箴言3:5~6 道に迷った時

 今日は、道について考えましょう。道に関して悩みは、2種類あるかもしれません。
 第1は、決断の悩みです。道が4つも5つもある場合、決定するのはしんどいものです。たとえば5人の素敵な男性から同じ日にプロポーズされたなら、あなたは困りますね。一人でいいから分けてほしいという方もいます。
 第2は、先行き不安の悩みです。未来が暗く、まったく道が見えないという場合です。アメリカの最近の不況は深刻で、就職できない人がたくさんいます。否定的要素しか見えない悩みです。

 あなたはどんな道を求めているのですか。

 箴言3:5~6節は、その解決を教えてくれます。冒頭部分を私が読みますので、続きの部分を言ってみて下さい。
  心を尽くして…………
  自分の悟りに…………
  あなたの行く所…………
  そうすれば…………

 この聖書の言葉を読んで、どんなことに気づきますか。少し考えて下さい。


1、主により頼む

 「心を尽くして主に拠り頼め。」(5節)

 先行き不安の人に、この言葉を贈ります。先を知っている方(=神)がおられるので、その方に任せれば、安心できます。

 私は、香港、シンガポール、インドネシア、台湾などを尋ねたことがありますが、どの場合も現地で働く日本人宣教師や、現地の牧師さんの出迎えを受けて、安心して出かけました。現地を良く知っている人に任せるのが一番です。拠り頼むことが、一番確実です。

 ただ一度だけ、心細くなったことがありました。だいぶ前の事情なので、今は問題ないと思います。一人で、シンガポールからフィリピンに飛び、国内線に乗り換えてセブ島に行くときのことです。事情通のアメリカ人宣教師からマニラ空港のタクシーには気をつけろと真剣に忠告されました。雲助タクシーや強盗の被害に遭う外国人が多いと知らされ、一生懸命に祈りました。国内線の待合室にやっとたどり着き、何時間もフライトを待つ間にフィリピン人のおばさんと親しくなり、行き先が同じで私が牧師だと知ると、彼女はハレルヤと感謝して大喜しました。私に頼られても、困るのですが、不安な者が二人いると不思議に元気になるものですね。「大丈夫ですよ」などと私が励ます立場になってしまいました。主の恵みで、無事に目的地に着きました。

 道を知り、私たちの最善を知っておられる神に信頼しましょう。一眼レフのカメラの焦点を合わせるように、神にピタリとフォーカスしましょう。
結局のところ、主により頼むかどうかが問われているのです。


2、自分の悟りにたよらない

 「自分の悟りにたよるな。」(5節)

 なぜこう書いているのでしょう。それは、私たちの理解や悟りが、一面的で、自分勝手で、視野が狭く、誤りやすいものだからです。
タクシーに乗ったら座席に茶封筒が置いてあったとします。中に100ドル札の束が入っていたら、これは祈りの答えだと感謝の祈りをしますか。それは人間の悟りです。
 フロントグラスにはねた泥水をワイパーでふき取るように、自分の悟りをさっと一旦取り去りましょう。そして、自分の横に置いて、主の前で吟味しましょう。

 朝の祈り、朝の聖書。それが、私たちの悟りが正しいものか、自分勝手なものかを教えてくれます。だから、毎日のディボーションはとても大切なのです。

3、どこにおいても

 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(6節)

 ある部分は神の導きを求めるが、ある分野ではまったく導きを求めない。私たちは、そういう傾向を持っています。
 どの分野で、主を認めているか、いないか、それはすぐに分かります。あなたが祈らない分野が、それです。

 自分の専門とする分野、経験豊富な分野など、私たちは主に頼りません。祈らない分野の代表例を挙げます。経済、法律、機械のトラブル、売り上げ、プロジェクト、会社の同僚や上司や部下、お客様のためにも祈りません。男性にはこの傾向が強いです。

 どんな分野でも、主を認め、主に信頼しましょう。
・新しい分野:新しい学校、新しい職場、新しいコミュニティー、新しい世界。あなたの未来。
・古い分野:過去の傷、昔の失敗、変えられないと思っている習慣、生まれついてのマイナス。
・現実分野:お金、法律、経済、健康、資格試験、恋愛、結婚、子育て、遺産、家を買う。

