第2コリント2:1~11 涙の手紙

 人と人とが生きていると、誤解が生じたり、思いが届かないことがあります。
 パウロとて同じです。コリントの教会は問題の多い教会で、それを正そうとするパウロとコリントの人々との間で軋轢が生じていました。

1、コリントへの手紙は何通?

 パウロはコリントで伝道し(使徒18章)教会の基礎を築きました。パウロは活動の拠点をエペソに移した後もコリントの様子を心に留め、祈り、人を送り、手紙を書いて支え続けました。
 パウロがコリントの教会に宛てた手紙は、聖書の記述によると少なくとも4通あったようです。

 1)叱責の手紙(第1コリント5:9)
 2)コリント人への手紙第1
 3)涙の手紙(第2コリント2:4)
 4)コリント人への手紙第2

 手紙以外にも、テモテを遣わしたり(第1コリント16:10)、自分自身もコリントに赴いて(第2コリント2:1)、コリント人を励まし続けたことが分かります。


2、涙の手紙

 パウロが誤りを正そうとする。それを聞いて、コリントの人々がリアクションを起こす。少し改善される。まだ不十分なので、問題点を指摘する。うまくいかない。パウロの人間性や使徒としての信頼性に揺らぎが生じる。
 パウロは万策尽き、結果を主に委ねて、コリント人に対する思いのたけを手紙に書き記しました。それも、涙をもって。

 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(第2コリント2:4)

 涙とは何でしょう。思いやりの結晶です。

 3週間前、右足の小指を椅子にいやというほどぶつけました。骨折したかもしれないと内心感じましたが医者には行きませんでした。1週間して、娘が昼休みを利用して職場から私のオフィスにやってきました。「きちんとお医者さんに診てもらって。2時30分に予約を入れておいたから。行ってね。レントゲンを撮ってもらってね」と言うのです。私が「心は伝わったよ」とにべもない返事をすると、娘は涙を流し、同じことを繰りかえして言いました。医者に行くとは言わずに、結局娘を返しました。私は、娘が出て行った後に心を揺さぶられました。こんなに愛されている。携帯で「今から、行くよ。ありがとう」と連絡して、医者に行きました。それで折れていたことが分かりました。

 パウロの涙はコリント教会の人には見えません。でも、手紙の文面から、パウロの涙の流れる音が聞こえたはずです。
コリントの人々にパウロの心が通じたのです。パウロの涙の祈りが届いたのです。

 主イエスがどんな方か、思い出しましょう。主イエスは私たちの涙を読み取ってくださり、涙を流してくださる方です。

 主はその母親を見てかわいそうに思い「泣かなくてもよい」と言われた。(ルカ7:13)
イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

 あなたの愛を涙に変えて祈りましょう。伝えましょう。


3、赦しと慰め

 パウロは、罪を犯した人の処罰の断行を知り、今コリント教会で必要なことは、赦すことと慰めることだと諭しました。

 その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。(第2コリント2:6~7)

 パウロが望んだのは、コリントの人々を倒すことではなく、コリント教会の人々の笑顔を見ることでした。直言や叱責の最終目的は、回復であり、喜びの回復です。それを忘れないように。

 あなたの番です→
 □あなたが大切にしている人は誰ですか
 □涙にくるんで、あなたの愛と真心を伝えましょう
 □最終的に、あなたが見たいと望んでいることを忘れないように

 

第2コリント1:1~11 慰めがここに 

 これから、コリント人への手紙第2を毎週1章づつ学んでいきます。

 先日、右足の小指を椅子にぶつけて、あまりの痛さに倒れこみました。それを話すと人は二種類に分かれます。一方のタイプの人はこう言います。若くないのですから、気をつけなくちゃいけません。あわてるからつまづきます。別のタイプの人は、自分のことのように感じて、痛いでしょう、おつらいですね、どうぞお大事にしてくださいと言います。どちらのタイプの人が、私の痛みを倍加させてくれたか、分かりますね。

 第2コリントのキーワードは「慰め」です。シリーズ第1回目は、慰めをテーマに取り上げます。



1、神は、慰めの神

 まことの神は、慰めの神です。

 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。(第2コリント1:3)

