ピリピ3:1~21 前に進む力

 ボートを漕ぐ事と人生は良く似ている。

 ボートを漕ぎだすと、見える景色は進行方向の逆に過ぎ去り、まるで人生の過去を見るようだ。多くの人は、過去の失敗を見つめ、成功者にばかり目が行く。
 漕ぎ続けると慣れない動作で手にマメができるし、水もかかる。自分の現在も、それと似ていて、繰り返しの毎日に意味が感じられない。
 ボートの進行方向は、未来を象徴している。たまに頭を向けて確認するだけで、いつもは後ろばかり見ている。輝く未来は自分にはないと思っている。
 多くの人は、前に進む力を失っている。

 パウロはピリピ3章で、過去、現在、未来について、ごく自然に述べている。環境に左右されない喜びの秘訣は、過去、現在、未来を見る目だと語り始めた。



1、過去を見る目

 主イエスに出会う前のパウロ は、5~6節のように、ある種のプライドだけで生きていました。①8日目の割礼、②イスラエル民族、③ベニヤミン族、④きっすいのヘブル人、⑤パリサイ派 の律法学者、⑥教会を迫害、⑦非難されることない律法の行い。この7つの事柄がパウロの誇りでした。

 現代風にいえば、一流大学を卒業し、有名企業に勤め、アメリカ勤務に抜擢され、美しく教養ある女性と結婚し、海の見える家を買い、高級車に乗り、休暇はカリブ海で過ごし、(土曜のランチにはコスコのピザを食べる?)

 絵に描いた幸せそうな人生に見えます。でもそれはテレビや映画に洗脳されて、人に見せるショーウインドウのような幸福です。環境が変われば喜びは飛び去ってしまいます。

 パウロは、主イエスに出会って価値観ががらりと変わりました。かつての自分の誇りが、今、つまらないものに見えるのです。

 しかし、私にとって得であっ たこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさの ゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:7~8)

 主イエスを知ると、ものの見方が変わります。人の成功を羨み、過去の失敗をいつまでも眺める人生は終わりを告げます。

 今から150年前のアメリカ では人々が西へ西へと移動していました。登録して開墾すれば、土地が無料で手に入る法律が発布されたからです。ローラ・インガルス・ワイルダーは、父母と 一緒に幌馬車で西に向かった日々を思い起こし本を書き、それが『大草原の小さな家』というテレビドラマになりました。
 現代人が幸せと感じる物質は何も所持していませんが、生きがいのある温かい家庭を築いていました。ローラによると、お父さんはバイオリンを弾いて家族を楽しませ、お母さんは聖書を読んで心を励ましてくれたといいます。

 あなたの過去は、どう見えますか。あなたの生活はどう見えますか。キリストの与えてくれる目で見ると、違って見えるはずです。



2、現在を見る目

 多くの人は、自分はだめだと思い込んでいます。自分が嫌いです。それで、今の自分の生活も、忙しく追われるだけの生活か、無意味で生きがいのないものになってしまいます。

 パウロのセルフエスティームは、主イエスとつながることにより、とても健全で、しなやかでした。

 自分がすべてを持っていなくても、自分が完全でなくても、自己嫌悪や自暴自棄にならず、パウロは前に向かう推進力を持っていました。

 私は、すでに得たのでもな く、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくだ さったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに 前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(12~14節)

 「そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(12節)とあるように、パウロは、主イエスに励まされ支えられて毎日の生活を続けることができました。

 キリストに捕らえられてキリストと共に毎日を過ごしていくと、自己像が健全になり、自分が好きになり、一進一退の日々でも忍耐や努力やふんばりが出てくるのです。

 人にどう思われるかではなく、神の栄冠のために生きると心にきっぱりした方向性が出てきます。

 イエス・キリストは、私たちのセルフエスティームを健全にしてくれます。それゆえに、今が尊い一瞬一瞬と意識できるのです。

 レオ君というイタリヤ移民の 子が小学校に入りました。学校のカウンセラーは、レオ君には英語能力不足と知恵遅れを診断し、特殊教室に入れました。担当の先生、ミス・ハントは、レオ君 の資質を見抜き、英語を教え、いつも励ましました。そのかいがあって、しばらくして普通教室に戻れました。
 このレオ君は、その後、南カリフォルニア大学に入り、パサデナで学校の先生をし、講演や本でも有名になりました。「葉っぱのフレディー」などの本でも日本でも知られるレオ・ブスカーリアの小学生時代の実話です。

