエスは深く驚かれました。
世界の東西南北から、百人隊長のような信仰を持った外国人が大勢やって来て、族長アブラハムやイサク、ヤコブと同じ食卓に着くときが来ると予告されました。これは、将来の教会の姿、天国の姿のことでしょう。

主イエスは百人隊長に、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われました。百人隊長が戻ってみると、主イエスが言葉を発したちょうどその時に、中風の男がいやされたことが分かりました。脳出血の後遺症が回復するというのは、普通では考えられません。正真正銘の奇跡です。

 今週、心優しい人になりましょう。百人隊長のように。
 きっと直ると信じましょう。百人隊長のように。

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」

→あなたの番です
□心の優しい人になろう
□信じたとおりになる


マタイ8:1~4 わたしの心だ

 主イエスの教えが終わると、主イエスと人々との出会いの記録が始まります。


1、主イエスの教えを聞いた人々


イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。(マタイ8:1)

ガリラヤ湖畔の山は、主イエスの教えを聞く大勢の人で埋め尽くされていました。人々は主の教えに驚き、感動し、主イエスの後から山を下りました。「多くの群集がイエスに従った」とありますが、人々はすぐには解散せずに、主イエスの後について歩きました。イエスの話をもっと聞きたかったのでず。主イエスについて行きたかったのです。

 こういう事を話す人なら、ついて行きたいと感じる。それはもう、心の中で主イエスを信じ始めているのです。



2、ツァラアトの人

 すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」(8:1)

 ツァラアトとは、全身に広がった皮膚病のことです。古い日本語訳聖書はライ病と訳してきました。この種の皮膚病患者は、社会から隔離され、乞食のような生活を強いられました。この男は、こっそりと岩陰などに隠れて、主イエスの教えを聞いていたのかもしれません。

 東方の博士を別にして、マタイの福音書において、主イエスにひれ伏したのはこの皮膚病患者が最初です。なぜ、ひれ伏したのでしょう。イエスを「主」と認め、この方こそ神であり、まことの救い主であるとして、礼拝行為なのです。

お心一つで私をきよくしてしていただけます、と彼は言いました。この言葉の背後には、何があるでしょう。私は、自分をいやせません。けれども、あなたはいやせます、という堅い信頼があります。

この皮膚病の男は、私たちの姿とそっくりです。
人は表面上の問題と内面の問題の二つを持っています。主イエスの所に来るのは、表面上の悩みがきっかけです。けれども、主イエスは内面の問題、つまり、罪の問題の解決を与えて下さる方です。ですから、単に、病をいやして下さいと言わずに、きよめの問題としての解決を求めました。

馬が好きで、乗馬クラブに入りたいという人がいたとします。華麗に馬に乗れるような実力がついたら乗馬クラブに入会しようと考えるなら愚かです。馬に乗れないそのままの姿で、乗馬クラブに入れば、教えてもらえて乗れるようになるのです。
同じように、立派な人なれたら、聖書を完全に理解できたら、クリスチャンらしくなれたら、その時にはクリスチャンになろうと考えている人がいます。それでは、死ぬまでクリスチャンになれません。罪人のままで、主イエスの前に出ましょう。主イエスがあなたを救うのです。この皮膚病患者のような謙虚で、真実な心で、主イエスをあなたの救い主として信じ受け入れましょう。


3、主イエスの心
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。(マタイ8:3)

 主イエスは、ひれ伏した男性を見ました。彼の真実な言葉を聞きました。おそらく、主イエスはひざまずき、男の肩あるいは腕に触れたのでしょう。これが主イエスの愛です。誰も触れなかった彼の体に触れました。男は、主イエスの手の温かさを生涯忘れないでしょう。また、皮膚病の男のすべてを受け入れたあかしに、男が使った言葉を用いて返事をされました。

 「わたしの心だ。きよくなれ。」

 そう言うと、絶望的だった皮膚病が一瞬のうちにいやされました。普通の肌に戻ったのです。神にしかできない奇蹟です。

イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」(マタイ8:4)