 神は、正しく、きよく、強くある方です。それだけではなく、私やあなたを慰めてくださる方であり、人の心に寄り添ってくださる方です。
 弱った人、病気の人、傷を負った人、倒れた人に対して、神は慰めの神として接してくださいます。

 主イエスも言われました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(第2コリント1:4)

 そうです。神はどんな苦しみの中にある人をも慰めることができます。神なら、おできになるのです。神だけが、できるのです。だから、本当の神といえるのです。

 大きな苦しみの中にいる人に、神は細い声で、その人の心に届く方法で、慰めを与えてくださるのです。あなたも、その慰めを受け取ってください。




2、苦しんだ人が、誰かを慰める

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(第2コリント1:4)

 パウロの言葉によると、神の慰めを受けた人は、他の人を慰める人になれるといいます。あなたは、それを信じますか。
それだけではありません。どのような苦しみの人をも、私たちが慰めることができるといいます。私たちが、誰かの慰め手になれるのです。

 私は牧師の仕事を辞したことがあります。その翌日、教会の英語部の方が私の家の前に車を止めました。仕事がなくなると生活が大変になるから食料を持って来ました、使ってくださいというのです。トランクは、お米、野菜、肉、食料で一杯でした。私は 呆然としました。
 翌日、別の方がやはり車を止めました。トランクを開けると、やはり食料が満載してありました。涙が出ました。
ある年配のご婦人は、パンを買って届けてくれました。それも、毎週来てくれました。留守の時にはパンだけを置いていかれました。おいしいと評判のベーカリーのパンでした。置かれているパンを見るたびに、大きな慰めを受けました。
 あるリタイアしたカップルは、私たち夫婦を日本食レストランに招き、ランチをご馳走してくれました。その時お二人は、一人分のランチを二人で分けて食べました。お二人の倹しい生活を思うと、食事が喉を通らないほど感激し、その心が伝わりました。
 家主の突然の申し渡しで急に引っ越しの必要が出て、かなり落ち込んでいた時。二組のご夫婦は、私たちの転居を手伝い、ジョークを飛ばして明るい雰囲気にして、引越し荷物を運んでくれました。
その他にも、心温かな人たちから、たくさんの愛と慰めを受けました。それで、生きることができたといっても過言ではありません。

 私は、10年たっても、これらの事を忘れません。何度も思い出し。何度も感謝し、何度も涙を流します。

 神の慰めを受けた人が、私を慰めてくれたのです。

 あなたも、誰かの心を慰めることができます。

 あなたの痛み、暗闇が、誰かの慰めに繋がっているのです。



3、慰めの経験は希望を生み出す

 パウロは、神が慰めの神であると説明しました。また、パウロは神の慰めや助けを確かに受けたと、経験的に語りました。8~9節によれば、それが、死を覚悟するほどの厳しい経験だったことが分かります。その経験がパウロに希望を与えました。

 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(第2コリント1:10)

 そうです。苦しみと慰めを経験した人が、ゆるがない希望を持つ者になるのです。

 苦難と慰めが、希望の人を生み出すのです。



 あなたの番です→
 □苦しみと弱さの真っ只中で、神の慰めを体験しましょう。
 □あなたは誰かを慰めるために生まれた。
 □自分を頼まず、神により頼む。そこに希望が生まれる。

マタイ16:13~19 教会につながる

 信仰の羅針盤シリーズの最終回です。
 安定したクリスチャン生活を送りたいなら、教会にしっかりと繋がることです。

1、信じる事と教会

 信仰を持つことは、個人的で、内面的なものです。けれども、信仰は他者とのつながりなしには成り立たない、という面も備わっています。そういう意味で、マタイ16章はとても興味深い箇所です。

 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:13~17)

 ペテロの信仰告白の場面として有名な箇所ですね。最後の部分に注目してください。主イエスは、あえてペテロの本名シモンと呼びかけています。あなたの信仰は、あなたの悟りや知識や経験によったのではなく、父なる神に導かれたものだと指摘されました。「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」これは、感動を持って聞き取りたい内容です。