 神なしの分野、例外を作らない。それが、どこに行っても、主を認めることです。

 ポールという少年は、ABCも覚えられず、本を読んでも頭に入らない、学習障害の子供でした。高校はビリで卒業、コミュニティーカレッジから大学に編入、本を読んでまとめる宿題は友達に助けてもらい、その代わりにコピーなどの使い走りを熱心にしました。そうするうちに、銀行から5千ドルを借り、コピー屋を開業しました。市価より安くしたので大繁盛して店舗を増やしました。会社名はキンコス、アメリカにいる人なら誰でも知っている、世界的大企業の一つです。創業者のポール・オーファラは、「何かを始めるとき、絶対に誰かの助けを借りないといけない」と心に思っていました。その姿勢が成功の秘訣なのかもしれません。

 自分の限界を謙虚に知り、生活のあらゆる分野に例外を作らずに神を認め、主に拠り頼む心で生きていく。それが箴言3:5~6が教えてくれる生き方です。


4、主は私の道をまっすぐにされる

 「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(6節)

 そうすれば。つまり、いままでの3つの条件を守るなら、何かが起きるのです。主が私の道を整え、まっすぐにして下さるのです。
 私たちが主を心から大切だと思うなら、主は私専用の道を備えて下さいます。
 まっすぐな道とは、神の喜ばれる道であり、私たちが笑顔になれる道です。

 不治の病を持つ6歳の息子のため最後にしてやれることはないかと一人の母親が思案していました。そうだ、息子は大きくなったら消防士になりたいと言っていたから、思い切って頼んでみよう。そう思い立ってアリゾナ州の消防署に出かけました。「消防車に息子を乗せて、近くを走ってもらえないでしょうか」「それなら、一日署長になってもらいましょう」と言われ、思いもかけない素敵な一日をプレゼントしてもらい、火事場まで消防車で同行することもできました。 
 数ヶ月後、最後の時を間近にして、ホスピスの看護士長は関係者に連絡、消防署署長にも電話すると、「病室の窓を開けておいてください、5分後にうかがいます」と答えました。約束通りサイレンが鳴って、消防車の長いはしごが3階の病室にかけられ署長を含めた15人の消防士が窓から入り、男の子をやさしくハグして「I love you」と声をかけました。

 心を尽くして主に拠り頼め。
  自分の悟りにたよるな。
  あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
  そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
  (箴言3:5~6)

 あなたの番です。あなたは、あきらめていませんか。主は、あなたの道をまっすぐにする用意ができています。
私たちが、しっかりと主に拠り頼み、不可能と思える分野にも主が働いてくださると信じましょう。そして、主が備えられた私専用のまっすぐな道を笑顔で歩きましょう。

  →あなたの番です
 □主が道を拓いて下さると信頼して、アクションしましょう。
 □毎日のディボーションを充実させ、主の導きを明確にいただきましょう。
 □「どこにおいても」主を認めましょう。自分の悟りは横に置きましょう。

  「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

  「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。
  そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)

第2コリント5:1~21 信仰によって歩む

 5章のパウロの記述は、普通とは順序が逆になっています。
 天国→信仰生活→救い。

 パウロは、「見えないものにこそ目を留めます」(第2コリント4章18節)と述べた後、目に見えない天国について自然に語り出しました。天国への希望が揺るぎないものなので、信仰による歩みが自然な営みになります。元をただせば、十字架の愛を受けたことが信仰による歩みの出発地点でした。この素晴らしい救い、神との和解を他の人に分かち合うことがパウロの使命であり、また、私たちの使命なのだと結びます。これが、5章の全体の流れです。

 今日は、私たちの信仰の歩みを高い視点から俯瞰してみましょう。

1、天国のリアリティー

 あなたは天国を信じますか。天国についてのリアリティーがありますか。

 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(1節)

 私たちが死んで天国に行くことは、新しい服を着ることだとパウロは説明しました。(2、4節)私たちの体は、「幕屋」、つまり、テントのようなものです。地上の体においては、私たちは、重荷を負い、うめいています。また、肉体という幕屋はこわれるものなのです。テント生活と普通の家での生活。どちらが心安らぐかは、言うまでもありません。天の体は、「神の下さる」もので、「永遠の家」です。だから、死後について心配する必要はないのです。

 アメリカに住む者にとって、日本に行くというのは楽しいイベントです。それは、家族や友人と会えるからです。家族や友人が一人もいない日本になってしまえば、ただの観光地です。
私たちは天国にあこがれるのは、そこに主イエスがおられるからです。主イエスも、そこで待っていると言って下さいます。

 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:3)