当時の祭司は宗教的な働き以外に、病人隔離の宣告、その逆に、癒された人の社会復帰の公式認定をする保健所のような役割も担っていました。
いやされたのだから、きちんと祭司に見てもらい、律法の規定通りに神への感謝をささげなさい。家に帰って普通の生活に戻ることが最も大切だと言われたのです。
いやしそのものを面白おかしく誰にでも話してしまうと、だんだんと焦点がずれていき、自分をヒーローにしてしまいがちです。むしろ、謙虚な姿勢で、社会復帰をしなさいと命じました。

●あなたの番です。まだイエスさまを救い主と公に告白していない人がいたら、今日、イエスさまを信じましょう。主イエスは、あなたの罪をゆるし、きよめて下さいます。

●<自分で解決できない何か>を持って苦しんでいる人がいますか。主イエスに手を伸ばしてもらい、触れてもらいましょう。愛でおおってもらい、いやしてもらいましょう。

「わたしの心だ。きよくなれ」

→あなたの番です
 □私もこの皮膚病患者と同じです
 □主イエスよ、あなたの心で、私をいやして下さい

マタイ7:24~29 岩の上に家を建てる

 人生の目的は何でしょう。「山上の垂訓」全体から結論を出せば、人は神の国を作るために生きている、となります。今日は、山上の垂訓の結論部分を読みます。

1、岩の上の家

 パレスチナの大工は、木材だけでなく、石を材料にして家を作りました。主イエスのお父さんは大工で、主イエスもヨセフの仕事を引き継いだので、どんな場所に家を建てたら良いかを主イエスは良く知っていました。家の良し悪しは、家を建てる場所で決まります。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。(マタイ7:24~25)

 主イエスのことばを聞いて行う人は、岩の上に家を建てた賢い人です。第一に雨、第二に洪水、第三に風がやって来ても、岩の上の家はびくともしません。

 パレスチナの気候は南カリフォルニアとそっくり同じで、夏には雨が降らず、冬に雨が降ります。時折、激しい雨が集中的に降ることがあり、岩地に降った雨は地面に染み込まず谷に集まり、鉄砲水のように流れ下り、洪水になることもあります。岩の上の家はそんんな時でもしっかり立って揺るぎません。

 家を建てるとき、安全で快適な場所を選びます。そこに住む家族が幸せになれるようにと細心の注意を払って場所を決めます。人生も同じことです。あなたが選んだ生き方が、その後の人生を方向付けます。
雨や洪水や風は、人生の試練を象徴しています。岩の上に家を建てても試練は襲ってきますが、家は壊れません。そんな人生を誰もが望んでいます。

なぜ岩の上の家はなぜ倒れないのでしょう。土台がイエスさまだからです。
主イエスの言葉を実行するということは、主イエスを信頼しているということです。主イエスの言われたことが本当だと信じる時に主イエスの言葉を実行します。主イエスを信じ、主イエスと共に歩み、主イエスの言われたことを行う人は幸いな人生を送ることができます。

主イエスを信じ、その言葉を実行しましょう。あなたの家は揺らぎません。


2、砂の上の家

 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:26~27)

 主イエスのことばを聞いても、それを行わない人は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ています。第一に雨、第二に洪水、第三に風、という自然災害は前者と同じです。けれども、砂の上に建てた家なので、もろくも倒れてしまいました。しかも、それはひどい倒れ方です。

 主イエスの助言は、たいしたことはないし、警告も取るに足らないと思えるとき、主イエスの言われたことを実行しません。主イエスの言われたことを聞いても行わない人は、主イエスを無視し、主イエスを信頼していないのです。

 普通、二つとか、三つの例を出して何かを説明する場合は、最後に解決とか成功の例を入れるものです。主イエスは、その逆の順番にして、砂の上の家が壊れる場面で話を終えました。しかも、ひどい倒れ方だったと強調されました。それは、強い警告なのです。

 主イエスは、あなたを愛しています。倒れるな、壊れるな、人生を終わりにするなと叫んでいるのです。

砂の上に家を建てるのは、安易な生き方で、嘘と見せかけでその場しのぎをする生き方です。悪を正当化して生きたら、あなたは洪水と共に滅びます。「ひどい倒れ方」になってしまいます。