 第1コリント12:3の視点を加えると、信仰告白は聖霊によるものだと理解されます。そうすると、私たちの信仰は、父と御子と聖霊の助けの中で初めて成り立つものだと分かります。信じているなら、あなたは三位一体の神との交わりの中にいるのです。

 次に目を留めたいのは、教会です。

 主イエスは、シモンの信仰告白を聞いて、それに応答するように、シモンをペテロ(岩)と呼びました。これは、いわば、主イエスの側からシモンに対する「信仰告白」とも言える内容です。不完全で、欠けの多いシモンを信仰者としては巌のような者と認めてくださいました。ちょっと気恥ずかしいですね。その信仰の上にご自分の教会を建てると主イエスは言われました。

 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)

 世界中にはたくさんの組織がありますが、主イエスが造れた組織は教会だけです。主イエスは、国にも、会社にも、学校にも、国連にも期待しておられません。教会にだけ期待しておられるのです。信じた人には、教会が必要なのです。クリスチャンが教会に繋がって生きるようになったのは、主イエスのプランなのです。

 リック・ウォレン牧師は、私たちが生まれて来た目的の一つは、教会に繋がることだと明言しています。

 あなたは、教会に繋がっていますか。
 特定の分野に専門的に関わる超教派団体が数多くありますが、それは、教会の腕として働く機関であり、教会ではありません。教会に地盤を置いて、超教派の働きに関わりましょう。
 自称「無教会」の人は、独善的になりがちで、教会評論家にしかなれません。評論家が1万人いるより、主イエスのために汗を流す10人のほうが意味があります。
 気ままに、あっちに行ったり、こっちに行ったり、という教会渡り鳥になってはいけません。それでは、クリスチャンの醍醐味は体験できません。

 一つの教会にしっかり繋がりましょう。雑多な人がいる教会。お年寄りも赤ちゃんもいる教会。ちょっと苦手なタイプの人がいる教会。そこに、大きな意味があります。そこに、成長の道が隠されています。そんな教会につながることが、どうしても必要なのです。



2、つながると、命がめぐる

 主イエスは、ヨハネの福音書15章で、つながることの大切さをぶどうの木のたとえで説明しています。

 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15:4)

 聖書を長年読んで来ましたが、この箇所は、教会にとどまりなさい、と読み替えても、同じ意味になると私は考えるようになりました。なぜなら、教会はキリストの体だからです。(エペソ1:23、コロサイ1:18)

 弱くて小さな枝でも、幹であるキリストにつながるなら、主イエスの命があなたの中を巡るようになります。主イエスのいのちが、あなたを生かすのです。

 また、私は17歳で信仰を持って以来、いくつかの教会に関わり、たくさんのクリスチャンを見てきましたが、教会に結びついていることが、健全なクリスチャン生活に不可欠だと確信を持って言えます。

 私は、牧師の立場を離れ、信徒として5年間、教会につながったことがあります。その時の体験を思い出しても、教会は本当に素晴らしいものだと心から言えます。その時、昼食会の後の掃除とごみ出しを自分の奉仕にしました。主に仕える喜びを知りました。
 主イエスを信じる人たちに触れるだけで励まされました。祈ってくれる人がいて、支えられました。共に、泣いてくれる方たちによって生きることができました。


 日本の教会は、暗い、小さい、つまらない、などと陰口を言われます。特に、アメリカの大きな教会を見ていると、日本の教会がくすんで見えます。
 でも、そうした見方は浅薄です。私も若いころ、日本の小さな教会を見下げたり、有名な牧師をヒーローに見立て、名も無い牧師を無視していた生意気な時期がありました。ゼロからの開拓伝道をする立場になってみて初めて日本の教会の現状に気づきました。
 日本の教会の礼拝出席平均は30数名で、そんな教会が全体の半数を超えています。10数名の教会もたくさんあります。むしろ今、そうした小さな教会、名も無い牧師先生の長年にわたる祈りと伝道を尊いものとして心から尊敬しています。福音の灯台となって地域に留まっていることは何にも増して価値があります。
 

