ルカ17:11~19 ありがとうを忘れなかった人

今日は、感謝祭にちなんで、感謝の心、賛美の心について考えましょう。

1、まず、自己点検してみよう

 最近、あなたは、愛の言葉や励ましの言葉をもらいましたか。たとえば、料理がおいしいねとほめられましたか。愛しているよと言ってもらいましたか。

 逆に、あなたが、愛の言葉や励ましの言葉を言いましたか。とってもかっこいいね、尊敬してるよと身近な人に言いましたか。あなたのために祈っているよ、聖書の言葉をプレゼントしたという人はいますか。

 こんなふうに感謝をキーワードにして自己点検してみると、あることに気がつきます。人は、たったワンフレーズの言葉で幸せになったり不幸せになるということです。

大切な人から「結婚して下さい」と言われたら、どうでしょう。たった一行の言葉でも、人生でもっともハッピーな瞬間を味わえます。

 私たち人間の体は食べ物で元気になります。でも私たちの心は、食べ物では元気になれません。私たちは、温かい愛の言葉をもらう必要があります。それと同時に、自分から温かい愛の言葉を言うことが必要です。

 あなたは、感謝する人ですか。賛美する人ですか。


2、いやされた人

 聖書に目を留めてください。今日の登場人物とあなたとの類似点を見つけてください。

 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村にはいると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。(ルカ17:11~13)

 ツァラアトにかかった人、つまり、悪性の皮膚病にかかった人が10人そこで暮らしていました。当事、この病気の人が街を歩くときは義務を課されていました。「私はけがれている」と叫んで、周囲の人に注意を喚起する必要がありました。ですから、この10人は、町から離れて洞窟などで集団生活をしていたと思われます。
 病人たちは家族や友人から引き離されて、孤独でした。治療法もなく、体が破壊されるのを見るしかない毎日でした。

 病をいやすと評判の高いイエスさまが近くを通られたので、大声で助けを求めました。
「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と叫びました。

 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。(14節)

 当事の祭司は、宗教行事だけでなく、病気が伝染病かどうかを判定して隔離を命じたり、完治したと宣言して社会復帰を許可する権限も持っていました。いやされた10人が、直った姿を祭司に見せれば、家族のもとに戻れ、社会生活に復帰できるのです。

 主イエスは、病人の体にさわりませんでした。長時間の祈りをする必要もありませんでした。短い言葉だけ言われました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」(14節)主イエスは、ほんのわずかな言葉で人を幸せにすることのできる方です。

 肝心なことは、何でしょう。主イエスの言葉をそのまま受け入れ、信じることです。10人は、その言葉を信じました。主イエスがそう言われるなら、言葉の通りにしてみよう。この心が大事なのです。

 あなたの番です。あなたも、今日、この言葉を信じて歩みだしましょう。あなたが背負っている重荷は何ですか。それを主イエスにゆだねましょう。主はあなたにも、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言っておられます。


3、賛美する生活

 「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」(ルカ17:15~16)

 10人はいやされたので大喜びで祭司のもとに急いだのでしょう。その中の一人だけは、くるりと方向を変えて、来た道を戻り始めました。

 この男は、サマリヤ人です。ユダヤ人は普段サマリヤ人をばかにし、サマリヤ人の宗教を見下げていました。けれでも、ありがとうを言いに戻ったのは、このサマリヤ人だけでした。

 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」(17~18節)

 15節を見てください。彼はイエスさまの所に戻る前から、一人で神をほめたたえています。大声で歌っていたのかもしれません。道々、神をひたすらたたえています。誰もいないところで神をほめたたえる。これが賛美の真髄です。

 こんなに汚れた私の罪がゆるされた。ありえないことだ。アメジンググレイスだ。神はすばらしい。神は生きておられる。

 この男の生き方こそが、クリスチャンの人生を象徴しています。

 ウエストミンスター小教理問答集の有名な質問に、人のおもな目的は何かを尋ねる質問があります。その回答は、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」となっていますが、いやされたこの男性の生き方を重なりますね。

 宗教改革者カルバンも人生の最後に、「イエス・キリストの死と苦しみを通して、わたしのような者の罪を赦してくださった。その神の一方的な御恩寵を全身全霊をもって抱きしめます」と言っています。