主イエスは山上の垂訓の中でこのように言われました。心の貧しい者は幸いです。あわれみ深い者は幸いです。実際に人を殺さなくても心で殺すことも、神の前では同じ。偽善者になるな。神を父としてあがめ、罪を悔い、罪をゆるし、人をさばくな。自分にしてほしいことを人にしなさい。求めなさい。明日の心配は無用です。神の国とその義を第一に求めるキングダムビルダーになりなさい、そうすれば必要なものは全部与えられる。日ごとの糧は天の父が下さる。天に宝を積みなさい。狭い門から入りなさい。

心の純真さや正義感を保ち、神に祈り、優しく接し、希望と信頼を持って生きる。そうすると、あなたは神の国を作ることになります。

ある女性が、携帯用水筒に熱々のお茶を入れてエアポートに来ました。飛行機に乗る前に荷物検査官に通告されました、液体は持ち込めない、水筒ごと破棄すると。大切な水筒だったので、全部飲めば問題ないですねと言って、女性はお茶を飲みました。熱いのでわずかしか飲めません。すると、話を聞いていた後ろの青年がその水筒を手に取ってお茶を飲みました。その後ろの人も飲みました。水筒は次々と渡っていって、6人面の女性が飲み干して空にしました。歓声を拍手がわきました。外国のエアポートで受けた親切にその女性は胸を熱くし、私もいつか受けた恩に報いようと心に決めたそうです。

 「あなたの番です」あなたは、山上の垂訓のどの教えを実行しますか。


3、権威ある者のよう

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マタイ7:28~29)

 パリサイ人、律法学者は、庶民を見下して権威的に律法を教えていました。主イエスの教えを聞いた人々は、主イエスが律法学者のように教えないことにひどく驚きました。主イエスは、まったく違う。権威的に教えるのではなく、まるで「権威ある者」のように教えている。本当の権威を持つ方、つまり神が人となって語っているかのように感じたのです。主イエスの奇蹟を見なくても、人々は、主イエスが神であることを感じ始めていました。

 人となられた神、主イエスは、あなたを愛しているので強い警告をしました。滅びるな、倒れるな、わたしに信頼しなさい、わたしの言葉を実行しなさいと語りました。


 →あなたの番です
  □岩の上の家は揺るがず、砂の上の家は倒れた □主イエスを信頼し、主イエスの言葉を実行しよう
  □神の国を建設するために生まれた



マタイ7:15~23  警告

 山上の垂訓も、いよいよ最後の部分に入ってきました。13~23節は警告、次回取り上げる24~29節は結論になります。
 飛行機に乗る時はパスポートを忘れるなとか、パリではスリに気をつけろ、などが警告です。警告とは、最重要事項の点検です。これを怠るとすべてが無駄になります。


1、狭い門から入れ

世の中に二つの門があると、主イエス語られました。広い門と狭い門です。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13~14)

旧約聖書の時代も、イエスさまの時代も、大きな町には頑丈な城壁があり、立派な正門から人々が中に入るので門の付近はにぎやかでした。旅の間は山賊に襲われる心配もあるし、道に迷うこともありますが、門を通って町に入れば安心です。あえて、小さな門を探す人はいません。ですから、「狭い門から入りなさい」という主イエスの教えを聞いて、人々は奇異に感じだことでしょう。

広い門は、大きな門で、広い道が続いていて、多くの人がその門を通っています。見栄えが良く、人気があります。けれども、その門から入るなら滅びます。

もう一つの門は、小さな門であり、道は狭く、その門を見つけることが難しく、少数の人しか入れません。見栄えが悪く、人気がない門です。けれども、狭い門から入るなら「いのち」を得ます。

見かけが立派で人気のある方に行きたいのが人情です。でもそれは滅びの門です。見掛けにとらわれず、落ち着いて、見極めて、納得して、狭い門を選びましょう。

これが、山上の垂訓を無駄にしないための主イエスの警告なのです。あなたの前に、大きな門と小さな門が見えますか。狭い門を選んで下さい。



2、偽預言者に気をつけよ

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:15~20)

次の警告は、偽預言者に気をつけよ、です。

偽預言者は、羊のようなイメージで、柔和で良い人を装って近づいてきます。けれども、その本質は貪欲な狼です。つまり、人々を餌食にし、苦しめ、支配するのです。そのような偽預言者を見抜きなさい。偽預言者について行くな。偽預言者を拒絶せよ。これも主イエスの警告です。また、あなた自身が偽預言者化するなという警告でもあります。