 完全な教会など地上にありません。あなたが、そこにいれば、完全でなくなるからです。(失礼)素晴らしい教会があったとしても、私がそこに加われば不完全になってしまいます。

 地上の教会は欠けだらけです。でも、主イエスは、教会にだけ期待しておられるのです。教会だけを信頼してくださっているのです。

 どんなことがあっても、教会につながり続けましょう。教会を愛しましょう。あなたの実家としましょう。
 
 今までシリーズで話してきた、神を愛す、人を愛す、福音を伝える、人を育てる、これら4つの要素は、教会につながることによって実現します。教会につながることがクリスチャン生活の要なのです。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)


 あなたの番です。
 □しっかりと一つの教会に所属してください
 □教会のスモールグループに加わりましょう
 □教会で何かの奉仕をしましょう
 □教会批評家にならず、教会を愛す人になりましょう

使徒18:24~28 育てる人が育てられる 

 信仰の基本姿勢を見直す「羅針盤シリーズ」。今日はその本論の4回目、育てる人になる、がテーマです。
 ところで、スターバックスではバリスタと呼ばれる店員がコーヒーを作ってくれますが、グリーンのエプロンとブラックのエプロンの人がいます。ブラックのエプロンはコーヒーマスターと呼ばれるスペシャリストの印です。
 あなたもクリスチャンになったなら、ブラックのエプロンを付けた人になりませんか。

1、プリスキラとアクラ

 彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。(使徒18:26)

 パウロを彷彿させる伝道者アポロが流星のようにエペソに現れ、ユダヤ人の会堂で主イエスの福音を語りました。学識、熱意とも申し分ありません。ただし、聖霊についての理解が不足していました。
 そこでプリスキラとアクラの夫婦が自宅に呼んで、正確に教えました。夫婦に教えられたアポロはコリントに渡り、素晴らしい伝道・牧会を行いました。(第1コリント3:6)

 実はこの夫婦、只者ではないのです。パウロは当初、二人の家でルームシェアしていました。1年6ヶ月、パウロから直接薫陶を受けたクリスチャン夫婦なのです。

プリスキラとアクラは、エペソで家の教会(第1コリント16:19)を作り、ローマに移動するとそこでも家の教会(ローマ16:5)を作った伝道的な夫婦でした。また、パウロの命を救い出した、牧師を心底サポートする信徒の鏡です。(ローマ16:3~4)

 青年たち、結婚したならこの夫婦の生き方をモデルにしましょう。すでに結婚している人たち、今から目指しましょう。人を育てる人がどんなに成長するのか、プリスキラとアクラはその実例です。


2、人を育てること

 教会には、信仰年数何十年という人がいます。ですが、「どうしたら、クリスチャンになれますか。クリスチャンとして生きるには、どうすればいいですか」と質問されると、牧師に聞いてください、としか言えない人がたくさんいます。
 スターバックスのバリスタになれる知識も経験もあるのに、お客さんの立場で満足しているクリスチャンが多すぎるのです。

1)主イエスの基本戦略

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)

 主イエスは、自分が世を去った後のことを考えておられました。主イエスは群衆にではなく、弟子にフォーカスしておられるのです。福音書を詳しく読むと、主イエスが驚くほど多くの時間を弟子たちに費やし、実地訓練をされていたことが分かります。
 
 また、主は、あえてエリートを集めませんでした。怒りっぽい欠点を持つヤコブとヨハネ(雷の子=マルコ3:17)、冷酷でなければ勤まらない収税人の過去を持つマタイ、内にこもる懐疑主義者トマス、でしゃばりのペテロ、暗闇を抱えたユダ。このように、普通の人こそが弟子として作り変えられるという手本を示してくださいました。
 これは、私たちへの大きな励ましです。3年たった弟子たちは、みごとに主イエスの代役を果たせるまでに成長しました。

2)次の次の次

 パウロは、人を育てる場合、全部で4代を念頭に置くように教えています。

 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。(第2テモテ2:2)