 ミス・ハントの、今を見る目が、レオ君を先入観なく見る目がレオ君の将来を決めたといっても良いでしょう。



3、未来を見る目

 将来に希望があるなら、環境に左右されません。けれども、多くの人の希望は薄っぺらで、地上だけの幻想で終わってしまいます。

 というのは、私はしばしばあ なたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼 らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(18~19節)

 自分の胃袋を神とし、他人は踏みつけ、欲望充足だけを求める現代人の生き方は実にもろく、その先には滅びが待っています。

 能力と金とやる気だけで富を築く人々は強そうに見えても、目に見えるものしか頼れない貧弱な心しか持てないのです。

18~19節を語るパウロは、心で泣きながらそう言っているのです。パウロもかつては同じタイプの人間だったので、人々の心が分かるのです。イエス・キリストを知った今、そうした生き方の危険性や脆弱性が痛いほど分かるのです。

 究極的に言うなら、死の先に希望があるなら、生きていけます。死の先の希望を持っているなら死に向き合う勇気が生まれます。

 この時パウロは牢獄におり、裁判の結果によっては死刑もあり得ました。その状況でも、「主にあって喜びなさい」(1節)とピリピの人を励ますほど前向きでした。「国籍は天にあります」(20節)とパウロは述べるところにパウロの強さの秘密があります。

 けれども、私たちの国籍は天 にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御 力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(20~21節)

 イエス・キリストの栄光あるからだと寸分たがわず、同じ姿にしてもらえる。キリストの絶大な力が、それを実現する。だから、今日生きる希望がわいてくるのです。

 ピリピ3章には「キリスト」という言葉が15回も登場します。それは、環境に左右されない喜びが、キリストから来ると言いたいのです。

 悪に目を向けず、人の欠点に左右されず、目の前の難題につぶされず、キリストに目を向けましょう。「キリストを知っていることのすばらしさ」(8節)をもっと、もっと、深く心に刻み、今週もキリストを意識して歩みたいですね。


 フィリップ・ヤンシーは、キリスト教関係書籍を執筆して、何度もベストセラーを出した著名なアメリカ人です。
 大人になった彼が、実家の写 真アルバムの中から自分の赤ちゃんの時の写真を見つけ、しわくちゃになっていた写真の理由を母親に尋ねたそうです。フィリップが生後10か月の時、お父さ んは難病にかかり、隔離され、フィリップが1歳の誕生日を迎えてすぐに亡くなったといいます。苦しい息のお父さんが大切にして持っていたのが、その写真で した。
 愛してくれた父がいた。抱きしめることもできず触れることもできないけど、愛を注いてくれた父がいた。記憶にない父の愛を、写真を手にして強く感じたそうです。
 あなたの過去にも、神の愛はあふれています。

 パウロの生き方は、手漕ぎボートではなくて、カヤックやカヌーに似ています。後方は必要な時だけ振り返り、胸を張って前を向いて操作し、川や潮の流れに身をゆだねながら前に進んで行きます。


 過去は、神の愛にあふれ、すべての事が益となっている。
 現在の労苦に無駄はなく、かけがいのない今を感謝できる。
 未来は主イエスによって保証され、希望に満ちている。
 (過去:第1ヨハネ4:9~10、第1コリント8:28、現在:第1コリント15:58、第1テサロニケ5:16~18、未来:ルカ23:43、エレミヤ29:11)


 あなたの番です

  キリストの価値観で、人生と自分を見つめよう。
  キリストにもっと目を向け、語りかけよう。
  キリストと同じ姿に変わる。その希望を忘れないこと。



ピリピ2:1~30 いのちのことばを握って



 牢獄にいたパウロは喜んでいました。なぜでしょう。
 ピリピ2章から、その秘訣を見つけましょう。

1、キリストのへりくだり

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)

不思議なものですね。卒業文集ができると、まず自分の書いた文章を読みます。集合写真が出来上がったら、自分の顔を探します。自分が横を向いたり、目をつぶった写真は悪い写真と評価します。私たち人間は、ほんとに自分中心ですね。

自己中心と虚栄。それが、諸悪の根源です。自分の欲求だけが満たされればいい。自分が、本来の自分以上に立派に見えればいい。
この自己中心と虚栄が、夫婦関係を破壊し、家庭を冷たいものにします。自己中心と虚栄が、会社や学校や世界を殺伐としたものにします。パウロは、ピリピの人々に忠告しました。仲たがいせず、一致し、他者を思いやれと。