主イエスが現代におられたらこう言うでしょう。偽牧師、偽役員、偽伝道者、偽リーダー、偽クリスチャンに気をつけよと。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:21~23)

文脈からいうなら、21~23節は偽預言者に対する神の裁きと捉えることができます。神が偽預言者を拒絶し、天の御国に入れないと宣言されると、偽預言者たちは自分達の正当性を述べるだろと主イエスは言われました。

偽預言者が、悪霊を追い出し、奇蹟を行ったと主張し、天の御国にふさわしいと自負しても、神には通じません。こうした自負こそ、霊的傲慢の印です。

<私は普通の信者より信仰面ではるかに優れていると考える>それが霊的傲慢です。別の言い方をすれば霊的盲目です。霊的傲慢が偽預言者を作ります。何かを教えたり指導したりすると、人々が喜び、人々からの尊敬が返ってきます。そのようにして、偽預言者は尊敬を糧にして肥大化し、人々を洗脳し、人々に金を集めさせ、信者の数を増やし、権力を私物化し、最終的には自分お神とし、自分の王国を作ります。カルト宗教はすべて同じ構造です。

このように危険極まりない偽預言者なので、気をつけること、「実」で判断し見極めることを警告しました。

また、あなた自身が偽預言者にならないようにしましょう。影響力のある人、声の大きい人、リーダーに推奨される人、聖書知識の多い人、信仰歴の長い人、「長」とか「先生」と呼ばれる人、気をつけましょう。
霊的傲慢にならない秘訣は、自分が罪人であることを忘れないことです。また、謙遜でいることです。主イエスが語られた「パリサイ人と取税人」のたとえの取税人の祈りを心に留めていてください。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)

主イエスは、心の貧しい人、悲しむ者、柔和な者、義に飢えかわく者、あわれみ深い者、心のきよい人、平和を作る人、義のために迫害されている者が幸いだと言われました。そして、宗教カルトの教祖になる誘惑をすべて退け、主イエスは徹底して謙虚に生き、十字架で命をささげるという「狭い門」を選ばれました。

あなたも主イエスの道をたどり、狭い門を選び、謙虚に生きましょう。
 →あなたの番です
 □狭い門から入りましょう
 □偽預言者に気をつけましょう
 □霊的傲慢にならず、謙虚に生きましょう

マタイ7:7~12 求めなさい

 「大多数の人は、静かに絶望の生活を送っている。」(ヘンリー・ソロー、『森の生活』)

 あきらめる人が多いのです。だから主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と言って私たちを励ましてくれました。


1、求める

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7~8)

 必要なものが手元になくて困ったときは、求めます。持っていたのに無くしてしまったら、探します。願っていた道が閉ざされたら、開けて下さいと叫びます。この3つは、同じことを言っています。

3度、似た言葉を繰り返すことによって、あきらめずに求め続けよと主イエスは言いたいのです。少年の日のように、求める心を取り戻そう。あきらめるのはまだ早い。一度はノーと言われても、もう一度やり直してみよう。

 
 多くの人は絶望の人生を送っています。また、辛い毎日はぬけがらのように過ごし、息抜きだけが喜びになっています。ストレス解消のゲームや飲酒のためにあなたは生きているのでしょうか。違います。
 どんなに立派な成果があったとしても、今が問題です。あなたは、今、何をしたいのですか。自分らしさを全うできる事は何ですか。時間を忘れて没頭したい事は何ですか。改革したいこと、救出したい人、達成したい事は何ですか。

 ウイリアム・ウイルバーフォース(1759-1833)はイギリス人でメソジストのクリスチャンでした。26歳の時、ジョン・ニュートン牧師と出会いました。将来の人生を神にささげて牧師になる道にあこがれ、政治家としての資質も持っていました。60歳のニュートン牧師は、若いウイルバーフォースを励まし、政治家としてのタラントを用いて、神の正義を実現しなさいと励ましました。ウイルバーフォースは、政治活動を選び、黒人奴隷の売買禁止の法律を12年後に成立させ、地上生涯を終える少し前に奴隷制度の完全撤廃をイギリスで実現させました。求めた人は、得たのです。