 まだ、誰にも聖書を教えたことのない人は、それを始めてください。教える人が最も多くを教えられるのです。
 パウロ→テモテ→忠実な人→他の人。パウロは、次の次の次、つまり4代を意識してテモテに教えていました。

3)人まね小猿

 「私のようになってください」(ガラテヤ4:12)
 「兄弟たち。私を見ならう者になってください」(ピリピ3:17)

 人を育てることは簡単です。私のそのままを真似ればいいのです。これが、主イエスの生き方であり、パウロが実行したことでした。

 困ったな、と感じる方は、自分のクリスチャンとしての歩みが不十分と気づいた人です。そうであっても、あなたが達しているところまで、他の人を引き上げてください。誰かをケアするうちに、あなたも強められ整えられます。
 多くの若い女性たちは、そのようにしてママになります。お母さんの責任感や忍耐力、思いやりや犠牲などは、on the job trainingで身につくものなのです。

 伝道団体ナビゲーターの創始者ドーソン・トロットマンといえば、カリフォルニアに住む者としてとても身近に感じます。トロットマンはLAで生まれ、1934年ロングビーチの海岸でミニストリーを始めました。一人の水兵を救いに導き、彼を訓練して伝道できるクリスチャンに整え、その水兵が他の人を救いに導きました。このミニストリーは連鎖して拡大し、第二次大戦前後に1000人のクリスチャンが生まれたといいます。
 大伝道者ビリー・グラハムが、生涯で最も感銘を受けた人物と評したのがドーソン・トロットマンでした。

 さあ、あなたも福音の種をまきましょう。そして、その人を育てましょう。あなたのような人を育ててください。私たちは、誰かを救い養うために、新しく生まれたのです。

あなたの番です→
 □あなたが育てる人は誰ですか
 □生活、仕事、教会生活すべてを見せて、私のようになれば良いと言える人になろう
 □4代先を見て、育てましょう

使徒5:17~21 福音を伝える

 信仰の基本姿勢を持っていることが、あなたの毎日を生き生きしたものにする、と私は述べてきました。
 第一の基本姿勢は、神を愛しますという心。第二は、今日も誰かを愛しますという態度。そして、今日は、その第三として、福音を伝える、というテーマを取り上げます。

1、初代教会の基本姿勢

 アメリカの総人口のうち何%がキリスト教会の礼拝に参加しているのでしょうか。デイビッド・オルソンによると、1990年は20.4%が礼拝に参加しています。2005年には、17.5%になったといいます。この率では、キリスト教国とは言いにくくなっていますね。

 ペンテコステの日にイエスさまを信じた人は、2000人でした。(使徒2:41)やがて、その数は男だけでも5000人になります。(使徒4:4)エルサレムにおけるクリスチャン比率は飛躍的に上がりました。

 使徒5:12~16を見ると、多くの病人が道端に寝かせられ使徒たちが通るときに癒してもらった様子が書いてあります。それが、宗教権力者の怒りを誘いました。祭司たちはねたみに燃え使徒たちを捕えて留置場に入れました。(使徒5:17~18)その夜、何が起きたでしょうか。

 ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。(使徒5:19~20)

 「使徒たち」とあるので、牢に入っていたのはペテロやヨハネたちでしょう。主の使いの言葉に注目してください。さあ、これで逃げられます、遠くに行きなさい、とは言いません。病気の人々をいやしなさい、とも命じません。いのちのことばを伝えなさいと言いました。死んだ人を命あふれる人に変える、主イエスの福音を語るようにと勧めました。
 
 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた。(使徒5:21)


 初代教会の人々は、どんな信仰の基本姿勢を持っていたのでしょう。使徒2章などの記録を読むと、神を愛すこと、人を愛すこと、を大切にしていたことが分かります。今日の箇所から、福音を伝える姿勢があったことがはっきり分かります。これは、神の意思です。

 信仰の調子が悪いので伝道はできない、という人がたくさんいます。気持ちは分かります。でもそれでは、冬のシアトルで青空を待ち望むようなものです。
 伝道する気持ちで朝起きるのです。朝、最初にこう祈りましょう。「主よ。今日、私を福音を伝えるために用いてください。」