 どうしたら、自己中心と虚栄を排除できるでしょう。勉強や努力や修練では直すことはできません。主イエスを見ましょう。主イエスの生き方を思い浮かべましょう。

 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:4~8)

 獲得する、価値ある者と認められ、華々しく生きることを私たちは求めます。主イエスはその反対の道を選びました。捨てる、無になる、卑しくなる、死ぬ。

 誰かを愛そうとするなら、必ず何かを捨てる必要があります。自分の時間、自分のお金、自分の自由、自分の願い。

 パウロが牢獄でも喜べた理由は、主イエスの生き方に目を向けていたからです。喜びの源泉が自分の外にあるので、環境に関わりなく喜べるのです。

 誰かのために、捨てることができるなら、私たちは喜べるのです。


2、いのちのことばを握って

 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2:12~16)

 「救いの達成に努めなさい」(12節)とは何だろう。
 罪を悔い改め、主イエスを救い主として信じるなら誰でも救われます。信じるだけで救われるので、行いは必要ではありません。
 救いの達成とパウロが言うのは、救われた者にふさわしい生活を心がけなさいという意味でしょう。なぜかというと、「行いなさい」(14節)「彼らの間で世の光として輝くためです」(16節)と、アクションに言及しているからです。

 救いという目に見えない事実は、目に見える行動によって明らかになります。

 イエスさまを信じて、罪が赦された人は、聖霊の働きによって行動に変化が出てきます。心と行動が徐々にきよめられ、傷のない神の子供として生きるようになります。
 そのためには、聖書の言葉、いのちのことばをしっかり握って歩くことが鍵になります。この世界の実態は、邪悪な世代であり、暗い世界なので、私たちは光として輝くことが神に期待されているのです。

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(16節)



3、二人の輝く人

 パウロは、テモテをピリピに遣わす予定でした。エパフロデトはピリピからパウロに献金を届けてくれました。この二人がパウロの喜びになりました。

 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:19~21)

 テモテはパウロの弟子で。パウロが教えて、育てました。けれども、パウロは自分より年若いテモテを尊敬し、テモテの生き方に感銘を受けました。自分の願いを二の次にして、キリストを求めるテモテを見て、パウロは喜んでいます。
あなたも後輩から多くを学べます。そうした、柔らかな心を持っているなら、喜びはいつもあなたのそばにあります。

第一にJ、第二にO、第三にYという順序で生きると、喜び(JOY)がやってくると誰かが言っていました。JとはJesusでイエスさま。OとはOthers で他の人々、YとはYourselfで、あなた自身。
テモテは、イエスさまを第一に考える人でした。

 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。(ピリピ2:25~27)

 エパフロデトは、パウロに献金を届けるため、文字通りに命がけで旅をしてローマまでやって来ました。慣れない旅の疲れのせいでしょうか、重い病気にかかり、死の直前までに悪化しました。パウロに仕えるどころか、パウロに看病される立場になったので、エパフロデトは申し訳ない気持ちでいっぱいになったでしょう。
 口の悪い人なら、エパフロデトは「仕えねえ奴だ」と言うでしょうが、パウロは、結果でなく動機を評価しました。尊敬を払うべき立派な人物であり、キリストの仕事のために命をかけたとエパフロデトを絶賛しました。

 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。(29~30節)

 アグネス・ボヤジュはマケドニアに生まれた女性で、若い時から聖マリア高等学校の教師として働きました。彼女が36歳の時、ダージリンという避暑地に向かう汽車の中で、「わたしは乾く」という主イエスのことばを聞きます。
 アグネスの働く学校はインドにあり、学校の外には貧しく不幸な人が大勢いました。18年間そういう人々を見てきましたが、主イエスが最も貧しい人々に姿を代えているのだとアグネスは理解し、その人々に仕える決心をしました。
 アグネスとは、マザー・テレサの本名です。マザー・テレサは、主イエスに仕える道を歩み始めたのです。

 「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)


 →あなたの番です
  □自己中心や虚栄を捨て、キリストのように謙虚に生きましょう。
  □みことばを握り、世の光として輝くアクションをしましょう。
  □キリストのため生きる人になりましょう。
 

ピリピ1:1~30 喜びを持つ秘訣



 伝道者パウロは牢獄で喜んでいた。
 ピリピの手紙から、パウロの生き方の秘訣を学ぼう。
 パウロは逆境の中で何をつかんだのだろう。

1、同じ価値観を共有

 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:3~6)