 この男のように、神をたたえる人生を送りましょう。
 主イエスは、「神をあがめるために戻って来た者」と言及されました。私たちの人生も、やがては主イエスのもとに戻り、主イエスにお礼を言うための旅なのかもしれません。

 ところで、ありがとうという言葉は、相手がしてくれた事に対する感謝の表明です。あなたを愛しているという言葉は、ちょっと違って、相手の存在をそのまま喜ぶことです。
神を賛美するというのは、感謝の言葉を含みますが、本質的には、神がおられる、神が偉大な方であるということを喜び、神の存在を喜びことです。

 目に見えない神を賛美できるように、目に見える誰かに愛していると言ってあげましょう。そうしていると、神を賛美するのが自然にできるようになります。

 ある男性が父親に電話しました。父への気持ちをはっきり伝えようと、何度も練習してから電話を取りました。
 「父さん。」
 「お前か。ちょと待て、母さんと代わるよ。」
 「父さんと話したいんだ。」
 (父はしばし沈黙)
 「金でも欲しいのか。」
 「違うよ。今までの事を振り返っていたんだ。父さんは、僕が大学に行くために、すごく頑張って仕事してくれたよね。ちゃんと言ったことがなかったから、言いたいんだ。ありがとう。本当にありがとう。」
 (父は沈黙)
 「そして、もうひとこと言いたいんだ。愛してるよ」
 (父は長い沈黙)
 「お前、酔っ払っているのか」

 あなたが、「神をあがめるために戻って来た者」になりましょう。

 →あなたの番です。
  □重荷を負っているなら、主イエスを信頼して、前に進みましょう。
  □罪赦された事を感謝し、神をほめたたえましょう
  □身近な人にワンフレーズで愛と励ましの言葉を言いましょう

マルコ11:27~33 何の権威か

「俺を誰だと思っているんだ」と怒る男がたくさんいます。みっともないですね。
 男は不良品だな、とつくづく私は思うのです。学校で暴力事件は起こすのは男、刑務所には男が多いし、麻薬の売人は男だし、汚職をするのも男、粉飾決算をするのも男、戦争をするのも男、離婚を迫られるのは男が80%で、自殺するのも男が女性の2~3倍です。
 男が気にするのは、権威です。いったい権威とは何でしょう。権威の良い使い方があるのでしょうか。今日は、権威について考えてみます。

1、罠

 「彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。」(マルコ11:27)

 権力とは、その立場のゆえに付与された力です。祭司長、律法学者、長老たちは、宗教と政治の最高権力者でした。彼らは70人議会の一員なので、日本で言えば国会議員といってもいいでしょう。ただし彼らには警察権力も裁判権も持っていました。
祭司長たちは、前日の宮きよめ騒動でかなり怒っていたようです。「俺を誰だと思っているんだ」という剣幕です。

 祭司長たちは、主イエスの返答しだいで逮捕するつもりでした。そもそも祭司長たちは、主イエスを殺害するつもり(18節)でした。人を殺すこともできる力、それが権力です。

 「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」(28節)

権威なき者が神殿で教え、権威なき者が両替人や商人を宮から追い出した。それは不法だと言いたいのです。


2、逆質問

 主イエスは逆に質問をしました。

 「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」(29~30節)

 祭司長らの思惑は、ここでみごとに粉砕されました。権威についての話題は祭司長たちが持ち出した事柄で、主イエスの質問はその関連質問に当たります。群衆も周囲で成り行きを見ています。それで祭司長らは主イエスの質問を無視するわけにいきませんでした。


3、当惑

 「すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。』――彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、『わかりません。』と言った。そこでイエスは彼らに、『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。』と言われた。」(31~33節)

 バプテスマのヨハネが人々を教え、悔い改めのバプテスマに導いたことは、神のみこころだと誰にでも理解できました。もし、それに異議を唱えるなら、そこにいた群集から強烈な反発を受けることは必至でした。

 祭司長たちは熟慮しましたが、結論が出せません。その場から逃れるには「わかりません」と答えるしか道はありませんでした。祭司長たちは、尻尾をまるめて逃げて行きました。自分が掘った穴に落ちてしまったのです。