 福音を伝えたいという姿勢があなたの信仰を守り、強めるのです。


2、どのように語ればいいのか

 まず、誰に福音を語ればいいのでしょう。使徒8:26~30を読むと、聖霊が語るべき人を示してくださることが分かります。
 それによると、ピリポは南に40マイル以上も移動しました。示された場所で待っていると、エチオピアの政府高官が馬車に乗って通りました。しかも、イザヤ書を朗読していたのです。ピリポは、この人だと気づき、イザヤ書で預言していた救い主は主イエスのことだと教え、彼を救いに導きました。
 主ご自身が語るべき人を示してくださいます。あなたが備えがないなら、「教会はどこにありますか」と問われると、「そこを右」としか答えられません。もしあなたが、心の備えがあるなら、道順だけで終わらず、ピリポのように用いられます。

 何を語ればよいのでしょう。ある場合は、語るより、愛を示し、祈ってあげることが一番良い伝道になります。「それなら、自分にもできる」と思いませんか。
 サウスベイ・フリーメソジスト教会は、食事を共にする家庭集会がとても用いられています。クリスチャンでない人々を招いて楽しい食事をし、それぞれが抱えている問題を率直に話します。それを聞いたクリスチャンが深い共感を示し、愛を表し、心から祈ってあげます。毎週それを続けるうちに、彼らが教会に導かれ、クリスチャンになっていくそうです。

 語る人があなたしかいない。そういう時も、心配はいりません。

 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。(マタイ10:19~20)

 語るべき言葉は御霊によって与えられるというのです。ですから、安心して語りましょう。

 人は、人生の過渡期に福音に対して心を開きやすいのです。引越し、新婚、赤ちゃんの誕生、子育て、転職などのとき、相談に乗ったり、具体的に助けたりしながら福音を語れます。
 人生の危機を通っている時もまた、聖書に興味を示します。破産、失業、離婚、人間関係のもつれ、子育ての悩み、病気、老齢など、あなたが良い聞き手になり、励まし手になって、主イエスを紹介しましょう。

 あなたは、クリスチャンとして調子が悪いときもあるでしょう。夫婦喧嘩をした直後かもしれません。受験に失敗した後かもしれません。お金もないかもしれません。でも、あなたは宝を持っています。主イエスという決して裏切らないお方を知っています。命を投げ出して、あなたを救ってくれた方がおられます。その方なら紹介できるはずです。

 10年間に800人にバプテスマを授けたデイブ・ホールデン牧師は、一番伝道しやすい対象は、あなたに良く似た人だと指摘しています。年齢、立場、考え方、生活スタイルなど、あなたに良く似ている人なら語りやすいはずです。そういう人を心に覚え、祈り、主からチャンスを頂いて、話を聞き、語りましょう。

 高校時代、私を教会に誘ってくれた関根君というクラスメイトがいました。私は、3回か4回は誘いを断りました。それでも、また声をかけてくれました。彼の愛と思いやりがなければ、私は決してクリスチャンにならなかったでしょう。
 あきらめなかったその人に、あなたがなる番です。

 →さあ、あなたの番です。
 □朝、福音を伝えるために私を用いてください、と祈りましょう。
 □あなたに似ている人は誰ですか。その人に語りましょう。
 □変化や痛みを通っている人に耳を傾け、主イエスを紹介しましょう。

 「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」(使徒5:20)

使徒4:36~37 人を思いやる心 

 信仰者が心に持つべき基本姿勢の第2番目は、人への思いやりです。

 愛してくれない。多くの人がそう考え、不幸感を強めています。そこを抜け出す方法は何でしょう。とても逆説的に見えますが、誰かを愛すことが、不幸感から抜け出す道なのです。


1、第2の戒めは、人への愛

 聖書の中心命令は、神を愛すこと、そして、人を愛すことです。

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:39)

 人を本気で誰かを愛そうとするなら、必ず愛の難しさに直面します。愛の困難さは、自分が愛された記憶を呼び起こしてくれます。「こんなにも深く愛されてきたのだ」と深い感慨に導かれます。