 ピリピ人の手紙には、エペソやコロサイの手紙のような緻密なアウトラインがない。冒頭部分には、他の手紙にはない喜びと信頼にあふれている。久しぶりに出会った親友と笑顔で語り合う姿を彷彿させてくれる個人的な手紙なのだ。
 パウロは喜んでいた。獄中であることを忘れて喜んでいる。ピリピの人々を思い出すだけで胸がいっぱいになる。

 ピリピの人との出会いは、第2回伝道旅行の時に始まる。(使徒16:11~40)ピリピのクリスチャンは、困難の中でも主イエスを愛し、福音を伝えることに熱心だった。また、パウロを敬愛し、パウロを忘れず、パウロが宣教を続けられるようにと支援献金を何度も送った。(使徒18:5、ピリピ4:15~18)獄中のパウロにも献金を送った。
 ピリピの人々とパウロは、最も大事な価値観を共有していた。主イエスと福音のためなら何でもするという思いが一致していた。だから、パウロは、ピリピの人のために祈りだすと、嬉しくてしょうがない。
 喜びを持つ秘訣の第一は、心を分かち合える信仰の友を持つことだ。

 主イエスのために生き、神の栄光のために生き、福音を伝えて生きるというコアとなる価値観をあなたが持とう。それを夫婦の間で共有しよう。主にある教会の仲間で共有しよう。そこに、喜びが生まれる。同労者としての絆が深まる。

 次に12~19節に目を留めてほしい。パウロは、牢獄にいるという自分の状況をプラス思考で、客観的にとらえることができた。皇帝直属の親衛隊にも証しができたことを感謝し、純真な動機からではない伝道ですら喜べた。
 それは、識別力の賜物だ。

 パウロが牢獄でも喜べた秘訣の第二は、洞察力だ。細部に流されず、物事の本質を見抜く目、識別力が喜びを招き入れる。それで、パウロはピリピの人々が洞察力を持てるように祈った。

 私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(ピリピ1:8~11)



2、生きることはキリスト

 パウロは、裁判の行方に希望的な観測は持っているが、場合によっては死刑もあり得ると覚悟を決めていた。できれば、死んで主イエスのそばに行くことのほうが自分には良いとパウロは知っていた。ちょっと早目のリタイア感覚に憧れていた。

 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(21~23節)

 あなたは、死が怖いですか。
 パウロは死を超えたかなたに、主イエスと共なる喜びを確信していました。だから、生きる、死ぬ、を超えた人生観を持っていた。だから、強いのです。
 キリストのために何度も死ぬ目にあって来たパウロ。キリストのためなら命は惜しくないと、誰の前でも行動してきたパウロ。

 日本のご利益宗教のような自己中心な考えは、パウロにはみじんもない。神々を500円玉程度のお賽銭で利用する信心とは全く違うのです。
 
 私は、イエス・キリストによって救われた。だから、イエス・キリストのために生きる。主イエスは、私のために死んで下さった。だから、主イエスのためになら死ぬこともいとわない。生きることも、死ぬことも超えた清々しい生き方がパウロの中にある。

 あなたは、何のために生きていますか。心の中を貫く心棒を持ちましょう。主イエスのために生きる、そう方向性を決めましょう。

 喜びを持つ秘訣の第三は、キリストのために生きるという覚悟です。



3、信仰の進歩と喜びのために生きる

 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。(24~25節)

 パウロは、ピリピの人々の「信仰の進歩と喜び」のために生きる、と決意しました。
 身近な配偶者や家族をさばいているなら、あなたに喜びはありません。むしr、身近な誰かの心の成長のために自分を使いたいと思うことです。身近な誰かが、信仰の目が開かれることを想像して下さい。身近な誰かが、信仰の喜びをあかしする姿を夢見て下さい。

 それこそが、福音にふさわしく歩むということでしょう。「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(27節)

 喜びを持つ秘訣の第四は、誰かの霊的成長のために生きることです。
 もらう事に焦点を合わせず、与えることに意識を向けると、自然に喜びがやってきます。

 どんな状況でも喜びを持つ第五の秘訣は、苦しみを選び取ることです。

 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。(29~30節)

 キリストは私たちのため苦しんでくれた。苦しみを選び取られた。その事実に目を向ける時、私たちは強い感化を受けます。
 多くの親たちは、子供ために苦しみを担っています。苦しみから逃げるのではなく、キリストのために苦しみを背負っていく姿勢を示すなら、苦しみが苦しみでなくなるのです。


 →あなたの番です
  □「生きることはキリスト」という価値観を持とう
  □誰かの霊的成長のために、何かを始めよう