4、本当の権威とは

 普通この世界で通用している権力とは、うむを言わせぬ圧力や暴力、わがままのことです。地位や能力、生まれや経験を土台にし社会的に認められた強制力です。

 スティーブ・ビタルフというオーストラリアの家族問題のカウンセラーは、こういいます。「男はおびえると、しばしば身体的、気分的に逆の方向に揺れ、暴力によって反撃しようとする」
 男が権力を振りかざすのは、恐怖から逃げるためです。自分の失敗を人に知られたくないからです。メンツをつぶされて当惑したとき、強く出るのです。恐怖の原因となった誰かをつぶすために権力を使うのです。

 それでは、本当の権威とは何でしょう。周囲の人から尊敬され、愛されたため、その人が持つようになった影響力。それが権威だと私は思います。だから、本当の権威を持つ人は、周囲の人を助けたり豊かにするために権威を使います。

 スウェーデンのオロフ・パルメ首相(1927-86)が暗殺されたとき、国民は通りに出て公然と泣いたといいます。ベトナム戦争に反対、アパルトヘイトに反対、核軍縮に取り組み、非暴力を掲げた政治家で人々に愛され、尊敬されていました。私たちはパルメ首相を必要としていた、世界も彼を必要としていたと多くの国民が語ったといいます。

 本当の権威を持つ人は、自分の地位や立場に固執しません。人々が幸せになれるなら、自分の地位すら捨てます。本当の権威を持つ人は利己的でなく、利他的です。

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6~7)

 私たちは気をつけないと祭司長のようになりがちで、権威を振りかざし、人をつぶす破壊的な生き方を選んでしまいます。神の子イエス・キリストの謙虚な歩みを模範にしましょう。権威を振りかざす人になるのでなく、尊敬され、愛される人になりましょう。

 あなたが警官なら、親切なポリスになってみましょう。あなたが空港の入国審査係なら、笑顔で対応しましょう。あなたが電話受付の仕事なら、やさしい言葉で対応してみましょう。権威を素敵に使う道もあります。

 7歳の女の子が転校した初日、遅刻してしまいました。泣きながら走って登校すると、学校の門の前で立派な紳士に呼び止められました。「どうしたんだい」女の子が理由を話すと、「気難しいモリス校長に私がとりなしてあげよう。彼は私の友達だ」、と言ってくれて校長室まで来てくれました。モリス校長はとがめることなく、クラスにその子を連れ、担任の先生にこう言ってくれました。「転校生は1回だけ遅刻をゆるされることになっております」とね。

 「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。(第2コリント13:10)

→あなたの番です
  □権威を振りかざすのを止めましょう
  □主イエスを見上げ、もっと謙虚になろう
  □神から頂いた権威を周囲の人を生かすために用いよう

マルコ11:12~25 わたしの家

 今日は、主イエスが十字架にかかる数日前の出来事に目をとめて、信仰と祈りについて考えてみましょう。

1、枯れたいちじくの木

 福音書によると、その週の金曜日に主イエスは十字架にかかられます。月曜から木曜までの間、主イエスはベタニヤからエルサレムに朝方から出かけ、夕方に戻られるという生活をされていました。

 「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」(マルコ11:12~14)

 いちじくが実を付けるのは夏なので、春にいちじくの実を期待することは通常ありません。ところが、エルサレムへの道の途中にまるで実がついているような外観の木が一本あり、主イエスは思わず近づいて実を探しました。実がないのが分かると、主イエスは弟子に聞こえる声で「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」と言われました。翌日の火曜日にはそのいちじくの木は枯れていました。(19~21)

 旧約聖書では、いちじくをイスラエルを象徴するものとして記述する場合があります。葉ばかりが茂って実のないいちじくの木は、繁栄を誇っていたエルサレムの町を暗示し、40年後の滅亡を念頭に、イエスさまが警告として言われたのかもしれません。


2、神殿内をきよめた主イエス

 主イエスが最初にされたことは、神殿を本来の神殿の姿に戻すことでした。
 「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。」(15~16節)

 当事、神殿と呼ばれる施設は国内に一つしかありません。エルサレムは周囲4km程の城壁に囲まれた町で、首都にふさわしい賑わいがありました。町の東側には絢爛豪華な大神殿があり、敷地は南北に500m、東西に300m。外国人が入れる異邦人の庭があり、中央に柵で仕切られユダヤ人しか入れない場所があり、さらにその奥にはユダヤ人男性しか入れない場所があり、祭司だけが入れる聖所、至聖所という構造になっていました。