 では、愛とは何でしょう。人を思いやるには、どんな段階を通るのでしょう。今回取り上げる、バルナバという人の行動から以下の事が分かります。

 1)その人の存在を喜ぶ。
 2)自分だったら、何が嬉しいことなのかを想像する。
 3)自分の持っている何かを、与える。     

 あなたが、朝、目覚めるとき、今日は誰を愛そう、と考えて起きたらどうでしょう。「愛されてない」症候群から解放されるのは間違いないです。


2、「慰めの子」、バルナバの愛

 バルナバの愛の行動を使徒の働きの順に従って見ていきましょう。

1)バルナバと呼ばれる

 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(使徒4:36~37)

 十二弟子がヨセフのことを、「慰めの子」と呼びました。彼が愛の人という事実を如実に語るエピソードです。この後、ヨセフという本名は一度も使われません。十二弟子が認め、名づけたという事が、バルナバの愛が人並み優れていたという証拠になります。
 バルナバは、畑を売り、代金を十二使徒に託しました。おそらく、エルサレムに住む貧しいクリスチャン、お年寄り、病気の人などを助ける目的で、献金したのでしょう。思いやる心は、経済的にサポートするという実際行動を生みました。

2)サウロを受け入れる

 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。(使徒9:26~28)

 十二使徒はサウロを拒絶しましたが、バルナバは違いました。サウロの話に真摯に耳を傾け、サウロの信仰と主イエスからの使命が本物だと認識し、十二使徒に紹介しました。バルナバは、十二使徒を説得できた人物です。
 バルナバは、サウルにだまされ殺されるという危険もかえりみず、サウロに会いました。勇気ある愛です。

3)アンテオケ教会に派遣される

 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。(使徒11:22~23)

 異邦人の教会であるアンテオケ教会が突如誕生しました。エルサレム教会の十二使徒は対処に困ったことでしょう。結局、自分たちが出向くのではなく、全権をゆだねる形でバルナバを派遣しました。
 愛の人らしく、バルナバは未熟なアンテオケの人々の存在を喜んだのです。受け入れて励ますのがバルナバの真骨頂です。

4)使徒15:36~41

 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。(使徒15:37~39)

 バルナバは、伝道旅行中に脱落したマルコにやり直しのチャンスを与えました。マルコを連れていくかどうかでパウロと対立し、喧嘩別れになり、パウロとの友情を失ってもマルコを立ち直らせる道を選びました。それは、バルナバが築いてきたアンテオケ教会の地位を失うことも意味したかもしれません。

 主イエスは愛の人ですが、こうして見てくると、主イエスの愛のDNAを最も受け継いだ人はバルナバなのかもしれません。
 貧しい人を思いやり財産を投げ出し、危険人物のサウロを引き受け、未熟なアンテオケの人を喜びながら励まし、落ちこぼれマルコを育てる。

 私たちも、バルナバを見習いましょう。
 愛しましょう。励ましましょう。与えましょう。

 1995年に失明して教師の職を失った新井淑則さんの人生は多くの人を励まします。普通中学の教師として13年後に復帰した経験はテレビドラマにまでなりました。新井先生が書いた『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』を読むと、失明前後の荒れた心や生活が分かります。あとがきに、奥さんの助けなしには今日の自分はないと書かれた文章に私は一番感動しました。あきらめない。逃げない。明るさを与え続けた奥さんは本当に立派だと思いました。

 あなたも、見捨てないで誰かを支えてください。誰かのために無駄をしてください。愛するゆえに失うこと、それは、一番人間らしい行為です。キリストに愛された者らしい態度です。あなたも、キリストの弟子の一人でしょ?