 先週私は古い映画を家で見ました。主人公が死にそうになりましたが、ハラハラしませんでした。なぜかというと、その続編で主人公が活躍しているのを知っているからでした。
 人生の結末、最終結果を、私たちは知っているのです。主イエスを信じているものの最後は天国というハッピーエンドと決まっているのです。
 だから、天国のリアリティーをはっきり持つことが大事なのです。


2、信仰による歩み

 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。(7節)

 天のリアリティーを持っているなら、その人の歩みは自然と信仰生活になります。信仰によって歩むとは何か、パウロは実に自然に自分の生き方を以下のように説明しました。

1)天国にふさわしい者としてくださったのは神であり、神に感謝して生きる。
 「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です」(5節)
2)御霊なる神が天国の保証となってくださったので、心強く生きられる。
 「神は、その保証として御霊を下さいました」(5節)
 「そういうわけで、私たちはいつも心強いのです」(6節)
3)主に直接お会いし、主と共にいられる状態をあこがれて生きる。
 「主のみもとにいるほうが良いと思っています」(8節)
4)私を愛して下さった主に喜ばれる生活がしたい。
 「私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」(9節)
5)主の前で公正な裁きを受けることが分かっているので、誠実に生きる。
 「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて」(10節)
6)キリストの愛に突き動かされて行動する。
  「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(14節)
7)キリストのために生きたいと願う。
  「自分のために死んでよみがえられた方のために生きる」(15節)

 
3、救われて新しくなる

 主イエスは、十字架で、私の罪を身代わり罰を受け(21節)死んで下さいました。この主イエスの愛と十字架が、私たちを罪から救い、私たちの内面を180度変えて(17節)下さいました。

 私たちの内面の変化は、徹底的です。

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(17節)
 
 私たち罪人は、本来自己中心で、動機はいつも自分の利益のためです。ところが、主イエスの愛が取り囲み、私たちを駆り立てると、主イエスのために生きる人生、身近な人々のために生きる人生(13節)へと大きく舵を回すことになります。主イエスの愛を知った人は、その恩をお返ししたいと思うようになるのです。

 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(14~15節)

 イエスさまを信じることが、信仰生活の第一歩になります。

4、私たちの使命

 天国→信仰生活→救い。この順序で説明してきたパウロは、そのまとめとして、自分たちの使命について語りました。

 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(19~20節)

 大きな視点で人生を俯瞰するなら、今、何のために存在しているのかは自明の理となるとパウロは言います。神と和解することが人の最大の幸せだ。神との和解を人々に伝えるのが私たちの使命だ。私たちは、そのために主イエスから使わされた使節なのだ。そう、パウロはまとめました。

 バングラデシュのムハマド・ユヌスさんはアメリカに留学し経済学博士になった方です。帰国して大学の部長になった時、5万人が死亡する1974年の飢餓を経験、経済学が何の役にも立たないことに愕然としました。ユヌスさんは、貧しい生活をしていた人の聞き取り調査を行い。竹細工の材料費1ドルすら払えない現実を知りました。調査対象の42人が必要としていた額を合計すると27ドルでした。ポケットマネーから無担保、無期限でお金を貸したことが、彼の第一歩になりました。貧しい人にわずかなお金を貸し、生活の安定を助けるグラミン銀行はこうして成果を出し、ノーベル平和賞を2006年に受賞しました。ユヌスさんはクリスチャンではないと思いますが、その発想にとても刺激を受けます。

 「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(15節)

 私たちは、主イエスから溢れる愛を受けました。受けた愛を主イエスと身近な人にお返ししたい、そう思いませんか。

  あなたの番です→
 □天国のリアリティーをもって人生を見直そう。
 □主イエスから受けた愛を感謝し、恩を返そう
 □私だけのユニークな使命とは何だろう。

第2コリント4:1~18 途方に暮れても

 第2コリントには、パウロの体温が感じられる。あらかじめアウトラインを練ったタイプの手紙ではないだろう。心情の吐露が随所で見られ、喜びの奔流があふれ出ている。特に4章は、パウロの自覚、信仰、価値観、視点、確信などが自然な形で語られており驚嘆に値する。
 あなたが今、悩みを抱えているなら、パウロのような視点が必ず助けになる。

1、あわれみを受けている

 人からどう思われるか。あなたの悩みはこのタイプの問題ですか。

 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
(第2コリント4:1~2)

 パウロは、神からあわれみを受けたと書いている。その感激で心が溢れている。(1節)
あわれみを受けるとはどんな状態だろう。条件に届かない、資格がない、落第している状態なのに、神の愛と力と配慮を受けていることです。
 パウロは、クリスチャンを迫害し、暴力を振るった過去があり、自分は<あわれみの見本>にされたと強く自覚しています。(第1テモテ1:12~16)