 神殿とはいえ、異邦人の庭は喧騒で満ちていました。両替人やいけにえの動物を売る業者の声が響き、神殿を通り抜ける方が近道だと道を急ぐ人々も巡礼者に混じっていました。
 主イエスは、神殿を本来の静かな祈りの場所に戻すために、業者を追い出し、腰掛を倒し、近道をする者を排除しました。

 人々は怒ったでしょうか。「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。」(18節)むしろ、人々は驚嘆したのです。納得したのです。主イエスの言われたことが正論だったからです。神殿には静けさが必要です。

  「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(17節)

 葉が茂って実があるように見えたいちじく。喧騒と金儲けの場所になった神殿。どちらも共通点があります。一番大事なものを失った姿です。この姿はあなたに似ていますか。

 心の内側に静かな神殿を持ちましょう。心の「宮きよめ」をして、不要なものを捨てましょう。



3、信じて祈る

 翌日の火曜日、枯れたいちじくに驚く弟子たちに主イエスはこう言われました。

 「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(22~25節)

 山に向かって、海に飛び込め、と言えば、そうなる。一部の信仰エリートだけでなく、「だれでも」可能だと主イエスは言われます。「自分の言ったとおりになると信じるなら」そのとおりになるのです。主の説明は信じがたいほどダイナミックです。あなたは、これを信じますか。

 主イエスが実際の山を動かしたという記述は聖書にありません。12弟子やパウロが、山を動かしたという記録も聖書にありません。
 アフリカの女性が、自分の敷地から山を取り除けてほしいと祈った話が知られています。政府の職員がやって来て、山を買いたいと申し出たそうです。アスファルトの原料が山に含まれていたので山はみごとに崩されたそうです。でも、山が実際に海に動いたわけではありません。

 けれども、主イエスがお生まれになってからの2000年間、歴史はこの主イエスの言葉をそのまま信じた人によって作られて来たといっも過言ではありません。神がおられるなら山は動くと信じた人が、暗闇を光に変えてきたのです。

 主イエスを信じたばかりの青年が、北海道で途方に暮れたことがありました。無一文になり、職がなく、神に助けを求めていました。誰かが彼の肩に手を乗せました。振り向くと、男性がいました。仕事がある、寝る場所がある、食べ物がある、働かないかと誘われ、洗濯業に足を踏み入れました。10年後、彼は白洋社というクリーニング会社を興し、神の栄光のために働く人となりました。男性の名は、五十嵐健二といいます。

 信仰と祈りはパワフルです。祈りがかなえられたと先取りして生きてみましょう。

 また、心に祈りの家を持つ人は、大胆な祈りと共に、人間関係の分野、繊細な分野で目が開かれ謙虚にさせられます。あなたは、誰を赦しますか。主に罪赦されたあなたの仕事は、鎧を捨てて、誰かを赦すことです。

 まとめをします。
 私たちは、心の中の「祈りの家」を失っていることがあります。そうなると、一番大切な祈りができません。静かな祈りを取り戻しましょう。
 私たちは、大きな山に圧倒されて、意気消沈しやすいものです。第一に神を信じ、第二に祈りをはっきりと口に出し、第三に求めたものはすでに受けたと先取りしましょう。
 主は言われます。「そのとおりになります」と。

 野球好きの男の子がスポーツ店で素晴らしいグローブを見つけました。グローブに手を入れ、ポンとこぶしでたたき、いいなと眺めて棚にもどします。1週間に2回から3回、店に来ては、同じ動作を繰り返しました。2週間、3週間、4週間と同じようにグローブを見に来ました。店長もその子を覚えてしまうほどです。同じことが数ヶ月続いたある日、少年は輝く笑顔でシューボックスを抱えてレジに来ました。ふたを開けると、25セント、10セント、などコインばかりがたくさん入っていました。
 店長はお金を数え、19ドル98セントありますと男の子に言った後、少し考えて、お買い上げありがとうございます、と言ってグローブを包んで少年に渡しました。本当は、値札に79セント98セントと書いてありましたが多少にじんでいたのです。男の子は、喜んで帰りました。

 あなたの番です。あなたが、山を動かす経験をする番です。
 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 あなたの番です。
 →□心に「祈りの家」を取り戻しましょう。
  □あなたにとっての山は何ですか。それを、はっきり口に出して主に願いましょう。
  □かなえられたと信じて、今日から行動してみましょう。