 あなたにとって切実な願いとは何ですか。大きな願いでも、小さな願いでもOKです。
あなたは、何を、あきらめてしまいましたか。
 道が閉ざされても、もう一度取り組んでみたい事は何ですか。 

 朝早く起き、心を沈め、あなたの心の一番奥底にある真実な願いを神に伝えましょう。朝、聖書の言葉から確信をもらい、祈りの中で聖霊に導かれながら、行動してみましょう。

 神は、人間の心に、希望という文字を刻んで下さっています。
 求めなさい。探しなさい。たたきなさい。

神の国は、希望を失わない人によってだけ作られます。



2、必ず与えられる

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:9~11)

子供が高級寿司や分厚いステーキが食べたいと言うなら、親は拒絶するでしょう。でも、子供が空腹になり、パンや魚などの庶民の食べ物を求めてきたら、当然、食べさせます。普通の親は、子供のために良いものを与えます。
まして、神が、私たちに良いものを下さらないわけがないのです。求めれば与えられるという根拠は、私たちの神が私たちの父だからです。

 神の国は、神を父親として信頼する人によって作られる。



3、他の人にも

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)

 12節は独立した内容ではありません。「それで」という接続詞に注目して下さい。今までの主イエスの言葉とつながりがあるのです。

天の父である私たちの神は、人の切実な必要に気づき、願いをかなえてくださいます。私たちは神の子であり、子供は親に似ていくものです。今度は、私たちが身近な人の願いに気づき、それをかなえる番です。

してほしくない事をするなというのは日本の道徳です。主イエスの教えは、その逆で、積極的に、自発的に、相手の喜ぶことを想像して、こちらからアクションを起こしなさいという教えです。

 「律法であり預言者」とは、聖書そのものを指す言葉です。(マタイ22:40)自分にしてもらいたいことを、他の人にするという行為は、聖書が望んでいることの中心だと主イエスはおっしゃりたいのです。

 心理学者のアドラーは、幸せになりたいなら、人の喜ぶことを考えよと言いました。
 あなたの家族の一人一人は、何を切実に願っているのでしょう。祈りながら考えましょう。家族だけでなく、教会の仲間、職場の人たち、クラスメイトなどが幸せになるために、あなたは何ができますか。

 ある女性は、転勤した彼とデートするために、数週間に一度、彼のいる九州まで飛行機で飛びその日の最終便で帰る生活をしていました。その日も、最終便に乗る直前、「帰らなくてもいい日が来るといいね」と真顔で彼が言いました。どきまぎして飛行機に飛び乗りましたが、さっきの言葉がプロポーズなのか、自分の一人合点なのか分からなくなって機内でキョロキョロしているとCAさんと目が合い「なにかお探しものですか」と声をかけられました。それで、その日の出来事を説明しました。「きっとプロポーズですよ。羽田で電話して確かめるといいですよ」とCAさんは励ましてくれました。
 羽田で電話すると、プロポーズだよ、返事がもらえなくて落ち込んでいたところだよ、と彼が言うのです。もちろん、私もOKに決まっているわ。はっきり言わないから分からないじゃない。
 求めてよかった。背中を押してもらって良かったと思いました。


神の国は、自分にしてほしいことを他人にすることによって、作られていくのです。


まとめましょう。神の国は、希望を捨てない人、神を父と信頼する人、そして、与える愛を実践する人によって作られるのです。

 →あなたの番です
  □求めましょう、さがしまよう、たたきましょう
□自分にしてほしい事を、あなたが率先してやってみましょう

 

マタイ7:1~6 さばくな


 主イエスの教えは単純明快です。さばくな!

1、さばかれないように

さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:1~2)

 さばくな、とはどんな意味でしょう。
悪事を見ても、悪いことをされても、抵抗するなという意味ですか。違います。主イエスは、パリサイ人に面と向かって厳しい言葉で彼らの不正や悪を糾弾しました。また、主イエスは、神殿の物売りたちに実力行使をして追い出しました。悪に負けてはいけません。悪にはきちんと抗議し、訂正を求めましょう。しかし、さばくことは止めましょう。

泥棒に対して「あなたは私のお金を盗んだ」と言うのは正しいことです。あの人は万引きしそうな目をしてると噂するのは、さばくことです。さばくとは、主観的で、一方的で、根拠のない悪口のことです。