 だからパウロは、自分を見て落ち込まず、他人の評価で勇気を失うことなく、昔使った卑劣な悪巧みは捨て去り、神の言葉を曲げず、真理に生きる態度を取れたのです。(1~2節)

 私は、ハワイで新聞記者をしていた時に日本の政府高官の記者会見に出席したことがあります。その人物の言葉と態度に辟易しました。傲慢そのものだったのです。その帰りのエレベーターで地元テレビの有名なニュースキャスターと乗り合わせました。彼のフレンドリーで温かい態度に驚きました。どちらに私が好印象を持ったか、言うまでもありません。

 パウロは、人間からの評価など気にしていません。神からあわれみを受けたという喜びで、謙虚な人柄になっていたのです。あなたも、あわれみを受けています。


2、宝を持っている

 あなたは、自分に価値がないと落ち込んでいますか。いいえ、あなたは素晴らしい価値を持っています。

 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
(第2コリント4:7)

 土の器とは何でしょう。金や銀の器に比べれば価値がない。壊れやすく弱い。取るに足りないものです。私たちも土の器です。
でも、ただの弱い器ではないのです。その内側に宝を持っているのです。宝とは、イエス・キリストです。その宝が、私たちを価値あるものに変えます。

 パウロはルステラで、ユダヤ人にから石打ちの刑を受けたことがありました。むごいリンチの処刑方法です。大小さまざまな石を大勢からぶつけられ、完全に死んだとみなされて、町の外に捨てられました。幸い命に別状はありませんでした。生命力が強かったのではないのです。はかり知れない力がパウロを守ったのです。パウロはこの宝の凄さを体験したのです。

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。(第2コリント4:8~9)

 以上のように、人間的にはもうだめだという絶対絶命のピンチを4回、畳み掛けるようにパウロは語りました。それで終わりではないとパウロは力説します。主イエスを内に持つ者は、不屈の意志が備えられるのです。

 戦後直後、群馬県で伝道を始めたコーウィン宣教師は、ある日タイプライターやアコーデオンなどを盗まれました。数日後、そっと、おわびの手紙と物品が返却されました。新聞記者に同宣教師は以下のように心境を語り、記事になりました。私も同じ罪人です。あなたをゆるします。神に赦されることが大事です。どうぞ、我が家に来てください。ご一緒に食事をしましょう。
 新聞記事を読んだ犯人は自責の念から服毒自殺未遂をし、その親から連絡を受けた宣教師が見舞いに訪れ主イエスの福音を語りました。犯人は悔い改めました。

 あなたは土の器ですが、主イエスという宝が内にある限り、困難に取り囲まれて終わりということはないのです。
 あきらめてはいけません。主イエスキリストがあきらめていないのですから。


3、見方は変えられる

 目先のことで右往左往している人がいます。あなたの視点が問題なのです。
 にっちもさっちも行かないときでも希望があります。私たちの見方が変化する可能性があるからです。そうすれば、取り組み方が根本的に変わるのです。別な出口が見えるのです。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(第2コリント4:16~18)

1)外なる人は衰えるが、内なる人が日々新たにされる
 若い頃は努力と根性でなんとかなりました。歳を取って無理をすると怪我をします。幸いなことに、主イエスが私たちの内面の動機、感情、思考方法を日々変革してくださるのです。

2)患難は一時的であり、軽い。最終的には、栄光をもたらす
 目の前の苦しみや問題が永遠に続くと錯覚して、戦う前につぶされてしまう人が多いです。永遠の視点で見ると、どんな患難もひと時の苦しみ。軽いのです。新共同訳では、いっときの軽い艱難と翻訳しています。

3)見えるものにではなく、見えないものに目を留める
 私たちが深い満足を得るのは、見えないものを大事にしたときです。正義のために苦しんでも、愛のために犠牲を払っても、真実のために倒れても、私たちの心には満足が訪れます。見えないものに目を留めて、歩きましょう。

 主のあわれみに励まされ、主イエスの臨在を内に感じて、あきらめずに進みましょう。途方に暮れても、道はあるのです。

 →あなたの番です
□私たちはあわれみの器です。だから、勇気を出そう。
□私たちは土の器です。倒れても終わりではない。
□私たちは見えないものに目を留める器です。必ず変えられる、乗り越えられる。