→あなたの番です
 □誰に、愛を届けたいですか
 □その人が励まされる事は何ですか
 □そして、何かを失う喜び、を体験しましょう

ルカ10:38~42 神さま、大好き

 羅針盤シリーズの第2回目。今日は、神への愛、という基本姿勢について考えましょう。
 信仰の基本姿勢を持っていることはとても大事だと前回お話しました。心に確かな羅針盤のある人は、仕事も、家庭も、教会での奉仕も、一本筋が通っています。

1、第1の戒めとしての、神への愛

 信仰の基本姿勢を因数分解すると4つぐらいの要素があると私は考えています。その第一が、神への愛です。なぜ、第一かというと、主イエスがそう言われたからです。

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。(マタイ22:37~38)

 神への愛は申命記6:5など旧約聖書でも一貫して主張されている大事な命令です。

 神を、偉大な神として、畏敬の念を持っている人は多いです。でも、主イエスは、神を尊敬しなさいと命じませんでした。愛しなさいと言われたのです。何か、新鮮な感じがします。

 ここで、あなたに質問です、あなたは神さまを愛していますか。


2、マルタの祈り?

 エルサレムに近い村ベタニヤに、マルタとマリヤの姉妹が住んでいました。主イエスが、弟子たちとマリヤの家を訪れたときの様子がルカ10:38~42に書いてあります。
 マルタは、もてなしのために忙しく、カリカリしていました。

 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(ルカ10:40)

 マルタが主イエスのそばに来たのは、文句を言うためでした。妹を働かせるように命じるように主イエスに催促しました。
祈りの言葉が、文句や不平ばかりになる祈り。気に入らない人の態度をインスタントに変えてほしい時の祈り。こういう祈りを「マルタの祈り」と呼んでもいいかもしれません。

 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41~42)

 たとえば、あなたが女性で、アメリカ人と結婚した人だとします。年の離れた妹がやはりアメリカ人と結婚してシアトルに行くという時に、あなたが実家を訪れたとします。妹と話せるのは1日だけです。妹は、台所を出たり入ったりして食事の準備をし、姉の大好物の明太子がないとスーパーに買い物に行ってなかなか帰ってこないとします。そんなとき、あなたはどう思うでしょう。主イエスは、私たちに一番大事なことを話したいと願っておられます。

 マルタは主イエスのために忙しく働いていましたが、主イエスを愛していたと言えるでしょうか。


3、マリヤの姿勢

 マリヤの姿に目を向けましょう。

 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。(ルカ10:39)

 とても美しい姿です。39節を、4つの要素に分けて考えましょう。

1)そばにいる
 主の足もとに座っています。マリヤは、一番そばに座り込んでいます。そばにいることは愛です。
では、私たちの実際生活で、主イエスのそばにいるとはどんなことでしょう。礼拝に行くとか、賛美するなどが、そうかもしれません。

2)何もしない
 マリヤはただ座っています。自分のしたい事をすべてキャンセルし、停止しています。あなたのために、全部スケジュールは空けてあります、という姿勢です。
 私たちに適用するとどうなりますか。安息日という概念は、まさにそれに当たりますね。

3)耳を傾ける
 マリヤは主イエスの言葉を聞きたいのです。主イエスは、大切な事を教えてくれます。私たちに必要な事を語ってくださいます。今、知るべき知恵を話してくれます。聞くことは愛です。
 耳を傾けることは、聖書を読むこと、聖句を暗記する、祈りの中で神の言葉を思い巡らすことなどが、それに当たるでしょう。

4)聞いて実行する
 主イエスの言葉を聞くのは、主イエスの望むことを理解して、自分がそれを実行したいからです。ヨハネ12章1~3節によると、主イエスの死を理解して高価な香油を注いだのは、このマリヤだと指摘しています。マリヤは聞くだけの人ではなかったのです。
 私たちへの適用は、まさに、主イエスの心を知って、それを行うことです。

 主イエスと共にいることが嬉しい、主イエスのためだけの時間を取る、主イエスの言葉に耳を傾ける、主イエスのメッセージを実行する。これらは、神を愛すということの実例です。

 あなたは、どんなアクションを選んで、神を愛していることを伝えますか。
 神を愛すという基本姿勢が、あなたを罪から守り、あなたに勇気を与え、あなたの人生を輝かしいものにしてくれます。

 →あなたの番です
 □あなたは、神さまが大好きですか
 □神を愛す行動を、今週実行しましょう