福沢諭吉は『学問のすす』第13篇で、怨望について書いています。怨望とは、嫉妬のことで、人間の不徳の中で最も大きな害が嫉妬だと述べています。

あなたの職場や学校やあなたの身近に、若い人、美しい人、強い人、賢い人、努力する人、英語の上手な人がやって来たらどうでしょう。平静でいられますか。あなたは、もやもやした気分になります。それは嫉妬です。そんな状態の時、私たちは、あら探しを始めます。皮肉を言います。意地悪します。不幸を願います。ある場合は、その人をつぶしたり、左遷させます。人間の心は陰険です。

主イエスは、さばくなと言われました。その理由は何でしょう。
あなたが同じ基準でさばかれるからです。あなたが誰かをさばけば痛快です。でも相手は怒ります。相手はもっと厳しい目であなたをさばきます。それによって争いが始まり、人間関係がこじれ、悩みのドツボに入ります。

 私たちがコントロールすべきなのは、私という人間だけです。
 私は、他者の心をコントロールしてはいけません。また、誰かが私の心をコントロールすることも望みません。どちらもバウンダリーの侵害になります。

相手の言動であなたが困ったのなら、本人に直接抗議し、行動を改めてもらいましょう。けれども根拠のない悪口を言いたいなら、自分の口を閉ざしましょう。
それが、あなたのためだと主イエスは考えます。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」まさに、口は災いのもとです。口を制御し、さばく思考パターンを止めましょう。

あなたは、今、誰をさばいていますか。さばくと、本人が不自由になります。憎む相手がそこにいなくても、その人の事を考えるだけで苦しくなり、怒るからです。

経済学の権威、ハーバード大学のマイケル・ポーター博士はこう言いました。「戦略とは、何をやらないかを決めることだ。」
私たちの人生の経営学にも同じことが言えます。さばかないと決める。主観的に、噂に従って、あるいは単なる好き嫌いで、人をさばかないと決めるのです。嫉妬心という石ころを人にぶつけません。嫉妬心という石ころを握りしめず、捨ててしまいましょう。

さばいて、人間関係をこじらせれば神の国建設は停滞します。柔和な者、あわれみ深い者、平和を作る者になって、キングダムビルダーになりましょう。


2、目に梁

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:3~5)

「偽善者たちのよう」(マタイ6:2、5、16)であってはならない、と主イエスは何度も語ってこられましたが、偽善者とは律法学者たちを指していました。今回も「偽善者たち」と言っておられます。自分の目の中に大きな梁があることに気づかない律法学者をまず念頭に置いているのでしょう。自分の目に大きな木材が入っているなら、他人の目にある小さなチリを見つけることはできないはずです。

私やあなたの目にも、大きな梁が入っているかもしれません。自分だけは正しく、相手は間違っていると思い込んでいませんか。謙虚に、神の前で、自分の姿を認めましょう。

私たちがさばく相手は敵ではなく、兄弟です。兄弟とは、一番近しい関係です。身内であり、仲間です。一番幸せになってほしい人です。

映画評論家の淀川長治さんが晩年に入院しました。看護師さんが忙しさでゆとりがない様子を見て、便せんにこんな言葉を書いてドアに貼ったそうです。
  「このドアを開ける人は笑って開けて下さい。」
それからは、淀川さんの部屋だけでなく、どの部屋に入る時も笑って入る看護師さんが増えたそうです。
人をさばくのは止めて、こういう提案をするのはどうでしょう。さばくのを止めて自分から挨拶したり笑いかけることも可能です。


3、豚に真珠
 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

豚に真珠ということわざは、主イエスの言葉にルーツがありました。
「犬」や「豚」と言っていますが、それは動物のことではなく、人間のことです。当時、犬や豚は嫌われていた動物でした。聖なるもの、あるいは、真珠のように価値のあるものを与えても、その宝を踏みにじる人がいます。聖なるものや真珠を踏みにじるだけでなく、それを与えようとした私たちに危害を与える人がいます。そういう場合は最初から、相手にするなと主イエスは言われます。主イエスは合理的です。

福音や聖書や神の話を丁重に説明しても、馬鹿にする人、まったく話が通じない人、頑迷な人物、逆に私たちを攻撃してくる人がいます。たとえば宗教過激派テロリストのところに私が乗り込んで福音を伝えに行ったらどうなるでしょう。想像すれば分かります。

主イエスはバウンダリーをはっきり持っています。誰にでも好かれる必要はありません。スパッと割り切ればよいのです。無駄なエネルギーはいりません。

 →あなたの番です
  □さばくのを止めよう
  □そうすれば、幸せになる
  □そうすれば、神の国建設に集中できる

マタイ6:25~34 明日の心配

 日本の古いドラマを見ていたら、登場人物が自分の積極性を説明するために、「大丈夫、私はポジティブ・シンキングだから」と答えていました。thinking(考える)とsinking(沈む)は別物です。その時の発音がsinkingなので前向きに落ち込むことになります。
 あなたは、心配しやすい人ですか。

1、心配するな
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:25~27)

 あなたは今、何かを心配していますか。若い人は、大学、就職、結婚の心配があります。結婚していれば、相性、子育て、生活やお金の心配があります。年齢が上がると、親の介護や自分の病気、老後の生活など不安になります。

 今日の箇所全体でイエスさまが言いたいことは心配するなの一言です。主イエスは、誰に対してこう言われたのでしょう。心配しているすべての人です。
 なぜ、心配するなと言われたのでしょう。心配に効用はなく、マイナスになるからです。「心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」とある通りです。

主イエスは、語りながら空を飛ぶ鳥を見なさいと言いました。また、地面を指さして、花を見なさいと言われました。神は、空の鳥を養い、野のゆりを装ってくださるのだから、神は必ずあなたに良くして下さると説明されました。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(30節)

心配とはいわば信仰のようなものです。物事が否定的な結果になるはずだと固く信じているからです。だから、主イエスは「信仰の薄い人たち」と指摘されました。主イエスの側から言うなら、なぜ私に信頼しないで最悪のシナリオだけを信じてしまうのだ。なぜ、慈悲深い父なる神に信頼しないのだと言いたいのです。

心配の芽が顔を出したら、それを祈りに変えましょう。ネガティブ体質にさよならしませんか。


2、キングダムビルダー
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(32~34節)

神の国とその義を第一にすれば、必要なものは与えられると主イエスは言われました。この言葉は唐突に思えるかもしれません。山上の垂訓を貫くメッセージを思い出せば、唐突ではなく筋が通った説明だと納得できます。
心配しすぎたり、ネガティブになる人は、心配のあまり、神の国建設の手が止まってしまいます。自分の狭い世界に入り込んで出て来れなくなります。それで、主イエスは、心配を止めなさい、神の国のために行動しなさいと言われたのです。

 心配に振り回されて、神の国建設の働きを止めていませんか。眉間にしわを寄せ、暗い顔になり、身近な人への親切を忘れていませんか。こんな状態では福音は語れないと伝道を一時停止していませんか。あなたは、キングダムビルダーです。神の国を作りましょう。神の義を実現しましょう。身近な人に温かい心で接しましょう。

 休暇で先週、日本に行って来ました。娘が航空会社に勤めている関係で、スタンバイチケットで出かけました。どうやら満席らしいと直前に分かりました。このチケットは、席が空いているなら乗せてもらえるものです。私は、今回、神さまを単純に信頼することにしました。エアポートのゲート前の待合場所では、正規のチケットを持った人が列を作り、次々と入って行きます。私は妻に祈ろうと言いました。「主よ、どうぞ乗せて下さい。きっと乗せて下さると信じます。」と主にお願いしました。どちらかというと私は、否定的将来を何種類か予測し、最悪に備えるタイプです。こういう場面で、否定的な事を言うことが多かったので妻を疲れさせていました。今回は、心配を止めて、主に信頼することに決めていましたので、妻は私の態度に驚いていました。ほとんどの人がゲートに入り、飛行機のドアが閉まる15分前になって、私たち夫婦の名前が呼ばれました。乗れたのです。ウエイティングリストや乗客数からいうなら、奇跡です。ビジネスクラスの席に隣り合わせた私たちは、手を握り合い、二重の意味で感謝の祈りをささげました。

 あなたの番です。心配は止めましょう。父なる神に信頼しましょう。


 →あなたの番です
  □心配を止めよう
  □どんな時も、神の国を建設しよう
  □神は、必要なものを必ず与えて下さる